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雷は熱爆発

結論を言う。雷は天空の暴れ者。熱の爆発だ。月に雷は無い。生命豊かな水の星、地球星の天空の饗宴だ。雷は熱爆発

水蒸気の持つ『熱エネルギー』と上空の『寒気』との間で繰り広げられるエネルギー平衡調和現象が雷の本質である。何も電気や『電荷』などでは御座らん。自然は複雑は嫌いだ。素粒子など決して望まない。

雷の姿 雷は恐ろしい。それは落雷時のその稲妻にある。その高輝度の天上から地上までに繰り広げる光放射現象だ。その光の筋に捉えられれば、生命は無い。光は何故屈曲した筋状の形状で、放射光を放つのか。しかも細い筋で、強烈な放射光である。落雷と放射

上手くない絵図ですが、光の形状を描いて示す。発光の屈曲する筋状の意味は何だろうか。

 

上昇気流の熱放射 雷は空間の熱爆発現象。その解釈を示す。上昇気流の熱放射地表の温暖の空気は水蒸気の存在により、大きな熱エネルギーを内蔵している。そこに上空が寒冷気流に覆われると、上空で空気が冷やされることに成る。特に空気中に水蒸気が多ければ、水分子の占有空間体積の急激な収縮が起こる。その空間の水蒸気の水滴化で、空気圧の急激な低下を来たす。上空の低気圧である。地上の気圧は温暖空気の高気圧にある。その地上との気圧差が上昇気流を活性化する。水蒸気分子の空間体積の増減現象を、ボイルシャルルの法則通りに捉える事で初めて可能な解釈である。水H2Oの分子は保有する熱エネルギーによりその体積が変化する。気体分子運動論の否定からの解釈である。沸騰を読むー原子と寸法ーに因る。また上昇する気流は、上空に到達する前にも、途中の空間に熱エネルギーを放出しながら上昇すると考える。上昇気流によりその近傍の空間には、多くの塵芥も吸い上げられて存在すると考えた。空間に放出される熱エネルギーは、光エネルギーと異なり、単独に空間に存在し得ないから、質量保有の塵芥などに吸収されて残ると考える。当然上空において大部分の熱エネルギーは放出されるから、空間の熱エネルギー分布も上空ほど多くなる。上昇気流の空間領域は全体的に熱エネルギーの蓄積量が過剰気味になっている。

塵芥と屈曲放射光 空間に蓄積されれ熱エネルギーは、塵芥などに蓄えられる。蓄積熱エネルギーの空間保有限界値に達した時、突然熱エネルギーの爆発現象に至る。それが雷である。その稲妻の屈曲状の放射光に成る訳を考えた。屈折放射光

③の上昇気流の途中の空間に放射されたエネルギーが塵芥に保有される。その塵芥の有り様が空間熱爆発時の形状を決定する。簡単にそのように解釈するだけである。検証方法は無い。ただ感覚的にそう捉えると言う以外、説明の仕様がない。空間に『電荷』が無いという事と同じく、科学論として実験的に検証する事など出来ない。

入道雲 間もなく熱い夏が来る。入道雲は夏の風物でもある。晴れ渡る青空にモクモクと立ち上がる真っ白な雲は人の目を惹く。最後に載せる絵図。入道雲

 

 

 

ドアノブの火花ー熱電変換ー

寒中に誰もが経験する指先の火花放電。感電ショックの後味の悪さ。火花放電あの瞬間の気分は例えようがないものだ。来るかと薄々感じながらに油断を突かれたような後の祭りである。それは自然現象である。物理学では、『電荷』の放電現象と解釈されている。雷と同じもので、電気の放電とされている。しかし、世界に『電荷』など存在しないのである。じゃあ何が原因かとなる。その答えは『熱エネルギー』の振る舞いの現象でしかないのである。電気磁気学の専門家、世界の科学者はおそらく皆が『電荷』で説明していると思うが、それは『嘘』である。自然は極めて単純である。そんなに器用にいろいろの物理量を作り出せはしないのだ。自然世界の本質を見極めれば、『エネルギー』一つの世界なのである。熱エネルギーのことを、昔の解釈で、『熱素』と言うものと捉えていた事もあるようだ。熱が何から出来ているかは、研究対象としては素粒子物理学の専門家が究めなければならない課題の筈である。しかし、素粒子論では次々と新しい世界構成粒子を仮想的に作り出すだけで、自然の本質に迫ろうとする意識に欠けている。自然は単純である。電気磁気学の矛盾から、『電荷』を否定すれば、自然の単純で、純粋な姿が視界に浮かび上がって来るのである。

電気現象 電気と言う言葉は現代社会の科学技術を論じるに欠かせない用語である。それと同じく『電荷』と言う用語も科学論のあらゆる基礎概念として社会的認知の基本を成している。だから『電荷』を科学論から排除したら、科学の解釈が不可能になるだろう。世界中の基本概念として位置付けられているから。だから『電荷』を否定しても電気と言う用語まで排除し切れない現実的困惑に居る。標題で副題にー熱電変換ーとしたのも、本当は電気には物理的に無関係なのであるが、熱エネルギーが『電荷』でない電気エネルギーに形態変換した現象であることには間違いないので、電気の電に字を使うのである。しかし、物理現象としては、電気と言う曖昧な用語で厳密には論じられない筈である。それは世界の物理学の認識が深さで十分でない現実の中の話である。

