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光エネルギーと速度と時空

光の速度は何故決まる?

光は空間のエネルギー分布密度波の縦波である。その速度が何故、秒速30万キロメートルなのか?それも『疑問』の宝物。空間には空間定数という真空透磁率と真空誘電率の二つが定義されている。

単位系・JHFM自然系 も光と空間定数の関係から導き出したものである。光速度 c[m/s] は

c=1/(μo εo)^1/2^ [m/s]

と真空透磁率μo[H/m]と真空誘電率εo[F/m]の空間定数との関係で捉えられる。そこに時間の次元秒[s]とヘンリー[H]とファラッド[F]の関係が生まれる。[(HF)^1/2^] = [s] と関係付けられる。その訳が理解できた。

人はモノの速度を目で追うことで感覚的に理解する。それが視覚感覚の機能でもあるのだろう。同じ現象でも、1[m] を通過する時間何[s]という捉え方はしない。しない訳ではない。100mの競争で10秒切るかどうかが注目される。それでも1mの距離の通過時間を気にかけることは普段はない。

エネルギーの伝播実験 光速度を超える信号伝送手段はないから、伝送速度を計ることは困難なため無理ではあるが。(次の実験で、電源スイッチを投入した時刻を負荷端で瞬時に知ることは無理であるから。)

エネルギー伝播 電気回路のエネルギー伝播現象を考えてみよう。電気回路の伝送路は基本的にインダクタンスと静電容量の分布定数回路になっている。その様子を図に示した。実際には2本の電線が張ってあるだけで、外見的にはそこにインダクタンスやコンデンサがつながっている訳ではない。図では単位長さ当たりL[H/m](一区間に上下二つのLが有るが、等価的には一つのLと考えてほしい)とC[F/m]の分布定数回路となっている。実験的にエネルギー伝送現象を確認するには、実際にある値の LやCを変化させた分布回路として、原理的には可能であろう。負荷終端には電線路の特性インピーダンスと等価な抵抗負荷とする。負荷で到来波のエネルギーを消費し、反射波を防ぐための条件である。電源は十分大きなエネルギー量を貯蔵したコンデンサとする。スイッチSをオンする。瞬時にエネルギーは伝送路に流れ込む。そのエネルギー波が負荷に到達する、その波形を電圧vで観測する。恐らくその波形は雷の衝撃波形に似たものになろう。負荷端のエネルギーは電圧vの2乗で波形を理解できる。その電源からのエネルギー伝送現象は回路定数を大きくすれば、エネルギー伝送時間は長くかかる。定数が小さければ伝送速度は速くなる。その意味は誰もが理解できよう。電線路の静電容量やインダクタンスが大きければ、エネルギーが静電容量に貯蔵される余裕が大きく、インダクタンスが大きければ、そこを通過するのを阻止する反発が強くなる。だから分布定数が大きい程エネルギーの伝送に長い時間がかかることになる。即ち回路定数によって、エネルギーの伝播速度、光エネルギーの速度が変化する訳である。この辺の現象は電力系統の管理技術者には当たり前の感覚的認識になっていることであろう。電気エネルギーはエネルギーの空間分布波としてみれば、光のエネルギー分布波と同じ訳で、光の真空空間の伝播速度即ち光速度がその空間定数で決まるのが当たり前と理解できよう。空間の長さ1m当たりの静電容量とインダクタンスがその空間を通過する光エネルギーの「時間」を規定する訳である。だから、JHFM自然単位系で、時間の秒[s]が空間定数の[√(HF)]になる訳である。ここには速度という見方と逆の、1mを通過する時間は幾らかという [s/m]の見方になっている。それも速度と意味は同じである。

不思議の極み 空間定数の「真空透磁率」を誰が何時決めたかが分からない。μo=4π×10^-7^ [H/m] はあらゆる計量単位の基準として定められた筈だ。誠に不思議な数値である。4πは球の全立体角 ステラジアン [㏛]と解釈する。すべての実用計量単位MKSAがこの空間定数の真空透磁率μo[H/m] が基準になった事によって決まる。そこに選ばれた単位が電気回路のコイルが持つ電気的空間構造の特性機能の評価量を表す意味のインダクタンスの単位ヘンリー[H]である。この定数を決めた時点で、真空空間が持つ空間のエネルギーに対する誘導性という物理的定数だという認識の下で決めたのだろうか。空間が誘導性のインダクタンスの機能を備えていると認識して確定したのだろうか。この基準を決めたことに因って、空間にはもう一つの真空誘電率εoという定数が確定されたと考える。その単位もやはり電気回路の静電容量という機能要素の物理的評価量の単位ファラッド[F] で示される。それがεo[F/m] である。この意味もまことに不思議な単位である。決めた時点で、空間が電気回路の静電容量の次元を持っていると認識して決定したのだろうか。それなら誠にその確定については慧眼の至りと驚かざるを得ない。しかし、それらの空間定数が何処で、どのような機関又は人に決められたかが分からない。しかしその空間定数があった事のお陰で、現在幸運であったと確信して使っている、自然単位系JHFMを闇の中で、1990年春に見つけた。

その夏7月に何の説明もなしに、大学職員が大勢で我が家に御出でになられて、玄関で白紙に拇印を押させてお帰りになられた。後でそれは筆者に対する分限免職の承認と見做す捺印のようだった。その拇印も誠に不鮮明であったようで、後には他の機会の、たぶん庶務課での茶碗から採取の鮮明なものに変わっていたようだ。誠に国家公務員の人事行政の意味も知らない筆者の無知のために、多くの皆さまに御迷惑をお掛けし、それが原因で招いた当時の過ぎてしまいましたが、失礼をお詫びいたします。と言っても今でも全く理解不可のまま、無知の上塗りでぼーっと日々が過ぎ、流され続けております。

真空誘電率 εo=(1/36π)×10^-9^[F/m] とこれまた誠に気持ち良い数値である。そこに自然空間における光のエネルギーの伝播速度が決め手となっていることが、これまた自然の美を意識せざるを得ない。

