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光の屈折と分散

初めに 光の実像をどのように認識するか?光は目の前の空間に実在する。眼で物を観ることは眼に光が入り、その光の一粒(と言ってよいか?質量的な粒と言う意味は無いから。光の波とみた場合、1波の光は空間のエネルギー分布の縦波であるから粒と言うには無理があるのだが。)ずつの総体として物を脳機能に因って理解する。取り入れる情報は光のエネルギーである。光のエネルギーを物理学でどのように解釈しているかと言えば、プランクの定数と光の振動数の積で捉えている。(2020/4/25 以下訂正と削除)『振動数』が意味する内容は、気体分子運動論で熱エネルギーを解釈する論法の『質量』の振動論に通じる意味であると勝手に解釈させて頂く以外ない。しかし光子が『質量』を持つとは言えないのでは?おそらくマックスウエル電磁場方程式の電界・磁界の横振動波を思い描いて解説するだろうが、電界や磁界が振動する訳ではなかろう。電界・磁界には光のエネルギーの空間像の意味が隠されている。子供達も検索で光に質量は無いのにどうしてエネルギーがある事になるのかと質問する。エネルギーは質量が持つ運動エネルギーだと物理学教育で教えているからだろう。電気回路内は質量の無いエネルギーだけなんだ。検索で屈折現象の解説がされている。光の伝播媒体で、速度が異なるから異種の媒体の接触境界で屈折すると説明されている。それで正しいと思う。しかし物理学とは、「何故」と問う事から始まる。何故媒質に因って速度が異なるのか?振動数では説明にならないのでは?媒体が違っても振動数は変わらない筈だ。変わるのは波長だ。さて屈折する理由は何か?その何故かを問題にするのが物理学の要になる。

屈折と分散に隠れた意味 ここに書いたことは誰もが当然のこととして分かっていた。筆者だけの不明であったので削除させてもらった。光の散乱・分散分かり易い高校物理の部屋 に在る。しかし、一般に光の速度は一定の光速度と認識しているが、それは媒体が真空でしか通用しない現象と考える。空気中も真空と必ずしも同じとは言えなかろう。確かに空間定数は空気中も真空と同じと解釈しているが、夕焼け(水蒸気含有量)などは分散現象であろう。真空と空気中での光の速度の差は無いと言えるのか?(2017/12/04)以上追記。

屈折現象 何が屈折を起こす原因か?昔“何も足さない 何も引かない”と言うコマーシャルがあった。何か『エネルギー』一つを背負った旅ガラスの心境に思えた。捉えどころのない『エネルギー』だが、光の振動数より分かり易いとここまで引き摺って来た。

光エネルギーの屈折 光は電気エネルギーと同じく、空間に存在するエネルギー密度分布波である。質量など必要としない、エネルギーそのものの空間分布の波である。上の図は学会での発表に使ったもので、プリズムを想定して描いた屈折現象の解説である。光エネルギーあるいは光は光速度で空間を伝播する。その光速度は、障害の無い真空自由空間では何故毎秒30万キロメートルであるのか。その訳は真空の空間が握っていると考えたい。エネルギーが通過するに許された空間の支配条件に従わざるを得ないということであろう。光と同じ電気エネルギーが伝送線路の電力用ケーブルを伝送される状況と比べて考えてみよう。ケーブルは電気絶縁物で充填されている。その中でのエネルギー伝送速度は遅くなる。ケーブルの単位長さ当たりの誘電率と透磁率でほぼその伝送速度は決まる。プリズムのガラスの媒体特性も誘電率と透磁率で評価できるだろう。その媒体の空間定数の値で光の伝播速度が決まるだろう。真空は何も伝播媒体が無い空間であるが、その真空でも誘電率と透磁率が科学技術の単位系を決める根本的定数として決められている。真空透磁率μo=4π×10^-7^[H/m]がMKS単位系の拠り所と決められている。その空間媒体の定数が光エネルギーの伝播速度を規定している。プリズムのガラス中の速度もその定数によって決まる。

