タグ別アーカイブ: 電荷は存在せず

自然・科学・哲学

科学、自然科学について様々な面から眺めて来た。その過程で、闇雲に取っ付いて彷徨う事も多かった。今まで何かを求めて来たが、何を得たかも分からない。ただ、少し安心出来る精神的なゆとりを得たかもしれない。昔「臨教審」で話題となった「ゆとり」の意味が理解出来たかもしれない。(自分のゆとりを得たかもしれないと言う意味は、余り学問として常識化している学術的専門領域に囚われないで自由に自然を観測し、解釈をしてもそれ程「誤った結論」には成らないかの安心と言う意味で?)現在の「学校教育態勢」は、残念ながらまた以前の「詰め込み教育態勢」に逆戻りしてしまった。子供達は忙しく、机に向かう時間だけが増えて、余裕の中に生まれる「個性的発想」の余地は無くなるだろう。自然・科学・哲学そんな中で、今思う事を筆にしてみた。生物多様性の世界が、この地球星の宝物である。それは「自然」の世界である。人が関わる世界は自然を犠牲にして築いて来た世界である。先日も「日本かわうそ」の絶滅が表明された。その生物多様な世界を破壊する人の活動の一つが「科学」と言う分野で捉えられよう。科学的知見である「生命科学」のDNA一つを採り上げても、「何故DNAか?」の本質には答えられないのである。光とプリズムの関係を採り上げても、本質的理解には到達できないのである。「科学」とは人の社会の世界観でしかない。自然を理解しているかと言えば、殆ど知らない世界と言って良かろう。法則で捉えるが、それなりの仮想的社会評価の手段の一つでしかない。そこに『哲学』と言う分野が生まれる。自然科学と言う言葉を使う。『自然』と「科学」を合わせた使い方である。自然科学の意味は、自然を分析して、その本質を分かり易く理解する手法を整えるぐらいの捉え方で良かろう。しかし、標題のように『自然』と『科学』を分けた訳は、そこにそれぞれに特有な意味の違いが有る事に視点を絞って解釈してみようと考えた。

自然 nature  改めて自然とは何かを考えてみたい。字句の意味は「自ずから燃える」であろう。自然の特徴は束縛されない自由にあろう。自然は全裸無垢の生命と観た。植物も動物もその生きざまを精いっぱい生かし切ることに専念している。何も隠しだてが無い。人も初めから衣服を纏う事は無かっただろう。群生する草木、群れをなす動物などそれぞれの生命の生態は多様である。地球の生命の多様性を見て、その全てが水、海、風、陽、土、時の偶然と必然の運命に任されて、産まれたと解釈できよう。植物と水の初めの産まれ来た謎ー天然の精水ーは解けないが、生命と生命の関わり合いで地球の歴史の歩みに盛者必衰の影を残して現在に至ると見られよう。その来し方も僅かな手掛かりで推測するしか知りえない。例えば、化石と硯もその謎を見せる。人類もその自然の一部として生まれて来た。この人類を自然の生命の多様性の一部として見ようとすると、人間だけは他と違うと異論が聞こえそうだ。何故この人類を地球に生んだかは自然の意味を解くにも大きな疑問にして良かろう。確実に言える事は、地球に人類を生む必然性と偶然が有った。それも謎である。今の地球の環境に思いを馳せれば、人類は現在の地球上の生命の全てを入れ替える為の仕組みに生み出した「神=自然」の仕掛けかもしれない。未来に辿り行く先に生命の危機が仕掛けられていると。全てが「自然」の力である。地殻変動も地球の中心部からの必然的要請で有れば、どんな「天変地異」が有っても、想定外などとは言えない筈だ。人知を超えた地球の営みの上に人類も踊らされていると見て良い。核兵器も人間の驕りによる、その自然破壊の引き金としての人類自身の仕掛けとも見られよう。人類に『智慧』が有れば未来を切り開けようが?こんな自然の見方は、反発・非難の対象となろう。

科学 science  自然の本質・真実を説き明かそうとする学問が「自然科学」であろう。他にも科学と付く学問分野は数知れない。社会系の科学は、人を理解するには謎が多過ぎる、人の集団化に伴う行動、それ等を社会性と見た解釈など対象とした学問の重要な分野の科学をなしている。しかし、時と言う尺度に乗せて、その科学論を眺めれば、その論理が本当に『真理、原理』として間違いなかったと言いきれない場合も多かろう。社会科学は言うに及ばず、自然科学においてさえ、多くの怪しさに包まれている。何故そんな事に成っているかを考えて置くことが未来に対して重要と思う。その事は、科学は人間的世界観でしかないからと言い切れよう。人がその時代時代で、諍い、抗争あるいは戦争の宿命の中でより有利な権力支配の標準的評価基準を纏める手法として構築して来たものであるからであろう。時代に合う『法則・原理』の有効性を求めて来たと考える。社会的な原則で、「国家」と言う統治概念の正当性もその意味の中で解釈する事も出来よう。「国家」と言う存在形式が絶対的真理とは言えない筈だ。自然科学も歴史の中で、それぞれの時代の偉人達によって、その努力の賜物として生み出された『法則・原理』である。しかし、時代が変われば、その解釈も変わるのである。特に自然科学に於いては、自然は複雑性を持ち合わせていない。その自然の原理・原則は「単純性」にこそその特徴を秘めている。だからこそ複雑な多様性を実現できるのである。ここで一つ言わせて頂きたい。世界を構成する素粒子が17個と言う論を信じる事は出来ない。特にヒッグス粒子が質量を生む基の素粒子などと言う科学論は受け入れられない。そんなに複雑性は無いと考える。質量はエネルギーの局所化した姿である。『エネルギーと質量の等価性』はヒッグス粒子を必要としない。ヒッグス粒子の不可解

