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雷と電気回路の相似性

雷。それは、雷の自然現象として現れる物理的現象の意味と自然世界を人が解釈するための科学技術理論との間の関係を考えるに良い考察対象である。

雷の正体を示せば、それは水蒸気の『熱エネルギー』である。しかし、ベンジャミン・フランクリンは〈雷は電気である〉と言った。

筆者は雷の正体が何物かを、その物理現象の本質を示せば、丁度電気回路と相似な現象と見做せると解釈する。

雷と電気回路の相似性

雷の解釈を、その火花放電現象の、大きなエネルギーの放射から、その現象を空間に発生する大きな『電圧』で捉える点では、ベンジャミン・フランクリンが言う意味に共通している。ただ、現在の電気理論では『電圧』の物理的意味を『電荷』で解釈している。しかし自然世界には『電荷』などは存在しないと言う点で、解釈の基本が大きく異なる。筆者は『電圧』という概念が空間の『エネルギー』の偏りの分布による『エネルギーギャップ』を評価した科学技術概念であると捉えている。

その『エネルギーギャップ』という意味は、電気回路で言えば、電源電圧の負極側の電線付近の空間が正極側電線付近に対して、より高密度の『エネルギー』の分布の偏りの状態になっているという意味である。

さて、雷に対しては、決して『電荷』等の現象でないことは電気回路と同じく、空間に生じる『エネルギーギャップ』が空気絶縁の限界に達した時、その空間の『エネルギー』が発光放射に至る現象なのだ。その『エネルギー』は何処から来るかと言えば、海からの水蒸気が持ち込む『熱エネルギー』なのだ。地上の上空に張る寒気で、水蒸気の体積収縮が起き、上空に水蒸気の水分が上昇気流となって積乱雲を発生する。地上と積乱雲との間の空間に丁度電気回路の静電容量の空間が出来る。水蒸気の『熱エネルギー』が地上に残り、空間に『エネルギー』の貯蔵されたコンデンサ状の空間が発生した状況となる。『エネルギー』の貯蔵量が限界に達すれば、丁度高電圧の火花放電現象と同じ状況が起きる。それが『雷』の正体の物理現象である。それは丁度熱爆発現象と見做せる。雷と電荷の物理 (2021/06/22) でも述べた。

雷は海から蒸発した水蒸気の『熱エネルギー』の限界爆発現象である。

『熱』の正体 (2014/05/15) 。沸騰を読む―原子と寸法― (2014/05/21)。古い『熱』についての記事だ。

『熱』は光や電気というものと本質は同じ『エネルギー』で、その間に差はない。人には、見えるもの 見えないもの (2015/03/04) がある。『熱』も『エネルギー』もその空間の姿を科学的に測定できない。検証できない存在は科学論の認識になり難いのだろう。

 

 

エネルギーの姿・象

物理学理論で認識されていない概念が『エネルギー』である。

その代わり、自然世界に存在しない概念、『電荷』や『電子』が科学論の基礎概念となって理論が構築された。

『エネルギー』を意識しない科学論。科学論文はその専門分野に特化した特殊な『専門用語』で論理が展開される。専門家はその専門分野での高度な先端研究を対象にするから、それは止むを得ない事だ。しかし、その科学論はその専門用語が狭い専門家の為の世界観での解釈となるため、抽象的な表現に思えて、具体的生活空間から乖離したものとも見えて、解釈理論が理解困難となる弊害にもなる。基礎概念が曖昧なまま、教育現場に下ろされ、理解できない未消化な科学知識の市民科学リテラシーとなる。その最大の問題が『電荷』である。検索情報にも、『電荷』とは何か?という当然とも思える質問が提起されている。しかしそれに対して、回答者は、余りにも根本的で・・と答えることが出来ずに、逃げている。

エネルギーの形象。

光・熱。電気。圧力。

エネルギーの諸相

 

このブログでも、『電荷』という虚像 (2011/04/08) 、エネルギー(energy)とは? (2011/09/07)  などから始まった。

自然に対する観方は、自然科学理論では科学技術のための特殊な概念に因ったものになる。そこに『電荷』や『電子』という自然世界に存在しない概念が創造された。

自然界は極めて純粋である。それは『エネルギー』一つで構築された世界である。湯川秀樹が『混沌』と言ったものでもある。世界はエネルギー一つに集約されると、バートランド・ラッセル博士が述べた事でもある。

