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ヤッパリ『電荷』だ❓

(2021/07/03)。『電荷』否定への道 (2014/06/03)に思う。

今、矢張り勘違いでなかったと。科学論の根源概念を否定するなど正気の沙汰ではなかった。

しかし、『電荷』が何時どのように科学理論の岩盤となったかを考えると精々100年少しの期間であったように思う。

いま改めて、30年程の無駄と思える孤軍奮闘を振り返って感謝したい思いだ。

多くの物理学の歴史で、ラザフォードの原子論やアインシュタインの特殊相対性理論などについて、改めて物理学理論の意味を考える具体的な考察対象になるような気がする。何か素人の物理学論と笑われそうだが。『電荷』だけは自然世界には存在しないと確信した。新潟県立十日町高等学校の化学の授業で「共有結合」の意味が理解できずに、化学の学習を諦めた事を思い出す。

雷と電荷の物理

(2021/06/22)。とても興味ある記事が手元に在る。

雷の正体(2012/11/13) 「(注)この記事も一つの図が勝手に見えなくなっている。今日その訳は?新潟県議会 の記事で「日本国憲法との関係を述べた」その事例だ。??」

は筆者の記事だ。それに対して次の記事は所謂専門家の記事だ。『電荷』が自然界に存在するか、しないかで別れる観方だ。

「雷の物理とその観測技術」が日本物理学会誌 Vol.71, No.4, 2016 。話題として解説されている。ところどころ色鉛筆で下線を引いて注目した跡も残した解説である。

長く電気回路現象の物理的理屈を考えてきた。結論は電気回路に『電荷』は無意味な概念で、そんな物理量が自然世界に存在する訳はないと確信するに至った。

だから専門家が解説する「雷」の物理現象解釈は全く間違っているとしか言えない。『電荷』など存在しないから、他の解釈に因らなければ意味が無い説だ。

雷の特徴は何か?

『ピッカ』と光の放射を伴う。先ずその光は何が光になったのかを解説しなければ、物理学とは言えない。その光が『エネルギー』と理解しているのか?『エネルギー保存則』と言う物理現象の根本原理をどの様に専門家は意識しているか?『エネルギー』の意識無しの物理論は全く信用できない。それは自然を観ようと意識しておらず、物理学論を論じているだけでしかない。それも専門的解釈論で。

その専門家の論理は、勿論電気回路での『電荷』や『エネルギー』の役割など考えたことも無い中での解説論であると思う。

見えるもの 見えないもの (2015/03/12)。雷は見えるがその本質は見えないようだ。本質は『熱エネルギー』だ。

 

科学論と検証

(2021/06/16) 。科学論は客観的な検証が要求される。

科学論に限界は無いのか?どのように検証すればよいか。

ロゴウスキー電極とエネルギー流

科学的な計測が出来ない現象。ロゴウスキー電極間の静電界と言う科学概念は『電荷』によって発生すると解釈されていた。しかし、電荷を否定する科学論はその検証法があるだろうか。電極間のエネルギーの流れを唱えても、そのエネルギーを測定する実験的方法が分からない。それは丁度、光のエネルギー流を実験的に測定することと同じように思う。

ロゴウスキー電極間空間のエネルギー流がどの様であるかは分からない。その科学的論証方法はあるだろうか。特に電極中心部のエネルギーの流れが如何に在るか?

新世界への扉‐コンデンサの磁界‐ (2011/02/17) 。

 

大学入試問題例(エネルギー問題)

基礎ほど難しい。『電荷』と『エネルギー』の間の問題。記事の文末に追記した。電気現象の解釈矛盾の最大問題、それが電池が『エネルギー』の供給源であるとの認識の欠落であると理解した。論理性の欠落が科学論の課題だ。電気回路技術論は貴重な実用における技術科学文化である事には変わりがない。『電子』による科学理論・物理学理論が自然現象の真理を説くものではない事である。『電荷』は決して自然界には存在しないのだ。そこで次の問題である。

大学入学試験で、次のような問題を課したなら。

【問題】上の図の電気回路で、電池をスイッチSでコンデンサにつないだ。次の問いに答えなさい。

(問1)電池は何を供給する機能用品ですか。

(答) (         )

(問2)コンデンサには何が貯まりますか。

(答) (         )

現在の教育課程で子供たちに教えている事に対して、その教育内容をどれだけ修得し、大学での進んだ高等教育を受けるに必要な能力を備えているかを見るのが入学試験の目的であろう。

