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ハミルトンの風車からエネルギーを観る

はじめに (またの文末の自分の恥さらしで御免なさい。憲法と市民権など全くの無知であった。権力と市民権の関係の教育を受けた記憶も無い)。ハミルトンの風車はブログの最初の科学の記事で、放電現象と電荷・電流概念(2010/08/02)にある。何故ハミルトンの風車を取上げるかには理由がある。新世界ー科学の要ーで示した静電界のエネルギー流についての解釈を早合点したようだ。訂正しなければならないと思ったからである(2017/11/07追記・修正した)。それはコイルとコンデンサの磁気ループについても訂正になる。

ハミルトンの風車

極性とエネルギー流 ハミルトンの風車を検索すると、その回転現象の解説にはイオン風と言う電荷が原因となった説明が成されている。マイナスの3万ボルト程で大きな卍型の針金が相当の速度で勢いよく回転する。しかもプラス側の電極が無いのに、マイナスを印加するだけで良く回転する。昭和40年頃の高等学校での公開実験での強い印象が残っている。1.6mmΦの屋内配線用銅線で構成した直径30,40cm風車実験結果が思い掛けずも成功したのも不思議であった。何も傍にプラス電極が無い、空間に置かれたマイナス電極の風車である。針金の先端からジーと音を立てて噴射しながら回転する。ただし、印加電圧が正極性の時はそれ程強い回転力は得られない。明らかに極性によって異なる電気現象であることははっきりしている。放電管内の流れがマイナス電極側からしか流れない事も良く分かっている事だ。その流れを陰極線と名付けたのだ。その流れる実体を『電子』と呼んで解釈するのが現代物理学理論の根幹である。『電荷と質量』を備えた素粒子が『電子』である。その電荷と質量の空間的描像も明らかに説明できないにも拘らず、『電子』と言う素粒子(レプトン)が実在し得るとの前提で構築された電磁界理論である。その電子と言う『電荷』概念への疑問を抱いたのが電磁界の新世界に踏み込む事になった原点である。ハミルトンの風車の回転現象を電子とイオンで解説されているのが常識論である。結局、電子もイオンも『電荷』と言う実在しない物理量概念で、見えないが故に、簡便な解釈で伝統的に積み重ねてきた理論体系の基礎概念となって、社会的な常識論の根幹となって来たという事であろう。今唱えたい事は電子やイオンに替わって、それに対応する『エネルギー』一つで統一的に解釈すべき基礎理論が求められていると言う結論になる。

針電極 針電極のような金属の先端を尖らせて、負の高電圧を掛けるとコロナを噴射する。それは導線に沿ってエネルギーが針先端から空間に噴射されるからと解釈する。導線周辺にコンパスを近付ければ導線を周回する向きに磁気ループが存在するだろう。それは電流で解釈すれば、それが先端部から流れ込む向きと同じ方向ではある。このエネルギー流の解釈は、電子・電流の解釈との明確な違いを説明するだけの根拠を示せないのが残念ではある。残念であるというより、目に見えないものを科学技術で自然現象を利用するように概念化して来た多くの先人の業績を讃えるべきであろう。然しながら、自然の真底に横たわる眞髄は科学技術概念の奥に隠れているのだ。それはを認識するのは各人の自然科学的感性に委ねられていると言えよう。