光速度をc[m/s]とすれば、

c^2^μoεo=1

である。不思議は美しさでもあるのか。

おまえはどこから生まれ

どこに向って行くのか

その行方も見えない

だが確実なこと

それは

おまえが世界を

創っているということ

目に見えない現実の中に

ずっとひそやかに

その世界を

支えて来たのだと

光によって世界を見る。しかしその光の本質を知っているだろうか。光の本質と言えば、その物理的空間像の意味で捉えたい。光は空間を光速度で伝播する物理的実体である。プランクの理論によって観測上の評価法が確立された。観測の基準は振動数である。振動数によってその光の物理的特性が評価できる。可視光線なら、その色によっても目で大まかな波長(振動数)は理解できる。それでも光は振動する実体を持ってはいない。しかもその光の一波長のエネルギー量は測れない。空間を光速度で伝播するエネルギーの縦波を計測することなど不可能であろうから。光の本質を知ることは電気磁気学の本質を知ることにつながる要でもある。電界や磁界の意味を知ることにつながる。『エネルギー』の意味を知ることにつながる。

 

 

力の概念と電気物理

視点一つが世界を変える。

不図疑問が湧く。今までの認識に疑問が種となって、新たな世界が驚きの中に膨らむ。今回は『力』である。電気と言う目に見えない現象故に、その世界描写は数学的な表記によってとても抽象的に描かれる。多くの法則によって体系化された学術理論の世界である。科学理論の世界は長い歴史の重みを背負って、何百年の時に亘って専門家の追究の試練に曝されて生き残って来た学術理論である。その根幹を成している概念は『電荷』である。それはクーロンの法則と言う偉大な科学技術論を論ずる基幹法則として誰もが一度は聞いたことのある法則であろう。『電荷』間に働く『力』の意味を解釈する法則である。科学理論は社会的に認知された、学術機関の専門家が推奨する権威ある理論で、広く学校教育での標準教科書として取り上げられたものである。そんな理論の根幹の「電荷」を否定することは、社会的大きな混乱を引き起こすかもしれない畏れ多さを抱える事でもある。自分一人の科学技術感覚からの『電荷』否定の挑戦であった。クーロンの法則を斬る (2013/01/06) の記事から6年が過ぎた。今回その法則に関して、力学理論の『力』の概念から改めて『電荷』否定の論証視点が浮かび上がった。気付けば当たり前のことと思う様な『電荷』に潜む矛盾点である。

力学論の力の概念

運動力学の『力』とはどのようなものか。そんな疑問を抱くことに意味があるのかと思うかも知れない。力が働くという意味で感覚的に感じるのは力を掛ける対象に、力に逆らう反作用のような抵抗がそこにはある。それが慣性体としての質量の意味だと思う。運動力学で力が掛ると、その対象は力によって加速度運動に成る。もし力の対象が質量体で無かったなら、その対象はどのような運動に成るのだろうか。図の力の概念に示したように、質量M[kg]が力に逆らって速度の変化を受けないような作用があるから力を掛ける側に、対象に作用するという意味が生じるのだ。もし対象に質量がなかったら、加速度と言う概念は存在しない。加速度の存在しない『力』の概念は力にはなり得ない。

電荷と力

図1.電荷と電界と力

さて、電気物理学では『電荷』がすべての電気現象の理論的論拠となっている。電場に『電荷』が有れば、その『電荷』はその点の電界強度によって『力』を受けると成っている。(1)式のように、空間にある電荷集合体+Q[C]が有れば、その周りの空間は立体空間全体に電界強度E[V/m]で定義付けられると成っている。その空間に、他の『電荷』が存在するとその電界Eによって力を受ける。電荷が-q[C]とすれば、(2)、(3)式の力を『電荷』が受けると言う。(3)式が有名なクーロンの法則の式である。なお (r/r)は座標ベクトルrの方向を示す単位ベクトルの意味である。荷電粒子が電磁場で力を受けて運動する現象は実際にあるから、確かに間違いとは言えない。しかし、上に示したように、『力』の概念で述べたことも間違いではない。質量がなければ、『力』は掛からない。『電荷』に慣性は無いから、それは『力』の対象にはならない筈だ。もし力が掛れば慣性のない『電荷』は直ちに無限速度で飛んで消えて、運動論の対象にはならない。前にも、荷電粒子加速と電磁力 (2015/01/31)で問題にした。今回不図した思い付きで、『力』の概念について気付いたことが質量の慣性と言う意味であった。クーロンの法則を斬る (2013/01/06)で『電荷』とその上の(3)式の否定を論じた。今回はっきりと納得できたのが質量の慣性と言うものによって初めて『力』が意味を持つという事であった。それなら実際に電磁場と言う空間での荷電粒子加速現象はどのような意味なのかという自然世界の認識の課題である。実際の電磁場での粒子加速運動論には必ず質量を必要とするから、電子にも陽電子にもすべての粒子には必ず質量が付帯している。そこで一応運動力学論としての辻褄が合わせられている訳である。しかし電気回路の電流論に成ると、電流の単位アンペア[A]=[C/s]には決して質量は必要ないから、『電荷』だけで論じられることになる。この『電荷』と『力』の問題は、世界で実施されている荷電粒子加速実験の理論的根拠の問題でもあろうかと考える。

