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光量子の波動関数形と作用

はじめに(過去と光量子像) 過去のファイルから光量子像を拾い出す。

光量子像 光は質量的な粒子ではない。横波の振動体ではない。曖昧な波動ではない。『エネルギー』の空間密度分布の光速度の縦波流である。

光量子と指数関数 雷様の光エネルギー放射現象の衝撃波形からの類推による導出波形関数が(1)式である。決して科学実験により証明は出来ない光量子像であろう。実験での証明が科学論の本質だと言われれば、この光量子像は科学論の範疇には入らないことになろう。自然現象に対する個人的『勘』に基づく提案でしかない。この式の導出過程などについては光とは何か?-光量子像ーに述べてある。

求められる人間像に程遠い未熟の人間のまま、科学常識から程遠い非常識の自然感覚から求める世界を彷徨う。見えない物を見たような嘘を言うと非難されるような光量子概念の提案をして来た。目で見えない物を見たとは言えない。しかし、心・感性で観ることもあろう。物理学理論のある時は「粒子性」でまた或る時は『波動性』で同じ現象を解釈し分ける。「粒子性」という場合の粒子とは質量の塊のような物を言うのか、そこに電荷という得体の知れない物を纏った電子のような粒子を念頭に描くのか、なかなか素人には理解できない。時には電子を雲のような捉えどころのない波動のようなものと言うようだ。そんな不明確な捉え方に満足出来ずに、2001年『プランク定数の次元と実在概念』を未熟な内容のまま発表した。その基には雷様の衝撃波形が自然現象波形のモデルとして意識に在った。電力設備の管理上雷の衝撃波は重要な研究対象でもあった。雷の衝撃電圧波形は急峻な立ち上り波頭の指数関数減衰波尾長の波形で認識している。決して正弦波には成らない。しかしその衝撃波表現法にも不満足である。指数関数表現式は時間が無限大に成っても決して現象がゼロには成らない式である。自然現象解釈式には指数減衰式が基本的に使われる。原子核分裂崩壊現象も半減期が幾らと言うように同じ指数減衰関数式で解釈される。プルトニュウムの半減期が何万年と言うような場合の解釈式なら問題にしなくて良かろう。普通の一般的自然現象では無限にゼロに成らない事はなかろう。そんな無限大に続く現象は自然界には無い。宇宙もすべて変転の中に在る。星座も消滅し、新たに産まれ来る天体の星座もある。光の一粒と言う空間エネルギーは波長と言う周期で必ずゼロに成らなければならない。その意味を指数関数式に含めた結果の式が(1)式である。

指数関数と波動関数形 エネルギーの縦波波としての光の表現。

波動関数形 変数xに対する波動関数形として③を選んだ。ただし、変数xの範囲は1≧x≧0で定義する。この変数については、光量子の(1)式では変数ζを使っている。それは無次元数で、波長λや周期τで正規化している。無次元の変数xで、③の場合にx^2^e^(x-1)などと高次とすると、関数波形はもっと急峻な形状となる。なお指数関数についての関連記事がある。指数関数の形と特性(2013/07/03)、指数関数の微分・積分(2015/02/10)および周期関数(科学技術と自然と数学) (2016/01/13) 等である。

光量子の作用性と波頭エネルギー密度H[J/m^3^] 光量子の波動関数形(指数関数)で光を認識すれば、光の一粒の波頭Hが光の作用性に大きく関係していると見做される。

波長λと波頭値H 光量子ε=hν=hc/λで、xに比例する。しかし作用性、波頭値のエネルギー密度で観れば、xの4乗に比例することに成る。光の波長が短くなれば、いわゆる振動数が高くなれば、その作用性は波頭値のエネルギー密度で効いてくると言う解釈ができる。なおここでは変数x=1/λで無次元ではないが、空間距離x/λのようにζは正規化した光量子表式(1)の無次元変数で解釈する。