現在の物理学理論を唱える時、空間に実在する『エネルギー』の存在を意識できていないと言う、大きな理論の矛盾を抱えたものになっている。

上の図、エネルギーの諸相に、科学技術や自然現象が『エネルギー』によって生まれた世界であることに纏めてみた。質量も『エネルギー』の集約された象である。だから、 mc²[J] と『エネルギー』に変換される意味なのだ。

少し関連記事を挙げておく。

光・熱・電気。 雷の正体 (2012/11/13) 。焚火の科学 (2018/05/26)。白熱電球のエネルギー変換技術は? (2018/02/12)。新電気回路理論 (2022/09/01)。

回転動力。 発電技術とエネルギー空間 (2022/05/28) 各部ごとの詳論が未だ未完だ。

膜・弦振動。三味線と縦波 (2012/02/07)。糸電話―力学的解剖― (2014/03/06)

 

 

電荷の定義?

『電荷』が自然科学論の根幹で矛盾の権化となっている。これが科学論の論理性とは驚き桃の木だ。科学論には論理性等無縁と思える。

『電子』や『陽子』などが原子論構成素子として解釈の基礎となっている。原子は科学論を論じるに、意識するか無意識かに関わらず、自然世界の根源的概念となっている。その原子の中でも『電子』は普通の電気回路での『電流』と言えば、その『電子』の逆流等と、多くの検索記事で論説されている。学校でも『電荷』はとても大事な必須概念として教えられる。そこから科学理論の、教育によって考えずに、記憶する集団科学論の抜け出せない『地獄門』に入ることになるのだ。

それは教育の放棄にも等しい事だ。考える事から逃げているように思える。

しかし、『電子』はどの様なものかと問えば、10桁の数列の驚くべき精度?の数値で示される。ただ桁数で権威付けした、定義と言うだけの、説得性の何もない意味不明の提示がされている。

ところが、『電荷』とは何かと問うても、その『電荷』についての定義はない。

電気回路でコンデンサに蓄えられるものは『正』と『負』の『電荷』で解釈される。その『電荷』とはどの様なものかは一切不明のままである。『電子』でもなく、『陽子』でもなくまた、『原子イオン』あるいは『正孔』でもない。兎に角『電荷』で解説される。電気回路の解説で、『電荷』が論理の中に使われるとき、その『電荷』が『電子』でもなく、『陽子』でもなく、ただ『正』と『負』の『電荷』なのだ。『電子』でもなく『陽子』でもない、別の独立した『電荷』という物理量が論者の思い通りに、自由に、お呼び寄せられる極めてご都合の良い自然世界の「物理量」と成っている。科学者はとても有能だから、只思えば、『電荷』が『正』と『負』で天から降臨するようだ。それは、〈雷〉の科学論文にも、ただ『電荷』だけで論理が成り立つとの思し召しの論になっている。コンデンサの両電極に〈クーロンの法則〉を無視して自由に同一極性の『正』あるいは『負』の『電荷』が反発力を考慮もせずに御集合なさるとなっている。誠に自由な、科学的権威が取り仕切る概念の世界が、自然世界と別に存在するようだ。

だから『電荷』と言う物の空間像も、その物理的概念の『定義』も提示できないのだ。

『電荷』の概念?

電荷の論理性❓

自然世界の風景や日常生活あるいは科学理論の基礎の解釈において、本当に『電荷』がこの世界に在ると感覚的に実感しているのだろうか。『電荷』と『電子』や原子核の『陽子』は勿論同じものではないと考えるだろう。『電子』や『陽子』は『電荷』がその質量と言う物理的実体に、別な物理概念としてその質量に付加している訳だ。その意味での『電荷』はどの様な空間の実在体として、『電子』や『陽子』に特別な『正』とか『負』という機能を発揮する意味が有るのだろうか。『正』と『負』という自然世界に存在する物理的意味が、どの様な物であるかが明らかに説かれなければ、その『電荷』という物理的概念は意味が無いのだ。曖昧なままで、実在すると言うだけの権威に掛けた主張に従ってはいけないのだ。そこには科学的と言う論理性が無いから。

