タグ別アーカイブ: Education

和の趣き(2018年報告)

不立文字と言う東洋哲学の用語がある。筆者はその言葉の意味を、自然世界の事象を極めんとして深く学べば、常識的な言葉で表現出来なくなるという意味で捉えている。新しい科学的発見と言う意味で世界に新しい認識を広げる事と真逆の方向性、即ち今までの常識的解釈で認識していた世界の意味を深く突き詰める事によって矛盾が観えて来て、今までの常識的認識は真理から離れた上辺の捉え方で在ったと気付くことを表現した言葉のように思う。だから常識的な科学的専門用語が使えなくなってしまい、常識的な科学論が出来なくなる窮地に陥ることを指している言葉のようだ。電気磁気学を解釈するに「電荷」の必要が無くなってしまった。自然科学を論説するに科学常識となっている原子とその構造は誰もが納得し信頼する基礎概念であった筈であるが、電荷を否定したら、何を基礎として自然現象を解釈すれば良いか分からない窮地に陥ることとなる。当然電界も磁界も使えなくなる。それが自然世界を深く理解する結果の到達点で、いわゆる不立文字が表現する状態の意味になる。インドに生まれた東洋思想・東洋哲学の眞髄は解釈の矛盾を突き詰めて、削ぎ落しによる中心にある真理を悟ることにあるのだろうと考える。残るものは『エネルギー』一つになる。それは光であり、熱であり、結局質量である。すべては「色即是空」の見えるもの又見えないものと変幻自在に変化する認識量が『色』であり、見えたと思えば見えなくなる『空』でもあるという意味ではないか。そんな解釈論は自然科学の実証・検証による論理性が成り立たない話となってしまう。それが不立文字と言う事であろう。2018年の投稿記事をまとめてみれば、『エネルギー』の意味を尋ね歩いただけのようである。それでも自然科学論の心算である。『エネルギー』の空間分布構造を実験的検証で示すのが理想の科学的手法であることを突きつけられれば、記した記事の内容は空間エネルギー分布を測定していないから科学論でなく哲学となるかもしれない。(2019/02/01)追記。少し気が引ける思いである。標題の『和の趣き』で、ある出版社の本やお酒の名前に使われていることを知った。御免ね。(2019/02/02)追記。『不立文字』は昭和62年9月1日に始まったのかもしれない。電流は流れず の決断を自分に課したのがその年の8月であった。標題の『和』は総和で無く、東洋的という意味合いだ。

4月2日 哲学と科学 ここには『正の電荷』を誰が発見し、どのような場面でその存在が観測・証明できるのか。を問う事を記した。電子と言う負の電荷は陰極線として観察されている。しかし、正の電荷はどんな場面で観測されるのか。

生物とエネルギー 1月4日 体温とエネルギー 1月5日 生命と酸素 12月16日 生命活動とエネルギー 

原始・電子・エネルギー 原子・分子結合力と周回軌道電子論の矛盾(1月9日) 半導体とバンド理論を尋ねて(5月14日) エネルギーから電子殻を問う(5月21日) 電池における電子の役割を問う(5月24日) エネルギーと結合(10月10日) 結合エネルギー:不思議の砦(12月2日) エネルギーの象形(12月5日)

電気現象と技術・エネルギー 白熱電球のエネルギー変換原理は?(2月12日) 電気回路要素『抵抗』の物理的意味(2月24日) 『瞬時電力』の物理的意味 (3月15日)技術概念『電流』とその測定(9月24日) 瞬時電磁界と概念(10月23日) エネルギー その見えざる正体(11月6日)

地球の景色 青空と白い雲(1月18日) 太陽系はどのような力学によってその位置に存在するのか?(3月28日) 津波と圧力水頭(5月1日) フェーン現象(6月17日) 波の心を観る(11月14日) 山の木霊(12月20日)

哲学・光・エネルギー 光の正体(1月25日) エネルギーの速度(4月2日) 非力学的エネルギー(4月10日) 世界は不思議(5月6日) 焚火の科学(5月26日) 水辺の散策(6月16日) プランク定数の概念(7月17日) 世界の実在物理量エネルギー(7月26日) 運動エネルギーの概念(9月15日)

結合エネルギー:不思議の砦

結合エネルギーの世界
最近高等学校の化学の授業内容で結合エネルギーがあることを知った。ヘスの法則も1840年頃の発表であったらしい。しかし1954年に受けた授業の化学には無かった内容のように思うが、勉強しなかった為に知らなかっただけなのかも。筆者の知らない世界の化学であった。時代遅れを恥じる。結合エネルギーと言う用語は、高等学校での電気工学の教科「発変電」を教える時に、原子核分裂の物理現象の解釈理論として学習書を通して初めて学んだ。原子理論の質量ーエネルギー等価則として理解して来た。その原子理論の結合エネルギーを今考え直してみると、混乱してしまうほど理解できていない自分に戸惑う。筆者も高校1年生で化学の授業を受けた。原子結合の共有結合がクーロンの法則の原則に従わずに手を繋ぐ意味が分からず、化学への学習閉塞を来たしてしまった過去が在る。そんな過去を今まで引き摺って来たのかと思うほど、高等学校の理科の科目、化学の結合エネルギーと原子核理論のそれとは真逆の意味ではないかとさえ錯覚するほど混乱をしている。原子の鉄を境にして変わると原子論では唱えられる。そこで、結合エネルギーの物理的意味は『エネルギー』の空間実在量として解釈する時、どのようなものと捉えれば良いか疑問に突き当たる。高校生が学習できるのに筆者には理解できない現在の化学の結合エネルギーのように思う。結論への話がマグネットの結合模様につながればと儚い期待を持って。結合エネルギーの空間像をどのように描き得るかと。

高等学校の理科「化学」での結合エネルギー その結合エネルギーの意味は原子結合での外殻電子の共有結合の結合エネルギーとして解釈しているようだ。その時の電子の結合に果たすエネルギーをどのような物理的意味で捉えているかと解説を読んで確認しても、極めて漠然とした曖昧な意味にしか見えない。共有結合とは、どのように『負の電荷と質量を統合して空間を支配する実在物の電子―これが専門家の素粒子論で曖昧な実在性のままだ―』と言う素粒子が互いに他を共有し合うという結合の理屈が見えない。何故電子同士が結合の力を生みだし得るのか。その共有結合という役割を担う科学論の論理性に基づくエネルギーがどのようなものと捉えているか?その電子同士の結合に関わるエネルギー概念の論理的な解釈・意味合いが全く見えない。それは考える科学と言うより、科学常識を覚える理科教科にしか見えない。生徒も疑問に思っても、授業を邪魔してはいけないから、何故かとは質問もし難かろう。筆者もこの度初めて化学結合の結合エネルギーと言う解説が在ることを知った。検索から学習させて頂いた。しかし残念ながら、筆者の能力では化学での結合エネルギーの意味が理解できない能力不足の壁に突き当たったまま前進できない。その疑問が結合エネルギーの専門家の解説を読んでも、高い砦となって立入れない始末だ。その疑問を恥ずかしながら、ここに記したい。

