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大学教育に求められる「電気磁気学」

光は電磁波である。

光とは何かとの問いにそう答えるようだ。

その訳は、光も電磁波も同じ『エネルギーの縦波』であるからだ。

その意味を理解しなければ、電気磁気学の眞髄を教えることは出来ない。

電界や磁界の科学的仮想概念を幾ら論じても求められる大学教育には成らない。

『エネルギー』と電界、磁界の関係をどのように理解しているかが大学教育者に求められていることである。

『電荷』とは何か?と考えることを忘れた大学は歌を忘れたカナリヤと同じだ。

『電荷』無しで、空間を伝播する『エネルギーの波』で電磁波を描いて欲しい。

そうすれば光の意味が観える筈だ。

 

金澤:波はエネルギー流 日本物理学会講演概要集 第66巻2号2分冊、p.310.

金澤:瞬時電磁界理論の実験的検証とその意義 電気学会、電磁界理論研究会資料 EMT-88-145 (1988-10) 『電荷』の物理概念を問う実験写真データ。

光の屈折と分散

初めに 光の実像をどのように認識するか?光は目の前の空間に実在する。眼で物を観ることは眼に光が入り、その光の一粒(?)ずつの総体として物を脳機能に因って理解する。取り入れる情報は光のエネルギーである。光のエネルギーを物理学でどのように解釈しているかと言えば、プランクの定数と光の振動数の積で捉えている。そんな数式で表現されても、光のエネルギーとはこれこれだと、感覚的に捉え切れないのじゃなかろうか。振動するとは何がどのように振動しているのかを説明して貰わなければ解りっこない。振動数と光のエネルギーを結び付けて理解できる方が物理学の世界を語れる事になっているようだ。振動数の意味が理解できない筆者が語る内容はきっと伝統的な物理学教育現場にとっては逆賊者か反逆者の教義ぐらいに思えるだろう。その辺の事情も良く分かるが、やはり光の「振動数」とは何かを明確にする必要がある。意味不明な『振動数』では物の理屈の物理学には成らないと思う。『振動数』が意味する内容は、気体分子運動論で熱エネルギーを解釈する論法の『質量』の振動論に通じる意味であると思う。すべてエネルギーは『質量』が有って初めて存在する事になっている。光の『振動数』も光子と言う光の粒が気体分子運動論の分子と同じく何か隣り同士の光子が体当たりしながら、その体力を競う能力を持って運動エネルギーとしての存在感を発揮する様子を描いているように思える。しかし光子が『質量』を持つとは言えないから、その辺は曖昧のまま説明できない高度な数学的概念が理解できるまで頑張って努力しなさい、そうすれば分かるようになるから。と御高説に至る。おそらくマックスウエル電磁場方程式の電界・磁界の横振動波を思い描いて解説するだろうが、電界や磁界が振動する訳ではなかろう。電界・磁界には光のエネルギーの空間像を見て採るだけの頼りになるものが見えない。エネルギーと結び付いて理解できない。子供達も検索で光に質量は無いのにどうしてエネルギーがある事になるのかと質問する。エネルギーは質量が持つ運動エネルギーだと物理学教育で教えているからだろう。電気回路内は質量の無いエネルギーだけなんだけれども。質量と電荷を持つ電子が必要になる原因もその辺に在る。光のエネルギーを『振動数』で認識するなら、その振動数の意味を明確に分かり易く解説して欲しい。検索で屈折現象の解説がされている。光の伝播媒体で、速度が異なるから異種の媒体の接触境界で屈折すると説明されている。それで正しいと思う。しかし物理学とは、「何故」と問う事から始まる。何故媒質に因って速度が異なるのでしょうか?振動数では説明にならないでしょう。媒体が違っても振動数は変わらない筈だ。変わるのは波長だ。さて屈折する理由は何か?その何故かを問題にするのが物理学の要になる。電磁力の本質と言う記事を書いて、電気現象の空間ベクトルの話に移ろうと努力の甲斐もなく、光とレンズに足止めされたまま動きが出来ずにのた打ち回っているような気分だ。無所属の悲哀をかみしめながら引き籠り状態だ。仕事をと考えても、考えることが科学常識の否定のような事ばかりでは世間で許され、受け入れられる席などやはり無いかと気遅れのままお恥ずかしい限りだ。止むをえず科学理論の常識にまた逆らうような事ではあるが、物理学の未来像への提言をまとめて置こうかと考えた。日常的科学常識に支えられている科学世界の現状を批判するとは、大人気も無く嫌われると分かっていても言わなければならないと思う哀しさ。少しは専門的技能として電気工学と電気回路論から身に染み付いた質量の無い『エネルギー』感覚が筆者の世界観の根底を成している、その『エネルギー』から観る世界・自然界を描きだせればと願っている。ここまでの話には、数式は無い。数式は必ずしも科学論には必要とは限らない。『電荷』が存在するとお考えの方は、その『電荷』の具体的空間像をお示し頂きたい。数式は無くても説明できる筈ではないでしょうか。プラスとマイナスの『電荷』の違う空間的理由を。光も同じ意味で簡単な日常用語で説明できると思う。『振動数』とは何が振動しているかを。