電荷と電磁場

もう一度電荷とその電界の意味を取上げて考えて置きたい。『電荷』の意味を考える時、とても不思議に思うことがある。或るプラスの正電荷の集合体が空間にあると設定されて解説される。クーロンの法則に直接関係する電磁場の論考に於いて、どのような原理で同一の符号の『電荷』が集合し得ると考えるのか。同一符号の『電荷』は離隔距離の2乗に反比例して強力に接近は拒否される筈である。子供達に教える教育の場で、クーロンの法則が取上げられて、説明される時には同一『電荷』の集合は排除されると教える筈である。しかし、図2.のようにいとも簡単に『電荷』の集合体で理論の解説が成される。これも科学論の不思議と言わなければならない。その時の集合電荷の離隔距離はおそらくゼロの意識で論理展開しているのだろう。ゼロの2乗分の1は無限大の排斥力となる。この事は教育者側の科学論の論理性の問題としても無視できない矛盾論の筈であろう。それはさて置き、問題は電荷周りの電磁場の意味である。図2.電荷とエネルギー のように空間の誘電率がεo[F/m]とすると、その空間のエネルギーをどのように理論的に解釈しているかという問題である。係数が(1/2)の問題はさて置くとして、一応wr=(1/2)εE^2^ [J/㎥]のような電界のエネルギーが空間にあると解釈する筈である。『電荷』からの空間距離rの関数として、『電荷』周りにはエネルギーが分布していると解釈してよかろう。しかし、物理学理論で空間の解釈をする時はこのようにエネルギーを認識している筈であるが、荷電粒子加速などの場合には、この空間エネルギーをどのように解釈しているのかはハッキリしていないようだ。このエネルギーの問題は理論物理学における『電荷』の概念の捉え方に関わる問題であるから。と言うのは、このエネルギーが空間に存在していると解釈するかどうかが最初に問わなければならない問題なのである。そのエネルギーは電界がある限り、空間の無限遠までも希薄になっても存在することになるからである。空間に存在すると解釈するなら、そのエネルギーを理論物理学ではどんな物理量と考えるのか。即ち『電荷』の一部なのか、『電荷』と無関係のエネルギーなのかと言うことを問う問答なのである。この解釈・考え方は至極幼稚な素人的素朴な疑問なのである。しかしこのような考え方が、理科教育・自然科学論に求められて居る易しさの科学論の姿勢であると考える。高度な数学的理論展開では、市民が理解し、納得する自然科学論にはならないから。本当の自然科学論は日常用語で解説できなければそれは正しいとは言えないのだ。何故このように『電荷』とその周辺空間のエネルギーの問題を論じるかは、高度な理論を展開されている専門の方々こそお分かりの筈であるから。ついでにもう一つ図2-1.電荷と力とエネルギーとして、単位電荷が空間に分布していたとする。この場合は、『電荷』間には複雑な力が掛ることに成り、その空間のエネルギー分布も正と負の電荷によって、種類の違うエネルギーが存在すると解釈するべきなのかなど理論的に決まりの付け難い問題が残るようだ。本来エネルギーには『正』と『負』は無く、ただ『エネルギー』が存在するかどうかの問題であるから。そういう意味で、物理学理論の易しい解釈を求めての論考である。易しい理論的解説は難しい数学や数式は必要がない筈だ。『電荷』が『エネルギー』を持っているか、いないかを答える事ぐらい難しい事ではなかろう。結局『電荷』とは何かを問うことである。電気磁気学、電気回路論あるいは電気工学のそれぞれの解釈の場で、『電荷』が如何なる実在量かの描像を示す事が求められていることと思う。それは次の謎解きの話になろう。

理論と電磁現象の間の謎解き

波形観測に欠かせない電気製品にオッシロスコープがある。電子銃からの電子ビームを平板電極間に通すと、その電極の電圧信号に従って、電子ビームの方向を制御できる。蛍光面にその制御されたビームの軌跡が波形を描く。その原理が電子電荷の空間電界による制御と解釈される。これが科学技術の電磁現象解釈原理となる。技術としてはその原理を理解することが必要であり、それだけで十分立派な電気技術者の仲間に入れる。教育もその意味で技術理論の習得への期待が国家の教育方針とされてきた。それはそれで良かった。『電荷』と言う概念を考え出して作り上げた意味はその為に有効であった。ところが、その科学技術用の理論を深く突き詰めると、とても曖昧で、論理性に絶えない矛盾が潜んでいることに気付く筈だ。科学技術教育ならそれでも良かった。しかし、自然現象を説き明かす物理学理論となれば、その矛盾を抱えて頬被(ホウカブリ)したままやり過ごす事はできない筈だ。ではそれはどんな矛盾で、何故理論が論理的で無いと言うかを説明しなければならないかも知れない。聡明な皆さんは既にお分かりの筈であろうが。その曖昧さを取り除くには、『電荷』が理論に絶えない概念であることを理解しなければならない。 f=q[v×B]+qE [N] の式で解釈するローレンツ力の力が掛る対象は電荷q[C]である。その式は質量が無い式だ。荷電粒子にこっそり質量が有ると条件付けられてはいるが、それは運動論を展開するには質量がなければ無理だからである。しかしあくまでも力の掛る対象は原理の式には『電荷』しかない。『電荷』には慣性がないから力が掛る対象にはなり得ないのである。しかし現実は、この式で解釈する通りの荷電粒子と認識する『電荷』のビームが制御される。この論理的不都合を解決する解釈法が一つあるのだ。それが『軸性エネルギー流』だ。電磁場空間内の空間電磁エネルギーの分布を理解する道である。『静電界は磁界を伴う』と言う奇妙な表現内容に鍵がある。電界と言う電場空間は、むしろ磁場空間なのである。磁場空間は磁束がある訳ではなく、軸性エネルギー流の場である。言ってみれば、『電子』も軸性エネルギー流子なのである。エネルギー流空間に電子と言う軸性エネルギー流子が通過すれば、エネルギー流同士の間の近接作用力が働くことになる。過去に載せた関連記事の図を挙げて置く。電子スピンとは?-その空間像-(2011/02/09)

 

 

 

 

 

 

 

素粒子-その実相-(2012/07/31)

 

 

 

 

 

エネルギー流と結合(2018/10/10)

 

 

むすび

問題の解決は『電荷』とは何かに答えることである。それはまた『電子』とは何かに答える事でもある。そこに未来の道が観えて来る筈だ。空間に実在するということは、その空間像を描くことでしか解決できない。抽象的な数式には姿が観えない。軸性エネルギー流は磁場と言う空間の物理的姿を示した空間像である。身近にあるマグネットのNSの磁極近傍の空間に在るエネルギーの流れの様子を示したものが軸性エネルギー流であり、それは磁極の表面空間を流れている回転エネルギー流である。その空間に実在するエネルギーを見ることはできない。それを計測することも、観測することも出来ない。その観えないものを『電子』などと捉えて、科学理論を構築して来たのである。『電荷』概念の矛盾に気づくなら、空間のエネルギーが(心にあるいは感覚的に)観えて来る筈だ。そのエネルギーに関する空間論は観測できないから科学論に成り得ないかもしれないが、そこに至らない限りは自然に心を添えないと言うことであろう。『エネルギー』を認識すれば、自然世界の本質が観えて来る筈だ。以上でクーロン力の矛盾についての論説は終わる。次の記事で、アンペアーの法則の回路電流における電子流の矛盾について述べたい。

励磁電流とは?

