タグ別アーカイブ: Elementary particle

素粒子ーその実相ー

素粒子とは何か? この素粒子の実像をどのように描き得るかを考えて来た。自然世界を統べる基礎は『エネルギー』一つである。その基本認識から得た素粒子の描像が右の図である。図の陽子の軸はエネルギー流に対して、矢印方向に磁極のS極があると解釈して頂きたい。その磁極は磁石の磁力を考える方向性である。磁極の意味は、S極とN極間に働く吸引力であり、同磁極間に働く反発力となる力の基である。この描像は、エネルギー流一つの単純性から、あらゆる現象の基に成ると予想される点が魅力的である。『原子核結合』の様子も予測できましょう。『湯川理論』での中間子論は、やはり電荷の有る(陽子)、無し(中性子)から解釈されて産まれた概念でもある事を考えれば、中性子と陽子の結合をエネルギー流の近接作用から考察することがより無理のない解釈に繋がろうと思う。天気図の「高圧」と『低圧』が対を成すように回転エネルギー流の近接作用で納得し易かろう。

電気磁気学の基礎概念『電荷』を否定した。全ての物理学理論の根底から、その裏付けが失われたと考える。あらゆる物理学の基礎を書き換えなければならないと考える。現時点で、今までの様々な考察を通して、益々物理学の基礎概念が、その根底から『嘘』で固められていると思わざるを得なくなった。特に現代物理学の最先端研究で、素粒子論や宇宙論が話題になっている。全てが複雑な新しい概念像を書き加える論に成っているようだ。そんなに自然は人間が考える程複雑性にその基本を置いていないと思う。現代物理学理論と正反対の考え方で、自然を認識したいと強く思う。その結論としての「エネルギー流」ただ一つから矛盾なく認識出来るだろうと結論付けた「素粒子描像」を提示した。

原子核構造論 提示した素粒子像から、原子核構造も自ずからその形が想像される。エネルギー流の局所化された素粒子同士が接近すればそのエネルギー流の間に起こる相互作用に、近接化の吸引力と反発化の排力とが生まれる事は予想が付く。ここには、『遠隔作用力』という物理学理論の『力概念』をも否定する、私の持論が根底にあって求めて来た方向性の『近接作用力』への結論でもある。太陽系の宇宙論にもそのエネルギー回転流が基本に秘められているとの展望に立っての結論でもある。昭和62年の電気学会、電磁界研究会での講演原稿が大変な顰蹙(ヒンシュク)を買った事は記憶している(所属なしで、長岡技術科学大学に?)。陽子と中性子はエネルギー流の構造に磁気的軸性が有るか無いかの違いしかないのである。だから、陽子も中性子もその根本的物理量の意味においては、特段に違いが有る訳ではない。だから陽子と中性子の間ではどちらにも転換する基本的性質が隠されている。原子核理論にも有るように中性子が電子と陽子に転換する核分裂反応が言われているのは、エネルギー回転流というただ一つが基本という、ここにその本質が有るからだ。さらに『電子スピン』という言葉も有るが、電子スピンとは何か?-その空間像ーに記事にまとめた。電子と陽子との磁気的軸性結合が何らかの状態変化で、中性子に変換するのは想像に難くない。

エネルギーで観る世界ー素粒子ー

素粒子の世界 とんでもない世界に踏み込んでしまった。考えると当然の事とも思える。極微の世界に論を進めるなんておこがましい事でもある。全くの素人が特別の専門領域にである。それはたった一つの『電荷概念』への直覚的矛盾認識からである。世界、自然世界観で、自然科学の理数分野では電荷が理論構築の根源的拠り所である。それを否定する事は、言わば科学でなく文学だと酷評される程、今までの専門家としての権威に対する挑戦ともとれる内容でもあろう。その電荷概念のもとで現在の科学技術社会を構築して来たではないかと反論されよう。素粒子とは何か?物理学の歴史を辿れば、原子論の議論がその発端と考えても良いかと思う。医療技術で「MRI」はとても有効に病気診断に役立っている。しかしその原理がよく分からないのである。理論解説で、水素原子や電子の何々と言われても私の頭ではとても理解の及ばない領域の話になる。それではと、それを哲学や文学で捉えようとしても無理である。高度な数式を使わないで、その原理を捉える事が出来ないかと儚い望みを抱くのである。そこで、どうしても『原子構造論』に論を進めて行かないと理解できないと感覚的に思う。なんで電荷が無ければ、原子の極微の世界を理解できないのかと疑念が湧く。素粒子論の取っ掛かりは昔どこかで見た写真が有る。磁界(磁束密度)B の空間に未知の素粒子が飛散してきた時、その軌跡から陽子とか電子とかあるいは中性子とかと磁界と電荷の間に生じる力で、その素粒子が何であるかと判断する様な話が有ったと記憶している。電界、磁界との間の電荷に生じる力をローレンツ力と言う数式で解釈していたようだ。磁場B[Wb/㎡]の中で、電荷q [C(クーロン)]が速度V[m/s] で運動すると、ベクトル積[V×B] に比例した大きさの力が生じる。この話を初めて聞けば、誰もがそうかと納得する。しかし、しつこく疑問を膨らませてゆくと、簡単にその通りだろうとは納得出来なくなるのである。こんな事から入って、話が纏まるかまったく成り行き任せである。この行き着く先に必ず未来が開けると確信できるから、無謀が魅力ともなる。