屈折と分散に隠れた意味 ここに書いたことは誰もが当然のこととして分かっていた。筆者だけの不明であったので削除させてもらった。光の散乱・分散分かり易い高校物理の部屋 に在る。しかし、一般に光の速度は一定の光速度と認識しているが、それは媒体が真空でしか通用しない現象と考える。空気中も真空と必ずしも同じとは言えなかろう。確かに空間定数は空気中も真空と同じと解釈しているが、夕焼け(水蒸気含有量)などは分散現象であろう。真空と空気中での光の速度の差は無いと言えるのか?(2017/12/04)以上追記。

屈折現象 何が屈折を起こす原因か?昔“何も足さない 何も引かない”と言うコマーシャルがあった。何か『エネルギー』一つを背負った旅ガラスの心境に思えた。捉えどころのない『エネルギー』だが、光の振動数より分かり易いとここまで引き摺って来た。

光エネルギーの屈折 光は電気エネルギーと同じく、空間に存在するエネルギー密度分布波である。質量など必要としない、エネルギーそのものの空間分布の波である。上の図は学会での発表に使ったもので、プリズムを想定して描いた屈折現象の解説である。光エネルギーあるいは光は光速度で空間を伝播する。その光速度は、障害の無い真空自由空間では何故毎秒30万キロメートルであるのか。その訳は真空の空間が握っていると考えたい。エネルギーが通過するに許された空間の支配条件に従わざるを得ないということであろう。光と同じ電気エネルギーが伝送線路の電力用ケーブルを伝送される状況と比べて考えてみよう。ケーブルは電気絶縁物で充填されている。その中でのエネルギー伝送速度は遅くなる。ケーブルの単位長さ当たりの誘電率と透磁率でほぼその伝送速度は決まる。プリズムのガラスの媒体特性も誘電率と透磁率で評価できるだろう。その媒体の空間定数の値で光の伝播速度が決まるだろう。真空は何も伝播媒体が無い空間であるが、その真空でも誘電率と透磁率が科学技術の単位系を決める根本的定数として決められている。真空透磁率μo=4π×10^-7^[H/m]がMKS単位系の拠り所と決められている。その空間媒体の定数が光エネルギーの伝播速度を規定している。プリズムのガラス中の速度もその定数によって決まる。

光エネルギーの速度 図は波長λの光が空間を伝播する状況を透磁率と誘電率に因って解釈したものである。電力系統のエネルギー伝送と自由空間での光伝播とは同じ物理的現象として解釈すべきである。ここには少し数式が入っている。平方根と分数と三角関数と若干の空間的定数概念[H/m]、[F/m]の空間的ベクトルの方向性を基にした数式である。この図で伝えたい事は光には正弦波の周波数が無く、波長λの繰り返しのエネルギー密度分布波の縦波が空間媒体の定数によって規定された速度で伝播するエネルギー波であるという事である。一波長でエネルギーなのである。媒体は構成成分の分子構造体であろうから、その構造体の物理的特性(空間エネルギーに対する吸収・放射の共鳴度とでも言えば良いかは明確ではないが、何らかの影響度を及ぼす強さ)に因って速度の影響を受ける筈である。その特性が誘電率と透磁率によって決まると解釈する事を示した図である。上の図は真空の空間特性と所謂光速度C[m/s]の意味である。分散は波長λに因って光のエネルギー密度分布波が異なるため、光伝播空間の媒体特性に因って、通過速度に影響が生じることは容易に理解できよう。実験的には分散が起こることは周知の事実であるから、その物理的理由をどのように解釈するかの問題であろう。光の空間的エネルギー分布を計測するなど不可能なことであろうから、科学的な検証は不可能であろう。光のエネルギーを振動数で解釈するという論理で、屈折や分散の物理的意味が感覚的に心に響くかは、高校生に尋ねて見れば分かるであろう。光エネルギーは1波長でエネルギーなのである。光を検出するには周波数や振動数でしか計り様が無いから、振動数が理論的な概念に組み込まれているだけなのである。数式を示してもそれが物理学の目的ではなかろう。自然は不思議の宝庫であり、魅力に溢れている。解ったと言うにはまだ早い。

分散 色収差はカメラなどの光学技術で問題になる。しかし技術は、技術者はその問題を解決して製品の質を高めて来た。しかし物理学は分散の物理学的意味を明らかにしているだろうか。解らない処を噛み砕いて何故かと考える事の大切さを教えているだろうか。不思議と思う事を伝えているだろうか。意味を教えないで伝統的教育法に従った数式を覚えさせるだけて済ませていないだろうか。