励磁電流否定の記事 変圧器の技術と物理 を投稿して。

(2019/04/16)追記。何処でも磁気や磁束は励磁電流で論じられる。元々電線の中に電子など流れていないにも拘らず、磁束まで電流との関係で定義される。ファラディーの法則の式を見れば、磁束と電圧の関係しかない。電流に因って磁束が発生するという意味など、その式には無いのだ。自然科学が科学技術理論で固められ、物理学としての自然哲学が欠落している処に理論の矛盾が放置されて来たと考える。変圧器を例に、巻線の1ターンコイル電圧 eu [v] = v/n [v] (nは巻数)を基準にして考えることを提案した。磁束や励磁電流という技術概念についても、長い技術的評価手法となっている伝統的な磁化特性を取り上げ、その意味の電圧時間積分との関係での解釈を図に示す。コイルの電圧という意味はコイル巻線導体近傍の空間に分布したエネルギー量の技術評価概念なのである。複雑な概念量を統一して捉えることが自然科学論としての未来の姿でなければならない。それを可能にするのは『エネルギー』しかない。励磁電流という曖昧な技術量を見極めて、磁束とは何かを考えて欲しい。なお、磁化特性は鉄心材料によって、図の①や②のように異なる。変圧器などでは特性が良く①に近く、インダクタンスはL[H]無限大とも見られよう。インダクタンスはその電気器具のエネルギー貯蔵機能を評価する空間特性の評価概念である。(2019/05/08)上の図を訂正した。磁束φと磁束鎖交数ψ=nφで、コイル巻数nの関係を訂正した。

気掛かりで、励磁電流とは?とITで検索してみた。1970,000件も記事が有り、様々な解説記事が検索される。変圧器をはじめ発電機あるいは電動機などすべての磁束の発生原理として、アンペアの法則の磁界発生原理で解説されている。変圧器の技術と物理で、せめて磁束発生原因の励磁電流という間違いはやめるべきだと指摘した。50年も前(正確には生命の危機を脱した、昭和46年秋に研究補助を頂いて、ロイヤーインバータでの単相誘導電動機の周波数制御運転をして、産業教育振興中央会の「産業教育に関する特別研究成果 別冊」に載せて頂いた頃)に筆者は既に励磁電流を否定していた。変圧器突入電流という電源投入時の現象も投入位相で電圧零時であれば、設計磁束の2倍程の ∫vdt [Wb=(HJ)^1/2^] の磁束量になるからと『電圧時間積分』で解釈すべきである。

和の趣き(2018年報告)

不立文字と言う東洋哲学の用語がある。筆者はその言葉の意味を、自然世界の事象を極めんとして深く学べば、常識的な言葉で表現出来なくなるという意味で捉えている。新しい科学的発見と言う意味で世界に新しい認識を広げる事と真逆の方向性、即ち今までの常識的解釈で認識していた世界の意味を深く突き詰める事によって矛盾が観えて来て、今までの常識的認識は真理から離れた上辺の捉え方で在ったと気付くことを表現した言葉のように思う。だから常識的な科学的専門用語が使えなくなってしまい、常識的な科学論が出来なくなる窮地に陥ることを指している言葉のようだ。電気磁気学を解釈するに「電荷」の必要が無くなってしまった。自然科学を論説するに科学常識となっている原子とその構造は誰もが納得し信頼する基礎概念であった筈であるが、電荷を否定したら、何を基礎として自然現象を解釈すれば良いか分からない窮地に陥ることとなる。当然電界も磁界も使えなくなる。それが自然世界を深く理解する結果の到達点で、いわゆる不立文字が表現する状態の意味になる。インドに生まれた東洋思想・東洋哲学の眞髄は解釈の矛盾を突き詰めて、削ぎ落しによる中心にある真理を悟ることにあるのだろうと考える。残るものは『エネルギー』一つになる。それは光であり、熱であり、結局質量である。すべては「色即是空」の見えるもの又見えないものと変幻自在に変化する認識量が『色』であり、見えたと思えば見えなくなる『空』でもあるという意味ではないか。そんな解釈論は自然科学の実証・検証による論理性が成り立たない話となってしまう。それが不立文字と言う事であろう。2018年の投稿記事をまとめてみれば、『エネルギー』の意味を尋ね歩いただけのようである。それでも自然科学論の心算である。『エネルギー』の空間分布構造を実験的検証で示すのが理想の科学的手法であることを突きつけられれば、記した記事の内容は空間エネルギー分布を測定していないから科学論でなく哲学となるかもしれない。(2019/02/01)追記。少し気が引ける思いである。標題の『和の趣き』で、ある出版社の本やお酒の名前に使われていることを知った。御免ね。(2019/02/02)追記。『不立文字』は昭和62年9月1日に始まったのかもしれない。電流は流れず の決断を自分に課したのがその年の8月であった。標題の『和』は総和で無く、東洋的という意味合いだ。Google翻訳では、「和の趣き」はTaste of Japanese で「和の趣」はWorth of Japanese Wisdom となる。とても翻訳は意味が深いと思った。

4月2日 哲学と科学 ここには『正の電荷』を誰が発見し、どのような場面でその存在が観測・証明できるのか。を問う事を記した。電子と言う負の電荷は陰極線として観察されている。しかし、正の電荷はどんな場面で観測されるのか。

生物とエネルギー 1月4日 体温とエネルギー 1月5日 生命と酸素 12月16日 生命活動とエネルギー 

原始・電子・エネルギー 原子・分子結合力と周回軌道電子論の矛盾(1月9日) 半導体とバンド理論を尋ねて(5月14日) エネルギーから電子殻を問う(5月21日) 電池における電子の役割を問う(5月24日) エネルギーと結合(10月10日) 結合エネルギー:不思議の砦(12月2日) エネルギーの象形(12月5日)

電気現象と技術・エネルギー 白熱電球のエネルギー変換原理は?(2月12日) 電気回路要素『抵抗』の物理的意味(2月24日) 『瞬時電力』の物理的意味 (3月15日)技術概念『電流』とその測定(9月24日) 瞬時電磁界と概念(10月23日) エネルギー その見えざる正体(11月6日)

