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雷と科学論

雷様と呼ぶ。様付の自然現象・天空の光と音の饗宴。

誰もが知っている。ベンジャミン・フランクリンの名前も雷とのつながりで知っている。

恐ろしくて、恐怖も不思議な、知りたい科学論。しかし世界は存在もしない『電荷』で覆い尽くされているこの怪奇な科学理論の世界?そんな如何わしい科学理論の世界が許せない思いで再び取り上げる。

雷と電荷の物理 (2021/06/22) でも取り上げた。いつまでも未練を残して、専門家の科学論に抵抗する。電荷と科学リテラシー (2021/02/10)。

先日も「雷の正体」とgoogle で検索した。そこには子供たち向けの多くの解説記事が昇る。殆どが、上空の雲の中で、水蒸気から出来た氷が上昇時に、摩擦で電気が発生するとある。古くから研究所などの専門家がそのように話し、そのような解説をテレビで取り上げて放送している。筆者も雷の正体として記事を投稿している。7ページ目に検索に現れた。

日本の電力中央研究所の解説記事もそうだ。

何処でも、誰でも、特に科学者と言う研究者が『電荷』が自然界の基本物理量として唱え、主張して社会的専門家として敬われ、尊敬されている現実の世界の科学常識だ。

そんな中で、おそらくただ一人筆者は『電荷』など自然世界には存在しないと30年以上前から唱えてきた。

『雷』は自然科学理論の真相を解剖するに最適な論題である。

希望がある。

市民討論会で、論壇で有名な科学者と討論して、市民が視聴して判断する機会が在ればと。何処で、誰が、どの様な訳で、『電荷』が物理学理論の根幹を支える基礎概念となったのか。その真相を明らかにすることが科学教育、市民科学リテラシーの為に今こそ考える課題だ。子供たちに「嘘」の教育が為されてはいけないから。科学者の社会的責任の為にも。考えない科学理論は良くないよ!専門家と言う狭量科学理論からの開放の為に。

科学の市民による民主主義の論壇となれば。民主主義の科学論の土俵が欲しい。

物理学理論と市民感覚

物理学理論があらゆる科学論の基礎をなしていると、漠然と捉えられていると思う。しかし、科学者あるいは研究者など高度な学術研究に携わる方々はそれ程物理学理論を本当に、その研究の基礎として意識しているとは思えない。物理学理論が真に科学理論の基礎としての意義を持ってほしいと願わずにはいられない、それ程怪しい学術論に?

しかし、ここに述べる内容は、理数式による科学論らしからぬ文学のようであるかも知れないが御笑覧いただきたい。

(事ども削ぎ棄てて 世の煩いあるまじく 省かせ給えど)ー源氏物語 若菜下ー

今、その科学研究の最前線の一つが「医学・生理学」であろう。コロナウイルスに対する『ワクチン開発』とその接種等の最先端の話題が日常生活に密接に関わっている。その分野の科学論は筆者のような素人には余りにもその専門的科学技術の内容が高度過ぎて、全く理解の仕様が無い。例を挙げれば、採決した血液成分の分析など、その余りにも精度の高い結果が示されると、理解の限度を超えている。その成分分析は、一つ一つの成分分子構造を詳細に捉え、分離していると理解する。

一方、分子の化学結合構造はそれぞれの原子の結合によって捉えていると思う。その結合はどのような物理現象に因っているのかと考えると、全く理解の限度をやはり超えてしまう。

原子間の結合原理は何か?

化学論でも、高分子結合やDNAの二重らせん構造でもその原理は全て原子間の結合によって決まっているものと理解したい。二重らせん構造になるには、その基本は原子間の結合の方向性がその決め手になると思う。その方向性も原子間の結合原理が基になる筈だ。「原子構造」は核の周りを周回する外郭電子が取り巻いている事になっている。日常の生活空間感覚から推し量ると、その高速回転(どの程度の速度かは不明)している電子が隣の原子の電子との間で何故結合の機能を発揮できるかが理解できない。その程度の原子間結合認識で、先の血液分析技術との科学論的乖離を埋める能力を持ち合わせていない。その辺の解説は、それほど難しい話ではないと思うが、何処にも納得できるものが見えない。勿論、専門家用でない、一般の教科書にもないだろう。電子同士が「共有結合」するという最初の解説で、理解不能に陥る。何方もみんな御理解為さっているらしく、少しも疑問を抱く人はいないようだ。「共有結合」の仕組みを詳しくご解説頂くことからやっと、原子結合への理解の糸口も見付かるかと願っている。「共有」という言葉の詳しい電子同士の空間的関係性の具体像は、その機能が分かっているのだろうから、本当の基礎的内容でしかない筈だから、詳細に解説できない筈はないと思う。筆者のような、目の前の空間像でしか理解できない具体性を求める無能な者にはその具体的姿を日常用語で解説頂かなければ、中々その理論を信じられないのだ。何がどの様に『共有し合うか?』はそれほど難しい説明ではない筈だ。どの様な電子同士がクーロンの電荷排斥力に抗して、『共有』という結合の原理を発揮することが出来るかは、最も教科書の解説すべき課題と思う。その為には先ず、『電荷』および『電子』の存在の理由を現在の科学認識に基づいて明確に分かり易く解説するのが科学者に課せられた責務と思う。筆者には高校生の時からその「共有結合」の原理が分からず、分子結合の意味不明のまま今日に至った。そんな分子結合論などは生活には何の意味も持たない些細なことかも知れないが、卑しくも論理性をその根本に置くべき物理学理論で、その訳を明確に解説されないと、すべての科学理論と科学技術との間の不可解な溝が拡大し、専門家と市民の科学リテラシーの不可解な関係が増大する事に成る。それは又の機会に、マグネットが何故接合する力を発生できるのか?についても疑問を提起したい。科学理論が市民の理解できる易しい自然の原理により成り立っていて、誰もが疑問を抱かないものであると思うから。専門家とはそれが出来る方だと信じているから。