光の筋道―眼と望遠鏡ー

光の道 始めに光あり。光無しに質量は有り得ない。光は世界を知る鍵である。光は障害が無ければ真っ直ぐ筋道を通して進む。地球の傍を通る時は、地球は障害物になる。だから光は筋道を曲げる。それは自由空間でなくなるから。光の速度もその筋道も、観測者との相対関係にあることを理解する事が世界を知る鍵になる。光と観測者の関係は普通の運動速度の相対性がそのまま当てはまる。その関係は決して『特殊』ではない。レーマーの光速度の相対性検出の基本認識が大切。光の速度がその伝播空間によって決まっているから。光が空間の距離と時間の関係を規定する世界の基準であるから。いま店先をシクラメンが飾る。じっと眺めて、何故惹きつけるのかと思う。尋ねても応えは無い。何の役にも立たない時間が過ぎる。シクラメンの花弁の分子構造が光の色合いを人の心に届けて人とつながる。光が無ければつながらない。光が『エネルギー』の縦波であるが故に世界が成り立つ。

(1)眼の機能 眼にはレンズの機能は無い。空気との境界を決める角膜の曲率でほとんどの入射光線は決まる。角膜が光の第一門の関所である。瞳への通行手形が切られる。眼の機能については教科書はじめいろいろと解説されている。カメラのレンズ機能と同じく網膜に像を結ぶと。しかしそれは有り得ないと医学の素人ながら筆者は考える。眼にはレンズ機能が無いと考える訳を説明したい。既に眼は一筋の光を観る で述べてはいるが。

眼の機能 確かに眼球には水晶体と言うレンズがある。しかしその成分は蛋白質であろう。蛋白質(角膜)と空気の境界では、光はその媒体間での透過率*(2017/11/29訂正追記。用語の間違いです。訂正してお詫びします。と同時に適切な用語が浮かばない。光伝播空間媒体の特性であるから、その媒体特有の透磁率と誘電率に基づく伝播速度の意味を表現したかったところ、透過率と早合点して使ってしまった。光の空間エネルギー密度分布波が進行方向に縦波として媒体内を伝播する。その媒体の光伝播現象に対する空間特性は、空間に特有の伝播速度が決まっている。その伝播速度は光の波長に因っても少しずつ違いがあるだろう。それは分散として現れる。従って、媒体間での違いを表現する用語としては光の縦波の『伝播速度』が適切であろう)が変わるから境界面に於いて入射角度によって屈折現象を引き起す。しかし眼球内は光伝播媒体が全てタンパク質と水分(?)であろう。そこでは屈折は起きない筈だ。魚眼の標本? が参考になるとも言えないが、蛋白質の玉葱状の積層構造と思える。人の眼もレンズのような屈折現象を起こす境界は空気と角膜の曲率面しかないと思う。そこに到達する光の内、眼の中心軸上の方向に在る対象からの光だけが瞳に入射するものと考える。 図の①一筋光路認識で文字『ア』を読むとする。文字の各部はあらゆる方向へ光を反射している。カメラのレンズ機能は、対象の一点からの多くの幾筋もの光路を通った光がフイルム面の一点(焦点)に集光し、対象全ての各点の集光された集合画像が写真として鮮明に写される。それに対して眼は対象の一点からの光の内唯一筋の光だけを受け入れる。観測対象『ア』の各部からの光のそれぞれ一筋の光路のみの光を取り入れる。眼の水晶体では光を整える積層構造に成っていて、レンズ終端でファイバー(硝子体管)に光が伝送され、黄斑に届く。網膜に視界の映像などできない。次に②の視界距離感をどのように認識するかも不思議である。望遠鏡や顕微鏡は殆ど片目で観測する。両眼で対象の距離は計れると理解している。しかし片目では、一筋の光による画像に距離を計る識別機能は備わっていないように思う。細い紙筒を覗いて、映る対象のその距離をどのように感じるかを確かめて見た。普通は片目でも、周りの光景も一緒に認識出来るから、長い感覚的脳の学習機能で距離を正しく理解できるだろう。しかし周りの景色が遮断されて極限された狭い平面の対象の距離を計る時、少し遠くに在る様に捉えるのかと感じる。それは各人の感覚に因り違いがあるかもしれないが。以上二つの意味が、望遠鏡(顕微鏡も)で対象を観測する場合の眼の機能として捉えておくべき要点と考えた。

(2)望遠鏡の原理 望遠鏡の解釈では、虚像とか実像と言う用語で解説されることが多いようだ。しかしその様なレンズの『焦点(存在しない概念)』に因る光路合成の作図法での虚像とか実像などは存在しないと考える。実像はカメラのフイルム面(写像面)の二次平面全体がすべての対象点からの焦点になるという意味で、そこに写る写真の画像とすれば、それは実像として理解できる。しかし、眼に因る観測視界は実像とか虚像などの概念では説明できない筈だ。レンズを使うか使わないかに関わりなく、普段の裸眼での視界認識と眼の機能は角膜への入射光線の角度で、全く同じ光路に因って認識している筈だ。その意味を次の図で示す。

