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色が生まれる物理現象

(2021/05/15) 。世界は彩鮮やかだ。この地球に生きる世界は華やかな彩に満ちている。そんな美しい世界に物理学など絡めるのは誠に心苦しい。それでも未来を担う子供たちの為にも、伝えておかなければ成らない事がある。

彩と科学論。
色彩は光のエネルギーが醸し出す自然現象だ。自然現象の中で、光に関する科学論は物理学が担う学問的分野であろう。しかし日常生活の身の周りの光の不思議について、物理学は余り役に立たない自然世界認識論になっている。その原因は光のエネルギー空間像の認識が無いからであろう。

波と量子力学。
光は量子性と波動性を兼ね備えていると量子力学と言う科学理論で言う。とても難しいから深入りできない。今日改めて量子力学と検索した。2重スリットのお話の解説が出た。量子力学の不思議さを殊更解説して、その不思議な現象が有るからこそ量子力学が学問として貴重な分野である。と言わんがための専門領域の宣伝記事に思えた。その不思議を説こうとしない専門性の不思議に脱帽だ!学問的解釈では、日常生活で不図疑問に思う事に対して必要な易しい自然現象の解釈を示せないのだろうか。突然高く聳える絶壁で学問領域を権威の城壁に囲い込む。光の何たるかについて解き明かそうと言う学問研究の姿勢が見えないのが残念である。

薔薇、真赤なバラが咲いた。
何故薔薇の花弁が真赤な色になるのか。どの様に物理学は答えを示してくれるでしょうか。光を振動数で解釈している限り、真赤なバラの色の訳など理解はできなかろう。二重スリットの解説から、光がそこに示す現象の訳を考えた時、空間を伝播する光の実相を・空間像をどの様に捉えているのか。波の意味をどう解釈しているかで、その物理現象の捉え方が変ってこよう。その物理現象を理解するには色彩の生れる訳を知ることが必要だ。その意味で、色彩の訳を考えてみたくなった。景色が醸す彩はすべて同じ空間の光が基で、それぞれの色合いを演出する。それが自然の姿だ。不思議な世界だ。その意味を物理学で紐解いて欲しいのだ。

花虎の尾に揚羽。この揚羽蝶の彩はどのような物理現象によって解き放たれているか?そんな日常生活に触れる自然現象の意味を物理学理論に求めたいのだ。光の物理的実体を物理学ではどのように解釈しているか?花虎の尾の花弁の色は何故その色を醸し出しているか。何が原因でその色になるのか。全て特別の事ではなく、目の前の光が創り出す世界でしかない。目の前の光とはどんなものと物理学では認識しているか?振動数では自然の色の解説はできない。光は全てに平等なエネルギーを振り撒いている。その光のエネルギーをどの様に処理して放射するかがそれぞれの存在する自己主張・アイデンティティーであろう。自由と言う世界の姿を見せている。それが個性でもある。揚羽蝶の羽の彩模様は代表的な自然の極微模様と言っても良かろう。自由な羽の表面構造が創り出す光エネルギーの共振空洞現象の結果と認識する。

赤くはないが白い椿の花。白い光がある訳ではない。目の前の空間に満ちている光が花弁に入り込み、その花弁の表面の細胞空間内でのエネルギーの空間像の変換を経て、固有の光成分の集合体として放射現象に至る。その光の波長分布成分スペクトラムが白色を演出するのだ。その反射光を人の色覚と自然の関りとして白く捉える仕組みでしかなかろう。

白熱電球と言うランプ光。昔の穏やかな光の色。

光にはそれぞれ独特の色合いがある。電球はそのフィラメント等の物理現象でその特徴の色合いを出す。この放射光は少し赤み側の波長成分に中心波長が在るスペクトラムであろう。そのような光成分になる訳は、フィラメント内に入射する電気エネルギーがそのフィラメント空間に時間積分で増加し、ある程度の貯蔵限界に達するたびに外部に放射する。その周期が電球フィラメントのエネルギー放射周期となるからと解釈する。その周期が電球の色調を生むからと考える。