コロナウイルスと血液成分分析に関わる科学技術の専門性と市民(筆者だけかも知れないが)の科学認識の間の溝は埋まるのだろうか。余りにも筆者には遠い隔たりの壁となる。炭素のダイヤモンド結合、シリコン結晶などすべて余りにも幾何学的な美的結合を成している。電子が周回軌道を回転しながら、互いに回転し合う電子がどの様な空間的関係で、結合機能を発揮できると言うのか?そんな魔術的空間関係が可能な訳はないと筆者は考えてしまう。物理学理論の電子結合論が何処までも欺瞞性を匂わせているように思えて堪らない。電気回路には決して電子の出る幕は無いことから、電子論による科学理論の統合失調症を治療できないものかと失礼ながら空想してしまう。統合失調症と新潟県立病院に、病巣に閉じ込められた(平成2年12月)過去もある。その当時は、どう暴虐無人に近所に迷惑を掛けても、電荷概念の否定のためには研究発表の場がない事が許せない思いで居た頃の事情だ。科学論の不可解の根源を断ちたいが故に。丁度その年の春に、自然単位系 [JHFM]をまとめた。それは1998年4月、日本物理学会に入会させて頂き、初めて発表させて頂いたものになる(*)。

『電荷』の空間像を示すのは素粒子物理学の研究者の社会的責任と思う。『エネルギー』がどの様な素粒子から成り立つかを示すこともその一つと思う。物理学理論には空間を流れる『エネルギー』の認識が無いようだ。その『エネルギー』の代わりに『電子』などの概念を創造(人が考えて作り出した自然の解釈の創造の概念像)したように思う。

日々過ぎて行く日常生活において、SDGsという未来への科学技術との関係の問題でもあろう。日々のエネルギー消費増大による、蒸気タービン発電方式の科学技術への依存度の過剰が海の加熱エネルギー放出を招き、豪雨災害とフェーン現象性の灼熱環境を作り出している事を御理解頂きたい。この問題はどうも、脱炭素で置き換えられているようだ。原子力発電推奨の隠れ蓑として、海水温度上昇の弊害の意味が消されてしまう。科学理論と科学技術の関係の意味が曖昧になっている。エネルギー問題で、クーラーの電力消費とのイタチごっこ現象と思える。緑の森も消えたコンクリートジャングルが象徴的に未来を映し出しているようで恐ろしい。海の魚介類の生育環境を守る事は人の生活の基本を守る事になると思う。

(*) 2p-D-11 物理的概念とその次元。(参考):エネルギー[J(ジュール)]とJHFM単位系 (2011/12/18)。

コロナ放電の空間エネルギー

見えるもの 見えないもの (2015/03/12) 。にコロナ放電と電荷の関係が載っていた。今、電気回路の電圧の物理的意味が空間のエネルギーギャップだとの認識に到達した。『電荷』など自然界には存在しないとはっきりと理解できた。

不図上の記事を見ながら、疑問が浮かんだ。何で、コロナ放電はマイナス電極側が大きく成長するのか?と。以前は未だ分からなかったが、『エネルギーギャップ』の電圧概念が認識できていたから、直ぐに気付いた。これが、観照という意味なのかと思う。

電線の先端部には高電圧を掛けると『コロナ放電』が起きる。その放電の様子は、マイナス電極側が大きなコロナの伸びを呈する。プラス側も小さな放電の玉状の放電を示す。電気回路で、プラス側の電線路にはエネルギーは分布していないと解釈する。しかしコロナ放電がプラス側でもわずかに起きる。それはその電極近傍空間にエネルギーが分布するからだ。しかしコロナの発生は、電線などに突起状の極端な状況が無ければ起きない筈だ。

極性による放電現象の差は電極空間に生じる空間のエネルギー分布現象が原因であったと分かった。

これも昭和62年春の電気学会での発表『静電界は磁界を伴う』からの一つの結果でもある。その時拾った火中の栗の意味か?

結論。また一つの電気現象の解釈を通して、自然現象には『電荷』など全く無関係である事の証明となったと言える。

時と歩んだ世界

(2021/06/02)。10年以上ブログを投稿させて頂いている。感謝です。2010年2月に初めてpcと言うものに触れた。ワープロ代わりに購入した。しかし、ITに接続して新しい世界を知った。相手が見えない世界に、思いを表明してどの様な事が起きるか、その未知の世界に期待もあった。

ファラディー電磁誘導則・アンペア周回積分則の物理学的矛盾 (2011/0130) が初めの頃の一つの記事だ。この記事にだけ突然千件を超えるアクセスが起きた。

その中に、『インバータと磁束φ ④』が記事中にある。トランジスタでの電力制御を初めて知った驚きの技術として忘れることの出来ない記念のものである。電気理論と電気技術との乖離を認識するに欠かせない回路として挙げる。変圧器に直流電圧を印加すると言う考えられない驚きの回路だ。1969年秋の内地研修で経験した驚嘆の回路であった。この事は、目から鱗‥ (2021/06/05) の記事に述べた。

ここに「アンペアの法則」の矛盾が示されている。変圧器の磁束が励磁電流によって生じる訳ではない。電流概念を問う基点となった。

電流が導体内を流れる。しかし、その「プラスの電荷が流れる」と言う論理は無理であると分かったのだろう。だから負の電荷の『電子』が逆向きに導体内を流れると専門的解説が成される。その解説も、その論理的な責任ある理屈が示されているとは言えない。そこには専門家としての良心が見えない。筆者はただ電気回路の中に起きる自然現象としての『エネルギー』の振る舞いを感覚的な捉え方で、そこに寄り添いながら考察を進めてきた。それは余り学術的形式の論文としての表現には程遠いものでしかないだろう。その訳を考えると、学術的標準用語を使う程専門的な習熟もなく、理解が無いことが基にあるからだろう。だから勝手に自由に解釈する習慣が、余りにも学術理論の常識から離れてしまった感覚のままになってしまったのかも知れない。殆どの基礎的科学概念、物理学的概念を否定する処に立ってしまった。空間に実在する『エネルギー』の実相を、その象徴的具体例に『光』の空間像を描いて捉えている事に在ると思う。

光の相対速度と空間 (2020/06/08) 。プランク定数の概念 (2018/07/17) 。今はその光の意味を電気磁気現象を理解する基礎として認識して欲しい思いにある。それが時の成果と言えるかもしれない。