望遠鏡の機能 望遠鏡の原理なども今回初めて考えた。ケプラー式で考えた。ここには実像も虚像も無い。眼で観測する光学器具はすべて一筋の光の光路から成り立っている筈だ。対象各点からのただ一筋の光だけで認識する原理である。眼は虚像も実像も見ることはできない。ここでも教科書の解釈とは異なる。図では遠方の大木を観る様子を描いた。天体望遠鏡なら星を観測する事になろう。観測対象の或る一点からの光は四方八方に放射している。その光の内、望遠鏡に入射し、観測の光となる光路は唯一筋の光の道しかないという意味を示した。ここが教科書での解釈と全く異なる。普通の解説は少なくても二筋の光で、望遠鏡内にその交点として在る像を結び、その像がそこに在るかのように考えて、その仮想の像を接眼レンズを通して見ると解釈している。その接眼レンズでの眼に因る観測となっている。それに対して図では、対象の観測点の光情報はある仰角θoの一筋で対物レンズに入射する。対物レンズで僅かに屈折しθで接眼レンズに入射する。接眼レンズの位置を動かせば、レンズ面の曲率によりレンズ入射角が変わることになる。それは屈折角が変化し、結局眼への入射角度が変わることになる。その角度を図ではθeとした。視野角度θeを観測対象の大きさを観る角度として認識する事になる。ただ観測対象の距離を片目でどのように認識するかは理解できない。

レンズの焦点・焦点距離とは?  に(2016/10/28)以降のレンズの記事をまとめた。

レンズの焦点・焦点距離とは?

(2017/11/21)追記。焦点距離(太陽の焦点距離)と写像距離(フイルム位置)の関係について、筆者の誤解も含めて、レンズと焦点距離に訂正・追記した。焦点距離と言う用語の定義が分からなくなったからである。しかし、焦点距離

(ウイキペヂア)には太陽の焦点距離と同じ平行光線に因る教科書の『焦点』の位置を定義しているようだ。観測対象・被写体の遠近で、焦点距離と言う写像距離は変化する。その使い方がカメラの焦点距離の意味であろう。

(2017/11/13)追記。レンズで気付いたことがある。スマホ等の携帯端末機の写真機能が抜群に良くなっている。あの小さなレンズで近距離撮影を考えれば、焦点についてレンズ軸に平行な光線などを光学的原理説明にする意味が見えない。生活に結びついた理科教育なら、高校生に携帯端末のレンズで解説するのが求められよう。今年のセンター試験の物理レンズ問題についての感想である。

(2017/07/24)追記。この記事の後、『フレネルレンズ』と言うものがあることを知った。やはり素人は知識量が少ない事を自覚した。しかし知識が多いか少ないかでは、レンズの焦点の解釈の誤りについては判断できない。灯台の大きなレンズは光を遠くまで分散させないで、平行光線で届ける機能が要求される。光が分散しては役に立たない。さて、普通のレンズの『焦点』は対象物からの光がレンズ軸に平行であればその光路は必ずレンズ軸の『焦点』の一点を通ると言うその一点が『焦点』と定義した専門的解釈である。それなら普通のレンズの『焦点』に光源を置いたら、その光は必ずレンズを通った後、平行光線になる筈である。そこで『焦点』の概念を否定する素人としての解釈を述べる。決して平行光線には成らないと。それは『フレネルレンズ』の片面は平面になっているから、平面に『焦点』の光源から入射する光の光路は、普通のレンズの球面に入射する光の光路と同じ筋道は決して通らない事だけは間違いない。その事は『フレネルレンズ』の片面が平面であるから平行光線としてレンズから放射されると言うことを示しているのだ。レンズの片面が平面であるか球面であるかによって、その光路が変わる訳がレンズの屈折の原理になっている筈じゃなかったのか?全く実験もせずに、ただのレンズに関する素人の解釈でしかないが、普通のレンズとフレネルレンズ(両方のレンズ直径の同じ物)で実験してみれば結果は明らかである。

昨年末(2016/10~12)にレンズの焦点について常識を否定する記事を書いた。今年の大学入試のセンター試験(物理)にも出題された内容に関わる点で、社会的問題でもある。長く教科書での標準的レンズ問題の解釈法として定着して来た理科教育の常識である。それを否定するなど正気の沙汰ではない筈だ。しかしやはりその解釈、教育指導法は間違っていると考える。

写像面全面が焦点 専門的にはカメラの光学技術で論じられる問題である。専門家の解釈はレンズの焦点という専門的解釈で論じられる。全くの素人である自分の、専門家の論理に違和感を抱いての、反論であることをお断りしておく。

