タグ別アーカイブ: Energy

Energy is element of all the world. あらゆる素粒子もその根源的本質はすべてエネルギー一つから成り立つ。

ペルチエ効果と熱エネルギー

(2020/11/19) ペルチエ効果。

ペルチエ効果を使う熱電素子の構造は図の(1)のような説明で示される。N型半導体とP型半導体を銅などの板で組み合わせて構成される。そこに電圧を加えると、吸熱面と放熱面が生まれる。吸熱面の空気から熱エネルギーが金属板に吸収される。その作用を使って除湿器が造られる。空気からと言うのはその水蒸気が保有する熱エネルギーを吸収することだ。水蒸気は熱エネルギーで水が体積膨張した状態である。吸熱面で熱エネルギーが奪われれば、水蒸気は体積収縮して水になる。それが除湿機の機能原理だ。それはペルチエ効果の説明のように実際の技術として機能している。しかし、何故n型半導体‐銅‐p型半導体の方向に電圧を掛けると銅で吸熱現象が起きるかの原理が理解できない。そこで、(2)図のように、n型半導体を銅版で挟んで電圧を掛けても、吸熱と放熱が起きるのか?予測では、実験すれば吸熱、放熱は起きる筈だ。起きなければ、原理の意味が成り立たない。これはn型でもp型でも同じ筈だ。p型では吸熱、放熱の反応極性が逆にはなるが。

除湿機能と降雨現象。空気中の水蒸気から熱エネルギーを奪えば、水蒸気は水に成って、体積収縮を起こす。気象で地上の低気圧も、上層気流の冷気で地上からの水蒸気が体積収縮を起こすから、空気の水蒸気が上空に吸い上げられ、その結果低気圧となる。水蒸気の熱が上層気流に奪われ、水蒸気が体積収縮を起こす結果、雨となって降り注ぐ。除湿器の機能も自然現象としてみれば、降雨現象と同じものである。その吸熱現象がペルチエ効果ではどのような原理で起きるかの問題と考える。電気回路現象は電子が主役を演じる解釈理論となっている。電子がどのような役割を担っているかを詳らかにするのが科学論の目的だ。降雨現象には電子は不向きだ。その違いの訳が説明できるか?という設問となる。この上層空気がより冷気が強ければ、遂には氷となり雪になる。地上と上空の温度差が急激に大きくなれば、熱エネルギーが空間のチリなどに蓄積され、その熱放射、熱爆発の「雷」となる-雷は熱爆発 (2014/05/23) -。

思考回路。

ペルチエ効果の意味を考えてみよう。図(3)はダイオードに電圧を逆方向に掛けた。これでは回路は on 出来ないから、off である。図(4)はn型とp型の間に銅板を挟んだ。この構造はペルチエ素子の構造と同じだ。原理から考えれば、やはり吸熱と放熱現象が起きる筈だ。銅板を挟むとダイオードのoff機能は消えてonするという意味になる。この構造でもペルチエ効果が表れる訳を説明できなければならない。さてどう解釈するか?

電子と熱電効果の原理。

電源は決して電子を回路内を循環させる訳ではない。現在も、電子が主役の量子力学が半導体動作原理の解釈理論となっている。もし、電子が電気回路の機能を担うとすれば、電子が電流の逆向きに流れると解釈する限り、無理して『電荷』がその役割を担うと考えざるを得ない筈だ。電子の『質量』では無かろう。しかし、『電荷』が電気回路内を循環する具体的役割を、誰をも納得させるだけの論理性で示し得ないだろう。電子が『エネルギー』の伝送に役割を果たし得るか?電子が『エネルギー』を電源の負側からどのような状態で電気回路に運び出すのか?The electron did not exist in the world. (2020/05/15) 。にも述べた。電子の電荷と質量の空間像が定義できなければ、電子の熱エネルギーに対する機能も述べられない筈だ。電源は、電圧をその規定する値にするため、その繋がる回路の回路定数に対する『エネルギー』の放出源なのである。放出電子の数を調整する機能など電源には無い。電源は電子など制御対象にできないし、無用である。

