タグ別アーカイブ: 雷の正体

雷と科学論

雷様と呼ぶ。様付の自然現象・天空の光と音の饗宴。

誰もが知っている。ベンジャミン・フランクリンの名前も雷とのつながりで知っている。

恐ろしくて、恐怖も不思議な、知りたい科学論。しかし世界は存在もしない『電荷』で覆い尽くされているこの怪奇な科学理論の世界?そんな如何わしい科学理論の世界が許せない思いで再び取り上げる。

雷と電荷の物理 (2021/06/22) でも取り上げた。いつまでも未練を残して、専門家の科学論に抵抗する。電荷と科学リテラシー (2021/02/10)。

先日も「雷の正体」とgoogle で検索した。そこには子供たち向けの多くの解説記事が昇る。殆どが、上空の雲の中で、水蒸気から出来た氷が上昇時に、摩擦で電気が発生するとある。古くから研究所などの専門家がそのように話し、そのような解説をテレビで取り上げて放送している。筆者も雷の正体として記事を投稿している。7ページ目に検索に現れた。

日本の電力中央研究所の解説記事もそうだ。

何処でも、誰でも、特に科学者と言う研究者が『電荷』が自然界の基本物理量として唱え、主張して社会的専門家として敬われ、尊敬されている現実の世界の科学常識だ。

そんな中で、おそらくただ一人筆者は『電荷』など自然世界には存在しないと30年以上前から唱えてきた。

『雷』は自然科学理論の真相を解剖するに最適な論題である。

希望がある。

市民討論会で、論壇で有名な科学者と討論して、市民が視聴して判断する機会が在ればと。何処で、誰が、どの様な訳で、『電荷』が物理学理論の根幹を支える基礎概念となったのか。その真相を明らかにすることが科学教育、市民科学リテラシーの為に今こそ考える課題だ。子供たちに「嘘」の教育が為されてはいけないから。科学者の社会的責任の為にも。考えない科学理論は良くないよ!専門家と言う狭量科学理論からの開放の為に。

科学の市民による民主主義の論壇となれば。民主主義の科学論の土俵が欲しい。

雷と電荷の物理

(2021/06/22)。とても興味ある記事が手元に在る。専門家の論説:「雷の物理とその観測技術」だ。

雷の正体(2012/11/13) 「(注)この記事も一つの図が勝手に見えなくなっている。今日その訳は?新潟県議会 の記事で「日本国憲法との関係を述べた」その事例だ。??」は筆者の記事だ。それに対して次の記事は所謂専門家の記事だ。『電荷』が自然界に存在するか、しないかで別れる観方だ。

「雷の物理とその観測技術」が日本物理学会誌 Vol.71, No.4, 2016 。話題として解説されている。ところどころ色鉛筆で下線を引いて注目した跡も残した解説である。

長く電気回路現象の物理的理屈を考えてきた。結論は電気回路に『電荷』は無意味な概念で、そんな物理量が自然世界に存在する訳はないと確信するに至った。

だから専門家が解説する「雷」の物理現象解釈は全く間違っているとしか言えない。『電荷』など存在しないから、他の解釈に因らなければ意味が無い説だ。

雷の特徴は何か?

『ピッカ』と光の放射を伴う。先ずその光は何が光になったのかを解説しなければ、物理学とは言えない。その光が『エネルギー』と理解しているのか?『エネルギー保存則』と言う物理現象の根本原理をどの様に専門家は意識しているか?『エネルギー』の意識無しの物理論は全く信用できない。それは自然を観ようと意識しておらず、物理学論を論じているだけでしかない。それも専門的解釈論で。

その専門家の論理は、勿論電気回路での『電荷』や『エネルギー』の役割など考えたことも無い中での解説論であると思う。

見えるもの 見えないもの (2015/03/12)。雷は見えるがその本質は見えないようだ。本質は『熱エネルギー』だ。

電荷と科学リテラシー

(2021/02/08)。科学理論と科学技術の間の断裂に対する公開質問。

時代は限りなく進む。5Gなる高度情報社会に向かって、人が知り得ない程社会の真相が不可解な世界に突入してゆく。そこに展開される科学技術は人類をどこに向わせようとしているかさえ予測不可能な事態をきたしている。少し前に成るが、次のような報告もある。その意味を踏まえて質問を提起したい。技術概念の『電圧』、『電流』あるいは理論の概念『電子』『電荷』とは何かを。

