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エネルギーの姿・象

物理学理論で認識されていない概念が『エネルギー』である。

その代わり、自然世界に存在しない概念、『電荷』や『電子』が科学論の基礎概念となって理論が構築された。

『エネルギー』を意識しない科学論。科学論文はその専門分野に特化した特殊な『専門用語』で論理が展開される。専門家はその専門分野での高度な先端研究を対象にするから、それは止むを得ない事だ。しかし、その科学論はその専門用語が狭い専門家の為の世界観での解釈となるため、抽象的な表現に思えて、具体的生活空間から乖離したものとも見えて、解釈理論が理解困難となる弊害にもなる。基礎概念が曖昧なまま、教育現場に下ろされ、理解できない未消化な科学知識の市民科学リテラシーとなる。その最大の問題が『電荷』である。検索情報にも、『電荷』とは何か?という当然とも思える質問が提起されている。しかしそれに対して、回答者は、余りにも根本的で・・と答えることが出来ずに、逃げている。

エネルギーの形象。

光・熱。電気。圧力。

エネルギーの諸相

 

このブログでも、『電荷』という虚像 (2011/04/08) 、エネルギー(energy)とは? (2011/09/07)  などから始まった。

自然に対する観方は、自然科学理論では科学技術のための特殊な概念に因ったものになる。そこに『電荷』や『電子』という自然世界に存在しない概念が創造された。

自然界は極めて純粋である。それは『エネルギー』一つで構築された世界である。湯川秀樹が『混沌』と言ったものでもある。世界はエネルギー一つに集約されると、バートランド・ラッセル博士が述べた事でもある。

現在の物理学理論を唱える時、空間に実在する『エネルギー』の存在を意識できていないと言う、大きな理論の矛盾を抱えたものになっている。

上の図、エネルギーの諸相に、科学技術や自然現象が『エネルギー』によって生まれた世界であることに纏めてみた。質量も『エネルギー』の集約された象である。だから、 mc²[J] と『エネルギー』に変換される意味なのだ。

少し関連記事を挙げておく。

光・熱・電気。 雷の正体 (2012/11/13) 。焚火の科学 (2018/05/26)。白熱電球のエネルギー変換技術は? (2018/02/12)。新電気回路理論 (2022/09/01)。

回転動力。 発電技術とエネルギー空間 (2022/05/28) 各部ごとの詳論が未だ未完だ。

膜・弦振動。三味線と縦波 (2012/02/07)。糸電話―力学的解剖― (2014/03/06)

 

 

電荷の定義?

『電荷』が自然科学論の根幹で矛盾の権化となっている。これが科学論の論理性とは驚き桃の木だ。科学論には論理性等無縁と思える。

『電子』や『陽子』などが原子論構成素子として解釈の基礎となっている。原子は科学論を論じるに、意識するか無意識かに関わらず、自然世界の根源的概念となっている。その原子の中でも『電子』は普通の電気回路での『電流』と言えば、その『電子』の逆流等と、多くの検索記事で論説されている。学校でも『電荷』はとても大事な必須概念として教えられる。そこから科学理論の、教育によって考えずに、記憶する集団科学論の抜け出せない『地獄門』に入ることになるのだ。

それは教育の放棄にも等しい事だ。考える事から逃げているように思える。

しかし、『電子』はどの様なものかと問えば、10桁の数列の驚くべき精度?の数値で示される。ただ桁数で権威付けした、定義と言うだけの、説得性の何もない意味不明の提示がされている。

ところが、『電荷』とは何かと問うても、その『電荷』についての定義はない。

電気回路でコンデンサに蓄えられるものは『正』と『負』の『電荷』で解釈される。その『電荷』とはどの様なものかは一切不明のままである。『電子』でもなく、『陽子』でもなくまた、『原子イオン』あるいは『正孔』でもない。兎に角『電荷』で解説される。電気回路の解説で、『電荷』が論理の中に使われるとき、その『電荷』が『電子』でもなく、『陽子』でもなく、ただ『正』と『負』の『電荷』なのだ。『電子』でもなく『陽子』でもない、別の独立した『電荷』という物理量が論者の思い通りに、自由に、お呼び寄せられる極めてご都合の良い自然世界の「物理量」と成っている。科学者はとても有能だから、只思えば、『電荷』が『正』と『負』で天から降臨するようだ。それは、〈雷〉の科学論文にも、ただ『電荷』だけで論理が成り立つとの思し召しの論になっている。コンデンサの両電極に〈クーロンの法則〉を無視して自由に同一極性の『正』あるいは『負』の『電荷』が反発力を考慮もせずに御集合なさるとなっている。誠に自由な、科学的権威が取り仕切る概念の世界が、自然世界と別に存在するようだ。

だから『電荷』と言う物の空間像も、その物理的概念の『定義』も提示できないのだ。

『電荷』の概念?