光エネルギーの速度 図は波長λの光が空間を伝播する状況を透磁率と誘電率に因って解釈したものである。電力系統のエネルギー伝送と自由空間での光伝播とは同じ物理的現象として解釈すべきである。ここには少し数式が入っている。平方根と分数と三角関数と若干の空間的定数概念[H/m]、[F/m]の空間的ベクトルの方向性を基にした数式である。この図で伝えたい事は光には正弦波の周波数が無く、波長λの繰り返しのエネルギー密度分布波の縦波が空間媒体の定数によって規定された速度で伝播するエネルギー波であるという事である。一波長でエネルギーなのである。媒体は構成成分の分子構造体であろうから、その構造体の物理的特性(空間エネルギーに対する吸収・放射の共鳴度とでも言えば良いかは明確ではないが、何らかの影響度を及ぼす強さ)に因って速度の影響を受ける筈である。その特性が誘電率と透磁率によって決まると解釈する事を示した図である。上の図は真空の空間特性と所謂光速度C[m/s]の意味である。分散は波長λに因って光のエネルギー密度分布波が異なるため、光伝播空間の媒体特性に因って、通過速度に影響が生じることは容易に理解できよう。実験的には分散が起こることは周知の事実であるから、その物理的理由をどのように解釈するかの問題であろう。光の空間的エネルギー分布を計測するなど不可能なことであろうから、科学的な検証は不可能であろう。光のエネルギーを振動数で解釈するという論理で、屈折や分散の物理的意味が感覚的に心に響くかは、高校生に尋ねて見れば分かるであろう。光エネルギーは1波長でエネルギーなのである。光を検出するには周波数や振動数でしか計り様が無いから、振動数が理論的な概念に組み込まれているだけなのである。数式を示してもそれが物理学の目的ではなかろう。自然は不思議の宝庫であり、魅力に溢れている。解ったと言うにはまだ早い。

分散 色収差はカメラなどの光学技術で問題になる。しかし技術は、技術者はその問題を解決して製品の質を高めて来た。しかし物理学は分散の物理学的意味を明らかにしているだろうか。解らない処を噛み砕いて何故かと考える事の大切さを教えているだろうか。不思議と思う事を伝えているだろうか。意味を教えないで伝統的教育法に従った数式を覚えさせるだけて済ませていないだろうか。

太陽は何故燃える?

太陽系で地球が一番豊かな命の星だ。太陽系を統合制御しているのが中心の太陽である。太陽は生命の源と言えよう。地球以外の惑星が何故太陽の恩恵の生命が育まれないのか。場合によれば生命が枯れてしまった後なのかもしれない。あるいは生命に満ちているかも知れない。太陽系全体を軸性回転形のエネルギー局所空間と解釈したい。その中心に燃える太陽が形態空間の要となって支配している。中心は燃えている。地球も中心核は灼熱地獄の暗黒世界で、地球の生命を支えている。

宇宙空間は真空か 太陽は真空空間に存在しているのだろうか。宇宙論で、背景放射とかブラックマターとかの話がある。それは宇宙空間に質量が充満しているのかと素人には思える理論である。宇宙の空間を真空と言う場合の『真空』とは何かと言うことになる。真空と言う空間は物の存在を許さない空間と定義されているかと解釈したい。しかし、空間には星星が散りばめられている。地球を考えても、大気圏外と地球とには明確な空間的分別が存在している。真空に飛び散るような事は無い。それは真空と物質の存在を分離する自然の原理があるのだろう。万有引力と言う遠隔作用力には論理性がないと考える素人的と見られる観点からの真空への疑念である。

真空で太陽は何故燃える 学説は水素原子の核融合論である。真空だから酸素燃焼は論外となる。真空中に水素原子が集合して、水素だけの星となると考えるのだろうか。太陽系の中心だから、宇宙から水素原子が吸い寄せられて、太陽の素になったと解釈するのだろうか。水素原子は原子核構成要素の『陽子』となんら変わらないであろう。エネルギーが質量化して観測可能になる最小単位が『陽子』と看做す。『陽子』に電荷概念が付き纏うから、プラスの意味を排除するなら、『素』位でも良いかとは思う。太陽が空間に形態をなして体積を占め、莫大なエネルギー放射を続けている現象を現代物理学理論で説明できるのだろうかと、知識の無い自分にはそのもどかしさに悩む。いくら愚かな人間でも、太陽を制御しようと考える事は無かろうから、太陽系全体の破壊までは起こらないと安心はできる。太陽の途轍もなさだけは人知の及ばない範囲にある。何故太陽は燃えるのか?水素核融合説で、最大の疑問は何故瞬間核融合に暴走しないのか?である。如何にも宇宙規模で自然制御されている太陽燃焼の訳が見当たらない。核融合とはそんなに永続的に自動制御される仕組みの宇宙原理でもあるのだろうか。宇宙の『恒星』の全てに当てはまる事である。星が燃えるとはどういう現象なのだろうか。2011年6月10日NASAが太陽表面で巨大なフレアと言う記事で、その写真を公開した。太陽表面の巨大フレアが局部的な核融合によって引き起されたと言うことなのか。