答えは (エネルギー) でなければならない筈だ。

もし (電荷)と回答したら、おそらく教育内容を修得した効果が出た事に成りそうだ。特に、(問2)のコンデンサに電荷が貯まるとなれば、教育内容に沿うとなろう。

コンデンサの正電極側には電池からどのように『正の電荷』が貯まる事になるか。クーロンの法則に逆らって、どれ程の同じ『正の電荷』が密集できるのだろうか。

(2021/05/27)追記。コンデンサと電荷‥についての記事で、電流は流れないけれども電荷は貯まると❓ この解説記事は余りにも酷過ぎる。こんな内容を学習する羽目にある学習者はどうなるのか。間違いを世界に広げる手先になるのか。通商産業省は、こんな解説の試験問題が出題されるとすれば、受験生に対して誤った知識を要求する事に成る。これが科学技術論か? と言わなければならない事態になった事はとても悲しい。50年前に、筆者も電気主任技術者第二種免許(宮澤喜一通産大臣)の認定を受けた。当時の電気工事士、高圧電気工事士などの免許も取得した。電気回路の解析は得意だ。しかし残念ながら、電気技術理論は極めて重要な技術論ではあるが、それは自然界の真理からは程遠い科学技術用の仮想概念(自然の真理としては、電圧や電流の概念が)でしかないのだ。その理論的現状の混乱の責任は『現代物理学理論』が背負わなければならない問題である。更に子供達への教育の未来について、喫緊の課題として教育機関及び授業担当の教育者・教科書編集者がその責任を負わなければならないのだ。論理的矛盾に目をつむる事は許されない筈だ。科学技術理論と物理学理論の違いを明確にすることが求められている。

電気現象の基礎を深く考えると、だんだん科学理論と言う内容はその論理性が無いことに気付く筈なんだが?結局『電荷』と言う自然界に存在しない物理概念量を仮想して構築したところに問題が有ったのだ。

電荷Q[C]とは何だ❕

(2021/05/18) 。「電荷とは何か」と検索した。「受験物理ラボ」に筆者が指摘したかった電荷問題があった。参考にさせて頂く。

電荷の論理性 (2020/10/26)で取り上げた課題でもある。

『〈問題〉二つの電荷の帯電体があり、接触すると、電荷は幾らになるか。

〈回答〉二つに等しく分かれるから、

{4.0×10⁹ +(-6.0×10⁹) }/2 = -1.0×10⁹ [C]

の電荷量となる。』と言うような解説である。

電荷が自然界に実在すると言う科学認識に立てば、当然上のような問題が取り上げられてもおかしくない。それは科学常識の科学パラダイムであるとも言えよう。

ただ帯電体の形状と『電荷の保存則』に対して、どう理解すれば良いか少し疑義は在る。プラスの電荷とマイナスの電荷は相殺して消えてしまう事に成ると言うのも解る。もし、両電荷とも等量なら、

4.0×10⁹ +(-4.0×10⁹) = 0[C] 

と、ゼロ[C]になる。

ここで、この電荷概念の不可解な疑問が起きる。この世界で『実在』するものがその存在も無かった如く消え去るなど、『あの世の幽霊』の話としか考えられない。実在する物は光などの『エネルギー』から成り立つものである。コンデンサの電極に正と負の電荷が充電されたとする(実際は電荷などでなく、『エネルギー』の貯蔵であるが)。その電荷が合体して消滅したとする。その時ただ消滅するだけでなく、アーク放電などで火花として光の『エネルギー』が放射される筈である。それが技術の世界の現実である。

電荷Q[C]が空間に在ると科学パラダイム・物理学理論によって仮定する。

Q[C]とその周りの空間の物理学的状況をどの様に解釈するか?図は古い記事のものだ。

電界強度ベクトルE(r)[V/m]の空間点p(r)のエネルギー w(r) [J/m³]を認識する筈だ。それは電荷Q[C]がもたらした空間の『エネルギー』の筈だ。物理学理論でこの『エネルギー』を認識するか無視するかを確認してもらわなければならない。この程度の電気概念にきちんと解釈を示さなければ、物理学理論の教育的意義が無くなろう。この認識がマックスウエル電磁場方程式の『エネルギー』の解釈に繋がるのだ。電波が横波だ等と逃げてはいられない筈だ。電界も磁界も『エネルギー』に無関係では済まないのだ。

むすび。 電荷概念はそのエネルギーとの関係の論理的な収拾がつかないのではないか。電荷Q[C]が空間全体に無限遠方まで、『エネルギー』を伴う等となれば、理論の野放図な無責任論となる。市民が誰でも分かる理論である事が物理学理論に求められているのだ。教科書を書かれる方は、空間に表現する「電荷と電界とエネルギー」の関係を御理解されていると思う。曖昧な内容を教える事は子供たちに申し訳ない。教育機関及び関係者の課題である。

電荷の論理性

長い間科学論、特に電気理論でその基本概念に『電荷』がなっていた。原子理論も雷もみんな専門家の解説はそのプラスとマイナスの『電荷』が基礎に成っている。クーロンの法則で、電荷間の『力』が科学論の拠り所として長い伝統を支えている。

電荷に論理性が有るか?