記事を書きながら、分からない事に突き当たる。その疑問を解くのに暫く考える。過去に解決した解釈と突き合わせて、考えを纏める。全く実験もなしに、解釈法を提起するその基は『エネルギー』に対する感覚しか頼りになるものは無い。白熱電球のエネルギー変換について中学2年生の学習課題がある。その意味も兼ねて、己にその解決を課した。その結果が上の図である。この白熱電球の発光の物理現象は電球の抵抗が等価的に√(Lr/Cr) [Ω]であるとの認識が基礎にある。全ての空間の『エネルギー』は空間の定数 C[F/m] L[H/m] あるいはεo[F/m] μo[H/m]に因った共鳴現象で伝播する縦波である。電気抵抗の技術単位オーム [Ω] も自然世界の現象との関係で理解するにはL C 機能で捉える必要がある。電気回路要素の『エネルギー』処理機能 (2020/04/12) 。図2.でその意味を捉えた。

 

 

 

 

(2021/06/20)追記。サイエンスコミュニケーションの機関誌を読みながら、科学理論の果たす役割は何かなと不図思いながらこの記事を読み直した。準備した絵図の掲載を忘れていたことに気付いた。年の性かな?

空間と色彩 自然の天然の色合いは言い様もなく美しい。昼光と言う光が平等に照らし、みんな違う色合いを奏でる。同じ光が創り出す世界なのだ。デジタルCD 板の模様もその空間構造が創り出す。同じ原理で世界の色彩は生まれる。模型で書けば上の空間のような仕組みと解釈できる。自然は極めて単純であるが故に、その姿は極微の美しさを生む。忘れていた図を載せた。

 Axial energy flow も軸対称の回転エネルギーの流れである。縦波とは言えないかも知れないが、エネルギーの流れである。その『速度』が光速度かどうかはいつか分かるか。今は不明。

電気抵抗の物理特性 (2019/11/17) がCL解釈の方向へのはじめか。

むすび。

光が特別のものでなく、その『エネルギー』の空間分布構造によって、無限の色彩模様を演出しているのだ。空間に実在する『エネルギー』の光速度の縦波伝播模様が世界の色彩を生み出しているのだ。専門の科学研究に進む前に、日常生活の身の回りの出来事に疑問を持ち続けて欲しい。光が『エネルギー』の空間の流れであることを知って欲しい。絵具もクレヨンもその成分の分子構造が光に対して『エネルギー』をそれぞれ特有の変換作用をして、光の分布構造を創り変える結果によって生み出された色彩なんだろう。たった一つの『エネルギー』の姿が光の色彩なんだ。揚羽蝶の羽根の極彩色も昼光が差し込み、その光のエネルギーが羽根の空間構造の中で変換されて、放射される光の空間分布エネルギー波の醸し出す造形である。光が空間の『エネルギー密度波』であると言う認識が無ければ理解できないと思う。人の視覚との関係で世界が繋がっている。

自然と言う世界

(2021/03/28) 追記。下記の記事で、光と視界認識の機能について述べた。眼球構造とその機能は生活環境、即ち水中か地上かによって多少は異なるだろう。しかし人だけでなく他の動物、馬や牛あるいは鯨や蛸など目の機能はほとんど同じ筈だ。全ての生体の殆どの眼球の構造は同じで、黄斑円孔が視神経となって、何処かで繋がっている筈と思う。牛や馬の眼球の解剖により、その視覚機能が分かれば、人も同じ機能と構造と解釈して良かろう。こんなところに科学理論の少しでも専門的な研究対象を広げた、より自然に寄り添う哲学的広がりによって、真の自然感に因る科学論が展開できるのではと思う。

(2021/03/22)。こんな素晴らしい不可解。それは光の世界。

上の眼球の図はーカラーでみせるやさしい解剖(南江堂)ーの絵図を写させてもらった。眼球の光ファイバーと色覚 (2010/11/28) のブログのはじめの頃の記事に関わる。その記事は改めて科学理論の常識に大きな衝撃を受けて書いたものだ。筆者のような医学の素人が、眼科学会の専門家の科学論に反論するなど正気の人間のすることではない。改めて、現在の『電子』否定の確信からの、科学理論全体への疑念をどう伝えればと悩みの中に在る。専門家はそれぞれの科学業界理論の中で、論議はするが、筆者のような素人の論は無視されて、反論もされない。眼球構造で、網膜に視界の像が結ばれるとの解説が眼科のお医者さんのお部屋には掲示されていると思う。上の図で、網膜は硝子体膜と脈絡膜の間の厚い部分であると示されている。水晶体のレンズなどで、光が屈折して網膜に像を結ぶと本当に解釈しているのかと思えば、原子力発電所の危険な科学技術程ではないとしても、みんなに考えて欲しい科学理論の現実として提起せずにはいられない。網膜全面に亘ってどのような光検知の細胞が、しかも色覚の基となる光の空間エネルギー分布波迄検知できる細胞機能が備わっているなど理解できない。光の物理的空間像が物理学理論で認識されていないことが全ての科学理論の曖昧さに関係している原点である。プランクの定数の次元が [Js] である意味をどの様な物理的概念として理解しているかが問題と思う。今日もある新聞ニュースレターの記事に、『老害』と言う言葉が使われて‥とあり、筆者の様なものも『老害』には成りたくないが、しかし・・。自然の中に現れる千変万化の不思議は、科学論で示そうとすれば、その純粋な自然の心に沿う思いが基に無ければ、観えないように思う。光が網膜に視界の像を結ぶという科学常識は間違っている。硝子体管は光ファイバーである。