『静電界は磁界を伴う』。科学理論の世界が異なって見えた原点がこの発表に在る。とんでもない自然の認識に挑戦する賭けに挑まざるを得ない仕儀になった。幼稚な社会性の乏しい筆者には無理な科学論の道であった。何か最初から社会的な存在としての、憲法、行政法上の仕組みの中に組み込まれていなかったような思いに在る。集団体制にとっては邪魔者で、はみ出し者のようだった。古い事件のうろ覚えがある。貝野村役場が火事になった。貝野中学校が火事で焼失した。意味が分からない?信濃川で隔てられた小さな集落の貝野村が、更に二つに分かれた分村事件。我が家の土地がいつの間にか新潟県道に化けて、今でも踏み躙られている。

エネルギー考にまとめた。『エネルギー』一つに科学論の基礎概念を頼りに何とか辿り着いた。理科教育の未来の一つの方向性を示した。陰で応援が有ったから曲がりにもできた。感謝。

『エネルギー』一筋の道

(2021/02/24)。

1986(昭和61)年10月1日。『電荷』否定の起点。

1987年8月5日。電流棄却の旅立ち。

1988年8月。人生の断崖に途方に暮れて最後の研究論文投稿に賭ける。社会的組織との不調和。

そんなことを振り返りたくなる今の心境。昭和の時代から、世間の渡り方を知らずに、愚直に一つの『エネルギー』に惚れ、よくぞここ迄生きて来たかと自分を褒めたい。

自然の多様性は純粋に因って生まれた。自然こそ神の仕業か。電気理論が難しい訳。それは人間の難しさが創ったものだから。自然の純粋さに心が感応し難いからかも知れない。純粋さなど何の得にもならないから。光が空間のエネルギー分布の縦波である事を認識できるかに電気理論の意味の理解が掛かっているのかも知れない。

『エネルギー』の実像を求めて!利益につながらない学問は、経済的・精神的・社会的孤立で、自由に羽ばたけないと言う処に『学問の自由』の難しさがあるのかも知れない。

『エネルギー』一つに思いを込めた電気磁気現象の認識を述べたい。空間に展開する電磁気現象を論じようとすれば、そこには電界と磁界の概念が必要になる。その基礎概念である電界や磁界の物理的意味を深く掘り下げて考えた結果、それも人間が創り出した解釈理論の為の概念でしかなかったことに行き着いた。

『エネルギー』にもその在り様はさまざまである。それは物に入り込めば、温度の上昇として認識される。電気回路要素なら、電熱器の抵抗体に現れる姿だ。物の煮炊きの熱現象に成る。全て『エネルギー』の形だ。それを電気理論の電界と磁界との関りで見れば、上の図のように解釈できよう。空間を自由に流れるとき、その『エネルギー』を光と言う。少し伝送空間を制限された状態が、電気回路の電気エネルギーに成る。

少し理論的に解釈しようとすれば、電界と磁界でのその『エネルギー』の捉え方に成る。空間を伝播する『エネルギー』だから、空間の意味を解釈に取り入れなければならない。少なくても二つの解釈基準が必要だ。それが誘電率と透磁率に成る。その空間認識基準として直交したベクトル誘電率εo[F/m]とベクトル透磁率μo[H/m]を決めたい。それは電気回路であれば、回路定数の容量C[F/m]および誘導L[H/m]に通じるものである。

単位空間1[㎥]当たりの『エネルギー』の密度を w[J/㎥]とすれば、電界強度ベクトルE[V/m]は誘電率によって解釈することが出来る。磁界強度ベクトルH[A/m]も同じく、透磁率によって定義できる。

電界も磁界も基本的には同じ『エネルギー』の観方を変えた解釈概念と見做せる。だから、電界あるいは磁界が空間に独立に単独で存在することは有り得ないのだ。どちらも同じ『エネルギー』の観方を変えた解釈概念でしかないのだ。光の空間を伝播する『エネルギー』の姿を電界と磁界に分けて解釈するが、それも科学技術と言う見方での手法の故でしかないのだ。有名な「マックスウエルの電磁場方程式」も、具体的なパラボラアンテナの表面近くにその電界と磁界を描いてみれば、電界と磁界での解釈が矛盾であることが分かる筈だ。描けない筈だから。『エネルギー』の縦波としてしか表現できない筈だ。

冒頭の1986年10月1日『電荷』否定の起点ー『静電界は磁界を伴う』ー。そこに思いを馳せながら、その基礎論とする。

分布定数回路空間の世界

(2019/10/20)追記。とんでもない(コイルのエネルギー)が読まれた。今分布定数回路の電気現象を考える論理的根拠ともなった記事である。それは、2015年の変圧器の奇想天外診断(2015/06/03) の簡単な台所での実験結果に基づく理論と技術感覚の確信に基くものである。絶縁体内の空間を伝播するエネルギーの伝送認識の確信でもある。

はじめに

既に分布定数回路と実験に載せた。その発振器を組み立て、最初の試験をした時の写真。

 

 

その分布定数線路の寸法とその特性インピーダンス算定値500Ωとしていた。しかし、少し値が違っていた。当時は計算尺で算出した。そのための誤差であろう。この記事が初めての実験結果報告であった。算定式の係数276(=120π×(2.3026/π) =276.312)の算定根拠もようやく今回の数か月の問答で、理解できた。その中で、電気回路の真の物理現象を捉えることができた。電気回路はすべて、張られた電線によって構成されたその空間を伝送されるエネルギー流であると。光エネルギーが電線路空間を光速度で伝播する現象であると。その波長が長い交流波形であるかあるいは一定値の直流であるかに関わりなく、すべてエネルギーの空間光速度伝播現象であると分かった。結局電線内を電流などと言う電子が流れているという過去の物理学理論の認識は間違っており、捨て去らなければならないという事である。しかも、その空間を流れるエネルギー流を科学的実験によって測定あるいは観測することは不可能であるという事(この意味が理解し難いかも知れない。エネルギーの空間分布を捉える測定量の瞬時値は存在しないから。時間的経過あるいは空間的長さを含む意味でしかエネルギーは捉えられないから。エネルギーの瞬時値、波形はない。電力p[J/s]の意味と・の瞬時電力意味と同じ論理性の曖昧性。)も真理である。光速度で流れる光エネルギーの空間分布波形を観測できる訳はないから。それは哲学の領域であろう。そのことは科学的手法では自然の神髄を捉えることはできない限界があるという事実を示す意味でもある。どんなに科学技術の精度が高く進歩しても無理な限界がある。それが光速度の世界であろう。伝播光の単位の一粒の光の一波長の中のエネルギー分布密度など観測できないから。科学的手法による観測不可能の対象が科学論の論理に認められるかどうかの問題でもあろう。