まとめ 眼で見ることもできない、実験で証明することもできない科学認識は専門的には多分認められないだろう。しかし曖昧な粒子性と波動性の混合解釈論では、その論理は自然の眞髄では通らない話ではなかろうか。見ることが出来ない物には『電荷』も同じ事のように思う。雷が水蒸気の熱の放射現象だと言っても、専門的には、学説では理解されないかもしれない。雷は決して実在しない『電荷』などの現象ではない。上に一通り光量子の自己流(自分にとっては確信論)の解釈をまとめた。しかし大きな矛盾も抱えている。それは光の作用性で、波長の寸法が数千オングストロームで、原子、分子寸法との兼ね合いでの関係性が理解できていない。水素原子H2の放射スペクトラムと言う物理学の最初の解説で、1Åの寸法とその水素原子放射光の寸法の関係を論じることが出来れば良いのだが。追究しようと思うと、光の波長の意味が理解困難にもなるのだ。波長λに対してエネルギー分布空間の長さが波頭部分に集中している場合への解釈が残されてはいよう。

禪とは?

禪とは何か。ここに禪を取上げたのは、日本の靖国神社とは何かを禪の視点から分解してみようと思ったからである。靖国神社の意味を禪との対象として、別の標題で取上げる。その準備に禪を考えておきたい。(2013/10/27 追記)日本の魔境ー靖国神社ーに記した。今考えれば、禪に触れたのは豊干・寒山・拾得高校三年生の時のように思う。現代国語という教科書の一節に森鴎外の寒山拾得が有った。その内容の不思議な感覚がいつまでも残っていた。自分の生活の中に無い、異次元の世界に触れた思いだったからであろう。先日、ITの青空文庫にあるのを知り、もう一度読んだ。 なかなか深い意味が込められている短編傑作である。豊干・寒山・拾得の3人の禪僧と一人の役人の人生哲学描写のように思う。中国の天台宗清国寺を舞台の話であるが、実際のところ歴史的な事実かどうかは分からないようである。どうも寒山だけが実在の人物であるようにも書かれている。豊干と拾得は寒山の話を盛り上げる為に、付け加えられた人物らしくも書かれている。本当のところは分からないが、寒山だけは確かに実在の人らしい。ITのkotobankで寒山を調べると、中国唐代の隠者、詩人で、農家の生まれながら本ばかり読み、村人や妻にも疎まれ、家出放浪の末天台山に隠棲したとある。既成の仏教界からも詩壇からもはみ出した孤高の隠者で、300余首の詩を残したとある。世間に通用しない、相当のひねくれ者のように感じる。豊干・拾得が実在の人物でないとしても、森鴎外の寒山拾得の話は、禪の精神性を伝えるに良く出来た物語と感心する。

寒山の詩 自然と向き合うこと に寒山の詩が載っている。如何にも寒山らしい孤高の詩人という感じを十分くみ取れる詩である。それを筆にしてみた。寒山詩

天台山が寒山であると。その寒山の天頂に、満月が輝いている。また、昼間の晴れた青空を見上げれば、澄み切った空には何一つない。自然天然には世間的価値は何もないが、それこそかけがえの無い宝物である。俗世間にあれば、五陰の苦しみ悩みに身も心も汚れてしまう。というように解釈したい。

寒山と禪 宗教に関連付ければ、寒山は禪僧と言えよう。釈迦の右隣に控える文殊菩薩が寒山で、獅子に乗った絵図に描かれているが、そんな偶像化は禪と違う。寒山の生きざまは、世間と隔絶した孤高の禪道の人であろう。森鴎外の寒山拾得で描かれる寒山は世間の片隅にひっそりと、みすぼらしく暮らしている人物である。何の飾気も無く。それが禪の本当の姿であろう。有名な達磨絵図がある。その耳にリングがぶら下がっている達磨である。イヤリングの大きいものに見える。そのリングの意味が理解できない。達磨禪師が求めた禪は、そんな虚飾を決して求めない。何も持たず、何も飾らずの裸の生きざまが本当の禪の道であろう。禪関連・その他