電源と熱エネルギー。

電源は負側の電極電線路近傍空間を通して『エネルギー』を放出する。この電気エネルギーと熱エネルギーに違いがある訳ではないのだ。熱エネルギーは輻射熱として放出される。所謂赤外線と言う分類の光と見做せよう。可視光線に比べて、何か速度が鈍いような長波長成分と言う物のように感覚的に感じる。しかし電力波と比べれば波長は光に近い筈だが、衣服等に吸収された熱量値しての状況は何か粘性の強いエネルギーに思える。その熱が高密度に貯蔵されれば、遂にはより作用性の強い放射光となる。熱電現象は電気エネルギーと熱エネルギーの間の相互作用の変換現象と解釈する。とは言っても電気エネルギーと熱エネルギーは基本的に空間に実在する同じ『エネルギー』であることに変わりはなく、電池から電線路を通して負荷抵抗の空間構造に閉じ込められれば熱と言う人の解釈になる。

半導体の不思議。

トランジスタのスイッチング機能は技術の結晶に思える。しかしそのコレクタ側はダイオードの逆極性導通としか見えない。そこは吸熱特性を呈する。ダイオード電圧 (2020/08/26)。

 

 

導体と空間とエネルギー

(2020/11/07)エネルギーギャップ。
電磁気現象は『エネルギー』の動態を捉えて、その世界が観えるようだ。決して『電子』ではその真相は観えないだろう。
空間に在る『エネルギー』の姿を決めるのは、その空間構造を規定する金属導体と観ることも出来よう。その見方を纏めてみた。
電圧とエネルギーギャップ。


エネルギーギャップ。

少しづつ電気現象における『エネルギー』の姿が観えてきた。それらを繋げて行くと、すべての現象が金属導体とその近傍に関わる『エネルギー』の姿である。近接した導体が有れば、その間の空間にエネルギーが分布する。その分布の姿は、必ず不均一である。と解釈する。その様子を上の図に示した。コンデンサもコイルもその導体の間に不均一に『エネルギー』が分布する。その不均一分布を『エネルギーギャップ』と唱えたい。それはダイオードのp型と n型間に存在する不均一エネルギー分布との解釈と同じとみる。ダイオードはその『エネルギーギャップ』によって導通「オフ」状態となっている。n型側に『エネルギー』を加えれば、ダイオード「オン」となる。そのように基本的に空間構造体内に『エネルギー』が存在する姿は不均一である。その『エネルギーギャップ』が電気回路の回路定数、特に容量C[F/m]との関係で端子電圧V[V]となる。

『エネルギー』と光と空間定数。上の捉え方が誘電率εo[F/m]および透磁率μo[H/m]と光伝播現象との関係の哲学的考察につながるだろう。 

電磁誘導現象の真相

ファラディーの法則(2020/10/24)。それは19世紀初めに唱えられたアンペア―の法則と共に電気現象の不思議を解き明かす基本法則である。電気回路現象の解釈の要となる概念が『電流』と『磁束』であろう。ファラディーの法則で、『磁束』がその主要概念となる。しかしよく考えると、コイルに磁束が鎖交すると何故コイルに起電力が発生するかの理由が分からない。金属導体のコイルと磁束の間の物理現象はどの様なものか。『磁束』とは一体どのような空間的物理量か。「科学技術概念の世界」を書きながら、さきにこの記事を投稿する。

磁束が自然世界にある訳ではない。人が電磁誘導現象の訳を解釈するために仮想的に決めた概念である。『電圧』とは何か?と同じように『磁束』の意味も分からないのである。磁石のN極側から空間に放射する線束として解釈して居よう。空間に線束とはいったい何だろうか。磁束や磁界と言う解釈概念は、本当はそのN極およびS極の周りをエネルギーが回転している空間現象なのだ。その様子を図の磁束φの先端に記した。N極側から見て、時計方向に回るエネルギー流なのだ。コイルの端子電圧Vはコイル1ターン毎の単位電圧vuの加算の電圧となる。丁度乾電池を積み重ねたと同じことになる。