余りにも素人らしい疑問であるが、プラスの『電荷』+Q[C] と マイナスの『電荷』-Q[C] が結合したら、そこには『何』が生まれるのか?

算数で、    (+1)+(-1)= X

の X は幾らか?と尋ねられた。

答えは     X = 0

となる。

『電荷』の場合はどのような論理性で解釈すれば良いか。理科教育の未来の希望を尋ねる問題としたい。子供達も学校の先生も考えて欲しい。

 

不可解な電荷

電気理論は易しいようで難しい。その訳の一つは数式で解釈する処に在るのだろう。数式で表現されると、数学的な内容を理解しようとして、電気的な現象の中味を理解する事に注ぐ余裕が無くなることも原因に成っていよう。後で不図不思議だとか、何故かと疑問が浮かんでも、考え直す時間的余裕がない為、後々までももやもやが残るのかと。ITなどに、質問で『電荷』とは何かと疑問が多いようだ。数学・数式は『電荷』が実在するかしないかを論証はできない。人が設定した条件・仮定の上での解釈しか論証できない。科学理論の根源的概念に、『電荷』、『質量』更に『光』あるいは『エネルギー』などを挙げて良かろう。それらの中で際立って不可解な物理量・概念が『電荷』である。多くの皆さんが自然界に実在すると考えているかと思うその『電荷』を否定する為に長い30年以上の道程を辿って来た。学術論の「雷」などもその『電荷』概念に基づいて論じられている。その『電荷』を考えることは、自然科学理論の何たるかを考えることにも通じることである。
《電荷問答》
初学者が後々疑問に思うだろうことを問答形式で取り上げたい。この辺の内容を授業をなさる先生方に良く汲み取って解説をして頂きたいと思ってもいる。授業の展開方法に、論理的矛盾は無いか?本質的に見過ごしている視点は無いか?本当に深く突き詰めて納得して教えているか?失礼を顧みず少し気掛かりな視点を取上げて論じてみたい。『電荷』とは実に不可解な概念であり、とても自然界に実在するとは信じられないから。

①クーロン力。クーロン力はこの世界には『正電荷』と『負電荷』の2種類の『電荷』が実在することを絶対的な科学理論の条件に据えて、その電荷間に働く力を数学的な式で表現した自然世界の法則である。と言うことが現在の電気理論の世界の科学常識となっている。その法則が論理的に矛盾だらけで、これが科学理論と言うものの実体を示しているのだ。ここでは高校生があるいは大学生が教室で学習する教科書の内容の意味を自分で解釈する手掛かりに成ればとの意味を込めた解説の心算でもある。本当のところは、電気工学や物理学を学んだ、その後の大学院生あるいは現役の先生方に考えて欲しい内容でもある。

《問答第1》 そこで、最初の『問答』となるのはその電荷の『正』と『負』の違いはどのようなことなのか?形が違うのか?大きさが違うのか?色が違うと言うことは無いだろう。何が『正』と『負』の違いを生む原因となっているのか?

《問答第2》 同じ電荷同士、『正』と『正』などは反発し合う。異種電荷同士、『正』と『負』の間では引き合う。それがクーロンの法則の基本的内容である。そのような力の掛り方が違う訳は、原因はどのような意味から起きる事か?科学論は理屈が大切であるから、因果律を大切にしたい。何か『電荷』の間の空間で異なる現象を生む理由が有ってこそ言えることであろう。

《問答第3》 図のように、+Q[C] や-q[C]で同じ『電荷』同士が集合する状態を説明に使うが、その集合する訳は何ですか。クーロンの法則に逆らって同符号の『電荷』が集合する理由は何ですか?それは雷の発生原因として学術論で論じられている解説の理由にもなることであろう。摩擦電気で『電荷』が『正』と『負』に分離し、同符号同士の『電荷』が集合すると言う論理にも関わることである。その集合の原因となる力は何ですか?

②コンデンサの充電・放電現象。コンデンサはエネルギーを貯蔵する回路機能素子である。しかし余り『エネルギー』を貯蔵すると言う解釈が示されていないようである。教科書では『エネルギー』より『電荷』の貯蔵機能素子と見られているようだ。『電荷』で解釈することが本当に『エネルギー』貯蔵機能として捉えられると言うのか?それは電気技術感覚から考えても無理に思える。本当に理解してもらいたい事は、感覚的にコンデンサの貯蔵という意味を、『エネルギー』の空間像として捉えて欲しいのである。『電荷』には『エネルギー』が見えないから。