とても禪の意味を理解することなど自分には無理である。今まで本棚に飾っていた、本を拾い集めてみた。2.の達磨の研究は神田の古本屋で見つけた。1.と3.はやはりどこかの古本屋で得た。3.の新井石禪は雲洞庵の住職(新井石龍の養親)や大学林の教育に当たった人の様である。しかし本の内容は、どこか富国強兵の流れからか、儒教的・家父長的色彩が強く感じられて感心できなかった。4.乞食(コツジキ)桃水は禪僧の理想の姿で描かれていると思う。人が真似の出来ない行者の姿である。7.絵巻物の地獄草紙(禪には関係ない)は死後の世界として、人々に恐怖を懐かせるに十分過ぎる啓蒙の役目をしただろう。宗教の社会的統制の役割を果たしたであろう。もう一冊大事な本を忘れていた。鈴木大拙著 禅と日本文化(禅と日本文化 を読みながら考えた)である。

禪と座禅 達磨禅師が9年間壁に向かって、座禅をした。その業で何を得たのだろうか。座禅は禅宗での精神修養の基本的形式を成すと言えよう。座禅から始まって座禅に終わる程重要視されていよう。達磨禪師が壁に向かって、何を修行していたのか、その結果どんな悟りに到達したのか。それを尋ねても、何も答えが得られまい。きっと言われるだろう。何も無い!と。無いことが分かれば良いのだろう。それが「色即是空」の意味であるから。無い事を理解するには沢山の事を経験しなければ、到達できない。世界の全ての姿、日常生活の経験、人の心理あるいは路傍の石ころの本質等、ありとあらゆる物事を理解することなど無理であろう。『電流は流れず』の意味を理解するには、電気回路の中の挙動を知り尽くさなければ、理解できない筈である。未熟の中で、悩み迷いながら生きるだけである。結局どおせ大した事ではないのだから、自分で納得すればそれで良い位の答しか無かろう。

だから何も無いのだ。『電荷』も無ければ、『ヒッグス粒子』(折角、ノーベル賞の本年度受賞対象になったが)も無いのだ。光に「振動数」など何処にも無いのだ。ただ有るのは『エネルギー』一つの空間での振る舞い方の違いだけである。『質量』もエネルギーの局所化した極微的軸流でしかない。『温度』は『質量』からのエネルギーの空間放射量の計測量でしかない。

『静電界は磁界を伴う』の解説

『瞬時電磁界理論』とはは『静電界は磁界を伴う』と言う標題で、東北大学での発表(電気学会全国大会 昭和62年4月1日)内容を取り上げた記事である。口頭発表予稿論文を訂正・修正して載せた。そこにその『解説記事』がファイルで纏めてあった。そのファイルが参考になると考えて、公開する。少し多い5ページになる。

静電界解説(1)

静電界解説(2)

静電界解説(3)

静電界解説(4)静電界解説(5)以上の解説として、『静電界は磁界を伴う』の実験結果の発表に至った論理的根拠や、その道筋の説明には成っているだろうと考える。

アボガドロ定数とは何か

気体を考え、「風とは何か」と考える時また、古い疑問にぶつかり進めなくなる。何度この「アボガドロ定数」に関する疑問を取り上げようかと思ったか。1811年にアボガドロが提唱した「仮説」であるようだ。分子論の基礎定数で、誰もが異論を差し挟めない程、権威ある「化学論」の基本中の基本である。気体分子運動論や温度の論理的基礎定数である。

「mol と体積」 化学論の基礎概念は「分子」である。しかも1mol と言う量的概念なしには取り組めない程の複雑な専門用語としての特徴に裏付けられている。その体積は、1モル分子が占める体積が、 22.4 [l] である。MKS系単位に慣れている者にとっては、それがとても取り付き難い代物であることには変わりがない。22.4 リットルと言う体積が、何故基本量の基準体積として選ばれたのかが全く理解できない。古代的、業界専門用語としか言いようがない。基準体積なら、 1 [m^3] で取り扱えば、理解し易い筈だ。アボガドロ定数Na=6.02×10^23 [個]の数量が最初(1811年)からの定数値であったかも気掛かりだ。分子1モルの分子の数量を表して、 その数量分の分子の質量が「分子量」だと言う事を定義している。例えば、酸素分子O2のアボガドロ数分の分子の分子量が32 g である。その酸素分子一つの質量は32 g をアボガドロ数で割れば、得られる。だから、5.31×10^-23 g が酸素分子の質量となる。酸素原子はその半分と看做される。