さて、上の(2)式で、『正』と『負』の『電荷』が結合すると何になるか?数学の論理に従えば、『0』になる筈だが、決してそうはならない。雷の研究者、専門家の論説では、『正』と『負』の『電荷』が折角離れたのに、何故か再結合して、稲妻の光放射に変化する。その光になる現象の厳密な物理的論理の解説はどこにも無い。『正』と『負』の結合が何故光の『エネルギー』の放射になるか、その物理的原理の解説は無い。白熱電球の放射する光の『エネルギー』がどの様な物理的現象によって発生するかさえ解説できない。『エネルギー』の流れの論理的解釈もできない。決して『電子』では解説できないのだ。それも全て『電荷』という自然界に存在しない物理量が、恰も自然世界の真理の如く考えたところに誤りの原因が有ったのだ。電気回路現象に『電子』は決して、その概念の意義は存在しないのだ。雷の光の発生原因をどの様な物理現象かを解説できなければならない筈だ。

上の(2)式の❓が如何なる意味かを『電荷』で論説できるだろうか。

日本雨蛙―遊歩道で―

忘れられない事、その一つに「日本雨蛙」がある。

『電荷』と同じく、専門家の学識、解釈を否定するようなことが多くて、『日本雨蛙』の「オタマジャクシ説」の否定まで、誠に申し訳なく遺憾に思いながら!

2006年6月26日。雨上りの昼頃、遊歩道上でやっと撮った。日本雨蛙の産まれ立ての姿。長く、日の出前の散歩で、小さな雨蛙を見てきた。産まれ立てでも、逃げ足は素早く近寄りがたいのだ。まして、メジャーで寸法を計るのはとても困難だ。1.5㎝に満たない寸法で、スマートな形だ。日本雨蛙は産まれ立てでも、既に雄と雌に違いが有るように思う。この写真は雄のようだ。

この写真は、「雨蛙 その謎」2006年7月20日発行文集の裏表紙にも使った。その2006年7月24日頃の、NHK朝7時のニュースで文集を『ニセ科学』の集まりで取り上げられている様子を見たと記憶している。勿論、雨蛙の専門家は「オタマジャクシ説」であり、小生の日本雨蛙は産まれて、人の目に付く時には決して尻尾は見せない等の解釈は『ニセモノ論』となるようだ。奇跡の遭遇 (2021/10/25) にも関連して。

この日の遊歩道で、幾つかの写真を撮った。その前日から梅雨の終りの相当の雨で、土が柔らくなって、深夜に「日本雨蛙」が生まれるに適している筈と、予測して写真を撮る心算で出掛けたのだ。予想が的中して、多くの産まれ立ての姿に出会えた。

上と下の写真は両方雄か。上は傍に葉草がある。遊歩道の敷石の大きさと雨蛙の寸法が比較できる。

 

これも追掛けて、やっと撮った。雌雨蛙かと思う。

この写真は側溝を見たら、十数匹の産まれ立ての雨蛙が居た。

下の写真も同じ傍のものだ。

みんな産まれ立ての雨蛙で、決して水中のオタマジャクシからの生態の『尻尾』等は人の目には付かないのだ。土から這い出した時は既に『尻尾』は無いのが『日本雨蛙』の特徴だ。

だから、ITの検索結果を見ると、オタマジャクシを田圃から採取して、育てて大きな尻尾を示す蛙を雨蛙と称する記事が多い。

専門家と言うお方の『二ホンアマガエル』と小生の認識とは『尻尾』の違いで区別できる。最近、漸くWikipedia の記事から「オタマジャクシ」の解釈が消えている。また以前ほど、オタマジャクシ説が多くはなくなったと感じる。

 

 

放射光の発生原因の不可解?

部屋の照明は白熱電球で、最近はLED照明灯具で得られる。

雷の稲妻光は天空の自然現象だ。本当は海水から蒸発した水蒸気の空間への放射熱エネルギーなのだ。『電荷』が何故光になるか、その説明が全くないのだ。科学者の解説が筆者には全くの『嘘』にしか思えないのだ。皆さんが何故『電荷』を信じるか理解できない。プラスの『電荷』とマイナスの『電荷』がどの様な反応によって『光』に変換されるかの解釈が全く示されていないにも拘らず、専門家の学説をいとも簡単に信じる事の不思議な社会現象が理解できない。殆ど考えない科学者集団の専門的複雑な権威に完敗の社会現象だ。

