タグ別アーカイブ: 電荷

熱の物理

熱の概念
熱とは何か。熱はエネルギーの或る状態と解釈するだろう。それはどんなエネルギーか。日常の環境評価では温度と言う指標で熱の多さを捉えると言ってよかろう。例えば気体では、気体の熱エネルギー量を温度・気温として捉える。気体の熱エネルギーとは、物理学では気体分子運動エネルギー(気体分子運動論)として認識・解釈していると思う。この気体分子運動論が曲者に思える。その訳はエネルギーが質量に関係なくそれ自身で空間に実在しているものだから。光はエネルギーの伝播現象であり、質量はその光のエネルギーを論じるに必要ない筈だ。光が質量の運動エネルギーとは考えないだろう。その光の空間に実在するエネルギー像を物理学で認識していない処に問題の根源がある。

物理学理論(気体分子運動論)を斬る それでは、その気体分子運動エネルギーとはどのようなものを考えているのだろうか。気体にエネルギーが加えられると気体分子がエネルギーを吸収することになる筈だが、おそらく気体分子質量の速度の増加としてエネルギーを吸収すると物理学理論では解釈しているのだろう。何故気体分子が速度の増加を来たす事になるのか。気体を加熱したからと言って、分子の速度が上がる理由が見えない。調理用の圧力釜がある。加熱すれば、圧力釜内の水が蒸発し気体となる。加熱に因り圧力が上昇し水分子の圧力上昇としてボイルの法則の通り圧力エネルギーとして加熱エネルギーが蓄えられる。何も水分子が運動などする必要もない。蒸気機関でのピストンの仕事は水分子の運動エネルギーなど無関係で、水蒸気の圧力がその役割を果たしているだけである。水蒸気の圧力とは水分子が加熱によって体積膨張しようと内部圧力に変換されるから圧力上昇するのである。それが単純なボイルの法則による解釈である。水分子の運動速度など無関係だ。物理学理論でエネルギーと言うと、質量の運動エネルギーと位置エネルギーしか対象にしていないのではないかと誤解しそうになる。圧力エネルギーと言う概念が余り考えられていないようだ。ボイル・シャルルの法則も気体分子運動論としてボルツマン定数に因る解釈に終結している。圧力も膨張でなく分子運動速度に因る衝突力として捉えるようだ。気体の体積、水蒸気分子の体積膨張と言う現象は考慮されていないように思う。気体の発光現象も、気体に加えられたエネルギーが分子や原子に貯蔵され、その貯蔵限界を超えたエネルギーが放出されることと解釈できよう。原子の外殻電子の運動エネルギーが増減する解釈は意味がなく、間違っている。そもそも電子が回転していると考える必要など無い。電荷など無い筈だから。エネルギーと圧力の関係で一つ取り上げておきたい。海底1万メートルの水は静止状態でも途轍もない高圧に在る。その水圧も水の空間に蓄えられたエネルギーの筈である。さて、水圧だけではなく、海底の地殻深くになれば更に圧力が増していると考えられよう。その空間のエネルギーは特別の意味を持ち、日常生活での物理現象として関わることも無い異次元の世界の話であるが、圧力エネルギーであることには変わりがない。ただ、その圧力エネルギーと言う解釈が地球の中心核まで続くと解釈すべきかどうかを判断するべき根拠は不明だ。何も地殻が運動エネルギーの空間貯蔵帯とは考え難いという事からも、気体も同じように気体分子の運動エネルギーとして解釈すべきと言う論理性が見えないということである。当然気体の圧力分布に因り気体は流れて風を引き起すが、それは気体分子運動論でのエネルギーとは異なろう。温度の解釈には風は余り関係なかろう。

熱エネルギー 熱が物に蓄えられる時、物の質量の運動エネルギーの増加となるのではない。物の結晶格子等の空間に貯蔵されるエネルギーそのものの増加が熱の増加と言うことである。熱エネルギーは電気エネルギーや光エネルギーと同じく、空間に実在するエネルギーなのである。質量構造体の内部空間に貯蔵されて温度が高くなるのである。温度が高いということは、計測温度計にその物体から放射されるエネルギーが多いということであり、温度計に入射する熱エネルギーが多い準位で、温度計の出入りのエネルギーが平衡するのである。熱も電気も光もみんな同じエネルギーなのである。それは空間を占め、そこに独立した実在の空間エネルギー密度なのである。基本的に、熱とは光であれ電気であれ物に蓄えられたそのエネルギー量によって周辺空間に放射、伝導するエネルギー量が影響され、その量を計量する人の感覚や温度測定器の表示量として捉えるエネルギーの評価なのである。物のエネルギー量とその物の入射と放射のエネルギー平衡特性が比熱などの評価係数となっているのだろう。物の原子・分子の結合構造(勿論エネルギー還流のマグネット結合構造)でそれらの係数も決まると観て良かろう。

質量とエネルギー等価則

熱エネルギーとは 今常温でMo[kg]の鉄の塊がある。その鉄を加熱した。高温の鉄の塊からは熱と光が放射される。その熱い鉄の塊の重量を計ることを考えると仮定する。鉄の質量は計りに掛けると、加熱によって加えたエネルギー分だけ等価的に質量が増加する筈と考える。それが『質量・エネルギー等価則」の意味である。エネルギーは質量に等価である。しかしここまでエネルギーを実在物理量と捉える考え方は現代物理学の中に受け入れられるかどうかは分からない。高温の鉄の塊から熱放射・光放射が続く。その放射エネルギーは鉄の持つ熱エネルギーと等価な質量の一部をエネルギーとして放射するのである。『エネルギー』も質量と同じく物理的実在量なのである。と言っても、鉄の重量を計って、熱エネルギーに相当する質量・重量の増加した結果が観測など出来ることは無理であろう。熱エネルギーの増加分をほぼ光速度の2乗で除した分など計測に掛る筈はないだろうから。実験的に検証する科学的論証は無理であろう。それでも、原理的に熱エネルギーが質量と等価であるという意味は熱く加熱されたエネルギー分だけ質量が増加しているということである。同じ様に電気コイルに貯蔵される電磁エネルギーが有れば、そのコイル内に溜ったエネルギー分の質量換算量だけ質量が増加したコイルとなる。一般的な現代物理学理論で、エネルギーが質量とは無関係に実在するという認識がどの程度理解され、受け入れられるかははなはだ心許ない。化学理論でも同じく、原子構造で電子が外殻を周回運動しているとの捉え方をしている限りは受け入れ難い考え方であろうと思う。

 

電池における電子の役割を問う

はじめに 半導体のpn junction (pn接合部)のエネルギーギャップの意味を考えてみた。電池の意味との関連を考えた。電池の原理を問う (2014/11/27) があった。

電池電圧とエネルギー 電池はエネルギーの貯蔵庫であり、エネルギーの供給源である。人の思考における常識が如何に自己に立ちふさがる障壁となるか。すべてが『エレクトロニクス』の支配する世界に居る。その語源でもある『エレクトロン(電子)』の存在の意義を問うことになる。人は高いことを低いより有利と考えがちであろう。電圧が高ければ高い程、それは影響力が強いと考えるだろう。電圧が高いという表現は良くないのであるが、技術用語としては電位が高いとなろう。科学技術用語の持つ常識に『電圧』が有り、プラス極とマイナス極でその電圧の高い方と低い方を区別している。電池はエネルギーの供給源であることは誰もが知っていよう。しかし、誰もがその『エネルギー』とは何かを知っているかと問えば、さて答えられるであろうか。答えられなくても、決して気にしなくてもよい。『電子』に因って解説している人は殆ど『エネルギー』の意味を考えていない人が殆どであるから。ましてや化学方程式に因って解説する場合は、殆どその方程式の変換過程の中でその空間に実在する『エネルギー』を意識することは無い筈である。乾電池も蓄電池も+端子から電流が流れて、負荷にエネルギーを供給すると考える。しかし電流と言うものが電池のエネルギーを負荷に運ぶことなど出来っこない。電気理論では、電池のマイナス端子から電子が導線の中を流れて、負荷を通り電池の+端子に戻ると解釈している。電子の逆流が電流であると電気理論の常識が世界の共通認識になっている。それではその電子が電池からエネルギーを負荷に運ぶか?と解説者に問えば、答えないであろう。『電子』あるいは『電荷』に『エネルギー』をどのような意味で結び付けて解釈しているかが明確ではなかろう。2年程前に電圧ーその意味と正体ー (2016/05/15) に纏めてあった。

電池のエネルギー供給端子は-極である 直流の電気回路はプラスとマイナスの2本の導線でエネルギー供給回路が構成される。電池からのエネルギーは-極から送り出される。プラス側の導線は殆どマイナス側のエネルギー供給を支える脇役と考えて良い。負荷にエネルギー供給時、プラス側導線を通して電池へエネルギーは戻らない。電池のプラス端子はエネルギー供給に直接関わらない。電池の負側端子からエネルギーは放出され、負側導線近傍空間を通して主に負荷までエネルギーが伝送される。勿論導線の金属内などエネルギーは通らない。電池は-極がエネルギー放出源である。そのエネルギー(電気や熱あるいは光)を陰極線や電子と考えてきたのである。

エネルギーを運べない電子(科学的願望との乖離) 原子核の周りを回転する電子で世界の構成源を捉える原子像が世界標準である。電子が回転すると解釈する科学的根拠はどこにあるのだろうか。『電荷』否定が結局とんでもない現実にぶつかってしまった。科学理論の根源さえ信用出来ない自己を観る。そんな意味を卑近な日常生活の電池の意味に探し求めて見ようと考えた。簡便な科学的解釈を示すに『電子概念』がとても便利であろう。電池のマイナス極から電子が外部回路を通りプラス極に戻ればすべてが説明出来たことに成る。その不思議な論理が科学論理の正当性を世界標準として認められるのだから。 『エネルギー』を置き忘れていませんか? 電池はエネルギーの供給源です。電子論であれば、電子がそのエネルギーをどのように負荷に届けるかの問に答えてこそ科学論と言えるのではないか。そこに電子の実像が問われることに成るのです。電子の特性:質量me=9.1083 ×10^-28^ [g]、 電荷e=1.60206 ×10^-19^ [C] と質量と電荷の混合素粒子。この桁数の算定基準の厳密らしさと混合空間像の認識不可能の不思議に包まれている電子。電子が背負い籠に『エネルギー』を入れて負荷まで届けるのですか。帰りは『エネルギー』分だけ身軽に成ってプラス極に帰るのですか。 『エネルギー保存則』とはどんな意味なんですか。 『エネルギー』が観えますか?そこで、エネルギーに対して電子に求めると無理に仮定した時の科学的願望を絵図にしたみた。

