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電気現象と三角関数

電気現象、特に交流回路の電気回路解析には三角関数の数学的処理が欠かせない。波の正弦波の周期性を、時間変数に対する計算手法で算定できる意味は数学の貢献で特筆すべき事と思う。有り触れたなじみ深い三角関数はその関数の概念も分かり易さで優れている。しかし、電気現象への応用数学として使いなれているにも拘らず、本当に理解しているのかと自問自答してみた。三角関数一つを取上げてみても、そこには十分捉え切っていない部分があることに気付かされた。
指導と要領 どこかのお偉い方が決める「何々要領」じゃないが、指導者が何事にも疑問を持っていつも向き合っていないと大切な噛み砕いて理解する『深く易しい意味』を教えずに過ごしているように思った。それが指導の要領であろうと。教育関係機関から不要とされて、彷徨う者が言うのも可笑しな錯覚か。今頃になって、解らずにこの何年かを過ごして、今不図気付いたことがある。回路要素によって決まる『時定数』の時間概念について。その認識不足を取り上げたい。

電気回路と数式 電気回路解析に三角関数は必須である。その辺の基礎から考えてみた。

インピーダンスと三角関数が交流回路の解析に必要な基礎知識である。電源電圧が決まれば、回路動作はその回路要素の値によって全てが決まる。その三角関数による表現手法が基礎知識として求められる。

インピーダンスの計算問答 交流回路のインピーダンスは各回路要素の特性から複素関数的な取扱いをするので、『虚数』概念を用いるようだ。虚数は記号 j かあるいはi を使う。ここでは電気記号で使う記号 j とする。

ピタゴラスと虚数の関係

上のインピーダンス表記法の虚数問題の解決法は虚数を使わない三次元空間ベクトル問題(時間を入れて4次元)として別の記事で改めて示すつもりだ。

三角関数とその意味 自分の理解している三角関数の意味を確認した。

電流と位相 電流の三角関数式の意味をまとめた。

電流と位相 電圧に対する電流波形の位相差φが回路要素によって決まる。

インピーダンスと時定数 交流回路解析では、時定数を用いたインピーダンス表現はしていないのかもしれない。しかし電気回路の要素によってその回路に特有の『時定数』があると考えた。インピーダンスはその時定数とエネルギー消費負荷要素の抵抗値とで回路の現象が決まる筈だ。

インピーダンスと時定数 R-L-Cの直列回路でそのインピーダンスは複雑な表式になる。インダクタンスもキャパシタンスもどちらもエネルギーの貯蔵要素である。その合成値は一つのリアクタンスと看做せよう。LとCのエネルギーの貯蔵機能は電源電圧周期波形に対して位相が90度ずれて、エネルギーの貯蔵と放出が反転している。エネルギーに対する機能として見た場合、差し引きの差分で回路外部には見える。だからリアクトルとキャパシタンスはその外部から見れば、エネルギーの差分の機能しかないと見做せる。だから合成リアクタンスと看做して良い筈だ。従って、エネルギーの消費要素抵抗値と周期的吸収放出の機能要素リアクタンス分との比率で回路要素全体の特性が評価可能となる。それが『時定数』の(4)式の表式である。ここで、『エネルギー』とは何かを物理現象として認識していることが基本的に必要である。