地球の景色 青空と白い雲(1月18日) 太陽系はどのような力学によってその位置に存在するのか?(3月28日) 津波と圧力水頭(5月1日) フェーン現象(6月17日) 波の心を観る(11月14日) 山の木霊(12月20日)

哲学・光・エネルギー 光の正体(1月25日) エネルギーの速度(4月2日) 非力学的エネルギー(4月10日) 世界は不思議(5月6日) 焚火の科学(5月26日) 水辺の散策(6月16日) 水蒸気と蒸気線図(6月16日) プランク定数の概念(7月17日) 世界の実在物理量エネルギー(7月26日) 運動エネルギーの概念(9月15日)

結合エネルギー:不思議の砦

結合エネルギーの世界
最近高等学校の化学の授業内容で結合エネルギーがあることを知った。ヘスの法則も1840年頃の発表であったらしい。しかし1954年に受けた授業の化学には無かった内容のように思うが、勉強しなかった為に知らなかっただけなのかも。筆者の知らない世界の化学であった。時代遅れを恥じる。結合エネルギーと言う用語は、高等学校での電気工学の教科「発変電」を教える時に、原子核分裂の物理現象の解釈理論として学習書を通して初めて学んだ。原子理論の質量ーエネルギー等価則として理解して来た。その原子理論の結合エネルギーを今考え直してみると、混乱してしまうほど理解できていない自分に戸惑う。筆者も高校1年生で化学の授業を受けた。原子結合の共有結合がクーロンの法則の原則に従わずに手を繋ぐ意味が分からず、化学への学習閉塞を来たしてしまった過去が在る。そんな過去を今まで引き摺って来たのかと思うほど、高等学校の理科の科目、化学の結合エネルギーと原子核理論のそれとは真逆の意味ではないかとさえ錯覚するほど混乱をしている。原子の鉄を境にして変わると原子論では唱えられる。そこで、結合エネルギーの物理的意味は『エネルギー』の空間実在量として解釈する時、どのようなものと捉えれば良いか疑問に突き当たる。高校生が学習できるのに筆者には理解できない現在の化学の結合エネルギーのように思う。結論への話がマグネットの結合模様につながればと儚い期待を持って。結合エネルギーの空間像をどのように描き得るかと。

高等学校の理科「化学」での結合エネルギー その結合エネルギーの意味は原子結合での外殻電子の共有結合の結合エネルギーとして解釈しているようだ。その時の電子の結合に果たすエネルギーをどのような物理的意味で捉えているかと解説を読んで確認しても、極めて漠然とした曖昧な意味にしか見えない。共有結合とは、どのように『負の電荷と質量を統合して空間を支配する実在物の電子―これが専門家の素粒子論で曖昧な実在性のままだ―』と言う素粒子が互いに他を共有し合うという結合の理屈が見えない。何故電子同士が結合の力を生みだし得るのか。その共有結合という役割を担う科学論の論理性に基づくエネルギーがどのようなものと捉えているか?その電子同士の結合に関わるエネルギー概念の論理的な解釈・意味合いが全く見えない。それは考える科学と言うより、科学常識を覚える理科教科にしか見えない。生徒も疑問に思っても、授業を邪魔してはいけないから、何故かとは質問もし難かろう。筆者もこの度初めて化学結合の結合エネルギーと言う解説が在ることを知った。検索から学習させて頂いた。しかし残念ながら、筆者の能力では化学での結合エネルギーの意味が理解できない能力不足の壁に突き当たったまま前進できない。その疑問が結合エネルギーの専門家の解説を読んでも、高い砦となって立入れない始末だ。その疑問を恥ずかしながら、ここに記したい。

結合エネルギー 結合エネルギーの意味が理解出来ずに、その疑問の対象に水素、酸素および水について検索から拾った関係式を挙げた。先ず、(1)、(2)式について考える。(1)式は2個の水素原子が結合して水素分子になると、432kJのエネルギーが放射されるという意味なのか?水素原子が分子でなくても普通に存在するという意味か。その原子が2個結合すると放射するエネルギーと水素分子で式の等号がエネルギーの等価の意味で成り立つという意味で捉えたくなる。当然質量がエネルギーとして等価換算された意味での等価性として。その上で、2個の水素原子が結合すると、その水素分子は質量が減少して、結合のエネルギーに費やされてしまうそのエネルギーが432kJの結合エネルギーだという意味か?総体として質量のエネルギー変換量と質量の総和はエネルギーとして同じ意味でなければならないと考える。式の等号の持つ意味に照らして、その+432kJの意味が理解できない。(2)式の酸素の関係についても同じく理解できない。(3)、(4)式の水の生成について286[kJ]と言う生成エネルギーが在ることも初めて知った。この式の意味するところは燃料電池との関係でとても興味を持つ。286[kJ]のエネルギー量は化学の標準気圧で温度273[K]での評価量であろう。燃料電池は水素ボンベの高圧ガスが使われるから水素の保有エネルギーは高いものである。そのような実際の技術との関係で解説が欲しい。その時本当の意味で、286[kJ]の意味が分かる筈だ。燃料電池は電気エネルギーの供給源で、電子で解説されるが、この286[kJ]を電子が負荷に運ぶのだろうか。そんな意味が理科の化学に解説して頂かなければ、「理科基礎」への統一は困難だと思うから。

