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見えるもの 見えないもの

(2017/11/10)追記。昨日検索して、「見えるものと見えないもの」に多くの記事があることを知った。哲学者のモーリス・メルロ=ポンティの著書が有名である。標題が似ているがこの記事は検索には出ない。しかし、何かとても新鮮な感覚で興味を持った。電気現象の本質は正しく「見えないもの」に当たろう。見えないものを観るとは、眼で見えないものだから心で読み取るものと言えよう。それは形があっても、見えないものも多い。花の花弁の形や色合いは見て理解できる。しかしその花弁が何故その形になったか、花弁の色は何故その色に見えるのか。と考えると、それは哲学か自然科学の領域に踏み込んだと見られよう。光には本来色は無いのだ。しかし光を観てその色合いを理解する。その訳を理解できるかと問答にもなる。見えないものとは不思議なものである。『電荷』など見えない代表例であろう。存在しないもの『電荷』が存在すると科学常識になって世界の認識が定まっている。見えないものほど素敵な哲学的思考対象は無い。石の囁き聞こえますか等と聞こえる訳が無い話が話題になっている。化石の話になれば、シェールガス掘削も話題になっている。地下3000mにガス層があるらしい。それを聞いた時地球が3000m径が小さかった頃とはいつ頃の時代で、どんな地表の生物圏を成していたのかと見えない地球に妄想が及ぶ。太陽が地球を大きく成長させて来たのだと。地球の過去の姿ももう見えないものに成った。地球上の今の姿しか観ることはできない。地球は太陽が造ったに見えない疑問を綴った。地球も最初から地球ではなかった。見えない事が広がる。

人は見えるもので世界を知る。しかし、見えなくても世界を理解できる。文字や絵図が世界の共通認識に時間と空間を広げる。最初は言葉も文字もなかった。人はどのように理解し合っただろうか。それは心での思いの交換しか手段がなかっただろう。手で触り、目で見て、五感で会得するしか方法がなかった。しかし、文字、図形・記号で人は共通理解を得やすくなった。言葉・文字が世界認識に欠かせない。目の前にあるものならば、見たり触ったりで理解できる。問題は、見えないものをどのように理解するかである。自然の姿は見えるから分かる。自然を見なくても理解できると言う人もいる。具象と抽象の問題でもある。具象はそこに姿・形が有ることである。抽象は見えないものを探り出すことに関係する表現手段であろう。自然を見て、その意味をどう理解するかは人によって異なる。理解の方向や解釈法で異なろう。絵に描いても、抽象的な場合は、描く人と観る人との間に共通理解ができるかというと難しい。人が言う学問が複雑になると、人の思考形式が抽象的な世界認識手法に広がって行く。見えない世界の領域が広がる。表現手段が日常用語から離れると、共通理解が益々困難になる。特殊階級の分野別の世界観で制限される。所謂専門性というものである。専門的学問領域の閉じられた世界が増える。それが見えないものの共通理解に投げかける問題と成る。自然科学が次々と特殊用語・専門用語を生み出し、共通理解困難な領域を広げてきた。人々が同じ社会に生活しても、考えること、理解し合う事が全く異なる分断社会を創り上げてしまった。その状況を共通に認識、理解し合うにはより基本的な事柄から掘り起こして、日常用語で表現することが求められる筈である。

観察と観照 共に観の文字が有る。「察」は詳細にという意味らしい。「照」は光を放つ、光輝く等の意味らしい。一般に、観察は目の前に有る具体的なものを詳しく読み取る理解の仕方と思う。それに対して、観照は物事を冷静に見つめること。直観によって美を直接的につかむこと。等と辞典に有る。自然の観照と言えば、自然を前にして、その本質を観測者の心に写し照らして認識する。と言う位の意味で私は理解している。観照によって認識する世界も抽象的世界なのかもしれない。それも、確かに目の前に有ると、誰もが理解できるものではないかもしれないから。その観測する人の心に写しとる点で、目で見る事とは違うから。その観照の文字を書いてみた。

観照心で見る

見えないものの中の真理と偽理 自然科学は難しい。自然の理解に数式の解釈法を導入すると、殆ど抽象的な論理になる。数式は見えないものを表現する手段に利用される。見える現象から、見えないものを探り出して、法則とするのが一般的な科学手法である。その代表例が『クーロンの法則』であろう。『電荷』も見えない。見えなくても、『電荷』が有るからだと考えれば、その現象から『電荷』の存在を確認出来ると考えることもできる。実際に、空間に存在する物そのものを見る事ができなくても、その中味を見ることなど出来なくても、『ある』と考える事はできる。そこに、見えるものと観えないものの関係が浮かぶ。