本当に「アボガドロ定数」の概念は正しいか こんな事を言い出すと、とても相手にされないだろう。しかし、疑問を放置して、『風』の話も進められない。風は空気の流れであり、そこには多くの分子が混在し、その温度と分子との関係で決まる。教科書の論理は「分子運動論」で温度が決まるが如き解釈である。その論理の基に成る、気体定数やボルツマン定数等に「アボガドロ定数」が欠かせない。気体分子には様々な物がある。アボガドロ定数と分子量揮発性のベンゼンなどが本当にアボガドロ数の概念で捉えられるだろうかと疑わざるを得ない。そこで、幾つかの気掛かりな分子を拾い上げてみた。ヘリュウムや、ネオンは不活性ガスと言われ、気体での分子は原子のままと思われる。酸素は代表例の分子であろう。窒素は挙げてないが、空気中の78%程を占めるらしい。特別の気体として、「水蒸気」の水を挙げなければならない。水は空気の環境温度でとてもその変化が際立っている。温度に対する「湿度」として捉えている。 『温度とは何か』が問うもの で少し述べたが、分子が運動する速度エネルギーで、温度を捉える解釈は無意味な論である。水蒸気の加熱特性を考えた時、分子運動ではなく、水蒸気分子の圧力と空間占有体積の積に加熱エネルギーが貯蔵されると解釈する。ナフタリンなどの芳香族高分子を採り上げるまでも無く、水蒸気を考えただけで、アボガドロ定数が示す概念が気体分子論に正しい解釈を提示しているとは信じられない。

素粒子ーその実相ー

素粒子とは何か? この素粒子の実像をどのように描き得るかを考えて来た。自然世界を統べる基礎は『エネルギー』一つである。その基本認識から得た素粒子の描像が右の図である。図の陽子の軸はエネルギー流に対して、矢印方向に磁極のS極があると解釈して頂きたい。その磁極は磁石の磁力を考える方向性である。磁極の意味は、S極とN極間に働く吸引力であり、同磁極間に働く反発力となる力の基である。この描像は、エネルギー流一つの単純性から、あらゆる現象の基に成ると予想される点が魅力的である。『原子核結合』の様子も予測できましょう。『湯川理論』での中間子論は、やはり電荷の有る(陽子)、無し(中性子)から解釈されて産まれた概念でもある事を考えれば、中性子と陽子の結合をエネルギー流の近接作用から考察することがより無理のない解釈に繋がろうと思う。天気図の「高圧」と『低圧』が対を成すように回転エネルギー流の近接作用で納得し易かろう。

電気磁気学の基礎概念『電荷』を否定した。全ての物理学理論の根底から、その裏付けが失われたと考える。あらゆる物理学の基礎を書き換えなければならないと考える。現時点で、今までの様々な考察を通して、益々物理学の基礎概念が、その根底から『嘘』で固められていると思わざるを得なくなった。特に現代物理学の最先端研究で、素粒子論や宇宙論が話題になっている。全てが複雑な新しい概念像を書き加える論に成っているようだ。そんなに自然は人間が考える程複雑性にその基本を置いていないと思う。現代物理学理論と正反対の考え方で、自然を認識したいと強く思う。その結論としての「エネルギー流」ただ一つから矛盾なく認識出来るだろうと結論付けた「素粒子描像」を提示した。

原子核構造論 提示した素粒子像から、原子核構造も自ずからその形が想像される。エネルギー流の局所化された素粒子同士が接近すればそのエネルギー流の間に起こる相互作用に、近接化の吸引力と反発化の排力とが生まれる事は予想が付く。ここには、『遠隔作用力』という物理学理論の『力概念』をも否定する、私の持論が根底にあって求めて来た方向性の『近接作用力』への結論でもある。太陽系の宇宙論にもそのエネルギー回転流が基本に秘められているとの展望に立っての結論でもある。昭和62年の電気学会、電磁界研究会での講演原稿が大変な顰蹙(ヒンシュク)を買った事は記憶している(所属なしで、長岡技術科学大学に?)。陽子と中性子はエネルギー流の構造に磁気的軸性が有るか無いかの違いしかないのである。だから、陽子も中性子もその根本的物理量の意味においては、特段に違いが有る訳ではない。だから陽子と中性子の間ではどちらにも転換する基本的性質が隠されている。原子核理論にも有るように中性子が電子と陽子に転換する核分裂反応が言われているのは、エネルギー回転流というただ一つが基本という、ここにその本質が有るからだ。さらに『電子スピン』という言葉も有るが、電子スピンとは何か?-その空間像ーに記事にまとめた。電子と陽子との磁気的軸性結合が何らかの状態変化で、中性子に変換するのは想像に難くない。