燃焼 前にお恥ずかしいながら、焚火の科学などを書いた。それも今年(2018/05/26)の記事だ。結局この式を知らなかっただけのことであった。炭素と酸素の結合エネルギーと言うことで、高校生の化学の教科書の内容である。そこで考える。焚火の科学にも有る、何が等価であるか である。上の394[kJ]のエネルギーが結合エネルギーと言う意味なんだろう。炭素と酸素が化学的に結合して、炭酸ガスになる。ここで解説によれば、炭酸ガス1[mol]を分解するには394[kJ]のエネルギーを加えないと、構成要素の炭素と酸素に解離することが出来ないとある。その意味を咀嚼すれば、394[kJ]はCO2の分子の中に結合力として内在しているエネルギーと言う訳ではないようだ。それなら結合エネルギーと言う表現の用語の意味とは異なるように思う。分子CO2内に結合の働きとしての役割を持っているなら、その中に在るエネルギーの筈である。従って外部から394[kJ]のエネルギーを加えて要素に分解するという意味とは異なると思う。新しい大学入試試験問題の内容も記憶だけでなく思考力を重視すると考えられているようだ。この結合エネルギーと言う意味を取上げても、そのエネルギーと言う意味を教育する側が具体的にどのようなものと納得できているのだろうか。何かただ教育手法として過去を引きずっているだけではないか。やっと燃焼の意味が分かったかと安心したのだが、良く考えると能力不足から高校生が学習する内容さえ理解できないで混乱している自分の無様を恥じる。疑問が増えるだけで、理解に至らない。炭素C、燃料の薪を燃やす時の化学的燃焼現象を日常生活の中で理解することが自然科学の理科の教育内容として求められることであろう。炭素と酸素を反応させるには条件が在る筈だ。炭素の1モルは炭素分子(ガス)と言う捉え方はしないようだ。炭素がガス化しないと燃焼条件を満たさないだろう。炭素と高温水蒸気との関係での結合もあるようだ。394kJのエネルギーがどのような意味を持ったものなのかが明確でなければならない。燃焼の発熱エネルギーは結合エネルギーとは関係ないものなのか?炭素と酸素の化学的結合で発生する熱エネルギーが幾らか、またその燃焼環境条件が何かが日常生活に関係した自然科学論として教育すべき内容になると思う。山に柴刈りに行って、薪を蓄え生活の竈を守る営みの中で燃料・炭素の酸化現象は飛び抜けた燃焼の意味になろう。単に結合エネルギーで説明が付くとは思えない。そこには原子構造で硬い粒子の原子構成要素と言う捉え方でない、エネルギー粒子が見えるからの解釈である。当然「電荷」は実在しない事になる。同様に水素燃料電池の発電エネルギーと結合エネルギーの286kJとの関係も明らかにされなければならないと思う。

原子核分裂理論の結合エネルギー 

科学技術の拠り所が原子論である。エレクトロニクスは現代社会の情報革命を成した。エレクトロンはその根源概念の電子である。原子構造論がなければ電子もなかった。原子構成の基は陽子、中性子そして電子となっている。人の意識には『電荷』が在って初めて科学を論じられる。自然の世界は『電荷』の支配と人は意識する。その中でその『電荷』を否定する観点から原子構造に疑問を掛ける。原子核分裂元素で発電技術に利用されるのは殆どウラン235である。核分裂における結合エネルギーは化学結合の結合エネルギーとは意味合いが異なる。原子核内の陽子と中性子が結合することによるその原子の質量欠損分を結合エネルギーと評価しているようだ。基の陽子と中性子の質量の総和よりウラン原子の質量が減少していることを質量欠損として捉え、その質量減少分のエネルギー換算値を結合エネルギーと呼んでいる。そのウラン原子核が核分裂すると、エネルギーが放射されるとの論理が核分裂現象の理論となっている。おかしくは無いか?核分裂の前後で少ない質量から分裂後に質量が増える結果になる。ウラン原子が中性子と陽子の質量の総和より増加していれば、分裂によって質量がエネルギーに変換したと理屈が成り立つ。核分裂して分裂後の質量が増えていれば、核分裂で質量がエネルギーに変換されたとは成らない筈だ。原子核理論の結合エネルギーの意味は、核分裂によるエネルギー放射の理屈が成り立たないではないか。確かに分裂後に陽子と中性子になる訳ではないが、分裂後の分裂原子の全ての質量を算定するなど不可能である。検証はできないが、質量が欠損したウランのどこに質量がエネルギーに変換される論拠が在るのだろうか。実際に原子核分裂でエネルギーを利用している。結合エネルギーの意味にはエネルギーを生み出す原理が見えない。もう一つ理解できない原子核分裂理論が在る。ウラン235はウラン鉱石に0.7%しか存在しない。ウラン238は99%も含まれているが、それは核分裂燃料には成らないようだが、その訳は何故か?自然界の存在限界に近い質量のウランでありながら、何故238は分裂しないのか。その理由が明確でなければ原子核理論が論理的とは言えない。人の科学理論の理解し得ない砦の魔境が在るようにも思える。

マグネット結合 

マグネットは天からの贈り物だ。眺めても何も見えないのに、周りに不思議な力を作り出す。魔法の力だ。物理学でも、磁束を作り出す『磁荷』は世界に存在しない事になっている。電束の基は電荷となっているから、磁荷がなければ磁束も無い筈だ。とは言っても電荷が実在しないにも拘らず電束があると解釈されている電磁界理論であるから、磁束を責める訳にもいかない。実在する世界の根源要素はエネルギーだけで十分である。マグネットもその近傍空間、NSの磁極近傍のエネルギー流がその磁気の機能を特性付けているのである。1年程前に水と水素とエネルギー流として絵図にした記事水の妖精七変化(エネルギー)が在る。水素をマグネットのエネルギー流として解釈した。次のマグネット結合になる。

マグネット結合 結合エネルギーは質量欠損と関連付けられている。結合すると安定するから質量が減少すると解説される。質量は全くエネルギーと等価である。その事からマグネットの結合をその原理の解釈法に取れば納得出来ると考えた。マグネットには磁極近傍空間にエネルギー流が在る。3個のマグネットを結合したとする。それが②である。結合した結果、結合面のエネルギー流はなくなる。3個のマグネットで、6個のエネルギー流が有ったのが、その内のエネルギー流4つが消える。エネルギーと結合(2018/10/10)にも有る。

 

 

大学教育に求められる「電気磁気学」

光は電磁波である。

光とは何かとの問いにそう答えるようだ。

その訳は、光も電磁波も同じ『エネルギーの縦波』であるからだ。

その意味を理解しなければ、電気磁気学の眞髄を教えることは出来ない。

電界や磁界の科学的仮想概念を幾ら論じても求められる大学教育には成らない。

『エネルギー』と電界、磁界の関係をどのように理解しているかが大学教育者に求められていることである。

『電荷』とは何か?と考えることを忘れた大学は歌を忘れたカナリヤと同じだ。

『電荷』無しで、空間を伝播する『エネルギーの波』で電磁波を描いて欲しい。

そうすれば光の意味が観える筈だ。

 

金澤:波はエネルギー流 日本物理学会講演概要集 第66巻2号2分冊、p.310.