コイルはコンデンサである。電線を二本平衡に張ればその間にはコンデンサが構成される。電線間の離隔距離と電線の形状・寸法でコンデンサ容量は変わる。コイルはその電線の間にはやはりコンデンサが構成されていると考えて良い筈だ。コイルの端子電圧の意味を少し深く考えれば、そのコイル電線間のコンデンサ容量と、そのギャップ間の貯蔵エネルギーとの関係を見直せば、新しい電圧の概念で統一的に捉えられると考えた。コイル巻き線間の間のエネルギー量をδ[J/1turn]とすれば、1turnコイルの電圧vuは図のように認識できる。丁度1turnの電圧を巻き数n倍すれば、コイル端子電圧Vとなる。

変圧器と『エネルギー』反射現象。

先に電気回路は直流も高周波も同じ電磁現象の基にあると述べた。変圧器は電気回路の中でも少し異なった、電力工学の捉え方が中心になって認識されているようだ。物理学の変圧器の解釈は励磁電流による磁束発生がその根本原理となっている。もう励磁電流などと言う解釈は過去の遺物概念と破棄しなければならない時にある。そこで更に先に進むには、変圧器も電線路に繋がれた一つの負荷でしかないと考えざるを得ない。其処では負荷と電線路特性との負荷整合の統一的解釈にまとめなければならない。変圧器での電源間とのエネルギー反射現象をどの様な認識で捉えるべきか。空芯であればすぐ短絡現象になる。鉄心がある事で、技術概念の『磁束飽和』に至らずに短絡せずに済む。それは鉄心へのエネルギー入射が時間的に長くかかり、鉄心でのエネルギー反射が巻き線空間を通して電源側に起きるからと考える。後に、追記で図によって示したい。ひとまず基本的な真相だけを述べた。

 

 

新電磁気学の事始め

電気磁気学への希望 (2020/09/14)。それは大きな代償を払わなければ難しい。困難の原因は現在のあらゆる科学理論の拠り所たる『電荷』概念の否定しかないから。

教育。 教育基本法(原)(昭和22年3月31日)の前文。

われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。                   われらは個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造を目指す教育を徹底しなければならない。

この教育の基本方針によって、真理を希求する人間の育成を期するためにも、過去の科学理論の矛盾を勇気をもって排除する以外に、未来への希望は無いものと覚悟すべきである。

第一の要諦。

決して電荷は自然界に存在しない。従って、「電荷間に生じる力」なる表現は論理的な矛盾を含み、使ってはいけない。「クーロンの法則」は間違った法則であった。それを教科書から排除してこそ未来の教育が始まる。記事の右上の検索で、クーロン力で検索すると過去の幾つかの記事が現れる。不可解な電荷 (2019/5/26) もその一つ。それは『電子』なる概念も否定されることになる。この主張は所謂「不協和音」(9月7日の新潟日報座標軸の記事を見て知った欅坂46の歌詞を見て、弱気になった。)になる。原子構造論の否定にもなるから。恐ろしい結果になる事、即ち教科書の電子論を否定する事が、また高分子結合の水素結合とは何か?の極めにもつながる事だから。すべてが軸性エネルギー流(Axial energy flow)の磁気結合につながる予測を生むから。『エネルギー』一つの基礎概念にまとまるから。

子供達への教育は、子供たちが余裕をもって日常生活が送れるように、少ない内容の広く応用につながる大事な基礎に重点を置くことに勤めなければならない。

『エネルギー』の意味を考えて欲しい。

 

 

科学論の土俵は

科学論の対象範囲は無限の広がりになっている(2020/08/31)。科学論を戦わし、勝者と敗者がわかる土俵は無いのか。生活の夢はどのような土俵で勝ち取ればよいのか。