心 ホウズキに遊ぶ (2021/03/14)。で、「木瓜(ボケ)の真赤な花が咲く こんな素晴らしい不可解 風景の意味でも極めんと」と訳の分からないことを綴った。

念頭に光の不思議を思い描いての事である。

真赤な花弁は木瓜だけではない。

なぜ花弁が赤いか?と己に問うてもその訳を説明できない。決して花弁が赤いという色の光がある訳ではない。光に色はない。光の本性を考えれば、それは空間に分布した『エネルギー』の縦波でしかない。だから色など光には無いのだ。光の空間構造が赤い色を本質的に備えている訳ではない。その意味を分かって頂けると思うが、如何でしょう。光を振動数で捉える習慣の理論物理学の専門家には異論があるかも知れない。しかし光の『振動数』と言う概念は誠に意味の分からない概念に思える。何かが振動している状態と解釈するとすれば、それは何が横向きに振動するものかの何かを示さなければならない。電界とか磁界とかが横に振動する訳がない。マックスウエル電磁場方程式の信奉パラダイムにおられる専門家には承服しがたいことと推測する。しかし、光に色彩の差を示す性質はない。それは自然が人との間の心のつながりを演出した結果と思えばよい事であろう。それ以外特別な物理的本質などない。同じ光が花弁に当たれば、その花弁の表面の空間構造(あるいはその内部に侵入して)、に対して屈折して波長(エネルギー分布の空間構造)に変化を生む。そのエネルギー分布の縦波の構造にその花弁の特徴が現れるからと解釈する。光は何も振動などしていない。光は単にエネルギーの空間分布波形の縦波でしかない。その単純性が光の基本特性だ。だから光は無限の変化で人に計り知れない複雑な世界の印象を与え得るのだ。

物が見え、風景が見える。

それはすべて光と目の関りに因っている。先ず、光が空間に展開される訳だから、その本質は光の空間像を認識することから始めなければならない筈だ。光の振動数とはどの様な意味かを理解しなければ『振動数』と言う物理概念が余りにも曖昧なまま使われてしまう。それは科学理論の基本である論理性を無視した科学論に成ってしまう。自然の基本は極めて単純なのである。風景や物を見て認識できる訳は光が決して曲がらない。その意味は極めて日常生活の中の単純な事にある。真っすぐ光は進むから風景が見える。光が曲がったら風景や物の像など見えない。そんな単純な意味を感覚的に意識する事しか、自然の世界と分かり合える道は無いと。

眼球の機能で全く分からない事の一つ。視神経と黄斑の繫がりがある筈だ。その解剖的構造が知りたい。

単レンズでの両眼視界

Space of Yoshihira

金澤 喜平(カナザワ ヨシヒラ)の漢字氏名が何故Kiheiと間違って翻訳されるか?

My name is Yoshihira Kanazawa.

我々は2眼一対の眼で世界を見る。2眼で遠近を計り、周りの全景を意識する。遠い対象は望遠鏡で拡大してみる。1個のレンズで両眼を使って遠景を見ることなど誰もしないだろう。無意味な事だから。しかし、眼の視覚の機能を理解するのに役立ちそうであるから、考えることにした。

一個のレンズと両眼視界 観測対象の遠近はどのような眼の機能で認識するのだろうか。単レンズをかざして、遠方の景色をそのレンズを通して両眼で見る。視界がハッキリしないで、二つの遠景が見えるように感じる。レンズ無しでその遠景を見れば、普段の正常な視界が見える。その正常な視界はその距離がどれ程かを脳で評価して認識するのだろう。遠近認識の眼の機能は両眼に届く対象からの光(視界)の角度で脳が判断していると考えていたが、どうもそれは違うのではないかと思う。