ドアノブ放電の用語 火花放電と言う用語も電の字が付いている。電の字が付くと、従来からの『電荷』概念で解釈する習慣になるけれども、それは各人の認識の深さの違いとして考えれば良いことであろうから、『電』の字を付けて論じざるを得ない事をご理解頂きたい。

放電現象の原因 寒中は寒さと共に、空気が乾燥している。空気中の保有する『熱エネルギー』は水分の水蒸気量で湿度として、空気中に含まれるエネルギー量が決まる。外気に触れているドアは冷気により冷やされて、ドアの保有エネルギー量は極端に低い状態にある。一方人が、ドアノブに触れる時、その人が保有する熱エネルギー量はどうかと考えれば、暖かい車の中から外に出て、外気の冷気に触れて、衣服の持つ熱エネルギー量が外気温度に対して、余分に過飽和状態になる筈である。その身体に溢れた余分の熱エネルギーがドアノブの外気に平衡した保有エネルギー量との間の差が大きくなり、指先とドアノブの間でエネルギーの差分が移動する現象なのである。それが火花になるのである。火花は光エネルギーである。熱エネルギーが光エネルギーとして空間を通してエネルギーの平衡状態を採る為の現象でしかない。また、衣服の摩擦でも身体のエネルギーが増加する。衣服の材料によりその摩擦の発生エネルギー量も、エネルギーの漏れ逃げ方にも影響されるであろう。その辺の違いが色々放電現象の差となる筈である。電気火花ショック、感電ショックの大きさの違いとして影響して来る筈だ。関連記事に雷の正体がある。摩擦電気(この記事が電気磁気学教科書の論拠としている内容である。しかしこの記事を根本から否定し、物理世界とは異なる内容であることを指摘する為に挙げた。クーロンの法則を斬る )も参考に挙げておきましょう。

クーロンの法則を斬る

物理学理論の中で、電気磁気学がその主要な基礎をなしている。なかでも『電荷』に基づく基本法則が『クーロンの法則』である。電波伝播の基礎方程式を理解するには、マックスウエルの電磁場方程式で解釈するのが普通である。そこでも空間の変位電流と言う『電荷』概念に基づく解釈が求められる。ここで取り上げたクーロンの法則を斬るの標題は『電荷』の実在を否定する立場から、その基本法則と言われる『クーロンの法則』を取上げて、その曖昧さや論理的矛盾を論じて、電気磁気学の根本から、その解釈の誤った全体像を明らかにしようとするものである。(要点として未来の方向性を示せば、次のようになろう)現行教育では、電磁気学のまとめで、マックスウエルの電磁場方程式が重要な学習の要点に成っている。しかし、光の放射現象で、「配光曲線」等の空間分布特性は『エネルギー』の放射現象として、そのまま『電磁エネルギー放射特性』と解釈できる。エネルギーの空間伝播現象が理解できれば、難しそうに見える電磁場方程式など無用の長物である。元もと、電磁波は電界・磁界などの横波解釈(シュレーディンガー波動方程式の正弦波解釈)は誤った仮想概念でしかなく、すべてエネルギーの進行性の縦波で解釈すべきである。だから、振動数と言う意味も横波解釈の仮想的な概念に基づいて定義されたものである。光エネルギーの光速度伝播は「ポインティングベクトル」で理解できよう。電気照明工学の光照射論を学習すれば、電磁エネルギーの縦波伝播の意味が理解できる筈である。照明と配光曲線が参考になればと思う。私がここに述べた事の論拠として、新世界への扉ーコンデンサの磁界ーの記事を上げておこう。

クーロンの法則『電荷』が素粒子理論等の現代物理学の最先端の研究でも、その概念の曖昧さにもかかわらず、ただ存在が暗黙の事実として認められている。クーロンの法則 は 1785年に、 Coulomb’s law として、フランスの物理学者 Charles de Coulomb によって唱えられた法則のようである。上にその法則の意味を数式で示した。電荷間に生まれる力関係を表現したものである。空間の誘電率と二つの電荷間の距離 r の二乗に反比例すると言う意味で解釈される。『電荷』そのものが、質量に付帯する物なのか、独立に存在しうるものなのかさえ明確に出来ないのである。その存在が不明確でありながら、電荷間に遠隔作用力が働くと言うのである。電荷の間の空間の状況がどの様であるかを明確にしなくても、距離の逆2乗則で力の大きさが決まると言うのである。ここでの『遠隔作用力』とは、二つの物の間の空間の関係はせいぜい誘電率で関係づけて、単に離れた物同士の間の距離だけに因る、遠隔的に作用し合う力の意味で捉える。『電荷』が空間に存在した時、その電荷の周辺の状況をどのように捉えるかが極めて曖昧である。電荷は空間的に独立して空間体積を占める物かと尋ねても答えられないのである。大きさが無い物では、その実在性は主張出来ない筈である。存在は空間の体積を占める。『負電荷』が電子に付帯するなら、電子の質量との空間的付帯状況からの関わりを説明しなければならない筈である。以上の空間に存在する『電荷』の状況を考えるには、一つの図面を採り上げて考えたい。電荷とクーロン力