 

回路構造係数と電気回路特性

光が真空自由空間を伝播する時の特性と電気回路の電気エネルギーが伝播する特性と異なる点は、その電線路の構造だけある。構造によって決まる自然対数系の構造係数k=(1/π)ln(2D/d)(無次元)を決めると、その導体によって囲まれた空間の構造だけで、回路定数が決まることが分かる。真空自由空間の透磁率μo=4π×10^-7^[H/m]および誘電率εo=(1/36π)×10^-9^ [F/m]とする。

構造係数    k=(1/π) ln(2D/d) =2.3026(1/π)log(2D/d) [1]

インダクタンス La= (μo/2)k [H/m]

キャパシタンス Ca=2εo/k [F/m]

が全ての回路の基本分布定数の基本形となる。

線路構造と回路定数。

構造係数k

数値をグラフにした。

 

 

 

 

 

平行2線式電線路 

所謂分布定数回路の基本構造である。

 

 

 

 

 

 

 

同軸ケーブル

通信用や電力用ケーブルで、絶縁体の誘電率の比誘電率εsとした場合の特性である。

 

 

 

 

三相送電線路

三相送電線系統の特性は線間距離Dを幾何学平均値で捉える。その線路定数は三相の相電圧を基本とするから、中性点に対する値となる。

 

 

 

 

 

導波管 

マイクロ波伝送回路に方形の空洞伝送路がある。この場合は普通のインダクタンスやキャパシタンスの意味が捉えにくい構造である。しかし電波信号はこの導体で囲まれた空間内を伝播する。如何にも電波エネルギーが自由空間の光エネルギーと同じく制限空間ではあるが、その空間を伝播すると理解しやすい例であろう。ただ特性インピーダンスZは他の場合のように、統一的な規則での評価はできない式だ。新版 無線工学Ⅰ伝送編 p.138. 宇田新太郎著 (丸善)による。波長比 λg/λ は管内速度の遅れを意味すると解釈する。伝播定数γ[s/m] が大きくなる意味と考える。

 

特性インピーダンスZ[Ω]のエネルギー伝送に対する物理的意味

電線路空間を伝送するエネルギーは基本的には真空自由空間の光エネルギー伝播現象と同じ特性を示す。光は空間をエネルギー共振現象として伝播すると解釈する。同じく電気回路のエネルギー伝送も、回路特性のインダクタンスL[H/m]と静電容量C[F/m]の間の共振現象として伝播すると解釈する。

電線路の空間エネルギー分布を電圧v[V]と電流i[A]と言う科学技術概念で表現すれば、それぞれのエネルギー空間分布はCv^2^[J/m]  Li^2^[J/m] と評価でき、次のようにエネルギー比で解釈する。

Li^2^/Cv^2^=1

(L/C) = (v/i)^2^            ∴ √(L/C) = v/i = Z [Ω]

という特性インピーダンスZ[Ω]の意味で捉える。

むすび

結論をまとめた。右の図のようになろう。電気回路理論と物理現象の関係を統一的にまとめられた。分布定数回路の問答を終わりにする。(2019/10/20図を訂正した。)

誠にお粗末なすべてが隠された不採用の人生であったことを知り、今基礎科学と大学の教育を考えた時、不思議な感慨を覚える。昭和33年夏、人生は故郷での河川土木工事の土方仕事の石の畚(モッコ)担ぎから始まった。東京に出て、人の姿を見て、生活の意味を知り再び浪人生活を親に許してもらった。昭和34年春から、神田の研数学館(今振り返って混乱している。初めてお願いに行ったとき、数学の試験で審査された。合格という事で許可された。しかし、受講料の話もなく、そのまま無料のままで1年間を過ごした。考えたら、お金を払った覚えがほとんどない。また、たぶん水道橋駅から定期券を使ったと思うが、その購入の覚えもない。一体、生活の意識もなく人生の意味も意識することもなく、何故ここまで来てしまったのか。何方かお教えいただけないでしょうか。考えれば、高等学校でも、大学でも授業料を支払った覚えが無いのだ。どこからも請求された覚えがない。???困惑のまま・・。同じく、電気学会でお世話になりながら、学会費を納入した覚えもない。新潟市の日銀支店から新潟大学の先生の地質調査のお手伝いのアルバイト賃金を連絡を受けて頂いたことがある。)での楽しい講義を聴きながら、東京都練馬区江古田の お宅(金川 昇 様)での下宿生活(ご主人に食事を作っていただいた恩義を重く感謝したい)。同宿のお勤めの方(多分、三浦様)に撮っていただいた当時の写真だ。その旅立ちの頃には思いも及ばなかった長い人生を歩んだ。その当時は、ただ研数学館と宿の往復だけの1年を過ごした。自慢は1時間の欠席もなしに通い徹したことかも。思い出せば、物理の講義が楽しかった。意味が分からなかったが「ダランベールの定理」という言葉が残っている。現代国語の講義も楽しかった。先生がよく問題を投げかけた。自分も挙手して答えていたことも楽しい思い出。お陰様で大学に入学できた。高等学校での化学の授業で、電子同士の共有結合の意味が理解できず、化学への劣等感を持った。折角大学に入学できたのに、何故か学問への喜びを得られず、無為に過ごしてしまったことを後悔している。高等学校で、生徒に教えることになって初めて、電気工学の勉強をした。その初めての実験がこの分布定数回路の組み立てと生徒実習への取入れだった。担当教科が、電子工学、電力設備(電熱・電灯)、電気機器更に発電工学および送配電工学とほとんどの科目を担当し、お陰様で勉強する機会に恵まれた。実験設備も多くの協力をいただいた。旧い柵(シガラミ)のない新設高校であったからと考えれば感謝しなければとも思う。しかし、新潟県立新津工業高校の教員として、新潟県教育委員会では採用されていない不覚の職歴。大学でも文部省共済組合にも加入していなかったことを知れば、それも影のアルバイト人材だったのか。舞鶴鎮守府の戦後処理にその根本原因があると、政府からの回答を待とう。