電荷の論理性❓

自然世界の風景や日常生活あるいは科学理論の基礎の解釈において、本当に『電荷』がこの世界に在ると感覚的に実感しているのだろうか。『電荷』と『電子』や原子核の『陽子』は勿論同じものではないと考えるだろう。『電子』や『陽子』は『電荷』がその質量と言う物理的実体に、別な物理概念としてその質量に付加している訳だ。その意味での『電荷』はどの様な空間の実在体として、『電子』や『陽子』に特別な『正』とか『負』という機能を発揮する意味が有るのだろうか。『正』と『負』という自然世界に存在する物理的意味が、どの様な物であるかが明らかに説かれなければ、その『電荷』という物理的概念は意味が無いのだ。曖昧なままで、実在すると言うだけの権威に掛けた主張に従ってはいけないのだ。そこには科学的と言う論理性が無いから。

さて、上の(2)式で、『正』と『負』の『電荷』が結合すると何になるか?数学の論理に従えば、『0』になる筈だが、決してそうはならない。雷の研究者、専門家の論説では、『正』と『負』の『電荷』が折角離れたのに、何故か再結合して、稲妻の光放射に変化する。その光になる現象の厳密な物理的論理の解説はどこにも無い。『正』と『負』の結合が何故光の『エネルギー』の放射になるか、その物理的原理の解説は無い。白熱電球の放射する光の『エネルギー』がどの様な物理的現象によって発生するかさえ解説できない。『エネルギー』の流れの論理的解釈もできない。決して『電子』では解説できないのだ。それも全て『電荷』という自然界に存在しない物理量が、恰も自然世界の真理の如く考えたところに誤りの原因が有ったのだ。電気回路現象に『電子』は決して、その概念の意義は存在しないのだ。雷の光の発生原因をどの様な物理現象かを解説できなければならない筈だ。

上の(2)式の❓が如何なる意味かを『電荷』で論説できるだろうか。

電界に電子一つ

(2022/02/19)。電磁気学に関する基本事項は、その理論の解釈用語の概念が如何なる物理的意義を持っているかを的確に定義できることである。不明確や曖昧さが有っては理論の意義が疑わしくなる。

電子の認知機能は如何?

電子が電界をどの様な機能で認識するかが物理的概念として定義できない。根本的論理矛盾を抱えた電子。この絵図には全く論理性等微塵もない。しかし『電子』の空間的定義の物理概念がとても曖昧だから、やむを得ないかと思いながら疑問の思いを忍ばせたものだ。

電界に電子一つ 電磁気学理論で、電界の中に『電子』が一つ置き去りになったとする。理論では、その時は直ちに『電子』は電界ベクトルと逆向きの方向に力を受けて加速すると解釈して正解と成っている。『何故か?』と問答としたら、その訳を答えられるだろうか。【プラスとマイナス『電荷』の間には引力が働く】では余りにも論理性の欠如した思惑論に成っている。その『電荷』間に働くと言う力の発生原因の訳を『何故か?』と聞いているのである。『電界』と言う空間状況を『電子』はどの様な認知機能でその意味を捉えて力を受けると言うのか。そこに在る状況を『目』「触覚」「味覚」「聴覚」『磁気』あるいは特別な『電荷』認知機能でも持っているのだろうか。そんな思いを『電子』の姿で絵図にした。余りにも生物的な認知機能での解釈図であるが、他に思いつかない。『電子』の知覚機能と科学理論の論理(2022/01/20)もその一つの問答だ。

磁極の軸性エネルギー流。Axial energy flow が磁気現象の根本原因であると分かった。

電界に電子一つ。何かその意味の不明が自分の状況に似ているようだ。『電界』とは何か?『電子』とは何か?と不可解な概念を探り出す作務に思える。

『電界』その物理的意味。

空間に生じる『電界』とはどの様な物理的状況を捉えた意味か。物理的意味を理解するにはその次元を理解することに尽きる。単位は[V/m]である。空間の単位長さ1[m]当たりに掛かる『電圧[V]』の値という事だ。そこに『電圧』の単位ボルト[V]とはどの様な物理的空間状況の事を定義したものか?その電圧とは何かに如何に答えるかである。その意味をどの様に解説できるか❓『エネルギー』との関係で解説できなければ、その自然の本質を理解していないと言わなければならない。科学技術概念『電圧』はその次元が[V=(J/F)^1/2^]である事を理解しているかである。例えば、電気回路空間とエネルギー伝送特性などがその答えである。