雷と不立文字

また雷の事を書きたくなった。去年11月に「雷と指数関数」の標題で書いた。微分方程式の解法の矛盾点を含めて論じた。今回は『不立文字(フリュウモンジ)』という東洋哲学用語との関係で論じて見ようと思う。雷様と昔から畏敬の念を持って接して来た自然現象でもある。科学的にも中々捉えきれない不思議さを秘めている。不立文字という用語の意味は、或る事象を説明しようとしても、言葉で解説して理解して頂く事が出来ない、という程度の意味と解釈している。ここで雷と不立文字の関係は雷を言葉で説明できないと言う事に結びつく話に成るであろう。書けない事を書くと言う事がそもそも矛盾である。それでも自分なりに「自然科学論」を書く心算でいるのだ。厳密に自然現象を論じようとすると、数式では説明できないだろうと言う事である。しかも『専門用語』の意味を厳密に認識しようとすると、結局矛盾に突き当たり、その専門用語さえ使えなくなると言う意味である。数式も専門用語も使えなくなれば、科学論が成り立たない事になる。落雷は夏に多い天空の自然現象であり、恐ろしい現象でもある。電力工学では、「高電圧工学」の分野として、長年研究されて来た。しかし未だに、すっきりと分かったと言えない状況にあろう。その原因の根本は『電荷』を実在物理量と決めて、解釈しているからに過ぎない。電荷概念を捨てることにより、始めて「雷」の物理的真実に迫れる筈である。 『電荷』という虚像で、少し電荷概念の矛盾について述べた。落雷現象を、自分の能力の無さを棚上げにして、電荷概念なしに解釈してみたい。右にその落雷の考察ポイントを①から④までの番号を付けた所の現象を基に考えてみたい。落雷現象は、先ず初めに「前駆放電」という現象が雷雲と地上の間の空間に起きる。「放電」という言葉そのものが概念では電荷の現象という意味であるから、使えないのであるが光を空間が放射する事の意味に限った解釈で「放電」の用語を捉える事にする。丁度、電磁界の解釈で、電界と磁界という用語を使わなければならなかったと同じ説明上の『不立文字』の問題でもある。電荷概念は、日常生活で遭遇する現象の説明に誠に巧く出来ているから、誰もが信じて疑わないのである。しかし、論理的に追究すると、矛盾だらけの姿を曝すのである。なんとなく「摩擦現象」を電荷で最初に解釈した遠い過去の時点の科学認識も社会状況にも遡って考えてみる必要があろうと思う。『雷雲』が電荷を貯蔵すると言う物理的根本の解釈の基は何か?高電圧工学では、入道雲の発生時に、上昇気流に伴って、水滴や氷粒の摩擦が起きる。その摩擦を基に電荷の分離が起き、雲の中にプラスの電荷部分とマイナスの電荷部分が分かれて生じるような解釈が取られている。何で同じ者同士が摩擦をすると、プラスとマイナスの電荷に分かれなければならないのだろうか。例え分かれたとしても、プラスとマイナスは常に引き合う基本的性質を持つと定義しているのだから、ワザワザなんで分離する力が生じると言うのだろうか。このようなしつこい理屈を述べると、科学論に反すると言われるのである。科学論は数学的論理方程式によって、科学的論理解釈に脳が訓練された特有の思考方式による科学者の集団的論理場領域なのである。①の雷の発生起点となる雲の状況をどう認識するかが一つの要点になろう。クーロンの法則を基にしなければ、電磁気学が成り立たないと解釈する点に大問題がある。電荷を否定すれば、クーロンの法則は即座に破棄しなければならない。雷の現象には、雲の中での放電と雲と地上との間の落雷とがある。落雷は高速度撮影の観測写真等で、前駆放電現象が見られる。番号①を起点に複雑な軌跡の光の筋が②のように天空に広がり、如何にも何処に放電すれば良いかと、触手を伸ばして相手を探しているような姿の光の筋である。その一筋の③から④へと伸びた筋が目的地に到達したが如くに、その筋が「主放電」の落雷現象の道筋に成る。この主放電の光の軌跡がエネルギーの放射源である。落雷現象が如何にも雲と地上の間に貯まった『電荷』の中和現象と解釈すれば、科学論として辻褄が合うように思える。しかしそんなに簡単に落雷現象を『電荷の中和現象』と解釈して納得したと言えるかという事である。触手を何本も空間に伸ばした複雑な前駆放電の光の筋をどのように解釈したら良いかという『問答』になろう。