地球核の暗黒灼熱地獄 地球の中心核も燃えている。地球の中心には万有引力説は成り立たない(中心核は均等に全方向の地表面質量との間に万有引力が掛る事になるから、その総積分引力は零になる)。超高圧・超高温の地獄釜であろう。見る訳にもいかないから、飽くまでも想像の域ではある。当然そこには酸素は無いと、酸素燃焼ではないと考えて良かろう。何燃焼かと考えれば、それこそ太陽の燃焼と同じ現象と考えたい。地球が生きている訳は地震や地殻変動により絶えず新しい発熱を起こす燃焼源が供給されているからと考える。『質量ーエネルギー変換』の原理である。酸素燃焼の意味も十分理解できていないのに畏れ多いが、自然現象の基本の単純性を見据えた時の結論はそこに行き着く筈である。

太陽エネルギー放射源 太陽は太陽系全体からエネルギーを吸収し、その吸収質量のエネルギー変換に基づく放射の結果と観る。軸対称性の回転現象を、その原理的必要性の法則が現代物理学の学理から論じうるだろうか。何故地球が回転するかの意味さえ説明できない筈である。上空の気流が何故地球本体の回転速度より早く回るのか。地球が気体を引っ張る訳ではない。気体が地球本体を回しているような現象である。そんな状況が何故起こるかの理由を考えても全く納得出来ないのである。

エネルギーと空間と質量

World Reality今朝、朝日新聞の読書欄に 怒り心頭の物理学者 科学哲学者と大激論 の副題で記事が載っていた。これから少し、科学哲学者らしい論考をまとめようかと思う。論点を端的に表現すれば、上の筆字に成るかと思う。いつまでも自然科学の本質への追究はやめる事が出来ない。市民が主役の科学論の世界になる為に。

『エネルギー』 このエネルギーという言葉が何を指すかを本当に理解しているだろうか。何とか自分なりの解釈を探って来た。エネルギーの分類

なかなか新しい纏めにするにはあやふやな感じが否めないが、現在の自分なりの感覚で、エネルギーの分類を試みた。少なくとも、質量に固執した狭いエネルギー感覚だけは脱して欲しいと願う。そんな思いで一つの試みを提示する。

エネルギーの分類としたが、それぞれのエネルギーには特徴がある。一番分かり易いと思う「運動エネルギー」を取り上げても、質量に付帯したエネルギーという事は、質量の他にエネルギーが増加した事なのだろうか。即ちエネルギーE=mc^2^のエネルギーが質量という中に含まれているのである。その事は最後の『質量』の話のときに論じたい。理解し難いエネルギーが位置エネルギーである。ポテンシャルエネルギーと洒落た用語で使われるが、本当のところ分からない概念である。このように1つ1つ解釈する意味を述べるべきかとは思う。熱エネルギーも『温度』との関係で、人によりその解釈する内容が異なると思う。あるいは、「お前だけが常識外れの解釈をしている」と罵られそうな気もする。物体・質量の温度が上がると言う事は、そのものの中にエネルギーが蓄えられたからと解釈すべきであろう。振動の運動エネルギーだと言われそうだが、そんなものではないと解釈する。調理用電熱器が高温になるまでには、どんな手段であろうが、エネルギーがそのヒーターに蓄えられたからである。冗長になるからやめましょう。