平板コンデンサ内のエネルギー流 そのエネルギー流での解釈は、平板コンデンサ内へのエネルギー貯蔵をどう捉えるかに、その有意性があろう。『電荷』貯蔵に因る解釈よりも矛盾は少ないだろうから。コンデンサ内でのエネルギー消費は殆ど無かろう。従って、エネルギー流は平板コンデンサ内で何らかの回転流として貯蔵されるだろうと考える。二枚の電極板に対して、エネルギー流がどのようであるか、上下二つの流れであるか、一つの流れであるかは見えないものを解釈する訳で、そこに悩ましい決断が求められる。新世界ー科学の要ーで示した解釈は二つのエネルギー流で決断した。それは下部電極表面での磁界の方向が決まるエネルギー流を上部と同じ電極表面に沿って流れ込むと解釈したからであるが、その点が少し早合点であったと反省している。それは新世界への扉ーコンデンサの磁界ーで示したように、下部電極表面でのコンパスの指示方向が電極表面に流れるエネルギー流との合成流に因ると解釈したことに因った。コンパスの磁気の意味をそのエネルギー流が原因と解釈する捉え方そのものが新しい科学的世界観でもあり、その事との関係で迷いがあったと反省している。今回上に示した図の平板間の一つのエネルギー流で解釈する方がコンデンサ内でのエネルギー貯蔵の姿としては共感し易いと言う感覚的な意味合いをも含んで決めた。誠に科学実験による検証方法という手法が採れずの感覚論で誠に不甲斐なさも抱かざるを得ないと同時に、混乱を与えたらと申し訳ないと思う。コンデンサ内のエネルギー貯蔵で、二つの流れは不自然であろうと感じるからである。以上の考えから、結論を図のようなエネルギー流で捉えた。この平板電極内の空間とその外部との関係は明確な描像を描くことはできない。コンデンサ貯蔵エネルギーが完全に電源との繋がりがなく、独立したエネルギー流になるかと考えれば、それは無いだろうと思う。その曖昧なまま表現した図である。負極性の場合で示したが、エネルギー流は電源の負側からの供給が主流になるとの解釈をハミルトンの風車から類推したことで、正極の電極板に対して少し反発する流れになるかと考えざるを得ない。それがその電極近傍でのコンパスの指示方向の原因となる貯蔵エネルギー流とコンパスのエネルギー流との兼ね合いの問題であるから。基本的にはそのエネルギー流がコンパスの指示方向・磁気ループの解釈の拠り所と考えざるを得ない点にある。

アーク・火花放電 高電圧工学と言う分野がある。それは電力系統の保全対策として、送電線路への落雷に対する対策や、支持絶縁碍子の性能向上に欠かせない研究分野である。その電気的特性は高電圧試験によって基礎研究が成される。平板電極間でのアーク放電現象はその基本観測である。電界強度の空気限界は大よそ30kV/cm位と考えられている。それ以上の電界で火花放電し、絶縁は破壊される。その火花放電現象の原因は電極間に塵などが入り込めば、その局部的エネルギー密度が高くなり、局部のコロナが全体としての放電に移行してしまうだろうと考えられる。その辺の現象を電極板の『電荷』で解釈しようとしてもなかなか難しいと思う。丁度、雷が空間の状況と水蒸気の熱エネルギーの供給・放出との兼ね合いで決まる事から思えば、電気現象も『電荷』では捉え切れない謎が多いだろうと思う。

『電荷概念の否定』の観点 伝統的科学理論が常識として世界に受け入れられてきた。正と負の対称な二つの『電荷』が世界の根源を支えていて、その『電荷』無しには科学理論を論じられない事になっている。伝統的科学の世界観で共通理解に在る社会的安定性の観点から観れば、『電荷』否定の反社会的科学論は誠に迷惑な事ではあろうと理解はしている。2000年にワープロ代わりにパソコンを購入した。雨蛙や日本カナヘビ、揚羽蝶など身近なものを眺めて、生活の術もなくただ漫然と流されて来た。科学研究の機関に所属する事も不可能な人生の状況に追い込まれた。今過去を知って見れば、職歴も書けない現実が身に染みている。退職の手続き一つした覚えが無い現実。翻弄され続けている身には日本国憲法(特に、第98条1項 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部または一部は、その効力を有しない。とあるが、その条項は何の為のものか理解できない。)が欲しい。まさか昭和14年12月1日や昭和39年4月1日に戻る訳にもいかないし、どうしたら良かろうか?平成7年7月(11月の間違い?)には、国会で事務局職員にわざわざ筆者の正面写真までお撮りいただいたので、不審者リストにでも御登録されているかも知れない。身分が不明のまま捨て置かれているかと疑いたくもなる。昭和63年2月にも国会で物議の基になったかもしれないが。当の本人筆者は何も知り得ないまま今日に至る(*1)人定証人喚問。しかし正規でなくても幾らかの現場での経験から、身に付いた電気工学の技術感覚から物理学基礎概念の意味が腑に落ちず、光の伝播現象と物理学基礎概念の実相を我儘勝手な解釈で追い求めてきた。今思う、『電荷』概念否定の感覚に間違いは無かったとそれだけは安堵した。種々雑多な内容をITの世界に恥ずかしげもなく、恐ろしさも知らず綴って来た。パソコンでの情報発信で、学会での正規の学術研究には成らないかもしれないが、専門的学術に無関係の方々にも科学の基礎とは何かと考える意味は伝えられたと感じる。どれも特別科学研究となる様な新しい事でもなく、日常生活で感じる科学感覚が基での考えを発表して来た。しかし、『電荷』否定一つが、科学理論と自然科学の解釈論に未来への課題として無視できない処に在ることだけは示せたように思う。未来に向けた、子供たちへの教育の問題として。