電子の責務と珍道中 電池はエネルギーの貯蔵庫である。そのエネルギーを負荷で利用する訳だ。どのようにそのエネルギーを電池から負荷に届けるかを科学論として完成しなければならない。高度の量子力学は電子に重い責務を課しているように思える。太陽光発電で電子にどんな物理的機能を果たして欲しいと望んでいるのだろうか。電子がエネルギーを担うべき責務を無造作に要求しているようである。電子の身に成ってその心情を汲んで少し考えてみた。電池も太陽発電パネルも電源としては同じものである。ただ太陽発電パネルは負荷の前にエネルギー貯蔵庫に繋がっている。負荷の影響は直接受けない。さて電池のエネルギー貯蔵庫からどのように負荷に必要なエネルギーを供給するかを考えるべきだろう。検索で電池の原理を尋ねると電池のマイナス極から化学方程式の反応によって、電子が外部導線を通って陽極に廻り込み、その電池内で電荷を遣り取りして解説が終わっている。電子は何の為に負荷を通ったのか。 『子供の使いじゃあるまいし、ただ通り過ぎるだけじゃ理屈も通らぬ!!』 何故電子が通り過ぎるだけで電池からエネルギーが負荷に届けられると考えるのだろうか?電子は何故マイナス端子から導線を通ってプラス端子に行くことが出来るのだろうか?電子の移動はどんな理論で可能だったか?電界と電荷の関係は無視されても理屈が通るのか。上の図は電子に御足労願う訳だから、その科学認識に寄り添って何とか電子の責務とエネルギー運搬の道筋を考えて描いた図である。電子の(行き道)は、重い責務に喘ぎながら。負荷にエネルギーを届けた(帰り道)は、身軽に成って鼻唄まじり。そんな電子に期待された仕事の責務が想像できる。電子も行きと帰りで異なる姿に。しかし、量子力学には背負い籠でエネルギーを運ぶ意味はない。むしろ質量に頼った運動エネルギーの増加で電子がエネルギーを身に纏う意味に似ている。その場合は電子の帰り道は速度の遅い電子の姿を描くことに成るのか。当然理屈の通らぬ無理な道理ではあるが。もう一つ、化学方程式で『電荷』の辻褄を合せようとしても『負荷御殿の主から必要なエネルギー量が発注される』のである。エネルギーの発注に合わせたエネルギーの発送をしなければ電源・送配電線路・負荷間の辻褄が合わなくなる。勝手に化学方程式に従って、電子を送り出す訳にはいかないのである。負荷の要求をどのように電池側で処理するかが極めて重要な瞬時電力の話に成るのだ。電子に自動的にそんな責務まで負わせては酷と言うものだろう。

電子にエネルギー伝送責務は無理な注文である 電子は不要である。電池からのエネルギー(熱エネルギー即ち電気エネルギー)そのものが負荷の要求に応じて電線路空間内を伝送されるのである。電子不要の科学論。

エネルギーから電子殻を問う

はじめに 電子殻(ダッシュボードに掲示された)という用語を初めて知った。その電子殻についてどう考えるかと問われているのかと思った。『電荷』概念の意味が分からず、30年以上にも亘って教科書の科学理論に疑問を感じてきた。むかし(1982)『静電界は磁界を伴う』という電気磁気学理論の科学常識に反する内容を電気学会全国大会で発表した。今となれば、それが技術屋の感覚的挑戦であったが,間違いなく的を獲ていたと驚くばかりだ。静電界という電場がむしろ磁場とも看做すべきエネルギーの流れであったという発見だから。たった一つのその実験結果の意味が如何なるものであるかを科学理論の根幹に照らし合わせながら考察を積み重ねてきた。物理学の根本である電子殻に因る原子像さえ否定しなければならない羽目に陥ってしまった。もう一度、先人が創り上げた科学理論ではあるが、その根幹を成す電子の概念および機能をエネルギーとの関係で、考えを整理して置かなければならないと思った。結果的に図らずも伝統的科学理論を否定するような仕儀になってしまった事誠に申し訳のないと思ってもいる。『電荷』の自然世界での実在を否定するという事がどれ程大きな社会的混乱を教育に与えるかは想像に難くないから。手元にあった 科学革命の構造 トーマス・クーン 中山 茂訳 みすず書房 (1987 第19刷) を開いて読めば、余りにも溝が深すぎると・・。電子とは『エネルギー』の一つの姿でないかと思いながら。

原子構造 原子の周りを電子が何故回転していると分かるのだろうか。最近も新しい113番目の原子の発見が話題になっていた。それ程厳密な科学研究の証拠が示されている中で、電子が原子核の周りをまわっている意味が理解できないと言ってみても意に介されないとは思うが、エネルギー感覚から述べておかなければならないと思う。

電子の責務 電子に対してどのような科学的責務が課せられているか。電子が獲得したものでなく、人間が付与した役割である。自然界が『電荷』と質量を持った電子に取り囲まれた原子核の原子構造体から成り立っていると理解されていると思う。その原子にもいろいろの特性がある。シリコン、酸素、窒素、炭素あるいはネオン等とそれぞれ際立った特徴を持っている。それらがすべて電子殻の電子によって構成されている。みんな同じ電子殻構造の話で統一されるものと思う。筆者の拙い高校生程度の知識に因る電子像を先ずまとめてみたい。

電子統一情報 ウイキペディアから拾った。とても理解できない専門的な電子像の規定であると思う。空間に占める大きさまで分かっているようだ。この9ケタ、10ケタの数値が堂々とまかり通る電子像に近寄りがたい科学理論の畏れ多さを感じる。

電子に付与された任務・責務(期待される電子像) 昔教育の審議会で期待される人間像という考え方が論議されたことがあった。電子像を的確に捉えようとしても期待される任務・責務が超人的な機能でなければならないかの如くに思われ、科学理論の世界が巨大な構造体で入り口から怖気づいてしまう。電子も観方によって哀れとさえも思える。過重労働の期待で瀕死の状態にならなければ良いがと陰ながら心配である。筆者のお粗末な電子像の認識をまとめてみた。

さて、上に挙げた電子像が普段頭に描く姿に思える。原子同士が隣り合わせれば、先ず原子の外周を取り囲んでいる電子同士が相手との情報交換の遣り取りを任され、相手原子を認識する責務が課されている。手を繋いで良いと判断するのも電子で、原子同士を繋ぐ役目も電子の仕事だ。化学結合とか共有結合とかイオン結合とか、とても判別し難いような複雑さの判断も電子自身に任されている。「オラ―そんなのやだ―」などと言って、「東京さ逃げる―」てな訳にはいかないのだ。それが電子の科学的宿命だ。何しろ過大な期待が掛けられているのだから。期待を掛けるお偉方はどこに居るのか姿も見えないが。兎に角電子は大変な重責に怯え続けているようで、何とか少しでも開放してやれないものかと思う。

4番目の任務 原子エネルギーの収支取締役という、日々雑兵の激務に追われる中で、特段のお役目を頂戴してしまった。原子に降り注ぐ『光』がある時、先ず外堀の電子にすべての的確な対応が義務付けられている。電子はどのようにその光との関係を処理すれば良いか、与えられた責務を忠実に執り行おうと考えた。決して外堀から母屋の御主人・核主(お昼寝中かもしれない)様に影響が及ばないように処理しなければならないのだ。最初に挙げた1番目の任務との関係では、足を踏み入れてはいけない禁制帯とかがあり、そこは飛び越えなければならない事になっている。現代物理学の大きな学問領域を成す量子力学では、光と電子の責務との関係がとても詳細に分かっていて、その関係が自然科学を理解する根本原理になっているようだ。しかし、その材料などの量的評価に因って科学技術が進歩したかといえば、それは理論と実際は余り関係ないようだ。光エネルギーをどのように電子が苦労をして責任を果たそうとしているかを拙い科学認識で掘り起こして考察してみたい。すべての電子はどれも同じ電子統一情報に因って細密に規定されているようだ。光エネルギーを処理するに当って、もしうまく禁制帯を飛び越えて伝導帯の位に跳躍出来たとする。その時光エネルギーをどのように、統一電子情報との関係を厳守したままで、処理出来るのかに悩んでしまった。エネルギーというものは電子の情報という質量、電荷および空間寸法には全く影響を与えないで済むものなのか。高等数学式で考える能力が無いので、日常言葉でしか解釈できずにいる。さて、もしもの仮定での話ではあるが、電子が雲のような掴みどころのない波動(その実体が何を指すかを理解できないのだが)であるとしたら、それも質量と電荷を波動の中に備えているのだろうか。その波動もやはり原子核の周りを周回運動していると考えるべきなのだろうか。そこでその波動が光を外部から受けたときは光エネルギーをどのように電子波動の中に取り込むことになるのだろうか。兎に角、陰に隠れた主の核主様に影響が及ばないようにしなければならないとなれば、電子雲の全てが総がかりで対応しなければならないように思える。連射砲のように降り注ぐ光を禁制帯を飛び越えながら処理する技は如何なる理論で可能なのかが理解し難いのだが、その理論まで電子に負わせるのは期待する電子像の範囲を超えてしまうだろうと気掛かりだ。

電子とエネルギー 電子がエネルギーを保有するという意味はどのような物理的現象で捉えるのか。電子にはいろいろな状況があるように思われる。自由電子と電子殻内の電子とでは必ず違う筈と思うが、その訳・状況がハッキリと認識されているのか、説明できるのかそこが良く理解できない。電子には速度の違う状態があると理論では唱えられているように思える。教科書によれば、導線内を流れる電子を自由電子と唱えているように思う。その自由電子でもそれぞれにはエネルギーに違いがあるのか、無いのか。その伝導帯の自由電子には速度の違いがあるのだろうか。酸素の電子が電子殻から解放されて自由電子に成る議論は無いから、原子核の束縛から解放されて自由電子に成る場合は、金属導体や半導体原子だけに当てはまる電子とエネルギーの関係なのだろう。電気回路の導線には電子が充満して流れるように解説されている。超伝導等のように、極低温のエネルギー環境の低い場合は、電子殻の電子は特別の能力を賦与されて、自由に原子核の束縛から解放される自由電子となる資格(特殊任務)がある電子なのだろうか。その自由電子のエネルギー状態はどのようなエネルギーレベルと捉えるのだろうか。原子の環境がエネルギーが高い場合が自由電子の生まれる条件かと思えば、極低温での超伝導の自由電子とはエネルギーが多いのかあるいは『無』なのか良く意味が理解できない。