科学論は基本的に科学者の組織に所属して、その所属機関の一員、科学研究者として生活資金の保障の下で研究が可能である。その上で研究内容の発表を通して、その科学者としての評価が社会的に成される。その研究論文はそれぞれの研究分野ごとに異なる学術機関誌上に、その研究部門の専門の査読者によって吟味され、価値あると評価されて発表されるものと理解している。それが科学論の土俵であろう。科学者が競う科学論には、その特殊性によって土俵が限られたことになる様である。特殊という意味は、そこで論じられる内容が普通の市民にとっては余りにも限られた概念や意味の用語で語られるため、全く関わり得ないものである。特に現代科学論は狭い専門領域によって分野別に仕切られてしまった。それぞれの科学研究者は厳しい競争社会の中で、その専門的研究に専念して、それぞれの土俵上で格闘されている。

スポーツにはその技量を競う土俵がある。科学研究と異なる一般社会に開かれた市民生活の場では、日常的に様々な土俵がある。みんな生活と夢とを結びつける土俵であろう。

教育あるいは理科教育の土俵。理科と言う教科は自然世界を科学的に捉えて、その基礎教育によって培われた科学的知識や感性を、後に社会生活の上で科学者に成るばかりでなく、あらゆる場面で的確な自然現象の解釈に生かす能力として重要である。さて、そこで気掛かりな事がある。それは科学研究の現代的姿が全く教育とかけ離れてしまったことである。学校教育で取り上げられる理科教育内容と最先端の科学研究内容との間の隔たりが極めて大きく、矛盾を孕んだままに放置されている事である。昔の「ロウソクの科学」のようなファラディーの話の時代との隔世の感がある。その原因は何に在るのだろうか。生命の科学、医学生理学のような研究分野はとても複雑で高度の専門的であり乍ら、その基礎となる理科教育については何も殆ど疑問もなく、現状の基礎概念がそのまま科学常識として是認されている。高度な専門分野の研究者は、その最先端の研究に心血を注ぐが故に、学校教育の基礎、物理学の基礎などを考える余裕などない。では、物理学科の教育の専門家がその基礎の概念を研究対象として疑問を拾い上げるかと思っても、殆どそのような事はしない。原子構造が原子核とその周りを周回する電子で構成されているとの古典的認識(誰も古典的とは考えない)で、少しも違和感を持たないように思う。『電荷』概念とクーロンの法則の間の論理的矛盾など少しも問題にしない。それは何故なんだろうか。同じ『電荷』同士は反発して、近付かない筈だ。しかしコンデンサの充電現象は『正電荷』同士、『負電荷』同士が集合、密接する事に矛盾も感じない。その思考の有り方を一体どのように、科学論の論理性と言う観点から捉えれば良いのかと考え込まざるを得ない。

日本政府(文部科学省)の教科書検定制度。社会的仕組みの問題としても考えなければならないような気がする。『電荷』に関して以下に述べる。

『電荷』否定論。ブログで一般市民も理解できるかと、電気回路現象や基礎的物理論の矛盾を取り上げて論じてきた。既に10年は過ぎた。しかし、ブログ記事に対して、専門家が批判を寄せる事はない。少なくとも『電荷』や『電子』で物理現象を大学講義でなさって居られる方が多いにも拘らず、反論も期待したが全く無い。ブログでの記事はそれを期待したが、やはり科学論を戦わす土俵としては期待外れの無駄であったかと、誠に残念である。情報の溢れるインターネットの場に、そこに土俵が在るかとの期待でもあったが。教科書の内容と言う、誠に基礎的な事であれば、一般の市民が質問できる場として有効な土俵と考えた。やはり『電荷』に関する公開の場での討論会が在れば、開かれた科学論となるとの期待を持っている。そんな機会に壇上で参加したい。新しい『パラダイム』に向けて。

教育とオームの法則

オームの法則(2020/09/05)。

電気の学習で最初に学習するのは『オームの法則』ではなかろうか。電気回路の電圧と電流と言う電気の基礎を学習するものである。懐中電灯は誰でも家庭に備え付けられていて、手に取って見る事が出来るだろう。その電気回路は最も基本の電池とランプの回路だ。その回路の意味を教える理科での指導法を述べたい。