『電子』はどの様に周辺の空間の電磁気的状況を何によって認識するかを論理的に示さなければならない筈だ。不可解の原因がこの辺だったかと、最近の記事、クーロンの法則の眞相 (2022/02/23)に気付いた。学術論は一般市民が理解できない概念の物理量を変数として、数学的な式によって表現し、その意味の共通な慣習によって熟練した専門家しか分からない世界感の論理を構築しているものが多い。複雑な『π電子』などと使われても、『電荷』も自然界に存在しない訳だから普通の『電子』に輪をかけた『怪物電子』に意味が有る訳など無いのだ。

『電子』が物理的に意味を持つ科学論を唱えるなら、先ず『電子』はどの様な機能でその周辺の電磁気的状況に反応するかの理屈を示さなければならない。『マイナスの電荷』が空間的にどのような物理的作用を呈するのかを。

一般の市民的感覚に戻って、科学理論の意味を考えた。

分かった!より はてな?

人も生まれた時は何も知らない。

生きるために、空気に触れて産声と呼吸。口から母乳で消化器官が機能し始める。

命のプログラムが自動的にスイッチオンする。何も考えずとも、生きてそして死を迎えるまで、不思議な生命制御の仕組みが始まる。どの様な仕組み、遺伝情報、生活環境など複雑な人生行路で、個性が際立つ一人の人になるのだろうか。行く先の見えない歩みが始まる。

 

振り返れば、“はてな”と思う事ばかりが増える。

何も知らずに過ごしてきた。

“はてな”に会って、科学理論のすべてに疑問が膨らんで、とうとう『電荷』の否定への確信となった。決して科学論の世界では受け入れられない暴論として、排斥されるだろう。原子構造論まで否定する事に成るから。それでも自然世界に『電荷』は存在しない、人間が仮想した間違った物理概念だった。科学理論とは何か、その社会的意義を人に問う命題となった。

辞典で調べた。

分かる・解る・判る。それは、①区別が明らかになる。②理非が明らかになる。事実がはっきりする。知れる。「とかく理非がわからぬ(狂言・羯鼓炮碌(カッコホウロク))」

はてな。怪しむ時、考える時などに発する声。“はて”の意を強めた言い方。「はて、こちらへは帰りませぬが(狂言・貰婿)」

等とあった。

科学理論は、自然世界の真相を明らかにする事より、人の生活に便利で、有意義な結果をもたらす解釈論を、理論としての価値が有意義と見做す基準から計られる。そんな思いに自分を“はてな”が連れてきた。

『電荷』への科学的信任の如何は、今やすべての皆さんに関わる教育的問答のように思う。

平行二線式回路の定数について

電気回路現象の解釈理論は電圧と電流による『オームの法則』が基本となって完成している。

しかし、電圧と電流と言う概念はとても優れた解釈概念であるが、それはあくまでも科学技術用の創造概念であり、それに自然界での真相を求めようとすると矛盾の壁に突き当たる。

それは電圧、電流の本質を問えば、『電荷』と言う物理量の実在性に依存せざるを得なくなる。プラスとマイナスの二種類の『電荷』が欠かせない論理的根拠となる。マイナスの『電荷』は『電子』であるが、プラスの『電荷』が何かは極めて曖昧である。その論理的矛盾は『電荷』を切り捨て、『エネルギー』の流れとして理解する事で解決できる。

電気回路現象を『エネルギー』の流れとして捉えれば、導線導体内を流れる『電子』などの必要はなくなり、電線路内の空間の電気定数の解釈の問題となる。この関係は電線路の回路特性 (2021/08/11)にまとめた。それでも未だ残った問題があった。

電気回路例。

電池からの『エネルギー』が電線路空間を流れるとなれば、その特性は回路分布定数L[H/m] とC[F/m]で解釈すれば良い。電線路の特性インピーダンスZo[Ω]は

Zo=(L/C)^1/2^[Ω]

となり、空間の構造で電気現象の特性が決まる。負荷ランプの特性値R[Ω]とZoとの関係で、電気回路の『エネルギー』伝送特性が決まる。

以上の意味を基本認識として、二本の電線で構成される電線路のインダクタンスLと静電容量Cの意味をもう少し考えておこう。

二本の電線だから、具体的にその電線路の特性値を考えれば、右図の様になっていると考えてよかろう。

 