%e3%83%ac%e3%83%b3%e3%82%ba%e3%81%a8%e9%81%a0%e6%99%af%e8%a6%96%e7%95%8cレンズと遠景視界 レンズを両眼の中心軸にかざし、遠景を観測すると、像が二つに見える。そこで両眼の内の片方を閉じて、それぞれ片方の眼で観察してみる。するとレンズも遠景の像も左右の眼と反対側に移動した様な視界に代わる。眼で見るレンズを通した視界は予想とは異なるのである。その視界が何故そうなるかを光路とレンズの関係で描いた。この光路の関係が何故起こるのか。この図の意味は普通の遠近認識の眼の機能とは異なる特殊な場合である。その特殊な場合から見えることは、普段の遠近認識の機能の意味を考える実験としての役割を示すと思う。レンズなどの無い普段の両眼に依る遠近の視界認識の仕組みを考える切っ掛けになった。両眼で見るとは両眼の瞳の方向をその対象の方向に回転して揃えることで、両眼の光路が対象に対する角度を確定し、両眼と対象の間に二等辺三角形を構成する。眼に入る光の筋道即ち光路の集合としての遠景は、その対象の各部からレンズに入り、屈折して目に届くまで、すべて一筋の光路の集合に依り全体が構成された視界として眼の情報を脳で総合評価した認識機能になっている。その事の意味は、今まで光の眼の瞳への入射角度で理解していた遠近認識の解釈と実際は異なるように思った。

遠近認識と外眼筋(ガイガンキン) レンズ無しの平常時での眼の視界を考えて見る。眼球には左右それぞれに6本の外眼筋がある。視界はまず脳の水平感覚がその方向性を判断する基本条件になっていよう。それは内耳に在る平衡感覚器官の状態を脳が判断して認識しているのだろう。その上で、眼球の上下左右の方向を外眼筋で調節したその状況を脳は認識し、眼球の回転角で遠近認識をしていると考える。その時の光路は左右の眼の瞳が僅かに内向きに向いているので、対象からの各部の光がまっすぐ瞳に入り、殆ど屈折無しに眼球の硝子体管を経由して黄斑に達する。この解釈の基には眼の内部での視界認識機構が大きな意味を成す。眼での像認識が網膜に映るカメラ機構での解釈を採るか、硝子体管の光ファイバーを通した黄斑の中心窩の解釈を採るかによって変わってしまう。網膜説を否定しなければ、視界認識の脳機能を理解するのは困難であろう。これも素人の光の縦波空間像解釈からの感覚的解釈論である。眼の視界には焦点がまったく無意味であると同時に焦点距離さえも無関係である。従って、眼球や硝子体レンズ調節による屈折制御のカメラから類推した仕組みなど視界に関しては殆ど意味の無い事に思える。メガネに依る調節は角膜から硝子体管の入り口までの間の調整に役立っている事であろうと考えざるを得ない。網膜で像を認識する訳ではないから。

眼の機能に焦点距離の概念は意味を成さない。カメラとは違う。

眼球の光路とカメラ機能ー?ー

科学は『科学的』と言う一種特有にして、日常生活と隔絶した別世界で発揮される高度な知的能力が要求される学問分野と看做されている。そこは伝統に縛られ、過去の業績に支配された共通認識の上に積み重ねる競争的発見の慣習の世界である。しかも、分野ごとに概念や手法が必ずしも共通であるとも限らない。そんな『科学的』と言うべき対象に人の眼球の機能があるように思う。そんな中で全く医学には無知の素人の私が考える事であるから、『科学的』と言う範疇には入らない話になる事には間違いなかろう。しかし、『科学的』から外れた日常感覚だけからの考え・思索でも『科学的』以上の科学的な論理があると思うのだ。それは光とは何かを問う事から始まる視点が必要であろうからだ。光の意味を、その空間像を捉えることに於いては実験的には無理であろう。光一粒の形状を見ることなど困難であることは誰もが分かろう。そんな光と眼球の関係を理解することは大変かもしれない。しかしカメラと言う科学技術の結晶が日常生活に生かされ溶け込んでいる。それは光と人間の世界認識の間を繋ぐ架け橋の具体例でもあろう。眼とカメラの間の光の綾取りを考えてみようと思う。