(*1) 人定証人喚問:昭和63年1月中頃、自宅に何処からか『長岡工業高等専門学校の健康保険証』が送付されて来た。長岡技術科学大学の電気系事務室で電気系長にこんなものが送られて来たと見せた。そんなものを持って居てはいけないと取り上げられた。その後、その保険証がどのように処理されたかを確認していない。その数日後、長岡工業高等専門学校の事務職員がやはり自宅に「未だお返し頂いてない保険証をお返しください」と封書が届けられた。身に余る不可解に対処し切れずに、無知を曝して今日まで彷徨って来た。今も不届きなへリコプターが飛んでいる。畏れ多くも国会で不届き者と人定喚問でもして、我が身の悪行の所業を解明して頂かないと死に行く人生に辻褄が付きそうもないと考えている処でございます。(2018/10/12)追記。誠にお恥ずかしい次第であります。『静電界は磁界を伴う』電気学会全国大会(1982)の発表から、脱藩したと観られる 瞬時電磁界理論の実験的検証とその意義 電気学会電磁界研究会資料 EMT-88-145 (1988) の発表まで、すべてロゴスキー電極間の静電界中の磁界模様の実験写真である。電場が磁場であることの証明写真である。電気磁気学の電荷概念を否定しなければ、この写真は嘘になる。世界の構成根源要素は『エネルギー』一つに集約される筈と、ハミルトンの風車の実験(1965年頃実施)に結びついた。

美空ひばりと臨教審の以下余白

(2020/02/10)追記。小面を打つ

響けよと 打つ小面にその丈を 込めても高が 鑿の画数 空道

昭和から平成に変った年に、やり場のない思いを能のお面『小面』を彫りながら、高が27画のノミ程度と。出来上がったお面は柱に掛けていたが、それも今はない。今も思い出す。昭和63年1月の大学入試の時、何故か監督の出番がなく、待機組になっていた。終了後、菅野学長が機械系の教授と話していた。『これで終わったね』と。どうも自分に関係ありそうな二人の素振りに思えた。全く意味が分からず、只流されるより「道」はなかった。仰る通り、その年の年末には自分の居場所はなかったのだと考え、新たな『道』はないかと旅に出た。小面を刻みながら老子と『空』から『空道』の雅号を付けて過ごした。既に32年が過ぎた。空間ベクトルと回転軸 (2017/09/07) の記事の隣の記事がここに在ったので読み返した。もちろん舞鶴鎮守府のことなど知る由もない。当時の学校町で、狭い前の道に自動車をはみ出し、すべてに反抗して迷惑を掛けながら過ごした。テレビ画面の片隅に新潟NHKの番組で、三角状の青い不気味な符号に踊らされ、郵便ポストに新聞のチラシを投げ込んだり、何かに誘導されてきたようだ。自動車も勝手に警察が処分したようだが持ち主の本人は知らない。あれから30何年過ぎたか。『静電界は磁界を伴う』の実験的科学研究論の物理的意義は十分解釈できたと思う。学術研究の機関に居てはおそらく無理であった筈だ。すべては、宮入先生にお逢いし、研究室で教えて頂いたことが、特に「磁束は電圧時間積分」の解釈からアンペアの法則への疑問につながり、ここまでの道のりを歩いてこれたと感謝です。

