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エネルギー その見えざる正体

見えないもの 世界を光によって見ることが出来る。しかし、その光を見ることは出来ない。光がどんな形をしているかは分からない。その光の形を科学的に検証して確かめることも出来ない。しかし光は世界の実在的物理量で、空間に実在する。光は空間エネルギー分布波であると言っても、そのエネルギー波を検出をする測定法は無いだろう。何しろ1秒間に30万キロメートルの速度で通過する空間エネルギーの密度波であるから。そのエネルギーの分布状態を計る測定法が見つかれば夢の世界が広がるのだが。 見えるもの 見えないもの  にも見えないものについて述べた。その科学的に測定・検証できない電磁波の空間エネルギーについて述べようと思う。エネルギー程自然世界の根源を成しながら、その姿を見ることが出来ない不思議なものもないと思うから。大学教育に求められる「電気磁気学」 はその眼に見えない空間エネルギー波が光の本質であることを理解することを求めたものである。その見えざる正体を電磁波の中に観ることを論じたい。 眼で見えない物を心で観る夢としたい。 

電磁波はエネルギー波

図1.電磁波とエネルギー分布 正弦波の電磁波はマックスウエル電磁場方程式の解釈により、電界E と磁界Hの直交したベクトルの波動として表現される。その電界と磁界の偏微分形式で方程式に表現されている。しかし、電界や磁界が空間にあると考えるなら、その空間にはエネルギーがあると解釈される筈であるが、エネルギー分布についての解釈は電気磁気学の電波伝搬現象には見えないようだ。エネルギー波という解釈の記述について見た記憶がない。何故なんだろうか。電波伝播現象ではない静止電磁場については電界エネルギー「(1/2)εE^2^[J]」とか磁界エネルギー「(1/2)μH^2^[J]」とかの解釈がされているにも拘らずである。光速度伝播での電磁界については空間エネルギーという概念が消えてしまう人間の不思議な科学的習性を観なければならないのかと。そこで、今回はその光速度伝播の電磁界についても空間エネルギーが実在するのだということを伝える為に、その正弦電磁波のエネルギー分布を描いてエネルギーの実在性を解説しようと考えた。電磁波の本質は電界や磁界ではなく、エネルギー波なのである。それが光が空間エネルギーの縦波だという解釈に通じる事の要になるのである。図のように、正弦波の波長λとすれば、その半波長 λ/2 の繰り返し正弦波分布波となる。実はこのエネルギー密度分布波δ[J/㎥]の空間伝播現象を解説しようと考えたとき、このエネルギー波の表現法に困惑してしまった。そのことで、前の記事、瞬時電磁界と概念になった。エネルギー波が電気磁気学で取り上げられない訳の一つに、その空間表現が困難であるからかも知れないと考えるに至った。それが見えないものを観る困難かとも思う。しかし、エネルギー単位量子という捉え方で電磁波のエネルギー縦波伝播現象の解釈が欠かせないと考え、その意味を解説したい。

エネルギー単位量子

図2.エネルギー単位量子 ε=(λ/2)(δの平均値)[J]  見ることのできない空間エネルギー分布密度波を、空間に図形表現してみたのが図2.である。石や花のように眼で見ることが出来るものは空間に描ける。平面表現であっても絵にして伝えられる。しかし、空間に実在すると言っても眼に見えない、形の表現のしようがないものを示す事は困難である。質量に付加される運動エネルギーは質量体とその速度を併記すれば、理解できよう。しかし、質量のないエネルギーは目に見えないから形に示せない。これは『禪問答』の部類かもしれない。そこを何とかご容赦頂いて論じさせて頂く。空間を伝播する電磁波は正弦波波長の半分の長さの空間エネルギー密度波の繰り返し波形である。今仮に単位面積あたりを通過するエネルギー波を考えれば、単位面積1[㎡]で長さλ/2[m]の体積のエネルギーε[J]の光速度の縦波伝送として捉えられる。それをエネルギー単位量子と定義する。

見えざる正体

見えない空間エネルギーは光の視界を遮ることもないから、そこに在るとは見えないのだ。電気コイルの中や磁石の周りにエネルギーが在ってもそれは目に見えないのだ。地磁気のエネルギー流が在ってもそれは目に見えないのだ。見えざる正体それが空間に実在するエネルギーなのだ。世界を構成する基であるエネルギー・素原の光がその代表なのだ。その見えざる正体のエネルギーが理科教育に求められる本源だ。サーフィンが夏の海に運動力学の絵を描く。津波とサーフィンは同じ水力学の形を見せている。波のエネルギーとは何かと尋ねれば、振動数が何とやらの解説が検索に出て来る。エネルギーの実在性が見えない理科の解説は間違いである。

『課題』が残る。光の波長はこの「λ/2」を捉えて今まで論じてきた。正弦波波長と光の波長との関係を明確にしなければならない。

過去から今まで

32  『静電界は磁界を伴う』 -この実験事実に基づく電磁界の本質ー

1.まえがき 現代物理学の基本概念に電磁界概念がある。しかし、マックスウエル電磁場方程式には時間的に変動しない電磁界いわゆる静電磁界に対してエネルギー伝播の概念は含まれていない。この解釈から「電荷も電流も時間的に不変である限り電気と磁気とは別々の現象である。」(1)という当然ともいえる結論が得られる。しかし、マックスウエル電磁場方程式をエネルギー伝播という観点から考察したとき、筆者は「電界あるいは磁界のみが単独に存在するような場は有り得ない。」という結論に到達せざるを得ない。・・・

と書き出した、1987年(昭和62年)4月の解釈から少しも進歩していない同じ事を論じ続けているようだ。

瞬時電磁界と概念

瞬時値とは 

電磁気現象を解釈するにも、そこには多くの条件が必要に思える。ある瞬間の電気現象を捉えようとすると、時間が止まった状態を考えなければならない。電圧や電流の瞬時値は幾らという表現をする。少し考えるとその表現には矛盾があるように思う。