写像面が焦点写像面(フイルム面)が焦点 上の図は所謂レンズ軸に在ると言う『焦点』など必要ないと言う意味を表現したものである。図は観測対象の3点A、BおよびC各点からの光はレンズ全面を通して写像面の各一点a、bおよびcの各一点に集まり、その各点がすべて焦点であると解釈する図面である。観測対象からの光線がレンズ中心軸に平行光線である場合に、その軸上に定義される『焦点』に集まると言う専門的解釈を否定する図面である。特別に定義される『焦点』など考える必要が無いと言う意味である。即ちレンズ面に平行な写像面が焦点距離Fにあれば、その全面が『焦点』の集合した二次平面であると言う解釈である。『焦点距離』という意味もなかなか難しい意味でもある。レンズで太陽光線の焦点を求めた時、それをレンズの『焦点距離』と仮に決めるとする。ではその焦点距離が全ての観測対象の場合に対して写像を鮮明に得る条件に成るかといえば、違うであろう。カメラの焦点を合わせると言う意味はその焦点距離(フイルム面の位置)を観測対象のレンズからの距離によって変えなければならないと言う意味であろう。太陽光線でレンズの焦点を決めるが、それは太陽の無限遠の太陽像を写像面に映している事なのである。太陽熱で焦点は焦げるが、それは太陽の写像なのである。丁度観測対象の距離に適合する焦点距離の場合には、レンズを通して得られる写像面のすべての面の各点には、観測対象のそれぞれ各一点からの光だけが集まる訳で、その写像面全面が『焦点』と解釈すれば良いだけであろう。だから人がその丁度レンズの焦点距離の位置に眼の瞳を置いて対象を観測すれば、何も像は見えないのである。その訳はその瞳の位置に入る光が全て観測対象のただ一点からの光だけであるから、何も像など見える筈が無いのである。瞳の位置をその焦点距離のままの平面上の位置で移動すれば、また観測対象の別の点の光だけの視界となり、像など見えないのである。

関連記事 レンズと焦点距離 眼は一筋の光を観る 眼球の光路とカメラ機能-?― レンズの機能

 

魔法の電線路

前記事、電気工学から物理学を問う  の問題意識を説明したい。

電線路電力電線路と電力密度 電気回路の基本となる単相交流回路である。電気工学技術理論が誠に合理的に非の撃ちようが無く完成されている。実用的には何も困ることが無い。昨年の電気主任技術者第一種の問題(理論)にも、球状電極の電荷分布の問題があったようだ。それ程『電荷』は電気現象解釈の基本的概念となっている。その電気技術論に異論を唱えるなど社会的常識からは正気の沙汰でない。だからこそ電気技術理論がそのまま自然界の『真理』であり、物理学理論の根幹として疑われることなど何もないとなる。自然科学で『電荷』を自然界の基礎としての実在物理量と社会的合意の形成を成して来た。電磁界という電界と磁界で理論構築した原理原則は完璧と見られている。学術理論にとって、それは『電荷』の御蔭でもあろう。『電荷』を否定したら、電気力線を描く論拠を失う。『電荷』を否定したら電流の論拠を失う。電流の論理構築が困難になれば、磁界、磁力線を描く論拠も失う(電気技術の理屈からすれば本当は電圧時間積分で良いのだが)。しかし自然は誠に巧く出来ている。『電荷』など無くても電線路は『エネルギー』を電源から負荷までチャンと送り届ける。

魔術的電線路解釈 自然科学理論の常識論からかけ離れた論を呈すれば、魔術の論理と見られるかもしれない。たった一つの『エネルギー』を頼りに考えて来た。殆どすべてを捨てて来た。春の新学期も始まる教室では、皆さんが電気の授業を行うに『クーロンの法則』の原理原則論をとても高度の数式に因る厳密な論理性を持って話され、展開する時期かもしれない。しかし、電線路空間内の『エネルギー』の挙動を教えた方が自然の意味を理解し易かろうと思う。私が解釈する先に進んで頂きたい。目に見えない現象だから、解釈法は千差万別であろう。電圧は電線路空間のエネルギー分布によって決まる技術的評価・計測量である。そんな感覚で捉えるまでにはいろいろ考えた。そんな経過を記事にして来た(参考記事#1,2,3,4)。そのエネルギー分布が電線導体と空間の間でどのように分布するかはその人の感性によって解釈するより方法が無いかもしれない。一応、図には電界と磁界の意味を空間のエネルギー分布密度δ(r,t)との関係で解釈して示した。電界、磁界を理論構築に欠かせないと言うならばという意味で、一応解釈を式で表現しただけである。その式の根拠は、空間をどのような捉え方ですべきかという哲学的な解釈が必要であろう。真空空間の定数に真空透磁率と真空誘電率がある。真空の解釈をどうするかは、如何にも哲学的である。平成2年頃電磁気現象を家に引きこもって、遣る瀬無い人生をぶつけていた頃の思索のテーマであった。その次元はヘンリー[H]とファラッド[F]である。真空にコイルとコンデンサをどのような意味で捉えれば良いかと考える愚かな毎日である。しかも単位長さ1[m]当たりである。やっと今頃になって、その距離の意味を捉えたと思う。L[H/m]やC[F/m]の単位長さ当たりという意味の長さの空間的方向を。電線路で言えば、電線路の『エネルギー』の伝送方向であるとはっきりした。それは『エネルギー』伝送速度即ち光速度の方向の長さであると成る。実際に真空中に導線を張ってエネルギーの伝送実験をした訳でないから、科学論としての証明は出来ないが空間の『エネルギー』伝播解釈は『電荷』否定の具体的な視点となろう。電線は一般に絶縁被覆電線を使うから、エネルギーはその絶縁材料部分を通って高い密度で伝送されるだろう。物理学では『エネルギー』は質量をその拠り所としているが、ただ電界、磁界についてはそのエネルギー空間密度は認識して解釈しているようだが、実際にその『エネルギー』が空間に実在していると解釈するかどうかになると、極めて曖昧である。空間に『エネルギー』が実在すると解釈すると、その『エネルギー』は何が保有する『エネルギー』なのかを述べなければならなくなる。その理屈を論じることが難しいから、曖昧にしているのだろう。電子のエネルギー無限大の問題を指摘したのはP.A.M.ディラックであったと思う。視点が違うかも知れないが。『エネルギー』の単位ジュール[J]と[H,Fおよびm]の単位からすべての物理量を評価したのが、エネルギー[J(ジュール)]とJHFM単位系である。