エネルギーと質量の関係 電気回路を解析する技術感覚から『エネルギー』の意味を捉えている。それは電気工学的分野からの狭い捉え方と言えるだろうか。ここに書く内容はとても気掛かりな意味を持つものである。それは現代科学理論として物理学理論の根幹を否定するような内容かも知れず、とても気の重いものである。出来たら書きたくないのだ。気体分子運動論も質量が世界の根幹を成しその運動エネルギーが温度のエネルギーの原因となっているとの解釈であると思う。物理学の『エネルギー』を論じる場合に、質量の無い『エネルギー』をどのように認識しているかが理解できないのである。しかし『エネルギー』概念をどのように捉えるかが長年科学技術と物理学理論の間の繋がりを考えて来た結果の主要な自分の論点でもあれば、やはり述べない訳にはゆかないので、ご勘弁の程。即ち科学技術と自然科学論の間に横たわる解決すべき問題に『エネルギー』概念があると思う。自然科学論は自然現象の根本原理を解き明かす本質的で、科学技術より高尚な学問と看做されて来たように思う。それが物理学理論と看做されていよう。科学技術と科学理論の間に横たわる未解決の命題だ。その本源は「質量」が何から構成されているかを問う問題でもある。それが素粒子論の主題となる論題でもあろう。E= m c^2^ [J] と質量m[kg] の間の根本命題である。私のつたない物理学的非専門的視点からの結論であるが。質量mが『エネルギー』から構成されているから、光速度 c [m/s] の光エネルギーに変換されるのだ。その光のエネルギーに質量が無い訳は質量の元の構成エネルギーが解放されて光のエネルギーになったからである。だから『質量』と『エネルギー』は等価で変換関係が成り立つのだ。光になった分の質量は当然姿が消える訳である。その事を『質量欠損』と言う言葉で巧く表現していると理解していたが、原子核崩壊現象の解釈を見るとどうもそうではないようにも思えて専門的解釈を理解しかねている。昭和62年に発表した『静電界は磁界を伴う』の根本命題が自然界の全ての概念は『エネルギー』に統一されると言う意味であった。電気工学技術からの『エネルギー』感覚がそう言わせて来たように思う。電気技術から電気回路の『エネルギー』がどのような意味を持っているかの、とても単純で、難しい理論も必要としない基本の問題を三角関数の計算問題として取り扱いながら考えて来ただけである。その電気回路内の『エネルギー』には決して「質量」を必要としないと言う結論の感覚がある。結局、質量を必要としない『エネルギー』を物理学理論で認識しているかの問題と考える。コイルに蓄えられる『エネルギー』とはコイルのどこに実在する『エネルギー』と解釈するか。コンデンサに蓄えられる『エネルギー』はどこに実在する『エネルギー』と解釈するか。その『エネルギー』はコイルとコンデンサのどちらに貯蔵されようと全く違いの無い同じ『エネルギー』である。その『エネルギー』の意味が理解されているかの問題であると考える。電流がエネルギーでもなければ、コイル電圧がエネルギーでもない。コイル電圧とコイル電流を掛けてもコイルに貯蔵された『エネルギー』は見えないのである。(4)式からLとCのどちらが優勢な機能を示すかはその合成値が『正』になるか『負』になるかで決まる。インピーダンス値は2乗するから区別は出来ないが、電圧に対する電流位相φの正負として現れる。それが次の時定数と力率角の三角関数の正弦波波形の位相関係になる。ここの『エネルギー』と『質量』の関係論は特別高度な理論を必要としない単なる三角関数式から考える電気回路内の『エネルギー』の話である。別の見方を示せば、コイル内に光エネルギー(電気エネルギー)が蓄えられ、コンデンサ内に同じく光エネルギー(電気エネルギー)が蓄えられると言う意味で解釈するのみでしかない。物理学理論を理解しているかと問われれば、高等学校の教科書の内容程度しか分からない、その分野の全くの素人の科学技術的感覚からの論でしかありません。

 

時定数と力率角

時定数と力率角 時定数の次元は時間の秒となる。しかし正弦波の波形上に取ると時間とは異なる不可解があった。その意味が判明したので上の図に示した。回路時定数から観る電気現象の記事を書く途中でこの記事が先になった。

(2017/07/14)追記 この記事に関連ある三角関数と回路要素の『エネルギー』について書いた。参考に電気回路要素のエネルギー(数式と意味)がある。

ピタゴラスの定理とオイラーの公式そして電気ベクトル

ピタゴラスの定理は中学の算数の内容らしい。直角三角形の三辺の長さの間の関係の定理である。現実世界の寸法に照らし合わせて理解できる日常生活と結び付く、簡便で有用な定理だ。それに比して、オイラーの公式は複素平面と言う現実の世界には存在しない、見る事の出来ない数学特有の公式である。『虚数』は実在しない世界の概念である。電気工学でも、多く虚数は使われている。ウイキペディアにオイラーの公式が図形で説明されている。

%e3%83%94%e3%82%bf%e3%82%b4%e3%83%a9%e3%82%b9%e3%81%a8%e3%82%aa%e3%82%a4%e3%83%a9%e3%83%bcピタゴラスとオイラーの式の比較 オイラーの公式の図はWikipediaの図形を参考にした。ただ、sin φに虚数記号 i (赤色文字で)を書き加えた。ピタゴラスの定理の各辺はすべて実数で、現実世界の数量を対象にした数式である。同じ直角三角形でも、オイラーの場合は一辺が虚数である。直交座標軸の縦軸が実数でなく虚数である。虚数はこの実世界に存在するものでなく、あくまでも非現実世界の表現量である。私は非現実的な数が現実の世界認識に有用な数であるとは理解できないのである。具象平面のピタゴラスの定理に対照してみたい。

z=e^iφ^ ,  x=cos φ ,  y=i sin φ

として、z,xおよびyの間にピタゴラスの定理を適用してみると、『虚数の2乗は-1』の大原則から、

|e^iφ^|=√(x^2^+y^2^)=√(cos^2^φ-sin^2^φ)

となる筈だが、虚数の原則は無視する不思議な数学的論理即ち、

y^2^=+sin^2^ φ と決してマイナスに成らない論理

が理解できないのだ。具象平面の現実世界にオイラーの公式の複素平面の数を対照すると、直角三角形の斜辺は他の二辺より大きいと言う実在世界認識に反する結果をもたらす。だからその時は虚数の原則は無視する論理に成るのかと思う。

『オイラーの公式の現実世界表現への価値はどこに在るのか?(命題)』と高等数学論理に弱い頭で考えてしまう。

さて、上の命題はそのままとして、実際に虚数記号(iあるいはj)は電気工学で多用される。折角であるから、平面2軸座標における電気工学の虚数利用上の特徴を考えてみよう。