圧力エネルギー 自分の分類の意味が気になった。④圧力(音圧)エネルギーの意味に戸惑った。音圧、音声は局所性には分類されないだろうと思った。明らかに媒体(物体)に乗って、媒体を乗り継ぎながら、伝播する縦波の音声衝撃エネルギー(音声のエネルギー波を観測できれば、正弦波ではないと考える。例えば、人の声帯から発せられる波も正弦波とは考えられないから)の連続波である。だから音圧は局所性に入れるべきではなかろう。関連する記事を挙げておきたい。楽器などの弦は、振動が波を打っているが、それを縦波と観る。三味線と縦波に弦の歪み張力伝播解釈を記した。ここでの圧力エネルギーはボイル・シャルルの法則で解釈できるもので、圧力と体積の積で捉えるエネルギージュールの量である。大気圧を取り上げれば、地表で1気圧という空気圧は1㎡当たり、10トンの圧力がかかっている事になる。そんな圧力を感じないがそれが実際の事である。その空気1立方メートルの体積が空気媒体に保有する圧力エネルギーで、98キロジュールとなる(10トンは1万キログラムだから、その圧力は9.8×10^4^[N/㎡]となる故)。そんなエネルギーが身の回りに有るなど少しも気付かないで生活している。海底4000mの圧力エネルギーは相当なものである。そこで地盤沈下が起きれば、その津波エネルギーも計り知れない。これらはそれぞれの場所に局所化されて蓄えられているエネルギーと看做す。ついでに、道草問答(1)ゴム風船で、大気圧下のゴム風船のエネルギーを計算するのは難しそうだ。大気圧に加算されるゴムの張力と体積が必要だから。

Space 空間の意味を問う 改めて『空間』とは何かと考えてみると、漠然としか思い描けない。大まかに答えようとすれば、二通りの観方があるようだ。一つは日常生活上で意識する空間。もう一つは少し特殊な理数系の思考に上る物理的空間。

日常生活上の感覚空間 部屋や田畑あるいは山並みの広さ。空を見上げて見える広がりや月、星を眺めて思う遠景。

物理的空間 運動方程式を展開する思考空間。特殊な高等理数教育で訓練された専門的頭脳集団の一般相対論的認識空間。その思考には、人間中心的自然観で解釈する傾向があるように思う。それに対する光規定空間(自説)。光速度基準で捉える光規定空間は特殊相対性理論や一般相対性理論的空間認識の数学的解釈論の難解さはないうえに、本質的にそれらの論理を否定した簡明さに重きを置いた論である。ただ、光の規定空間をわれわれ人間が意識し、確認出来るかというと、それは本質的に無理である事を知らなければならない結果になる。何故なら、我々が自分の運動状況を知ることは出来ないからである。だから、光の観測はすべて相対的観測結果である。その事を前に空を見上げてで記した。更に、『特殊相対性理論』は詭弁論等に関連記事あり。

この「エネルギーと空間と質量」を考えると、そのつながりが複雑に見えて、別に項目を分けて記したくなる。それが世界は重層構造エネルギーの共振現象である。

空間を科学の対象として捉えるとき、そこに何か物質や物の存在する領域として考える。運動方程式は物が『質量』の場合である。しかし『光』を対象とするとき、その速度を人間が制御できない事から、『光』そのものの特性を考察対象の空間の中でどう理解するかの他力本願的解釈にならざるを得ない。光の『光速度』とはどの空間に対してなのかを人間は知り得ないのだ。ただ物理的解釈の対象としての「空間」を捉える一つの拠り所は、空間定数の透磁率と誘電率の定義定数しか持ち合わせていない。この定数は、運動方程式の『質量』に対しては全く考慮されないし、する必要もない。しかし、微視的量子の問題になれば、その定数を無視することは出来なくなる。その基本量の問題が「光」の場合である。光は『光子』と言う粒子あるいは量子的捉え方が量子論の基礎になっている。電気工学では、空間とその空間定数は密接に結びついた対象として見るが、素粒子論や宇宙論では空間特性にその定数を対象に考える事が無いように思う。『時空論』と言いながら、誘電率や透磁率が論理に出る事はないように思う。私は、電気工学の基本として、それらの定数無しに考える事は出来なかったから、「光量子」でもエネルギーを考えるにその定数無しに考えられない。Energy in Space空間にエネルギーEがあるとすれば、その定数の影響を必ず受ける。原子、分子構造の中で、変化する電磁エネルギーや光エネルギーは正にその空間特性故の変換をするものであろう。少し話が飛躍するが、揚羽蝶の翅の放射光等が幾何学空間的特性で決まると考えている。その空間が空間定数のどのような値で捉えるべきかは今のところ明確ではない。しかし空間構造と光エネルギーの共振現象と看做したいのである。「Color cell」とその空間を勝手に名付けた。色の世界を尋ねて で名付けた。その空間定数で捉える空間にエネルギーEが存在する時、どんな特徴を持つエネルギーに変化するかと言う捉え方をしたい。『質量』になるか『光』になるかはすべてその空間の広がりと特性で決まると捉えたい。