結合エネルギー 結合エネルギーの意味が理解出来ずに、その疑問の対象に水素、酸素および水について検索から拾った関係式を挙げた。先ず、(1)、(2)式について考える。(1)式は2個の水素原子が結合して水素分子になると、432kJのエネルギーが放射されるという意味なのか?水素原子が分子でなくても普通に存在するという意味か。その原子が2個結合すると放射するエネルギーと水素分子で式の等号がエネルギーの等価の意味で成り立つという意味で捉えたくなる。当然質量がエネルギーとして等価換算された意味での等価性として。その上で、2個の水素原子が結合すると、その水素分子は質量が減少して、結合のエネルギーに費やされてしまうそのエネルギーが432kJの結合エネルギーだという意味か?総体として質量のエネルギー変換量と質量の総和はエネルギーとして同じ意味でなければならないと考える。式の等号の持つ意味に照らして、その+432kJの意味が理解できない。(2)式の酸素の関係についても同じく理解できない。(3)、(4)式の水の生成について286[kJ]と言う生成エネルギーが在ることも初めて知った。この式の意味するところは燃料電池との関係でとても興味を持つ。286[kJ]のエネルギー量は化学の標準気圧で温度273[K]での評価量であろう。燃料電池は水素ボンベの高圧ガスが使われるから水素の保有エネルギーは高いものである。そのような実際の技術との関係で解説が欲しい。その時本当の意味で、286[kJ]の意味が分かる筈だ。燃料電池は電気エネルギーの供給源で、電子で解説されるが、この286[kJ]を電子が負荷に運ぶのだろうか。そんな意味が理科の化学に解説して頂かなければ、「理科基礎」への統一は困難だと思うから。

燃焼 前にお恥ずかしいながら、焚火の科学などを書いた。それも今年(2018/05/26)の記事だ。結局この式を知らなかっただけのことであった。炭素と酸素の結合エネルギーと言うことで、高校生の化学の教科書の内容である。そこで考える。焚火の科学にも有る、何が等価であるか である。上の394[kJ]のエネルギーが結合エネルギーと言う意味なんだろう。炭素と酸素が化学的に結合して、炭酸ガスになる。ここで解説によれば、炭酸ガス1[mol]を分解するには394[kJ]のエネルギーを加えないと、構成要素の炭素と酸素に解離することが出来ないとある。その意味を咀嚼すれば、394[kJ]はCO2の分子の中に結合力として内在しているエネルギーと言う訳ではないようだ。それなら結合エネルギーと言う表現の用語の意味とは異なるように思う。分子CO2内に結合の働きとしての役割を持っているなら、その中に在るエネルギーの筈である。従って外部から394[kJ]のエネルギーを加えて要素に分解するという意味とは異なると思う。新しい大学入試試験問題の内容も記憶だけでなく思考力を重視すると考えられているようだ。この結合エネルギーと言う意味を取上げても、そのエネルギーと言う意味を教育する側が具体的にどのようなものと納得できているのだろうか。何かただ教育手法として過去を引きずっているだけではないか。やっと燃焼の意味が分かったかと安心したのだが、良く考えると能力不足から高校生が学習する内容さえ理解できないで混乱している自分の無様を恥じる。疑問が増えるだけで、理解に至らない。炭素C、燃料の薪を燃やす時の化学的燃焼現象を日常生活の中で理解することが自然科学の理科の教育内容として求められることであろう。炭素と酸素を反応させるには条件が在る筈だ。炭素の1モルは炭素分子(ガス)と言う捉え方はしないようだ。炭素がガス化しないと燃焼条件を満たさないだろう。炭素と高温水蒸気との関係での結合もあるようだ。394kJのエネルギーがどのような意味を持ったものなのかが明確でなければならない。燃焼の発熱エネルギーは結合エネルギーとは関係ないものなのか?炭素と酸素の化学的結合で発生する熱エネルギーが幾らか、またその燃焼環境条件が何かが日常生活に関係した自然科学論として教育すべき内容になると思う。山に柴刈りに行って、薪を蓄え生活の竈を守る営みの中で燃料・炭素の酸化現象は飛び抜けた燃焼の意味になろう。単に結合エネルギーで説明が付くとは思えない。そこには原子構造で硬い粒子の原子構成要素と言う捉え方でない、エネルギー粒子が見えるからの解釈である。当然「電荷」は実在しない事になる。同様に水素燃料電池の発電エネルギーと結合エネルギーの286kJとの関係も明らかにされなければならないと思う。

原子核分裂理論の結合エネルギー 

科学技術の拠り所が原子論である。エレクトロニクスは現代社会の情報革命を成した。エレクトロンはその根源概念の電子である。原子構造論がなければ電子もなかった。原子構成の基は陽子、中性子そして電子となっている。人の意識には『電荷』が在って初めて科学を論じられる。自然の世界は『電荷』の支配と人は意識する。その中でその『電荷』を否定する観点から原子構造に疑問を掛ける。原子核分裂元素で発電技術に利用されるのは殆どウラン235である。核分裂における結合エネルギーは化学結合の結合エネルギーとは意味合いが異なる。原子核内の陽子と中性子が結合することによるその原子の質量欠損分を結合エネルギーと評価しているようだ。基の陽子と中性子の質量の総和よりウラン原子の質量が減少していることを質量欠損として捉え、その質量減少分のエネルギー換算値を結合エネルギーと呼んでいる。そのウラン原子核が核分裂すると、エネルギーが放射されるとの論理が核分裂現象の理論となっている。おかしくは無いか?核分裂の前後で少ない質量から分裂後に質量が増える結果になる。ウラン原子が中性子と陽子の質量の総和より増加していれば、分裂によって質量がエネルギーに変換したと理屈が成り立つ。核分裂して分裂後の質量が増えていれば、核分裂で質量がエネルギーに変換されたとは成らない筈だ。原子核理論の結合エネルギーの意味は、核分裂によるエネルギー放射の理屈が成り立たないではないか。確かに分裂後に陽子と中性子になる訳ではないが、分裂後の分裂原子の全ての質量を算定するなど不可能である。検証はできないが、質量が欠損したウランのどこに質量がエネルギーに変換される論拠が在るのだろうか。実際に原子核分裂でエネルギーを利用している。結合エネルギーの意味にはエネルギーを生み出す原理が見えない。もう一つ理解できない原子核分裂理論が在る。ウラン235はウラン鉱石に0.7%しか存在しない。ウラン238は99%も含まれているが、それは核分裂燃料には成らないようだが、その訳は何故か?自然界の存在限界に近い質量のウランでありながら、何故238は分裂しないのか。その理由が明確でなければ原子核理論が論理的とは言えない。人の科学理論の理解し得ない砦の魔境が在るようにも思える。

マグネット結合 

マグネットは天からの贈り物だ。眺めても何も見えないのに、周りに不思議な力を作り出す。魔法の力だ。物理学でも、磁束を作り出す『磁荷』は世界に存在しない事になっている。電束の基は電荷となっているから、磁荷がなければ磁束も無い筈だ。とは言っても電荷が実在しないにも拘らず電束があると解釈されている電磁界理論であるから、磁束を責める訳にもいかない。実在する世界の根源要素はエネルギーだけで十分である。マグネットもその近傍空間、NSの磁極近傍のエネルギー流がその磁気の機能を特性付けているのである。1年程前に水と水素とエネルギー流として絵図にした記事水の妖精七変化(エネルギー)が在る。水素をマグネットのエネルギー流として解釈した。次のマグネット結合になる。

マグネット結合 結合エネルギーは質量欠損と関連付けられている。結合すると安定するから質量が減少すると解説される。質量は全くエネルギーと等価である。その事からマグネットの結合をその原理の解釈法に取れば納得出来ると考えた。マグネットには磁極近傍空間にエネルギー流が在る。3個のマグネットを結合したとする。それが②である。結合した結果、結合面のエネルギー流はなくなる。3個のマグネットで、6個のエネルギー流が有ったのが、その内のエネルギー流4つが消える。エネルギーと結合(2018/10/10)にも有る。

 

 

大学教育に求められる「電気磁気学」

光は電磁波である。

光とは何かとの問いにそう答えるようだ。

その訳は、光も電磁波も同じ『エネルギーの縦波』であるからだ。

その意味を理解しなければ、電気磁気学の眞髄を教えることは出来ない。

電界や磁界の科学的仮想概念を幾ら論じても求められる大学教育には成らない。

『エネルギー』と電界、磁界の関係をどのように理解しているかが大学教育者に求められていることである。

『電荷』とは何か?と考えることを忘れた大学は歌を忘れたカナリヤと同じだ。

『電荷』無しで、空間を伝播する『エネルギーの波』で電磁波を描いて欲しい。

そうすれば光の意味が観える筈だ。

 

金澤:波はエネルギー流 日本物理学会講演概要集 第66巻2号2分冊、p.310.