眼球構造の光学的機能

%e7%9c%bc%e7%90%83%e3%81%ae%e7%84%a6%e7%82%b9%e8%b7%9d%e9%9b%a2眼球構造と焦点距離 光の形と同じく眼の中味を理解することは困難かもしれない。殆ど水とタンパク質でできた構造体であろう。殆どの専門的解説図には『硝子体管』は描かれていない。それは解剖しても『硝子体管』と硝子体液の区別がつかないからであろう。『硝子体管』は発生過程で血管が通りレンズの水晶体の成長に重要な役割を持っていただろうから、その時点ではその存在は確認できたのであろう。眼がどのように成長するかの過程までは謎であろう。何故『硝子体管』があると考えるか。それはカメラの原理と比較した時に網膜上に視覚の像が結ばれると解釈することは無理であると考えざるを得ないからである。光の屈折はどのような条件で起こるか。光の伝播空間の媒体の物性的変化で起こるのである。眼球は殆ど蛋白質と水であろう。屈折を起こす場所は空気と角膜の境界であろう。光が眼球の中に入れば、水晶体でも殆ど伝播媒体の物性的変化はないと考える。水晶体構造は発生学的な関係から積層構造ではないかと仮想する。水晶体内部における光の伝播状況を空想すれば、その積層分布構造が光の垂直進行を整える役割になっていると思う。カメラのレンズのような伝播媒体間での物性的差による屈折現象は起きないと解釈せざるを得ない。なおこんな素人の水晶体解釈は、魚類の眼球構造が蛋白質の球状積層構造をしていると言う遊び心の発見からの推察でしかないが、生物的共通性からの類推でもある。それは魚眼の標本?に在るように、眼球は玉葱状の積層を成していることを類推した。さて次に『黄斑』の解釈である。眼底検査で、粒粒の点が見える場所が『黄斑』であるらしい。その『黄斑』の点は何故『点』に見えるのか。その訳は何なんだろうか。眼球の解剖学的所見は大昔からの解釈であった筈だ。『光ファイバー』等の科学技術もない時代の解釈である。だから、伝統的解釈の科学論には『硝子体管』など有りようがないのだろう。一本一本の蛋白質の線状繊維の光ファイバーなどが光の伝播通路・光路になるなどの解釈概念は存在しないかもしれない。光がエネルギーの縦波と言う概念がないと横振動波ではなかなか感覚的にも捉え難いと思う。しかし『黄斑』部が視力・視覚認識の重要な部位である事は専門的に共通理解されている。網膜全体ではない事は分かっていると思う。さらにその中心部は「中心窩」と言う窪んだ形状をしていると言う。カメラでフイルム面に視界を映す事と比較してみたい。

眼球型カメラ

%e7%9c%bc%e7%90%83%e5%9e%8b%e3%82%ab%e3%83%a1%e3%83%a9眼球型カメラ 眼の機能をカメラの機能で解釈するのが教科書的常識であるようだ。だからその事を逆にカメラに眼の構造を応用して、カメラを作ったらどうかと考えた。それがこんな設計図になった。特に工夫した点はフイルムの形状である。その面は基本的に球面の一部を成し、更に焦点距離の概念を覆すべく窪みを付けた点である。なかなか難しい撮像面であるが、こんなフイルム面を工夫したら、教科書の解説用カメラになるかと考えた。日本人の眼球の長さは平均的に24~25㎜程らしい。レンズの『焦点』の物理学的解釈が間違いだと指摘した。平行光線が焦点に集まると言う理論は有り得ない。その『焦点』の解釈が眼球の中心窩の窪みについても焦点距離の意味にそぐわないとは感じない教育的問題になっているのではないかとも思う。光の屈折現象がどのような伝播媒体の境界で起きるかも感覚的に理解していないのではないかと危惧する。みんな教育効果であろう。

眼は一筋の光を観る

「一筋の光路」という意味で間違っていた。文末に訂正させて頂いた(2020/4/25)追記。%e4%b8%80%e7%ad%8b%e3%81%ae%e5%85%89%e8%b7%af一筋の光路