磁界と電荷の相互作用原理 磁界とは何か?電荷とは何か?その二つを結び付ける作用原理は何か?と言う基本的で、幼稚過ぎると思われるような『問答』が西洋の科学論には欠けていると思われる。磁界と言うものの中身を説明できるかと言う問いである。磁石などの面に近い空間に何かが有る事は誰もが感じ取れるだろう。磁石のN極とS極を近付けた時、近い程強い力で引きあう。その引き合う力をどのような自然現象として捉えるかと言う問いである。教科書の説明を見れば、NとSの間に引き合う磁束の線が有り、それがゴム紐のように引っ張り合うからだと答えるぐらいの答えしか用意できていない。ゴム紐なら、近付けば力は逆に無くなるのだけれども?高度な物理学理論では『超弦理論』と言うものがある。それは凡人の頭では、理解の域を超えて、難しい。だから、もっと誰もが解り易いように説明できないかと思う。そこで、磁石の間に磁束を仮想するより、その空間に確実に存在するものが『エネルギー』である事を認識する事から始めるべきだ。そのエネルギーをエネルギーとして実在すると解釈できないで、回りくどい磁束などと言う概念を仮説・仮想して、理論を展開するのが西洋流の科学論法である。磁石の間に何が有るか?その答えを教科書通りに、磁束で理解しようとすれば、次々と難しい概念を作り続けなければならなくなる。磁束概念では到底真理に到達できたと納得できないだろう。この辺の話になると、理論物理学者も実際の電動機・モーターの運転をする機会は少ないから、実感としての磁気エネルギーの意味を体感出来ないのじゃないかと危惧する。モータや電磁石の取り扱いや、鉄心の特性に基づく設計・コイル巻き等の製作に携われば、磁気エネルギーが何処に、どのように存在するかが感覚的に会得できると思う。殆どの磁気エネルギーは鉄心材料の空隙ギャップ間の極めて狭い空間に集中して実在するのである。そのエネルギーが磁束線で出来ている等と解釈する事で、理解出来ると言う人は、とても磁場を理解している人とは信じ難い。『磁気現象』で、最近の話題になっているのが『超伝導』である。物理学理論では、専門の研究者が競って高温超伝導材料の発見・開発に鎬(シノギの漢字を初めて知る)を削っているようだ。どんな材料が選ばれるか、とても興味があるが、結局は導体周辺を伝送するエネルギーの熱化損失を極小化出来るものが選ばれるであろう。導体金属結晶・分子構造のエネルギーの通り易さが決め手になる。決して電流(と言う電荷の通過流)が導体中を流れるのでない事だけは真理である。磁気と言う自然現象の中身は空間エネルギーを捉える解釈の仕方に掛かっているだけである。超伝導現象も導体周りの空間エネルギーの特徴の一つでしかない。以上で磁気の話から一旦離れる。