この図は以前『電荷』と言う虚像で取り上げたものとほとんど同じである。先ず空間に電荷Q[C]が有るとしよう。その空間の誘電率がεとする。電気磁気学では電荷から四方に電気力線が放射されていると解釈される。基本的な問題として、空間に電気力線が有れば、その力線が持つ意味はエネルギーを伴うと解釈すべきである。その空間のエネルギー密度を w(r) として図に記した。前に述べた『遠隔作用力』はエネルギーの存在する空間なら、その空間のエネルギーとの関わりから、『近接作用力』と解釈すべき物になる筈である。その意味で、『電気磁気学基礎論』が空間のエネルギーの存在をどのように解釈すべきかが問われている。(2016/05/09)上の図の数式が理論として考えるのに重要な共通理解の基本と看做される。しかしそんな式で表されるような数量を確認する方法など無いのである。理論は数式で書き表すと如何にも真理であるかの如くに強制的に信じる事を要求する。殆ど当てに成らない数式なのであるが、理屈上論理的であるが如き形式論に成っているのだ。実際クーロン力の数量など計れない現実である(追記)。それが『電荷』そのものの存在性、実在性をはっきりさせる基本論点になる。クーロン力は原子構造論の基本的拠り所であるにもかかわらず、その論理性が問われている。2011.03.11 の原発事故がその物理学理論の根底をも揺さぶる事になったと考える。

物理学理論の論拠である『電子像』を問う。(電子の空間的実在性の真偽をただして) 何点かに分けて考えてみたい。①『点電荷』の寸法と意味。 ②『電荷』は中和するか。 ③『電荷』と雷の関係の矛盾。 ④原子構造論の周回電子像の矛盾。 ⑤『電荷』金属遮蔽と磁界矛盾(この内容は、クーロンの法則よりも『電流と磁場』の観点となるので、別に投稿する)などの観点から考えてみたい。

①『点電荷』の寸法と意味を理解できるか? クーロンの法則の解釈に、『点電荷』と言う用語が使われる。前出の図の電荷Q[C]は点電荷と言う。その大きさはどの程度と認識するか。空間的存在を理解するには、その大きさが欠かせない。元もと人間が大きさを捉えるには、目で見える大きさの範囲が基になる。しかし、原子や光子の話になるとその基準は役に立たない。空間寸法も『相対認識』の量である。蚤が見る世界と人が見る世界の違いや、太陽系外から見る世界と顕微鏡を覗いた世界とは異なる。『点電荷』の点がどの程度の大きさと理解すれば良いかは抽象的概念と具象的概念との違いに関係すると言う意味で、考え方を明らかにしておく必要があろう。『点電荷』と言う、その点の大きさ定義しないで論じる事は、科学論の論理性を無視した無謀な科学論になる。何故『点』に拘るかは『電荷』の曖昧さを質すに大切な論点になるからである。『電荷』の最小基本量は幾らか?長さにも大きさの最小基本量は無い。何処までも小さくなる。だから『電荷』にも基本量は無くてもかまわないと言えるかという問題である。長さは実在性を測る物差しである。『電荷』を測る物差しが有るかと言う問いである。『電荷』は存在しないから決して測定できない。ましてやクーロン力を測れる筈もない。以上『点電荷』から自分勝手な論法で、『電荷』概念の曖昧さを質してみた。数式無しの言葉での反論を期待したい。素粒子論の最先端の研究者に聞けば、きっとそれは「波のような物」であるから、もっと勉強をしてから考えなさい。と言うであろう。この問題を『電子像』に関係づけて、まとめてみた。電子概念と仮想像図の仮想電子像は、教科書的な意味に近い電子の像を考えて表現した。電荷と質量の分布をどう表現するかも困難である。その電子が青い外周線で、その影響する範囲がどこまでかも分からないが、その領域も記してみた。それは電界(これも存在しないが)と言う領域の話に繋がる。

②『電荷』は中和するか? プラスとマイナスの電荷が合体したら、その合体物は『電荷』の無い電気的中性体となるか?と言う疑問への物理的解答が欲しい。自然科学の研究は、新しい発見によって新たな発展を促すものであろう。しかし、過去の知見、特に基礎概念など、を全く否定するような科学研究は殆ど受け入れられないのが通例である。それは今までの研究者の功績を否定することに繋がるから。科学研究集団は、その過去の成果を互いに賞賛することにより、より集団的力の強化を経済的利益の裏付けの為に望む本質的特質を備えているから。だから、『電荷』を否定する論理は学術研究集団にとってはとても邪魔なものとなる。一般に、科学的発見は過去の知見を否定することなく、新しい解釈を積み重ねる手法が主流となり、古い法則もそのまま温存しながら、差し障りなく新しい研究分野に集団化するものとなる。『電荷』など有ろうが無かろうが、そんな利益が得られない事柄に関わる暇も考える意識も無いのが、最先端の科学研究者の実情である。理科教育が子供に為になるとか、役立たないとか、嘘であるとか、そんな事を考えるより、勢力が拡大することが当面の目的である。

