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敦賀駅前から満天の星空の下

75年前の8月15日敗戦の日から始まった戦後。

新聞には当時の多くの体験談が載っている。しかし、筆者にはあまり記憶が残っていない。ただ一つ鮮烈に脳裏に焼き付いたような風景がある。8月15日を境に、突然世界が変ったような事態となったのだろう。もう舞鶴鎮守府の海軍住宅には居られない。4,5日後の今頃はそこを引き払って、新潟県の故郷を目指して汽車に乗っていた筈だ。脳裏に浮かぶ一つの風景がある。それは鉄道線路、北陸線の敦賀駅で降り立って見た風景である。それは敦賀市街のどこまでも見渡せる何もない廃墟の平原が満天の星空の下に、照らし出された無機質に輝く光景である。そこには人の営みも、鳥や動物の命の影もなく、天空に照らされた廃墟しかない。それが何がしかの錯覚であったなら良かったとも思う。

丁度汽車がその先に行かないため、次に来る当てのない汽車を待って降り立った敦賀の街の風景であった。鉄道線路だけは破壊されずに運良く残っていたから、何とか故郷に辿り着けたのだ。しかし、途中の事は何処を通って帰ったかも何も聞いていなかったので覚えていない。母と二人の妹との4人の逃避帰還の旅であった。恐らく汽車賃も、切符もない混乱の中での汽車での旅であっただろうと思うが、本当の事は聞いていない。列車も混乱のごった返す満員の中、窓からの乗り降りは当たり前であったことだけは覚えている。いつ田舎の家に辿り着いたか、その時の様子も何も覚えていない。小学1年生であり乍ら何も覚えていないとは、幼稚であったと恥ずかしい。

故郷の川は美しかった。母の信濃川での洗濯に付いて行き、川の中に手を入れているうちに、小魚を手の中に捕らえていた。今もその魚が⦅砂ッポリ⦆と呼ぶものだったと覚えている。自然に手の中に入る魚がいる川が如何に命輝く故郷の自然かと懐かしい。フサお婆さんも元気であった。父が年末に帰ってきたかも覚えていないが、相当遅くまで戦後の仕事があったようだ。

舞鶴国民学校の一年生に4月入学した。学校の近くに矢野歯医者さんがあり、治療をして頂いた記憶がある。しかし、敗戦の混乱の中貝野小学校への転校の手続きもなく9年間の義務教育が過ぎてしまった。その後の75年間は不可解の闇の中に過ぎた。