《問答第4》 コンデンサの充電はどのようになされるか?直流電源のバッテリーB.にコンデンサ(容量C[F])を繋ぐ。たちどころに電極板の正と負側に『電荷』が『正』と『負』に分かれて集合すると解釈される。《問答第1》での『電荷』の2種類の話であるが、『正電荷』は基本的には陽子の電荷で、『負電荷』は電子の電荷となっている。しかし、陽子が自由に電子のようには移動するとは考えていないようだから、原子の電子が抜けた『ホール』と言う原子イオンを『正電荷』と看做して論理を組み立てているようだ。電極板の原子は移動できないから、その正電極板の金属原子の中の電子が負側の電極板まで速やかに移動しなければならないことになる。と言うことは直流電源のエネルギー供給の役割は正側電極板から電子を引き出し、負側の電極板まで運ぶことに費やされると考えるのだろうか?さて、コンデンサはエネルギーの貯蔵がその機能である。確かに電子を引き剥がして負側まで運ぶとなれば、仕事をすることになるとは言える。それでは何処でエネルギーが費やされるか?となる。コンデンサは電源のエネルギーのある分を受け持って貯蔵する役目であり、『エネルギー』は消費しない筈だ。エネルギーが費やされてしまうのはコンデンサの機能としては意味が違う。正電極板の原子から電子を引き剥がすにはエネルギーが要る。それはコンデンサの面目を潰すことに成り、許されない。原子から電子を剥ぎ取る力を電源がどのように働くのか?原子に対して電源の電圧は働きようがない筈だ。例えクーロン力(電荷間の)を仮定したとしても、直流電源の一方の端子だけでは何の電源電圧の役目も果たし得ない訳だから。勿論電源とコンデンサを繋ぐ導線内には電界は生じ得ない。この事は物理学会の専門家・学会発表の座長さえ電界が在るとの認識で有ったのは今でも驚きの一語に尽きるが。どのような意味で電界が有ると成るのかその辺から討論をしなければ話が噛み合わないのも確かなことである。導体内に、現在の物理学理論で解釈すれば、電界が在って初めて、電子が移動する可能性は生まれると解釈されている。電界で電荷に力が働くと言う理論そのものが自然の真理ではないのだが。しかしそれでもその科学常識の理論に従うとしても、そんな電界が電源電圧に因って、どのように導線内に生じると考えるのだろうか。結局、直流電圧で電極板に正と負の『電荷』を分離する理屈は成り立たない。当然直流電源が正と負の『電荷』を電源内部から供給する機能も同様に成り立たない。そこで初めて、電源の供給する『エネルギー』のコンデンサへの貯蔵がどのようになされるかの問題意識が生まれる筈だ。『電荷』でなく『エネルギー』の実在性を意識することが物理学の極める視点でなければならない。直流電源の負側の導線の近傍空間を通してコンデンサ内の空間に『エネルギー』が貯蔵されるのがこの場合の電磁現象の真相である。 

《問答第5》 電源が電池でなくて変圧器の場合も取上げた。はじめに、電池の場合は電池の『電荷』がコンデンサに供給されると解釈されるかと考えたが、上の《問答第4》でそれは無いことが分かったと思うから、変圧器を取上げる意味も無かったかもしれない。しかし、この変圧器電源ではコンデンサの『電荷』貯蔵機能は直流の場合よりさらに交流の為、極性まで交互に代わるだけ複雑になろう。『電子』は両極板の原子から剥ぎ取る機能の論理性を問うことになる。『電子』はそんなに光速度の速度対応は出来ない筈だ。それ程の論理的な困難が在っても、『電荷』『電子』で理論を構築するのかが問われる筈だ。それに対して『エネルギー』は光エネルギーのように、電線路空間を通してコンデンサ貯蔵機能に光速度の素早さで対応可能である。

むすび

『電子』論の矛盾を力学論から拾い上げて、アンペアの法則の論理的矛盾を解説する前にもう一度、『電荷』の持つ科学概念をサイエンスコミュニケーションの題材として取り上げた。ここでも数式に頼らないで、前の記事力の概念と電気物理に関係した意味で取上げた。

力の概念と電気物理

視点一つが世界を変える。加速度の存在しない物に『力の概念』は存在しない。『電荷』には加速度が生じない。

不図疑問が湧く。今までの認識に疑問が種となって、新たな世界が驚きの中に膨らむ。今回は『力』である。電気と言う目に見えない現象故に、その世界描写は数学的な表記によってとても抽象的に描かれる。多くの法則によって体系化された学術理論の世界である。科学理論の世界は長い歴史の重みを背負って、何百年の時に亘って専門家の追究の試練に曝されて生き残って来た学術理論である。その根幹を成している概念は『電荷』である。それはクーロンの法則と言う偉大な科学技術論を論ずる基幹法則として誰もが一度は聞いたことのある法則であろう。『電荷』間に働く『力』の意味を解釈する法則である。科学理論は社会的に認知された、学術機関の専門家が推奨する権威ある理論で、広く学校教育での標準教科書として取り上げられたものである。そんな理論の根幹の「電荷」を否定することは、社会的大きな混乱を引き起こすかもしれない畏れ多さを抱える事でもある。自分一人の科学技術感覚からの『電荷』否定の挑戦であった。クーロンの法則を斬る (2013/01/06) の記事から6年が過ぎた。今回その法則に関して、力学理論の『力』の概念から改めて『電荷』否定の論証視点が浮かび上がった。気付けば当たり前のことと思う様な『電荷』に潜む矛盾点である。