 

 

等価回路。回路特性値 L[H/m] および C[F/m]は右図のように算定される。その訳を考えた。

 

 

 

 

電線路空間を『エネルギー』が伝送するとき、その流れは電線にどのような関係になるか。

L=2La[H/m] およびC=Ca/2[F/m]と回路特性値を解釈する。その訳が右図の様なCaとLaの間での遣り取りとして伝送する『エネルギー』という意味で解釈する。

この解釈は回路に電流計を接続する。その電流計の計測値に及ぼす回路特性を理解するに欠かせない事から取り上げた。

こんな回路論は余りにも、当たり前の基礎論で、学校教育の教科書の問題の指摘でしかなく、科学論としての学術論文になるような内容ではない。然し乍ら、現在の科学理論の根源概念、『電荷』を否定するところから生まれる新しい解釈である。現在の学校教育での物理学理論からは生まれない解釈ではある。

自然界に存在もしない『電荷』概念に論拠を置いた学校での理科教育は、その矛盾の伝統の引継ぎ業界の体制保持の意味しかないのだ。その事は未来を背負う子供たちに対しての教育行政の責任を問う事でもある。また大学教育の物理学基礎理論の根幹が問われる事でもある。例え困難があろうと子供達の未来への考える教育への転換が望まれる。

雷と科学論

雷様と呼ぶ。様付の自然現象・天空の光と音の饗宴。

誰もが知っている。ベンジャミン・フランクリンの名前も雷とのつながりで知っている。

恐ろしくて、恐怖も不思議な、知りたい科学論。しかし世界は存在もしない『電荷』で覆い尽くされているこの怪奇な科学理論の世界?そんな如何わしい科学理論の世界が許せない思いで再び取り上げる。

雷と電荷の物理 (2021/06/22) でも取り上げた。いつまでも未練を残して、専門家の科学論に抵抗する。電荷と科学リテラシー (2021/02/10)。

先日も「雷の正体」とgoogle で検索した。そこには子供たち向けの多くの解説記事が昇る。殆どが、上空の雲の中で、水蒸気から出来た氷が上昇時に、摩擦で電気が発生するとある。古くから研究所などの専門家がそのように話し、そのような解説をテレビで取り上げて放送している。筆者も雷の正体として記事を投稿している。7ページ目に検索に現れた。

日本の電力中央研究所の解説記事もそうだ。

何処でも、誰でも、特に科学者と言う研究者が『電荷』が自然界の基本物理量として唱え、主張して社会的専門家として敬われ、尊敬されている現実の世界の科学常識だ。

そんな中で、おそらくただ一人筆者は『電荷』など自然世界には存在しないと30年以上前から唱えてきた。

『雷』は自然科学理論の真相を解剖するに最適な論題である。

希望がある。

市民討論会で、論壇で有名な科学者と討論して、市民が視聴して判断する機会が在ればと。何処で、誰が、どの様な訳で、『電荷』が物理学理論の根幹を支える基礎概念となったのか。その真相を明らかにすることが科学教育、市民科学リテラシーの為に今こそ考える課題だ。子供たちに「嘘」の教育が為されてはいけないから。科学者の社会的責任の為にも。考えない科学理論は良くないよ!専門家と言う狭量科学理論からの開放の為に。

科学の市民による民主主義の論壇となれば。民主主義の科学論の土俵が欲しい。

電磁気学の論理性❓

物理学の基礎分野に電気磁気学がある。

最近科学論に疑念が膨らんで遣り切れない。

みんな自分の心に生じるものだから、自己責任という事かも知れない。

一つの代表例として「電気磁気学」を取り上げる。

それは『電気』と『磁気』がその基礎概念となっている。

大学の授業で取り上げる内容の代表例が「マックスウエル電磁場方程式」であろう。『電界』と『磁界』がその専門的学理の理解の基礎概念となっている。

『電界』は『電荷』が定義されて初めてその空間概念が確定して、理解できる。『電荷』同士の間に様々な空間的関りが生じる現象の解釈論である。『電荷』には二種類がある。『正』の電荷と『負』の電荷である。しかしその『正』と『負』の空間的違いが如何なるものかについて解説した理論・論理を知らない。昔から先生が仰ったことや書物に書いてある事から、間違いのない真実と信じて疑わずに来たのが『電荷』の実状である。

その科学理論の根本を疑い、『電荷』の実像を理解しようと孤軍奮闘してきた。多くの電気磁気学の法則を考え併せて、その最も基本である『電荷』の概念とその真相を探る発表が『静電界は磁界を伴う』であった。