自然の本質・真理を教えることを主眼に。本筋を易しく教える。その後に技術法則の意味や使い方を教える。それが大事だ。

最初から電圧や電流などの言葉を教えるべきでない。そんな難しい概念が理解できる訳はないから。その意味を教えようとするなら、そこには必ず曖昧な解釈が入る。『電子』などこの自然の世界には存在しないのだから。

学校教育。学校で教えるとすれば、電池と豆電球を電線でつなぐ。するとランプが点灯して光る。その訳を教えるとき、電池のプラス端子から電流が流れ出て、豆電球に流れて、電球が明るく光ると教るだろう。その教え方が間違っているとは言えない。それは正しいのだ。その先に疑問が沸き、何故かと考えるかも知れない。そこでパソコンや携帯端末でインターネットから学習しようとすると、本当は『電子』が電流の逆に流れていると解説されている事に戸惑うことになるだろう。学校教育は教科書によって教える。その教科書の内容や教え方は文部科学省と言う政府機関で細かく決められて、その『学習指導要領』の指導指針で厳格に決められて、勝手な指導は出来ないことになっている。教師の教育指導法に自由が許されない仕組みだ。

オームの法則の学習指導法の理想。

学校教育の内容とは違うが、電気回路現象は教科書のような解説では本当のことは理解できないのだ。兎角数式で解くと程度の高い理解に結びつくと考えるのではなかろうか。本当はそうでは無いのだ。数式は確かに高度な科学技術を理解するにはとても有効で、便利ではある。しかし、その数式で解いたからと言って、懐中電灯の電気現象が理解できる訳ではないのだ。何処までも何か納得できないで疑問が残るかも知れない。しかし今まで誰もがその疑問に真剣に向き合ってこなかったのではなかろうか。何処かで、電流が流れる事で分かったことにして置こう。それが科学技術社会での常識の世界で社会に役立てる道であるから。と決まる。『オームの法則の真相』は電気現象の自然現象を理解しなければ分からないのだ。言葉で述べて説明できなければ、本当の電気現象の真相を知ることはできないのだ。それは誰もが簡単に理解できることだと思う。その真相を説明したい。

上の図はその電気回路の真相の説明用の図である。電線の中を電流や『電子』が流れる訳ではないのだ。しかしオームの法則によれば、流れる電流は

I=E ÷ R [A]

と簡単に数式によって算出できる。その値は電流計で測る値と等しい結果になる。それだけで、オームの法則が如何に優れた科学技術法則かが分かるだろう。それなのに、その計算に依て理解することは、この電気回路の本当の自然現象を理解したことには成らないのだ。電線の中など何も流れてはいないのだ。流れるのは、電線で囲まれた空間内の『エネルギー』しかないのだ。それも光の速度で瞬間に流れるのだ。電気信号が伝わる速度は光速度だと昔から分かっていた。『電子』が電線の中を光速度で流れられる訳などないのだ。それなのに、何故か『電子』が電線の中を流れると解釈するだけで、信号が光速度で伝播する事との関係を突き詰めて考えようとして来なかったのではないか。電気回路の電線で囲まれた空間を光やスマホの電波と同じく、光速度で流れる『エネルギー』なのだ。図のように、それも電線の負側の近くの空間に多く流れる現象なのだ。電線の正の側は『エネルギー』の伝送空間を規定するだけに近い役割と見做せるだろう。あくまでも自然現象には『電子』や『電荷』は全く存在しないのが、その真相である。だからと言って、その空間の『エネルギー』の流れを測定するなど不可能な事である。見る事も測ることも出来ない物理量『エネルギー』が自然世界を支配している現実世界なのだ。この事は数式など計算しなくても、誰でも基本として認識すべき真相なのだ。その上でこそ『オームの法則』が如何に優れた科学技術法則であるかが理解できる筈なのだ。空間を流れる『エネルギー』を電流計と電圧計で計測する技術を完成させた事の意味をよく理解しなければならないのだ。それは素晴らしい人類の科学技術として完成するまでの努力の結晶なのだ。空間に流れる目に観えない、測れない『エネルギー』を電圧と電流と言う二つの計測器によって測れるようにしたのだ。これほど簡便な量的理解ができる法はないのだ。電流計や電圧計が如何に優れた科学技術の成果であり、文化であるか。それを理解することが、理科教育の本筋でなければならない。