次は『電荷』に関する話になる。電荷と言う概念をどのように空間の実像として捉えるかと言う事である。世界を二つの対象概念で捉える手法は、哲学的方法論になるように思う。男と女が生物の存在に欠かせないと感覚的にも納得し、理解しやすい。昼と夜の世界も昔は不思議なものだったかもしれない。世界を『エネルギー』一つで解釈することは中々世界認識法として、感覚的にも不慣れな為でもあって、どうも難しいのかもしれない。二つの物で比べる見方が有効であるのは、世界の基本的対称観察意識に慣れている事があるからであろう。極微の原子構造をプラスとマイナスの電荷の引き合う引力と解釈する方法が簡便で納得し易かったのである。しかし、電荷のプラスとマイナスを空間像として認識しようとすれば、そのプラスとマイナスの差をどのようなものと理解すれば良いかで、ハタと困惑の域に迷い込むのである。無いものを定義・概念化する事は何時かその真実を追究する時、化けの皮を『説明不可能』と言う事態で露呈するのである。今、科学理論が抽象的概念構築で進められて来たと考えざるを得ない現実の矛盾に直面していると思う。電荷を否定されたら、物理学の根源的『原子構造論』のE.Rutherford(1871-1937)や電子発見のJ.J.Thomson(1856-1940)まで遡らなければ成らなくなるという辛い現実がある。そこで、解決法は負の電荷と質量を背負う電子概念をどう修復して電荷の無い世界の解釈法を得るかと言う問題になる。確かに原子が軸性(独楽の軸のような性質)を持つ事は間違いなかろう。様々な原子結合で分子の集合体が構成される。その結合力を電荷無しに解決するには軸性のエネルギー回転流しか道は無い。世界の結合を統べる『力』の根源は『エネルギー回転流』のみであると解釈する。電荷、磁荷間に働くと考える直線的な磁束や電束概念では、力の解釈の本質に迫れない。ここで、全く新しい磁気概念像を提示しておく。 それは理科実験に使われるコンパスについてである。コンパスはN極とS極で磁束がそれぞれの極の先端に出入りして居る像で捉えている。しかし磁束などは仮想概念で実在するものではない。磁束概念を打ち破るには、新たな合理的概念を提示しなければならない。それが、磁極の近傍空間での『エネルギー回転流』である。上の図はその概念を簡便に表現する自慢の図である。この磁極のエネルギー流の方向性を決定するに長い歳月を要した。 磁界・磁気概念の本質 にも解説。

ほぼ結論的な事を論じた。だめ押しになる話で、恐縮ではあるが、電荷と磁束の間に『力』が生じると言う解釈は電気磁気学理論には無い。ファインマン(「ご冗談でしょう ファインマンさん」と言う御本で有名な物理学者)の電気磁気学の教科書にも、「電荷も電流も時間的に不変である限り電気と磁気とは別々の現象である」とある。この事は電荷と磁気は相互に影響を及ぼす力は無い事を説明していると考える。そこで、電荷と磁気が相互作用をする原因は無いにも拘らず、何故電荷が動くと磁気との間に力が生まれるのかと言う疑問である。電荷の定義には磁気と作用するという責務を課されていない。電荷が動くと磁気と作用するのは、動いた電荷が磁気に変化すると言う事でないと論理的でない。それでは、空間的に電荷がどんなものであるかを認識できないけれども、動くと磁気を空間に作り出すと言う事なのだろうか。磁気と磁気とは確かに磁石間の力から一応納得できる。電荷が動いた時空間に電荷から磁気を吐き出すような事になるのだろうか。その空間の磁気のエネルギーは電荷のエネルギーなのだろうか。電荷が空間に電気力線として広い場所を占有すると解釈するのだろうか。エネルギーは空間に実在する真の実在量である事を認めるか、認めないかの、言わばー科学的踏み絵ーを課したいのである。

電気の大切で、有名な技術法則がある。フレミングの右手・左手の法則である。その法則はアンペアの周回積分則の電流による磁界発生の基本法則と相俟っているものである。これはモーターの動作原理を簡単に左手の指で理解しようと言う法則である。磁界の磁束の向きに人差し指を向け、中指の方向に電流が流れると、その電流の流れている電線に親指の方向の力ベクトル f が生じると言う法則である。この法則を、この本章の初めに掲げた「素粒子飛散軌跡」の説明に使っているのである。電荷の運動方向を電流の流れで解釈する方法で解説するのである。ファラディ電磁誘導則・アンペア周回積分則の物理学的矛盾  を見ても、フレミングの左手の法則などで、素粒子論が説明されるなどと言う事は、とても納得できる説明ではないと思う。

(参考文献)自然界を理解するに、現代物理学の最先端の研究に期待が寄せられているだろうが、そこには真実は見えないだろう。科学者の論理に特殊化された集団論理に偏っていると思う。少し数学的論理内容ではあるが、自然界を支配する『力』について私が唱えた、科学者集団と異なる視点で発表した日本物理学会講演概要集を参考に挙げておく。

1 力密度 f=rot(S/v) とベクトル算法 第61巻2号2分冊 p。196.(2006.)