「提言  これからの高校理科教育のあり方  平成28年2月8日 日本学術会議 科学者委員会・科学と社会委員会合同 広報・科学力増進分科会」での提言の記事の 1 はじめに の部分から抜粋させて頂きました。

それは、2008年9月に報告書『21世紀を豊かに生きるための「科学技術の智」』として公表されたものです。この指摘の意義を踏まえて、科学理論の根源的概念『電荷』を科学リテラシーと言う観点から捉えてみたい。

『電荷は存在するか』と検索しても、『電荷』を否定する記事は殆どない。電気回路現象では、『電子』が導線内を流れると解釈され、その負の『電荷』が基礎となっている。あらゆる現象で、何処にでも在るのが『電荷』で、理論の解釈の基礎概念として容易く登場する。何度も同じことで誠に恐縮であるが、再度『電荷』の否定の具体例を提示して論じたい。それは誰もが考え易い基礎的問題の例題を取り上げて、その中での科学的常識としての『電荷』の取り扱い、解釈の仕方について議論を提起したい。

これは、平成27年(2015年)7月29日 日本学術会議 電気電子工学委員会 電気電子工学分野の参照基準検討分科会 から報告された

『大学教育の分野別質保証のための 教育課程編成上の参照基準 電気電子工学分野』

をも参照しての問題提起でもある。

設問:『電気回路のコンデンサは何を貯蔵するか?』

こんな大学入試問題を出したら、どんな答えが正解に成るだろうか。

『エネルギー』か『電荷』かどちらが正解とされるか。

具体例①。

 

右図のような、直流電源にコンデンサを繋ぐ場合の現象を取り上げる。『電荷』とは何か?『電圧』とは何か?を論じたい。

『電荷』貯蔵論。この電気回路でスイッチSを入れた時コンデンサには突入電流が流れ込み、プラス側に正の『電荷』、マイナス側に負の『電荷』が貯まる。と言う解釈が教科書の解説と考えられる。それが『電荷』を基礎概念とした現代の『科学パラダイム』だから当然だ。さて、この『電荷』は何処から来たものか。独立した『電荷』だけが自由にその辺りに在る訳ではなかろう。この自然世界で、原子の構成要素の基礎として、核の陽子の正電荷と周回電子の負電荷として存在している事に成っている。それ以外に『電荷』の存在する場所はない筈だ。単にプラスとマイナスの『電荷』が存在する訳ではない。『電子』と『陽子』に『電荷』は付帯して存在するのみの筈だ。その『電荷』がコンデンサの正、負電極に分離して集合するとしか、『電荷』論の意味を理解する道はない。従って、正の『電荷』とは正イオンしかなかろう。銅金属なら銅イオンとなる。電子の抜けた銅イオンしか正の『電荷』の機能を発揮する物には成り得ない。という事は正の電極版の銅金属から『電子』を剥ぎ取って、負極側の電極版に集めること以外不可能だ。この辺の解釈はとても理解しかねる事である。正電極銅板から『電子』を剥ぎ取って、電源内を通過してようやく負電極版に集める以外方法が見当たらない。しかし科学理論の現代パラダイムからは当然の『電荷』論でもあるのだろう。この意味での『電荷』の貯蔵について、本当に物理学の大学教育をなされておられる方々は少しも矛盾を感じられないのかと不思議なのだ。正電極版の銅原子から『電子』を剥ぎ取る理論的原因をどの様なものと解釈されるのか。その銅原子にどんな電気的力が働くと考えるのか。銅原子イオン以外の正の『電荷』の解釈が他に在るならそれをお示しいただきたい。

負電極側の『電子』の集合について。負の『電荷』は『電子』以外はない筈だ。専門的な高度の理論に、素粒子論がある。原子構造はじめ『電子』は質量と負の電荷を保有したレプトンと言われているようだ。その『電子』が質量を具備しているとなれば、その『電子』を移動させるには力学理論の『力』が必要の筈だ。上の電源とコンデンサの接続回路で、『電子』をどのような力の原理で、負の電極側に集められるのか?この辺の根本的な科学理論は、本当の現代物理学の専門家の解説でないと手に負えない高度な論と思う。極めて日常生活の場での卑近な電気回路現象であるが、そこに科学論としての論理性を求めると、とても難しいものである。こんなところに、科学理論の本質が隠されているように思う。クーロンの法則に反して、負電極版に負の『電荷』だけの『電子』を集められる訳はどのような原理に因るのだろうか?ここのコンデンサでは『電荷』間の排力と言うクーロンの法則の原理は無視して、どんなに『電子』同士が密接しても、どの程度の力が掛かるかを考えなくても良いのだろうか?誠に都合が良すぎると思うのだが如何のものか?専門家にお答えいただきたい。