電磁気量の概念

電磁気概念と時間 電気磁気学では、電界と磁界が空間場の電磁気現象を論じる時には欠かせない用語である。筆者は電磁場解釈で、瞬時電磁界という捉え方をする。誘電率εo[F/m]、透磁率μo[H/m]の空間に、電磁エネルギーの密度δ[J/㎥]があるとする。そのエネルギーを電気技術概念では電界E[v/m]あるいは磁界H[A/m]という概念で捉える。しかしこの空間に存在する『エネルギー』は質量には全く無関係の物理量であるが、物理学あるいは電気磁気学ではどのように認識しているのかが分からない。物理学での解釈では、エネルギーは仕事をする能力とされている。電磁波が光速度で伝播するのもエネルギーの空間密度波の光と同じ現象の筈である。電磁波は光の電磁気的捉え方として、横波の電界と磁界の波動伝播現象で説明される。しかしその解説には不思議にもエネルギーの意味が無いのだ。そのエネルギーの存在を忘れた解釈の欠陥を説明しようと考えたら、電界や磁界の物理的概念そのものを瞬時値という観方で問い直しておかなければならないと気付いた。そこで標題の『瞬時電磁界』という記事になった。そもそも電界とか磁界という用語がエネルギーの解釈上の科学技術的解釈でしかないのであるから、その意味についてまず考えておかなければならない。携帯端末で送信するのも電池に充電したエネルギーの放射なのである。そのエネルギーの波を波形で描こうとした時、矩形波や正弦波形などでの、その瞬時値という意味でハタと描き切れない困難に直面した。今までもエネルギー密度波を点点の密度表現で済ませていた。エネルギーが空間に実在することには間違いないのだが、その表現法に戸惑う。その辺の表現の困難さもあって、物理学概念での空間エネルギー分布概念の理解の困難さがあるのかも知れない。図に示したように、エネルギー評価するための技術的概念の電界や磁界の瞬時値の意味から確認し直しておこうと思った。電界は電圧が空間に掛るという意味であろう。真空空間に電圧が掛るるという電界の概念自体も不思議な意味である。空間の単位長さに表れる電流という磁界も同じことである。電圧[V]は誘導起電力で[Wb/s]、電荷概念から [C/F]の単位で定義されている。磁界に関係する電流[A]は[C/s]の単位である。電圧も電流も電気回路解釈で、瞬時波形として正弦波などの波形表現するのが科学常識になっている。さてその瞬時値とはどのようなものと考えるか。瞬時とは時間が止まった、時間経過の無い意味でなければならない筈だ。時間で微分する意味の極限概念として「飛ぶ矢は飛ばず」という説明を高校の数学で習った。(2018/10/26 追記訂正)この「飛ぶ矢は飛ばず」の矢は静止状態であるから、空間エネルギーが静止している状態として観れば、正しくその状態が瞬時値の意味に合致している。しかし時間で微分する単位・次元を考えると、極限値という意味は瞬時値とは違うと思う。だから時間に無関係に存在するものは何だろうかと考えると、そこに残る実在はやはり『エネルギー』ということになろう。エネルギー流をポインティングベクトルS で解釈するが、単位面積を単位時間に通過するエネルギー量の意味である。時間の経過1[s]間にという意味も瞬時値とは言えない。30数年前から『瞬時電磁界』などという表現を使ってきた。電界、磁界の用語も使えない“不立文字”の世界に迷い込むような『静電界は磁界を伴う』から辿りついたら、やっぱり『エネルギー』が世界の素原の道であったと確信するに至った。方位コンパスの周りのエネルギー流を見ることはできない。砂鉄模様を眺めてもエネルギー流は見えない。それは科学的検証の出来ない世界かも知れないが、磁気の本質がそこにある。そこに科学の未来を観たい。エネルギーの瞬時空間像をどう描くかを求めて。電荷も次元解析すれば[(FJ)^1/2^] となる。空間のエネルギーとの結びつきは、やはり技術概念のファラッド[F]とヘンリー[H]の哲学的解釈に委ねられているようだ。時間までもが[s]=[(HF)^1/2^]となるから。

嘲りの中で 30数年前も本人が知らない周りのざわつきの中で過ごした。今も出かけるも帰るも知らず、本人が知らない勝手な周りのざわつきの中に居る。買い物しては悪かったのか、鋸を引けばへリコプターに轟音を浴びせられるような脅しの本人の知らない周りのざわつきの中に、知的創造・思考の自由の万引き・天引き悪魔と情報に翻弄されるだけの日々が過ぎている。何が目的か本人無視の犯罪丸抱えの日本人権侵害の世界。健康保険証は身分証明書か に関わる事件が基に在るのか?(2018/12/19)何か変わった事が在るのだろうか?また過去の空洞化人生の一つに気付いた。TEL 0258-36-6899 。30年前の電話番号だ他の人に使って欲しくない。

電気回路理論と電磁気学の関係

標題のような関係を問われているようだ。言われてみれば、なかなか悩ましい問題かもしれない。電気回路理論は物理学の分野と言うより電気工学の科学技術応用理論になると考えた方が良かろう。回路理論は電流や電圧と言う科学技術概念で論じる分野になるから。しかし電気磁気学(現在の教科書の内容は電流、電荷概念によって解釈しているから、それは科学技術の範疇になり、真の自然の真理とは異なる。2018/02/13)はあくまでも自然現象として電気現象の真理を探る学問分野になろうから、電気工学と異なる物理学の範疇の分野になろう。物理学は応用でなく自然の真理を説き明かす学問分野と考える。だから物理学は例えば『電荷』の実在性を説き明かす事を目的とするような学問分野であろう。科学技術概念とその用語は応用分野が広がるにつれ、次々と新しい概念・用語が造りだされる傾向にある。超伝導現象等も古い電気磁気学には無かった、気付かなかった現象である。その新しい応用技術用語・概念が如何なる自然現象なのか、その本質を究めることが物理学である筈だ。そこには電流を自然の真理と解釈するようではとても物理学とは言えない。広く自然哲学としての見極めをする学問が物理学であろう。応用と真理は常に対立する学問分野であるべきだろう。電流概念(電荷と質量の混合素粒子である電子の流れと言う概念。しかし電流はA[C/s]で、その単位には質量は入らないと言う不思議な電流概念論の矛盾)を否定すれば、初めて電気回路内の現象の意味が分かって来る筈だ。電流が流れていない事が分かれば、導体としての銅線の資源量は節約され、設備は軽量化されるのだ。それが自然現象の本質を究める学問・物理学であろう。物理学の電気磁気学は根本から作り直さなければならない処に立っているのだ。電気工学と電気磁気学は全く異なる分野である。科学技術の社会に生きる現代人がその科学技術の本質を理解し、賢く生きる未来を見据えるに欠かせないのがその科学技術に隠された真理を認識しながら、技術との関わりを考えることであろう。技術を理解するには、電気工学で有ればオームの法則やファラディの法則と言う便利な技術法則を使う術を身につける必要がある。ファラディの法則一つをとっても、磁束と言う概念を使うが、科学技術法則として《磁束=コイル印加電圧の時間積分》と言う概念で捉えることが必要である。しかし、その法則さえ物理学として自然世界の真理を求める分野では磁束など存在しない事を理解する必要がある。磁束もただ一つの『エネルギー』の回転流を評価する科学技術概念でしかない事を。