哲学 哲学と言うと大変難しい学問と見るかも知れない。しかし、その意味は簡単な内容と思う。実践では困難が伴うだけであろう。哲学は破壊、恐怖そして安心。哲学は孤独である。それを筆に表した。「デカンショ節」も昔の唄になる。昔、蛮カラ学生の街に自動車も無い時代の良き学生の高揚歌であった。デカルト、カントあるいはショーペンハウエルと得意になって口にした哲学の話も今は昔だ。知識はITで検索でき、携帯端末の電磁器械と話をする。大学の哲学も哲学の歴史教育になる。本来哲学は時代を切り取り、新しい解釈をする学問と思う。新しい解釈は大学での教育としては困難が大き過ぎよう。真の「哲学」は時代の常識を破壊し、社会との亀裂を覚悟し、恐怖に打ち勝たなければ、新しい解釈は唱えられないから。その行き着く先に、透徹した眼力が無ければ、最後まで辿り着く事は至難の業であるから。そんな哲学の道は学生には向かない。決して集団での活動に、真の革新は生まれないと考える。孤独での自分との戦いに入るのが哲学と思う。自分が納得する為の道程であろうから。単純な言葉で表現すれば、哲学は気違いと世間から罵られる懼れの道である。哲学は社会常識を破壊する道である。今でも科学常識は『電荷』が物理学、科学理論の基礎概念と捉えられている点に集約されよう。

ゆとり 精神的な安堵が得られれば、一安心と言えよう。しかしそれは「科学理論」の世界に対しての事でしかない。ゆとりが常識の中に潜む『嘘』を見抜く力を得たように思う点にあるだけでしかない。何百年と世界に浸透した社会常識は簡単には崩れないだろう。学校で使う理科の教科書を電荷や電流なしに書けないだろう。『電流』をどう取り上げるかが問われていよう。電流は流れず で電流の教育的意味を考えてみた。社会体制を維持するためには、真実と真理は都合が悪く見られ易いのだろう。地動説を唱えて、宗教裁判(1613)で「有罪」の宣告を受けて1633年に幽閉され、三百何十年後に名誉が回復されたと言う偉人、ガリレオ・ガリレイの例も有る。生活にゆとりが欲しい。

ファラディ電磁誘導則・アンペア周回積分則の物理学的矛盾

自然世界は不思議に満ちている。それ以上に人間世界は不可思議に満ちている。今、現代社会は情報通信を始め、科学技術に支配された世界を人は生きている。その科学技術を支えている基本原理を『物理学』と言う学問として学び、その真髄に迫ろうと皆努めてきた。にも拘らず、その学問『物理学』に疑問を抱き、その矛盾を指摘してきた。私は世界の姿の奥底にはとても信じられない『矛盾・虚偽』が隠されている事を確信せざるを得ない状況に至ってしまった。『電気磁気学』は『物理学』の1つの分野であるが、その一握りの事柄が「現代物理学」の根幹を揺るがす事にまでなるとは信じられない。原子理論はじめ全ての基の『電子電荷』を考えた事が始まりであった。『電子が動くと何故磁界が発生するか?』が始まりであった。今まで、『電流計は何を計るか』『磁界・磁気概念の本質』に述べてきたことである。それを物理学の教育と言う面から、「教科書」の中身を考えてみたい。

『ファラディの電磁誘導則』も『アンペアの周回積分則』も共に技術法則としてはこの上なく有用な法則である。慣れ親しむ程捨てにくくなる。しかし物理学的にはその論理性から見れば、欠陥に満ちている。磁束概念そのものの矛盾と、更に電流による磁束発生論理の矛盾を指摘したい。挿入ファイル6枚によって説明したい。先ず①で、教科書の説明を取り上げて、その矛盾を示す。コイルの傍で磁石を動かせばコイルに電圧が誘導される。その解釈に磁束鎖交で説明する事が論理的に間違っている。これは変圧器の解釈でも同じことである。