ある事情(介護)のためこの9年間、自由な行動ができずに来た。学術機関誌での科学論文を発表する訳でもなく、一人壁に向かって、ひたすら己の感覚と向き合いながらの科学問答をしてきたようだ。筆者の場合はお陰様で、このブログ記事を書きながら見えないお方とのつながりを頼りに自己問答をしてきた。身についた技術感覚を基に、物理学的基礎概念への疑念・疑問を自己問答として納得する答えを求めてきた。面壁達磨の苦行とは違うが、全く人との科学論をすることもなく、また学術研究論文もほとんど見ることもない、科学研究者の雰囲気もない異常な生活であった。ただ日本語での思考による結果であった。

『静電界は磁界を伴う』の全く分野の違う物理学理論の根幹への思考研究を始めて、身分の消された中で考えてきた。日本雨蛙石の囁き聞こえますかなど身近な自然世界の深さに触れ、さらに光の空間エネルギー分布の光量子像プランク定数の概念を自然の深さとしてとらえ、それらの自然現象から見る科学技術の基礎概念用語(電圧・電流)の意味も繰り返しの問答によって、常識の科学論と異なる新感覚で、それを理解できる心境になった。その中での核心として『電荷』は自然界には決して存在し得ないと確信できた。常識論とは異なる自然科学的心境でもある。今こそ科学理論はその電荷否定から改めて始めなければならない筈だ。科学と哲学の問題として。自然の単純性と深遠性。『エネルギー』への道のり。そこに新しい教育を通した子供達への夢をも与え得る道が開ける。

光速度一定とは

はじめに
光とその伝播現象について、過去1世紀に亘って『特殊相対性理論』がその社会現象とも見做せるほど華やかな話題の中心を成してきた。世界は『電荷』と『質量』を持った素粒子から構成されているという基本認識にある。その中の『電子』も電気回路での役割を突き詰めれば、それは『エネルギー』の流れでしかない。エネルギーの塊を粒子と看做せば、それはあたかも質量を持った粒子とも見做せる特性を示すであろう。電磁波もエネルギー粗密分布の縦波であるから、光速度一定と言うことが示す意味を明確にするには、その速度の主体である電磁波と言う光を空間像として認識する必要がある。物理学理論で光の実相を空間認識として示すべき問題が残されている筈だ。光の粒子性と波動性と言う二つの解釈の間の曖昧さを統一して、その訳を明らかにしてこそ物理学の筈である。どんなに数式で論じても、光の実相を説明したことにはならない。『光速度一定』と言う事の中には、とても多くの問題を統一して論じなければならない意味が含まれている。一世紀前の電気磁気学論では対応できない筈だ。光が伝播するという空間をどのように定義するかも問われている。

光と電磁波とエネルギー
光とは何か?光の振動数とは何か?光の粒子性とは何か?その答えは空間のエネルギー分布として認識出来るかに掛っている。光は電磁波だと解説される。それなら電磁波とはどのようなものと捉えているのか。電磁波のエネルギーをどのように理解しているのか。放送局などの電波送信は大電力の放射設備である(東京のNHK放送電波の送信電力は300kWの大電力のようだ)。それはエネルギーの送信なのである。電磁波をどのようなエネルギー空間像で捉えているのか。まさか振動数でエネルギーを計算出来る訳がなかろう。放送電波の一つの波の半波長でもエネルギー空間分布波なのである。電界・磁界の方程式で評価するだけで、その波が電界・磁界から算定される空間に実在するエネルギーの分布波だと何故捉えないのかが人の思考の科学論の不思議な事である。放送電波も横波でなく、エネルギーの縦波の電波である。その認識が有って初めて光の意味が分かるはずだ。光の振動数ν[Hz]とプランク定数h[Js]から、光あるいは光量子のエネルギーをε=hν[J]と解釈するが、1秒間の振動数がどのような意味で光のエネルギーを評価出来ると考えるのか。そのエネルギーとはどんなエネルギーを評価したものか。その光量子の式の持つエネルギー量はただその周波数スペクトラムの構成基本粒子・光量子の一つの波の単位エネルギー量の意味を表現したものである。その作用性を評価する同一周波数の光の群の一粒のエネルギー量なのである。電気回路で解釈すれば、1サイクルは二つのエネルギーの山から成る。電気回路の電力の場合は、周波数が決まっているからスペクトルは単一周波数だけである。そこでは基本エネルギー量を規定はできない。電線路一回線に一つのエネルギー流波しかないから。また、電力に負の解釈が有っても、エネルギーに負は無い。1秒間ではエネルギー総量はその山の2倍周波数を掛けた分になる。周波数f[Hz]の電力p[W]であれば、エネルギーの単位となる一山分はp/(2f)[J]のエネルギー量である。例えばf=50[Hz]の電力線なら、一山のエネルギーは3000[km]の長さに分布したエネルギー波となる。そんな長い送電線はなかろう。だから一般の電線路のエネルギー分布は、その線路全体に亘って殆ど直流分布と看做せるエネルギー空間分布が時間的に変動しているようなものとなる。電線路のエネルギーはそのように空間的に捉えられる。そこには電線導体内の電子流などと言う解釈は意味を成さない。さて、そこで光のエネルギーはどのように捉えるかとなる。光が電磁波だと言うなら、電磁波は空間を電線路無しに伝播する訳だから、電線路伝送エネルギーと同じく空間に分布したエネルギー伝播現象である。電磁波と同じと言う光も当然空間を伝播するエネルギー波の筈である。 ε=hν[J]  この式にどんなエネルギーが見えますか?空間エネルギー像が描けますか。光の空間エネルギー像をプランク定数と振動数でどのように認識できるかの物理の問題である。この式による光量子のエネルギーと言う意味はその振動数の光の量子的効果を認識できる点にある。その波長の光は物質に作用する時、他の波長の光と異なることを認識できるという点で有効な捉え方が出来る式である。その理由、訳を知るには何故振動数がどのようなエネルギーの意味を生み出すかを説明しなければならない筈だが、それは困難であろう。何故その振動数が重要な意味を持つかを理解するには、光の作用性としての空間的特徴を知らなければ分からない筈だ。その意味で、前の記事光量子空間像(D線)が参考になれば良いと思う。末尾にマックスウエルの電波伝播方程式に関係して、電磁波の伝播現象の図を載せた。一般には電界と磁界とに因った、基本的な結ぶ付きで論じられるが、電界は必要がないとした。その訳は、今までの長い電磁気現象の総合的な考察によって、空間エネルギーの形態は二つに分けられると解釈する。空間伝播の直線的流れのエネルギーと磁気的と解釈する軸性エネルギー回転流の二つに大別出来よう。空間を光速度で伝播するエネルギー流が、光を含めて電線路エネルギー流などにも見られる、その基本的姿である。それに対して直線的に伝送しないエネルギー流即ちある空間に留まったエネルギーの形態がある。それがマグネットのような軸性回転エネルギー流になる。地磁気のようなものも地球表面上に沿って回転している軸性エネルギー流と看做せる。少し解釈を広げれば、そのエネルギー流が基本的には地球の回転の原因となっているエネルギー流と解釈したい。そのような磁気と看做す局所的(地球表面と言う広さではあるがやはり局所的である)軸性エネルギー流を基礎に置けば、その直交方向を電界と解釈しているに過ぎないのだ。『電荷』がない以上電界が存在する根拠も無くなる。「少し述べて置きたい。無負荷電線路のエネルギー分布は電圧と言う概念に対応した電線路コンデンサの空間貯蔵エネルギーの様相で認識するが、電源電圧の時間的変動に対応してエネルギーの流れはあるから、単なるコンデンサ回路とは異なる。しかし無負荷で有れば、長い電線路コンデンサ負荷とも見做せる。その場合、コンデンサ充電の伝送エネルギー流と電線路空間の一点に生じるエネルギー流は電線路導体に直交した軸性エネルギー流の形態を取るかとも思われる。もし電源が一定直流電圧なら、その電圧・電界の様相は軸性エネルギー流となろう。」空間の磁界をマグネットのコンパスでその存在を検出できるが、電界を検出する器具は無い。電磁現象を示す『エネルギー』に静止状態は無く、光速度流にあると観て良かろう。『エネルギー』の静止とは原子内のマグネットの軸性エネルギー流となる、質量化された状態と看做せよう。