電気回路はすべて『エネルギー』が空間を流れる現象である事を理解することである。それが全ての科学理論の理解の基礎となるのだ。これは科学や理科の教育で、すべての方に理解してほしい基本と思う。広い科学の分野で、その分野ごとに独特の概念が使われるが、それはそれで専門分野ごとに違っても良いだろう。しかし学校教育の基礎で、余りにも複雑な科学技術概念をそのまま教える事は、子供たちの自主性と創造性を損なう意味で考え直して欲しい。しかも結局理解できないモヤモヤの気分を後に残す。そして多くの細かいことを記憶させる膨大な内容によって子供たちの折角の豊かな感性と日常生活のゆとりを損なうことになる。

〈問題〉。上の回路で、負荷が要求する『エネルギー』を電源はどのように判断するか?もちろん電池に認知機能などない筈だ。電池が送り出す『エネルギー』はどのように決まるか?

「答」。電源は『負荷』のことなど一切関わりない。何も知らなくても自然の摂理でそのままの『エネルギー』の量が決まる。その意味を考えてください。計算式では答えに辿り着けない。

ダイオード電圧

半導体の世界(2020/08/26)。第二次世界大戦後に半導体に関する世界が始まったのかも知れない。今の情報化社会を支えている基本技術は半導体製品に負っている。p 型半導体とn型半導体の接触面に不思議な世界が繰り広げられているようだ。

p n junction と『エネルギー』

p 型半導体とn 型半導体を接触させると、その接触面に不思議な世界が現れる。その基本となる製品の代表がダイオードであろう。トランジスタに成れば、npn等と接合面が二つになり、さらに不思議な世界を創り出す。電気回路に組み込めば、回路を切ったり、繋いだりするスイッチの機能を発揮する。

エネルギーギャップ。物質はそれぞれ特有の保有エネルギーを持っている。その保有エネルギーの外界作用性を物質の特性として発揮すると解釈する。例えば「イオン化傾向」と言う物質の外部作用性の強さの違いもその評価法の一つであろう。半導体の接合面に現れる特徴がそのエネルギーの持つ作用性と考えられよう。p 型半導体がn 型半導体より内部保有エネルギーが多く、接合面に『エネルギーギャップ』を生じる。その接合面の『エネルギーギャップ』がスイッチオフを起こす。スイッチが『オフ』とは電気回路の『エネルギー』を伝送する空間が構成されない、即ち伝送空間が途切れた状態である。導線の中を流れるものが何も無いのに、僅かにその導線が切れただけで『エネルギー』の伝送空間が失われるのも不思議である。その導線切断と同じ機能を、半導体の接合面の『エネルギーギャップ』の存在が果たし、回路遮断の原因となる。その回路遮断を除去するには、n 型半導体に外部から『エネルギー』を供給してその『エネルギーギャップ』を解消すれば伝送回路空間が構成され『オン』と言う状態になる。即ち回路導線の中に『エネルギーギャップ』の部分が無ければ、伝送空間が構成される。図では、『エネルギーギャップ』の電圧 V_off_で表した。接合面のコンデンサ容量 Co [F] とすれば、そこのエネルギー量が Co× V_off_^2^[J] であるという意味で解釈して良かろう。