( +Q[C] ) *( -Q[C])    =    光『エネルギー』

上の式の『等号 :=』の数学的定義解釈の不可解。

何故、電荷が結合すると、どの様な物理的原理で『光』になると言うのですか。

『電荷』論者はどの様な解釈論を展開なさるか。『電荷』否定の私には理解できないのだ。

発光例。

白熱電球 (2013/02/28) の画像だ。エジソンの発明によって、蠟燭や燈油ランプから白熱電球の明るい照明技術の恩恵を受けてきた。こんな電燈の光放射現象についてもどれだけ論理的な物理学理論に因る解釈が示されているだろうか。電球フィラメントが2000度か3000度の高温度になると、光が放射される。『エネルギー』は熱であろうと光であろうと、どちらも同じ物理量のジュール[J]と言う実在空間量なのである。光の『エネルギー』をどの様な空間の量と認識するかが問われている筈だ。光も壁に入射すればそのある分が『熱エネルギー』に変換され光から熱に変わる『エネルギー変換現象』の経過を辿るのだ。『電子』論者は電源からどのように『エネルギー』を負荷に伝送するかを示さなければ成らない筈だ。『電子』には全くその機能を発揮するだけの論理性を担うことが出来ないのだ。

 雷の正体 (2012/11/13)で示した絵だ。送電線の鉄塔電線保持碍子に、碍子保護用具としてアークホーンが取り付けられている。雷の衝撃電圧が電線路に侵入した時、碍子の表面から火花を離す機能を発揮する。その火花をアーク放電と言う。当然発光と熱現象を伴う。

雷から光量子像へ (2021/08/27)の絵図である。雷の正体が何かを知ることは大事な自然現象の認識に欠かせない。この絵図は、その雷が空間に光の『エネルギー』の衝撃波を放射させる現象であり、その発生の瞬間の空間像の認識に役立つかとの思いで表現したものである。自然の世界は、その本質が極めて単純、純粋であるからこそ人が複雑に解釈したくなるほど理解が困難なものと思う。結局『電荷』なる虚構概念を仮想して、自然現象の『雷』を理解しようとした訳である。科学理論は人が自然現象を解釈する手段として創り上げたものである。だから物理学理論も、その原理を詳細に吟味すれば、その解釈論理には、とても曖昧で「こう解釈したら良いのではないか」程度の思惑論が多いのだ。『雷』はその観測に必ず放射光の稲妻が観測される。その光とは何かと本当に理解して『電荷』との論理性を捉えたかと言う問題なのである。

元々、雷撃の衝撃波形を、送電線路での保護対策の電気技術として研究される過程で、その電圧波形が基準波形として決められていた。その衝撃波形は『電圧波形』でオッシロスコープなどで観測され、その2乗に依り空間の『エネルギー波形』の伝播現象と当然の事として見做していた。

光の作用性の強さが『周波数』に依存すると言う科学的知見(プランク定数)で理解されていた。光の粒子性と波動性と言う二つの見方の統一が必要との思いから、雷撃波の空間『エネルギー』分布波との結び付き以外光の空間像は捉えきれないとの認識から、光量子空間像を提起した。その最初が、 28aYW9 プランク定数の次元と実在概念 第56年次大会 日本物理学会講演概要集 p.310. (2001)  である。『雷』が空間の熱エネルギーの飽和現象の爆発であるとの見方で、指数関数形に表現したのである。

結局、海の温度と上空の寒気団との関係から、地表の水蒸気が保有する『熱エネルギー』の水分子の膨張・収縮現象との兼ね合いで空間に『エネルギー』が滞留するのである。その『エネルギー』が保有限界を超えた時、突然の『エネルギー』放射爆発となるのだ。それが『雷』の本質である。決して『電荷』等の創作概念は無関係である。

光は、焚火の光も白熱電球の光も、稲妻の光も全て同じ自然の本質の姿、『エネルギー』の姿なのである。空間を光速度で伝播する『エネルギー』の縦波である。光は『エネルギー』である。熱も『エネルギー』である。電気回路を流れるのも『エネルギー』である。質量も『エネルギー』である。自然の本質は『エネルギー』なのである。

法則は思考停止の‥(オームの法則)

自然現象を解釈する、あるいは科学技術理論を繙くとき、その意味を理解するためのとても有効なものが『何何の法則』と言う形式の解釈論である。

その『‥の法則』と言うだけで、いちいち細かい条件や、状況を言わなくても大よその科学論の内容が伝えられる。

その御蔭で、科学論が論じ易くなっていることも確かだ。『‥法則』と言う解釈論法の有効な点だ。しかし、それはまた、その『‥の法則』と言うだけで、その内容の意味を深く考える習慣を失わせる欠点にも成り易いのも事実である。