電界 その空間を観測する。色々の電極形状による電界と解釈する空間の姿が有る。幾つかの例を挙げる。

電極と電界電極と電界

教科書的解釈 ①は球電極に高電圧を掛ける。球表面に細いビニル片を張り付けておく。教科書の解説通り、球表面に『電荷』を考えた時の「電気力線」に相当するように、ビニル片が空間に広がる。これが見える現象である。②針対針電極間の空間電界は?教科書の解説によれば、プラスとマイナスの高電圧が印加されて、針の先にコロナが発生する。針先の空間の空気分子が電界で絶縁破壊し、薄緑色に光る。高電圧工学では、空気の絶縁強度は30kV/cm 程度と言われている。針電極の先端が尖っているため、電荷密度が高く、電界が強くなり、空気絶縁破壊が起きるのだと解釈される。コロナの形状はマイナス電極の方が強く光る。コロナが伸びると、火花放電に伸展して電極間短絡になる。③針対平板はリヒテンベルヒ像(写真乾板)による衝撃電圧の判定に使ったようだ。その放電模様の読み取りは困難であろう。

『電荷』否定による解釈 ①金属球に電圧(エネルギー)を与えるのであるから、エネルギーは高いところから低いところに広がろうとする。当然空間に媒介体ビニル片を通して絵図のようになる。多分マイナスかプラスかで様子も違うだろう。②針の先端にエネルギーが流れ込む。尖っているから、針先のエネルギー空間密度が高くなる。空気の絶縁破壊は気体分子が保有するエネルギー量の限界に達して、光エネルギー放射を起こす現象と理解する。極性による違いが有る。マイナス電極では、コロナはプラス電極より発達し易く、空間を通してプラス電極への負荷エネルギー供給分も含まれるからと考える。プラス電極近傍は針先端と周りの空間との回転エネルギー流分だけと考える。先端の高密度化で、コロナ現象を起こすと。この電極周辺でのエネルギー流の解釈は、新世界ー科学の要ーによる。

見えるものと見えないもの 見えるものは誰もが目の前に観察できる現象である。その見えるものから、その奥に隠れている本質を観る事は見えないものの認識の問題に当たるだろう。今までその見えないものを『電荷』という物理概念で理解していた。『電荷』は見る事が出来ない。その『電荷』の存在を理解できる人が電気の科学論を理解できる人ということになっていた。『電荷』は誰もが存在すると、科学常識として認識の基礎に据えていた。見えなくても存在すると理解していた。その基礎的常識を否定することは、世界の科学論を否定すると同じ程度の無謀なことでもある。科学論は実験的に証明して認められると成っている。『電荷』の存在は、見えなくてもその存在を説明するに合理的な手法が有れば、科学論として認知される。大多数の人がそれで納得すれば良かった。それが社会常識と成る。上の①の球電極の実験などは『電荷』と電気力線に基づく理論構成の為に、その解釈を進める強力な手法であった。摩擦電気の説明も同じく誠に強力な説得力を発揮した。摩擦すると、何故クーロンの法則に反して、プラスとマイナスの電荷に分かれるのだろうか。そんなにクーロン力は御都合のよい法則なんだろうか。摩擦したからと言って、電荷が分かれる意味が理解できない。熱が発生するのは、摩擦熱と言うから分かるが、その熱は何処に行ったのだろうか。また持論であるが雷は熱爆発だ。雷が電気現象というのは凧上げの話から現在まで常識である。

論理の矛盾 科学論は論理的であると言えるだろうか。人間の考え方には、結構都合よく見る解釈が多いようだ。有る時は『粒子』また或る時は『波』という解釈法にその意味が隠されている。都合良い一方的な見方をし易いように思える。そこに見えないものの意味が有る。『電流』は電流計の針の振れで、その値の大きさを目で確認出来るから『電流』が流れていると誰もが思う。しかし、超伝導現象も同じ事で、電線の中を流れているもの等何も無いのである。『エネルギー』が電線の表面を光速度で流れているのである。電流は流れず生活電気と『光速度』 を参照願います。