誰かが『電荷』など存在しないと言わなければ、科学理論の本当の意味が社会に認識されない。怪しい(曖昧と言う意味で)研究に多額の財政負担の負荷が掛けられる事になる。『真理』や「平和」は実現するのがとても難しい。『電荷』にはプラスとマイナスが有る事になっている。それでは、プラスとマイナスの電荷の空間的存在形態の違いを明確に定義づける必要があろう。当然であるが、専門家(特に素粒子研究者で、プラスとマイナスの電荷の存在を肯定する人)は、決してその違いがどの様であるかは論じないし、答えようとしない。専門的研究者に属さない自分のような者が言うのは気が引けるが、素人の論理で『電荷』のプラスとマイナスの意味を探ってみた。電荷が中和する?『電荷』にプラスとマイナスが有ると言うが、その実体は何かが問われている。上にプラスとマイナスの電荷が合体したら、電気的に中和して、電荷が無くなると考えたい。電荷が無くなると言う事は、自然界には長い間で電荷の存在が消滅する筈と思う。上の(1)で、勝手な想像をしてみたが、電荷が消滅する説明にはならない。(2)の電気回路の例題が一番『電荷』のプラスとマイナスの意味を説明していると思う。ー投稿途中でIT遮断されるため、中断するので途中公開するーこの電気回路で、ダイオードで整流してコンデンサを充電したとする。電気理論によれば、コンデンサにはプラスとマイナスの電荷が蓄えられる事になっている。電源電圧の最大値と同じ電圧までコンデンサの電圧が充電される。コンデンサの容量をC[F(ファラッド)]とすれば、貯蔵される電荷量はQ=C・V_m_[C(クーロン)] となる。ただし電源電圧ピーク値 V_m_[V(ボルト)] である。コンデンサの上下の電極表面にそれぞれプラスとマイナスの『電荷』が対極的の貯蔵されると解釈される。そこで電源側のスイッチを開く(OFF)。次にランプ負荷側のスイッチを閉じる(ON)。さて、コンデンサに蓄えられた『電荷』はどのような事になるだろうか?私自身が、半導体の回路に少しは詳しい専門家らしい真似事をしていた。しかしこんな単純な回路で『電荷』の意味を考えた事は無い。コンデンサの電荷がランプの中で合体して、燃え上がる為、発光放射現象を引き起すとでも解釈すれば良いのだろうか?こんな電気の物理現象は、「理科教育」のとても良い例題になると思う。『電荷』の本質の理解と『エネルギー』の深い意味の理解の為に。ランプで起こる現象は、電気技術的な解釈では、ランプがエネルギー変換装置として、コンデンサの貯蔵エネルギーを空間に『熱』と『光』として解き放す放射現象の役目をしているのである。コンデンサの『電荷』のプラスとマイナスがためられて、その電荷が中和したからランプからエネルギー放射が起きたなどと言う理論は全く理解できない事である。『電荷』などの役目は破棄すべきだ。電荷中和問題で、図の(2)電荷はどこに消えるか?でダイオードの整流動作の意味が分からなくなった。ひとつ後の考察材料として、挙げておこう。ダイオードの電荷分離作用先日ダイオードの動作原理を検索で確認した。私が、工業高校で初めて担当した科目が電気科の『電子工学』であった。当時は、未だ教科書は『真空管』回路が主であった。ダイオードやトランジスタは参考程度の走りであったように記憶している。しかし、フェルミレベルや伝導帯、空乏層あるいは禁制帯などの専門用語を何とか理解して教えて来た。しかし、今になって検索しても、昭和39年当時と同じ説明しかなかった。当時教えていた事は今自分が分かっていない事を伝えていただけであると反省せざるを得ない。右図で、トランス2次側には、何処にも『電荷』のプラス、マイナスが初めからは存在しない。しかし、ダイオードを通して電源電圧を整流するとコンデンサにはプラスとマイナスの『電荷』が分離されて蓄電されると言う解釈が常識になっている。こんな当たり前の単純な電気回路でも、私には理解するに、難しい意味を含んでいるように見える。ここでは理解が十分でない私の事を挙げておき、後ほどの課題としておきたい。(2018/11/25)追記。5年後の現在、このダイオードとコンデンサと電荷に関する認識が明確になったと思う。それはダイオードの機能とコンデンサとエネルギーと電荷(2017/08/31)に纏まったかと思う。課題の解決として。

③『電荷』解釈の雷矛盾 雷は天候が荒れる時に起こる。雷雲が生じ、そこから稲妻の発光現象として見られる。ベンジャミン フランクリンが凧を揚げて電気現象である事を突き止めたと伝説に成っているようだ。荒天に凧上げ、更にビリビリと電気を感じて確かめたと言う話は信じられない。感電死間違いない。雷は電気現象として、高電圧工学の調査・研究対象となっている。自然現象は殆どその原因を『電荷』にその理論的論拠を求めている。それ程『電荷』と言う概念は便利である。余りの便利さから、『電荷』の本質を探ろうとはしないで過ごして来た。学術・学理・学問は高尚で、深遠である為、簡単に素人が取り付けない分野であると見られている。雷の正体で、雷は水蒸気の熱エネルギーの空間放出量の限界に起きる現象であると唱えた。まさか、水蒸気の話では、高尚な学術・学理の問題とは言えなかろう。雷が電気現象であると言うのが現在の学術論であろう。しかし、雷の姿はその「稲妻」の発光現象に在り、それに物理的解釈を下すことが重要であろう。『電荷』がどのような物理的論理で、光変換現象を引き起すかの説明であろう。私も衝撃電圧の実験をしていたが、『電荷』の実在性に疑問を持つような事は無かった。「在る」のが当然という固定観念に囚われていたからである。理論の根底に疑問を持つと、どこまでもその究極に迫る事になる。自然の仕組みが少し見えて来ると、感覚で判断しても余り誤った結論に惑わされる危険はなくなるように思う。高尚な数学的論理式が正しい自然感に導く事は期待出来なかろう。『電荷』の意味を考えるのに、何が光変換するかの図を挙げておく。雷と電荷