今改めて、問わなければならない。

大学で電気磁気学を講義されておられる先生方に。『電荷』の空間像をどの様に認識なさって居られるかと。ただ意味も無く『正の電荷』と『負の電荷』が引合うのだと述べるだけで、そこに学術論としての論理性が在るのですかと。

一定の変動しない高電圧を掛けた電極版の間は静電界と言う場の筈です。電気磁気学では『正の電荷』と『負の電荷』が両電極版に集合して、その向き合う空間が静電界と言う場になる。電気磁気学では、その空間場には決して『磁界』は存在しない筈です。

さてそこで、もしその空間が『磁界』で、コンパスが決まった規則による方向性を指すとしたら、その現象を電気磁気学でどのようにご説明為されますか。

その解釈には、『正の電荷』と『負の電荷』の間に何故引合う力が生まれると解釈するかの論理的説明が必要でしょう。『正』と『負』の間にどの様な力の概念が生まれると考えるかの論理性の問題でしかない。『電荷』には、運動力学の基本である『力』を生む対象の慣性は定義されていない筈です。物理学理論の『力』の定義に関わる基本問題の筈です。ニュートンの力学理論を御理解なさって居られれば、力と慣性は表裏一体の基本概念である筈です。『電荷』には慣性は定義されない筈です。なのに何故『力』が発生すると解釈できるのですか。

『磁気』に関しても同じ論理性の問題がある。N極とS極と言う定義概念の、その本質は何ですか。磁束が空間に伸びている像で捉えるようだ。『磁束』は力の原因となるのですか?『磁束』には力学理論の論理的対象としての『慣性』はやはり無い筈です。何故『慣性』の定義されないクーロンの法則が『力』の法則として成り立つと解釈されるのですか。『力』は慣性で抵抗があるからこそ生じる概念ではないのですか。慣性が無ければ、瞬時に無限速度で力の対象が消えてしまう筈です。それが科学の論理性ではありませんか。

電気磁気学と言う余りにも、現代物理学理論の根本理論であり乍ら、極めて曖昧な矛盾論が科学常識として大学で講義されている現状を如何に認識されているのでしょうか。

30数年前の『静電界は磁界を伴う』の実験的検証の意味を問うのです。

コンパスが示す道

今年初めに、磁気に関する記事をまとめた。文末に、「コンパスは自然世界の羅針儀 」。

電磁気学の要-Axial energy flow- (2019/03/03)で原子結合等もマグネットの機能が担っている事を述べた。

コンパスの指し示す意味が科学理論の本質の理解に欠かせないと思った。

コンパスは何故北を指すか?

誠に気が重い。筆者のような謂わば偏屈者が、伝統的で歴史の重みを背負った科学理論に異論を唱える事態をどう理解すれば良いかが分からず、途方に暮れる。

長い科学技術理論(電力工学の半導体電力制御論)に関わったお陰で、あらゆる電気理論の諸法則の深い意味を統合することによって、その関りに於いての矛盾が観えてきた。見えるもの 見えないもの (2015/03/12)にも『電荷』の意味を述べた。『電荷』と同じく『エネルギー』も目で見ることはできない。自然の眞髄は見えないものを観ることに尽きるかと思う。見えるは目で確認できるが、観るはその空間像を見ることが出来ないものを心で捉える意味と解釈する。

コンパスの磁極近傍空間に『エネルギー』が回転して流れていると観る。

『静電界は磁界を伴う』と表現した。しかしもう少し具体的な表現をすれば『静電界もエネルギーの回転流の場である』となろう。電界も磁界も同じ『エネルギー』の光速度流を解釈する技術的評価概念であると。

磁気コンパスの認識で、その磁極の Axial energy flow の方向の見えないものを観る作務であったと思う。何故マグネットの磁気は消えないかが不思議な疑問として残る。

世界は軸性エネルギー流によって創られた (2021/01/04)。

コンパスは自然世界の羅針儀 (2021/01/05)。

電線路の回路特性

電気理論と回路空間 (2021/07/29) で電気回路現象が電線路の空間に因る事を述べた。

決して、電気配線の導体内を電流や『電子』が流れることはない。しかし、現実の教育で子供たちに誤った科学論を押し付けているのだ。残念ながら、科学者が真剣に自然と向き合わないで来た結果であり、教育者が教える事に疑問を抱かないで過ごしてきた結果である。