ダイオードドロップ V 。ダイオードがオンの時、電圧降下が生じる。0.6~0.7 [V] 程度の電圧のようだ。その電圧分に相当するだけ、 n 型半導体側の『エネルギー』が多い状態になっているという事である。(『電圧』と言う技術量は電位の低い側が『エネルギー』の多い分布状態を評価する概念である)。その時、ダイオードはオンとなり、回路の『エネルギー』伝送可能な空間が構成されるという意味と解釈する。ただこのダイオードがオンの時の電圧降下 V は接合面のオフの『エネルギーギャップ』とは異なる意味と解釈したい。ダイオードオンのための消費エネルギーに関わる電圧と理解する。

過去の記事を辿っての道のりであった。

ダイオードの機能 (2016/09/17) 。謎(pn接合は何故エネルギーギャップ空間か) (2017/05/18) 。

観自在菩薩

魔訶般若波羅蜜多心経の最初の五文字である。それは経文全体の本源となるべき最も大切な意味が込められていると観る。ここに述べる事は、全く門外漢の解釈であり、一般の解釈とは相容れないものであることを先にお断りしておきたい。

この心経と言う経文全体が漢字の羅列に思えるほど、内容を理解することなど筆者には土台無理な事である。だがしかし、一つだけ『色即是空。空即是色。』の意味については筆者にも強く共感できる思いがある。それは物理学理論の欠陥を指摘していると思われる深い自然界の実相を洞察した真理の標言と考える点である。それが空間の『エネルギー』である。

『質量』は『色』の一つである。それはよく見える世界の姿である。その『質量』が光となって空間に放射されると、その光の『エネルギー』を見ることも測ることも出来ない『空』となる。物理学理論の対象とできない実験的検証不可能の自然世界の実相が『空』の『エネルギー』と理解した。

大昔、理論など何もなく、ただ自然の事象を己の心に照らし合わせて、納得できる結果として辿り着いた悟りの言葉と解釈したい。心経の言葉としてまとめられる迄には長い伝承を通して受け継がれ、その結実の花となった東洋思想と理解したい。

経文の漢字で気掛かりが二つある。

一つ目は『波羅蜜』の『蜜』の字である。これは『密』の字の間違いではないか。真言宗でもある密教の『密』の字の筈だ。なんで心経の中に甘い蜂蜜の『蜜』の字が入るのか、それは場違いだ。

二つ目は最後の『ギャー諦ギャー諦』の『ギャー』の漢字(変換されない)は無意味である。『諦』の字義はとても深い意味を持っていて、不明な事柄や事象を分かる様に明らかにするという意味である。諦観などと使う。経文の最後のまとめとして、『掲諦』の文字によって、明らかになった道標を掲げて、みんなで前に進みましょう。という意味と解釈する。それが経文の最後の言葉に相応しかろうと。

さてそこで、『観自在菩薩』の意味はどの様なものと考えるかである。その意味として、これは『菩薩様がこう述べた』などの意味では全く納得できない。『禪』の根本原理は民主主義と解釈する。権威によって自由を妨げる事はしない筈。権威を作らない。全体主義を嫌う。その禅的な捉え方からすれば、菩薩様とはならない筈だ。これから述べる筆者の解釈はとても今までの標準的な論説とは全く異なり、常識外れであろう。『自在』と言う用語は自在鉤等、囲炉裏の鍋を自由に上げ下げできる吊り具を言うことから「自由に」と言う意味を込めて使われる。それが一般的かと思う。しかし、それでは大切な生きる指針を伝える『心経』の冒頭言としての『自在』の意味としては無意味に思える。『菩薩』は『菩提薩埵』の『菩提』と『薩埵(サッタ)』を合わせた言葉とも採られているようでそちらを採りたい。『菩提樹』などと使われる『菩提』は迷いから目覚めること。悟りの智慧等と解説される。『薩埵』は衆生と言う悟りに至らない人の意味かと考える。このように考えた時、「観自在菩薩」の意味は最後の⦅掲諦⦆と合わせて、『物事の本質を己の中に観つけるように進んでゆきましょう。』位の意味と勝手な解釈をしたい。

『波羅多』の意味を自然は災害の波も、また柔らかい絹織物の穏やかさ「羅」も多い。とまた勝手な解釈をしたい。だから「三密」ではないが『密』の漢字を当てたい。

Electrons for the battery.(不可解?)