金澤:瞬時電磁界理論の実験的検証とその意義 電気学会、電磁界理論研究会資料 EMT-88-145 (1988-10) 『電荷』の物理概念を問う実験写真データ。

世界の実在物理量エネルギー

Energyとは何か? 日常生活で最も関係の深い物理量は何だろうか。陽が昇れば太陽光線を受ける。太陽からの光のエネルギーである。お茶を飲めばお湯の湯加減の熱エネルギーに関わる。テレビを付ければ電気エネルギーを使う。物理学の教科書でエネルギーとは“仕事をする能力”と定義される。確かに太陽光線も電気コイル内のエネルギーも体温の熱エネルギーも仕事をしている能力保有物理量と言えるかも知れないが、どこか落語の頓知話に似ているように思う。世界を構成する根源的物理量は素粒子と言うようだ。どうも気にかかることがある。『エネルギー』も世界の構成源に思えるのだが、どんな素粒子から出来ているというのだろうか?エネルギー(ENERGY)とは?にコメント(スパム?)が多い。

プランク定数の概念

光とは何か 光の物理的意味をどのように理解するか。光を振動数や電磁波の横波で論じていてはその本質を理解できない筈だ。光は粒子であり、波動であると言われる。確かに粒子のような性質で解釈できる現象を示し、また波動であると解釈できる現象をも示すであろう。その粒子性と波動性の両方を備えた光の空間像を空間エネルギー分布像 光とは何か?-光量子像-として提唱した。また、光の物理的特性はプランクの定数h[Js]によって決定的に特徴づけられる意味が分かっている。すべての光がプランク定数hによってそのエネルギーの評価が出来るという画期的発見に支えられて、光の特性を理解できると考えてよい。

光とプランク定数 光を述べる教科書には必ずプランク定数が登場する。プランク定数がどれ程重要であるかは、教科書をみれば良く分かる。ところが、物理学での光は振動数で解釈されている。光に振動する物理的実体など全く無いと考える筆者には、その振動数という意味が理解できない。改めて、振動数とは何を意味しているかをエネルギーの縦波との関係で解釈したい。合わせてプランク定数の物理的意味を光エネルギーの空間像との関係でもう一度示しておきたい。

光の空間エネルギー像 光は空間エネルギー分布波の縦波の連続波である。観測の実験経験も無い筆者がトンデモナイ事を言うと批判されることは承知だ。科学の世界ではあり得ない事だから。しかも、実験で証明できない空間エネルギー密度波での解釈であれば、科学論として受け入れられないかもしれない。しかし、最初から光を振動数で解釈する物理学理論に疑問を持っていた。『エネルギー』に対する電気技術感覚からの違和感であった#脚注(1)。

光の物理的最小単位 光は空間を光速度で伝播する物理的実体である。空間内にある体積を占有する物理量実体である。その実体をどのように認識するかが問われていると考える。光を振動数で解釈するのであれば、光の何が振動しているかを明確に示さなければなるまい。筆者は光の実体として、振動数に変えて空間エネルギー分布の最小単位εの連続の縦波で解釈する考え方を提唱したい。

物理的最小単位 ε=hνの表現に空間的な意味は観えない。しかし波長λで表現すれば、空間寸法内のエネルギー量と観ることが出来よう。波長λに因るその光の最小エネルギー量を物理的最小単位εと解釈する。その光の最小単位が占める空間寸法をどのように解釈するかの問題は残るが、波長λに関係付けた体積と考えて良かろう。このエネルギーε[J]が波長λの空間長さ内に一塊りとしてある分布形を成す物理的実体と看做す。全く質量の無い空間エネルギーの実在体。このエネルギー感覚が物理学理論・概念には無いように思う。その認識が理解されるかの問題と思う。

波長について(2018/09/04)追記 今まで光の波長λ[m]について無意識にエネルギー分布波の繰り返しの波長として取り扱って来た。その波長は標準的な正弦波の波長とは異なる。一般には正弦波の一サイクルを1波長と定義している。正弦波の一サイクルはエネルギー波で見れば二つの繰り返し波から成り、エネルギー波の2波長分を指す。例えば正弦波50[Hz]の電圧波ではエネルギーの波100[Hz]となる。従って電磁波の周波数および波長に対して、エネルギー分布波の周波数は2倍、波長は二分の一の長さとなる。光の物理的実験の経験が無いから実際の光の波長観測の意味は分からない。この事から、振動数νと波長λについての意味もエネルギー波で全て評価して来たので、一般的な定義と異なることを指摘させて頂きたい。

光量子空間像と概念 光の正体で示した図である。(2018/09/03)追記。この光量子空間像の表現には波長とエネルギー分布波形で、波頭値の意味が分かり難い。波長との関係を次の図で示す。

波長とエネルギー分布模様 大よその波長比較として、赤、緑、青および紫外線を念頭に取上げてエネルギー分布模様を描いた。その光の先頭値である波頭値の比較を(波頭値比較)として描いた。光の波長で、その作用の強さが異なる訳は、周波数が高い程エネルギー分布の波頭値密度が高いからだと解釈する。その波形分布式を次に示す。

光の空間像 光のエネルギー分布波形を時間を止めた瞬間でのエネルギー分布波形の一つの表現式である。この波頭値Hλ[J/㎥]が波長の4乗に反比例する場合の式である。この表現式はエネルギー分布が進行方向に均等分布平面波との一つの条件での式であり、条件で変わる筈である。光のエネルギー分布の軸性(光の偏光に関係すると考える)は考慮していない波形である。

  プランク定数の物理的概念 光の最小エネルギー単位εの空間寸法λは空間を通過する時間の周期τで置き換えられる。すべての光はその最小エネルギー単位εとその空間通過時間の周期τとの積が一定であるというプランク定数の物理的意味を持っている。特別目新しい内容は無いが、プランク定数の物理的意味は光の空間エネルギー分布形態で解釈する処にあると言えよう。

 

#脚注(1)

  • 金澤:物理学が問われていること 日本物理学会講演概要集 第55巻2号2分冊310頁(2000)
  • 金澤:プランク定数の次元と実在概念 同上 56-1-2、p.310. (2001)

焚火の科学

追記(2018/06/02) 燃焼の不思議。焚火の科学などと記事にした。後から考えるとまた分からない事が増えた。焚火は古代からの人の生活文化でもあった。現代では焚火は生活からほとんど消えた。残ったのは炭素と酸素の化学反応方程式だけのようだ。温かみも無く、ただ無味乾燥な記憶の科学理論だけである。薪が何故燃えるのだろうか?炭素と酸素が結合して、炭酸ガスになると何故熱エネルギーが発生するのだろうか。科学理論の本来の有るべき意味は何だったのだろうか。自然現象を前にして、その因って立つ原因や本質を自分の心に納得出来るかを求める作務ではなかろうか。化学方程式で書き表されただけで、何故燃焼が起き、熱エネルギーが発生するかを得心出来るのだろうか。その求めるべき科学理論の有り方を考えて来なかったのではなかろうか。決して『電子』では得心には至らないと思う。