理論の『電圧』とその計測技術量。

『電圧』は電圧計で測る。それが科学技術の真骨頂でもある。理論と技術の関係でもある。電圧計を回路につないで測る時、何を、どの様な物理量を計ると意識しているだろうか。『電圧』とは何か?電気回路の現象を理解しようとすれば、『電圧』と『電流』で考える。それはとても考え易くて便利な解釈法を確立した「オームの法則」として現代社会の電気技術文化となっている。それらは電圧計、電流計で計測できる技術概念量である。しかし電気現象はすべて電線導体で構成された空間を光速度で伝送される『エネルギー』の流れなのである。自然現象はすべて『エネルギー』の縦波あるいは軸性回転流の現象なのである。『電圧』もその『エネルギー』の流れる空間の規模を捉えた科学技術の技術量なのである。それを理解するには『電圧計』の内部構造をよく知り、何をどんな原理で計測しているかを理解しなければならない。単純に『電圧計』の内部構造を表せば、図に示したように抵抗とコイルの直列回路でしかないのだ。何故『電圧』と言う技術量が測れるかと言えば、コイルの中の『エネルギー』の貯蔵量と磁石の針(本当はNとSの磁石内の可動コイルの磁界なのだが、磁針で表現した)との間に生じる近接作用力が『電圧』と言う評価量の表示の秤の力になるからである。冒頭に示した提言の中での、「市民と技術現場との隔たり云々」だけでなく「物理学理論」と「科学技術理論」との間における隔たりを理解する一つの例となるのが『電圧』でもあろう。『電圧』が『電荷』との関係で解説される現代物理学理論の矛盾をその根本原理でどう捉え、どのように世界の人が理解するかが今問われている問題であると思う。『電荷』は自然世界には存在しないのだ。科学技術概念での理論を解釈しやすい方法として、その基礎概念に『電荷』を創造し、据えたのだ。残念ながら、原子構造も『電荷』での理論は一つの解釈法でしかなく、『電荷』での理論には矛盾がある筈だ。

具体例②。

直流電圧だけでなく、交流回路の中での『電荷』の意味も考えてみよう。交流回路では変圧器が電力技術の大きな基幹要素となっている。変圧器の基本動作原理は⦅ファラディーの法則⦆である。コイルの中を通る磁束量φ[Wb]がその動作原理の基礎概念である。磁束の時間微分とコイル巻き数の積で『電圧』が決まる。その負荷にコンデンサを繋いだ。コンデンサは何を貯蔵するか?

『電荷』貯蔵論。

直流電源と異なり、交流回路現象での『電荷』論は更に解釈に困難が伴いそうだ。しかし、交流であっても『電圧』に対する原因を『電荷』以外に求めようとしても難しい。現在の科学パラダイムの立場で論じようとする限り。変圧器の二次巻き線コイル内から『電荷』のプラスとマイナスを発生させる原因を解き示すことが出来るかという事に成る。とても巻線の中に『電荷』分離発生の原理を見つけ出すことは困難であろう。それでは交流の場合の『電圧』の原因は『電荷』でないとして、どの様な意味と解釈出来るかとなる。この交流電圧に対して『電荷』論は無理と考えざるを得ないのではなかろうか。コンデンサは何を貯蔵するのか?『電圧』が交流であろうと直流であろうと、その意味の本質は同じでなければならないのだ。

『解答』。コンデンサは『エネルギー』を貯蔵する機能素子である。決して『電荷』などを貯蔵するものではないのだ。

『電圧』とは。

電源に繋がれた回路はその電源端子に対してすべて負荷なのである。ただ電線が張られただけでもそれは負荷となるのだ。電線は必ず静電容量、即ちコンデンサの負荷である。『電圧』とは電源の『エネルギー』供給能力を示す指標とも見做せよう。電源の能力が『電圧』の値を決めるのだ。1.5[V]の乾電池電圧。それは電線路の負荷に対する供給『エネルギー』の能力から決まる値として『電圧』が決まるのだ。

v = (W/C)^1/2^ [V=(J/F)^1/2^]