実は、小面を打つ」は今年の正月、お世話になりながら失念していた、横山蒼鳳先生を思い出して当時を振り返ることになって詠んだ。長岡駅前での書道教室に、参加させていただき教えを頂いた。本棚に先生の著書「越後・笹神 五頭に抱かれて」を見つけた。中に赤い「振込通知票」が挟まっていた(ご迷惑をお掛けしたことお詫び申し上げます)。著書は平成4(1994)年7月発行とある。記事の中に、平成元年2月13日午後7時10分。七時のNHKニュースが「リクルートの江副逮捕」を・・。とある。そのニュースのことを知らなかった。きっと小面を刻んでいたかもしれない。『長命は 最高の芸術だ』の御筆墨が載っている。添え書きに元県議会議長 角谷久次さんの好んで・・。とある。本当にその通りと思いながら、感謝。思えば平成4年7月の中頃、小出の閉鎖病棟から退出して、娑婆に戻ってきた。戻ってきたが、さて何を目当てに生きればと、様々な経験を積んだ。店の裏方で、天ぷら揚げや巻きずし巻きなど思い出せば、無礼も多かったろうが楽しかった?平成5年5月末には舞鶴鎮守府の旧い講堂を案内しても貰った。その1月下旬には、失礼ながら宮澤内閣に『辞表』を送付させて頂いた。NHKのニュースで宮澤内閣総理大臣と河野官房長官が困惑している様子らしき映像が有った。自筆の「風来坊」の額を掛け乍ら汚泥処理に励んでも見た。飛んでもないお恥かしき仕儀を重ねて、長生きをしてきた。30年以上にわたって、多くの方々に陰から御支援いただきながら、浦島退屈の介よろしくご支援にお応えできずに過ごしてしまった。これからは「無法松」の振る舞いは何とか無いように心がけたく存じますが。今「視界と光の科学」をと考えながら、少し御遠慮しようか思案。以上振り返って追記。

異常な日本の30年を過ごして。

『愛燦々』 テレビの歌謡番組を観るようになったのは昭和が終わり、平成になってからであった様に思う。後から振り返って、あの歌が自分と関係が有りそうだと気付く。特に美空ひばりが歌った歌を何十年もたってから、その歌詞に込められた意味に気付く。始まりは、『愛燦々』昭和61年(1986)秋のようだ。長岡工業高等専門学校で、殺害から逃れる秘策(観世の文言札)で生命を守りながら、『静電界は磁界を伴う』の実験に挑戦していた頃かもしれない。その年の春、久しぶりに電気学会春の全国大会で、561  瞬時ベクトル空間モデルと空間瞬時アドミタンス を発表した。しかし発表者名は自分一人だった。共同研究者名を書くようなゆとりも、長岡技科大との行き来もなく当然他に居なかったと解釈していた。しかも内容が電気磁気学の偏微分式での変梃りんな内容であった事もあり、他に賛同は得れれないだろうと。ただ、その具体的なかたちでまとめたのが文献(1)である。その研究会資料は相当なストレスと緊張の中でまとめたものでありながら、良く出来たと満足できる。電力系統の瞬時監視機能として有用な手法と思った。この資料も一つの評価を得て、ひばりの『愛燦々』の意味となったかと勝手に解釈している。またその昭和61年(1986)4月、電気学会論文誌Bに文献(2)が掲載された。半導体電力変換器の基本動作解析を論じた。その解析手法には自分らしい特徴があったと思う。少し世間が騒がしくなり始めたのがその頃であったのかと、相当年数がたって歌謡番組を観ながら感じ始めた。

『みだれ髪』 この詩は昭和62年(1987)秋の頃を歌ったものと思う。昭和62年春殺害の危険から逃れて、やっと約束の長岡技術科学大学に戻った。しかしそれも独り善がりの世間常識から外れた仕儀であった事を愚かにも何十年も経って初めて気付いた。その『みだれ髪』の意味は今でも分からない。昭和62年春には良かったが、秋にはどうにも成らない結末となってしまった。春3月高専の校長に4月からの転勤について確認した。大学から『割愛』の話が有る。『割愛』の意味も昭和54年(1979)秋と二度目の事だから、結果がどう出るか自分が決める事ではないと予定通りの行動しか取れないと覚悟していた。だから高専の校長の言う事を聞く意思もなかった。3月31日『保険証』を会計課に返して二度と戻らないと4月2日の東北大学での電気学会の発表に向けて高専を去った。『保険証』が身分証明書などと言う事も聞いたことがなかったから知らない無知であった。発表内容は『静電界は磁界を伴う』と言う『電荷』否定の発表であるから、そんなトンデモナイ内容が世間で通用する筈はなかった。科学理論の根幹を否定する内容だから。前の年の電力技術解析理論の話とまるで180度方向転換した内容であれば、世間も相当戸惑っただろうとは推測できる。とんでもない仕儀となり御免なさいでした。一体春丁度良かった帯の長さも秋には余ると。春どう行動すれば良かったのか今でも理解できない。4月自宅に高専の校長から手紙で教官会議に出席するようにと言う要請が有った。それは『転勤』していないと言う意味であったかどうかも分からない。筆者には意味の分からないいろいろの仕掛けが無知の自分に仕掛けられたが、常識知らずには対応しようがなかった。相談する者も一人も居ない。ましてや家族が知る訳もないから相談もできない。自分の立場を説明するべき意味を筆者自身が知らない訳だから。能力なしの『助手』と見られているから。今日現在も、パソコンに向かえば、それを見て何と無駄な人生をと非難されるが、そう思われるのも当たり前と自分で思う。家族に説明できる何の実績も示せずに今日が在るから。昭和62年春に長岡技術科学大学の学長選挙が有った。新聞でも取り上げられた社会的教育問題に成ったようだが、自分に関係しているとは全く理解できなかった。薄々感じたのは、8月に成って、電気学会の秋の『電磁界研究会』への論文を書いている時、なかなか捗らずに提出が遅くなり、9月1日以降の受け付けに成ってしまって、何か急ぐような雰囲気を感じた頃からとても気になりだした。斎藤 進六 学長に迷惑を掛けてしまったのだろうと遣る瀬無さと申し訳なさが残る。電力工学と電磁界理論では研究の畑が違う。転勤もしていなくて、研究分野も変われば、世間でも対応できなかった訳であろうと今は分かる。それが全て『みだれ髪』の意味なのかと。義理のじいちゃんが大学近くの病院へ入院していたので、家族に頼まれ毎日洗濯ものを交換に行く。筆者も家族も無知の中世間の常識に対応出来る術は無かった。病院近くで大学事務局の人がいつも周りについて監視していたようだった。みんなみだれ髪の基だったかもしれない。御免なさい。