金澤:瞬時電磁界理論の実験的検証とその意義 電気学会、電磁界理論研究会資料 EMT-88-145 (1988-10) 『電荷』の物理概念を問う実験写真データ。

世界の実在物理量エネルギー

Energyとは何か? 日常生活で最も関係の深い物理量は何だろうか。陽が昇れば太陽光線を受ける。太陽からの光のエネルギーである。お茶を飲めばお湯の湯加減の熱エネルギーに関わる。テレビを付ければ電気エネルギーを使う。物理学の教科書でエネルギーとは“仕事をする能力”と定義される。確かに太陽光線も電気コイル内のエネルギーも体温の熱エネルギーも仕事をしている能力保有物理量と言えるかも知れないが、どこか落語の頓知話に似ているように思う。世界を構成する根源的物理量は素粒子と言うようだ。どうも気にかかることがある。『エネルギー』も世界の構成源に思えるのだが、どんな素粒子から出来ているというのだろうか?エネルギー(ENERGY)とは?にコメント(スパム?)が多い。

プランク定数の概念

光とは何か 

光の物理的意味をどのように理解するか。光を振動数や電磁波の横波で論じていてはその本質を理解できない筈だ。光は粒子であり、波動であると言われる。確かに粒子のような性質で解釈できる現象を示し、また波動であると解釈できる現象をも示すであろう。その粒子性と波動性の両方を備えた光の空間像を空間エネルギー分布像 光とは何か?-光量子像-として提唱した。また、光の物理的特性はプランクの定数h[Js]によって決定的に特徴づけられる意味が分かっている。すべての光がプランク定数hによってそのエネルギーの評価が出来るという画期的発見に支えられて、光の特性を理解できると考えてよい。

光とプランク定数

光を述べる教科書には必ずプランク定数が登場する。プランク定数がどれ程重要であるかは、教科書をみれば良く分かる。ところが、物理学での光は振動数で解釈されている。光に振動する物理的実体など全く無いと考える筆者には、その振動数という意味が理解できない。改めて、振動数とは何を意味しているかをエネルギーの縦波との関係で解釈したい。合わせてプランク定数の物理的意味を光エネルギーの空間像との関係でもう一度示しておきたい。

光の空間エネルギー像

光は空間エネルギー分布波の縦波の連続波である。その事は実験で証明できない空間エネルギー密度波での解釈であれば、科学論として受け入れられないかもしれない。しかし、最初から光を振動数で解釈する物理学理論に疑問を持っていた。『エネルギー』に対する電気技術感覚からの違和感であった#脚注(1)。

光の物理的最小単位

光は空間を光速度で伝播する物理的実体である。空間内にある体積を占有する物理量実体である。その実体をどのように認識するかが問われていると考える。光を振動数で解釈するのであれば、光の何が振動しているかを明確に示さなければならない筈だ。筆者は光の実体として、振動数に変えて空間エネルギー分布の最小単位εの連続の縦波で解釈する考え方を提唱したい。

物理的最小単位

表現式ε=hνには空間的な意味を観えない。しかし波長λで表現すれば、空間寸法内のエネルギー量と観ることが出来よう。波長λに因るその光の最小エネルギー量を物理的最小単位εと解釈する。その光の最小単位が占める空間寸法をどのように解釈するかの問題は残るが、波長λに関係付けた体積と考えて良いだろう。このエネルギー量の ε[J]が波長λの空間長さ内に一塊りとしてある分布形を成す物理的実体と看做す。全く質量の無い空間エネルギーの実在体。このエネルギー感覚が物理学理論・概念には無いように思う。その認識が理解されるかの問題と思う。

波長について(2018/09/04)追記

今まで、光の波長λ[m]について無意識にエネルギー分布波の繰り返しの波長として取り扱って来た。その波長は標準的な正弦波の波長とは異なる。一般には正弦波の一サイクルを1波長と定義している。正弦波の一サイクルはエネルギー波で見れば二つのエネルギー波から成り、エネルギー波の2波長分となる。例えば正弦波50[Hz]の電圧波ではエネルギーの波100[Hz]となる。従って電磁波の周波数および波長に対して、エネルギー分布波の周波数は2倍、波長は二分の一の長さとなる。光の物理的実験の経験が無いから実際の光の波長観測の意味は分からない。この事から、振動数νと波長λについての意味もエネルギー波で全て評価して来たので、一般的な定義と異なることを指摘させて頂きたい。

光量子空間像と概念

光の正体で示した図である。(2018/09/03)追記。この光量子空間像の表現には波長とエネルギー分布波形で、波頭値の意味が分かり難い。波長との関係を次の図で示す。

波長とエネルギー分布模様

大よその波長比較として、赤、緑、青および紫外線を念頭に取上げてエネルギー分布模様を描いた。その光の先頭値である波頭値の比較を(波頭値比較)として図の左側に描いた。光の波長で、その作用の強さが異なる訳は周波数の高い程エネルギー分布の波頭値密度が高いからだと解釈する。その波形分布式を次に示す。

光の空間像 

光のエネルギー分布波形を時間を止めた瞬間でのエネルギー分布波形の一つの表現式である。この波頭値Hλ[J/㎥]が波長の4乗に反比例する場合の式である。この表現式はエネルギー分布が進行方向に均等分布平面波との一つの条件での式であり、条件で変わる筈である。光のエネルギー分布の軸性(光の偏光に関係すると考える)は考慮していない波形である。

  プランク定数の物理的概念

光の最小エネルギー単位εの空間寸法λは空間を通過する時間の周期τで置き換えられる。すべての光はその最小エネルギー単位εとその空間通過時間の周期τとの積が一定であるというプランク定数の物理的意味を持っている。特別目新しい内容は無いが、プランク定数の物理的意味は光の空間エネルギー分布形態で解釈する処にあると言えよう。

 

#脚注(1)

  • 金澤:物理学が問われていること 日本物理学会講演概要集 第55巻2号2分冊310頁(2000)
  • 金澤:プランク定数の次元と実在概念 同上 56-1-2、p.310. (2001)