2 磁力密度 f=rot(S/v)  第63巻1号2分冊 p.310. (2008)

追記(2013/4/2)  上の力の式は時間的な変化を含まない。それは変動のない静的な状態で、その力を認識するだけなら有効と思う。しかし、常に変化する自然現象としては不十分である。長く唱えて来た式であるが、竜巻や台風の表現式としては十分でないと思う。それは空間のエネルギー動態に対しても同様に考えられる。エネルギーは集合した形態が『質量』であると考える。太陽系はじめ、宇宙の全てにその回転に本質的特質を備えている。万有引力を軸性の回転形態を創る原理的法則と看做す事は出来ない。万有引力の法則は回転を作り出せない。世界は「軸性回転力」に因って構成されると考えたい。すでに渦巻の解剖で提示したが、時間を含む式

dp/dt=rot S  [N/(s m^2)]

が近接作用力として合理的と考える。

また、素粒子ーその実相ーとして電荷概念なしのエネルギー流での描像を描いた。

『電荷』という虚像

この世界に『電荷』は決して存在しない

(2012/08/03) 追記。以下の記事に対して、現在の「素粒子像」を、『電荷概念』無しで纏めたので追記しておく。素粒子ーその実像ー

私が科学の全世界を相手に挑戦することに成った原点は『電荷』の実像を問う事であった。物理学に関する『問答』の始まりであった。それは同時に自分自身との戦いを始める事であった。電気磁気学という物理学の中心的基盤がその電荷に論拠を置いて構築されている。その根源的科学常識を疑う言説は、到底科学の世界に受け入れられる筈はなかった。それは『あいつはとうとう狂った』というレッテルを貼られる事でもあった。電気技術分野への研究意欲と自信は大きかった。しかし、電荷否定への歩みは自分自身を、その知識をすべて破棄しなければ、新たな道を歩む自分を見出せない知的破壊の闇に突き落とされる事でもあった。2011年3月11日の東日本大震災で、日本物理学会第66回年次大会も中止になった。新潟市のホテル宿泊予約も全て取り消しという誠に大きな損害を関係者にお掛けする結果になった。今日はこの4月、桜が咲き、新入学の初々しい顔が集うこの時期に、挑戦の原点である『電荷とは何か』を取り上げるに相応しいと思う。電荷の存在を否定する事は『原子構造論』で原子核の周りを電子が回転する外殻電子軌道論さえ否定することである。プラス電荷の『陽子』とマイナス電荷の『電子』が電気的なクーロン力で引きあう釣り合い論も否定しなければならないのである。営々と築き上げてきた歴史的原子構造論と言われようが、そんな物は何の役にも立たないのである。理論屋が理論の砦に閉じこもる為の城壁みたいな役にだけ役立つ代物である。この『電荷』概念を論じるには、何故『電荷』を必要と考えたかを振り返って見なければなるまい。それは摩擦に因る吸引力の謎解きの必要性もあっただろう。力の原因を『電荷』に求めた結果と観る。そこで、クーロンの法則を斬る (2013/01/06)で記事にした。

電荷その物を空間の実像としてどんな風に描けますか? 電子に付随する『電荷』という物でなく、電荷その物の実像を尋ねるのである。同様に、陽子に付随するプラス電荷という意味で無く、プラス電荷その物の実像を尋ねるのである。この度の大震災で、空恐ろしい事態を引き起した。安全神話の原発破壊事件。その放射性物質拡散が科学技術の未熟さを露呈した。専門家という虚像が崩壊したと私には見えた。素粒子論もその怪しさの一端にある。原子核崩壊という現象には、正のβ崩壊というのもある。原子核の『陽子』が『中性子』に変換し、その時『陽電子』とニュートリノが放射されると言うのである。それもβ崩壊の放射能(エネルギーの放出)を出すと言う。陽子は中性子と陽電子がその構成要素のように見える。その『陽電子』はプラスの電荷を身にまとった(?)電子という物らしい。その電子にまとわり付いた『プラスの電荷』そのものの空間に実在する実像が「どんな物であるか?」を問い質しているのである。『電荷』の実在性を唱えるなら、その物の実像を提示しなければならないのである。それが科学者の務めであろう。特に素粒子論の研究者は、その電荷の実像を示す努力も無しに、高尚な理論を掲げることは、科学の世界に混乱を引き起すだけであると考える。今回の『福島第1原子力発電所事故』に対応する、現場の技術作業者の過酷な業務に対して、遠くに離れた『原子力推進者集団』の責任者が的確な指示も論理性も示し得ない現実を目の当たりにして、科学理論の虚飾性を強く印象付けたと思った。今強く思う事、それは『電荷』概念の虚飾性に改めて光を当て、その解剖が必要だと思う。『電荷』という物理量が存在するなら、それこそ世界を構成する『素粒子』に位置付けなければならない筈である。電子以上に『電荷』の存在を基本にしなければならない。それならば、『プラスの電荷』と『マイナスの電荷』とがそれぞれ独立した実在性を示す筈であるから、その空間的違いが如何なる物かを示さなければならない筈である。そんな電荷が存在する訳がなかろう。だから科学論が嘘で作られていると言う事に成る。