が電圧の物理的意味なのである。

電圧の次元が (J/F)^1/2^ である訳は、空間の静電容量の次元 [F] の意味を哲学的に捉えることによって、少し分かるのかも知れない。『エネルギー』との意味を如何に捉えるかであろう。

懐中電灯の特性 (2021/01/25) 。『電圧』という意味 (2020/07/04) および電圧とエネルギー (2020/07/10) 。コイルの電圧時間積分と角周波数ω (2016/03/21)。雷の正体 (2012/11/13) 。

電荷と科学リテラシー という表題で論じた。科学リテラシーとは、科学に関する特別の専門的研究を仕事としておられる方々の科学論の常識と捉えられる基礎的知識を、専門的には素人の一般市民が共通理解をするに必要な科学的基礎を共有することが必要だ。という意味かと思う。その意味で言えば、『電荷』程共通に基礎知識として共有してなければならない物理概念はないだろう。しかし、その過去からの長い科学論の基礎として歴史的に確立された基礎概念『電荷』が筆者には、この自然世界に存在するとは理解できないのだ。現代科学パラダイムが信じられないのだ。科学理論をどう捉え、学校教育で如何に理科教育を構築すべきかの瀬戸際に在ると考える。教育機関及び教育者の社会的課題だと考える。

『電荷』という虚像

この世界に『電荷』は決して存在しない

(2012/08/03) 追記。以下の記事に対して、現在の「素粒子像」を、『電荷概念』無しで纏めたので追記しておく。素粒子ーその実像ー

私が科学の全世界を相手に挑戦することに成った原点は『電荷』の実像を問う事であった。物理学に関する『問答』の始まりであった。それは同時に自分自身との戦いを始める事であった。電気磁気学という物理学の中心的基盤がその電荷に論拠を置いて構築されている。その根源的科学常識を疑う言説は、到底科学の世界に受け入れられる筈はなかった。それは『あいつはとうとう狂った』というレッテルを貼られる事でもあった。電気技術分野への研究意欲と自信は大きかった。しかし、電荷否定への歩みは自分自身を、その知識をすべて破棄しなければ、新たな道を歩む自分を見出せない知的破壊の闇に突き落とされる事でもあった。2011年3月11日の東日本大震災で、日本物理学会第66回年次大会も中止になった。新潟市のホテル宿泊予約も全て取り消しという誠に大きな損害を関係者にお掛けする結果になった。今日はこの4月、桜が咲き、新入学の初々しい顔が集うこの時期に、挑戦の原点である『電荷とは何か』を取り上げるに相応しいと思う。電荷の存在を否定する事は『原子構造論』で原子核の周りを電子が回転する外殻電子軌道論さえ否定することである。プラス電荷の『陽子』とマイナス電荷の『電子』が電気的なクーロン力で引きあう釣り合い論も否定しなければならないのである。営々と築き上げてきた歴史的原子構造論と言われようが、そんな物は何の役にも立たないのである。理論屋が理論の砦に閉じこもる為の城壁みたいな役にだけ役立つ代物である。この『電荷』概念を論じるには、何故『電荷』を必要と考えたかを振り返って見なければなるまい。それは摩擦に因る吸引力の謎解きの必要性もあっただろう。力の原因を『電荷』に求めた結果と観る。そこで、クーロンの法則を斬る (2013/01/06)で記事にした。