今電子レンジと水について考えている。水分子が衝突し合って加熱されると解説されているのを本当か?なと。マグネトロンと同じく、MRIもなかなか不思議な理論で、すべて磁界と磁束の科学技術概念がその基本理論を構成している。みんな『エネルギー』の様相に観えるから、筆者の迷惑論かと御免なさい。

電気理論は手品師の世界

理論は真理か?何か手品師の舞台を見ているような感覚の世界だ。
『瞬時電力』とは何か? 『瞬時値』と言う物理量を捉えることが現象のより深い理解につながるかという考えで、その用語を多く使って来た。本当の意味を考えて使って来たかと自分に問えば、殆ど感覚的により真相に近いだろう位の思いであったのかも知れない。
科学理論と言う論理的な厳密性で構成されているとの理解の中で、より根本的な誰もが常識として共通に納得している事象や用語でさえも、その意味を自分は分かっているのかと自問すると、不思議にも分かっていない事に気付く。それも十分分かっていると自負していた電気現象に関わる話でさえも。

瞬時電力とは? IT検索すると、その意味を尋ねる質問者が居る。電気回路の電圧や電流波形はオッシロスコープで観測できる。電圧や電流の瞬時値は波形として見慣れているから、その意味など全く気にもしないで、瞬時値と言う電気量の定義など疑いもしない。

瞬時値の単位と時間 瞬時電力p[W]は波形観測が出来る。単位はワット[W=J/s]である。瞬時値とはどの程度の時間感覚の意味なのか?瞬時だから、時間の長さは『ゼロ』でないのか。

瞬時値と単位と時間 (1)回路と測定の電圧計、電流計そして電力計の測定値V[V] 、I[A]および P[W]は十分長い時間での平均値のような『実効値』を計測している。しかし交流回路であるから、それぞれの値は時間的に変動している訳で、その波形の各時間における値を瞬時値と言っている。回路の瞬時値波形は抵抗などを通して簡便に測定できる。瞬時電力p[W]は掛算に因らなければ波形は得られない。電力の単位[W]は図(2)瞬時電力波形のpの単位も[W]である。電力と言えばワットである。そのワットと言う意味は何かと考えて見る。ワットが流れている訳ではない。流れるのはエネルギーのジュール[J]であろう。[J/s]とはどういう意味か?エネルギーが流れると考えれば、時間当たりとなる。しかしそれでは何か『瞬時値』と言う意味と感覚的にも腑に落ちない。結局の結論としては、瞬時値であるからある時刻における時間微分値と言う意味としか解釈のしようがない。瞬時電力p= lim _⊿t→0 (⊿E/⊿t)=dE/dt[J/s]としか捉えようが無い。となるとdE[J]とはその線路点のどのようなエネルギーを意味しているかと、また疑問となる。ここまで自己を追い詰めて、疑問の渦に自分を引き込む。抜けられないかと不安が解決策を見つけ出してくれる。不思議だ!それが次の話になる。科学技術の競争と言う世界から離れた場所だ。

電力の物理的意味(自分への問答) 正しくこの電力p=dE/dtの意味が手品師の隠した「種」に思えて来た。誠に不思議の極みである。位置x点での電線路空間のエネルギー分布dE(x)がその意味を隠している。『光速度伝播』が電気理論の隠した種でもある。『エネルギー』と『光速度』、この二つが種明かしの要だ。dt=dx/c[s]にあり。距離dxと時間dtの関係を支配するのは『光速度c』だ。電線路空間距離位置x点における瞬時電力はp(x)=c dE(x)/dx の『エネルギー』の空間分布の勾配である。昭和62年の『静電界は磁界を伴う』のマックスウエル電磁場方程式の解釈に適用した『エネルギー』と『光速度』の関係と同じ解釈につながっている。とは言っても新たな疑問が待っていた。

思考実験―単相電線路の瞬時電力とは?- 単相交流回路は一般にはその亘長を考慮する必要が無い。だから電線路電圧は電源から負荷端まで同じ電圧と考える。もし少し電線路の長さが長いとしたら、その回路の電気現象をどのように捉えたら良いだろうか。電源は電線路の電気状態を電圧と周波数で制御するだけである。電源は負荷の状態を認識できない。ただ電圧保持に必要なエネルギーは電線路の要求に見合う様に供給するのみである。負荷電力が大きければ、電圧保持に必要なエネルギーが多く必要なだけである。50Hzで、相当電線路が長いとすれば、線路電圧は電源からの距離によって異なる筈である。即ち、電線路定数(C[F/m] ,L[H/m])によって決まるエネルギー伝送速度c[m/s]によって支配される。電源からの距離xの地点での電圧値は図のように、x/c[s]だけ遅れた位相の電圧となる。これが電気回路現象を支配する基本原則である。言わんとする意味は、電流も電線路の位置により異なるのである。電線路空間内を『エネルギー』が伝播速度で流れているのであり、或る位置x点での瞬時電力pxはその点の電圧と電流の積で評価するが、『エネルギー』の光速度に近い伝送速度の現象下での認識が必要になる。もし電線路亘長X=3000kmのような場合を考えると、その電圧分布は丁度半波長の波が乗った状態と考えて良いだろう。当然電源での瞬時電力もx点の瞬時電力も、また負荷点の瞬時電力も同じではない。さらに、もし負荷がスイッチSオフとしたら、電源の供給『エネルギー』は電線路の分布回路要素C,Lおよびコンダクタンスgの機能によって支配されるから、帰還する電源への『エネルギー』をどのように処理できるかも問題になる。送電電力系統での開閉サージ電圧が定格電圧の7倍にまで跳ね上がる現象も観測されていると本で読んだ。電線路の『エネルギー』の往復反射での電圧上昇現象である。電気現象を解釈する電気理論は電気工学の電圧、電流概念が如何に便利で優れたものであるかは誰もが否定できない。しかしそれは科学技術の応用としての技術理論であり、自然の物理的本質を唱える理論ではない事だけは理解して欲しい。電気現象の本質は光速度での『エネルギー』の伝播現象であることを。電気回路の電力とは何ですか? (2016/12/16)から考え始めて、今年は電気回路解析の『時定数』の意味を取り上げ、電線路空間の『エネルギー』の振る舞いについて考察した。電力概念も難しいと知った。