電荷は空間の『電気力線』概念でその特質を表現する。電荷だけで電気現象を論じることはない。電荷概念を論理に取り上げる時は、必ずその担い手である『質量』を必要とする。陽電子や陽子あるいは電子である。その『質量』という物理概念に於いて電荷が論じられる。それは取りも直さず、電荷の実在性を唱える主体的根拠を主張できない事を物語ると言えよう。私が電子の電荷概念に疑念を抱いた最初の意味を記しておきたい。電子あるいは『電荷』を表現する時、その特質は『電気力線』に拠って表現される。電子は負の電荷を身にまとっていると解釈して、プラスの電荷との間に『電気力線』という線束が生じ、その線に拠ってプラスとマイナスが引きあう引力を生みだすと説明する。それならば、電子が単独に空間に存在する時、その電気力線はどのように表現されるかという事が問題になる。それを左の図のように、全空間に放射状に力線が張り巡らされていると考えれば良いのだろうか。実際はそんな物は無い訳であるから、上図は嘘である。しかし、教科書ではそれを必要とする訳であるから、その矛盾を説き明かすための方策として、一つの表現図案を考えたのである。これが基に成って『問答』が始るのである。それでは、その電子が運動すると、その力線はどのように変化するかという問いである。電荷が移動すれば、電気力線も変形する筈である。これは、『電荷』や『電気力線』が実在するという論理性の思考過程で考えることであり、どのように考えるかは無限に考え方があろう。運動と電磁気の関係は『光の相対速度』を考えなければならない問題であり、基本的思考の立脚点を明確にする必要がある。その為にアインシュタインの『特殊相対性理論』が詭弁論であるという結論を得るまでに長い時間を要した。その立脚点に立てば、光も日常の生活感覚上で何も不思議な点はなく、生活者の感覚で解釈できるのである。巷に『アインシュタインの崇拝的複雑怪奇なー相対性理論ー解説本』が溢れているが、そんな物は正しくない。話を戻す。電子が運動すれば、その影響は空間的に光速度以下で、必ず遅れるのである。無限速度であれば、電気力線も分布状態に変化は生じない。世界に『無限速度』の現象は無い。光の速度以下で、運動の影響が生じるから、力線の形状も変化すると解釈しなければならない。それも、教科書概念を踏襲するという範囲での話であり、実際はそんな物は無いのである。さて、それでは電子のような物の何か存在する実体が全くないと言うのかと問えば、そうではない。では何が有るかということである。存在するのは『エネルギー』一つである。力を生むのも空間に実在するエネルギーの諸現象である。上の右に示した、運動電子の電気力線は電子が運動するにつれやはり時間的遅れを伴いながら、変化する。電気力線が動けば、電磁気学のマックスウエル方程式が示すところの、電界と磁界の相互作用の解釈に繋がるのである。私が解釈する電磁界理論は『電界』とか『磁界』とかをそれぞれ別の物理量として捉えるのではなく、同一の『エネルギー』の一面的見方が『電界』『磁界』という概念で捉えられているに過ぎないと認識するものである。教科書に従えば、運動する電子が周辺空間に電気力線、磁力線を生む事に成る。電気力線の空間的変化が磁力線の発生と成るのであるから、マックスウエル方程式のままである。その電気力線や磁力線は空間にそのエネルギーを持つ事を教科書でも明確ではないが、電界磁界で捉えるエネルギーとして述べている。では電子が持つエネルギーは幾らと解釈すれば良いかという問題である。この点に関して『電子のエネルギー無限大の矛盾』について指摘したのがP.A.M.DIRACである(磁気モノポールは頂けない)。それは電荷概念そのものの矛盾が故の問題である。物理学の欠陥は『エネルギー』その実在性を認識していない事である。電子の周りの空間に存在するエネルギーをどう認識するかである。その時、電子の範囲は空間的に何処までと解釈するかの困難を伴うのである。エネルギーが存在すれば、それは何物が造り出したものかという極めて素朴で、単純な疑問である。そんな易しい捉え方が、市民の生活に根ざした科学認識に重要な事である。数式が無くても自然現象の本質を説得し、説明できなければ、それは真の科学ではなく、偽物らしく感じざるを得ないのである。