落雷のエネルギー解放現象 空間の放射エネルギーには様々な種類がある。今問題になっている『放射性物質』からの核分裂放射エネルギーもその一つである。核分裂放射エネルギーは目に見えない。しかし、空間に展開される落雷の放射エネルギーは強烈な放射光を放って、空間の貯蔵エネルギーを解放するのである。「量子力学」で、原子、分子の光の放射現象を取り扱う。蛍光灯の「蛍光物質」の放射光もその理論で解釈されている。しかし、電子の運動エネルギーが何とかこうとかと解釈されるが、そんな原理は当てに成らない。その理論の矛盾を挙げておきます。蛍光灯の発光現象は水銀蒸気の発する紫外線が蛍光物質を刺激する光の波長の可視光線への変換現象と解釈されている。紫外線に比べられないような、150MHz の波長空間(定在波)で 40cm の直管蛍光灯が高輝度で発光する。これは余り理論解釈と違い過ぎましょう。空間への放射エネルギーの形態はさまざまである。あの夜空を引き裂く落雷の主放電の光放射現象を、その光の放射エネルギー量を積算計算したら、途轍もないエネルギー量になろう。要するに空間に貯蔵された空間エネルギーの放射現象が雷現象の正体である。高密度エネルギーに直撃されたら、人の生命は耐えきれない。結局雷現象を科学論として取りまとめられたかと言えば、エネルギーの空間実在量として認識できるかどうかにかかる問題であると言えよう。光をそのエネルギー量として捉えられるかどうかであろう。

質量とエネルギーの等価性 ここで取り上げるにはと躊躇する。しかし、先日NHKの番組で、「宇宙の渚」とかがあった。古い資料の中に見つけた物がある。宇宙と繋がる様な図案である。質量・エネルギーの等価性実は、事情があって、発表出来なかった資料である。日本物理学会第64回年次大会。エネルギーが質量の基 第64巻1号第1分冊 p.20.(2009)  の発表のために準備した資料である。丁度宇宙の渚での「スプライト」の雷放電模様に関係した絵図に連想できると思う。ヒッグス粒子などの素粒子論に対抗した異なる質量概念の解釈絵図である。序でだから、その時のもう一つの資料も示そう。素粒子衝突の模型を描いたものである。丁度粒子加速器での粒子衝突の様子にもなろう。必ず衝突すれば、エネルギーが、質量が光に変換されて、放射される。陽子などの粒子を加速すると言うが、電気磁気学理論では、陽子の電荷加速なら、電界以外の加速力は無い筈である。しかるに、セルン加速器は「磁界」で加速している。陽子の加速に磁界加速は原理的に『嘘の不可能な加速法』である。それは余談として、粒子衝突で放射される光は質量の運動エネルギーが光に変換すると言うより、質量が加速されたエネルギー分まで等価的に「増分質量」と解釈すべきものであり、その分も含めた物の中の一部が『光放射エネルギー』に変換されたと解釈すべきである。その光はエネルギーの大きさに差はあろうが、蝋燭の光と本質的には変わりが無いのである。これらの光はすべて消滅する訳ではないのだ。光はそのままエネルギーなのである。光が放射されて、必ず何かの障害に突き当たる。そこで屈折、反射および吸収の様々な障害という媒体との相互干渉で、状態変換を起こす。遂には吸収されて熱エネルギーなどになる。その熱エネルギーも完全に原子・分子の内部に吸収されれば、それは『質量』になる。それが『質量・エネルギー等価則』という事だ。『エネルギー保存則』は自然界・宇宙の基本法則である。光のエネルギー保存則をどのように解釈するかが素粒子論の問答に成る。