課題 電線路空間を伝播する『エネルギー』の本当の姿はどのよであるか?線路定数から、電圧分布エネルギーはCv^2^[J/m] 電流分布エネルギーはLi^2^[J/m]で電線路単位長さ当たりの値を捉えようとしても、その『エネルギー』の電線路空間内での分布などは全く捉え切れない。ただ電気現象の本質を理解するには、電線路空間内の『エネルギー』とその光速度伝播認識が欠かせない。未だ手品師の「種」を明かせない。x点の瞬時電力pxに負荷電力prがどのような関係で影響し、そのエネルギー分布勾配が生じると考えれば良いかなど全く不明である。また、三相交流回路に対して、単相交流の方がその電圧エネルギーの線路往復流に因り原理的には複雑な現象となる。多くを未来への課題としたい。

コンデンサの機能と電気スイッチ

電力回路ではコンデンサは力率補償用設備機器として考えられる。電力回路では実際にコンデンサをそれ程問題にすることは無いでしょう。しかし電気回路の解釈問題としては考えておくべき問題があるようだ。負荷回路にコンデンサを直列に繋ぐことは余りない。誘導性負荷にコンデンサを直列に挿入すれば、R-L-C回路となる。その直列回路で、コンデンサのリアクタンスを大きくするには静電容量を限りなく小さくする必要がある。コンデンサのリアクタンスを大きくすることは回路インピーダンスの総合リアクタンスはマイナスの容量性と解釈すべきだろうか。無限にコンデンサの静電容量を小さくすれば、回路電流は流れなくなり回路遮断と同じくなる。いわゆる電流を遮断する機能を持っているとみることができる。こんな単純な回路の意味を吟味することにも重要な意味がある。元々コンデンサは電気導体が繋がっていない構造を成している。回路としては所謂『電子』の通過を阻止する機能とも見える。電気導体が閉回路を構成していないのである。そんな根本的な意味で、コンデンサの物理的意味を考える考察材料として意義があろう。次の回路を考えてみよう。
1.R-L-C直列回路 ここでコンデンサの電極が離れて、原理的には導体接続を遮断しているスイッチと同じ機能を持っている事を理解してもらいたい。空中の配電線路の2本が離れて平行に張られているのも、見る視点を変えて見れば小さなコンデンサが張られているのと同じ事なのである。

1.直列回路とC  (1)コンデンサ容量をとんでもなく大きな値にした。直列の総合リアクタンスXは9Ωで、誘導性回路となる。(2)はリアクタンスゼロとなる。電源から回路を見れば、純抵抗Rの回路に見える。リアクトルもコンデンサも共に10Ωで、丁度共振状態となる。コイルとコンデンサの間でやりとりするエネルギー量が丁度釣り合って、電源からのエネルギーの関与が無い状態で、電源と切り離された回路要素となる。(3)静電容量を極端に小さくした。C=1[pF]として、そのリアクタンスはX=-3183 [MΩ](負のリアクタンス値) と完全な絶縁状態となる。即ち等価回路のように、コンデンサが回路のスイッチオフの機能を示すことになる。このコンデンサがスイッチのオン―オフ機能を持つと言う意味は、元々コンデンサの電極は離れた導体の遮断状態となっているから、特別な事ではないのだ。ここに、電気回路の『スイッチ』とコンデンサの機能に共通な意味が隠されていただけで、気付かなかったのだ。静電容量が小さければ、電極間の空間に蓄える『エネルギー』の量が少ない訳で、丁度スイッチの接点間の空間に蓄える『エネルギー』が少なくて回路遮断する機能と同じ意味なのだ。スイッチの接点間の空間エネルギー分布に繋がる意味である。それが『物理』である。覚えることで無く、学校教育の目指すべき教育内容は『理解する』である筈だ。本質を捉えることは『一つ』の事柄が広く全体に通じる視点を養える筈だ。
2.RとLCの並列回路 序でに並列回路についてもコンデンサの意味を、電気回路現象の例題として考えておこう。

 2. 並列回路とC  リアクタンス分と抵抗分を分離して考える。コンデンサの静電容量の値を変えて、コンデンサの意味を考えた。(1)は特に容量を大きくした場合で容量性負荷となる。リアクタンスは負である。(2)は共振条件でリアクタンスは無限大となる。従って、リアクタンス回路は定常状態では電源と切り離されたようにコイルとコンデンサ間でエネルギーの遣り取りがなされて、電源のエネルギーを必要としない状態になる。だから等価回路の(2)となる。共振回路の損失があるからそのエネルギー分は電源から受けることは当然であるが、考え方としては電源と切り離されると言う認識で良かろう。(3)のC=1[pF]ではコンデンサの機能はスイッチのような意味になってしまう。だから負荷はL-Rの並列回路となる。

結論 コンデンサの呈する電気現象を『エネルギー』に対してどう解釈するかを考えて来た。従来の伝統的解釈は『電荷』の正と負の概念によって解釈する方法であった。その『電荷』は存在しないと言う科学的常識離れの論を展開し、科学者の顰蹙を買って来たと思う。『電荷』概念に依った解釈法を取れば、空間の『エネルギー』の実体が不明確になり、世界に存在する質量の無い『エネルギー』を認識できなくなる。あくまでも世界は「光」と言う世界の根源要素から出来ていると言う認識に依って、コンデンサの電気現象を論じた。電気スイッチが空間エネルギーの電圧を保持した回路遮断機能と看做す観方で、コンデンサの意味を解説できたと考える。