(2020/08/05)不可解なり。ダッシュボードで記事を更新した。記事を確認すると側面に『フォローマーク』が表示される。筆者が投稿したと見做されていない。幽霊記事か?この記事は何故、「カテゴリー」と「タグ」が無いのか?

下の図は電池における電子の役割を問う (2018/05/24) の図を書き換えた。

 

電池とエネルギー

電池は『エネルギー』を貯え、便利にその『エネルギー』を使うための科学技術の貴重な成果の製品だ。決して存在しない『電子』などを貯えるものではない。『エネルギー』とはどの様な特性を持った物理的実体か?と考える。見えなくて測れないものだから、その『エネルギー』の動特性を探ることも出来ない。どうすれば、『エネルギー』の空間特性を理解できるかが電池の物理的現象を知る要点であろう。

電池とエネルギーの関係。

電池の内部で『エネルギー』がどの様に貯蔵され、それがどのような条件で電池内部から解放されて電気回路空間に放出されるか。その現象を『電子』なしに『エネルギー』の物理的特性として解釈する必要が有る。電池から送出された『エネルギー』は決して電源に戻る必要はない。負荷に供給されて、それで電池の役割は完了する。『電子』のような概念では、再び電源に戻る無意味な解釈が繰り広げられる。無意味とは何故に負荷を『電子』が通過する必要が有るのか。負荷に『エネルギー』を『電子』がどの様な物理現象として届けることになるのか。何故に『電子』が保有した『エネルギー』を負荷に届けて、その『エネルギー』分だけ欠乏した状態の、異なる『電子』が電源に戻る必要が有るのか。『エネルギー保存則』の意味を忘れないで欲しい。『電子』が負荷を通過しただけで、負荷で『エネルギー』を発生できる訳はない筈だ。無から『エネルギー』は生まれないのだ。電池における電子の役割を問う (2018/05/24) で矛盾の解説に使ったのが下図である。

Fig.1. の図の意味。普通の電池記号と異なる図で表現した。単純に電池の意味を表現すれば、陰極の電極金属で『エネルギー』源のエネルギー貯蔵物質を包み込み、そこから『エネルギー』の無い陰極側に放出され、負側電線路を通して負荷に供給される絵図で捉える。電池の陽極電極および充填物質は所謂電位としては同一にある。充填剤に貯蔵された『エネルギー』はその内部では『エネルギー』として存在している訳ではない。しかし陰極金属体との間には『エネルギーギャップ』が存在する。陰極のエネルギーレベルが充填剤より低い。その接触ギャップで、自動的に充填剤の内部から空間構造変換として『エネルギー』が陰極側に放出される。それは同時に電線路が繋がれているば、その回路空間に対してもそのギャップを埋めるために『エネルギー』が放出される。だから電池内部に見える形で『エネルギー』が貯まっている訳ではない。充填剤の分子的な構造変化として含まれているだけで、結局は質量開放として『エネルギー』の放射になるだけである。

電池の物理現象と科学論。電池の『エネルギー』を観測することも計測することも出来ない。ましてや『電子』の数量を計ることなどもっと困難である。仮想概念で、実在しない物は計れないから。それでは、電池内の『エネルギー』は在るかと言われればそれも無いと言わざるを得ない。『エネルギー』は忍者じゃないが、分子構造の中の質量となって貯えられているとなれば、それは空間分布の『エネルギー』として存在する物にはならないから無いとなる。質量と『エネルギー』に変換し合う物理量は科学論で測り様が無い物だ。自然世界は余りにも純粋過ぎて、物質論の理論の計測手法に馴染まない物かも知れない。分子構造から解放される『エネルギー』が科学論で解明されることを祈る。

関連記事。独楽の心 (2019/01/05) 。熱の物理 (2019/02/07) 。