電力密度 ※の理論的解釈の1/2の係数を絶対的なものと理解できる訳ではないのだが、一応常識に従えば、空間の座標r点の電力密度prは2倍の・・となる。それはその空間点のポインティングベクトルS [J/sm^2]でもある。単位面積当たりの1[s]当たりに通過する『エネルギー』量でもある。その伝送空間全体に亘って積分すれば瞬時電力になる。そのエネルギーの挙動を電圧分布分と電流分とに分けて捉える捉え方にははっきりと結論を得ていない。電圧分布は電源周期によって光速度でエネルギー分布に対応する筈であるが、負荷吸収のエネルギーに因るエネルギー分布欠損は電圧分布エネルギー全体がその電圧維持のために流れて負荷への電力供給を賄うと解釈すべきとは思うが。以上先の単純な電気回路問答、電気工学から物理学を問う を取上げた物理学の参照基準との意味の説明を兼ねて述べた。

(参考記事)

  1.  エネルギーで見る線路電圧 (2015/04/19)
  2. 電気の眞相(2)-電圧とは何かー (2015/07/29)
  3. 電気抵抗のエネルギー論 (2016/06/15)
  4. 電気回路のエネルギー (2016/07/02)

 

『基礎科学』とは何だろう

『科学』の始まり、それは人の心に始まる。                           

(2012/08/27)  神経(細胞)と情報伝達機能 について末尾に追記。

基礎科学の大切な事には誰も異論は無いであろう。ところで、『基礎科学』とは何だろうかと考えてみると余りはっきりしていないように思う。その事を9年ほど前に、自分自身の考えを整理するためにも、思い巡らしてみた。そのことをここに公開する意味があると考える。人類の歴史の足跡に刻まれたものが全て科学の心に彩られたものと言っても良いであろう。人が考えること、それが科学のすべてと言いたい。動物だって生きることは考えること。しかし、火を使うのは人間だけである。乾燥した木っころがあれば、摺り合わせて火も起こせる。この「火を起こす」事には大変深い意味が含まれている。道具として石の矢じりや弓を使う事の意味には、さらに心と科学の関わりで興味のあることである。アンデスの山岳地帯で、食べ尽くした動物の骨を上空から落とし、割れた骨の髄を食べる禿鷹の行動。その行動も自由落下の意味を感覚的に捉えた、科学の心に基づいていると言えるかも知れない。弓矢を使う人間には、自然の法則を認識した科学の心があっただろうか。この辺の疑問・解釈にどのように軍配を采配すれば私が納得できるだろうか。こんな調子で、自分を追い込むことで、頭を抱える己の姿を客観的に見詰めるのが考えるときの癖である。この滑稽さに自身で苦笑。この問いに対する答えは教科書には無かろう。だから勝手に自分で答えを決めなければならない。人それぞれで答えが違うかもしれない。違って良い。

私の自分自身への答え                                           「心」と「考える」の言葉の意味の違いが分からない。「考える」のは『脳』の機能の働きであると言えよう。しかし、「何を考える」かの「何を」を決めるのは『脳』であろうか。確かに『脳』の働きなしに思考・行動のすべての生命活動は成り立たない。しかし「何か」を考える基に成るもの、即ち「切っ掛け」は『脳』ではないように思う。何故なら、思考・行動の「考える」切っ掛けを『脳』自身が決めるとしたら、恐らく生命活動の全体が混乱することになると思うからである。「切っ掛け」は全て外界の状況やその人を取り巻く外との関わりであると見る。「考える」と「心」の言葉の含む意味の違いはこの辺にありそうだ。「心」の大切なことは、その人が己自身と己自身以外の対象(社会的、経済的環境、人間関係の環境、自然環境などのすべての外的状況)との関わりに対して、どのように『脳』に「考える」切っ掛けを生みだすかを決めるものであるからである。言わば「心」は、その人の「感性」と同じ意味を表す言葉と考えても良かろう。だから「感性を磨く」と「心を磨く」は究極で一致した意味であろう。外界の事象に対峙した時、その事象の捉え方にそれぞれの個性と言われる特質が表れるのである。「感性を磨く」とは、外界の事象をその奥深くに隠されている核心にまで踏み込んで、その眞相を見抜く力を鍛えることであろう。人間は強いが、際限のない欲望の虜にもなり易い面を持っている。その時点までに積み重ねてきた訓練や経歴によって、さまざまな性向として、その人自身の感性が磨かれてゆくのであろう。欲望に目が眩んでしまう、自分の理論に固執し過ぎる、等の状況によって事の真実を見失う事も多かろう。教科書に書かれたことをすべて鵜呑みにする、あるいは棒暗記するなど、深く考えずに済ます学習態度を長年続けていれば、それがその人の「感性」の感度や性向を決めてしまうものであり、事象の眞實を見抜く力にはならない結果を来たす。そこには「輝く個性」などは生れようがないのである。このような過去の『脳』の使い方が、人間の優れた脳機能のお陰ゆえに(工学的には、帰還作用の蓄積効果とでも呼べば良いのであろう※)、自ら「感性」の良し悪しを作り上げてしまうことになるのである。『脳』の機能は多面的で、様々な経験を通してこそ、外界の事象に対して鋭く、深く見取る「感性」に磨き上げることが出来るのである。ここまで来て、最初の自分に提起した「問い」の一部に対して、「心」と「考える(脳機能)」の意味の違いにだけは一応の自分の納得できる「答え」が得られたと思う。私、素人の独断と偏見であると言われても。