力学論の力の概念

運動力学の『力』とはどのようなものか。そんな疑問を抱くことに意味があるのかと思うかも知れない。力が働くという意味で感覚的に感じるのは力を掛ける対象に、力に逆らう反作用のような抵抗がそこにはある。それが慣性体としての質量の意味だと思う。運動力学で力が掛ると、その対象は力によって加速度運動に成る。もし力の対象が質量体で無かったなら、その対象はどのような運動に成るのだろうか。図の力の概念に示したように、質量M[kg]が力に逆らって速度の変化を受けないような作用があるから力を掛ける側に、対象に作用するという意味が生じるのだ。もし対象に質量がなかったら、加速度と言う概念は存在しない。

電荷と力

図1.電荷と電界と力

さて、電気物理学では『電荷』がすべての電気現象の理論的論拠となっている。電場に『電荷』が有れば、その『電荷』はその点の電界強度によって『力』を受けると成っている。(1)式のように、空間にある電荷集合体+Q[C]が有れば、その周りの空間は立体空間全体に電界強度E[V/m]で定義付けられると成っている。その空間に、他の『電荷』が存在するとその電界Eによって力を受ける。電荷が-q[C]とすれば、(2)、(3)式の力を『電荷』が受けると言う。(3)式が有名なクーロンの法則の式である。なお (r/r)は座標ベクトルrの方向を示す単位ベクトルの意味である。(2019/12/29)追記。以下の「・・」内の部分は間違いである。荷電粒子が電磁場で力を受けて運動云々の意味は電荷と電界の間で起きる筈がない。粒子加速実験では電界で加速などしていない。電磁石の磁場での加速と言う実験である。正と負の『電荷』による電界など作れない。『電荷』量の確定ができない筈だから。間違いは次の文章である。「荷電粒子が電磁場で力を受けて運動する現象は実際にあるから、確かに間違いとは言えない。」しかし、上に示したように、『力』の概念で述べたことも間違いではない。質量がなければ、『力』は掛からない。『電荷』に慣性は無いから、それは『力』の対象にはならない筈だ。もし力が掛れば慣性のない『電荷』は直ちに無限速度で飛んで消えて、運動論の対象にはならない。前にも、荷電粒子加速と電磁力 (2015/01/31)で問題にした。今回不図した思い付きで、『力』の概念について気付いたことが質量の慣性と言う意味であった。クーロンの法則を斬る (2013/01/06)で『電荷』とその上の(3)式の否定を論じた。今回はっきりと納得できたのが質量の慣性と言うものによって初めて『力』が意味を持つという事であった。それなら実際に電磁場と言う空間での荷電粒子加速現象はどのような意味なのかという自然世界の認識の課題である。実際の電磁場での粒子加速運動論には必ず質量を必要とするから、電子にも陽電子にもすべての粒子には必ず質量が付帯している。そこで一応運動力学論としての辻褄が合わせられている訳である。しかし電気回路の電流論に成ると、電流の単位アンペア[A]=[C/s]には決して質量は必要ないから、『電荷』だけで論じられることになる。この『電荷』と『力』の問題は、世界で実施されている荷電粒子加速実験の理論的根拠の問題でもあろうかと考える。