自分の眼の観る感覚を思い巡らしてみる。目の事など何も分からない者が眼の機能を考えるなど困ったものだと自分を責めながら書かせてもらう。目の機能はカメラとは違う。網膜に像を映す訳ではない。カメラはフイルム、撮像画素等の平面に全面に被写像を映す。眼球も水晶体と言うレンズ体があり、カメラに似ているが、網膜に被写像は写さないと解釈する。網膜は光の量がどの程度かは判断する機能を持っているかもしれないが、像の認識の機能はなかろう。網膜全面に亘っての細胞に光の情報を分別、認識する機能を持っていると解釈することが感覚的に困難と感じる。済みませんが科学的裏付けもデータもない話です。

黄斑 眼底に点々の模様が見えるようだ。その模様の意味は眼球の機能としてどのような意味なのか。2.黄斑って何ですか に解説されている。さてその黄斑で視界の全てを認識するとすれば、水晶体のレンズをカメラのような機能で捉えることは難しいだろうと考える。その事に対する合理的解釈は光ファイバー機能の『硝子体管』しかなかろう。硝子体管は人の幼児のときには、見えるが成長すると消えてしまうものらしい。眼球の硝子体と同一の蛋白質であれば、消えて見えなくても光の通路としての役割だけは残っている筈だ。そのファイバーの切断面に現れる模様がファイバー一本一本の形として黄斑の模様になっていると解釈したのである。眼球の光ファイバーと色覚 がその意味での解釈。この記事についての「つっこみどころ・・」の論評がある。人の色覚を物理的に説明 に在るように色覚についてはなかなか分からないようだ。

一筋の光を観る(2020/4/25追記)この一筋の光という意味を取り上げた訳が理解できない。人の視界は角膜に入射する視界の対象の一点からの多くの光路の光が角膜表面で屈折をして多くの筋で入射する。その多くの筋の入射光が水晶体レンズに入り、その水晶体の終端部で、光ファイバーの硝子体管の入口で焦点を結ぶと解釈する。光の一筋という意味が間違っているようで以下を削除する。

レンズの焦点距離についての考察の途中の話として取り上げた。

眼球の光ファイバーと色覚

光の物理学的認識が問われている。光を周波数・振動数で認識することでは、その本質に迫れない。光一粒の認識が重要である。そのことは光の屈折現象の物理的解釈に関わる重要な基本点である。その光量子の空間像を 光とは何か?-光量子像ー に基本概念示した。

(2019/10/30)追記。記事の末尾にも追記した。どうしても、眼科の専門家の眼球機能の認識に納得できずに、先日書棚にあった、専門家の本を無意味として捨てた。光の屈折現象の物理的意味が正しく理解されていないと思った。媒体間の境界での特性差が屈折の特性を決めるのである。オットセイ、カバあるいはペンギンが何故水中でも空気中でも見えるか?人はゴーグルを付けなければ水中では見えない。その意味は眼球内のレンズ効果の理解に生かされなければならない。