原子の司令官は誰か 周期律表という科学分析の宝がある。原子の個性と特徴で分類されている。原子の特性を発揮する司令官は誰か。原子の本基は原子核が握っている筈だ。司令官という機能の物理学的基幹は如何に在るか。外堀を守る電子じゃ役不足であろう。

原子構造体と役割分担? 原子構造が原子核と電子殻から構成されているとの解釈に因る意味とその電子機能について考えてきた。殆どの教科書の解説は原子外殻の電子が担っているように説明されている。原子の質量は殆ど中心の核が占めている。一体核は原子の特性に因る外部事象との関係機能としてどんな役割を担っていると考えれば良いのか。核は分裂の時だけ意味を持つような、日頃は原子の中心に隠れた存在であるように見受けられる。電子殻の電子だけが仕事をするような原子で周期律表の顔が立つのだろうか。

電子殻電子が原子の特性を表せるか 元素にはそれぞれ異なる特性がある。その中で幾つかの原子を取上げて、原子の特性がその電子殻の電子でどのように解釈すればその電子殻を論理的に適正に評価出来るのかに思いを寄せてみた。

炭素C この原子の結合の代表例がダイヤモンドの宝石であろう。ダイヤモンドの結合空間構造は炭素原子の表面を4等分した立体角π毎に結合面を持つものであろう。決して平面結合ではない。もし電子殻で4価の電子で炭素原子を解釈するなら、その電子にはエネルギー差はなく、同一の電子殻内に存在する筈だ。そこで、その電子が隣の炭素と結合する時、電子は原子表面を周回運動していると考えるのだろうか。結合する時には運動は停止するのだろうか。電気磁気学理論によれば、クーロンの法則で同一電荷は反発することに成っている。今でも電気の教科書がクーロンの法則を基本理論に据えているなら、どのような論理性で負の電子同士が結合の責務を担い得ると解釈できるのか。しかもダイヤモンドという特別に結合の強い状態を電子が担うという科学論理は余りにも矛盾と欺瞞で構築されているとしか思えない。共有結合とは一体どんな電子の魔術結合力を利用しているのか。電子が周回運動しながらとなれば、とても電子に因る結合論に論理性があるとは見えない。科学は平易な基本に分かり易い忠実な解釈がなされなければならない筈だ。

炭素C (2) 炭素といえば、電気回路では抵抗体のカーボン被膜抵抗などがある。さて、炭素の特性で電気エネルギーの熱変換機能が日常の電気技術の基本に成っている。こんな考察は誰もしないだろう。何も得るものがなく、反発を買うだけであるから。しかし電気技術に携わった事がある者として、少し専門家としての解釈を示しておこうと思う。ここでの話は矛盾の中の教科書の解釈理論からの内容であり、『電流は流れず』という筆者の論理の視点とは異なる。事実は、電線路導体内を電子が流れている訳ではない。しかし教科書に依れば、電子が流れていることに成っているので、その電子が抵抗負荷内を通過する時どのような電子の機能で炭素原子の外殻周回電子にエネルギー的働きをすることが出来るのかという疑問を提起しようということである。炭素抵抗は負荷としては熱を発散している。触れてみれば熱いから分かる。その電気エネルギーを熱に変換する機能は炭素原子の電子殻電子のどのような与えられた責務として働いた結果の現象なのだろうか。こんな基本の基の字のような初歩的な愚問が現代科学理論に欠かせない入門の課題なのである。高度科学理論が取上げられても、足元の理論の根拠が矛盾なく説かれなければ、砂上の楼閣にも見えてしまう。

酸素原子O 酸素は生命の維持に欠かせない。呼吸の問題。 等とまた愚問を取上げれば科学には相応しくないと常識の世界では非難される。常識という科学理論がおかしいとの思いに掛けての科学論であれば止むを得なかろう。酸素が燃焼を司る元素であることは間違いない真理である。酸素を燃焼機能原子として知ることは自然科学の基礎知識として重要であろう。そのことと酸素原子の電子殻電子の科学論理との関係はまた別の基礎科学論である。自然の真理を説き明かすに欠かせない科学的思索・考察でもあろう。原子構造論の基本が電子殻の電子概念に委ねられていることだあれば、その論理性を質しておかなければならなかろう。酸素原子の外殻電子殻の電子数は6個であろう。その電子が何故燃焼の機能を発揮すると考えるのか。電荷と質量を持った電子が周回運動をしていると考えているようだ。燃焼に電子の何が機能するのだろうか。電荷か質量か運動か?電荷も質量も速度にも燃焼エネルギーを発生する機能が観えない。酸素原子の特性は熱エネルギーを放射する自然現象を司る機能である。無から熱エネルギーは生じない。何かを熱エネルギーに変換するのである。それが何であるかは分からない。原子構造そのものの解釈の問題に通じている課題であるから。

ネオン原子Ne 不活性ガスとして捉えられているようだ。外殻電子殻が8個の電子で充満され、化学反応機能が無く安定した元素と看做されているようだ。気体分子結合(Ne2)もしないとの解説がある。同時にネオンサインとして、夜の街の広告照明灯に活躍している。酸素と違って、熱でなく発光現象である。このネオン原子も8個の電子が同等のエネルギーを持って、電子殻内を周回運動していると解釈しているのだろう。どんな軌道で平衡を保ちながら運動できるのか空間的描像を描き難く、理解の域を超えてるが答える能力も無いので我慢も止むをえない。さてネオンサインの発光現象では不活性原子の電子が電気エネルギー(高電圧のエネルギー供給空間)に反応して、どのような光エネルギー放射変換機能を発揮すると解釈するのだろうか。本当のところは電子が存在して関わる現象ではないのであるが、電子殻で理論が構築される限りは、その発光現象の訳が示されなければならないと思う。ネオンサインに量子力学は場違いな話で笑われそうだが、ネオン原子の電子が高電界中を飛んでくる電気の電子と衝突し、禁制帯を飛び越えて高エネルギー電子に成り、再び原子に戻るから発光機能を発揮できのだろうか。電子殻電子の原子構造論から判断すれば、そんな特殊任務付与解釈にしか辿りつけない。内心は無理なこじ付けと思いながら。

リチュウム原子Li とても興味を覚える記事「リチュウムは躁病と欝病を治すだけでなく、それにかかりやすい人を病気から守る働きもする。さらに、リチュウムはほかのさまざまな精神病や情緒不安定、とくに鬱病に効果のあることが知られてきている。」(発見と創造 科学のすすめ W.I.B.ビヴァリッジ著/松永俊男・鞠子英雄 共訳 培風館 p.60.  昭和58年初版)を見た。最近は携帯電話の電池にも使われ、核反応の三重水素とも関係が深いとある。3価で、反応性の高い原子のようだ。電子殻の電子の機能と考えるには理解に戸惑ってしまう。原子とは不思議だ。

むすび どんなに原子とその特性を電子殻構造論から理解しようと思っても、納得できない現実に突き当たる。『電荷』あるいは電子概念に基づく電磁気現象解釈は一見理に適っているように思えても、細かく考えてみると全体としての統合性で辻褄の合わない点や矛盾が見つかる。結局『電荷』に基づく基礎的論拠は物理学理論にそぐわないとしか思えない。『エネルギー』の千変万化する自然の現象に思いを寄せれば、『電子』もその一つの姿に思える。

半導体とバンド理論を尋ねて

追記(2018/05/16) 反省を込めて追記。既に前に同じような記事を投稿していた。半導体とバンド理論の解剖 (2014/01/25) である。さらに太陽電池の解剖 (2014/02/06)にも有る。辿れば、その前年のトランジスタの熱勘定 (2013/01/30)から始まっていたようだ。そこで、電気エネルギーと熱エネルギーが同じものであると考えていたようだ。現在は、『電荷』概念では自然現象の本質を理解することは無理であるとの認識にある。このトランジスタの熱勘定で論じた意味が極めて大切なことを示唆していたと思う。荒っぽくて、反感を買うようの記事が多くて誠にお恥ずかしい。2013年には「量子力学」とは何か?電子科学論の無責任など。

半導体の電子とは? 電力技術における電子の意味を尋ねて30年以上過ぎた。結論は『電荷』も自然界には実在しないと確信するに至った。それならば当然電子も『電荷』などとは関係ないことになる。電気回路の金属導体中を電子が通り、電流になると解釈されている。ただし、筆者は電流は流れず等と言ってきた。だから以下の記事も科学論として認知されるようなものではないかも知れないが、市民や電気の初学者が疑問に思うことに対する『問答』としての価値は十分にあるものと思う。言わば統合的な理屈の自然科学論として見て欲しい。専門的な領域を超えた論理として。さて、現代物理学理論の根幹を成すものに量子力学がある。その代表的な適用が半導体である。半導体の電子のエネルギーレベルとその動作領域の抽象的認識概念が理論構築の原点になっているように思う。フェルミ準位がその要のエネルギー基準値として存在することになっているように思える。そのフェルミ準位は半導体の物性特性に因って、そのエネルギーレベル(電子のエネルギー量)が何ジュール[J]、あるいは何[eV]と決まった値があるのだろうか。