電荷と電磁場

もう一度電荷とその電界の意味を取上げて考えて置きたい。『電荷』の意味を考える時、とても不思議に思うことがある。或るプラスの正電荷の集合体が空間にあると設定されて解説される。クーロンの法則に直接関係する電磁場の論考に於いて、どのような原理で同一の符号の『電荷』が集合し得ると考えるのか。同一符号の『電荷』は離隔距離の2乗に反比例して強力に接近は拒否される筈である。子供達に教える教育の場で、クーロンの法則が取上げられて、説明される時には同一『電荷』の集合は排除されると教える筈である。しかし、図2.のようにいとも簡単に『電荷』の集合体で理論の解説が成される。これも科学論の不思議と言わなければならない。その時の集合電荷の離隔距離はおそらくゼロの意識で論理展開しているのだろう。ゼロの2乗分の1は無限大の排斥力となる。この事は教育者側の科学論の論理性の問題としても無視できない矛盾論の筈であろう。それはさて置き、問題は電荷周りの電磁場の意味である。図2.電荷とエネルギー のように空間の誘電率がεo[F/m]とすると、その空間のエネルギーをどのように理論的に解釈しているかという問題である。係数が(1/2)の問題はさて置くとして、一応wr=(1/2)εE^2^ [J/㎥]のような電界のエネルギーが空間にあると解釈する筈である。『電荷』からの空間距離rの関数として、『電荷』周りにはエネルギーが分布していると解釈してよかろう。しかし、物理学理論で空間の解釈をする時はこのようにエネルギーを認識している筈であるが、荷電粒子加速などの場合には、この空間エネルギーをどのように解釈しているのかはハッキリしていないようだ。このエネルギーの問題は理論物理学における『電荷』の概念の捉え方に関わる問題であるから。と言うのは、このエネルギーが空間に存在していると解釈するかどうかが最初に問わなければならない問題なのである。そのエネルギーは電界がある限り、空間の無限遠までも希薄になっても存在することになるからである。空間に存在すると解釈するなら、そのエネルギーを理論物理学ではどんな物理量と考えるのか。即ち『電荷』の一部なのか、『電荷』と無関係のエネルギーなのかと言うことを問う問答なのである。この解釈・考え方は至極幼稚な素人的素朴な疑問なのである。しかしこのような考え方が、理科教育・自然科学論に求められて居る易しさの科学論の姿勢であると考える。高度な数学的理論展開では、市民が理解し、納得する自然科学論にはならないから。本当の自然科学論は日常用語で解説できなければそれは正しいとは言えないのだ。何故このように『電荷』とその周辺空間のエネルギーの問題を論じるかは、高度な理論を展開されている専門の方々こそお分かりの筈であるから。ついでにもう一つ図2-1.電荷と力とエネルギーとして、単位電荷が空間に分布していたとする。この場合は、『電荷』間には複雑な力が掛ることに成り、その空間のエネルギー分布も正と負の電荷によって、種類の違うエネルギーが存在すると解釈するべきなのかなど理論的に決まりの付け難い問題が残るようだ。本来エネルギーには『正』と『負』は無く、ただ『エネルギー』が存在するかどうかの問題であるから。そういう意味で、物理学理論の易しい解釈を求めての論考である。易しい理論的解説は難しい数学や数式は必要がない筈だ。『電荷』が『エネルギー』を持っているか、いないかを答える事ぐらい難しい事ではなかろう。結局『電荷』とは何かを問うことである。電気磁気学、電気回路論あるいは電気工学のそれぞれの解釈の場で、『電荷』が如何なる実在量かの描像を示す事が求められていることと思う。それは次の謎解きの話になろう。

理論と電磁現象の間の謎解き

波形観測に欠かせない電気製品にオッシロスコープがある。電子銃からの電子ビームを平板電極間に通すと、その電極の電圧信号に従って、電子ビームの方向を制御できる。蛍光面にその制御されたビームの軌跡が波形を描く。その原理が電子電荷の空間電界による制御と解釈される。これが科学技術の電磁現象解釈原理となる。技術としてはその原理を理解することが必要であり、それだけで十分立派な電気技術者の仲間に入れる。教育もその意味で技術理論の習得への期待が国家の教育方針とされてきた。それはそれで良かった。『電荷』と言う概念を考え出して作り上げた意味はその為に有効であった。ところが、その科学技術用の理論を深く突き詰めると、とても曖昧で、論理性に絶えない矛盾が潜んでいることに気付く筈だ。科学技術教育ならそれでも良かった。しかし、自然現象を説き明かす物理学理論となれば、その矛盾を抱えて頬被(ホウカブリ)したままやり過ごす事はできない筈だ。ではそれはどんな矛盾で、何故理論が論理的で無いと言うかを説明しなければならないかも知れない。聡明な皆さんは既にお分かりの筈であろうが。その曖昧さを取り除くには、『電荷』が理論に絶えない概念であることを理解しなければならない。 f=q[v×B]+qE [N] の式で解釈するローレンツ力の力が掛る対象は電荷q[C]である。その式は質量が無い式だ。荷電粒子にこっそり質量が有ると条件付けられてはいるが、それは運動論を展開するには質量がなければ無理だからである。しかしあくまでも力の掛る対象は原理の式には『電荷』しかない。『電荷』には慣性がないから力が掛る対象にはなり得ないのである。しかし現実は、この式で解釈する通りの荷電粒子と認識する『電荷』のビームが制御される。この論理的不都合を解決する解釈法が一つあるのだ。それが『軸性エネルギー流』だ。電磁場空間内の空間電磁エネルギーの分布を理解する道である。『静電界は磁界を伴う』と言う奇妙な表現内容に鍵がある。電界と言う電場空間は、むしろ磁場空間なのである。磁場空間は磁束がある訳ではなく、軸性エネルギー流の場である。言ってみれば、『電子』も軸性エネルギー流子なのである。エネルギー流空間に電子と言う軸性エネルギー流子が通過すれば、エネルギー流同士の間の近接作用力が働くことになる。過去に載せた関連記事の図を挙げて置く。電子スピンとは?-その空間像-(2011/02/09)

素粒子-その実相-(2012/07/31)