燃焼の不思議 燃料が燃焼して熱エネルギーを発生する。酸素と薪が有っても決して燃焼しない。化学方程式には何の燃焼の条件も示されていない。発生する大事な熱エネルギーさえ無視されている。燃料電池が最先端科学技術として研究開発されている。水素元素の放射スペクトラムは物理学基礎理論として仰々しく論じられてきた。しかし燃料電池の水素の燃焼条件は理論的には何も分からないのではなかろうか。実際は技術として確立しているから、どのような温度とかどのような触媒で有れば効率が良いとかは分かっているだろう。その条件の訳が理論的に分かっているかと言うことが科学理論の求める姿であろう。その水素の変化とか酸素の変化とかが無ければ特別燃焼、酸化反応の環境条件など必要ではない筈だ。元素が化学反応する為に変化する条件が必要な訳であろう。薪が燃焼するに必要なその環境がある。熱エネルギーに因って蒸気ガスにならなければ燃焼には至らないという物理的条件がある。持続して熱エネルギーを採り出すにはどのような条件が必要かを明らかにすることが科学理論として求められている事ではなかろうか。『電子』では説明できない筈である。燃焼の条件を満たした炭素や酸素は、それまでの前の状態と異なっている筈だ。炭素や酸素が燃焼可能条件に達するに必要な熱エネルギーを吸収して、その後に燃焼反応に至る訳だから、その差の熱エネルギーが有効に利用可能な熱エネルギーになる訳である。燃焼の自然現象を理解するという意味には、そこにとても複雑な内容を含んでいるということを理解する必要があろう。少なくとも熱エネルギーを付け加えた方程式で表現する必要があろう。熱エネルギーを『電子』で理論的に説明できれば良いのだが?御免なさい、電荷を捨てて、元素ってどんな構造をしているのかと考えるから益々混乱した事を書いてしまうのだろう。済みません、過去に同じような記事焚火と蝋燭を書いていた。

焚火をすれば、周りの人は暖かくなる。その自然現象を表現してみよう。大雑把に考えてみた。(2018/10/18)追記。この記事を書いた後、最近になって初めて知った。高等学校の化学では、化学反応式にエネルギーが示されていることを。エネルギーと結合にも述べた。従って以下の記事は時代遅れの知識の基での内容であり、大変失礼なことで申し訳ない。少し安心した。

C + O2 = CO2       (1)

焚火の燃料を薪とすれば、その主な燃料成分は炭素 C であろう。炭素の燃焼には酸素が関わる。炭素と酸素の燃焼の化学式は上のように表される。学校で学習するのはこのような式の意味を理解することであろう。

さて、焚火をして寒さを凌いで温まるのを目的とする。その自然現象を式に表すとしたらどうなるか。上の式では温まれない。何が足りないか?体を温める焚火の炎から放射される光や熱線が式には表されていない。

C + O2 = CO2 + [光・熱エネルギー]    (2)

化学方程式には『エネルギー』が書き表されていない。大事な物理的自然現象の意味はその『エネルギー』にある。炭素Cと酸素分子O2が結合して炭酸ガスCO2となる。(1)式と (2)式の違いは[光・熱エネルギー]の有る無しである。化学式の左右が等号で結ばれている意味は左右の表現する科学的内容が等価であることと認識している訳である。

何が等価であるか 炭素も酸素もその元素記号で示す内容が同じものとしたら、即ち質量などが等しいとしたら、[光・熱エネルギー]を付け加える訳にはいかないのである。しかし自然現象に隠されたものは、左右の炭素、酸素が決して同じものと考えてはいけない事である。[光・熱エネルギー]分だけ炭素と酸素が化学結合することに因って、素の炭素と酸素とは異なったものであると考えなければならない。[光・熱エネルギー]で暖を採れるのだから、それは確実に実在している物理量である。この『エネルギー』を書き表さない化学式は間違っている。

鉛蓄電池のエネルギー 鉛蓄電池はとても優れた『エネルギー』源である。その『エネルギー』源としての化学式を書いてみましょう。

Pd + H2SO4 = H2 + PdSO4

H2 + (1/2)O2 = H2O

と化学式では表現される。

さて鉛蓄電池の『エネルギー』はどこに行ったのか?利用するべき『エネルギー』が何処にも無いのである。焚火の場合は、温まるという実感が分かり易い現実としてあるから、[光・熱エネルギー]を付け加えることが必要とは理解出来よう。しかし、鉛蓄電池になるとちょっと説得するのが困難なほど、科学理論では『エネルギー』の意味が良く理解されていないようである。上の硫酸と鉛の化学反応式には必ず『エネルギー』が付け加えられなければ、科学理論式とは言えない筈だ。

むすび 電池の化学式には『エネルギー』が書き加えられない限り、理論式として不完全である。その『エネルギー』の意味を焚火に託して一言述べた。電子は『エネルギー』ではないのだ。

電池における電子の役割を問う

はじめに 半導体のpn junction (pn接合部)のエネルギーギャップの意味を考えてみた。電池の意味との関連を考えた。電池の原理を問う (2014/11/27) があった。

電池電圧とエネルギー 電池はエネルギーの貯蔵庫であり、エネルギーの供給源である。人の思考における常識が如何に自己に立ちふさがる障壁となるか。すべてが『エレクトロニクス』の支配する世界に居る。その語源でもある『エレクトロン(電子)』の存在の意義を問うことになる。人は高いことを低いより有利と考えがちであろう。電圧が高ければ高い程、それは影響力が強いと考えるだろう。電圧が高いという表現は良くないのであるが、技術用語としては電位が高いとなろう。科学技術用語の持つ常識に『電圧』が有り、プラス極とマイナス極でその電圧の高い方と低い方を区別している。電池はエネルギーの供給源であることは誰もが知っていよう。しかし、誰もがその『エネルギー』とは何かを知っているかと問えば、さて答えられるであろうか。答えられなくても、決して気にしなくてもよい。『電子』に因って解説している人は殆ど『エネルギー』の意味を考えていない人が殆どであるから。ましてや化学方程式に因って解説する場合は、殆どその方程式の変換過程の中でその空間に実在する『エネルギー』を意識することは無い筈である。乾電池も蓄電池も+端子から電流が流れて、負荷にエネルギーを供給すると考える。しかし電流と言うものが電池のエネルギーを負荷に運ぶことなど出来っこない。電気理論では、電池のマイナス端子から電子が導線の中を流れて、負荷を通り電池の+端子に戻ると解釈している。電子の逆流が電流であると電気理論の常識が世界の共通認識になっている。それではその電子が電池からエネルギーを負荷に運ぶか?と解説者に問えば、答えないであろう。『電子』あるいは『電荷』に『エネルギー』をどのような意味で結び付けて解釈しているかが明確ではなかろう。2年程前に電圧ーその意味と正体ー (2016/05/15) に纏めてあった。