もう少し、具体的に電気伝送技術からの『線路定数』の意味を掘り下げて、数式の解釈法を利用して解説しよう。

この解説は、基本的に電気現象の解釈で、物理学理論は全く役に立たないものである事を前提にしている。科学技術理論として、電圧や電流の概念を使い、学習することはとても大事な事である。それはあくまでも自然現象を人の生活に利用するための、簡便な解釈法としての技術理論である。日常生活での生活の術としての知識として重要である。しかし、物理学理論としては、それはあくまでも自然現象の真理を解明することを目的とした学問である筈だ。意味も分からない『電圧』や『電流』などの電気技術用語を利用して、如何にも自然の真理であるかの如くの教育は完全に間違っている。何時までも訳の分からない『電子』の空間像の実相を認識できずに、消化不良の気持ちを持ち続けなければならない不快な気分で居なければならない。そんな気持ちを子供たちに味わわせて過ごす教育の現状は許せない思いだ。

物理学理論の罪。『電圧』、『電流』で解説すること自体が、全く電気現象での物理的機能を知らない専門家という不思議な伝統組織群の話となっている。典型的な事が『電荷』や『電子』の空間像を真摯に描こうとして来なかった事にその原因があると思う。

空間に在る『エネルギー』を認識していない。

光がどの様な『エネルギー』であるかを、その自然に向き合って来なかった事、その事に対しては科学者に、特に物理学者にその責任がある。

その電気回路での空間特性と電線路空間構造の関係を示して、電気現象が『電子』などで解釈できるものでない事を示す。何時までも『電子』の在りもしない仮想概念に頼っていては益々、物理学の存在理由が問われることになる。考える科学論でなければならない。

電線路空間特性。分布定数回路空間の世界 (2019/10/14) による。

電線の太さdとその間隔Dが電気回路の特性のすべてを決定するのである。ただし、電線路空間の空間媒体の影響が大きく関わる。裸電線での回路空間としての解釈を上の図では示してある。実際の電線はビニル絶縁電線などである。金属導体の近傍空間がエネルギー分布に大きな意味を持っている。そこは普通はビニル絶縁体で被われている。だからその媒体の影響を強く受けることは認識する必要がある。また、エネルギーの分布は電圧の負側に偏ることも認識しなければならない。それが『エネルギーギャップ』と言うものだ。電気回路から物理学理論と教育 (2021/07/22)にその参考記事がある。

ここ迄の認識に至るには長い道のりがあった。筆者の過ち。それは、日本物理学会での2001年の発表での失態である。

28aYW9  プランク定数の次元と実在概念  日本物理学会、第58回年次大会。p.338.(2001).

実は、その内容を発表せずに、とんでもない御迷惑をお掛けしたことである。実は、電気学会での『静電界は磁界を伴う』の資料を会場に置き、その内容を話した。誠にお恥かしき限りだ。この発表に至る経過がある。2000年に新潟大学で、物理学会の大会が行われた。その大会がプランクの記念大会となっていた。その事を知って、翌年の2001年に発表するために用意した。考えてみれば、如何にその当時の、『電荷』概念への疑念を明らかにするべき研究の場を失う事への、自己に対する科学研究の責任と社会的不可解への怒りが心の奥にあったからとは思う。

その直接の切っ掛けは、物理学理論で「粒子性と波動性」の解決すべき課題があった。一つの現象を波動性と見るか粒子性と見るかの曖昧な未解決の問題があった。一つの物理現象が二つの見方で解釈しなければならないとは如何にも不可解であった。その解決は光を『エネルギー』の空間流として認識する以外ないと考えていた。その空間像を指数関数の表式で、提示したのである。曖昧な波動ではその空間的実体を理解できない。それでは物理学と言えないと考えた。その意味を示した。しかし、その事を理解するには、空間の電磁エネルギーの実像を認識しなければならないという意味で、『静電界は磁界を伴う』の意味を話した。電界と磁界は空間の『エネルギー』の分布をそれぞれの捉え方で解釈しているだけでしかないのだ。その意味で、発表に行き過ぎであったことをお詫びしなければならない。しかし、そのプランク定数の捉え方は間違いなかった。

プランク定数での疑問。余りにも有名であり乍ら、大きな謎、それはその『次元 [Js]』であった。最初の日本物理学会での発表も、[JHFM]と言う次元を明確に認識する事の大切さであった。

現在の認識は プランク定数の概念 (2018/07/17)に述べた。プランク定数の次元が [Js] である意味を考えれば、空間の伝播『エネルギー』の一つの単位とその通過時間の積だという事位は感覚的に思いつく筈だと思った。それ以外粒子性と波動性の矛盾は解決できないとその当時考えた。その空間に実在する『エネルギー』という認識が、物理学理論に欠かせない基本である筈だ。『電子』ではその『エネルギー』は理解できない筈だから。

関連記事。

27aZA-1  量子論の起源を問う 日本物理学会講演概要集 61-1-2. p.394. (2006).