『‥の法則』と言えば、それが過去の科学理論を支えてきて、現在まで教科書などの記述の内容を支えていれば、其れだけで科学論の常識と成って、深く考える、疑問を抱く事は無い。

全て思考停止の安穏御殿で安んじて過ごせる。

その意味を有名な『オームの法則』を例に取り上げてみよう。

法則とその回路。

1820年の『アンペア―の法則』。

1826年の『オームの法則』。

1831年の『ファラデーの法則』。

中でも、『オームの法則』は誰でも知っていて、電気回路を考える時に欠かせない、基礎的科学技術理論の『法則』と言えよう。

図は電球の点灯回路だ。『電圧』 V[V]、『電流』I[A]、『抵抗』 R[Ω]そして負荷の『消費電力 』P[W]の4つの電気技術概念量の関係で、電気現象を解釈する『法則』を考える意味を表現した回路である。

この法則の御蔭で、電気回路現象の利用は誰でも可能になって、現在の電力『エネルギー』の生活を支える基盤技術文化を構築できた訳である。

しかし、それでも『電圧』および『電流』の物理的意味をどれだけの人が分かっているだろうか。それは技術法則が、それ以上考える必要もなく完璧で、その自然の真髄を考えても経済的利益にはつながらない宿命に在るからなのかも知れない。

『電流』、『電圧』の物理的意味。その意味は空間を流れる『エネルギー』で電気回路現象を理解する必要があるのだ。

やめて欲しい教科書や巷のIT検索場の解説。特に中学生の、まだ理解できない子供達に対する押し付けの、考えない人の解説が横行している現状が悲しくも怖ろしい。

それは『電流』が『電子』の逆の流れだと言う、自然の世界を理解していない、自然世界に『電荷』など実在しないにも拘らず、『電子』と言う『真赤な嘘』の『創り概念』に因る解説である。

その責任は大学の教育者や物理学研究者の専門家にお考え頂かなければならない社会的課題でもあると思う。社会の仕組みや体制、社会制度を考える一般市民の科学的認識による未来社会への希望が生かされて、未来を構築する道に成るものと思う。その意味で少し、『電荷』による解釈の具体的な問答を提起し、皆さんからも教育に意見を反映して欲しいと思う。

〈問答〉

『電荷』概念による解釈理論。特に『電子』が『電流』の逆に流れると言う解釈理論の意味を考えて、その『電子』が論理的な科学理論となるかを確認して欲しい。

回路条件。

回路条件を右図のように仮定する。電気回路の分布静電容量を、一例としてC=1[pF/m]と仮定した。電球の電力をP=1[W]。勿論『エネルギー』の電気回路内の伝送速度は光速度である。この空間を流れる『エネルギー』の概念が重要と解釈するが、物理学理論ではほとんど意識されていないようではあります。

「問1」 電線路電圧3[V]は何によって決まるでしょうか?その『電圧』の原因が『電荷』ならその分布はどうなるでしょう。またその『電荷』の内、プラス側の『電荷』はどの様な『物(元素、イオンあるいは素粒子)』が担うのでしょうか。

「問2」 電流 I=0.33[A] となる。『電子』が流れるとすれば、その電線内の分布量[C/m]または[個/m]は幾らでしょうか。また『電子』の流速は何によって決まるのでしょうか。ただし、『電子』の電荷は1.602×10⁻¹⁹ [C]とします。

「問3」 特に重要な問題が『電子』はどの様な機能によって、ランプに消費する『エネルギー』を伝送するか。という事である。『電子』の運動エネルギーかそれとも他の機能で負荷に届けるのかの『電子』論に対する『エネルギー』伝送の根本的疑問である。届けた後の帰りの『電子』の保有『エネルギー』はどの様になるか。それが『エネルギー保存則』の意味を考えて、欠かせない基本である。電源から負荷に『エネルギー』を伝送するのが電気回路の役割であるから。過去の記事電子は流れずがある。

「問4」 上の『電子』の分布の場合に、その流れが『電圧』の電荷分布に影響を及ぼすことはないのでしょうか。

以上、物理学理論の根源概念『電荷』が電灯点灯回路に果たすだろう機能を仮想して、その意味を考えてみた。その場合の疑問を『問答』にした。全く専門的学説に疎い者の解釈ですが、基本的な疑問を取り上げました。余りにも幼稚な疑問であるとは思いますが、大学理学部の教育関係者や理論物理学の専門家の視点で解釈を頂ければ有り難いです。