電荷その物を空間の実像としてどんな風に描けますか? 電子に付随する『電荷』という物でなく、電荷その物の実像を尋ねるのである。同様に、陽子に付随するプラス電荷という意味で無く、プラス電荷その物の実像を尋ねるのである。この度の大震災で、空恐ろしい事態を引き起した。安全神話の原発破壊事件。その放射性物質拡散が科学技術の未熟さを露呈した。専門家という虚像が崩壊したと私には見えた。素粒子論もその怪しさの一端にある。原子核崩壊という現象には、正のβ崩壊というのもある。原子核の『陽子』が『中性子』に変換し、その時『陽電子』とニュートリノが放射されると言うのである。それもβ崩壊の放射能(エネルギーの放出)を出すと言う。陽子は中性子と陽電子がその構成要素のように見える。その『陽電子』はプラスの電荷を身にまとった(?)電子という物らしい。その電子にまとわり付いた『プラスの電荷』そのものの空間に実在する実像が「どんな物であるか?」を問い質しているのである。『電荷』の実在性を唱えるなら、その物の実像を提示しなければならないのである。それが科学者の務めであろう。特に素粒子論の研究者は、その電荷の実像を示す努力も無しに、高尚な理論を掲げることは、科学の世界に混乱を引き起すだけであると考える。今回の『福島第1原子力発電所事故』に対応する、現場の技術作業者の過酷な業務に対して、遠くに離れた『原子力推進者集団』の責任者が的確な指示も論理性も示し得ない現実を目の当たりにして、科学理論の虚飾性を強く印象付けたと思った。今強く思う事、それは『電荷』概念の虚飾性に改めて光を当て、その解剖が必要だと思う。『電荷』という物理量が存在するなら、それこそ世界を構成する『素粒子』に位置付けなければならない筈である。電子以上に『電荷』の存在を基本にしなければならない。それならば、『プラスの電荷』と『マイナスの電荷』とがそれぞれ独立した実在性を示す筈であるから、その空間的違いが如何なる物かを示さなければならない筈である。そんな電荷が存在する訳がなかろう。だから科学論が嘘で作られていると言う事に成る。

電荷は空間の『電気力線』概念でその特質を表現する。電荷だけで電気現象を論じることはない。電荷概念を論理に取り上げる時は、必ずその担い手である『質量』を必要とする。陽電子や陽子あるいは電子である。その『質量』という物理概念に於いて電荷が論じられる。それは取りも直さず、電荷の実在性を唱える主体的根拠を主張できない事を物語ると言えよう。私が電子の電荷概念に疑念を抱いた最初の意味を記しておきたい。電子あるいは『電荷』を表現する時、その特質は『電気力線』に拠って表現される。電子は負の電荷を身にまとっていると解釈して、プラスの電荷との間に『電気力線』という線束が生じ、その線に拠ってプラスとマイナスが引きあう引力を生みだすと説明する。それならば、電子が単独に空間に存在する時、その電気力線はどのように表現されるかという事が問題になる。それを左の図のように、全空間に放射状に力線が張り巡らされていると考えれば良いのだろうか。実際はそんな物は無い訳であるから、上図は嘘である。しかし、教科書ではそれを必要とする訳であるから、その矛盾を説き明かすための方策として、一つの表現図案を考えたのである。これが基に成って『問答』が始るのである。それでは、その電子が運動すると、その力線はどのように変化するかという問いである。電荷が移動すれば、電気力線も変形する筈である。これは、『電荷』や『電気力線』が実在するという論理性の思考過程で考えることであり、どのように考えるかは無限に考え方があろう。運動と電磁気の関係は『光の相対速度』を考えなければならない問題であり、基本的思考の立脚点を明確にする必要がある。その為にアインシュタインの『特殊相対性理論』が詭弁論であるという結論を得るまでに長い時間を要した。その立脚点に立てば、光も日常の生活感覚上で何も不思議な点はなく、生活者の感覚で解釈できるのである。巷に『アインシュタインの崇拝的複雑怪奇なー相対性理論ー解説本』が溢れているが、そんな物は正しくない。話を戻す。電子が運動すれば、その影響は空間的に光速度以下で、必ず遅れるのである。無限速度であれば、電気力線も分布状態に変化は生じない。世界に『無限速度』の現象は無い。光の速度以下で、運動の影響が生じるから、力線の形状も変化すると解釈しなければならない。それも、教科書概念を踏襲するという範囲での話であり、実際はそんな物は無いのである。さて、それでは電子のような物の何か存在する実体が全くないと言うのかと問えば、そうではない。では何が有るかということである。存在するのは『エネルギー』一つである。力を生むのも空間に実在するエネルギーの諸現象である。上の右に示した、運動電子の電気力線は電子が運動するにつれやはり時間的遅れを伴いながら、変化する。電気力線が動けば、電磁気学のマックスウエル方程式が示すところの、電界と磁界の相互作用の解釈に繋がるのである。私が解釈する電磁界理論は『電界』とか『磁界』とかをそれぞれ別の物理量として捉えるのではなく、同一の『エネルギー』の一面的見方が『電界』『磁界』という概念で捉えられているに過ぎないと認識するものである。教科書に従えば、運動する電子が周辺空間に電気力線、磁力線を生む事に成る。電気力線の空間的変化が磁力線の発生と成るのであるから、マックスウエル方程式のままである。その電気力線や磁力線は空間にそのエネルギーを持つ事を教科書でも明確ではないが、電界磁界で捉えるエネルギーとして述べている。では電子が持つエネルギーは幾らと解釈すれば良いかという問題である。この点に関して『電子のエネルギー無限大の矛盾』について指摘したのがP.A.M.DIRACである(磁気モノポールは頂けない)。それは電荷概念そのものの矛盾が故の問題である。物理学の欠陥は『エネルギー』その実在性を認識していない事である。電子の周りの空間に存在するエネルギーをどう認識するかである。その時、電子の範囲は空間的に何処までと解釈するかの困難を伴うのである。エネルギーが存在すれば、それは何物が造り出したものかという極めて素朴で、単純な疑問である。そんな易しい捉え方が、市民の生活に根ざした科学認識に重要な事である。数式が無くても自然現象の本質を説得し、説明できなければ、それは真の科学ではなく、偽物らしく感じざるを得ないのである。