エネルギーバンドとフェルミ準位 電気工学、電気物理と同じ電気エネルギーを取り扱うのに、その専門分野ごとに理論的解釈法や概念がまったく異なる。ただ、原子構造については原子核とその周りを回る電子から構成されているという解釈は自然科学論の基本原則として世界の共通認識になっている。原子構造が科学論の原点にある。『電荷』否定はその科学論から除外されてしまう。永年電力技術で感覚的に身に付けたエネルギーの実在性が染み付いた論理構成の習慣が『電荷』概念の曖昧性に拒否感を抱くようになってしまった。電気物理での半導体の電気現象解釈理論はバンド理論で、正しく原子構造論の電子のエネルギー論を論じているように思う。それは『電荷』概念に基づいて理論構築されている。半導体結晶は基本的にダイヤモンド結合の構造と解釈されている。電子による共有結合が基本になっているように思う。原子核の周りをどのような速度で電子が周回運動をしているかは分からないが、それぞれの電子が回転し互いの隣り合う原子同士の間では、核の周りは複雑な電子回転に伴う『負電荷』の空間場になっているように思われる。単純な電気理論から考えると、負の『電荷』の空間場で、隣り合う原子同士の間でダイヤモンド結晶になる訳が理解できないのだ。電子が回転しながら隣の原子同士が結合する姿が現実世界の空間概念で描けないから理解できない始末にいる。そんな理解能力の無い者が現代物理学理論のバンド理論の意味を考えるなど誠に恥ずかしい極みではある。しかし、初めてバンド理論を学ぶ若い方々も同じような疑問を抱くのではないかと思うので、少し考えを述べてみたい。電気材料を導体、半導体および絶縁体と三つに分けてバンド理論の基礎が説かれる。全てに価電子帯と伝導帯がある。半導体と絶縁体にはその帯の間に禁制帯と言うバンドギャップが存在する。それらのバンドの『帯』と言う幅で表現される意味は電子の持つエネルギーの量の大きさに関係したように見受けられる。電子が回転運動していることに因る運動エネルギーの量の大きさを意味しているのかと思う。電子には質量があるから、その御蔭で運動エネルギーの解釈だ可能である。水素原子は原子構造が単純だから、電子のエネルギー量は基礎物理学では良く算定されて議論されているが、シリコン原子の電子になれば、その運動エネルギーは算定は可能なのだろうか。どの程度の回転速度になるのだろうか。その算定が出来て初めて、新しい半導体の技術開発にバンド理論の意義が生きて来る訳と考える。決して理論が理論の為の理論であってはならない筈だ。『電荷』の実在性はその理論構成に具体的に生かされてこそと思う。リン(P)やヒ素(As)の不純物が添加されると実際の電子のエネルギー量はどの程度のジュール[J]になるのだろうか。

太陽光発電理論と電子 量子力学の理論として大まかに理解している事は、原子や分子にエネルギーを与えると、原子の外殻周回電子がそのエネルギーを受け取って、電子の質量の運動エネルギーの増加を来たし、遠心力と釣り合う様な電子軌道の膨らみを来たすと理解している。光などのエネルギーが電子の運動エネルギーとして吸収される訳をどのように理解すれば良いかも分からないので困惑している。更に何らかの原因で逆に電子の軌道が下のレベルに落ちると光としてエネルギー放射を来たすらしい。勝手な解釈と言われれば、致し方ないが電子の運動エネルギーと光との変換過程が理解できない。量子力学の基本理論を理解している訳ではないが、太陽光発電での半導体は太陽の光を吸収して、電気エネルギーに変換する発電機能設備である。発電パネル内で、電子が光エネルギーを吸収してエネルギーの高い状態で伝導帯に入る。その伝導帯では電子が自由電子となり、原子の束縛から解放されると解釈して良いのだろうと思う。伝導帯の電子はどの程度のエネルギー増加になっているのかを知りたい。発電パネルから次は電気回路を通して負荷に電子はエネルギーを運ぶのかと理論のつながりを考えるのだが、電気回路内の電子による電流概念となると、どうも電子はエネルギーを担う役割は想定されないことになっているようだ。一体半導体内で光エネルギーを受け取ったかと理解するが、回路理論になるとそのエネルギーを担う電子と言う概念は無いようであるため、どこか論理的な繋がりが無いようで理解に苦しんでしまう。もう一度述べる。量子力学における半導体のバンド理論では原子の周回電子のエネルギーの増減を論理構成の基本に据えている。伝導帯の電子は増分エネルギーを電子質量の運動エネルギーとして余分に担ってエネルギー供給機能を果たす役割が期待されているようだ。そこでの電子は速度の増加としての特別の電子になるのであろうか。次に半導体理論によって理論付された電子に関係して、その太陽発電パネルをエネルギー源として捉える電気回路理論では、折角のバンド理論で担ったエネルギーの増加分を電流の根拠である電子には求めていないのである。当然のことであるが、電気回路論では電子に質量に関わる概念は意味を持たないから、電子における『電荷』と電界との間の電気磁気学理論に基づく論理しか考察対象には成らない。だから原子構造論における電子エネルギーに関する運動エネルギーは全く無意味に成る。総合的に全体を見渡した時、半導体パネルで受け取った太陽光エネルギーは電気回路のエネルギー伝送にどのような機能で関わり、負荷に太陽光エネルギーを供給することになると考えるのだろうか。『エネルギー』を基本に考えると、太陽光線も電気回路を伝送する電気エネルギーも負荷に供給されるものも、みんな同じ『エネルギー』でしかないのである。電子の『電荷』は理論的に『エネルギー』を持ち得ないのである。

過去の関連・関係記事 今迄に取上げた考察記事は半導体、電荷およびエネルギー論については次のようなものがある。

哲学と科学

哲学と科学の違いは?と検索に多くの記事が出ている。それだけ違いが分かりずらい主題でもある。だからみんなはっきりと理解したいと思うのだろう。しかし、解説記事を見ても殆ど満足する人はいないのじゃなかろうか。科学とは何かと簡単には答えられないだろう。更に哲学は人の精神活動に関わる上に歴史の社会状況を踏まえた深い考察が根底に無ければならず、科学以上にとても広い分野を網羅するものであろう。最近頓に思う事がある。それは今まで考える事が自然科学についてだと思っていたが、どうも科学に対する科学界の一般の問題意識と全くかけ離れた処を自分は彷徨っているようだと思う様になった。それは科学論なのかあるいは哲学なのかと分からなくなってしまった。解らなくなったところで、その分からない中味を分析して、哲学と科学について考えてみようと思った。何の社会的評価も特別の専門的評価(博士など)も受けていない者が論じることに賛同は得られないかも知れないが。

哲学は科学も包含 哲学は科学の基盤を整える。博士・博士号はPh.D. でDoctor of Philosophy の略であるように、哲学の無い科学は無いのであろう。最近は極めて狭い専門分野で博士号を取得できる体制に成っているようで、何とも言えない状況だ。自然科学に対して自然哲学と哲学に自然を被せた使い方もある。自然哲学と言う表現でどのような意味を持たせるのかは分からない。哲学と科学を対比させながら、その違いを明らかにするのはとても難しい予感がする。それには少なくとも科学とは何かがハッキリと捉まえられていなければならない筈だ。そこの処で困難な壁に突き当たる。その科学とは何かを考えることが既に哲学に成るように思うから。『電荷』が実在し、しかもそれには『正』と『負』の違いがある事を誰が観測し、証明したのか。正と負の『電荷』をどのような空間像と認識するのか。自然科学の根本原則まで問わなければならなくなる。科学論の根本を解剖する論証は哲学であろう。放電管の放電現象を観測しても、陰極線は観測されるが、陽極線(正極線)が観測されたという報告は無いのじゃないか。それなのになぜ『正電荷』が存在すると成っているのか。誰が『正電荷』の存在を確認し、証明したのか。今でも電気回路の『電流』に関しては『負電荷』の電子のみしか解釈に関わっていない。しかも電子は『電荷』と『質量』の両方で構成された複合素粒子概念で解釈されている。このように科学論の根本原理になる程曖昧性が色濃く成る。

科学と哲学の違い 科学論の根本・原理を科学論の論理性を持って解剖する分析法は哲学になると考える。科学と哲学を論じるには、科学の本質を暴きだす作務がなければならなかろう。そこには科学の本質をよく知り、それを洞察する眼力が欲しい。それは東洋哲学の特徴的な『削ぎ落とし』の思考になるのではなかろうか。『不立文字』への覚悟。捉え難い『エネルギー』の何たるかを問う必要があろう。

『瞬時電力』の物理的意味

はじめに 電気技術概念に『瞬時電力』がある。電気エネルギーが現代生活を支える基盤となっている。しかしエネルギー消費量が増加すれば、海水温度の上昇を来たし、地球温暖化による自然災害の増加と言うリスクも伴う状況を来たして居る。先日も新潟地方を襲った暴風雨によって電柱4本がなぎ倒され、突然の停電の被害が発生した。海水温度の上昇が空気中の水蒸気含有率を挙げ、寒気とのせめぎ合いによる上層部の急激な水蒸気体積収縮により低気圧を作り出す。日本の木造住宅の安全性が脅かされる事態を迎えている。竜巻と低気圧暴風雨が伝統的な生活様式の安全性を脅かす事態になっている。食糧生産のハウスも対応できない事態を来たしている。『エネルギー』の物理的意味が正しく認識されていないようで気掛かりである。3月5日西日本では雷の異常発生が観測された。雷の原因は水蒸気の熱エネルギーである。『電荷』などでは決してない。#末尾注#に雷について関連記事。初期の記事、電流は流れず (2010/12/22) にも論じた事である。水と温度の関係は『エネルギー』の何たるかを問う問題でもある。電気技術には『瞬時電力』の他新しい『瞬時虚電力』などと言う用語もある。電気技術の『瞬時電力』の意味を少し深めて置きたいと思った。

瞬時電力とは? 電気現象を論じるに『瞬時電力』と言う用語が使われる。一般にはあまり馴染みがないであろう。電気製品の消費電力も余り気にはしないだろうから。600Wとか500Wと言う数値はその電気製品の1秒間の消費エネルギーが600J(ジュール)、500J(ジュール)であることを示している。その消費したエネルギー量に対して電気料金を払っている。少し電気回路を考える技術者なら電圧と電流の実効値の積との関係で平均の消費電力量で十分理解できる事である。今更改めて、『瞬時電力』でもなかろうと思うかもしれない。しかし無効電力などとの関係を考える時になると、時間的なある瞬時の値がどんな意味を持つのかが分かっているのかと自分に問うてみた。簡単な回路で考えた。

図1.瞬時電力とは何か? 100V、50Hzの電源に10Ωの負荷抵抗。難しい理論は分からないが、基礎的なオームの法則の範囲なら深くも考えられる。電圧v(t)、電流i(t)および瞬時電力p(t)はグラフに描いてその瞬時値を認識出来る。不図気になったのは瞬時電力p(t)の座標の[kW]である。この負荷の電力は電流実効値10AであるからP=1[kW]である。この1000[W]と言う電力は1[s]間の間に負荷に供給されるエネルギーが1000[J]であると言う意味である。瞬時と言う時には時間の長さは含まれていない筈だ。ある時刻の意味である。1[μs]でも瞬時と言う時刻ではない。ワット[W]と言う単位はエネルギーの時間微分の意味である。50Hzの交流電源電圧は1[s]間に100回の回数で負荷にエネルギーを供給しているのだ。その1回分が10[ms]の間に供給される丁度10[J]である。その100回分が1[s]間の1[kJ]になる訳である。