『川の流れのように』作詞 秋元康 作曲 見岳章 唄 美空ひばり 1989年(昭和64年、平成元年)1月に歌われた。美空ひばり最晩年の歌だ。既に大学には居場所も無く、己の人生の意味を考える手立てもない中で、謳われた彷徨う自分に向けた歌であったかとも思う。『故郷』にどんな意味が有るかも知らず、二葉百合子さんの『岸壁の母』と繋がる故郷には『舞鶴鎮守府』の父の軍歴が有った。“知らず知らず 歩いて来た 細く長いこの道 振り返れば 遥か遠く 故郷が見える でこぼこ道や 曲がりくねった道 地図さえない それもまた 人生 ああ 川の流れのように ・・” 正にこの歌詞の通り、何も知らずに歩いて来た自分の人生のように聞こえた。今は電気磁気学と電力系統の電気現象を『光』によって統一的に解釈する感覚的な納得を得た。それは過去の電磁界理論とその概念を全く新しい姿で解釈し直さなければならないところに来てしまった事でもある。ただ、電気工学は技術用語で理解できるが、物理学での『電流』や『電荷』が自然界の真理と言うのは頂けない。その辺の混乱を如何に解決するか。

本人は何も知らない 情報化社会と人心操縦の社会問題。世間の動きを筆者は知らない。後から何かあったのかと何となく気付くだけである。本人には知らせず世間が知っているこの不可解な気味悪さが『人権侵害』である。何十年も続く不気味さの中を過ごして来た。近所の小さな消防車が朝の8時前に鐘を鳴らして通り過ぎる日があった。その鐘が鳴る日は悪い日らしい。やっと最近は鳴らなくなった。意味が分からないがどこの誰の指示で鳴らしていたのか、不可解な不気味さであった。昭和63年(1988)以降、初めて経験した事件がある。長岡技術科学大学から、所属身分の無い身を悟り、精神的な過負荷に耐えられず離れた。居場所も無く、長岡市内の釜風呂温泉方面の道の自動販売機で飲み物を飲もうと100円を投入した。途端に自動販売機が電源遮断された。その事件から情報操作が始ったように思う。同じ事がもう一回あった。長野県に新潟県津南町を通って夜辿り着いた。道路脇の自動販売機で、100円硬貨を投入した。途端にそれまで点灯していた街燈も消え町中が停電になった。行き先の無いまま自動車を運転すると、「廻って 廻って 廻れ~・・」と言うラジオの歌で操作される。きっと社会的に処理に困る人間に取る情報社会の手段が存在するのか。現在にも残っている事は飛行機の爆音や飛行機雲の『×印』やヘリコプターの轟音がある。変な『花火』も有る。すべて誰が指示しているかも不明で、執られる不快な人権侵害の所業だ。