エネルギー流と結合(2018/10/10)

むすび

問題の解決は『電荷』とは何かに答えることである。それはまた『電子』とは何かに答える事でもある。そこに未来の道が観えて来る筈だ。空間に実在するということは、その空間像を描くことでしか解決できない。抽象的な数式には姿が観えない。軸性エネルギー流は磁場と言う空間の物理的姿を示した空間像である。身近にあるマグネットのNSの磁極近傍の空間に在るエネルギーの流れの様子を示したものが軸性エネルギー流であり、それは磁極の表面空間を流れている回転エネルギー流である。その空間に実在するエネルギーを見ることはできない。それを計測することも、観測することも出来ない。その観えないものを『電子』などと捉えて、科学理論を構築して来たのである。『電荷』概念の矛盾に気づくなら、空間のエネルギーが(心にあるいは感覚的に)観えて来る筈だ。そのエネルギーに関する空間論は観測できないから科学論に成り得ないかもしれないが、そこに至らない限りは自然に心を添えないと言うことであろう。『エネルギー』を認識すれば、自然世界の本質が観えて来る筈だ。以上でクーロン力の矛盾についての論説は終わる。次の記事で、アンペアーの法則の回路電流における電子流の矛盾について述べたい。

哲学の意味?

今年は書き初めの代わりに、哲学の意味を考えた。

写真150哲学 日常に無関係な内容かもしれない。その文字に込められた、偉大な中国文明の漢字の意味を探りたくなった。

現代社会は人類の智慧を確認したくなる様相を示している。グローバルと言う経済競争で世界が利益を求めて混沌の中に彷徨っているようだ。先日、NHKの番組に法隆寺を尋ねる紹介があった。聖徳太子の願いが自然災害、疫病更に権力闘争の災いを無くしたい事にあっての建立であったのだろうと思う。世界は現在も宗教と言う信仰心で、それぞれの人心がまとまる事を願って営まれている筈である。宗教が昔からの智慧の拠り所として尊ばれて来た。しかし,今ますますその宗教が世界の対立の火種になっている。国家間の権力闘争と同じく、己の権力による支配を宗教と言う精神的呪縛力を利用した手段で危険な日常性を作り出している。そこに哲学の意味を重ねて考えて見た。今世界は哲学など、先を競って利益を獲得する為の経済競争の中では何の価値も認められない時代になったようだ。哲学など生活の足しには成らない。それどころか、経済性追求の意識には邪魔者かも知れない。人の幸せ、社会の安全より自己の経済力が社会支配の求める意識になっている。派遣労働による人の生活不安など政治は競争の正当性に隠して、社会的不健全性を広めている。そこには政治の正当性は見えない。格差は人の能力によって生まれても、それが当り前な社会制度と進める。こんな政治は間違っている。社会正義や哲学は意識外に押しやられる。

哲学の文字の意味を自己流で解釈してみた。

写真152文字の意味 勝手な自己流の解釈を付けた。今世界の智慧は宗教でなく、科学者にとって変わられたように見える。科学理論が人の理解を超えた内容になっており、如何にも科学理論が世界の真理を言い当てていると勘違いし易い状況を生み出している。『哲』の字の意味は昔優れた指導者を哲人とも言ったようだ。日常生活で、生活の道具や生活技術の優れた事を「手」の文字で言い当て、仲間を守る統率力を武力の優れた意味を「斤(マサカリ)」に託し、理屈や説得力を「口」の文字で表現したと。現代社会は、科学技術が生活の豊かさを労働の苦役から救った形で社会の基盤になった。生活の安全な有効性の限界を超えてしまった今は、「ドローン」等の危険な手放しの上空輸送まで正当化しようとしている。「ドローン」はひも付きの制御可能な安全性の範囲でしか利用できない筈である。「ドローン」を操縦する者には危険のリスクが無い。それが社会的危険となる。無人爆撃機も科学技術の許される規範を超えている。社会的安全性に歯止めを無くした人間の驕りの精神構造が世界に溢れている。考える事は踏み切れない壁がある事を自覚することでもあろう。考える事が哲学だ。そこに現代哲学の意味がある筈だ。福島原発の悲惨な事故とその後遺症も解決できずに、人の幸福に生きる権利を奪いながらも、政治はその事に対する哲学を忘却している。

科学技術や科学理論と哲学 大学の哲学学科は文学部に属している場合がほとんどであろう。古くは宗教がその担い手であっただろう。しかし哲学は現代の社会に直接かかわる事柄を考える事がその使命であると考える。本当に電気回路の導体に電流が流れると考えるのだろうか。金属導体の中を電子が電荷と質量を背負って移動すると考えるのだろうか。科学理論には論理的矛盾が多過ぎる。欲望と権力支配とが哲学を忘却している。電気回路一つを取上げて考えると、益々理解できない疑問に突き当たる。解った心算でいても、不図気付く疑問が膨らみだすのだ。