30aXG-8  量子エネルギー mv² の空間 同上 61-1-2. p.329.  (2006).

23aWA-1  量子エネルギーのベクトル解析 同上 69-2-2.  p.291. (2006).

等で、光の空間エネルギー分布像を論じた。それらは、光とは何か?₋光量子像‐ (2012/01/15) に記した。

前の記事。質量とエネルギーに、光のエネルギーと質量の関係への思いを詩に託した。

質量 それはエネルギーの象形

エネルギー それは質量の解放像

エネルギーは 眠りで世界に現れる

その寝姿が質量である

エネルギーは不均衡を好む

その局限で質量となる

エネルギーは光で その本領を発揮する

光は 自然が託した 未来への伝言である

物理学理論と科学技術理論との関係をきちんと捉え直して、未来の教育をどのようにすべきかは皆が、一般市民が考えるべき問題と思う。それが教育行政に上手く反映することが民主主義の基本であるだろうから。

 

目から鱗(1969年ひと冬の経験)

(2021/06/04)。50年以上も前の事。今分かって思えば、長くボーっと過ごしてきたとお恥かしい限りだ。分かって書けば、躊躇もするが、それも人生と記して置きたい。昭和44年の2月、間借りの家に帰り着くと、月刊誌の「電気計算」が配達されていた。ペラペラとページをめくる。そこに「パワーエレクトロニクス」と言う電力制御の特集記事が載っていた。見た途端に、これが求める研修内容だと即断。30歳過ぎで、内地研修に行ける制度があると聞いていた。春4月に、ある先生にお願いして、東工大との繋がりをお世話して頂き、研修の準備をした。しかしそれっきりで、10月まで何の手続きもしていなかった。勿論新潟県教育委員会に研修願いもせず、学校長にも許可も得なかった。本当に申し訳の無いことと、当時の御迷惑を掛けた皆さんに謝らなければならない。そのまま10月から半年間、東京工業大学の電気工学科の宮入・片岡研究室で研修をさせて頂いた。住処も東工大の方にお世話いただき、大学の大岡山駅の近くに確保して頂いた。全く人任せで生きてきたようで感謝と🙇。勿論住所変更届の手続きもして居ない。長岡の住所のままか?それも行政上は問題ではないようだ。??給料も無い扱いだから??それは全くの独り善がりの、無責任な無断研修であったと今は分かった。その間「給与」の支給も無かった。だから何処の労働者の分類にも入らない事に成るか?1970年4月再び何の意識も無く、新潟県立新津工業高等学校に戻っていた。この事に対して、新潟県教育委員会からは何の御咎めも無かった。後で知ったが、校長は勇退という事で辞められたか?新潟県教育委員会の管理課から新しい校長が赴任してきた。筆者に処分辞令が無いという事は、新潟県教育委員会で採用した訳でもなく、日本国憲法に基づく行政法上の管理下の教員では無かったのかと考えざるを得ない。振り返れば、やはりそれは人生の暗い『ひと冬の経験』という事になるか。所謂存在が否定された『幽霊教員』のようだ。筆者の責任なのか日本政府の責任に帰するのか分からない(当時の内閣。第3次佐藤栄作内閣。第4次佐藤栄作内閣であった)。

電気回路技術と理論。

そのひと冬の経験であっても、電気技術については『目から鱗が落ちる』経験をした。それが現在までの長い電気回路現象の解析を推し進める原動力となった。その内容は、『トランジスターインバーター』の動作原理である。

電気理論と言えば、電源電圧は直流か正弦波しか知らなかった。教科書が学校の教育内容の基本的指針である。教科書編集者は教科書編集の過去からの伝統を守る、その事に対する専門家である。電気現象の原理を研究するような人は教科書を殆ど執筆などしないのかと。伝統的電気理論を学習してその意味を伝承する専門家が教科書を書く。だから新しい現象など殆ど知らない。その例が半導体による電力制御技術と言えよう。その中身は従来の電気理論では解釈できない現象がその技術の基礎となっている。今も不思議に思う事。それはその電力技術の専門家も決して『アンペアの法則』に疑問を唱える事などしない事実である。筆者が最初に感じたことは、これは電気理論が嘘という事か?であった。目から鱗と言う事件だった。今でもマクスウエル電磁場方程式を御教示成される大学物理学の専門家は、このトランジスタ制御の回路技術を学習することが必要ではないか。技術を知らない理論家は間違いを教育していることを自覚する必要があろう。僭越ながら申し上げる。それがトランジスタなどで自由に電圧波形を制御できるなど、正しく『目から鱗が落ちる』驚嘆の制御技術であった。その制御回路の一つがこのインバーター回路である。「**」 この回路動作には     ファラディーの法則 と アンペアの法則の理論の意味を吟味するべき基本的問題が含まれている。注目すべき問題は、変圧器に直流電圧を印加する点である。そこに励磁電流と磁束の関係が問題として浮かび上がる。