電荷と空間エネルギー 数式が無くても自然現象の本質を云々と言ったその裏で数式に頼る能力の無さを知る。数式の無意味さを説明するには数式を書かないと無理と言う自分への矛盾をご勘弁いただきたい。電荷に伴う空間のエネルギーと言う意味は何かを解剖してみる。ここで述べることは学校の『電気磁気学』と言う教科で、先生が教科書に従って教える時の内容を復習する様な意味で、先ず解説するのである。それが上の図である。+Q[C]の電荷が空間にあると、その周りには均等に電気力線が球状に放射されると解釈する。半径r[m]の球表面積4πr^2^とεで除する電気力線密度がその点p(r)の『電界強度のベクトルE(r)』だと言うのである。その単位は[V/m]で、1[m]当たりの空間電圧[V]になる。図に示すようにその式の電荷+Q[C]からどうして、単位[V]が出るかは単位換算をしなければならない。それをここに参考に載せる。電荷の単位クーロン[C]はエネルギー、ジュール[J]とファラッド[F]の平方根という奇妙な単位に成る。この表は大変便利だと自負している。電荷に拠る電気力線はそこにエネルギーが同時に存在する事を規定している。そのエネルギーはw(r)の密度で解釈される。このエネルギーは物理学で、電気磁気学で十分認識していないものである。エネルギーの担い手である質量を捉えようが無いから、物理学理論で取り入れると、電荷概念の矛盾を曝す困難に入り込むからであろうかと解釈する。コンデンサ内の電気エネルギー・電界エネルギーは空間媒質の分子誘電分極と言う解釈で説明されるが、点電荷周りの空間エネルギーについては中々分子分極とは言い難いから、エネルギーの存在は目をつむって無視しているのだろう。さてそのp(r)点に、一つの点電荷-q[C]を持ち込んだとする。すると有名な遠隔作用力の『クーロン引力』がたちどころに生じる。このクーロン力が電荷の概念の特徴を備えた大切な『基本法則』と言う事に成っている。そんなものも役に立たない法則ではあるが、教科書では最重要法則である。クーロン力のお陰で、ラザフォードの『原子構造論』が今もって物理学理論の『重層岩盤』と成っているのである。電子のマイナス電荷e=1.602×10^-19^[C]がクーロン力に逆らって、半径rが大きく成る事で電子の軌道エネルギーの増加を生み、量子力学論の光の放射原理の解釈に繋がって来るのである。その原子論では、原子核の陽子と軌道電子との力、万有引力とクーロン力の兼ね合いで論じられているが、その間に存在する『電界に拠る空間エネルギー』等は何の解釈の対象にもならないのである。要するに『エネルギー』は質量が無いとその存在を認識できないのが『物理学理論』である。当然であるが、電子その物も空間に存在すると仮定すれば、その周りには空間のエネルギーを身に纏っている筈である。なお、単位換算については少し纏めて、エネルギー[J(ジュール)]とJHFM単位系 に記してある。この辺で一応、この項は終わりとしておき『原子論』について改めて別の標題で論じる事にしたい。未だに『原子構造論』の記事を纏めていない。電子スピンの解釈そのものが、円環電流との相似概念で解釈されている事に、違和感を禁じ得ない。電子スピンとは?-その空間像ー にエネルギー流としての解釈を示した。原子構造の合理的な解釈は、外殻表面に分布した電子に代わる磁気スピンの繋ぎ手の像で捉えるべきであると考える。「電荷棄却の電子スピン像と原子模型」 日本物理学会講演概要集第64巻2号1分冊、p.18. (2009) に概要は記してある。電荷概念に依存した物理学基礎理論は、その曖昧さに耐えられない筈である。 『電子』とは?-物理学的「お化け概念。この「お化け概念」を改めて、電流計は何を計るか の末尾に述べた。その図をここにも示したい。電子とは何者か電子像