 

 

小部屋の照度とエネルギー

(2022/04/20)。何処かで学生さんや大学の先生方に話がしたい。儚い望みかと噛み締めながら。話の内容は途方もない、科学常識理論から外れた事に成るかも知れないが。

その訳は、余りにも科学論の理論物理学や数学的記述の基礎理論解説論が専門家と言う業界の絵空事理論に成っているようで、何とかできないかと考えてしまう。余り誰もそのような意識を持っていないようだから尚更だ。解決すべき問題はただ一つ『エネルギー』の空間に実在する自然世界の基礎認識を持って欲しいだけなんだ。ここでは、少し変わった視点で、光の明るさの照度という照明の意味に絡めて、『エネルギー』を考えてみたい。日常生活に根差した科学論としての『エネルギー』の話を。

小部屋に電球40Wを点灯した。ワット[W]は電力、仕事率という1秒間当たりの『エネルギー』の消費量を評価する技術概念量だ。電灯線から電気の『エネルギー』を取り込んで、電球で光への『エネルギー』の変換をする科学技術的方法だ。科学技術としての照明学会などの部屋の明るさを評価する独特の技術概念がある。その単位が、照度はルクス[lx]で、光の量・光束はルーメン[lm]が使われる。その量的評価にも、大事な『エネルギー』量の意味は関係付けられていない。というより分からない、あるいは評価できない宿命にある。光の明るさは人が感覚的に認識する生物学的検知機能によって決まるからである。目の視感度曲線によって光の量・『エネルギー』の量に比例した強さでは感じ取れない人の感性に因っているからだ。紫外線が幾ら強くても明るさとしてはほとんど感じず、見えない。同じく「赤外線」も見えない。

この小部屋の照度で何を言いたいかというと、電球が放射する光の『エネルギー』が何処に消えるかを尋ねたいのだ。さて中学生に聞いたらどのように答えるか?大学の物理学教室の先生はどの様にお答えなさるか。電球が放射する『エネルギー』量は時間積分で無限に部屋の中に増加する訳だが、決して明るさが時間と共に明るくなることにはならず、ある一定の値の明るさに落ち着く。照明論では球形光束計という光束測定の技術で決まった定義付けで評価する量の問題ではある。無限反射の級数計算で評価する。その光束量も、光と言う空間に実在する『エネルギー』の流れ・光速度流の意識で理解して欲しいのだ。前に、布団乾しー温度の理科基礎(仮称)ー (2016/04/14) で太陽光線の意味を述べた。光は熱にも質量にも変換されると言う解釈である。小部屋の照度は放射された光の『エネルギー』が消えてなくなる訳をどの様に考えるかという、日常生活感覚論ともいえる問題の筈だ。無限の壁の面での『エネルギー』の縦波の入反射現象の解釈問題でしかない。

科学技術理論と科学基礎概念・理論の間の不協和・断裂問題。それは学校基礎教育問題である。

現在みんなが、科学技術がこのインターネットの情報化を構築し、医学のコロナウイルスの脅威から人を救うなど、その恩恵によって、理解の限界を超えた世界に生きている。しかし、その科学技術と科学基礎理論との間にポッカリと空いた断裂の暗闇が、望ましい「科学リテラシー」の基での市民による未来社会構築を進めるべき道に空恐ろしい断崖絶壁を創り上げてしっまった。何故この様な「嘘」の科学基礎理論が理論物理学者によって、正しく修正されずに来てしまったのか?どこに『電子』や『電荷』の必要があるのか?役にも立たない嘘概念で理論物理学が世界を混乱させている。太陽からの贈り物の『光』が古代の地球の巨樹を繁茂させ、植物の光の同化作用で『ブドウ糖』の『炭素』が創られ、それによって巨大な底知れぬ巨大な動物が繁茂し、燃料と言う地下資源化を引き起こして、現在の地球が有る。太陽からの『エネルギー』が基に成っている筈だ。大きな屋敷のお庭を見れば、そこには巨樹の化石化した庭石の柱状節理の姿も見える。みんな光の『エネルギー』を意識せずには科学理論は何処か大きな矛盾を抱えた怪しさの道に迷い込む筈だ。今がその時にある。