中曽根臨教審と人事事件 昭和62年(1987)年末、長岡高専で人事の事件が有ったか?具体的には知らない。昭和63年(1988)正月、春の学会発表の論文を書いている時、突然鼻から異様な鼻汁が出る。早速病院で診察を受け、(鼻空上顎洞炎と歯科で診断され、治療して頂いた)回復。病院で待っている時、周りに高専の先生らしき者が数人いて話しかけて来た。自分に関係する事が事件に成っているらしい事を後から感じ取れるが、それが何かも知り得ず、本人が無視されたまま『何か』が決められていたようだ。本人が知らずにいるその意味を世間は知っていて、いろいろ仕掛け話をして来たのだろう。大学の保険証を使っていた。1月中頃に自宅に高専から『保険証』が送付されて来た。高専では大学に転勤したと言われ、高専から自宅に『保険証』が送付される不可解。昭和60年7月1日履歴が『以下余白』となっている事も2015年(平成27年)1月に初めて知った。高専の事務局に行って尋ねた。後で調べて連絡すると言われたが、後日電話で「少し待って・・(?)」と言われたきりで何もない。何も本人が知らないで、世間が騒ぐ人権侵害。昭和14年(1939)12月1日舞鶴鎮守府への戸籍転籍が存在を無視した諸行無常の30年に亘る人権侵害の意味か。

以下余白の不可解 昭和60年(1985)4月1日 長岡工業高等専門学校 電気工学科講師(校長)。昭和60年(1985)7月1日 同助教授(松永 光 文部大臣)。同日付 以下余白(高橋校長)。昭和60年7月1日から履歴が無しと読める。翌61年(1986)4月の辞令もなく、以降は履歴が消えている。だから4月以降の殺人専門学校の意味が読み取れる。生きていては困る訳だ。様々な工作があり、昭和61年(1986)の電気工学科の雰囲気が異様な空気になった。学科事務室が殆ど使われない幽霊室に思えた。昭和63年(1988)8月1日長岡技術科学大学の身分喪失の意味か、銀行通帳口座が無効になる。昭和39年(1964)4月1日新潟県教育委員会での辞令交付もなかった。

文献

(1) 空間瞬時ベクトル解析と交直変換器への適用 電気学会電力技術研究会資料 PE-86-39  (1986)

(2) 電圧型PWM変換器を用いた瞬時無効電力補償装置の動作解析と設計法 電学論B.106,p.323 (昭61-4)

長岡工業高等専門学校の暗闇

ここまで生きた目的 それは『電荷』否定への道であったと言っても良い。『電荷』否定は科学理論の全否定に近い意味であろう。科学が現代社会を支えているから、社会の否定とさえとられる。日本政府に、戦後処理の裏世界での闇に葬られ、排除された人生であった。御蔭さまで昭和55年長岡技術科学大学に転勤・転入でなく、前職歴なしの助手職でお邪魔虫となり、その人生の意味を学習する機会を与えてもらった。長岡技術科学大学の話は上の『電荷』否定への道に記した。長岡工業高等専門学校の話で、忘れていた事を思い出したので、この記事を書く。『電荷』否定は科学理論を根底から解剖して、市民の目線で分るように解き明かす事と悟る思いに今ある。人生を掛ける価値が有ったと。

断崖の道 昭和61年9月からが大きな暗黒の世界になった。高専2年目の8月初め、長岡技術科学大学で電気学会電力技術部門の研究会があった。そこで、「空間瞬時ベクトル解析法と交直変換器への適用」の論文資料を発表した。自分の人生は崖っぷちを歩いて来たと改めて思う。恐ろしい道を歩いていたのだと。この研究資料の発表がなかったら、恐らくそこで埋没していたのだと今頃気付いた。この研究資料の重要なデータは、高専の卒研の学生に手伝ってもらって、シミュレーションで過渡現象の計算結果を出してもらった。それは前年の4年生に『数値解析』の科目担当で、計算の過渡現象の手法(フォートランで、過渡現象解析のための微分方程式の解法で、ルンゲクッタ法だけは出来たから)を教えていたから出来たことであった。『数値解析』などコンピュータの操作も出来ずに、よく知らない自分が授業担当できるとは、思っていなかったのだと思う。だからそれだけでも、高専で潰れると『邪魔者は消せ』の日本政府、大学および高専関係者には見えたと思う。しかしコンピュータの操作など今でも良く出来ないのに、学生が良く授業をこなしてくれたと思っている。その御蔭で、研究会の資料を簡単(1週間位で)にシュミレーション結果を出してくれたのだ。高専の教官や学生の卒業生名簿も一度も見ていないから、手元に無いので名前も忘れてしまい、失礼してしまった。