『電荷』概念否定の具体的例題 雷の正体。原子間結合に関する『共有結合』について、炭素結合の秘め事

禅と自然科学

金澤 喜平

禅思想は達磨禅師の生き様に代表されているように思う。中国の『老荘思想』および『古代インド哲学』、『釈迦』等にその思想の源流があると考えたい。人間の生き方、考え方の指針を求めて、人間の苦悩の根源が『欲望』に支配される事に在る。『無為、自然』や「色即是空 空即是色』等の東洋的哲学思想を、人間がその欲望から解き放たれるには、自然世界・人間を含めた科学的悟り以外は無いと言う求道の思想であろうと解釈する。科学的という言葉をどう言う意味と解釈するかは難しい事ではあるが。すべての『真理』を会得する事と言う意味位に考えるべきかと思う。『般若心経』(私はこの経典が日本的仏教の仏壇の先祖に関わるものでなく、現在の生身の人間の生き方を説いている、平和への表明論と解釈する。)の終わりに、『みんなが手を取り合って、世界の真理を学びあいましょう』と結ばれていると解釈する。それはやはり『科学』の分野と観ても良かろう。ただ、東洋的な考え方は、禅の『不立文字』と言う言葉があるように、突き詰めてゆくと言葉で表現する事が出来ないような領域に到達してしまうような傾向が強い。だから、科学的な追求が、『西洋科学』として構築された思想や考え方と異なる方向に行く必然性を持っているようにも思える。私が今思うことは、『物理学』と言う学問体系が西洋の積み重ねる思考方向であるのに対して、それと逆に『東洋科学』は概念を突き詰めてゆく事によって、無駄を剥ぎ取って行くから、結局何も無かったと気付く事を求めているのではないかと錯覚しそうな感じに囚われるかも知れない。しかし違うのである。だけれども、『現代物理学』を論じると、殆どの科学者は『西洋哲学的概念構築論者』で思考方法が出来ているから、それが『世界の科学論の手法』である為、『東洋哲学的科学論』とは中々折り合いがつかない状態になると思う。しかし、やはり科学論は、その論理に『論理的矛盾』があれば、正すのが「科学」の本道であろうと考える。それが『自然科学』と言う学問の世界であろうと思う。科学と哲学は、どうも相容れない範疇、対極的と思われ易い取り合わせであるが、あえて取り上げて『禅と自然科学』なる標題で論じた。有名な物理学者に私の『物理学論』は哲学か文学論で、科学者からは無視されるような意味の批判を受けた。それも定式化された解釈の科学者から見れば一面当然であろうとも思う。まだ深く認識出来ていない科学者にとって見ればやむを得ないだろうと思う。そんな事もあるから、猶のこと「科学論」は皆が手を取り合って考える、みんなの、市民の理解出来る場の論議でなければならないと思うので、数式なしに『科学論』が話題となるべきとの意味で記事にした。

(2013/03/21 追記)  この記事を記して既に2年以上経った。科学論で、電気磁気学の論理に疑問を抱いて、25年以上経過した。『電荷』概念、『電流』否定が科学論との革命的挑戦への闇の世界に入る切っ掛けとなった。磁場がエネルギーの回転流との結論、磁界・磁気概念の本質 に到達した。昨年は水蒸気に関する解釈に迷い込み、自分でも驚く雷の正体 に辿り着いた。雷の原因が『電荷』に無関係である事に気付かされた。水蒸気の放出する熱エネルギーであると。雨蛙の生態についても、雨蛙と幼生生殖 でようやく安堵した。雨蛙ーその謎ー の文集を2006年に配布してから相当経過した。自然科学とは何かと考えると、専門的学術世界での視点だけでなく、市民的生活感覚からの視点の重要性が浮き彫りとなったと思う。(2013/05/05追記) エネルギー(energy)とは?および自然・科学・哲学にも関連して。