電荷と空間エネルギー 数式が無くても自然現象の本質を云々と言ったその裏で数式に頼る能力の無さを知る。数式の無意味さを説明するには数式を書かないと無理と言う自分への矛盾をご勘弁いただきたい。電荷に伴う空間のエネルギーと言う意味は何かを解剖してみる。ここで述べることは学校の『電気磁気学』と言う教科で、先生が教科書に従って教える時の内容を復習する様な意味で、先ず解説するのである。それが上の図である。+Q[C]の電荷が空間にあると、その周りには均等に電気力線が球状に放射されると解釈する。半径r[m]の球表面積4πr^2^とεで除する電気力線密度がその点p(r)の『電界強度のベクトルE(r)』だと言うのである。その単位は[V/m]で、1[m]当たりの空間電圧[V]になる。図に示すようにその式の電荷+Q[C]からどうして、単位[V]が出るかは単位換算をしなければならない。それをここに参考に載せる。電荷の単位クーロン[C]はエネルギー、ジュール[J]とファラッド[F]の平方根という奇妙な単位に成る。この表は大変便利だと自負している。電荷に拠る電気力線はそこにエネルギーが同時に存在する事を規定している。そのエネルギーはw(r)の密度で解釈される。このエネルギーは物理学で、電気磁気学で十分認識していないものである。エネルギーの担い手である質量を捉えようが無いから、物理学理論で取り入れると、電荷概念の矛盾を曝す困難に入り込むからであろうかと解釈する。コンデンサ内の電気エネルギー・電界エネルギーは空間媒質の分子誘電分極と言う解釈で説明されるが、点電荷周りの空間エネルギーについては中々分子分極とは言い難いから、エネルギーの存在は目をつむって無視しているのだろう。さてそのp(r)点に、一つの点電荷-q[C]を持ち込んだとする。すると有名な遠隔作用力の『クーロン引力』がたちどころに生じる。このクーロン力が電荷の概念の特徴を備えた大切な『基本法則』と言う事に成っている。そんなものも役に立たない法則ではあるが、教科書では最重要法則である。クーロン力のお陰で、ラザフォードの『原子構造論』が今もって物理学理論の『重層岩盤』と成っているのである。電子のマイナス電荷e=1.602×10^-19^[C]がクーロン力に逆らって、半径rが大きく成る事で電子の軌道エネルギーの増加を生み、量子力学論の光の放射原理の解釈に繋がって来るのである。その原子論では、原子核の陽子と軌道電子との力、万有引力とクーロン力の兼ね合いで論じられているが、その間に存在する『電界に拠る空間エネルギー』等は何の解釈の対象にもならないのである。要するに『エネルギー』は質量が無いとその存在を認識できないのが『物理学理論』である。当然であるが、電子その物も空間に存在すると仮定すれば、その周りには空間のエネルギーを身に纏っている筈である。なお、単位換算については少し纏めて、エネルギー[J(ジュール)]とJHFM単位系 に記してある。この辺で一応、この項は終わりとしておき『原子論』について改めて別の標題で論じる事にしたい。未だに『原子構造論』の記事を纏めていない。電子スピンの解釈そのものが、円環電流との相似概念で解釈されている事に、違和感を禁じ得ない。電子スピンとは?-その空間像ー にエネルギー流としての解釈を示した。原子構造の合理的な解釈は、外殻表面に分布した電子に代わる磁気スピンの繋ぎ手の像で捉えるべきであると考える。「電荷棄却の電子スピン像と原子模型」 日本物理学会講演概要集第64巻2号1分冊、p.18. (2009) に概要は記してある。電荷概念に依存した物理学基礎理論は、その曖昧さに耐えられない筈である。 『電子』とは?-物理学的「お化け概念。この「お化け概念」を改めて、電流計は何を計るか の末尾に述べた。その図をここにも示したい。電子とは何者か電子像

『電荷』概念否定の具体的例題 雷の正体。原子間結合に関する『共有結合』について、炭素結合の秘め事