電池のエネルギー供給端子は-極である 直流の電気回路はプラスとマイナスの2本の導線でエネルギー供給回路が構成される。電池からのエネルギーは-極から送り出される。プラス側の導線は殆どマイナス側のエネルギー供給を支える脇役と考えて良い。負荷にエネルギー供給時、プラス側導線を通して電池へエネルギーは戻らない。電池のプラス端子はエネルギー供給に直接関わらない。電池の負側端子からエネルギーは放出され、負側導線近傍空間を通して主に負荷までエネルギーが伝送される。勿論導線の金属内などエネルギーは通らない。電池は-極がエネルギー放出源である。そのエネルギー(電気や熱あるいは光)を陰極線や電子と考えてきたのである。

エネルギーを運べない電子(科学的願望との乖離) 原子核の周りを回転する電子で世界の構成源を捉える原子像が世界標準である。電子が回転すると解釈する科学的根拠はどこにあるのだろうか。『電荷』否定が結局とんでもない現実にぶつかってしまった。科学理論の根源さえ信用出来ない自己を観る。そんな意味を卑近な日常生活の電池の意味に探し求めて見ようと考えた。簡便な科学的解釈を示すに『電子概念』がとても便利であろう。電池のマイナス極から電子が外部回路を通りプラス極に戻ればすべてが説明出来たことに成る。その不思議な論理が科学論理の正当性を世界標準として認められるのだから。 『エネルギー』を置き忘れていませんか? 電池はエネルギーの供給源です。電子論であれば、電子がそのエネルギーをどのように負荷に届けるかの問に答えてこそ科学論と言えるのではないか。そこに電子の実像が問われることに成るのです。電子の特性:質量me=9.1083 ×10^-28^ [g]、 電荷e=1.60206 ×10^-19^ [C] と質量と電荷の混合素粒子。この桁数の算定基準の厳密らしさと混合空間像の認識不可能の不思議に包まれている電子。電子が背負い籠に『エネルギー』を入れて負荷まで届けるのですか。帰りは『エネルギー』分だけ身軽に成ってプラス極に帰るのですか。 『エネルギー保存則』とはどんな意味なんですか。 『エネルギー』が観えますか?そこで、エネルギーに対して電子に求めると無理に仮定した時の科学的願望を絵図にしたみた。

電子の責務と珍道中 電池はエネルギーの貯蔵庫である。そのエネルギーを負荷で利用する訳だ。どのようにそのエネルギーを電池から負荷に届けるかを科学論として完成しなければならない。高度の量子力学は電子に重い責務を課しているように思える。太陽光発電で電子にどんな物理的機能を果たして欲しいと望んでいるのだろうか。電子がエネルギーを担うべき責務を無造作に要求しているようである。電子の身に成ってその心情を汲んで少し考えてみた。電池も太陽発電パネルも電源としては同じものである。ただ太陽発電パネルは負荷の前にエネルギー貯蔵庫に繋がっている。負荷の影響は直接受けない。さて電池のエネルギー貯蔵庫からどのように負荷に必要なエネルギーを供給するかを考えるべきだろう。検索で電池の原理を尋ねると電池のマイナス極から化学方程式の反応によって、電子が外部導線を通って陽極に廻り込み、その電池内で電荷を遣り取りして解説が終わっている。電子は何の為に負荷を通ったのか。 『子供の使いじゃあるまいし、ただ通り過ぎるだけじゃ理屈も通らぬ!!』 何故電子が通り過ぎるだけで電池からエネルギーが負荷に届けられると考えるのだろうか?電子は何故マイナス端子から導線を通ってプラス端子に行くことが出来るのだろうか?電子の移動はどんな理論で可能だったか?電界と電荷の関係は無視されても理屈が通るのか。上の図は電子に御足労願う訳だから、その科学認識に寄り添って何とか電子の責務とエネルギー運搬の道筋を考えて描いた図である。電子の(行き道)は、重い責務に喘ぎながら。負荷にエネルギーを届けた(帰り道)は、身軽に成って鼻唄まじり。そんな電子に期待された仕事の責務が想像できる。電子も行きと帰りで異なる姿に。しかし、量子力学には背負い籠でエネルギーを運ぶ意味はない。むしろ質量に頼った運動エネルギーの増加で電子がエネルギーを身に纏う意味に似ている。その場合は電子の帰り道は速度の遅い電子の姿を描くことに成るのか。当然理屈の通らぬ無理な道理ではあるが。もう一つ、化学方程式で『電荷』の辻褄を合せようとしても『負荷御殿の主から必要なエネルギー量が発注される』のである。エネルギーの発注に合わせたエネルギーの発送をしなければ電源・送配電線路・負荷間の辻褄が合わなくなる。勝手に化学方程式に従って、電子を送り出す訳にはいかないのである。負荷の要求をどのように電池側で処理するかが極めて重要な瞬時電力の話に成るのだ。電子に自動的にそんな責務まで負わせては酷と言うものだろう。

電子にエネルギー伝送責務は無理な注文である 電子は不要である。電池からのエネルギー(熱エネルギー即ち電気エネルギー)そのものが負荷の要求に応じて電線路空間内を伝送されるのである。電子不要の科学論。

エネルギーから電子殻を問う

はじめに 電子殻(ダッシュボードに掲示された)という用語を初めて知った。その電子殻についてどう考えるかと問われているのかと思った。『電荷』概念の意味が分からず、30年以上にも亘って教科書の科学理論に疑問を感じてきた。むかし(1982)『静電界は磁界を伴う』という電気磁気学理論の科学常識に反する内容を電気学会全国大会で発表した。今となれば、それが技術屋の感覚的挑戦であったが,間違いなく的を獲ていたと驚くばかりだ。静電界という電場がむしろ磁場とも看做すべきエネルギーの流れであったという発見だから。たった一つのその実験結果の意味が如何なるものであるかを科学理論の根幹に照らし合わせながら考察を積み重ねてきた。物理学の根本である電子殻に因る原子像さえ否定しなければならない羽目に陥ってしまった。もう一度、先人が創り上げた科学理論ではあるが、その根幹を成す電子の概念および機能をエネルギーとの関係で、考えを整理して置かなければならないと思った。結果的に図らずも伝統的科学理論を否定するような仕儀になってしまった事誠に申し訳のないと思ってもいる。『電荷』の自然世界での実在を否定するという事がどれ程大きな社会的混乱を教育に与えるかは想像に難くないから。手元にあった 科学革命の構造 トーマス・クーン 中山 茂訳 みすず書房 (1987 第19刷) を開いて読めば、余りにも溝が深すぎると・・。電子とは『エネルギー』の一つの姿でないかと思いながら。

原子構造 原子の周りを電子が何故回転していると分かるのだろうか。最近も新しい113番目の原子の発見が話題になっていた。それ程厳密な科学研究の証拠が示されている中で、電子が原子核の周りをまわっている意味が理解できないと言ってみても意に介されないとは思うが、エネルギー感覚から述べておかなければならないと思う。

電子の責務 電子に対してどのような科学的責務が課せられているか。電子が獲得したものでなく、人間が付与した役割である。自然界が『電荷』と質量を持った電子に取り囲まれた原子核の原子構造体から成り立っていると理解されていると思う。その原子にもいろいろの特性がある。シリコン、酸素、窒素、炭素あるいはネオン等とそれぞれ際立った特徴を持っている。それらがすべて電子殻の電子によって構成されている。みんな同じ電子殻構造の話で統一されるものと思う。筆者の拙い高校生程度の知識に因る電子像を先ずまとめてみたい。

電子統一情報 ウイキペディアから拾った。とても理解できない専門的な電子像の規定であると思う。空間に占める大きさまで分かっているようだ。この9ケタ、10ケタの数値が堂々とまかり通る電子像に近寄りがたい科学理論の畏れ多さを感じる。