日常生活の中で、その空間と光の意味を取り上げてみる。お日様に当たると、太陽光のエネルギーが衣服や肌に入り込む。そのエネルギーで暖かいとか暑いと感じる。エネルギーが皮膚の表面の細胞か、その表面空間かに入射すると考える。その光には質量など無く、光そのもののエネルギーの縦波でしかない。皮膚細胞の空間形状と光波長の寸法に関係する現象であろう。入射したエネルギーは皮膚の中で光のままで居る訳はない。量子力学によれば、皮膚の細胞の分子か原子の周回最外殻電子の運動エネルギー(質量依存)として吸収されて何とか理屈をまとめなければならなくなる。空間に『エネルギー』が質量に依存しないで独立に存在すると言う解釈が無いようだから、止むを得ない。そんな行方不明のエネルギー論は採りたくない。どう考えるかと言えば、光エネルギーが皮膚の中に入射して、速度ゼロ状態に変換すると考えて良かろう。どこにどのように吸収されるかは分からないが、何らかの質量に変換すると考えたい。光エネルギーと熱エネルギーは、エネルギーの形態が違うだけで、エネルギーに変わりはない。『質量』とは何かと考えたとき、原子量等と、いわゆる物理学理論に基づく厳密な「科学論法」に従って解釈しないと、科学論としては認定されない事になり、エネルギーと質量の関係が落とし所も無いまま行方知らずで済まされる可能性が大きい。オラそんなのやだ、で異議を挟めば、『エネルギーと質量はどちらも同じものである』と言うことになる。こんな直覚的エネルギー空間論は大学等の学術機関の科学論には認定されないだろう。素人論と言うことになる。

質量 最後に質量について考えを述べよう。質量とは何か?質量とは?結論を言えば、空間に存在するエネルギーが局所化して、質量になる。光のようなエネルギーがどのような経過で、質量化するかと言う点が大きな問題である。その基本になる拠り所として、エネルギーの局所空間に渦巻状で停滞すると考える。Binding Energyその様子を図案化してみた。原子、分子の空間構造物の中に取り込まれるには、先ずエネルギーの軸性回転状になると解釈した。原子間の結合も、電子同士の結合では、結合力の理屈が成り立たない。原子表面の磁極間の結合と解釈している。その結合力をバインディングエネルギーと表現した。この用語は元々原子核エネルギーの質量欠損の話に使われている用語である。そこでは、質量と『結合エネルギー』を等価的に捉えた解釈を取り入れている。その解釈は大変有用と思う。磁気が空間内のエネルギー回転流と解釈した事から、論理的に繋がって素直に受け容れ易いものと思う。原子結合力も、エネルギーが原子空間表面に吸収される状況が、エネルギー回転流で収まると睨んだ。

質量とエネルギーの等価則 エネルギーも質量も表面上の形態の違いから、全く異質のものと解釈され易いが、その間には何も差が無いのである。エネルギーはそのまま質量である。ファイルにまとめてみた。質量とエネルギーの等価則

以上で、エネルギー・空間・質量の関係についての解釈は出来たと思う。

エネルギー(energy)とは?

一粒の砂』 今日古い紙に書き記した『詩』を見つけた。その詩には、何処か東洋的な匂いがする。カレンダーの裏に書き記してあった。久しぶりにその詩を筆にしてみた。検索で調べると、イギリスの詩人・画家と有る。名前はウイリアム・ブレイクで、有名な詩であった。