暗黒の世界で殺害危機と生命保全対策 5月、7月および9月に留めの生命の危機を何とか感じとり逃れる事ができた。そこからは食べ物、飲み物すべてに厳重な危機管理の手立てを採った。《観世》と薄紙に筆書きし、南京錠を3個ほど用意し、金属工具箱の鍵掛けに使う。その錠前のカギ穴に《観世》の文字の紙をさらに細く切り、それを張り付けて毎日3個の錠前を(鍵屋が出入りしていたから)準備して学校に行った。一度開ければ二度とは使わない。その工具箱で食品を管理した。3月31日まで1日も欠かさずの対策であった。そんな蔭の秘策をその後誰にも話すことなど出来なかった。そんなことは誰にも理解されないから。筆者も自分がそんな目に合う理由が見当たらなければ、対策の取りようがないから。舞鶴鎮守府の香取丸など、その後10年経ってはじめて辿り着いた『殺害原因』がそこに在ると知る事になったのだから。暗闇の世界が魑魅魍魎に相応しいものと知る。

電気科教官集会室の暗闇 9月からと思うが、電気科事務室が真っ暗闇で、誰もその部屋を使わないようになた。事務連絡もその部屋の通知入れのケースを使うのだが、真っ暗闇で誰も入らないような部屋になった。何故かも聞くだけの感情も無く、四面楚歌の単独の闇の旅の学校となる。10月長岡技術科学大学での川上正光前学長の講演会を聞きに参加しただけで、大学に顔を出す事も出来ない授業と無視の世界での孤独な2年間であり、最後がその厳しさの頂点であった。事務室が閉鎖されたような暗闇になり、殆ど連絡の通知が届けられなかったように思える。きっと電気科で教官への通知は筆者には届けないで過ごしたと思う。電気科の学生の成績会議も無く、それを知る事もなかった。12月の末に電気科教官会議が有ったが、中身は殆どないものであったから、別に全て取り計らっていたのだろう。電気科事務室のポストに通知が入らなければ、誰とも口を利かないのだから、どんな行事も知らないで過ごすことになる。

学年後期について この記事を書かなければと思った事が有る。卒業研究生を7人ほど担当していた。しかし、その最後をどう終了したかを全く覚えていないのである。1月末に全科の教官会議が有った。そこで高橋校長が言った話が頭に残った。どうなるかは分らないが、代議士に話を聞いたら、何とかなるだろうと一安心だ。と言うように記憶している。筆者の人事問題とは薄々感じたが、具体的な意味を知る事は出来なかった。代議士とは、当時の中曽根内閣の副官房長官の渡辺秀央と思った。恐らく12月末に何らかの人事問題の処理業務が有り、それが不発で終わったのであろう。12月に校長から呼び出されて、話を聞いたがその意味を理解できなかった。2月になり、技科大の或る教授から高専に電話があった。多分人事問題の事とは思うが、「残念でしたね」と言われた。その意味も知らなかった。その辺の電気科内での連絡通知も何もなかったようで、卒業研究の発表会もいつ行われたかの記憶も無い。相当混乱していたのか、全く記憶がない。多分全ての連絡も遮断されていたのだろう。2月24日に長岡技科大の難波江教授から呼び出しを受けた(既に記す)。3月になって、確認のため、高橋校長に校長室を尋ねて聞いた。星野(技科大から一緒に監視役できた?)事務官を呼んで、長岡技術科学大学から『割愛』の話になっていると、告げられた。意味は分らなかった。3月の中頃かに、全科の教官会議の話を聞いた。人事関係の話が全て出た。しかし筆者については何もなかった。校長にその場で聞いたが答えが無かった。会計課に保険証を3月31日返して、生命保全対策の終わりにしておさらば。4月に校長から自宅あてに教官会議への出席要請の連絡があった。無視した、ただそれだけである。道が閉ざされたのか、美空ひばりの『みだれ髪』の意味なのか。

電気科の送別会? 電気科は羽賀?科長であった。卒業式に第2代の田校長がまだ出席していた。その雰囲気を異様に感じた。卒業式後、卒業生と一緒に街の料理屋(平潟神社付近)に集まり、お酒の出る会が有った。学生は二十歳過ぎだったかな?教官はひな壇に座っていた。筆者だけは学生の居る末席で過ごす。教官とは口も利かない間柄。