何度も取り上げたような題材で少し申し訳ない。冬のドアノブの火花や雷は「電気現象」と解釈されている。静電気と言う『電荷』問題でもある。しかしその本質を噛み砕いてみると、以外に別の観方ができるようである。雷の現象を調べるのが高電圧の発生装置で、衝撃電圧発生回路である。その簡略図が①の平板ギャップ放電回路と見做せる。実際は多数のコンデンサとスイッチSの組み合わせの並列・直列切り替えにより、瞬時に高電圧を発生する回路構成に工夫されている。等価的には図の①で解釈できよう。スイッチSオンで、コンデンサの貯蔵エネルギーが瞬時にギャップに供給される。そのエネルギー量がギャップで保持できない時放電と言われる火花放射現象を引き起す。それが「アーク放電」と名付けられる。前段の電荷中和問題での(2)のランプ発光とエネルギー放射現象としてみれば同じものであるが、状況が違う様に見えるだけである。この場合も、コンデンサの電荷がギャップに供給されて、プラスとマイナスの電荷がギャップ空間で、合体して電荷中和を生じ、光に変換したと解釈できるだろうか。電荷の合体中和が光放射現象を引き起すなどの理屈は全く理解不可能である。電気回路は電荷と電流 i で解釈されるが、電荷も電流も物理原理としては教科書的、教育現場用『仮想概念』でしかない。②の雷の『稲妻』火花発光現象も本質的には①のギャップ放電と同じである。ただ違いは、コンデンサのようなエネルギー源が無い。即ち電気的な閉ループが構成されていない。エネルギーが雷雲と地上との間の空間に貯蔵されていたものが、発光の引き金となる状況が生じて、一気にエネルギー放射現象になる結果である。火花放電と言う状況は空間のエネルギー貯蔵限界により引き起こされるもので、電気的な表現によれば、空間の『電界強度』が30kV/cm と看做されている。空間の誘電率 ε[F/m] =1/(36π)×10^-9^[F/m] とすれば、空間の限界エネルギー密度はw≒40[J/㎥] と計算される(初めに挙げた図の 電荷の意味とクーロン力? のw(r)の計算式を参照)。ここで雷と電荷解釈の疑問を採り上げる。②の拡大で③に示す。クーロン力は同じ電荷間には反発力として働く。だから『電子』などの負電荷同士が集中的に集まる事は論理的に矛盾した法則上の解釈である。同じ電荷同士は反発し、異種電荷同士が合体力を生みだす。と言うのが『クーロンの法則』である。空間で光放射現象に発展するには、相当のエネルギー貯蔵がされなければならない筈である。電荷が空間に『クーロン力』に逆らって、局所化するとは論理の矛盾である。

④原子構造論と周回電子像 物心がついた頃から、原子構造はこのようであると教えられて来た。それは誰でも知っている構造である。原子の中心に原子核が有り、その周りを電子が周回運動していると。?原子構造?

何故、このような原子構造であると決められたのだろうか?ラザフォード(Ernest Rutherford (1871-1937)  ノーベル化学賞受賞者) が1911年頃に、原子核の構造についての考えを提唱した。原子の中心に核として、陽子と中性子が有ると示唆した。しかし、電子が周回運動をしているとの解釈は、未だ定着していないようだ。すでに一般的には、電子で原子が満たされているとは考えられていたのであろう。誰が周回運動する電子像の解釈を提唱したのかは分からない。クーロンの法則が、すでに1785年に唱えられていたとすれば、物質が電子で構成されていると言う解釈はすでに科学的常識と成っていたのであろう。原子核の様子が少しずつ明らかになり、誰とはなしに、周回電子論が常識化して来たのであろう。結局、周回軌道電子像は現在も、量子論初め、全ての原子に関わる理論構築の基礎をなしている。周回軌道電子の運動エネルギーの増減で、原子放射光のスペクトル解釈をしている。

上に述べた事を、原子の数例について考えを纏めたので、次に示す。

原子構造の例

原子質量単位

(2013/2/4)の疑問追記は私の間違いでしたので削除しました。ただ、金属原子などにも、1mol のアボガドロ数との関係が成り立つ意味が理解できない。

1月20日は、大学入学試験が有った。自分が上に述べた事を考えると、これからの「理科教育」はどのようにあるべきかと、教科書との乖離に悩みも深くなる。先日(19日)も、NHKの教育番組で、MITの『電荷』に関する講義内容が放送されていた。その講義を聞いて、「エボナイト棒の摩擦」が電荷の実験的検証の題材に成っている。確かに摩擦をすれば、仕事に対するエネルギーがエボナイト棒に蓄えられると解釈できる。そのエネルギーは普通は『熱エネルギー』である。エボナイト棒の周辺空間には確かにその影響が現れている。そのエボナイト棒が他の物を引き付けるからと言って、それが『電荷』が原因であると断定できない筈である。確かに『エネルギー』もその空間的状況では、磁場のN極とS極のように、その回転流方向性として如何にも2極性を示す。だから、『電荷』もプラスとマイナスの2極性に見えるのであろう。その物を引きつけるからと言って、それが『電荷』と言う確認は出来ないであろう。『電荷』の空間的姿の認識も出来ないし、観察もできないのだから。熱エネルギーも電磁エネルギーも『エネルギー』と言う物理量から解釈すれば、同じものである。今までの物理学と言う世界は『電荷』の存在を基礎概念として自然科学の理論を組み立てている。本当に『電荷』の存在を未来の自然科学の『真理』として子供達に教えて行くのだろうか。