電子に付与された任務・責務(期待される電子像) 昔教育の審議会で期待される人間像という考え方が論議されたことがあった。電子像を的確に捉えようとしても期待される任務・責務が超人的な機能でなければならないかの如くに思われ、科学理論の世界が巨大な構造体で入り口から怖気づいてしまう。電子も観方によって哀れとさえも思える。過重労働の期待で瀕死の状態にならなければ良いがと陰ながら心配である。筆者のお粗末な電子像の認識をまとめてみた。

さて、上に挙げた電子像が普段頭に描く姿に思える。原子同士が隣り合わせれば、先ず原子の外周を取り囲んでいる電子同士が相手との情報交換の遣り取りを任され、相手原子を認識する責務が課されている。手を繋いで良いと判断するのも電子で、原子同士を繋ぐ役目も電子の仕事だ。化学結合とか共有結合とかイオン結合とか、とても判別し難いような複雑さの判断も電子自身に任されている。「オラ―そんなのやだ―」などと言って、「東京さ逃げる―」てな訳にはいかないのだ。それが電子の科学的宿命だ。何しろ過大な期待が掛けられているのだから。期待を掛けるお偉方はどこに居るのか姿も見えないが。兎に角電子は大変な重責に怯え続けているようで、何とか少しでも開放してやれないものかと思う。

4番目の任務 原子エネルギーの収支取締役という、日々雑兵の激務に追われる中で、特段のお役目を頂戴してしまった。原子に降り注ぐ『光』がある時、先ず外堀の電子にすべての的確な対応が義務付けられている。電子はどのようにその光との関係を処理すれば良いか、与えられた責務を忠実に執り行おうと考えた。決して外堀から母屋の御主人・核主(お昼寝中かもしれない)様に影響が及ばないように処理しなければならないのだ。最初に挙げた1番目の任務との関係では、足を踏み入れてはいけない禁制帯とかがあり、そこは飛び越えなければならない事になっている。現代物理学の大きな学問領域を成す量子力学では、光と電子の責務との関係がとても詳細に分かっていて、その関係が自然科学を理解する根本原理になっているようだ。しかし、その材料などの量的評価に因って科学技術が進歩したかといえば、それは理論と実際は余り関係ないようだ。光エネルギーをどのように電子が苦労をして責任を果たそうとしているかを拙い科学認識で掘り起こして考察してみたい。すべての電子はどれも同じ電子統一情報に因って細密に規定されているようだ。光エネルギーを処理するに当って、もしうまく禁制帯を飛び越えて伝導帯の位に跳躍出来たとする。その時光エネルギーをどのように、統一電子情報との関係を厳守したままで、処理出来るのかに悩んでしまった。エネルギーというものは電子の情報という質量、電荷および空間寸法には全く影響を与えないで済むものなのか。高等数学式で考える能力が無いので、日常言葉でしか解釈できずにいる。さて、もしもの仮定での話ではあるが、電子が雲のような掴みどころのない波動(その実体が何を指すかを理解できないのだが)であるとしたら、それも質量と電荷を波動の中に備えているのだろうか。その波動もやはり原子核の周りを周回運動していると考えるべきなのだろうか。そこでその波動が光を外部から受けたときは光エネルギーをどのように電子波動の中に取り込むことになるのだろうか。兎に角、陰に隠れた主の核主様に影響が及ばないようにしなければならないとなれば、電子雲の全てが総がかりで対応しなければならないように思える。連射砲のように降り注ぐ光を禁制帯を飛び越えながら処理する技は如何なる理論で可能なのかが理解し難いのだが、その理論まで電子に負わせるのは期待する電子像の範囲を超えてしまうだろうと気掛かりだ。

電子とエネルギー 電子がエネルギーを保有するという意味はどのような物理的現象で捉えるのか。電子にはいろいろな状況があるように思われる。自由電子と電子殻内の電子とでは必ず違う筈と思うが、その訳・状況がハッキリと認識されているのか、説明できるのかそこが良く理解できない。電子には速度の違う状態があると理論では唱えられているように思える。教科書によれば、導線内を流れる電子を自由電子と唱えているように思う。その自由電子でもそれぞれにはエネルギーに違いがあるのか、無いのか。その伝導帯の自由電子には速度の違いがあるのだろうか。酸素の電子が電子殻から解放されて自由電子に成る議論は無いから、原子核の束縛から解放されて自由電子に成る場合は、金属導体や半導体原子だけに当てはまる電子とエネルギーの関係なのだろう。電気回路の導線には電子が充満して流れるように解説されている。超伝導等のように、極低温のエネルギー環境の低い場合は、電子殻の電子は特別の能力を賦与されて、自由に原子核の束縛から解放される自由電子となる資格(特殊任務)がある電子なのだろうか。その自由電子のエネルギー状態はどのようなエネルギーレベルと捉えるのだろうか。原子の環境がエネルギーが高い場合が自由電子の生まれる条件かと思えば、極低温での超伝導の自由電子とはエネルギーが多いのかあるいは『無』なのか良く意味が理解できない。

原子の司令官は誰か 周期律表という科学分析の宝がある。原子の個性と特徴で分類されている。原子の特性を発揮する司令官は誰か。原子の本基は原子核が握っている筈だ。司令官という機能の物理学的基幹は如何に在るか。外堀を守る電子じゃ役不足であろう。

原子構造体と役割分担? 原子構造が原子核と電子殻から構成されているとの解釈に因る意味とその電子機能について考えてきた。殆どの教科書の解説は原子外殻の電子が担っているように説明されている。原子の質量は殆ど中心の核が占めている。一体核は原子の特性に因る外部事象との関係機能としてどんな役割を担っていると考えれば良いのか。核は分裂の時だけ意味を持つような、日頃は原子の中心に隠れた存在であるように見受けられる。電子殻の電子だけが仕事をするような原子で周期律表の顔が立つのだろうか。

電子殻電子が原子の特性を表せるか 元素にはそれぞれ異なる特性がある。その中で幾つかの原子を取上げて、原子の特性がその電子殻の電子でどのように解釈すればその電子殻を論理的に適正に評価出来るのかに思いを寄せてみた。

炭素C この原子の結合の代表例がダイヤモンドの宝石であろう。ダイヤモンドの結合空間構造は炭素原子の表面を4等分した立体角π毎に結合面を持つものであろう。決して平面結合ではない。もし電子殻で4価の電子で炭素原子を解釈するなら、その電子にはエネルギー差はなく、同一の電子殻内に存在する筈だ。そこで、その電子が隣の炭素と結合する時、電子は原子表面を周回運動していると考えるのだろうか。結合する時には運動は停止するのだろうか。電気磁気学理論によれば、クーロンの法則で同一電荷は反発することに成っている。今でも電気の教科書がクーロンの法則を基本理論に据えているなら、どのような論理性で負の電子同士が結合の責務を担い得ると解釈できるのか。しかもダイヤモンドという特別に結合の強い状態を電子が担うという科学論理は余りにも矛盾と欺瞞で構築されているとしか思えない。共有結合とは一体どんな電子の魔術結合力を利用しているのか。電子が周回運動しながらとなれば、とても電子に因る結合論に論理性があるとは見えない。科学は平易な基本に分かり易い忠実な解釈がなされなければならない筈だ。