一粒の砂に 世界を見 野の花に 宇宙を見る 手のひらに 無限を知り 一瞬に永遠を知る。

何かこの詩には計り知れない謎めいた意味が込められていると感じるらしく、意味を質問する人がいるようだ。私が気に入ったのも、その意味である。この詩文の意味を理解するに参考に成るかもしれない。その私の一夏の経験を記した記事がある。『眼から鱗が落ちる』と言う言葉がある。それはそれまで想像できなかった世界の神秘に触れる時であろう。そんな経験である。自然は愛響ー揚羽蝶ー がその1つである。また、最大の巡り合せは「雨蛙」であろう。そんな事や、物理学理論、特殊相対性理論等の矛盾に遭遇した事等、精神に驚愕を覚える事があるという経験。そんな点で、その詩文は私が思う世界観に極めて近いものを感じたから、書き記して置いたのである。私の感覚では、物理学理論の根源を支える未来像が『エネルギー』に集約されると言う直覚的感覚で捉えたからである。今まで、このブログにも『エネルギーで観る世界ー・・・-』と言う標題で記して来た。最初が、エネルギーで観る世界ー序論ー で始まった。人類発祥の1つはインドを含めた東南アジアの複雑な島の海と陸の関わりと私は見ている。一方西洋文明はギリシャなどの地中海の海と陸も人類発祥にも関わるかと思っている。東洋哲学は物の根源に迫るに『そぎ落とし』の感覚が基にあるように思う。西洋哲学は現代科学理論の示すように、新たな概念による『積み重ね』の感覚が基本に成っていると感じる。しかし私が東洋的な匂いを感じたことは、上のWilliam Blake の詩と同時に、やはりイギリスの哲学者で、数学者のバートランド・ラッセル卿の言葉がある。『世界はエネルギーに集約されるだろう・・』と言うような物理学への捉え方を示していた。私が『静電界は磁界を伴う』と言う電気磁気学理論の世界に疑義を提起したのは、正しく『エネルギー』への世界の統一に踏み込んだ事に成る。やはり西洋にも東洋哲学と同一の思想が根底に流れていると見るべきであろう。『一粒の砂』の詩文はまさに私が感じる『東洋哲学的世界観』を表現したものと言えよう。『電荷』概念に固執する世界観では自然の世界の深い営みや魅力には到達できないだろうと思う。そのような世界の不思議の魅力に取りつかれる一瞬が、人に遣って来る事を表現したものと思う。それには『条件』があろう。自然の問いかけを素直に受け入れられるかどうかは、問掛けられたその人の心・精神状態が自然の世界に同化して、雑念から解放されている必要があろう。私はそれを「素心」の状態と言う。在るがままを見つめて、自然と心を通い合わせる『天真爛漫』な子供のような心根が欲しい。人は欲に支配される。天真爛漫は難しい。そんなところに『悟り』の意味があるのだろうかと?『エネルギー』とは何かを何も述べずに来た。何時か追加しようと思う。

自然はエネルギーの種々相 エネルギーとは何かを述べよう。端的に定義すれば、『エネルギーとはそれ以上分解できない物理量-(2018/07/27追記)。この“それ以上分解できない”という意味は、光を含め空間に存在するエネルギーをそれ以上の構成要素(素粒子など)には分解できないという意味である-であると言える。学問としては自然科学の対象である。哲学では『般若心経』の色即是空の『色』に当たろう。しかし、私が思うエネルギーの実相は、自然世界そのものがエネルギーの種々相として表れているその根源が『エネルギー』であると解釈している。即ち自然はエネルギーの具現像である。エネルギーは空間で本領を発揮する。自然科学の本質を捉える根本に『エネルギーの実在性』を意識して欲しい。物理学理論は膨大な分野から成り立ち、それぞれが専門領域に分かれて、全体を纏めて見渡すことが困難に成っている。それでは、一般市民がその自然科学にコメントする事も、理解する事も出来ない。市民的迫り方の基本は『エネルギー』と言う世界の真の実在量に着目して、それぞれの専門分野を意識することが重要であり、有効である。物理学理論は、小学校から大学まで、『エネルギー』そのものの実在性を認識できない処を漂っているのが実態である。エネルギーは質量が無いと論理に乗せられないのである。量子力学と言う学問領域でも、光放射現象一つをとっても、原子の外殻軌道を回る電子の質量が運動エネルギーの増減で起きる現象などと解釈している。位置エネルギーも質量が無ければどうにも理論が成り立たない。世界は唯一のエネルギーの実相の空間であり、『質量』もエネルギーが局所的に集約された姿である。だから、アインシュタインの知見として有名な『質量はエネルギーである』と言う事なのである。E=mc^2^と言う式で簡潔に表されている。これは光は吸収されて、エネルギー保存則に従い、質量に成るのである。『エネルギーと質量は等価である』今までいろいろな形で表現して来たエネルギーに関するいくつかを纏めて、例示しておく。エネルギー[J(ジュール)]とJHFM単位系エネルギーで見る世界ー津波ーエネルギーで観る世界ー素粒子ー 。経済成長はエネルギー多消費世界である。エネルギーで観る世界ー地球の生命ー。にその警告を示した。