図2.p(t)=dwp(t)/dt  瞬時電力p(t)とは、ある時刻における供給エネルギー値wp(t)の時間微分値を表すものと見られよう。瞬時電力と言う供給エネルギーの電気技術概念もその表現内容を確認しようとすると、なかなか複雑である。それは電圧でも電流でもやはり時間微分の概念が含まれているのだろうから、同じく物理的には微妙な意味を含んでいるようだ。電気回路の基本認識として、『エネルギー』の供給設備であると言う事を理解して欲しい。燃料の『熱エネルギー』を発電設備で「電気エネルギー」に変換し、送配電線路を通して需要家に『エネルギー』を供給しているのである。電気エネルギーを動力に使ったり、熱源として利用したり電灯の光として利用するのである。その『エネルギー』とは何かを認識することが重要である。何処にも『質量』を必要とはしていない。質量でエネルギーを論じる必要は無いのである。確かにモーターの負荷は回転の慣性に動力を働かせるから、質量との関係で論じられる。しかし電気エネルギーには質量は含まれていないのである。電気回路の電流概念には『電荷』と『質量』を含んだ『電子』が主役を演じて論じられる。電気回路で、電源の『エネルギー』を『電子』がどのように負荷まで運ぶと考え得るのだろうか。『エネルギー』の実在性を認識する事が科学論の基本であるべきだ。瞬時電力p(t)は正弦波電源電圧で有れば、数式では電圧と電流の瞬時値から、その積として三角関数の式で表現できる。その電圧と電流の瞬時値は変圧器(Tr.)と変流器(CT)で検出し、その積をオペアンプなどで算定して瞬時電力p(t)の瞬時波形を描くことが出来る。その得られた波形の瞬時電力の単位と数値で、2[kW]のピーク値とは一体どのような意味を持っているのかと考えると、その表現する概念の内容が良く分からないのである。技術概念とは?と誠に不思議な感覚に陥るのである。完璧と思われる技術概念と理論が電気技術者としての長年の常識的世界観が故の物であったのかと、自分の認識に戸惑いさえ感じてしまうのである。

易しいことに含まれる深い意味 電気理論は長い伝統に育まれて、完璧な電気技術論として定着している。それは、電圧と電流の技術概念で十分電気回路現象が理解できるものになっている。極めて易しいオームの法則として完成されている。しかし、その完璧と思える理論でさえも、自然世界の眞相と看做すにはどこか不自然な違和感を感じざるを得ない。そんな感覚的理論の不整合性を突き詰めて来た。物理学理論の『電荷』と『質量』そして『エネルギー』の間に横たわる膨大な絡み合いを解きほぐす作業であったのかも知れない。世界を描くはそんな思いの結論であったのかもしれない。

図3.瞬時電力p(t)とエネルギー伝送 導線内を電子が流れ、電気エネルギーを負荷に供給すると言う解説が普通の電気回路解釈である。今でも教科書はそのように解説されている。電気技術概念の『電流』と『電圧』は誠に素敵な概念である。そんな便利な概念を創り上げてきた電気技術を称賛しなければならない。その御蔭で現在まで電気が社会生活の重要な『エネルギー』供給源として利用出来ている訳である。太陽からは電線路も無しに地球上に『エネルギー』が供給されて、地球の生命が育まれている。お日様が照れば暖かい。太陽の『エネルギー』を受け取っているのである。電線路の銅線の中を『電子』が流れて、電気エネルギーを供給している等と言う解釈では矛盾に耐えないと思うのだが皆さんは如何に考えるかと問いたい。最近は配電線路も絶縁電線を撚って配線しているので、相当配電線路静電容量も大きいかもしれない。その配電線路単位長さ当たりの静電容量をC[F/m]として、電圧分のエネルギー分布量wv(t)[J/m]を表現してみた。電線路には電圧が印加されただけで、線路空間に電気エネルギーが溜まると解釈する。そのエネルギー量を評価する電気技術概念が『電圧』である。電気の眞相(1)-電気エネルギーとは何か― (2014/10/13) に関連している事でもあろう。過去に電気の眞相(2)および(3)で―電圧とは何か―、-電圧と負荷―(2015年)を論じた#末尾注#。電線路電圧の2乗に比例してエネルギー量が溜まる。どのような空間分布になるかは分からない。絶縁材料部でエネルギー密度は高くなるだろう。深い意味でのエネルギー流について。図3で、ポインティングベクトルS(r,t) を使って線路空間のエネルギー流の解釈を描いた。しかしそれも考えてみれば、時間的には瞬時の表現には成っていない。電力の単位ワット[W=J/s]は時間的な瞬時と言う意味での物理概念を表現しては居ないのである。今までの考察では、線路電圧がその線路空間のエネルギー貯蔵量を評価する技術概念であると言う結論に達した。しかしそのエネルギー貯蔵量に対して、負荷に供給される伝送エネルギー量がその内のどの程度の比率であると考えれば良いかまでは示されていない。その負荷供給のエネルギー量を評価する技術概念が『電流』瞬時値i(t)になる筈である。i(t) とp(t) およびwv(t)の間の関係で捉える必要があろう。その辺の関係は次の記事、瞬時電流の物理的意味で別に述べたい。(2018/11/25)追記。瞬時電流や瞬時電力と言う物理的意味が今まで筆者の理解し切れないでいた事さえ改めて考え込んでしまう。その意味を、技術概念『電流』とその測定および瞬時電磁界と概念に纏めることが出来たかと思う。導体中を流れる電子と言う解釈が虚構の科学概念であったと言わなければならない事態をとても残念な結果と思う。物理学の根幹から立て直さなければならないから。

光の正体が電気現象の基礎事項 電気現象は線路空間のエネルギーの挙動として理解する必要があろう。電子が『エネルギー』を背負って負荷まで運ぶ理屈は成り立たない筈だ。どうしても物理的な自然現象として捉えるには、光のエネルギー伝送の意味を基礎に考えなければならない。電子では、エネルギーの光速度伝送を説明できなかろう。『電荷』概念では物理現象としての電気回路解説は無理である。『現代物理学理論』の高度な数学理論での解釈は何も理解できないが、身近な電気回路の『オームの法則』の自然現象としての物理的意味を掘り下げて解釈することの大切さは理解できる。目指すは市民が理解できる科学論であるかも知れない。

#末尾注#

雷の正体 (2012/11/13) ドアノブの火花-熱電変換- (2014/02/09) 雷は熱爆発 (2014/05/03)

電気の眞相(2)-電圧とは何か― 電気の眞相(3)-電圧と負荷―

原子・分子結合力と周回軌道電子論の矛盾

初夢の恐怖  初夢の恐怖 原子核の周りを今年も元気に電子が高速で回っている。科学の世界も安泰であります。そろそろ独りぼっちは寂しいので、纏まった分子結合への夢を見た。回転する電子同士が手を繋ぐ。中心の核私は電子に振り回されて目が廻る初夢の恐怖。それでも電子周回軌道原子構造論は安泰と言う初夢。夢の謎解きが待ちどうしい。2018/01/11 追記。

はじめに 世界は光が支配している。宇宙全体を支配するのは光である。星も砕け散れば光になる。光は原子の全てを創り上げている。質量は光である。光はエネルギーの空間像である。世界はエネルギーである。人類よ、エネルギーの意味を捉えよう。エネルギーに質量が必要と言う誤解を解こう。自然は単純である。雷の発生理論が上空での氷の摩擦での電荷分離現象が原因であるなどと言う研究機関の解釈が罷り通るのはやめて欲しいと願う。

原子とは 複雑怪奇が原子から始まった。『電荷』がその基になってしまった。電荷は光になるか、ならないか?世界に存在する全てが光になる。光を含めてエネルギーが世界の根源であるから。原子は原子核とその周りを周回する電子から成り立つとなっている。その原子核は陽子(正電荷と質量)と中性子(電荷なしの質量)の集合体と成っている。理解できないこと、中性子は正電荷と負電荷が合体して中性なのか、電荷に無関係なのかが明確か?正電荷の陽子が陽電子と中性子に分裂するとも言われる?核の陽子がクーロン力に逆らって集合体を構成する原理は何か?こんな事を言ってはいけないだろうが、そもそもプラスの陽子と中性の中性子で原子核が成り立つという必然性は何なんだろうか。湯川秀樹博士の中間子論で核理論は成り立っていると言われるが、筆者にはとても理解できないので窮してしまう。。最も単純な原子は水素である。一つの陽子の核と周回運動する一つの電子から構成されていると。陽子も電子もすべてエネルギーから出来ている。陽子も電子も消滅すれば光を含めたエネルギーに変換される。世界はエネルギーと等価である。