さて、眼球に関する重要な指摘をしておきたい。医学的には、眼球の機能をカメラと同じように、網膜上に光学的な倒立像を結び、その像が視神経を通して脳に伝達されると解釈されている。眼科のお医者さんの多くの方がそのように解釈していると思われる。それはお医者さんの示す目の絵図にカメラの機能と同じ様子で示されているから。それは間違いと思う。眼球の中心眼軸には『光ファイバー』が貫通しているとみなすべきである。上の図は、参考文献Dispray Atras of Elementary Anatomy の日本語訳本(その原文はフランス語の Librarie Maroine SA Editeur. Paris 1980 であるらしい。 ) を見ての解釈である。(2019/05/19)追記。この文献には硝子体管の終端は網膜の視神経に繋がっている。しかし黄斑が視力の重要な部位を占めているようであることから、その点点模様が硝子体管の光ファイバーの終端模様と考えた。その文献には眼球の硝子体液の中心には硝子体管が示されている。その硝子体管を私は光ファイバーと解釈したのである。私はその光ファイバーが眼球の中心軸を貫通していると観る。カメラのようにレンズが空気中に在る様な構造で捉えて、水晶体のレンズで屈折した光が眼底の網膜上に反転像を結ぶと考えるのは間違いと解釈する。角膜に入射後の光は瞳孔、水晶体レンズを通過した後、平行光線として硝子体管と言う光ファイバー内を進行する。光の像は丁度『金太郎飴』の切断面のように、平行光線として黄斑の窪み部まで縦波のエネルギー波として到達する。従って眼底に結ばれる結像は黄斑に正立像として到達すると解釈する(ただし、光ファイバーが捩れているなら正立像とは違うかも知れない)。何故このように考えるかと言えば、カメラ構造解釈では、網膜全体に光感知機能・神経が張り巡らされていなければならず、更にその光の色覚まで網膜全体の細胞に識別する機能を負わせなければならない事になる。ここで『眼の色覚』の生物物理的解釈が問われる事になる。眼球の構造の昔の解釈では、『光ファイバー』などと言う光学的認識は無かった訳で、カメラと同様な機能解釈が当然のこととして受け入れられたものであろう。今でも、光量子の一粒の解釈が物理学では正確に認識されていない。光をあくまでも『波動論』として認識している訳であるから、「振動数」と言う横波概念でしか解釈できないのである。光を含め全ての波は「縦波」である。そのことを認識しなければ、『プリズムの屈折現象』の説明は出来ない筈である。「プリズムと光量子の分散(発表欠席)」ー日本物理学会第64回年次大会講演概要集 第1号第2分冊、p.405.  (2009)ーに基礎論を展開。日常生活で誰もが体験する物理現象さえ物理学理論は説明できないのが現実である。風呂の中の光の屈折現象も、水面の境界面で光の進行方向が屈折する。何故かと問えば、せいぜいホイヘンスの波面解説くらいのもので説明するだけである。一見、確かに光の屈折現象の説明が出来ているように思える。高等学校の物理の教科書などでも、プリズムや虹の七(?)色が光の波長によって屈折率の違いの為に分散すると説明されるが、『なぜ波長の違いで分散するか』の問いには何も答えられないのである。それは、屈折現象をはじめとする光の物理的基礎理論が完成していないからである。眼球の内部構造で、中心に『硝子体管』が貫通している事を冒頭図面に示した下部の文献で知り、直感的に眼球の光ファイバーの存在と眼球機能の本質を悟った。それは、光量子一粒がエネルギーの空間密度分布波との認識とが結びついたからである。単に波長や振動数では、媒質の境界面での瞬時的屈折原理を理解することは出来ない筈である。光の数波長あるいは何振動数分かを媒体の境界面で、じっと待ちながら、この光の波長は幾らだから、この方向に屈折させれば良いという判断司令官が境界面に居るとでも考えるのだろうか?そんな如何にも人間臭い解釈での物理現象の存在は天然・自然の神が許さない。境界面に光の一粒の先頭波面が到達すると同時に、瞬時に自動的に進行方向が決まると解釈するのが自然の本質を認識すれば、当然であろう。振動数を認識する時間的余裕を自然現象は与えてくれない。それが光の世界である。眼球の色覚機能。それは黄斑の窪みに到達した縦波の光をそのエネルギー分布密度で直ちに分離識別する機能として理解しなければならない。微細のファイバーの一本、一本で運ばれた光をプリズム効果で弁別するものと解釈した。その到達する深さの違いとして色の状態を判断するのであろう。医学に全くの素人である私の解釈は光量子概念からの必然的結論である。2011年の大学共通入試問題に眼球の問題が出た。眼球の網膜像入試問題を見ては私がここで誤っていると指摘した「カメラと網膜解釈」の問題その物である。私は医学に関して全くの素人である。しかし、物理学の真髄が教科書には無い事を知った。それが20数年前の事である。ただ1点、『電荷概念の虚像』(『電荷』という虚像)が全ての物理現象解釈に影響を与える事態に至ったと、今その怖れをも感じている(2012/01/30/ 追記、修正)。

網膜と色覚 もし視覚の像を網膜で捉えるとすれば、網膜の各部分ごとに入射光線の波長を識別しなければならない事になる。それは光の寸法、一粒の光子の波長を全ての波長にわたって識別する細胞の検知能力が要求される。網膜全面にわたりその識別を要求できる程、細密な細胞形態を望めるだろうか。波長は何を持って識別すると考えるのだろうか。その識別能力は黄斑部の細胞の奥深さでの光分散機能(プリズム効果)に期待する以外になかろう。(2013/03/18)追記。