光の空間像認識

(2022/04/16)。自然科学という意味は、自然が示す諸現象をどの様に解釈し、その真相をどう理解するかを考究する学問分野を指すと思う。普通は、共通な科学的手法によって認識する、伝統的解釈法によって得られた結果の体系を指そう。それがその時代の「科学パラダイム」と言うものに成ろう。科学的と言えば、科学的手法での実験結果が誰でも共通に検証可能である内容であってこそ認められる。その意味で「光」という自然世界に満ち溢れる物理量をどの様に科学論として捉えるかは、とても難しい。それは空間を伝播する光の『エネルギー [J] 』の空間像を決して測定できないからだ。その空間を『光速度』で伝播する光の『エネルギー』の分布密度など実験的に測定などできないだろう。だから科学的に光の空間像を理解することも難しいことなのかも知れない。それは夫々の人の自然に対する感覚的な認識に負うより外に無いかも知れない。『津波』現象の物理的認識も、専門家の解釈では『エネルギー [J] 』(水の運動エネルギーではない)の海洋伝播現象という認識が無いようだから、理解に到達できないかも知れない。物理学教育で、『エネルギー』の空間に実在する自然世界の根本的真理を認識し、取り上げていないからだろう。空間の『エネルギー』の実在を認識していない事は大きな教育上の欠陥である。それは光の空間像を認識する事が一つの具体的な解決法に成ろう。この記事の前提として、光の速度を取り上げた。

光の実験的測定法。筆者は光を物理的計測法で測定したことも無い。大学の物理実験で『ニュートンリング』の学生実験リポートに結果を報告した程度だ。だから、このブログの内容も、物理学会で発表した内容も全て、「こうなのではないか?」という感覚的認識に基づいたものでしかない。そんな内容を物理学理論として認知されるには、従来の科学的手法の限界を超えた、別次元の解釈でなければ意味はないのかも知れない。そこには、自然科学にもたらした数学の功罪 (2020/08/04)の記事も一つの視点となるかも知れない。

別次元解釈。それは空間に実在する『エネルギー』を認識するかどうかになる筈だ。物理学理論が『電子』論で解釈する手法である限り、自然の真相を捉える感覚には到達できないだろうと言う確信にある。その具体的論証の対象が「光」であろう。

光はエネルギーの縦波である。

電磁波も『エネルギー』の光速度伝播現象である。それが『静電界は磁界を伴う』の単純な実験結果なのである。『電界』も『磁界』も空間に実在する『エネルギー』の科学的手法での解釈概念でしかないのだ。自然世界を構成する根源要素は全て『エネルギー』なのである。素粒子と言う物もその構成原は『エネルギー』である。だから質量も、E=mc² [J] 、m=E/c² の様に『エネルギー』E[J] が局所的に集合して質量m[kg]となるという意味で解釈する。

光には物理的な性質で、「粒子性」と「波動性」の二つが備わっていると言われている。その意味をどの様に統合して解釈するかが大事な考究の視点である筈だ。その統合解釈には『エネルギー』の空間像以外ない筈だ。電磁波も光と同じ波動である。

一粒の光量子 (2021/08/12)にその空間像を示した。この空間を伝播する『エネルギー』の測定が困難であるから、物理概念、物理量と単位 [J] を取り扱い難いのだろう。単位系で、MKSJ となり難い意味でもあろう。

単位系 MKSA と MKSJ

科学技術の世界では経済活動との関係で商業取引が公正でなければならない。計量が世界で統一された測量基準に則らなければならない。その測量基準の基本量が [MKSA] 等である。そこには電流値のアンペア [A] が組み込まれている。不思議に思っていたが、『エネルギー』という空間を流れる物理量の単位ジュール [J] が入っていない。

何故かと考えた。電流[A]は電気回路現象の解釈の基本概念として、19世紀初めのアンペアの法則で最初に認識された物理学の基本量になったと思う。しかし、その電流の現在の物理学での認識は『電子』の逆流として一般的に解釈されている。その『電子』とは負の『電荷』の粒子という認識にあるようだ。その『電荷』概念が何時頃から物理学の解釈基礎概念として定着したかが良く分からない。計量法の基準がどの様に決まって来たかを少し調べた。