原子・分子結合力の原因は電荷かエネルギーか 電荷概念を否定し、クーロンの法則を斬ると言えば電気磁気学の伝統的な論理の拠り所を失ってしまう。何の頼る術もない。しかし、原子同士が結合し複雑な高分子から生命現象まで司る世界は現実だ。質量の万有引力では原子結合は説明できなかろう。他に結合する力の原理は何があるか。そこに「電荷」が救いの神に成っていた。しかし『電荷』とは何かと尋ねても答える術もない。プラスとマイナスの『電荷』の空間的存在形態の違いを明らかに出来ない。プラスの電荷は突起を持って居るとか、マイナスの電荷は陥没欠損穴を持って居るとかの空間的違いが無ければ、プラスとマイナスと言う実在性を論理的に説明できない筈だ。そもそも電荷がどのようなものかを説明もできないし、確認出来ないのだ。摩擦によって熱は発生する。摩擦熱だ。熱はエネルギーだ。古代から人は摩擦で火を起こして来た。摩擦で熱エネルギーに変換できる事は見て理解できる。不思議な事に摩擦で電気が発生すると解釈した。摩擦電気と言う。引き付ける力が存在する現象を眼で見ることが出来た。摩擦によって確かに引き付ける力を産むと言う事だけは確かである。その現象が『電荷』が生まれたからであると言うことを検証し、確認出来る訳ではない。電荷は眼に見えない。しかし、眼に観えない元素の世界の科学論が結合力を必要とした事に因る必然的結果として、摩擦現象の引き付ける力が元素の世界に結びついたと考える。誰も否定できない科学論になった。摩擦が眼に見えないがプラスとマイナスの電荷を産むと解釈した。摩擦すると分子結合の物質が摩擦面で、原子の外殻を周回する電子を剥ぎ取り、どちらかの物質側の一方にその電子が移動でもすると考えるのだろう。その為二つの物質で電荷の平衡が破られそれぞれ一方の電荷に分かれると考えるようだ。その電荷分離の原理はどちらの電荷が集合するかの詳しい訳は原子論的に少しも説明されない。摩擦によりクーロンの法則に反する電荷移動が起こる理由が見えないのだ。この摩擦の場合はクーロンの法則は忘れないと理論にならない宿命のようだ。ヴァンデグラフ起電機が後押しもした。丁度粒子性と波動性のように科学理論に横たわる宿命として閑却するようだ。誠に理論は都合が良いのだ。しかし今、エネルギーと言う空間に実在する物理量、光を認識すれば、物を引き付ける原因が『電荷』でなければならないと言う事を一概には言えない筈である。先ず熱エネルギーが放射現象として空間に実在する意味を理解できるかの問題にもなろう。質量には無関係の熱エネルギーを。布団を陽に乾せば、熱エネルギーが籠って暖かくなる。その熱エネルギーである。摩擦現象が熱を産むことは誰もが知っている。しかし科学論の引力に成った時、摩擦熱の意味は消えて摩擦電荷が主役に躍り出る。電気の解説になると、摩擦で熱は発生しないかの如くに、摩擦で発生するのが電気と決まっているかの解釈であるが、そこに間違いの基がある。それが誠に都合よく現象を説明出来たから、摩擦電気と言えば納得できる解釈として世界の常識となった。雷まで氷が摩擦し合うことで電荷が発生するとの解釈で説明されて、その論が認知されている。摩擦は仕事のエネルギーを対象物に与えるから、何らかのエネルギーがその対象物に蓄積されるのはエネルギー保存則の原理通りである。そのエネルギーは殆どが熱である。物体に熱が溜まれば、その近傍の空間にその熱エネルギーの影響が現れるのは当たり前のことである。その近傍空間に現れるエネルギーの影響がどのようなものであると認識するかの問題である。ドアノブの火花―熱電変換ー 2014/02/09 に関連記事。

周回軌道電子論の矛盾と言う意味 原子構造に関する研究に全く携わった経験の無い者が論じる事が如何に失礼かと思いながら、書く事を許して頂きたい。電気技術感覚からの原子構造に対する感覚的矛盾論である事を述べたい。専門家から観れば、愚にもつかない内容かもしれない。核燃料のウラン235もやはり92個の周回電子軌道論で解釈されるのだろうと言う点で、数Å内にそんな電子軌道が成り立つ筈が無いとクーロンの法則との矛盾を否定できない困難が理解を妨げるから。周回電子間のクーロンの法則の排除力を考慮せずに、それ以上に離れた遠隔力の核のプラス電荷との間でクーロンの法則が有効に働くなどと言う意味が原子構造空間内で論理性を説得できるのだろうか。この論の基にはクーロンの法則を斬る(2013/01/06)での『電荷』概念否定の意味がある。この正と負の電荷間に働く電気力が周回電子と中心核を纏める構成源の力と成っている。その原子と他の原子間に働く分子構成力として、主体となるものは原子外周を回転する電子が担っている事になっている。回転しながら原子間の構成力となるにはどのような空間像で理解すれば良いのだろうか。2価、3価と結合手が多くなれば原子同士が超技巧結合手法でも採らなければ原子が眼を回してとても耐えられる筈は無いと思う。そんな周回運動する電子同士に因る分子結合が可能と言う理論が罷り通る科学論とは本当に不思議な事だ。付いて行けない超高等理論だ。

電気回路理論と電磁気学の関係

標題のような関係を問われているようだ。言われてみれば、なかなか悩ましい問題かもしれない。電気回路理論は物理学の分野と言うより電気工学の科学技術応用理論になると考えた方が良かろう。回路理論は電流や電圧と言う科学技術概念で論じる分野になるから。しかし電気磁気学(現在の教科書の内容は電流、電荷概念によって解釈しているから、それは科学技術の範疇になり、真の自然の真理とは異なる。2018/02/13)はあくまでも自然現象として電気現象の真理を探る学問分野になろうから、電気工学と異なる物理学の範疇の分野になろう。物理学は応用でなく自然の真理を説き明かす学問分野と考える。だから物理学は例えば『電荷』の実在性を説き明かす事を目的とするような学問分野であろう。科学技術概念とその用語は応用分野が広がるにつれ、次々と新しい概念・用語が造りだされる傾向にある。超伝導現象等も古い電気磁気学には無かった、気付かなかった現象である。その新しい応用技術用語・概念が如何なる自然現象なのか、その本質を究めることが物理学である筈だ。そこには電流を自然の真理と解釈するようではとても物理学とは言えない。広く自然哲学としての見極めをする学問が物理学であろう。応用と真理は常に対立する学問分野であるべきだろう。電流概念(電荷と質量の混合素粒子である電子の流れと言う概念。しかし電流はA[C/s]で、その単位には質量は入らないと言う不思議な電流概念論の矛盾)を否定すれば、初めて電気回路内の現象の意味が分かって来る筈だ。電流が流れていない事が分かれば、導体としての銅線の資源量は節約され、設備は軽量化されるのだ。それが自然現象の本質を究める学問・物理学であろう。物理学の電気磁気学は根本から作り直さなければならない処に立っているのだ。電気工学と電気磁気学は全く異なる分野である。科学技術の社会に生きる現代人がその科学技術の本質を理解し、賢く生きる未来を見据えるに欠かせないのがその科学技術に隠された真理を認識しながら、技術との関わりを考えることであろう。技術を理解するには、電気工学で有ればオームの法則やファラディの法則と言う便利な技術法則を使う術を身につける必要がある。ファラディの法則一つをとっても、磁束と言う概念を使うが、科学技術法則として《磁束=コイル印加電圧の時間積分》と言う概念で捉えることが必要である。しかし、その法則さえ物理学として自然世界の真理を求める分野では磁束など存在しない事を理解する必要がある。磁束もただ一つの『エネルギー』の回転流を評価する科学技術概念でしかない事を。

今電子レンジと水について考えている。水分子が衝突し合って加熱されると解説されているのを本当か?なと。マグネトロンと同じく、MRIもなかなか不思議な理論で、すべて磁界と磁束の科学技術概念がその基本理論を構成している。みんな『エネルギー』の様相に観えるから、筆者の迷惑論かと御免なさい。

コンデンサとエネルギーと電荷

特にこの1,2年コンデンサの電気現象を考えて来た。IT検索したら、高校生などの質問があって、それに教えられた。一応高校の物理の教科内容になっているようだが、考えると中々一筋縄では答えられない。疑問だけが残る。次の二つの記事が筆者に教えてくれた質問であり、それに答える解答者の解説でもある。さすがに解答者も考えたことであろう。筆者も解答するつもりで、別の視点から考えてみよう。ただその視点が社会的な合意を得るのに困難なものであろう。科学論は一般に過去の先人が築いて来た伝統ある共通認識の基礎認識の上に、新たな発見とか深みを付け加えるもので、そこに新たな共感や賛同を得て互いに達成感を広げるものであろう。社会的な安定した常識の意識が望まれる。それに対して、筆者が述べる科学論は、伝統的な科学常識の教育に携わっている方々に違和感と嫌悪感を抱かれるような内容が多いと自覚している。だから人と融和を重んじるなら殆ど書けない内容ばかりであることも知って居る。気に障る場合はご勘弁願います。『電荷』否定とその概念矛盾認識がその原点に在り、世界の根源要素は『エネルギー』であるとの解釈に基づいているので。余りにも科学常識論からかけ離れ過ぎているから、社会的混乱と言う点で迷惑な事でもあろう。
(1)コンデンサと静電エネルギーについて 高等学校の物理Ⅱの問題を学習して、疑問を提起したものだ。理科の指導内容にはその教科特有の専門用語が使われる。言葉の意味を的確に理解することは、はじめて学習する者には難しいこともあろう。質問者がどのように理解しているかが気になる用語がある。それは『静電エネルギー』である。その『エネルギー』とは何処に在るどんなものと理解しているのだろうか。それは『電荷』でもないし『電界』や『磁界』でもない。静電容量はコンデンサの空間構造の『エネルギー』を貯蔵する容積である。コンデンサ容積内に貯蔵する『エネルギー』を『静電エネルギー』と言っていると思うが、質問者はそうではなかろう。その『エネルギー』を『電荷』で結びつけて空間に実在するように理解するのは無理であろう。物理学での『エネルギー』は電界あるいは電圧に依り受ける『電荷』の移動に対する仕事量の合計値としてエネルギー量ジュールに換算した物として教育されているから。質量に働く力と移動距離で評価する基本的『エネルギー』概念だけで解釈しているから。電気エネルギーは全く質量には無関係の『エネルギー』なのである。光と同じ『エネルギー』なのである。『電荷』があると、どこに『静電エネルギー』が実在すると言うのだろうか。『電荷』の中に在るのだろうか、それともその周りの空間でしょうか。それは教育者側に問う『問答』でもある。結局『電荷』や『電子』の具体性が曖昧なまま、その存在が科学理論の複雑な絡み合いの中に常識化されている処に問題があるように思う。