脳の不思議に踏み込んで                                         ※ 帰還作用の蓄積効果 とは何かを、図解によって説明したい。図一 脳の構造。    図二 脳の機能。図三 生命(心)の脳。の三つの図に分けて、「帰還作用の蓄積効果}と言ったことの意味を説明したい。図一は脳の構造と知覚器官(般若心経の文言の眼耳鼻舌身意から意を除いた意味を込めた)を単純化して示したものである。図の各部の番号(1)、(2)及び(3)の関連を脳の機能と言う面に絞って表現したのが次の図二である。                                         「外界事象」とは自分自身を取り巻く外部の自然環境や社会的状況等すべての事柄を含めたものである。その外界事象を情報として内なる自身に取り入れ、またその事象に対する自身の意思や行動を外界に発するものを(1)検知・発心動(※)器官として表した。その出力には危険から身を守る行動、獲物を捕獲する知恵、愛の思いに生まれるときめき、発汗その他の分泌物、言葉や書画での心の表現・芸術活動などの生命活動のあらゆる外的形象が含まれる。

(2)脳基幹(※)として纏めた部位は脳の中心部の深くに位置した諸器官(脳幹、海馬、小脳、視床下部、さらに脊髄をも含めた)であり、この脳基幹が生命を司る中枢部位であり、その人の生命の全象の源になる「こころ」の在りかと私は考える。あらゆる外界からの情報、大脳での思考情報のすべてを融合して、全体を統合した最も有効な調和情報として生命の姿を決めている。その意味を込めて、その部位の機能を情報統合・指令・管理中枢と考える。医学書の説明では、その部位の近辺に「橋」と言われる部位がある。しかし、その「橋」の働きについて詳しい説明が見当たらない。そこで、「橋」と言う言葉の意味を、私の考える『脳』の全貌をどのように捉えれば良いかの一つの手掛かりとして意味付けたいと思った。情報は決して単純な一方通行の形態ではないと思う。だから、特に大脳との情報のやり取りは、この脳基幹との間で複雑なやり取りを繰り返しながら、ある思考結果に収斂するものと考える。その為の情報の配送機能を受け持つ器官が必要であろうと考え、その役目を「橋」に託したのである。当然、(1)の出力器官に対しても、情報伝達の「橋」の役目の存在は同じように必要であろう。結局、脳全体の機能はある部位ごとに独立しては意味を成さず、全身の機能が一体の生命の塊としてしか意味をなさないものであろう。

(3)大脳は脳梁によって支えられ、脳の全体を覆うように大きな体積を占める。ここは脳基幹からの情報に基づいて、思考(分析・判断・評価・整理)する中枢と観て良かろう。(2)脳基幹と(3)大脳は外界事象の情報に基づいて、さまざまな処理情報に変換しながら、二つの間で情報の交換・分析様態を作り続けて、常にある方向性あるいはその瞬間対応の最適化をなすことに努めるように働くものと考える。この「ある方向性」と言うものが、その時点までのその個人の辿ってきた『脳』の履歴に大きく関わるものであろうと考える。『脳の履歴』とは元々あるハードとしての『脳』に、如何なる脳機能の鍛錬をしてきたかを『脳』のソフト機能としてそれぞれの個人の脳特性(個性と言ってよかろう)になっているのであろうと言うことを、そのように表現した。このように全くの独断によって自分の『脳』の内部を自分で分析して、その脳機能の全体像を解釈してみて、何とか自分を納得させられるだけの結論が得られたと思う。

以上の脳機能の解釈を、心(生命)の外界事象との関わりをどのように意味付ければよいかを1つの図案に表現してみた。それが図三である。生命(心)は単一ではその意味を失うものと思う。その生命すなわち『心』は己を取り巻く外部との関わりがあってこそ生きている。その『心』に生命の意味の重心を置いて、『脳』の機能の意味を考えた結果を図案化したものである。(辛巳カノトミ 神無月 20日  記 2001.10.20)