電圧ーその意味と正体ー

電圧とは何か? 電気工学や電気物理に関わる仕事に携わっている人はこんな疑問を抱かないだろう。電圧100ボルトあるいは3ボルトなどと日常用語としてありふれて使っていることだから。常識の言葉だから。こんな常識の科学技術用語を理解できないと言って、その正体をあばこう等と考える事を仕事にするとすればどんな仕事に成るのだろうか。全く経済的な利益を生むどころか、科学技術関係社会に反逆的な伝統破壊の行為と看做される。反発を食う研究である。そんな業務を仕事として受け入れる環境があるのだろうか。科学研究社会は、特に学術研究に属する分野では『客観性』を持って研究を進める事が要求される社会であろう。過去の先人の業績を踏襲してこそ仲間として受け入れられる社会である。それが常識の世界だ。学術研究機関に所属していれば、大いに常識に挑戦する機会もあろうが、最初から所属の無いものには不可能な事であろう。世界で誰も挑戦しない研究、「電圧とは何か?」と問う事も有意義な筈である。学術論文にも成し難い研究ではあるが。自然の本質を明らかにする重要な研究ではある。

総合科学・基礎科学・純粋科学の意義 本質を明らかにすることの意味は、誤ったり誤解した研究や方向性を質す判断基準として、総合的な評価を下すに重要なのである。経済的効果が無いと言うが、間違った高額の投資を避ける意味で経済性は大きい。それが総合科学、基礎科学、純粋科学なのである。科学研究の内容を市民が理解でき、賛同できることで初めて研究費を使う権利が得られるのだと認識すべきである。数式でなく、日常用語で高度な研究内容を説明し納得を得る事が必要になる。そこに、専門家だけの内部了解ではなく、市民社会との関わりが大切になるのだ。その時に科学の基礎概念が誰もが理解でき、疑念の無いもので初めて市民との意思の疎通ができ、健全な科学社会への安全が担保できるのであろう。そこに総合的な広い基礎科学の重要性が狭い専門性を超えて必要になるものと考える。ここでは前の電池電圧と『エネルギーギャップ』を受けて少し電圧の解釈の意味を深めてみようと思っての記事である。

電圧とは何か?電圧とは何か 電圧Eボルトの直流電源がある。銅板と銅線が図のようにつながっている。 

電圧問答電圧問答 

電圧問答 直流電圧源だから、各電圧計の指示値はすぐ分かる。ただ電圧計の繋がる位置が色々だ。電圧計は何を計るかと考えて、その電圧値に成る原因を何に因ると解釈するかを尋ねている。もし『電荷』を原因と考えると、その分布を考えなければならなくなる。さてどう考えるか?こんな問答は禅問答の部に入るようで、科学論の部門では毛嫌いされる問答である。しかし科学理論は論理性を持ってその真価と尊厳を勝ち得ている訳であるから、こんな易しい日常的な質問には朝飯前と答えられる基盤の上に成り立っている筈だ?そこで答を書こうとすれば、学校教育で教えられる教科書の内容から考える事に成ろう。どんな教科書も文科省の『学習指導要領』によって教育内容は決まっており、『電子』あるいは『電荷』による解釈しか許されていないから、その指導要領に従わざるを得ない。そこで『電子』で考えようと試みる。

電子と電圧電子と電圧 回路の一部を取り出して電圧計V1の意味を『電子』に因って考えてみよう。鉛蓄電池や燃料電池の電池機能原理は水素原子の『電子』が陰極端子から外部配線、負荷を流れて陽極に戻り、『エネルギー』供給源としての電池の役割を果たすと専門家の解説に在る。それが負荷への『電流』の電気磁気学理論に基づいた教科書的標準理論である。しかもそれは世界の物理学理論でもある。その時の電気現象の電圧には『プラスの電荷』は電池の外部回路に関与する解釈は無いようだ。すべて『電子』だけで理論的な解釈が成されている。そのような世界標準の電気論に従って、電圧計V1の『電圧』をどのように解釈すべきかを考えてみた。①電荷分布(電子)?と電圧として銅板間にどのような『電荷』分布を描けば良いかと苦心した。『電子』同士は好きではないが、有名な『クーロンの法則』に従えば、お互いが反発しあって、集合するのはいやだ、いやだと纏まらないのではと考えると、『電子』の分布予想も出来ないのでお手上げだ。理論とは不思議なもので、後生大事に守られている『クーロンの法則』があっても、そんな法則などお構いなしに『マイナス電荷』の集団と『プラス電荷』の集団同士が向き合って対峙する構図が理論の伝統的な常識・思想に成っている。しかしこの電池の場合には『プラス電荷』は出る幕が無いのが不思議だ。だから教科書に従って電池電圧を『電荷』で描こうとしたが無理だった。それでも思い直して、マイナス側の銅板に『電子』が分布したとして、電圧計を繋いでみた。それが②電圧計である。電圧計は中味の回路を見れば、単に高抵抗rとコイルlの直列につながっただけの物でしかない。電圧と評価する部分はコイル内に貯蔵されて『エネルギー』を指針の回転に利用しているだけである。特に電圧と言うような感覚的に予想する様なものを計っている訳ではない。陽極側と陰極側の銅板の間に電気回路のrl要素を繋いだ事に成る。もし陰極側の銅板に最初『電子』が集合していて、電圧が掛っていたとする。電圧計を繋ぐ前後で銅板間の電圧にどのような同じ電圧を発生・保持するかの訳を考えられるだろうか。また、図のように電圧計(負荷)を繋いだとしたら、『電子』はどのような力を何によって受けて運動すると考えれば良いだろうか。大まかな概略論でなく、厳密な基礎理論に基づいた合理的で論理的な解釈が求められる。日常用語と基礎的な科学用語での説明なら、誰でもが理解でき納得できると思う。しかしこの『問答』にはなかなか納得できる論理的な解釈が出来ないジレンマに陥るのだ。結論を言えば、『電子』や『電荷』では電池電圧の発生原因を説明できないという事である。宇宙の話や五次元空間の話は話の実体が目の前に無いから高度な数式で論じられると煙に巻かれたような気分でうんともすんとも言えないもどかしさが残る。しかし乾電池や蓄電池の話なら、電磁気学の理論検証には十分分かり易い筈だ。この電池電圧の意味が『電荷』概念では自分が納得出来ないので、『エネルギーギャップ』の電圧発生理由で解釈する様子を示す。