電荷と静電エネルギー 『静電エネルギー』とはどんな意味で解釈しているかを、筆者の理解する内容で確認したい。物理の教科を教えた事もなく、間違っていると悪いので基本的認識を図に依って考えたい。先ず『静電エネルギー』とは『電荷』が持つエネルギー(?)と理解するのか?『電荷』でなくて空間が保有する『エネルギー』なら大いにその解釈で結構なのだが、どうも物理学理論から推論するとそうではないようだ。『電荷』と言うのも実際は『電子』等に付帯したものとしての、それが持つ『電荷』量という意味で解釈すれば良いのだろうと思う。教科書理論では『電荷』が単独に存在すると言う、質量の無い独立した概念とは捉えておらず、質量に付随した概念として解釈されているようだ。だから『電荷』と言う時は、それは『電子』か『イオン』かの意味で捉えて良かろう。図は中心に『電子』の抜けた原子の集まりで+Qクーロンの原子集団があるとした。現実にはプラス電荷同士が集まるのもクーロン力から考えればなかなか理解し難いのだが、大目に見ておこう。さてそのプラス電荷が空間に存在した時、周辺の全空間には電気力線と言う電界の歪み空間を作り出すと考えて良いのだろう。それが教科書の電界の意味であろうから。全空間の中心が張る立体角は4π[st.rad.(ステラヂアン)]である。半径r[m]の球表面は電界強度E[V/m]のベクトル空間と看做す。そこに何か『電荷』があれば、その電荷には中心の電荷+Q[C]に依る力が働く理論に成っている。それは遠隔力か近接力かも考える必要があるが、先ず空間の電場と言うものをどう解釈するかであろう。その空間は電界があるが、『エネルギー』は存在しないと解釈するのかどうか。空間に『エネルギー』があると解釈すれば近接作用力が有力になるが、教科書のようにただ電界を抽象的に捉えているなら遠隔作用力とする見方になろう。筆者は電界が在れば、それはそこに『エネルギー』が存在することと同等であると解釈するがそれはここでは伏せておく。元々電界なる概念の実在性も理解できない筆者であるから。前置きはそれくらいにして、『電子』に掛かる運動を考えてみよう。『電荷』だけでは運動に依る『エネルギー』の意味を捉えられないのが物理学理論(単位[eV]の概念問題もあるが)だと思う。必ず質量が無いとエネルギー論は成り立たないように思う。『電荷』には力が働いても運動方程式の加速度α[m/s^2]が生まれないから。どうしても質量にお出まし頂かなければならない宿命にある。『電荷』だけでは無理でも『電子』の質量に依りエネルギー論が可能になる。そうするとまた困ってしまう。よく無限遠から『電荷』をその位置まで持って来るにどのような仕事をするかとなる。その仕事がエネルギー論には欠かせない。仕事の解釈は力によって質量を動かした時、力ベクトル f [N]と移動距離ベクトル r [m]のスカラー積で仕事量のスカラーw= fr [J] で捉える。その仕事量は質量を動かすことに使われた消費エネルギーである。普通消費エネルギーと言う場合は、その『エネルギー』は熱として空間に放射される感覚で捉える。しかし、仕事量の幾分(1/2?)かを質量の『エネルギー』増加に変換する場合もある。そこに、電磁気学理論での『エネルギー』のもう一つの単位に[eV]がある。特に素粒子物理学理論等で『エネルギー』と言えばジュールでなく[eV]の単位で解釈するのが一般的である。それは一つの『電子』の電荷量が電界空間で移動した時に『電子』が得ると考える『エネルギー』の量を基準単位とした評価量であると解釈するが、間違いだろうか。その場合、『電子』には質量が在るから電界に因る力で、質量の加速度運動が起こるから『電子』の移動が可能であり、最終的にその質量の運動エネルギー分はどのように[eV]のエネルギー量の中に認識すれば良いのだろうか。[eV]の単位が表現する『エネルギー』の中味は『電荷e[C]』が電位差V[V]間を移動しただけで『エネルギー』を獲得する様な表現単位に思える。しかし、その[eV]単位がコンデンサの電極版間での『電子』などが保有する『エネルギー』に結びつくのか理解が難しい。『電荷』だけのそこには質量の運動力学の基本原理の加速度が見えない。実在物体を移動させる力とは質量の慣性に掛かる加速度を評価した物理学運動原理と思う。そのように質量を伴わない『電荷』のみを移動する運動エネルギー論は物理学理論には無いと思うのだが、その解釈は間違っているだろうか。このエネルギー単位[eV]で思考を整理するためエネルギー単位[eV]を尋ねてに別に取り上げた。さて、質量を伴う『電子』を対象に仕事を考えてみよう。図では、電界に因る力が『電子』に掛かれば、『電子』は加速運動をすることになろう。無限遠からrの位置まで力が掛けられれば、加速度によって相当の高速度運動に成っているだろう。それが力と運動の基本的解釈ではなかったか。そこで、その『電子』の持つ『エネルギー』は如何程と解釈すれば良いのだろうか。再び『静電エネルギー』とは何が持つエネルギーのことか?を考えてみよう。それはコンデンサと言う二枚の対向金属電極に因って構成された空間がその静電容量と言う単位ファラッド[F]の機能の基を成すものである。その空間が空気か誘電体材料かに因って機能の強さに差が生まれる。『静電エネルギー』はどこにどのようにして得られて、何が保持する『エネルギー』と解釈すれば良いのだろうか。『エネルギー』をコンデンサに蓄える仕組みは電気現象として如何なるものであるかと言うことである。このような設問形式で、問いながら考えることは高校生が初めて考える内容としてはそう難しい事ではないだろう。数式で解説している訳でないから、意味を汲んで貰えないかと思った方法だ。何が言いたいかと言うと『静電エネルギー』とは結局具体的にどんな『エネルギー』と理解しているかと言うことであり、曖昧であっては論理の物理には成らないと言う意味を理解して欲しい。誠に難しい教育の社会的問題を論じる様なことになって、読まれる方に申し訳ない思いもある。真理・真髄あるいは哲学とは社会的混乱でもあるのかと?生徒、学生にはこの問題に対処する方法は無い。教育する側、学力試験・入学試験を実施する側に考えて欲しい事だ。ようやく問題の核心に話題を絞ることが出来る。コンデンサの充電現象についての物理的(物理学教科書的ではない)解釈に入ろう。それは『電荷』概念に因るコンデンサ充電問題における矛盾についての考察である。その基本的観点は電気現象がすべて『光速度』の現象である点であろう。

コンデンサ充電現象の意味-『電荷』と光速度現象― 質問者のコンデンサ充電現象の話に入ろう。一定電圧の電源とコンデンサを繋いだら、どんな現象が起こるかが基本の話になる。先ず電気現象はすべて『光速度』の規範の基に在る。そこで、コンデンサ充電とはその電極板のプラス側とマイナス側に相反する『電荷』が集積された状態として理解しているだろう。物理学教科書の『電荷』の現象として考えてみよう。質問者は電源にコンデンサを繋いだ瞬間にコンデンサ電圧が電源電圧になると解釈しているのだろうが、それは止むを得ないことである。電源とコンデンサを並列に接続する図を想像すれば当然である。しかしその電気現象の本質を理解する事には初学者には無理があるのだ。元々教科書が光速度で電気現象を理解する教育内容になっていないのだから。その辺を捉えないとエネルギーが半分になると思うのも当然で、そこに誤解の意味の原因があろう。

図2.コンデンサ充電現象 どんな電気現象も過渡状態では、単純な回路要素で表現できるほど簡単ではない。ただ直流電源にコンデンサをスイッチで接続しても、コンデンサの電圧が瞬時に電源電圧になる訳は無い。それは現象が光速度の遅れを伴うことと、回路周辺の空間がその現象の伝達に影響を及ぼすからである。それは漏れインダクタンスとか抵抗などで表現する事も出来るが、決まった値ではない要素値であろう。厳密な方程式では表現できない。電流と言う技術概念量(is,ir)を考えれば、現象の光速度伝播から、それも電源側と負荷側では厳密には同じ量ではない。ここでコンデンサに充電される『電荷』と言う概念量に基づいて、その充電機構やコンデンサ電圧と『電荷』との間の物理的意味を考えてみよう。コンデンサのプラス電極とマイナス電極の『電荷』の分布を決める原理とその充電機構をどう解釈するか?プラス側のプラスの『電荷』は原子イオンが集まる訳ではないから、電極板から『電子』を引き抜き、電極板金属原子のイオンが残ると考えるのだろうか。その現象も電源側のスイッチSから始まって、コンデンサ端子に現象が伝わることになる。その時導線内にどのような電界(電荷分布に因る)が生じ、『電子』を引き抜く現象が起きるのだろうか。その引き抜き現象が終端のコンデンサまで伝播する様子をどのように解釈できるだろうか。次に、マイナス電極のマイナス『電荷』は電源の負側導線を通して『電子』が流れ込むと考えるのだろうか。そのマイナス側でも同じ意味での光速度伝播現象の解釈が要求される。単純に『電荷』が充電されると言う現象でも、その論理的解釈法を理解するにはとても難しい。『電荷』に因るコンデンサ充電現象はどんな原理で可能か?蛇足であるがもう少し述べたい。『電荷』移動は図1で考えたように電界E[V/m]が無ければならない筈だ。『電荷』は電線導体内を流れると教科書では説明されているから、電線内に電界が無ければ『電荷』は動かない。電源端子の電線内とコンデンサ端子の電線内とでは、同時に光速度を超えて同じ現象には成らない。導線内の単位長さにどんな電界が発生すると考えれば良いか。その電界の発生原理が明確に示されなければ、コンデンサを充電する『電荷』の移動を説明できない筈だ。図1でも述べたように、『電荷』では質量が無いから運動論には適さない。だから『電子』の質量をお借りして、『電荷』だけで良いのに質量まで組み入れた論理となる。コンデンサ電極には『電子』の『電荷』と『質量』を共に充電しなければならない論理になる筈だ。そこで考える、電線内の電界の発生が論理的に解説できるか。どのように電界が発生するのだろうか。抵抗降下電圧とは意味がまったく違うのである。電界と抵抗降下が同じでは、結局『電子』を動かす電界が無いと同じ事である。『電子』『電荷』を動かす電界は『電荷分布』に因ってしか図1の電気力線は説明できない筈だ。導線内に電荷分布に因る電界発生原理を示せなければ、『電子』移動の説明にならない。その『電荷』分布による導線内の電界発生の説明が出来ないなら、図1で論じた電界と『電荷』移動の意味は無用な事になる(本当は『電荷』など存在しないから意味は無いのだが)。『電荷(電子)』は加速度運動方程式に因って力を受けて初めて移動すると言うのが物理学の電気現象の原理の筈であろう。ローレンツ力の磁界加速は円運動で加速すれば中心に螺旋運動してしまう。磁界加速は今回の問題には無関係だ。電荷分布に因る電界しか『電子』は移動できない教科書理論の筈ではないでしょうか。

『電荷』とクーロンの法則 電極板に『電荷』が溜まるとは、どのような電界強度分布から可能なのだろうか。クーロンの法則は同じ極性の『電荷』同士にはその距離の2乗に反比例した排斥力が働く筈だ。どのようにクーロン力を打ち消す力が働くのか、その原理を示すことが理論の物理学としては欠かせない筈と思う。それは摩擦に因る『電荷』発生の解説が古くから受け入れられた解釈手法になっている処に原因があるようにも思う。クーロン力の強さを決める変数が距離と言う科学論の意味を是認するなら、『電荷』集合に対する力の論理的解釈法が示されて初めて電極板の『電荷』分布が論じられると思う。クーロンの法則を超える『電荷』集合の原理が。