『共有結合』 原子構造で、その原子間の結合力・仕組みの解釈の合理性の問題が有ろう。その基本は周回電子が担っているとなっている。化学物質の結合手について、高分子結合まで『イオン結合』や『共有結合』など原子外殻に存在する電子がその役目を負わされている。その殆どは原子の外殻の負の電荷同士の関係で説明されている。もし、クーロンの電荷間の法則の力を自然界の『真理』とするのであれば、原子結合の論理性の矛盾を上げなければならない。クーロン排力の強力な空間領域でありながら、その影響は無視できると言はんばかりに、論理の矛盾を抱えた解釈に成っている。原子同士の強力な結合を実現する解釈法は原子表面の磁力以外は無かろうと考えた。その視点で『ダイヤモンド結晶』について考えた。炭素結合の秘め事

雷の正体

正体と言う言葉の意味は、「表面的に捉えにくい隠れたその現象の本質」と言う位に解釈している。雷の本質は電荷に基づくとの解釈が専門家や電力技術者の間での科学常識である。ここでは、その常識に反論する事を記すのが目的である。雷は電荷には関係ない。この雷は『電荷』には・・の意味に戸惑う方は、『電荷』と言う虚像を後でご覧ください。『電荷』は実在しないと言う意味。単に『エネルギー』に因る現象と捉える論説である。 上の絵図のように、雷とは光の稲妻と言えよう。先ず雷の特徴を拾い出してみた。雷とは必ず雲の存在が基に成っている。科学論で、雲が発生すると何故『電荷』が関わると解釈するかと言えば、それは「稲妻」の放電と言う用語の解釈が基になるからであろう。稲妻放電は何も電気の放電現象でなくても、火花の光放射が電気現象での、放電のフラッシュオーバーと全く同じものであるからであろう。電気現象を二つほど拾い上げておこう。火花の光放射の様子は雷の現象と同じものである。電気工学が『電荷』の現象と捉えている訳だから、雷が電荷の現象と解釈するのは当然である。しかし、雷の特徴を考えたとき、なんで電荷によると考えるかを改めて見直さなければと思う。そこで、『問答』形式で考えてみよう。その前に、雷に関する過去の記事を挙げておこう。電気現象と捉える「高電圧工学」の衝撃電圧波発生回路と波形の微分方程式解法の論理的矛盾を論じた。雷と指数関数 もう一つは光と質量に関する論である。雷と不立文字 『問』 ①雲が必ず必要である。の訳は?『答』 雲の発生と気象変化。空気中の水蒸気と上空の冷気との出会いが雲をつくる。雲は空気中の水蒸気を水にする現象である。水蒸気は水分子が熱エネルギーにより体積膨張した気体である。上空の冷気で体積が収縮し熱エネルギーを上空に放出する。水蒸気の体積収縮が上空の低気圧を生み、地表面からの高圧・高温空気の上昇気流を生み、地表の周辺に対する低気圧状態になる。水分子におけるボイルシャルルの法則の自然現象の具体例である。同じ意味の繰り返しですが、雲の発生空間領域は、地上からの水蒸気含有空気の連続補給を要請する。供給水蒸気の保有熱エネルギーは、水の中に留まる事は出来ず、放出せざるを得ない。どこに放出するか。雲海近傍の空間に放出せざるを得ない。雲の発生空間がそのエネルギー放出領域となる。大気中の水蒸気について、参考に水蒸気密度の式ー大気中ーを見て頂ければ。 『問』 ②雲の下端が、雷の発生起点となる訳は? 『答』 上の解釈から、その下端近傍がエネルギー放出領域である事からの道理となろう。 『問』 ③、④エネルギー発光空間と放射光。の訳は? 右に稲妻の放射発光源の一部を取りだして、その意味を考えてみよう。フラッシュオーバーと言う発光現象は屈曲した筋状の光放射軌跡を描く。我々がその光の筋を観察すると言う事は、光が我々の目に放射されて、届くから見えるのである。稲妻は光を全方位に向けて、光エネルギーを放射しているのである。こんな稲妻と放射光の絵図で取り上げたかった事は、(何が光になったか)という物理的意味を考えたかったからである。 何が光になったか 光は日常生活で、世界を認識する基本物理量である。科学論では、光子、光量子等の用語で捉える光一粒との観方が基本になっている。その光について、『光一粒は何が変化して生まれたか』を説明できなければ、科学論として完全とは言えまい。『電荷』論に因る限り、おそらく説明は出来なかろう。結局『光』とは何かが明確に認識できなければ答を得る事は出来ない。『振動数あるいは周波数』で光を認識することは実験的な観測、測定の手法としてそれ以外の方法が無いから、止むを得ないのである。実験的に共通理解の判断を求められる事から、止むを得ない物理量概念が「振動数」である。しかし、その科学解釈論の依存概念である「振動数」は光一粒には無い。物質、原子あるいは分子から光が放射される時、その状況は光一粒ずつを単独に放射する訳でなく、エネルギーの放射形態が近傍での協調性を保ちながら全体で周期性を持って放出するから、次々と光一粒の連続的な放射が繰り返される、その状況を観測することになる。だから実験に因る計測上で「周波数、振動数」として捉えられるだけである。「振動数」が科学論の基本概念として重要であると言うのは、それは科学的な実験上の単なる「便宜的認識手法概念」でしかないと見做さざるを得ない。以上の光の基本解釈の上で、光は何から変化したのか?を問うのである。光の速度を考えれば、その光一粒の空間的実像を観測し、把握するなど無理である。計測器はそんな光の実像を捉えられないのである。せいぜい「振動数」と言う繰り返しの波としてしか観測できない。基本的認識で、自然界は極めて単純であり、単純さ故に複雑な様相に変幻自在な姿を生みだす。という観方(私はこの用語を目で見るのでなく、自分の勘・感性・心と共鳴すると言う意味で使う)に従う。光は『エネルギー』そのものの究極の姿である。何も他の物から変化するのでなく、エネルギーそのものの一つの自然界の巡り来る姿である。雷の本質がエネルギーである事から何も不思議な事ではないのである。実験的に観測は出来ないが、「振動数」から解放された『光一粒』の実像認識を示した。光とは何か?-光量子像― 。「振動数」を実際に測定する方法がある訳ではなかろう。計測上の実験的手法・解釈法での便法でしか無かろう(2013/08/19)追記。 稲妻の光の軌跡が何故細いのかについて考えたい。(2013/08/19)現在のところ、未だ答えが得られていない。ただ『電荷』で解釈することには無理がある。空間を『電荷』がどのように移動して、プラスとマイナスの『電荷』間でどのような物理現象により、光発光現象へのエネルギー変換が可能なのかの説明が出来ないから。『電荷』中和現象なのか、それ以外の『電荷』間の変換現象なのかの解釈が出来ないから。『光』変換後の『電荷』はどこに行くのか。素粒子論の論理性を尋ねる『問答』である。