炭素C (2) 炭素といえば、電気回路では抵抗体のカーボン被膜抵抗などがある。さて、炭素の特性で電気エネルギーの熱変換機能が日常の電気技術の基本に成っている。こんな考察は誰もしないだろう。何も得るものがなく、反発を買うだけであるから。しかし電気技術に携わった事がある者として、少し専門家としての解釈を示しておこうと思う。ここでの話は矛盾の中の教科書の解釈理論からの内容であり、『電流は流れず』という筆者の論理の視点とは異なる。事実は、電線路導体内を電子が流れている訳ではない。しかし教科書に依れば、電子が流れていることに成っているので、その電子が抵抗負荷内を通過する時どのような電子の機能で炭素原子の外殻周回電子にエネルギー的働きをすることが出来るのかという疑問を提起しようということである。炭素抵抗は負荷としては熱を発散している。触れてみれば熱いから分かる。その電気エネルギーを熱に変換する機能は炭素原子の電子殻電子のどのような与えられた責務として働いた結果の現象なのだろうか。こんな基本の基の字のような初歩的な愚問が現代科学理論に欠かせない入門の課題なのである。高度科学理論が取上げられても、足元の理論の根拠が矛盾なく説かれなければ、砂上の楼閣にも見えてしまう。

酸素原子O 酸素は生命の維持に欠かせない。呼吸の問題。 等とまた愚問を取上げれば科学には相応しくないと常識の世界では非難される。常識という科学理論がおかしいとの思いに掛けての科学論であれば止むを得なかろう。酸素が燃焼を司る元素であることは間違いない真理である。酸素を燃焼機能原子として知ることは自然科学の基礎知識として重要であろう。そのことと酸素原子の電子殻電子の科学論理との関係はまた別の基礎科学論である。自然の真理を説き明かすに欠かせない科学的思索・考察でもあろう。原子構造論の基本が電子殻の電子概念に委ねられていることだあれば、その論理性を質しておかなければならなかろう。酸素原子の外殻電子殻の電子数は6個であろう。その電子が何故燃焼の機能を発揮すると考えるのか。電荷と質量を持った電子が周回運動をしていると考えているようだ。燃焼に電子の何が機能するのだろうか。電荷か質量か運動か?電荷も質量も速度にも燃焼エネルギーを発生する機能が観えない。酸素原子の特性は熱エネルギーを放射する自然現象を司る機能である。無から熱エネルギーは生じない。何かを熱エネルギーに変換するのである。それが何であるかは分からない。原子構造そのものの解釈の問題に通じている課題であるから。

ネオン原子Ne 不活性ガスとして捉えられているようだ。外殻電子殻が8個の電子で充満され、化学反応機能が無く安定した元素と看做されているようだ。気体分子結合(Ne2)もしないとの解説がある。同時にネオンサインとして、夜の街の広告照明灯に活躍している。酸素と違って、熱でなく発光現象である。このネオン原子も8個の電子が同等のエネルギーを持って、電子殻内を周回運動していると解釈しているのだろう。どんな軌道で平衡を保ちながら運動できるのか空間的描像を描き難く、理解の域を超えてるが答える能力も無いので我慢も止むをえない。さてネオンサインの発光現象では不活性原子の電子が電気エネルギー(高電圧のエネルギー供給空間)に反応して、どのような光エネルギー放射変換機能を発揮すると解釈するのだろうか。本当のところは電子が存在して関わる現象ではないのであるが、電子殻で理論が構築される限りは、その発光現象の訳が示されなければならないと思う。ネオンサインに量子力学は場違いな話で笑われそうだが、ネオン原子の電子が高電界中を飛んでくる電気の電子と衝突し、禁制帯を飛び越えて高エネルギー電子に成り、再び原子に戻るから発光機能を発揮できのだろうか。電子殻電子の原子構造論から判断すれば、そんな特殊任務付与解釈にしか辿りつけない。内心は無理なこじ付けと思いながら。

リチュウム原子Li とても興味を覚える記事「リチュウムは躁病と欝病を治すだけでなく、それにかかりやすい人を病気から守る働きもする。さらに、リチュウムはほかのさまざまな精神病や情緒不安定、とくに鬱病に効果のあることが知られてきている。」(発見と創造 科学のすすめ W.I.B.ビヴァリッジ著/松永俊男・鞠子英雄 共訳 培風館 p.60.  昭和58年初版)を見た。最近は携帯電話の電池にも使われ、核反応の三重水素とも関係が深いとある。3価で、反応性の高い原子のようだ。電子殻の電子の機能と考えるには理解に戸惑ってしまう。原子とは不思議だ。

むすび どんなに原子とその特性を電子殻構造論から理解しようと思っても、納得できない現実に突き当たる。『電荷』あるいは電子概念に基づく電磁気現象解釈は一見理に適っているように思えても、細かく考えてみると全体としての統合性で辻褄の合わない点や矛盾が見つかる。結局『電荷』に基づく基礎的論拠は物理学理論にそぐわないとしか思えない。『エネルギー』の千変万化する自然の現象に思いを寄せれば、『電子』もその一つの姿に思える。

半導体とバンド理論を尋ねて

追記(2018/05/16) 反省を込めて追記。既に前に同じような記事を投稿していた。半導体とバンド理論の解剖 (2014/01/25) である。さらに太陽電池の解剖 (2014/02/06)にも有る。辿れば、その前年のトランジスタの熱勘定 (2013/01/30)から始まっていたようだ。そこで、電気エネルギーと熱エネルギーが同じものであると考えていたようだ。現在は、『電荷』概念では自然現象の本質を理解することは無理であるとの認識にある。このトランジスタの熱勘定で論じた意味が極めて大切なことを示唆していたと思う。荒っぽくて、反感を買うようの記事が多くて誠にお恥ずかしい。2013年には「量子力学」とは何か?電子科学論の無責任など。

半導体の電子とは? 電力技術における電子の意味を尋ねて30年以上過ぎた。結論は『電荷』も自然界には実在しないと確信するに至った。それならば当然電子も『電荷』などとは関係ないことになる。電気回路の金属導体中を電子が通り、電流になると解釈されている。ただし、筆者は電流は流れず等と言ってきた。だから以下の記事も科学論として認知されるようなものではないかも知れないが、市民や電気の初学者が疑問に思うことに対する『問答』としての価値は十分にあるものと思う。言わば統合的な理屈の自然科学論として見て欲しい。専門的な領域を超えた論理として。さて、現代物理学理論の根幹を成すものに量子力学がある。その代表的な適用が半導体である。半導体の電子のエネルギーレベルとその動作領域の抽象的認識概念が理論構築の原点になっているように思う。フェルミ準位がその要のエネルギー基準値として存在することになっているように思える。そのフェルミ準位は半導体の物性特性に因って、そのエネルギーレベル(電子のエネルギー量)が何ジュール[J]、あるいは何[eV]と決まった値があるのだろうか。