空間のエネルギー分布空間のエネルギー分布 エネルギーにはプラスもマイナスもない。光のエネルギーと同じく、空間に金属導体に因って束縛された状況で分布する。その分布密度を予測して図に描いて示した。その密度分布を実験的に測定する方法を見つけられるかどうかは疑問だ。『電子』の分布を描く場合に似ている結果である。プラス、マイナスと言う金属導体間にそのエネルギーは分布し、マイナスからプラスまでのエネルギー分布密度の線積分がその『電池電圧』となる。エネルギーで観る線路電圧に交流の場合を示したが、直流でも同じ事である。

交流電圧 電圧は直流も交流もその本質は同じである。主に金属導体間に掛かる電気の”何か圧力”のようなものと感覚的に捉えられる。その姿・本性を認識し難い訳は実験的に測定することが出来ない「空間エネルギー」だからである。電気の眞相(2)-電圧とは何かーに述べた。科学技術の電気工学では空間エネルギーなど観測できない物理量であるから、『エネルギー』の利用と言う眼目から、実に優れた計測量として、『電圧』を考えだした訳である。『電圧』と『電流』で電気工学の基礎を創り上げたのだから、その技術的感覚は素晴らしいと先人の業績に感謝しなければならない。交流電圧によって送配電線路が構築され、『エネルギー』利用が可能になった。その交流電圧は発電機と変圧器での発生原理に新たに「磁束」と言う概念を創り上げた事により、理解し易い『電磁誘導則』で誰でもが理解し易くなった事は科学技術の意味を理解する上で大切である。「磁束」で交流電圧を理論付ける技術感覚の意味を理解すべきであろう。さて、科学技術とその基礎概念は自然世界の『真相』と成るかと言う点で改めて考えなければならない歴史的転換点に居ると思う。電気現象の物理学的解釈は自然世界の眞相を捉えるに重要な基本認識と成っている。その自然現象・自然世界を『電圧』、『電荷』、『電流』の科学技術概念で論じようとしたとき、その論理の先には混迷の未来が待ち受けている。同様に『電界』『磁界』も自然世界に実在する『真相』ではなく、科学技術の『エネルギー』利用手段としての便利な構築概念でしかないのだという事を認識することが未来への安全の思考の基盤である。

科学技術と自然世界と教育 先人が築き上げて来た科学技術と自然世界の眞相を混同しないように理解して欲しい。『電荷』など世界には存在しないのだ。今、この事の中に見える複雑な人間意識と科学的競争社会の間に立って、未来への子供達に対する教育を考え、根本から再構築すべき時に立っている。未来への教育問題は教育機関、教育者に課せられた喫緊の課題である。過去を踏襲し、先人の業績を尊重してなどと拘泥している時ではない筈だ。

『電圧』と『エネルギー』その実験的検証 昨年は物理学概念に(『電荷』への)疑念を抱き、旅立って30年程たった時に不思議な実験を手掛けた。これも予測できた訳ではなく、何かに誘われて手掛けたような実験である。変圧器の奇想天外診断で『電圧』の意味を考える切っ掛けを得た。続いて、コイルと電圧とエネルギーおよび天晴れ(コイルと電圧とエネルギー)の実験的検証、そしてまとめとしての電気の眞相(3)-電圧と負荷ーによって『電圧』と『エネルギー』の関係を捉えることが出来たと考える。

情無い(ツレナイ)ヒューズ遮断

(2015/7/13)実験追記。今日は新しい組み合わせで、実験をした。特に目新しい結果は得られなかった。しかし、前回の勘違いとなったガラス管ヒューズが強く光ったにも拘わらずヒューズが切れていなかった現象について、その意味が分かった。今日の実験でも、最初は緊張して電源スイッチを投入した。ヒューズが遮断するかどうかを注意しながらスイッチ投入。今日も相当の光度で光った。普通なら当然ヒューズが切れたと判断する筈だ。前回の事があったので、今度はヒューズの状況を確認した。しかし驚くことにやはり切れていなかった。じゃああの光は何だったのかとまた悩んだ。もう一度電源投入をした。しかし今度はヒューズが光る事もない。こんな実験結果には、科学の再現性と言う意味からして頭が混乱するのである。原因はダイオードの全波整流回路も負荷として電源に繋がっていた事であった。整流後の直流側に電界コンデンサ10μFを繋いでいた。その突入電流がヒューズの発光現象の原因であった。そこでもう一度直流電圧を放電して、再度突入状態を観測した。ヒューズはまたピカッと光った。今度はヒューズは切れていた。結局3度も同じ発光をした訳だから、相当ヒューズの質量も減少していた筈で、切れて当然である。それにしてもガラス管ヒューズの特徴を今回の実験勘違いが教えてくれたことを偶然の知見としたい。電気的現象に関する結果は今回は得られなかった。測定器の問題を解決したい。

(2015/7/12)追記。誠に残念なお詫びの記事です。新しくヒューズを取り替えて、再実験。ヒューズは切れない。どうも意味が理解できずに何度も確認する。しかし、0.1Aヒューズは切れない。端子1’と2’にランプ負荷5Wを繋いでもヒューズは切れない。先回ピカッと光って切れたヒューズを確認したら、切れていなかった。この結果は余りにも衝撃的な失敗の面目丸つぶれを示す。ヒューズの光った意味は何だったのか未だに理解できない。試しにヒューズの抵抗をテスターで計ると10Ω程度の値を示すことを知った。通電時の抵抗のオームの法則の関係とは別の意味の抵抗値だと思う。結局下の実験結果は私の初歩的な、恥ずかしい間違いであった。お詫びします。