新世界への扉 コンデンサの磁界

ーコンデンサの磁界ー 「磁界は電流によって発生する」と言う電気の常識の『間違い』で世界は支配されている。その常識が間違いである事を『実験データ』で示す事が「科学的手法」だと認識している。それが『コンデンサ内に磁界が存在する』ことで十分であろう。電気磁気学の理論には、コンデンサの中に磁界や磁気は存在しない事で理論が構築されている。物理学の電磁界は『電界』と『磁界』の二つの概念で認識される。電磁石・コイルは磁束・磁界によって解釈し、コンデンサは電荷・電界で認識する。その二つの全く異なる概念で一つの電磁界を認識し、論理的に納得できていると思い間違っている。何故疑問を抱かないで居られるのかは、人間の思考過程の心理的意味合いを含めて、その不思議を考えずにはいられない。こんな世界の常識に反論しなければならない事自体がとても悲しい事である。

前書きはその位にして、電気回路の機能要素である『コンデンサ』の意味に踏み込んでみよう。左の図版①はラジオの同調回路の例である。バリコンと言う可変コンデンサとコイルの組み合わせで、ラジオ放送局の選局をする。アンテナから放送電波のエネルギーを取り入れコイルL[H(ヘンリー)]とコンデンサの容量C[F(ファラッド)]の調整で、ラジオ周波数 f [Hz(ヘルツ)]が決まる。このコンデンサはどんな役目を担っているかを考えなければならない。コイルもコンデンサもエネルギーを貯蔵し、その二つの間で、エネルギーをキャッチボウルしているのである。電気理論では、コイルは電流に拠るエネルギー、コンデンサは電荷(電子と(+の電荷?))に拠るエネルギーと同じエネルギーを種類を分けて解釈する。どちらも全く同じ『エネルギー』であるのに。

図版②の(イ)のように二枚の金属箔で誘電体物質を挟みこめばコンデンサになる。その電気的意味は(ロ)の電極に対向して現れるプラス、マイナスの電荷が二枚の金属板の間に電界(仮想概念)を発生させる。その電界がエネルギーになると解釈している。エネルギーは電荷に拠る電界が無ければエネルギーにならないと解釈するのが教科書の「電気理論」である。何も電荷など考えなくても、電極版の間の空間にはエネルギーという実体が存在する・実在するのに。この『エネルギー』の実在性とその教科書的解釈の間違いを明らかにするのが、ここで述べる実験に基づく結果である。

-コンデンサ内の磁界検出実験ー先ず実験回路を示そう。上の高電圧試験回路はケノトロンに拠る整流回路で、試験ギャップに負極性の高電圧を掛ける接続を示している。試験ギャップはロゴウスキー電極で構成し、そのギャップが所謂コンデンサと同じ機能を担うと言える。そのコンデンサのギャップ内に磁界が存在することを証明する実験結果を示そうと言うのである。この高電圧試験装置は雷放電現象や高電圧絶縁破壊現象の解明試験に使う、電力技術分野の基本装置である。高電圧技術ではこのロゴウスキー電極をコンデンサと言う見方で捉えることは余りない。しかし、やはり高電圧印加のコンデンサである。巧い事に、磁界を検出するマグネットは簡単に手に入る。だからコンデンサ内の磁界の検出が簡単にできるのである。『瞬時電磁界理論』とは および『静電界は磁界を伴う』の解説で述べたように、電界と磁界が単独に存在する電磁界は無い。しかし、静磁界の中の電界を検出する方法はない。それは電界検出器が無いからである。図版④に磁界検出マグネットを示す。(イ)は理科実験用の市販マグネットである。(ロ)は家庭用市販マグネットで、キャップが樹脂系のものが円周径方向に磁極N,S となっている。それに工作を施し、中心に留め具を付け、木綿糸で吊り下げて利用した。実験に利用したのは時間的に短時間で切り上げざるを得なかったので、殆どが(ロ)の検出器を使って終わった。