静電エネルギー さていよいよ『静電エネルギー』とはどのような電気量で、どこに存在すると解釈すべきかを考えよう。電極板の『電荷(電子あるいは原子イオン)』を素に解釈するとすれば、その『電子あるいは原子イオン』が保持する『エネルギー』と言う意味で捉えるのか。極板に在るそれらの電荷対象は何処で『エネルギー』を保有して、どのような違いを前後で得たのか。『電荷』が『エネルギー』を保有するとはどのような『電荷』の様態の変化を生じると言うのか。『電子』が『エネルギー』を保持したり、失ったりする場合の『電子』内に起こる変化はどのような事で理解するのか。そのように考えた時、『電子』そのものに『静電エネルギー』の保持や消失の責務を負わせるのに矛盾を感じないだろうか。理論的とは、理屈の筋が通っていなければならないのである。矛盾が少しでもあれば、それをそのまま有耶無耶にしてはいけない。しかし、すぐに解決できる場合は余りなかろう。その時こそ、その矛盾を忘れずに何時か解決する時を待つ心掛けが欲しい。『電荷』が『静電エネルギー』を持つと解釈できるだろうか。式での W=CV^2^/2 [J] のV^2^[J/F]([V]=[(J/F)^(1/2)^]であるから) にその責務を持たせる以外ないように思う。『電荷』の次元[C]を『エネルギー』に関係付けて表現すれば、それは[(JF)^(1/2)^] となる。この『電荷』の意味と電圧の意味とをどのように『エネルギー』に関係づけられるかと言う問答になろう。コンデンサの静電容量C[F]は『エネルギー』を貯蔵する機能強度を表現しているが、『エネルギー』を貯蔵する空間的容積ではない。もし『電荷』が『エネルギー』を保有すると言うならば、プラスとマイナスが電極板に向き合う事の貯蔵効果は何なんだろうか。
(2)静電エネルギーの半分はどうなる? 上の(1)に続いて同じ問題であるが、この問題には『電荷保存則』と言う面の意味が強いと思う。質問者の解釈と疑問は至極当たり前の内容であろう。その質問に答えることはまた難しい。『エネルギー』が半分になるが『電荷』は保存されるという前提に在る。電圧が最終的にVになると言う事を実験的に検証できるだろうか。即ち『電荷保存則』が成り立つか?『電荷』の存在を否定する筆者が考える方向は決まってしまう。しかし、最終電圧がどうなるかに残念ながら答える能力もない。その辺の事情を電気現象としてどのように考えるかを述べたい。

電荷保存則と電圧 『電荷』と電圧は電気理論の根幹を成す密接な関係に在る。電圧は電圧計で計測できる。『電荷』は決して測定できない。コンデンサの静電容量は空間的構造体として定義されている。だから電圧が測定できれば、『電荷』は判定できるとなる。しかし、『電荷』が何ものかを確認はできない。『電荷』と考えている物が『熱』と同じ『エネルギー』だなどと言えば科学常識に反する。質問者の求めに答えようとすれば、図3のようにまとめるしかない。科学は実験的に検証しなければならないと言われるが、最終電圧がどのようになるかを計測する方法が筆者には思い付かない。『エネルギー』は電線路空間内で過渡現象の複雑な経過を経て落ち着くであろう。方程式を解く能力が筆者には無い。計測は必ず『エネルギー』を消費しなければできない。『エネルギー』だけが消失して、『電荷』が保存される理由が分からない。

まとめ 電気回路としては極めて単純なものでありながら、その現象を理解しようとするととても難しい事を改めて教えられた。『静電エネルギー』一つの技術用語さえ、長く伝統的に使われているのに、確信を持ってその実像を質問者に示せない。数式で表現される内容の奥に隠された真理はなかなか見え難い。今でも理解できないコンデンサ静電容量の物理学的・電気磁気学的解釈がある。電極版間のギャップが小さくなれば成る程静電容量が大きくなるとはいかなく意味か?ギャップの限界と『エネルギー』の流動模様に関係するか?

電荷概念とクーロン力 電気物理の最初の概念が『電荷』であろう。電気を論じるすべての基礎が『電荷』である。その基礎が理解できない、納得できないと疑問の中を彷徨って来た。高校生の質問がもう一度『電荷』の意味を問う機会となった。まとめとして、『電荷』とクーロンの法則そして電荷の『エネルギー』の関係を図にまとめて見た。コンデンサの電気現象の図は電極にプラスとマイナスの『電荷』が向き合って集まる解説から始まる。――今(2017/09/01/am:9.30)ヘリコプターが酷い騒音を撒き散らしている。誰の仕業か?――筆者は先ずその基から理解できない事に気付いたのが今から30年程前の事であった。クーロンの法則を斬る  に述べたが、コンデンサの電極に同じ極性の『電荷』が集電荷するには相当のクーロン力に因る排力が働く。その排力に逆らって同一『電荷』が集荷する理論的根拠が欲しい。そのクーロン力に逆らう力が示されなければ、コンデンサの『電荷』模様の解釈は理解できないのではないか。もう一点気付いた。『電荷』の『エネルギー』の意味である。(1)プラスの素電荷2個とマイナスの素電荷1個が電気力線の電場内で、一点に集荷した。図1の解釈から、その場合の集合電荷の『エネルギー』は如何程と解釈すれば良いのだろうか。同じく(2)のマイナス素電荷が3個集合した場合は、その総合『エネルギー』は如何程と解釈すれば良いのだろうか。(3)はとても不思議な未解決の『電荷』概念の問題である。プラスの電荷とマイナスの電荷が合体したら、『電荷』はどのような結果になるのか。プラスとマイナスの二極『電荷』概念の根本的問題に思えるのだが、高校生も不思議に思わないのだろうか。『電荷』は消えるのかどうか?

現時点の纏めとしては、『エネルギー』でなく『電荷』を電気現象の基礎概念にしている限り、残念ながら質問には答えられなくて御免なさい。

エネルギー単位[eV]を尋ねて

長い伝統に因って培われて来た学問の中で、この世界の根源を探る哲学的分野に『物理学』が在る。前から大変畏れ多い事ながら、単に電気工学分野の『エネルギー』感覚から、物理学概念の意味への疑問そのままを書き記して来た。失礼の段お詫びしたい。特に『エネルギー』の概念について、物理学では質量なしの空間に存在する『エネルギー』の認識が無いと批判して来た。別の記事で、『静電エネルギー』の意味を考えている内に、少し誤解していたかと思う事に出会った。それはエネルギー単位[eV]である。素粒子加速などの場合に採られる基本的単位である。その概念には質量の意味が何処か隠されているのか、表面的には現れていないような感覚を受けた。そこでその『エネルギー』の概念が良く分からない事も有って、ここで確認しておきたいと思った。

[eV]の意味 ウイキペヂアの記事を参照して調べた。

 

エネルギー単位[eV] 荷電粒子が電場で受ける運動力学とその結果得られる『エネルギー』の意味を少し幼稚ながら具体的な量を基に考えてみる。先ず電場と言う意味から考えてみよう。ただし、空間誘電率ε=1/(36π)×10^-9^[F/m] とする。

電場とは 電場とは電荷によって創られる空間の電界強度の分布空間と理解している。図1はQ0の電荷からr=3[m]の離隔点の電界強度(ベクトル) E1が丁度 1[V/m]となる状態を仮定した。そんな単純であるが、具体的な意味を基に電場とは何かと考えてみたい。図に空間の一点の電界E(x)を示した。その場の電界は両方の電荷Q0 とq からの電界ベクトルの合成として空間の電界強度が決まる筈だ。いま、距離xq をだんだん小さくしてゆくとする。すると限りなく電荷qに近い場の電界強度となる。Q0 に因る電界は小さくなるが、qに因る電界は限りなく強くなる。qが単位電荷であっても距離の逆2乗で無限に大きくなる。自己電荷qによる電界強度は空間電界分布にどう評価すれば良いか。自己電荷qの点では突然不連続の電界分布断裂点となる。この問題はデラックが唱えた点電荷のエネルギー無限大の矛盾と同じ意味と思う。電場の電界強度は『電荷』に因ると解釈する限り、その電界強度の空間分布そのものが『エネルギー』であるとの認識には成り難いように思う。この『電荷』と電界強度と『エネルギー』の関係が電場とは何かを考える原点であった。『静電界は磁界を伴う』になった。

『電荷』と『力』と『エネルギー』 [eV]の『エネルギー』評価単位は素電荷eが1[V]の電位差を通過すると『電荷』が獲得する『エネルギー』と言う意味らしい。ここには質量が表面に現れていない。質量が無くても『電荷』だけで論じられる『エネルギー』量にも見える。『力』は電界強度と『電荷』のみから評価される物理概念だ。『力』によって動かされる『電荷』と言う意味から、その場を通過するだけで電位差の分だけ『エネルギー』が増加する意味に思える。ただ荷電粒子と言えば、そこには質量が含まれているから、その質量に掛かる『力』で加速度運動を起こすと言う普通の運動力学に因って運動エネルギーを持つと言う馴染みのあるジュール[J]で理解はできる。しかし[eV]は『電荷』がただ電場を通過するだけで『エネルギー』を得ると言う意味のようだ。『電荷』が電位差を登ると位置エネルギーのような意味の『エネルギー』を仮想しているかとも思えるが、それは『エネルギー』の増加には成っていない。増加した『エネルギー』分だけ、その『電荷』が逆の方向に仕事をする意味がなければならない。『電荷』が『エネルギー』を持つと言うことはその『エネルギー』は有効に使えると言うことであろうが、電場でどのような仕事をする『力』となるのだろうか。最後に『電荷』Q0 とq が合体した時、運動速度の意味が無い訳だから、『電荷』q はどのような値の『エネルギー』を持ち、その『エネルギー』はどのように電場に影響を及ぼすのだろうか。またどんな仕事の役割・能力を持つと解釈するのだろうか。もう一つ、『電荷』Q0 とq の間にはどちらが『エネルギー』を受け取るか与えるかは相対的なものと思える。図ではQ0が電場の原因として表現したが、その解釈は相対的なものでしかなかろう。

電磁現象における『エネルギー』 上に疑問を呈したように、全く専門家の理論が理解できない能力無しかも知れない。『静電エネルギー』と言う言葉からその意味をどう理解すれば良いかと考えた時、『電荷』が持つ『エネルギー』等は無いとしか考えようがない結論になる。『電荷』が存在すると言うことを認めるとすれば、プラス、マイナスなど無く『電荷』そのものが『エネルギー』の軸性回転流の方向性に因る空間分布形態と看做さざるを得ないと思う。