そこでもう一度確認した。負荷ランプを繋いでも、繋がなくても動作に変化はない。端子1’と2’間には電源電圧が掛っている。問題は端子3’との線路間の電圧値である。紙筒コイルの変圧器鉄心の場合との大きな違いは当然の予想通り、僅かな電圧しか現れない事である。しかし、3’-2’間より3’-1’間の方がやはり僅かに大きいようである。この端子3’との間に現れる電圧の意味は鉄心の有る無しに関わりなく、微小電圧でも検出されることの意味は大きい。空間線路間エネルギー分布の検出と言う意味は電圧の意味を理解する電気磁気学の基本現象と理解しなければならない。ここから改めて実験が始まる。鉄心の意味を探る為の。

決して電気屋が考えない実験をした。やっぱり常識外れと電気に断られ、肘鉄を食らったような目にあった。スイッチを入れるとフューズ遮断だ。余りにも情無い(ツレナイ)と思った。しかし自然は嘘を言わない。その現象を大切に考えて見よう。これも世界に初めての実験結果だから。(2015/7/12)ヒューズが遮断されていなかったとは余りにも恥ずかしい話です。世界には通用しない結果だった。御免なさい。
電気実験 こんな愚かしい実験は誰もしない。しかし実験の思い付きの根底には物理学・電気磁気学への深い哲学的疑念が基になっているのだ。変圧器の奇想天外診断の実験結果が問いかける真理への道筋に咲く花を探す旅でもあるのだ。決して科学理論の常識には自然の真理は待っていないからはみ出さなければならないのだ。それが実験目的である。実験内容。それは紙筒に3本の線を巻きつけた。その2本に電源100Vの電圧をかけた。結果はヒューズ0.1Aが切れて、電圧を掛けられなかった。「何故か」の問答になる。

紙筒コイルに電圧印加実験回路2

変圧器は鉄心にコイルを巻く。奇想天外実験で、予想外の電圧が検出された。当然のこととして、磁心である鉄心の物理的機能原理を明らかにしたくなる。フューズ遮断と言う実験の失敗を論じるつもりはない。その先にどんな方法で実験を進めるかが面白さになる。その先の見えない生の裸を曝しながら、科学論を展開してみようと考えての失敗の公開である。

IMG_1147実験写真2

この実験は丁度新品のビニルコードの束の一方の端に電圧100Vを掛けたと同じ事になる。その時電源が過負荷遮断したような状況の結果である。しかも負荷は何も繋いでない無負荷状態である。こんなことは電気磁気学理論で考えられないのである。だから価値がある実験と思う。少しヒューズ容量を上げてまた実験を試みる。ヒューズを購入するまで中断。0.1Aヒューズでの再実験で、上に記事は間違いだったことが判明。

電気磁気学の古典的名著に思う

竹山説三著

 

森田 清著

古い物語を秘めた二冊の本が手元にある。古典的名著に当たる電気磁気学の本である。あるところで、ある人に『この本は君が持っていた方が良かろう』と言われて、そのまま手元に残っている。それが次の本である。竹山説三著と森田清著の二冊。
以前はその本に目が行くと、まだまだ勉強しなければならない事が多い。と無理とは思いながらも意識していた。ところが今はどうかと言えば、そんな意識はもう起きない。その御本の内容はとても高度で、努力なしには読み切れない。自分が辿って来た電気に関わる事柄は、既に過去の名著という伝統的内容は残念ながら不必要になってしまった。自分にとって無意味なのである。今『電気磁気学』として何をどのように学習すべきかを考える時、『エネルギー』概念を感覚的に認識出来るようにすることが欠かせないと思う。その基本的観点からどれだけ多様な世界を読み解けるかという問題に思える。『電荷』を捨てたら、教科書を読み切れなくなった。『電荷』無しに上の名著も解釈できないのだから。それは、新たな『電気磁気学』を創り直さなければならない処に来てしまったのだ。とても大きな仕事に成る筈だ。光と電気は同じという事(マックスウエルの電磁場方程式)が一世紀以上前に唱えられているにも拘らず、電気回路の現象を光と結び付けようという意識に成らなかった訳は何が原因であるかは「人間の意識」あるいは「人間の本質」に隠されている問題と観なければならなかろう。『電荷』という虚像 エネルギー(energy)とは? 『静電界は磁界を伴う』の解説  新世界への扉ーコンデンサの磁界ー 等にその訳を記した。

電気磁気学の数学的論理の問題 電気は数学の応用分野のように、数式による解釈が論理の中心に成っている。しかし、それが高度な数式の場合は、実際に電気回路設計になど全く使われていないと観て良かろう。精々オームの法則ぐらいだ。今では『電荷』が矛盾概念と成って、クーロンの法則に関する距離の逆二乗則など何の意味をも持たないのである。皆嫌いな数学的論理に悩まされて、科学・理科が嫌いになっているのだ。二次方程式を解いて、虚根を得たからと言って、そんなものは『虚時間』論と同じ全くの無意味である。虚数は現実世界に存在しない事を理解する為なら意味があろう。虚数が現実世界に存在するが如き指導は間違いである。今欲しい数式は、衝撃波の周期関数表現である。光の空間伝播式が欲しい。複素数を解剖する 虚数は自然描写に役立つか  光とは何か?-光量子像ー等にその関係記事。

パフォーマンスレポート2013年版

WordPress.comの年間まとめレポートが見られない。
接続されない為か、理解できない。解決法を教えてください。

評価すべき(花火の打ち上げ)投稿がなかったと解釈した。

折角なので自己評価で、年間のまとめをしたい。 不思議にも、2月の球と立体角が今でも見られている。

電気磁気学関連 殆どが現代物理学理論の基礎理論に反論する、革新的な自慢の論考である。クーロンの法則を斬る(1/6) 電流と電圧の正体(5/16) 電子科学論の無責任(5/24) 力学から見た電流矛盾(6/3) 回路とエネルギー流ー電流解剖論ー(6/10) 生活電気と『光速度』(6/13) 等に未来の電気磁気学の指針を示した。

自然観 空間が世界を創造する(1/24) 自然と科学の間に(5/26) 無限を手のひらに(6/11) エネルギーと空間と質量(6/30) 世界は重層構造(7/1)

熱・光および電波 自然は『光と舞台空間』(1/30) 焚火と蝋燭(2/1) 熱輻射理論に関する考察(2/9) 花が光か 光が花か(2/10) 白熱電球(3/1) 照明と配光曲線(3/3) パラボラアンテナと正反射(3/6) レンズと光路(3/13) 天眼鏡と屈折司令官(3/18)