実験実施時期と場所。昭和61年10月~11月。長岡工業高等専門学校、電気工学科の高電圧実験室。

実験結果。

図版⑤は理科実験用磁針(イ)を使った数少ないデータである。この磁界検出は、平板電極間の空間の磁界を検出する訳であるが、空間には地磁気がある為、それを基準にした『東西南北』で測定しなければならない。しかし、一番分かり易い『『北側』だけの測定しかできないで終わってしまった。『東西側』の測定なしには実験に最終的な結論を述べるまで至っていない訳ではある。それも、日本の歴史に埋没した社会的事件が故に、実験の中断のやむなきに至り、今日まで『真理』は埋没のまま二十数年経過した。しかし、当該実験は理論的予測を立てた上での『理論検証実験』であり、『偶然の発見』と言う『一般的発見』とは異なる故に、僅かな『実験データ』であっても、その内容と意義は大きい物と断言できる。上の 6 枚の写真は、先ず初めに、 印加電圧0 [kV] で地磁気の基準方位を確認した。写真データは上部電極に負極性の直流高電圧を印加した場合に、地磁気方位『北側』に磁針コンパスを絶縁指示棒で保持して、その各電圧に対する磁針の指示方向が変化するかどうかを検証したものである。コンデンサ内に磁界が存在するなどと言う基礎概念は『電気磁気学理論』には無い。平板コンデンサ内に設定した『磁針コンパス』が、その印加電圧の大きさを変化させた時、地磁気の方位を向いたままなら、教科書の理論通りに、コンデンサ内の時間的に変化しない電界は『ファインマン物理学』が指摘する通り、『電気』と『磁気』は別々の現象である事になる。もし、磁針が電圧の大きさに拠って、指示方向に変化があるなら、それは私の『瞬時電磁界理論』の通り『電界と磁界が単独に存在する電磁現象は無い』という証であると解釈出来る。写真は印加電圧がそれぞれ -10 [kV]、 -15 [kV]、  -20[kV]、  -25 [kV]および   -30 [kV] の各場合の磁針の指示方向を確認したものである。残念ながら、電極間空間ギャップには北側だけでも中心部から外側周辺部並びに、上部および中間部など空間全体でどのように印加電圧に拠る磁気方位が変化するかを、細かく調べなければならないのであるが、中断せざるを得ない『怒り』を抑えた。恐らく私が実験しなければ、今まで誰も実験で検証しよとはしないであろう。

さて、図版⑥で磁界検出器(ロ)の円形マグネット(フェライト?)を磁界検出に用いた訳がある。それは当初、クーロン力に拠ると反論されるだろうとの思惑があり、それを避ける意味で、方向性の無い円形磁石に拠って磁界検出を行った。そのデータの一例が上のカラー写真である。以上、私が『物理学基礎理論の矛盾』を唱えている実験的根拠の全てがここに示した『静電界即ちコンデンサ内の磁気の実在性』に在る事に尽きよう。

(2011.12.22.追記)しかし、残念ながらそのコンデンサ内の磁界の分布状況の全容は把握しきれていない。磁界検出の実験当時の検討内容の記録が本に挟まれていた。ロゴウスキー電極の周辺部の磁界検出に於いても、地磁気との関係で、N(北極)側だけしかデータは採っていない。周辺部360度では、検出磁界も安定性の意味を考えなければならない問題が山積に残されている。その一端の様子を認めたメモである。当時の落書きの様に記したメモである。実験初期の、小型のコンパスを使って、周辺部の状況を観察したメモであろう。当時を思い返すと、ロゴウスキー電極の地磁気の東西方向で、コンパスの指示する方向が安定せず、振動や、一方向にゆっくり回転する等の現象を確認した事を記憶している。この時の極性は正極性の電界で、印加電圧2kVと読める。地磁気の方向の印が無いのが残念である。このような『静電界中の磁界検出』と言う物理学理論の大前提を破壊する様な実験に挑んだ事が、科学界の常識からは気違いじみて見えた事だろうと思う。今でも何方がこの『自然科学の真理』に挑戦され、説き明かして頂けるかを期待している。

(2016/06/23)追記(2017/11/07)追記 以下を削除。