「基礎科学」の話から大変それてしまった。何故こうなったかは自分でもよく分からない。しかし、「科学する(用語?)」と言う事はその人の『心』と自然の姿との共感・共鳴があって初めて成り立つものと思う。そのことから心と外界事象との関わりに思いが向いた結果であろう。結局は図三の表現に「基礎科学」の本源があることを述べたかったのであろう。私が物理学会で発表するときに、必ず『心』にこだわりを感じるのも、科学者の感性と言うものへの疑念があるからである。科学者に求められるものは「純粋な真理への憧憬の心」であろう。素心での自然との対話こそ科学者が立ち戻るべき道であろう。そこに至るには、子供の頃の無欲な心に磨き続ける環境で育てられなければならないだろう。親が子供に接するときの躾や小言が「将来に高収入を得るため」や「高い地位に就くため」に勉強しなさい等と言うようでは、気掛かりだ。現代物理学の基礎理論は基礎に値するだけの価値が無い程、その論理性の欠落と矛盾の上に展開されている。『教育』は決して点数で評価できない処に、その本当の意味が隠されている。「勉強」と「教育」の深い意味を込めて、やはり図三の「生命(心)の脳」を噛み締めたいと思っている。

図三 生命(心)の脳                                             図三で、外界事象(現在)と人の生命の中に「過去と現在」と言う表現で、現在と過去・未来を分けた。この図案は自分でも満足している。ここに再掲したい(2012/08/27 追記 )。外界事象を現在としたが、そこから心窓(知覚器官ー視覚、触覚、嗅覚等ーを通して入る情報の入り口を表した)の情報を人は現在と感じる意味である。しかし、夜空の星を見上げれば、その光は現在の光とは言えない。百年前の星の光かもしれない。現在とは人の認識に関わり、その人がどのように解釈するかにもかかっている事である。太陽でも8分前の光である。星座の姿も現在と言う時間の解釈で、星座の位置関係は全く異なるものである。宇宙と言う世界まで含めれば、現在と言う時刻もどう解釈すれば良いかと、外界事象の意味も大変深い意味を持つ事になる。目で見た情報の時刻の意味まで「眼」に責任を負わせるのは酷であろう。それはその人の心の中『脳』に責任を取ってもらわなければ真実は見えない。専門と言う学問分野では、天文学のみに限らず、殆どが自らの集団の理論体系に『脳』が染められてしまうのである。それは私自身が経験したことである。電気理論の「電流」を一つの信仰のように自然の真理として認識していた。長い教鞭で、生徒、学生に得意になって指導法を工夫しながら教えてきた。ところが、それが『嘘』であることに気付いた。電線の中に「電流」などが流れ得ないことは、論理的に全体像を統合すれば、当然のこととして悟ることが出来る筈である。自分の『脳』の中に蓄積された専門理論、即ち電磁界理論の基礎概念が瓦礫のように崩れ去るのである。電流は流れず にその事を記した。『脳』に蓄積された知識が全て曖昧で、頼りないことに気付いた時、初めて学問の奥深さと意味を知ることになる。今となれば、「電流」などと言う物理概念がなんと滑稽なことかと思うと同時に、人間の『脳』と『基礎科学』との関わりに、その社会的意義を重ね合わせて、考え込まざるを得ない。

神経と情報伝達機能(2012/08/27) 全くの素人が生命科学の領域に口を挟む事を恥ずかしいと思いながら、一言書きたい。科学技術の安定性を保つには「帰還制御」の機能が自動的に働く事が必要条件である。そんな工学的な見方が、いつも頭にある。人間の行動を考えた時、脳で行動の指令を出すと見て良いだろう。しかしその指令が何を判断基準に発せられるかと考えると、なかなか難しいことのように思える。小刀で、物を斬り込む作業を考えても、脳からの指令とその行動の状況の情報とが合致しているかどうかを、比較して整合性が取れている状況下で初めて、脳からの指令が伝わったと言えるのであろう。鉄棒の離れ業をこなす空中運動の指令と身体状況の関係も同じ事であろう。『神経細胞』の働きの機能は、本当に脳の指令の「伝達」がその役割であろうか。その信号の伝達速度の限界はどの程度であろうか?等素人には理解できない疑問が多過ぎる。どうしても、工学的観点から考えると、全ての外界情報・身体位置情報などを脳に伝える機能が『神経細胞』の役目に思えて困っている。脳からの発信情報は本当に『神経細胞』を通しているのかと理解できないでいる。『信号は全て縦波の電磁エネルギー波である』から、身体の空間を通してどこからでも伝達できる筈である。しかし指先の痛みや、位置、熱さ等は神経細胞を通さなければ、その的確な情報は脳に伝わらないと思う。だから、「神経細胞」の機能は「帰還フィードバック機能」のように思える。以前「ストレッチ」で体の関節を調整しながら、その効果は骨と骨を繋ぐ「靭帯」の柔軟性の鍛え方が重要であると思った。そんな運動を通して、頭を巡らしていた事が「神経細胞」の機能であった。