追記(2013/4/3)。今日、眼球の光ファイバーに関する記事を見た。YAHOO!知恵袋の質問の回答にあった。Wikipedia.org/  のファイル:Schematic diagram of the human eye en.svg の記事。私の記事の眼球構造の図が間違っているとの指摘もあるようだ。しかし、安心した。どうも専門家の指摘のように思う。この『眼球の光ファイバーと色覚』の図で、ファイバーが網膜の黄斑に繋がっているのが間違いだとある。(2013/04/09)-その御指摘は御尤もである。今日改めて、参考資料(カラーでみせるやさしい解剖)を確認した。確かに、視神経に硝子体管が繋がっている(2021/03/24)この『繋がっている』は間違いであったことを確認した、眼底で分かった。だから御指摘は当然と思う。しかし、御指摘の中心窩付近の傷害、変成が視力に影響するらしい事から、やはりそこの黄斑部がファイバーの接続箇所と解釈したい。どうもその説明の図には黄斑の名称がなく、中心窩(チュウシンカ)が黄斑の事かと思う。カメラと等価な眼球の光解釈は確実に間違いであると思う。黄斑と中心窩に硝子体管が繋がると解釈したいー修正・追記。(2018/03/14 追記)この眼球の光学的網膜写像の解釈には違和感を抱かざるを得ない。その意味を眼球の光路とカメラ機能-?-に眼球型カメラと言う図での矛盾を描いた。眼球の網膜はカメラのフイルム面のように平板ではない。網膜面に写像が得られるとすれば、どのようなレンズの屈折で可能かは納得する理解が出来ない。何故球面にレンズの写像が出来ると考えるのだろうか。レンズの焦点・焦点距離とは?などで最近考えた事との関連で眼球の『硝子体管』と『黄斑』の関係に強く再確認の思いを得た(2018/03/14追記)。

(2019/10/30)追記。黄斑円孔内の空間で、どの様な波長弁別機能が存在するかは全く分からない。光の屈折原理は光伝播媒体の異なる特性差によって、光エネルギー密度の差が速度差を生むからである。眼球のレンズの前後の境界で物質的空間特性がどれほど異なるかと考えればほとんどその差はないと考える。角膜の球面構造と空気のような、空気とレンズの境界の特性差のようなものが無ければ、眼球内部でのレンズの屈折は原理的に起きない。眼球内部でレンズの屈折光がが望めない媒体ならば、網膜面に光が視界の像を結ぶ訳が存在しない。「コメント」を頂いた中に、黄斑についてビタミンA云々というお教えがある。下のような学会での私の解釈は、光の基本的屈折原理だけからの「自然の本質は単純・純粋にある」と言う観点からのものであり、特別科学的に信頼できる確信などない。黄斑内部で光の波長と細胞との間で生命の不思議な仕組みがきっとあるだろうと今は思う。科学理論は広い分野を包含した哲学的で、必ずしも科学的実験での証明ができなくても、総合的な自然感覚(例えば、人の水中での視界は全く見えないが、ゴーグルを付ければ空気と角膜の媒体間の屈折により正常によく見える等。)が新しい研究の不思議解明の道しるべとなると考える。以上追記させていただいた。確かに今確認すると、私の図は不適切である。光の波長識別の説明は示されていない。光の浸透深さで波長を識別する意味が図には無い。眼球の光ファイバーと光量子 日本物理学会 第56回年次大会で発表した資料を示す。目の色覚機能この図が示す色覚機能は光ファイバーの一本を通して縦波のエネルギー密度波が黄斑部に入射して、その波長に応じて、屈折による分散方向が異なると解釈したものである。その位置を黄斑内部で検出して、その情報を視神経から脳に伝達すると解釈した図である。先に書いた文の削除は、少し参考資料に惑わされて書いた部分である。あくまでも『黄斑』の黄色い点の一点ずつが光ファイバーの接続点を示すとの解釈である。視神経管の構造を検索で調べたら、中心は血管の動脈と静脈が通って居りその周りを視神経が通るとある。黄斑部の波長識別信号が視神経に網膜内を通って繋がっていると解釈したい。しかし、「カラーでみせるやさしい解剖の図と違う解釈になるので、黄斑からの経路がどのように繋がっているかは全く分からない。

(2013/5/17追記) 先日検索した文献(*)に、硝子体の構造が示されていた。そこには、繊維細胞の複雑に絡み合った様子の顕微鏡写真が載っている。その細胞の一本一本が光ファイバーと観れるかどうかははっきり言えない。しかし、硝子体(管)と硝子体液から眼球が構成されている事から、その文献によれば、益々硝子体(管)が管状の『光ファイバー』であると確信できる。(*)江内田 寛, 坂本 泰二:硝子体の構造. 眼科手術.17:355-357.2004 (現在この論文が何故か以前のように簡単に見られなくなった。2014/02/19 現在)