空理空論の法則を斬る

自然科学の根源的概念『電荷』によって全ての理論が構築されて来た。フランスの物理学者クーロン (Charles de Coulomb (1736-1806)) の功績をたたえて、その電荷の単位「クーロン」を[C]と頭文字で表記した。世界には二種類のプラスとマイナスの『電荷』があり、その二つの関係で、全ての自然現象が理解できると考えて来た。そのクーロンが唱えたと解釈するクーロンの法則がある。クーロンが活躍した時代は18世紀であろう。その唱えた法則がクーロンの法則であり、電荷間の距離の逆2乗に比例して、二つの間の力が決まると言う考えの法則である。距離の逆2乗則という。この距離の逆2乗則という自然解釈法は、ニュートンが最初に唱えたのかと理解している。余りにも有名なイギリスの物理学者で数学者の(Sir Isaac Newton (1642-1727))が地球上の落下現象を見て、全ての物の間には「万有引力」という力が働くと解釈した。その力が国際単位でニュートン[N]と決められ、二つの物体間の中心距離の逆2乗に比例した力[N]が生じると唱えた。クーロンはその法則が電荷間にも適用できると見做したのであろう。『電荷』否定から、電気的な意味はクーロンの法則を斬るで論じた。
『重力波』 現代物理学の研究対象として世界の物理学者の多くが取り組んでいる研究課題に『重力波』の観測がある。ニュートンの重力理論が宇宙にまで及んで、その星の生成・消滅時に『重力波』としての現象を検出しようと言う研究であろう。そんな衝撃波は何も『重力波』などではなく、普通の爆発の衝撃波でしかない。前に、NHKの朝のニュースで、トランポリンの振動に関係付けての『重力波』の解釈説明があったが、余りにも幼稚過ぎて話しに成らない『仮想話』と思った。そんな研究の原点もニュートンの万有引力則があるからである。

逆2乗則の変数『距離』の意味 何故『距離』が力の大きさを決める物理的原理と成るのか。そんなに『距離』は力の変化に影響を及ぼす意味を持つのか。筆者は『否』と主張する。皆何故かを考えていない。林檎が下から上空に向かって勝手に飛び上がる様な自然現象は決して無い。上から落ちるだけである。水力発電所の水の力も、水圧管を通して上下の落差で、はじめて有効なエネルギー源として利用可能である。決して逆な上下の力学的関係は起きない。だからニュートンが唱えた「万有引力の法則」が極めて理解し易い現象説明の法則に成っている。しかし、決して「万有引力則」も『クーロン則』も実験的に確認出来る訳ではない。実験的な検証はできないのだ。地球の質量など分かりっこない。『電荷』の量など検証できない。

クーロンの法則ー空論之法則ー 少し皮肉気味であるが、『電荷』など存在しない事を物理の基本に据えることが教育上避けられない。そんな緊急な教育上の意味も載せて皮肉交じりの絵図にした。

空論の法則斬り

標題『空理空論』の文字の意味 筆者も電気技術者の心算で電気工学に関係して来た。それが『電流』も『電荷』も自然世界の真理を理解するにはすべて邪魔物であると覚悟して来た。今考えれば、何と世界の自然科学が虚偽に満ちているかを認めなければならない事態に付き当たってしまったと面喰っている。自己否定から始まったような科学漫遊の旅もそろそろ終着駅に着く頃かも知れない。高度な数学式で表記される現代物理学の内容が、理論と成るとすべて怪しく観えてしまう。数学の現代科学技術社会を支えている実用性は極めて有意義であり、無くてはならないものになっている。しかし理論物理学に対しては、とても信用できるものとは納得できないで、自身でも困っている。日常生活者の視点で自然現象を観る姿勢が大変重要と感じる。

科学漫遊の旅 一介の中魚沼郡から出た田舎者。3年もの浪人生活でやっと大学入学を果たし、工学部、電気工学科卒である。今では学歴社会で、学卒等学術世界では価値が無いとみられる。しかし、今思うに世界の物理学の根本は私の科学的感性がひと際重要であると考える始末に成ってしまったことをどう取り繕えば良いかと収拾できない処で、結末を付けなければならない。自然科学という学問分野は裾野が広く、なかなか全体を見通すことは無理なようにも思えるが、世界に『実在』する『エネルギー』という物理量を感覚的に感じられれば、自然世界を思うがままに俯瞰する十分な基礎を会得したと考えて良かろう。『エネルギー』を認識するには、結局『電荷』を否定する事でしかない。『電荷』で科学理論を取り繕って来たことに科学の権威化を産み、市民から乖離してしまったと観る。筆者の辿った道はただ一つ『電荷』否定への道 (2014/06/03)であった。様々な分野を尋ね歩いたその様子を帆掛船ー面舵取舵梶の跡ーに纏めた。