力学 隕石突入の衝撃波(2/19) 不思議の国の弥次郎兵衛(5/8) 地球の運動と速度(9/12)

哲学・宗教 科学を語るとはどういうことかを読んで(7/22) 禅と日本文化 を読みながら考えた(9/8) 宗教とは何だ(10/14) 禪とは?(10/21) 日本の魔境ー靖国神社ー(10/24)

(2016/06/27)追記 現在につながる記事を残したと思う。

禅と日本文化 を読みながら考えた

『禅と日本文化』 鈴木大拙著 北川桃雄訳 岩波新書 第49刷(1988) は以前から時々読んでいた。昔から、禅は難しく読んでも中々理解できないものであったが、その禪と日本文化分強く惹かれる。この本は、昭和15年(太平洋戦争開戦前)に、大拙・鈴木貞太郎博士が外国人のために、禅の解説に英語で書かれたもので、その和訳本である。外国人どころか、自分にとってどんなに禅の理解に役立つか計り知れない。

今日改めて読み始めた。その内容は初めの部分を読むだけで、博士の広い造詣の深さに驚きを禁じ得ない。そのお陰で、読んで心に響き、未熟で、不完全で、成長できない自分を見詰めるのに本当に安心を与えてくれる内容である。こんな自分でも良いかもしれないと教えてくれるようにとれる。全く社会との関わりがとれない、怒りの収まらない未熟な生き方でも止むを得ないかと。読めば、現代社会に『禪』は収まり切らない特質が、その本質であるように思うから。経済成長が世界の共通な評価指標となっている現代に、禅思想は馴染まない事が良く分かる。そんな現代社会の脅迫感・不安感に苛(サイナ)まれた個々人の精神性の有りようから、『禪』の意味を眺めてみたいと思う。その規範にこの本を読み解いて、少しでも安心できればと考える。既に、禪と科学および禅と自然科学などでも書いた。禅は決して知識として学んでも、身に付くものではない。それはただ自分だけの実践でしか理解、感得できるものではない。いくら本を読んで、学んでも修得する事が無理である点が、禅の本質なのであろう。今になって初めて、鈴木博士の説明している意味の幾らかが分かったかと感じる。それは、今年になって『電気磁気学』の本質に辿り着いたと思えるからでもあろうか。

『電気磁気学』の到達点 幾つかを拾い上げておく。生活電気と『光速度』 回路とエネルギー流ー電流解剖論ー 力学から見た電流矛盾 電子科学論の無責任 電流と電圧の正体 等が今年の5,6月にまとめた記事である。これらの解釈は、『電気磁気学』の教科書を学習してもなかなか理解できない。教科書の理論を捨てなければ到達できない本質・真髄である。失礼になるかもしれないが、学術用語は事象の皮相的解釈で、取りあえず社会的集団的合意形成の体制固め用語とでも言えば良いかもしれない。例えば、『電界』や『磁界』と言う学術用語は、電気磁気学理論を展開するに無くてはならない用語である。しかし、そんな用語も深く理解しようとすれば、化けの皮が剥がれて、矛盾がむき出しになる。到底論理的な解説を展開する事が出来ないものであるのに、専門的論理として、堂々と社会に貢献しているように看做されて、崇められている。自然科学は、実験的裏付けによって、その論理性が認知されていると言はれる。ところが、その実験と言う意味の中味を分析すれば、法則の原理を実験で確認したり、量的測定ができないにも拘らず、論理の重層構造の積み重ねの上での、専門領域での合意に基づく間接的代用測定で、原理の実証と認定する実験法を採っているのでしかない。例えば、クーロンの法則を実験で直接量的実証をすることなど決して出来ない。そんな電荷間の物理的法則が存在すると解釈すること自体が論理性の無い事なのである。『禪』と言う世界観は、論理性の矛盾をどこまでも見破る透徹した破壊力を備えていると見られよう。『不立文字』と言う意味で語られることが多い。例えば、上に挙げた生活と『光速度』という記事を取り上げて見れば、『不立文字』を文字で表現する事が出来ないと単純に捉えれば、その記事さえも意味の無い事と言われるだろう。しかし、電磁気現象と社会的に評価されている科学分野の現象の本質を少しでも理解しようとすれば、何らかの言葉で表現しなければならない。専門的学術用語が矛盾で使えない等と言えば、一体どのように現象を表現すれば良いかと言う抜き差しならない壁に突き当たる。それは『不立文字』それ自体の科学論的矛盾ではないか?そこをどのように切り抜けるかが問われてる。スイッチSと言う用語が使えないかと言えば、それは違うだろう。『自動車』と言えば、誰もが理解できる。それではどのような場合の科学技術で使う専門用語が『禪』の世界観で打破されるものに相当するのだろうかと言う『問答』になる。殆どが直接人間の五感で感得不可能な用語の場合ではないかと思う。『電流』と言えば、電流計で計測する物理量である。決して電線の中を流れる電子量を計っている訳ではない。だから、自然科学論を展開しようとしたとき、最後は人間が本来磨き上げて来た長い生存の歴史の中での感性・五感で感知する鋭さでの、言葉にできない『禪』の世界認識の直覚に基づく表現になるかと言うことである。それが万象が一つに集約される『エネルギー』であろうと言う結論である。『エネルギー』は五感で認知できるだろう。お日様に当たれば、暑くも、暖かくも感じられる。それをどのような『エネルギー』と理解するかはまた別の話で、先ず何かが自分の体に入り込んで、外から加えられた『エネルギー』が有るからだと感覚的に認識することが『禪』的世界観と言うことになろう。理屈は後から付けても良いが、先ず感じることが第一である。感覚を磨けば、理論の怪しさがおのずから観えて来ると言うのが『禪』の世界観と思う。『不立文字』に負けないで、自分なりの自然科学論を展開して行きたい。ただ経費を掛けないで、直覚的感性に頼る世界観を。

鈴木大拙氏の禅の世界観もさることながら、翻訳者の表現力にも敬服する。第1章 禅の予備知識、および第2章 禅と美術の論説が特に印象的で、感銘を受けた。しかし、第3章 禅と武士以下については少し違う観方をしてみたい。それらについては別の機会に述べたい。