光の伝播空間と速度
光は観測者の為に伝播する訳ではない。光は空間に放射された瞬間からその空間の特性に従って伝播する。水の中、空気の密度、ガラスの中あるいは障壁の存在などその伝播媒体の特性や空間構造に従った速度、方向で伝播する。光速度の基準は理想的な真空空間と考える。観測者が光の伝播にどのような相対速度で観測しようと、それには一切無関係に光は伝播空間の特性で決まる速度で伝播する。その基準空間座標を「光規定空間」と定義する。所謂『絶対空間』である。『特殊相対性理論』とは全く違う。観測者が『光規定空間』に対してどのような速度にであるかによって、光との関係はすべて普通の『相対速度』として観測される。何も特殊な関係は無い。例えば仮の話であるが、絶対空間に対して光速度のロケットから光を放射したとする。光は光源から離れた瞬間に、放射方向に一定の光速度で伝播する。ロケットの速度には全く関係しない。ロケットの進行方向の前方に放射すれば、ロケットの観測者から見れば光の速度即ち相対速度はゼロとなる。エネルギーの塊と一緒に進むことになり、どんどん高密度エネルギーの中に進むことになり、高熱に焼かれるだろう。決して特殊な現象は起きない。光は空間エネルギー分布の縦波であるから。半波長でもエネルギー密度分布波であるから。振動数がエネルギーとなる訳ではないから。その絶対空間がどのような座標と看做せばよいかは分からない。太陽がその絶対空間に対してどのような運航をしているかも分からない。光が真空の空間で『光速度一定』で伝播する空間を『光規定空間』と定義するだけである。何者にも支配されないで光が伝播する空間、それが『光規定空間』である。その空間を人は認識できないかもしれない。当然地球表面では空気の影響も受け、地球の自転・公転によって天空からの光はすべて相対的なものとなる。

『光速度一定』と相対速度

光と言う物理的評価対象はエネルギーの自由空間での光速度伝播現象として認識出来る。その空間での伝播速度が『一定光速度』だと解釈する。宇宙からの到達光を速度を持って運動している地球上から観測すれば、光の一定速度での伝播に対して必ず観測は相対速度になる。しかも空気が有れば、真空とは異なり或る意味空気も誘電体と看做せる。それは観測に掛らない程の真空との差であるかも知れないが。しかし『特殊相対性理論』での『光速度一定』と言う意味は、光が主体的ではなく、人間の解釈が主体的になる捉え方になっている。人から見て光は一定と解釈してよいという意味である。日常生活で、朝日が山の端に顔を出す時、その太陽光は金色に輝く。日が沈む夕日になれば、赤方偏移で赤い夕焼けになる。同じ太陽光線が地球の回転との関係で観測は必ず相対速度で観測されるからの現象である。ドップラー効果と言いながら、光の空間エネルギー密度波の解釈がない為に、いろいろ解釈が混乱しているようだ。日常の感覚的認識が高度の数式解釈の物理学理論より自然を理解するには重要である。相対速度は光を観測するその光のエネルギー分布の波頭値が観測波長の短縮・伸長により変化することに表れる。それがドップラー効果と言う現象である。朝日と夕日の意味も波頭値の変化が原因である。光の空間エネルギー分布の認識が基本に無ければ、『光速度一定』の意味も理解できない筈だ。

(参考) 電磁波の伝播現象の図

アンテナから放射される直前は電気回路のエネルギーである。そこでは閉じた軸性エネルギー流の状態と解釈した。断面は閉じた円環のNS極となっている。図のようなエネルギー流が電波として放射された時点で、光速度のエネルギーの縦波となり、ただ空間エネルギー分布密度波となると解釈した。障害やアンテナによって電波が光速度伝播を止められた時点で、軸性エネルギー流になると解釈する。エネルギーの静止と言う状態は、『静電界は磁界を伴う』の実験でのロゴウスキー電極間の環状軸性エネルギー流の磁場としての流れになると考える。要するに電界と言うのは軸性エネルギー流に対して直交した方向を評価した概念でしかない。それが『電荷』を必要としない解釈である。

 