エネルギーバンドとフェルミ準位 電気工学、電気物理と同じ電気エネルギーを取り扱うのに、その専門分野ごとに理論的解釈法や概念がまったく異なる。ただ、原子構造については原子核とその周りを回る電子から構成されているという解釈は自然科学論の基本原則として世界の共通認識になっている。原子構造が科学論の原点にある。『電荷』否定はその科学論から除外されてしまう。永年電力技術で感覚的に身に付けたエネルギーの実在性が染み付いた論理構成の習慣が『電荷』概念の曖昧性に拒否感を抱くようになってしまった。電気物理での半導体の電気現象解釈理論はバンド理論で、正しく原子構造論の電子のエネルギー論を論じているように思う。それは『電荷』概念に基づいて理論構築されている。半導体結晶は基本的にダイヤモンド結合の構造と解釈されている。電子による共有結合が基本になっているように思う。原子核の周りをどのような速度で電子が周回運動をしているかは分からないが、それぞれの電子が回転し互いの隣り合う原子同士の間では、核の周りは複雑な電子回転に伴う『負電荷』の空間場になっているように思われる。単純な電気理論から考えると、負の『電荷』の空間場で、隣り合う原子同士の間でダイヤモンド結晶になる訳が理解できないのだ。電子が回転しながら隣の原子同士が結合する姿が現実世界の空間概念で描けないから理解できない始末にいる。そんな理解能力の無い者が現代物理学理論のバンド理論の意味を考えるなど誠に恥ずかしい極みではある。しかし、初めてバンド理論を学ぶ若い方々も同じような疑問を抱くのではないかと思うので、少し考えを述べてみたい。電気材料を導体、半導体および絶縁体と三つに分けてバンド理論の基礎が説かれる。全てに価電子帯と伝導帯がある。半導体と絶縁体にはその帯の間に禁制帯と言うバンドギャップが存在する。それらのバンドの『帯』と言う幅で表現される意味は電子の持つエネルギーの量の大きさに関係したように見受けられる。電子が回転運動していることに因る運動エネルギーの量の大きさを意味しているのかと思う。電子には質量があるから、その御蔭で運動エネルギーの解釈だ可能である。水素原子は原子構造が単純だから、電子のエネルギー量は基礎物理学では良く算定されて議論されているが、シリコン原子の電子になれば、その運動エネルギーは算定は可能なのだろうか。どの程度の回転速度になるのだろうか。その算定が出来て初めて、新しい半導体の技術開発にバンド理論の意義が生きて来る訳と考える。決して理論が理論の為の理論であってはならない筈だ。『電荷』の実在性はその理論構成に具体的に生かされてこそと思う。リン(P)やヒ素(As)の不純物が添加されると実際の電子のエネルギー量はどの程度のジュール[J]になるのだろうか。

太陽光発電理論と電子 量子力学の理論として大まかに理解している事は、原子や分子にエネルギーを与えると、原子の外殻周回電子がそのエネルギーを受け取って、電子の質量の運動エネルギーの増加を来たし、遠心力と釣り合う様な電子軌道の膨らみを来たすと理解している。光などのエネルギーが電子の運動エネルギーとして吸収される訳をどのように理解すれば良いかも分からないので困惑している。更に何らかの原因で逆に電子の軌道が下のレベルに落ちると光としてエネルギー放射を来たすらしい。勝手な解釈と言われれば、致し方ないが電子の運動エネルギーと光との変換過程が理解できない。量子力学の基本理論を理解している訳ではないが、太陽光発電での半導体は太陽の光を吸収して、電気エネルギーに変換する発電機能設備である。発電パネル内で、電子が光エネルギーを吸収してエネルギーの高い状態で伝導帯に入る。その伝導帯では電子が自由電子となり、原子の束縛から解放されると解釈して良いのだろうと思う。伝導帯の電子はどの程度のエネルギー増加になっているのかを知りたい。発電パネルから次は電気回路を通して負荷に電子はエネルギーを運ぶのかと理論のつながりを考えるのだが、電気回路内の電子による電流概念となると、どうも電子はエネルギーを担う役割は想定されないことになっているようだ。一体半導体内で光エネルギーを受け取ったかと理解するが、回路理論になるとそのエネルギーを担う電子と言う概念は無いようであるため、どこか論理的な繋がりが無いようで理解に苦しんでしまう。もう一度述べる。量子力学における半導体のバンド理論では原子の周回電子のエネルギーの増減を論理構成の基本に据えている。伝導帯の電子は増分エネルギーを電子質量の運動エネルギーとして余分に担ってエネルギー供給機能を果たす役割が期待されているようだ。そこでの電子は速度の増加としての特別の電子になるのであろうか。次に半導体理論によって理論付された電子に関係して、その太陽発電パネルをエネルギー源として捉える電気回路理論では、折角のバンド理論で担ったエネルギーの増加分を電流の根拠である電子には求めていないのである。当然のことであるが、電気回路論では電子に質量に関わる概念は意味を持たないから、電子における『電荷』と電界との間の電気磁気学理論に基づく論理しか考察対象には成らない。だから原子構造論における電子エネルギーに関する運動エネルギーは全く無意味に成る。総合的に全体を見渡した時、半導体パネルで受け取った太陽光エネルギーは電気回路のエネルギー伝送にどのような機能で関わり、負荷に太陽光エネルギーを供給することになると考えるのだろうか。『エネルギー』を基本に考えると、太陽光線も電気回路を伝送する電気エネルギーも負荷に供給されるものも、みんな同じ『エネルギー』でしかないのである。電子の『電荷』は理論的に『エネルギー』を持ち得ないのである。

過去の関連・関係記事 今迄に取上げた考察記事は半導体、電荷およびエネルギー論については次のようなものがある。

「金原の物理」を繙いてみて

手元に大好きな本が残っている。筆者が高校生の頃、物理の受験参考書として一世を風靡した本である。今でもその内容は、重厚で考える理想的なものに思える。
物理の研究 (上巻) 262頁 旺文社 昭和31年3月1日 重版 定価200円。『金原(キンバラ)の物理』と言って大学受験の有名な参考書であった。時代の雰囲気がある。

今、電気工学の回路理論を電気物理と言う視点から考えた見たとき、物理学理論の教育的に取り扱う教科書の内容が何か不都合な状況にあると思えてならない。現代物理学理論が本当に自然界を理解するに有用な未来への指針を示していると言えるかに大きな疑問を抱かざるを得ない。『非力学的エネルギー』と言う視点で『エネルギー』の意味を考えている。どこか物理学では『エネルギー』の意味が間違って捉えられて、そして教育されているとしか考えられない。

金原の物理の緒言  はじめに緒言として述べられていることが、今読んでも古典的名著としてのその風格の高さに敬服させられる。相当長い文章(42字× 60行)であり、その内容には深い哲学的な意味合いが込められていると思う。そこには

『われわれには自然界に向かってかくあるべきだと命令する権利は少しもないのである。このようにして得られた法則を基礎としてこれを一つの体系に組み立て、学問としたものが自然科学である。』とある。その最後の文章に

『こうして根本を掴み理法を整え、整然とした完全無欠な体系を作り上げることが物理学の目的であって、この体系が出来上がれば今度はこれを基にして新しい現象を説明することも出来るし、応用して種々の発明をすることも出来るのである。 しかしこれはどこまでも目的であって、現在の物理が、この域に到達しているわけではない。今までの物理学者達が練りに練って作り上げた体系もまだまだ不完全なものであって、この体系では到底説明の出来ないような新事実が次から次へと発見されている。矛盾するような新事実が発見されたときにはその都度体系に修繕を加えて、これをも包含するように作り変えてきた。しかし変えても変えても、矛盾の種が尽きることがない。恐らくは、体系の作り変えというこの努力は永久に絶えることはないであろう。これが生きた物理学の姿であり、そしてその物理学を生かして行くのがわれわれに課せられた任務である。』と締めくくられている。

この緒言には、自然に対してとても敬虔な姿勢で向き合っている気持ちが表れている。それに対して現在の物理学教育の姿勢が、何か全てが分かってしまって現在の理論をそのまま学習すれば良いと言わんばかりの硬直性に縛られているようで、危険にさえ思える。

研究的態度の養成 寺田寅彦』 が検索に出る。そこにも上の『金原の物理』の緒言の心掛けに似た思いが綴られている。