「**」印で改行するとここに飛んでしまう。何故か訳が分からない??

止む無くここから続ける。上の回路図はブログの初めの頃の記事のものだ。ファラディ電磁誘導則・アンペア周回積分則の物理学的矛盾 (2011/01/30)。この矛盾を抱えて、遭遇したのが長岡高専電気科での電磁気学の講義であった。電気磁気学など教えた経験もない。学生には誠に指導力のない講義であったと謝らなければならない。その1年間で益々疑問が膨らみ、それが結局『静電界は磁界を伴う』(1987年春)の実験結果の発表に繋がった。過去の不可解を背負って、其の後の訳も分からぬ道を歩み、今漸く初期の果たすべき役割を電気回路現象の『エネルギー』での統一的姿を捉えたかと思う処に居る。この10年間は障子戸に向かって、ブログ記事を通しての疑問との格闘であったようだ。正常でない、異常な毎日、家族の者には精神病の気違いと今でも罵られる始末。意味が分からない者にはそう取られて当然だ。何とか娑婆で少しは電気現象の話を取り上げて話したい。『電荷』否定の論拠を話したい。『電子』概念の間違いを話したい。そんな社会常識を覆すような話を取り上げて貰えるか?

特記事項。一体どのような職業人として、次のような研究をしたことになるのか?意味が分からなければ社会的な活動の場にどう関われば良いか、動きようがない。二年ほど前に大学に出向いてお尋ねしたら、退職していると言われた。本人は何も長岡技術科学大学での事務手続き等していない筈だが、どう解釈すれば良いか思案投げ首のまま?本当の原因が何かが分からない。矢張り新潟県教育委員会との関りか?

トランジスタインバーターによる単相誘導電動機の速度制御 昭和47年産業高等学校教員の産業教育に関する特別研究成果、第8集(当時は別冊)。財団法人 産業振興中央会。この研究が電気理論に疑問を抱いた決定的な事件となった。この報告を当時の学校長が読んで、私に校長室で尋ねた事があった。校長も電気が専門だったから、磁束が励磁電流でなく、電圧時間積分と言う科学技術理論に疑問を持って尋ねたのだろう。不思議に思っての確認だったようだ。それは当然で、電気理論で解釈できない事だから。

しかし今でも電気理論の教科書は変圧器動作は励磁電流による磁束がその基礎となっているだろう。今日、ファラディー電磁誘導則・アンペア周回積分則の物理学的矛盾の記事を見たら、二つのファイルが見れなくなっている。間違っているからかと確認したが正しかった。教科書の解釈を間違いと指摘したことがファイル削除の訳かも知れない。

 

の2図である。確かに教育現場としては大変な事件となろう。しかし自然現象として、『磁束』等『電荷』と同じく存在しないのである。電気技術として『磁束』を解釈手段に利用するのは一つの方便として有効である。しかし、自然界の原理を扱う「理科教育」ではそれは良くない教育法だ。そこの兼ね合いをどうするかが教育現場の課題なのだ。磁束概念は磁石などのマグネットの指向性でその存在を捉えたいのだろうが、『磁界』そのものの概念が電磁エネルギー流に対する直交の方向を解釈し易い方便として定義した仮の解釈概念でしかないのだ。マグネットや地磁気の方向性は電磁エネルギー流の空間現象を捉えた便利な解釈でしかないのだ。磁束が空間に存在すると物理的にその実在性を証明することが出来ますか。『磁束』を見れますか?それは『エネルギー』の空間の姿を見れないのと同じことではあるが、より多くの電磁気現象を総合的に評価することにおいて、それこそ俯瞰的に、より統合性が採れているかの判断が必要と考える。筆者もその電磁気現象の解説をしたかったが、職場が無ければ30年以上も役割を果たせなかった。ブログを通してようやく自信をもって述べることが出来る、所期の目的に到達できたが、教育にその意味を生かす手立てが不明だ。