強誘電体のエネルギー特性

コンデンサ材料としてチタン酸バリウムが使われている。それは強誘電体と言われるセラミックスである。チタン酸バリウム(セラミックスの基礎)にその特性として、誘電性、焦電性および圧電性の意味が解説されている。特に圧電性の具体例として、電子ライターの点火現象に興味を持った。

主な3つの特性を合わせ考えると、基本的には『エネルギー』で統一して捉えることが出来よう。『電荷』否定と『エネルギー』による統一解釈を探って。

%e5%bc%b7%e8%aa%98%e9%9b%bb%e4%bd%93%e7%89%b9%e6%80%a7強誘電体特性 チタン酸バリウムのような強誘電体はその存在する空間のエネルギー(電気、熱および衝撃圧力)によってその内部貯蔵エネルギーが変化する現象であると統一的に捉えることが出来よう。電気も温度も圧力もその基本量は『エネルギー』で単位はジュールである。

電子ライターの着火特性 全くの素人で、セラミックコンデンサは昔多く利用したが、強誘電体の物理的特性など考えた事もない。しかし先日コンデンサのエネルギー貯蔵特性で、磁気ループで解釈しようかと考えたが、この強誘電体特性の意味を知ってから、磁気ループでの解釈は無理であろうと考え直した(2019/06/14追記)何故このように磁気ループが無理と考え直したか意味が理解できない。前の記事で、エネルギー貯蔵の空間的壁とその解放がこの強誘電体の解釈に巧く当てはまると考えた。電子ライターの着火現象は衝撃圧力エネルギーによって、セラミックスの格子構造が変化し、その貯蔵エネルギーの許容量が変わるために余分なエネルギーが火花として解放される現象と捉えたい。その意味を実験的に確認する方法として考えることがある。着火現象は環境の温度によって影響を受ける筈だ。衝撃圧力で放射されたエネルギーは常温ならすぐに回復し、次の火花放射に備えられる。しかし温度が零下で低くなれば、貯蔵エネルギーも量的に少なくなると観る。温度特性に火花放電の影響が現れる筈だ。

キログラムの定義改定とアボガドロ定数

科学理論の信憑性を問う。お願いしたい事がある。筆者がこれ程までに、自然科学の基礎理論に疑念を抱く様な世界標準の話にしないで欲しい。どうか筆者が抱く疑念を的確に誤りと論断して欲しい。誰もが知らない事として無視しているとしか思えない。只通り過ぎるを待つ世界のように思える。
日本物理学会誌 解説 キログラムの定義改定に向けた質量標準の開発動向 (Vol.69, No.9, 2014 p.604-p.612) を興味深く読み進んだ。数式が少なく、何とか読めるので期待した。専門的用語も始めてみて勉強になった。-Keyword-ワットバランス法やX線結晶密度法の意味する内容が何かも分かった。納得できた訳ではないが。読みながら、最初に壁に突き当たった事は、図3として説明されている意味である。その図の描き写しが下図である。シリコン結晶の単位胞

何しろ、干渉計にも触れた事が無く、X線回折法の原理も中々理解できない。そんな素人が上の図3を見て、シリコン結晶の単位胞を一辺aの立方体と読み取る。図の中のシリコン原子の数はとても8個には見えない。ワザワザこの図で説明するのに、どういう意味を込めたのかが分からない。全てのシリコンの結合手は4価とすれば、2価しか描かれていないものもあり、その辺も分かりにくい。何故8個のシリコンと成るのか。アボガドロ定数算定の基準数である8個の意味で壁に当たってしまった。(アボガドロ定数N=8M/(ρa^3^) の8である。)X線結晶密度法を検索した。産総研で測定したアボガドロ定数、物理定数を決定する国際機関で採用 にその意義が示されてある。この産総研の記事で質量標準の改定の意味も示されていよう。

学会誌の解説記事を読んで思う事 キログラムの再定義方法とワットバランス法およびX線結晶密度法のそれぞれの意味が解説されている。具体的な質量原器に代わる標準原子質量の改定の手法の比較で示されている。しかし、その中で、基準とする定数がとても多いと感じた。最初の疑問は、質量とエネルギーの関係で、E=mc^2=hνの周波数νで光子のエネルギーを認識する解釈が、エネルギーを光子の数量(無限数でもエネルギーは同じとの解釈?)に無関係で論じる論理について行けない。質量mが幾らでも良いと同じ意味になろう。1万個の光子も1個の光子も同じエネルギー量という量子論は技術感覚からは納得できない。次の疑問。質量定義には、アボガドロ定数とプランク定数のどちらかを不確かさの無い定数として定義してしまえば、・・という解説。プランク定数の空間的概念を捉える解釈を、光とは何か?-光量子像ーに示した。元もと、プランクが測定した実験の測定値の物理的意味が曖昧である。エネルギーの何を測定したかが不明である。計測法の基礎概念を明確に示さなければ、質量原器の算定も定義に危うさを残す。光そのものの振動数の意味をどのように解釈するかも問われる筈だ。光は振動等していない。エネルギーの縦波である。質量算定基準に、電子のモル質量、微細構造定数、リュードベリ定数などが必要という。更にアンペア、ケルビン及びモルの定義にも、電荷素量e、ボルツマン定数k、アボガドロ定数Nから算定されるように読めるが、そんな存在もしない電荷などで定義するとは信じ難い。現在も、アンペアの定義を平行導線間に働く力の計測で解釈している。導線内に電流等流れていない、電流は流れず

キログラムの新しい定義がもたらすものという解説 キログラム、アンペア、ケルビン、モルの基準がそれぞれプランク定数h、電荷素量e、ボルツマン定数k、アボガドロ定数N_Aに移行するとの事。ここで、電荷素量やアンペアの定義が平行導線間の力測定によると言う点で、全く未来性がない。物理定数でなく、専門業界定数としか見えない。アボガドロ定数とは何か にも疑問を呈したが、今回国際機関で採用された定数値は気体の高分子にも適用できるアボガドロ定数なのだろうか。電流の測定値の桁数との誤差論はどう修正するのだろうか?厳密性という意味が理解できない。