焚火の科学

追記(2018/06/02) 燃焼の不思議。焚火の科学などと記事にした。後から考えるとまた分からない事が増えた。焚火は古代からの人の生活文化でもあった。現代では焚火は生活からほとんど消えた。残ったのは炭素と酸素の化学反応方程式だけのようだ。温かみも無く、ただ無味乾燥な記憶の科学理論だけである。薪が何故燃えるのだろうか?炭素と酸素が結合して、炭酸ガスになると何故熱エネルギーが発生するのだろうか。科学理論の本来の有るべき意味は何だったのだろうか。自然現象を前にして、その因って立つ原因や本質を自分の心に納得出来るかを求める作務ではなかろうか。化学方程式で書き表されただけで、何故燃焼が起き、熱エネルギーが発生するかを得心出来るのだろうか。その求めるべき科学理論の有り方を考えて来なかったのではなかろうか。決して『電子』では得心には至らないと思う。

燃焼の不思議 燃料が燃焼して熱エネルギーを発生する。酸素と薪が有っても決して燃焼しない。化学方程式には何の燃焼の条件も示されていない。発生する大事な熱エネルギーさえ無視されている。燃料電池が最先端科学技術として研究開発されている。水素元素の放射スペクトラムは物理学基礎理論として仰々しく論じられてきた。しかし燃料電池の水素の燃焼条件は理論的には何も分からないのではなかろうか。実際は技術として確立しているから、どのような温度とかどのような触媒で有れば効率が良いとかは分かっているだろう。その条件の訳が理論的に分かっているかと言うことが科学理論の求める姿であろう。その水素の変化とか酸素の変化とかが無ければ特別燃焼、酸化反応の環境条件など必要ではない筈だ。元素が化学反応する為に変化する条件が必要な訳であろう。薪が燃焼するに必要なその環境がある。熱エネルギーに因って蒸気ガスにならなければ燃焼には至らないという物理的条件がある。持続して熱エネルギーを採り出すにはどのような条件が必要かを明らかにすることが科学理論として求められている事ではなかろうか。『電子』では説明できない筈である。燃焼の条件を満たした炭素や酸素は、それまでの前の状態と異なっている筈だ。炭素や酸素が燃焼可能条件に達するに必要な熱エネルギーを吸収して、その後に燃焼反応に至る訳だから、その差の熱エネルギーが有効に利用可能な熱エネルギーになる訳である。燃焼の自然現象を理解するという意味には、そこにとても複雑な内容を含んでいるということを理解する必要があろう。少なくとも熱エネルギーを付け加えた方程式で表現する必要があろう。熱エネルギーを『電子』で理論的に説明できれば良いのだが?御免なさい、電荷を捨てて、元素ってどんな構造をしているのかと考えるから益々混乱した事を書いてしまうのだろう。済みません、過去に同じような記事焚火と蝋燭を書いていた。

焚火をすれば、周りの人は暖かくなる。その自然現象を表現してみよう。大雑把に考えてみた。(2018/10/18)追記。この記事を書いた後、最近になって初めて知った。高等学校の化学では、化学反応式にエネルギーが示されていることを。エネルギーと結合にも述べた。従って以下の記事は時代遅れの知識の基での内容であり、大変失礼なことで申し訳ない。少し安心した。

C + O2 = CO2       (1)

焚火の燃料を薪とすれば、その主な燃料成分は炭素 C であろう。炭素の燃焼には酸素が関わる。炭素と酸素の燃焼の化学式は上のように表される。学校で学習するのはこのような式の意味を理解することであろう。

さて、焚火をして寒さを凌いで温まるのを目的とする。その自然現象を式に表すとしたらどうなるか。上の式では温まれない。何が足りないか?体を温める焚火の炎から放射される光や熱線が式には表されていない。

C + O2 = CO2 + [光・熱エネルギー]    (2)

化学方程式には『エネルギー』が書き表されていない。大事な物理的自然現象の意味はその『エネルギー』にある。炭素Cと酸素分子O2が結合して炭酸ガスCO2となる。(1)式と (2)式の違いは[光・熱エネルギー]の有る無しである。化学式の左右が等号で結ばれている意味は左右の表現する科学的内容が等価であることと認識している訳である。

何が等価であるか 炭素も酸素もその元素記号で示す内容が同じものとしたら、即ち質量などが等しいとしたら、[光・熱エネルギー]を付け加える訳にはいかないのである。しかし自然現象に隠されたものは、左右の炭素、酸素が決して同じものと考えてはいけない事である。[光・熱エネルギー]分だけ炭素と酸素が化学結合することに因って、素の炭素と酸素とは異なったものであると考えなければならない。[光・熱エネルギー]で暖を採れるのだから、それは確実に実在している物理量である。この『エネルギー』を書き表さない化学式は間違っている。

鉛蓄電池のエネルギー 鉛蓄電池はとても優れた『エネルギー』源である。その『エネルギー』源としての化学式を書いてみましょう。

Pd + H2SO4 = H2 + PdSO4

H2 + (1/2)O2 = H2O

と化学式では表現される。

さて鉛蓄電池の『エネルギー』はどこに行ったのか?利用するべき『エネルギー』が何処にも無いのである。焚火の場合は、温まるという実感が分かり易い現実としてあるから、[光・熱エネルギー]を付け加えることが必要とは理解出来よう。しかし、鉛蓄電池になるとちょっと説得するのが困難なほど、科学理論では『エネルギー』の意味が良く理解されていないようである。上の硫酸と鉛の化学反応式には必ず『エネルギー』が付け加えられなければ、科学理論式とは言えない筈だ。

むすび 電池の化学式には『エネルギー』が書き加えられない限り、理論式として不完全である。その『エネルギー』の意味を焚火に託して一言述べた。電子で『エネルギー』を供給すると言うなら、電池からどのように電子がその役割を果たすかの論理的な解説ができなければならない筈だ。論理性が大切な科学論で、ただ電子が負荷を通るだけじゃ、理屈の分かる科学者の論としては「ただ子供の使いじゃあるまいし、もっと理論的に説明すべきだ」と非難されても止むを得なかろう。ただ電子に曖昧さをの責任を負わせて逃げている事では教育に成っていなかろう(2019/06/17追記)。