雷と不立文字

また雷の事を書きたくなった。去年11月に「雷と指数関数」の標題で書いた。微分方程式の解法の矛盾点を含めて論じた。今回は『不立文字(フリュウモンジ)』という東洋哲学用語との関係で論じて見ようと思う。雷様と昔から畏敬の念を持って接して来た自然現象でもある。科学的にも中々捉えきれない不思議さを秘めている。不立文字という用語の意味は、或る事象を説明しようとしても、言葉で解説して理解して頂く事が出来ない、という程度の意味と解釈している。ここで雷と不立文字の関係は雷を言葉で説明できないと言う事に結びつく話に成るであろう。書けない事を書くと言う事がそもそも矛盾である。それでも自分なりに「自然科学論」を書く心算でいるのだ。厳密に自然現象を論じようとすると、数式では説明できないだろうと言う事である。しかも『専門用語』の意味を厳密に認識しようとすると、結局矛盾に突き当たり、その専門用語さえ使えなくなると言う意味である。数式も専門用語も使えなくなれば、科学論が成り立たない事になる。落雷は夏に多い天空の自然現象であり、恐ろしい現象でもある。電力工学では、「高電圧工学」の分野として、長年研究されて来た。しかし未だに、すっきりと分かったと言えない状況にあろう。その原因の根本は『電荷』を実在物理量と決めて、解釈しているからに過ぎない。電荷概念を捨てることにより、始めて「雷」の物理的真実に迫れる筈である。 『電荷』という虚像で、少し電荷概念の矛盾について述べた。落雷現象を、自分の能力の無さを棚上げにして、電荷概念なしに解釈してみたい。右にその落雷の考察ポイントを①から④までの番号を付けた所の現象を基に考えてみたい。落雷現象は、先ず初めに「前駆放電」という現象が雷雲と地上の間の空間に起きる。「放電」という言葉そのものが概念では電荷の現象という意味であるから、使えないのであるが光を空間が放射する事の意味に限った解釈で「放電」の用語を捉える事にする。丁度、電磁界の解釈で、電界と磁界という用語を使わなければならなかったと同じ説明上の『不立文字』の問題でもある。電荷概念は、日常生活で遭遇する現象の説明に誠に巧く出来ているから、誰もが信じて疑わないのである。しかし、論理的に追究すると、矛盾だらけの姿を曝すのである。なんとなく「摩擦現象」を電荷で最初に解釈した遠い過去の時点の科学認識も社会状況にも遡って考えてみる必要があろうと思う。『雷雲』が電荷を貯蔵すると言う物理的根本の解釈の基は何か?高電圧工学では、入道雲の発生時に、上昇気流に伴って、水滴や氷粒の摩擦が起きる。その摩擦を基に電荷の分離が起き、雲の中にプラスの電荷部分とマイナスの電荷部分が分かれて生じるような解釈が取られている。何で同じ者同士が摩擦をすると、プラスとマイナスの電荷に分かれなければならないのだろうか。例え分かれたとしても、プラスとマイナスは常に引き合う基本的性質を持つと定義しているのだから、ワザワザなんで分離する力が生じると言うのだろうか。このようなしつこい理屈を述べると、科学論に反すると言われるのである。科学論は数学的論理方程式によって、科学的論理解釈に脳が訓練された特有の思考方式による科学者の集団的論理場領域なのである。①の雷の発生起点となる雲の状況をどう認識するかが一つの要点になろう。クーロンの法則を基にしなければ、電磁気学が成り立たないと解釈する点に大問題がある。電荷を否定すれば、クーロンの法則は即座に破棄しなければならない。雷の現象には、雲の中での放電と雲と地上との間の落雷とがある。落雷は高速度撮影の観測写真等で、前駆放電現象が見られる。番号①を起点に複雑な軌跡の光の筋が②のように天空に広がり、如何にも何処に放電すれば良いかと、触手を伸ばして相手を探しているような姿の光の筋である。その一筋の③から④へと伸びた筋が目的地に到達したが如くに、その筋が「主放電」の落雷現象の道筋に成る。この主放電の光の軌跡がエネルギーの放射源である。落雷現象が如何にも雲と地上の間に貯まった『電荷』の中和現象と解釈すれば、科学論として辻褄が合うように思える。しかしそんなに簡単に落雷現象を『電荷の中和現象』と解釈して納得したと言えるかという事である。触手を何本も空間に伸ばした複雑な前駆放電の光の筋をどのように解釈したら良いかという『問答』になろう。