学習と考える

『学習』と『考える』という間にある意味の違いを『考え』てみる。筆者が今、辿り着いたと思う自然科学の世界は今までの教科書的科学論とは余りにも懸け離れたところにある。それは現代物理学の世界的に認識された、科学常識の理論と全く異なるものである。何故人と異なる考えに到達したのかと、その原因を手繰り寄せてみたい。その事を『考える』という言葉の意味の中に探ってみたいと思った。『考える』という意味には、今までと異なる、あるいは自分が知っている事・知識と異なる物事に新しく挑戦して、より理解などを深めるという意味があるように思う。兎に角自分にとって新しい局面を切り開く場合に『考える』という意味が当てはまると思う。学校で、はじめて学習する場合の、学習内容も当然その『考える』中に当てはまるだろう。ところがその学習内容を、十分納得して、理解するまで考えるかという問題がある。教科書の内容はあるいは先生が教えることはすべて正しいと、『考える』事をせずに済ましていないかという問題である。『学習』は一通り教室で、先生の言う事を聞いて過ぎればそれで済んでしまう。誰もが社会的常識として広く合意を得ている内容なら、それを素直に受け入れるのが普通の理解の仕方である。だから耳や目で確認し、一つの認識の過程を通り過ぎれば『学習』の形体は成り立つ。『学習』という文字の意味をどのように解釈するかとなると、『学習』と『考える』の二通りの意味に分かれるように思う。辞書を引いて、『学習』という意味を理解すれば、それは『学習』であろう。しかし『学習』という意味を自分で辞書にある意味以外にもう少し深く、あるいは自分なりの解釈を付けると成るとそれは『考える』の意味に近くなると思う。もともと『学習』の文字を見れば、『習』は習うという意味で、むしろ考えるというより慣れる・習熟するという意味に成ろう。『学』も中々意味深長で、簡単には片付けられない。しかし『習』より学ぶという事で、『考える』比重が重くなるように思う。そんな意味の二文字で、割合軽く習うこと、あるいは習熟の仕方を学びとるぐらいに解釈してよさそうに思う。

『考える』 人それぞれに学び方に特徴があろう。自分の事で恐縮であるが、記憶力が極端に劣ると悲観していた。何故そうなったかは何らかの理由があると思う。所謂『学習』があまり得意でない。言い換えれば、偏っていると思う。記憶の訓練を怠って来たから、脳が記憶の訓練を十分しなかった為に、その機能が劣ってしまったと思う。脳はそれぞれの成長過程で、それなりの訓練と鍛え方で、その脳の機能は個人的な特性を備えるものと考えている。その事は『基礎科学』とは何だろうに示した。記憶力を鍛えなかったが故にか、全て理屈を付けて理解するより脳に蓄える術が無いように成ったか。だから理屈は強いと思う。本を読む時も、遅い分それは本当かと疑いながら読み進む傾向にある。自分の感覚と付き合わせながらそれを理解する。上の『基礎科学』云々も勝手に自分の考えをまとめただけで、全くの素人論でしかない。しかし、筆者は誠に気に入っている解釈である。それは自分の考え方の方向性を感覚的に捉えて書き表したからかも知れない。どこにも無い、あるいは常識を覆すようなことを表現するには相当『考える』作業が要求される。不図気がついて、過去の記事を読んでみた。學力とはの筆墨がある。似た記事に知識と智慧を書いていた。偏屈な自分の考え方が記事の中に溢れている。悪い癖は皮肉が多い事と思いながらも、自分の記事を読み返して、中味は良かったかと確認をする。その時の想いであれば止むを得ないと覚悟して。

教育者側 先生といわれる立場の方々は既に教科書の教科内容については十分知識を備えている。だから、改めて教育内容について『考える』事をほとんど必要とは思わない。特に教育法を工夫して、その積み重ねを続けることによって、益々自信を持ちその社会的常識のルールから逸れる事は決して許されないと思う事に成る。それはその人の『脳機能』の方向性が固まってしまい、常に物事の考え方が専門という業界方式から外れられない。極めて保守的な思考形態に縛られてしまう。一つの教育内容や教育方法を守り、少しの手直し程度で十分改革的だと考える。だから、決して原理・原則・法則を疑う等という根本的な思考の『考え』は浮かばない。捨てる事がどんなに心細いかは、その経験以外に知る術はない。昭和62年夏、人に信じられない『電流概念』の破棄を電磁界研究会での表明を記した。しかも自分の身分が全く暗闇の中に居ることを薄々感じながらの覚悟。その覚悟は今も間違っていなかったと気持ちの昂ぶりを誘う。決して教師は自分の積み重ねた過去の指導内容を捨てる事は出来ないだろう。それは同じ内容の教育にしか携わらないから、他の観方が出来ない環境にあるからがその原因である。ここで断っておかなければならない点は、自分が今になればとても恵まれた(?)環境であったと言える。長岡技術科学大学から追放されて、長岡工業高等専門学校で抹殺の為の全く異分野の教科を指導した経験である。高等学校でも教えた事の無い教科『電気磁気学』を突然高専の4,5年生に指導する事に成った点である。専門らしき分野は『半導体静止電力変換回路』の開発であったが、突然の電気磁気学の指導は精神的な負担が大きく、そのストレスが神経を過敏に研ぎ澄ませた事も一因だろうと思う。しかも教科書も無い演習であれば、全て手作りの授業である。ポインチングベクトルで全てを解釈する授業体制を採った。そんな授業はどこにも無かろう。アンペアーの法則、ファラディの法則などに矛盾がある事を授業内容の中で認識を強める事に成った。これらは教科書の内容を否定する事であるから、『考える』そのものの意味に成る。授業内容が現在の筆者の自然科学認識を生み出してくれたのだと感謝すべきかと思う。

『電荷』否定 科学概念の中で、最も根源的な基礎概念が『電荷』である。その存在を否定すれば、もはや科学論として成り立たないと見られる。何故そんな『電荷』否定に到達したかを『考える』事の意味に触れながら論じたい。 『電荷』否定への道でその詳細を述べたい。『電荷』の否定以外真の自然科学の未来は開けない。

戻り方は『考え』られない 自然科学の矛盾は納得できる解決が可能。しかし、舞鶴鎮守府、「香取丸」戸籍の行政問題の矛盾は納得できる解決の仕方が見えない。私は何者でしょう(3)故郷貝野村と舞鶴鎮守府