磁場空間における、規定条件     div B = 0  に従えば、磁束表現が矛盾なのである。

その点は後で説明する事にして、変圧器の技術的解釈で、磁束が電流によって発生すると言うことは間違いである。図版②の1次コイルに印加する電圧e1および2次コイルの起電力e2における式がそれぞれファラディの誘導起電力の法則を表現したものである。その式は磁束φと電圧eの関係を表しているが、電流は含まれていない。その起電力の式を書き換えれば、図版③に示す通り、磁束は『電圧時間積分』として決まることを表している。この事はコイルのインダクタンスに対する電流の解釈も改めなければならない。直流電流に対しても、コイルに印加された初期過渡電圧の時間積分値として磁束量が決定されると解釈しなければならない。この『電圧時間積分』と言う解釈は電力技術の分野では当たり前のことであるが、電気理論の教科書では目新しい事であろうと思う。そこで、家庭電器の中に普通に取り入れられている「インバーター」を取り上げて、『電圧時間積分』を説明しておきたい。トランジスターとダイオードで一つのスイッチを構成し、4つのスイッチA,B,CおよびDの切り替えで直流電圧 E ボルトの方形波交流電圧を作る。その負荷の変圧器の磁束波形は一定直流電圧の時間積分として、一定勾配の直線状に増加する磁束波形φとなる。その磁束を発生すると解釈している「励磁電流 io」と言うものはほとんど変化せず、磁束の発生源とは言えないことを明確に示している。家庭用太陽光発電設備なども、このインバーター動作が基本技術として応用されている事を考えて、そのスイッチの動作モードも波形の下に示しておきます。インバータの電圧eが正の区間①は、スイッチAとDが「on」となる。次にスイッチの切り替えで、BとCが「on」する前に、AとDを「off」しなければならない。その時余分なサージエネルギーを逃がす必要がある。それが②区間のダイオードを通して直流電源にエネルギーを回生する。ダイオードの重要な役目である。その後③の区間に移行する。以上が「インバータ」の基本動作である。さて、今まで「磁束φ」そのものが矛盾概念であるという点を説明せずに来た。divB=0と言う磁場規定と磁束による電磁誘導の説明は論理的に整合性が成り立たない。その点について、図版⑤として纏めた。ファラディの電磁誘導則という電気磁気学の

基礎理論の根幹を成す「磁束」を論理性が無いと否定することは技術者として耐えられない思いでいる。しかし、そこを認めない限りは新しい『真理』に到達する未来を拓く事は出来ない。

自然科学と言う大きな学問の全ての基礎に成る物理概念は非の撃ちようの無い真の姿で捉えたい。無駄や間違いによる混乱を避ける近道になる。最後の図版⑥として、アンペアの周回積分則の矛盾を取り上げる。電流と磁場の関係は、国際度量衡会議の「電流原器」にも採用されていると思う。しかし、私にはその『フレミングの左手の法則』の測定値が正しいとは信じられない。そのことを図版⑥で示す。コイルに電流計を繋ぎ、その指示値が I アンペアとする。コイルの近傍で3箇所の磁気状態を考えてみよう。(イ)は直線状の導線部。(ロ)はコイルの内部。(ハ)はコイル側面の外部。それら各部の磁場状態がアンペアの法則通りであるかどうかを考えてみる。(イ)の電線周りの磁束は、元々無い訳なので測定出来ない。当然コイル内の磁束も測定できない。しかし、(イ)も(ロ)も、共にその近傍には『エネルギー』の流れが実在する。そのエネルギーを検出する時に、『電流計』もその測定器の一つである。磁石で検知する事もエネルギーの存在を或る一面で捉えているのである。さて、アンペアの周回積分則が『真』であるならば、コイル外側部(ハ)の磁場はどのようであろうか。コイルに流れる電流が磁場を作ると言うなら、(ハ)にも磁場が出来て当然である。しかし、そこには磁気、磁束は出来ないのである。コイル電線の傍で磁気が無いのは何故かと『問答』をしなければならない。結論は、電線の中に『電流』など流れていないのである。しかも電流の基が『電子』となれば、そんな電子が電線の中を流れたからと言って、電線の外に磁気を作りだす訳がありません。電子には磁性保有の特質は定義されていません。負の電荷と質量のみで定義されているのです。電子が電線内を直線状に運動したとしたら、金属の電線の外に、どのような訳で、磁場を作り出すと言うのでしょうか。空間で電子が加速されると、負の電荷に入る電気力線(電界)がどんな磁界を発生するのでしょうか。その解釈に疑問を抱いたのが『静電界は磁界を伴う』の実験的検証を実行した原点である。

アンペアの周回積分則 とは導線に流れる電流 I [A] とすると、その導線の周りの磁界を電線周りで一周積分を取ると、電線の電流値 I[A] に等しいと言う法則である。そんな電線周りの磁界を積分する実験的検証方法が有る訳で無い。しかし、昔の法則はどんなに新しい発見が有っても、古い法則は新しく正されることなく、教育の題材として大事に守られる。上のコイル外側部の場合で、その電線周りの積分を取ったら、どのように周回積分則が成り立つと言えるのだろうか。電流が流れ得ないのに、電線内を『電子』の『負の電荷』が流れて、導線外部に磁場を生じると言う極めて非論理的な解釈が、物理学世界を構築しているのである。『電荷』が導線内部に在って、その金属遮蔽に対して遮蔽の意味を無視した論理で、外部に磁界を創りだすという発想そのものが人間の論理と言う不思議な実情を示していると言わなければならない。科学論理の人間的奇妙な不思議さ、この法則を解剖してみると見えて来る。