落雷のエネルギー解放現象 空間の放射エネルギーには様々な種類がある。今問題になっている『放射性物質』からの核分裂放射エネルギーもその一つである。核分裂放射エネルギーは目に見えない。しかし、空間に展開される落雷の放射エネルギーは強烈な放射光を放って、空間の貯蔵エネルギーを解放するのである。「量子力学」で、原子、分子の光の放射現象を取り扱う。蛍光灯の「蛍光物質」の放射光もその理論で解釈されている。しかし、電子の運動エネルギーが何とかこうとかと解釈されるが、そんな原理は当てに成らない。その理論の矛盾を挙げておきます。蛍光灯の発光現象は水銀蒸気の発する紫外線が蛍光物質を刺激する光の波長の可視光線への変換現象と解釈されている。紫外線に比べられないような、150MHz の波長空間(定在波)で 40cm の直管蛍光灯が高輝度で発光する。これは余り理論解釈と違い過ぎましょう。空間への放射エネルギーの形態はさまざまである。あの夜空を引き裂く落雷の主放電の光放射現象を、その光の放射エネルギー量を積算計算したら、途轍もないエネルギー量になろう。要するに空間に貯蔵された空間エネルギーの放射現象が雷現象の正体である。高密度エネルギーに直撃されたら、人の生命は耐えきれない。結局雷現象を科学論として取りまとめられたかと言えば、エネルギーの空間実在量として認識できるかどうかにかかる問題であると言えよう。光をそのエネルギー量として捉えられるかどうかであろう。

質量とエネルギーの等価性 ここで取り上げるにはと躊躇する。しかし、先日NHKの番組で、「宇宙の渚」とかがあった。古い資料の中に見つけた物がある。宇宙と繋がる様な図案である。質量・エネルギーの等価性実は、事情があって、発表出来なかった資料である。日本物理学会第64回年次大会。エネルギーが質量の基 第64巻1号第1分冊 p.20.(2009)  の発表のために準備した資料である。丁度宇宙の渚での「スプライト」の雷放電模様に関係した絵図に連想できると思う。ヒッグス粒子などの素粒子論に対抗した異なる質量概念の解釈絵図である。序でだから、その時のもう一つの資料も示そう。素粒子衝突の模型を描いたものである。丁度粒子加速器での粒子衝突の様子にもなろう。必ず衝突すれば、エネルギーが、質量が光に変換されて、放射される。陽子などの粒子を加速すると言うが、電気磁気学理論では、陽子の電荷加速なら、電界以外の加速力は無い筈である。しかるに、セルン加速器は「磁界」で加速している。陽子の加速に磁界加速は原理的に『嘘の不可能な加速法』である。それは余談として、粒子衝突で放射される光は質量の運動エネルギーが光に変換すると言うより、質量が加速されたエネルギー分まで等価的に「増分質量」と解釈すべきものであり、その分も含めた物の中の一部が『光放射エネルギー』に変換されたと解釈すべきである。その光はエネルギーの大きさに差はあろうが、蝋燭の光と本質的には変わりが無いのである。これらの光はすべて消滅する訳ではないのだ。光はそのままエネルギーなのである。光が放射されて、必ず何かの障害に突き当たる。そこで屈折、反射および吸収の様々な障害という媒体との相互干渉で、状態変換を起こす。遂には吸収されて熱エネルギーなどになる。その熱エネルギーも完全に原子・分子の内部に吸収されれば、それは『質量』になる。それが『質量・エネルギー等価則』という事だ。『エネルギー保存則』は自然界・宇宙の基本法則である。光のエネルギー保存則をどのように解釈するかが素粒子論の問答に成る。