1874年。英国科学振興協会(BAAS) でボルト[V]とオーム[Ω]の二つが実用単位に導入された。

1881年。国際電気会議 で上に加えて、アンペア(A)クーロン(C)、ファラッド(F)、ヘンリー(H)、ワット(W)ジュール(J)も加えられたとある。ここで殆どが取り上げられた事に成る。

1893年。シカゴの国際電気会議。電力のワット(W)と熱量のジュール(J)が

W=AV=10⁷abW  J=VAs=10⁷ abJ

と定義された。abの意味理解できず? cgs単位系での関係かもしれない。

cgs系からMKS系へ。

1901年。MKS単位系で、 W=kg m²/s³  J=kgm²/s² と統合。

1948年。 国際電気会議(CGPM)、

1950年。 国際電気標準会議(IEC)

で MKSA が採択された。

1960年。国際単位系(SI)もそれを引き継いだ。

電流アンペア [A] が選ばれたのは、1948年のCGPMで採用され、簡便だから2019年のSI基本単位の再定義まで使われた。とある。

結局、1881年に『電流』アンペア[A] と『電荷』クーロン[C]が採用されたようだ。当時はキューリー夫妻の元素の放射性現象で漸く原子の謎に研究が向き出したころである。原子構造は勿論、『電子』も不明の頃である。第二次大戦後に、MKSA単位系がさいたくされて、今日まで [A] が電流計で測定可能という事で使われている訳であろう。

エネルギー [J] の世界。

『エネルギー』が物理学理論で、空間に分布した物理量だと認識されていない。東洋哲学の一つの至言「色即是空」がある。この意味を『エネルギー』との関係として自然世界に観照してみる。

自然世界は目の前に溢れる生命の天然模様を見せている。その姿に触れて人は心ときめかす。森羅万象の『色』である。『電流』という概念も電流計で認識できる。しかし、それは自然とは違う。寧ろ電流計で測定できる技術量の『電流』が見えることが、『色』と人が勘違いする原因となる。

mc² =E [J]  (式)

で、質量m[kg]は見える『色』の自然である。しかしその質量は、その根源は質量ではない。光の『エネルギー』が局所化した姿である。例えば、水素のその構成の基も光の『エネルギー』である。

だから原子はすべて、『エネルギー』に究極で分解してしまう。だから質量mと『エネルギー』Eは(式)のように等価となる。

『エネルギー』になった時、それは『色』の有ると思う状態から『空』の何もない状態になる。

「色即是空」はその意味と解釈する。東洋哲学の自然観だ。

空間に実在する『エネルギー』を科学的手法で測定できない。だから物理学理論で、科学的物理量と認識できない事に成っている。

しかし、[MKSJ] の[J]を認識しない度量衡は人の自然観を誤りに導く。それは教育における『学問の自由』の意義に繋がる。

クーロンの法則の眞相

大変だ。クーロンの法則と言えば無意識に『電荷』に関する法則と思う。それは、『電荷』の単位が「クーロン[C]」であり、フランス人のクーロン (Charles Augustine De Coulomb  1736-1806)の業績を讃えて採用した『電荷』の単位と思い、その関係からの意識によって。

実は、『電圧』の概念がどの様に構築されたか気になって、『電圧概念の起源』として検索して確認した。ボルタの電池の発明の頃の関係としてどの様に測定と概念が採られたか?を調べた。その検索結果の中に、電気の歴史年表と言う記事に出会った。

その記事に、「クーロンは磁石には2つの異なった極があり、同じ極は反発しあい、異なる極は引合う。力は距離の2乗に反比例する。」があった。

その当時は未だ『電荷』の意味がそれ程はっきりと意識されていなかったのではないかと思った。『電荷』に対して『磁気』なら磁石で感覚的にも分かり易い経験的意味で意識できたと思った。

おそらく、20世紀に入ってから、『電荷』の単位「クーロン [C] 」から、誤って磁気に関する法則を『電荷』に関するものと物理学教科書などで解説した事が始まりであった結果ではないかと思った。

クーロンの法則を斬る (2013/01/06)の旧い記事であるが、その中で・・斬る 等と記したが、それはあくまでも『電荷』に対する意味に対してであった。

『電荷』など決して、自然世界に実在する物理量ではない。改めてあらゆる自然世界観を基礎から作り直さなければならない所に立って居る筈だ。物理学理論の根幹から作り直す時代に居るのだ。原子構造の認識も『電荷』では矛盾論のままだから。