%e8%99%9a%e6%95%b0%e3%81%a8%e3%83%99%e3%82%af%e3%83%88%e3%83%ab虚数とベクトル 電気工学では虚数記号に j を使う。負荷インピーダンスベクトルZ=R+jωL と複素数表現をする。実軸の実数に抵抗Rとその垂直ベクトルを虚数で捉えてjωLと表現する。インピーダンスZと抵抗RおよびリアクタンスX=jωLの間に、直角三角形の図形評価で捉える。この回路では、R=ωLの場合として考えている。この場合の電圧を時間軸に展開して示せば、e 、e_rおよび e_lのように三つの正弦波形となり、その電圧ベクトルも虚数記号jに因って、インピーダンスベクトルと全く同一の直角三角形でベクトル図が描かれる。これらの直角三角形はその三辺の大きさは、ピタゴラスの定理の関係で捉えることに決まっている。だから虚数記号jによる複素平面解釈の電気工学理論が何故[j^2^=-1 の原則]が成り立たないのに伝統として確立しているのか。何故虚数jでなければならないのか。虚数の原則に気付くと、誤って合成インピーダンスZ=√(R^2^-(ωL)^2^)で有ったかな?と考えてしまう。

具象と抽象 とかく科学技術理論はその世界(専門家)特有の概念によって共通理解の常識の世界認識で解釈している。上の例の正弦波波形表現も時間軸で展開して理解し易いように表現したものであろう。しかし実際にその状態は見ることは出来ない抽象化の表現であろう。オッシロスコープによる波形観測は掃引輝点の軌跡の残像(蛍光)に依るからだ。

%e5%85%b7%e8%b1%a1%e3%81%a8%e6%8a%bd%e8%b1%a1具象と抽象 電圧もその瞬時値の連続として脳で認識する訳である。時間軸に展開した表現法は理解し易くしているだろう。しかしそれも一つの抽象化表現法と看做せよう。その抽象化の解釈法に虚数表現が取上げられよう。特別に虚数表現にしなければならない理由があるのだろうか。直交座標の取上げ方で合理的な方法があるのじゃなかろうか。

回転ベクトルと単位ベクトル 実数軸と虚数軸での複素平面表現法に対して、実数の現実世界の数の概念の範囲で、電気工学に使われる便利な直交座標を考えてみよう。なお、この単位ベクトルについては空間ベクトル解析と単位ベクトルで述べている。

%e5%9b%9e%e8%bb%a2%e3%83%99%e3%82%af%e3%83%88%e3%83%ab回転ベクトル 単相交流回路で、電源電圧が正弦波とする。一つのやはり抽象化表現法ではあるが、電源電圧が時間的にどのような状態に在ると考えるかの具体例を考えた。互いに直交した二つの『単位ベクトル』naおよびnb を平面に設定する。

スカラー積は (nanb)=0 、ベクトル積は[na×nb]=nc   と平面に直交した単位ベクトルnc に成る。

上のように大きさ1の方向だけを決める単位ベクトルを設定することにより、平面上を回転する電圧ベクトルを表現することが出来る。電圧の平面上のベクトルe

e=Em(na sin ωt –nb cos ωt)

によって時間 t の経過に従って、電圧ベクトルの先端の軌跡が円を描く。オッシロスコープのリサジュー図形観測で得られるだろう。

電流ベクトル軌跡 図の電流ベクトル軌跡は負荷変動があれば、その軌跡は複雑に変動軌跡を描くことになろう。一般には負荷変動が電圧波形の変動を生むから、電圧も円軌跡から外れるだろう。

電源電圧eを積分して- Em cos ωt をオッシロの縦軸入力(y)、電源電圧 e を横軸入力(x) とすれば円軌跡のリサジュー図形になろう。

奇妙な積分への疑問 積分回路を通した信号は『時間t』での積分か、『角度ωt』での積分に成るのか?

この電圧円軌跡は後で、pq理論の瞬時虚電力での座標展開への予備的な意味を込めた。

電気工学理論の虚数概念に対する結論 自然科学理論には様々な部門で虚数が使われているのだろう。電気工学理論では虚数記号に「j」が使われる。直角三角形の一辺を虚数で解釈する長い伝統によって電気工学理論は馴染み易い解析理論として定着している。上で論じたように、虚数は2乗によるマイナスの実数に変換される虚数論の原則との整合性で矛盾しているからと言うだけで、j記号の使用は悪いと言い切るのは浅はかであろう。直交したベクトル評価概念が電気工学理論として優れている事には間違いがない。ただ、実数軸と虚数軸で捉える表現法は虚数と言う実在物理量とは言い難い数であると言う点から、その二つの軸の物理量を共に実数とすれば合理的な論理展開で、伝統理論がそのまま生かせる。空間ベクトルの3次元座標の単位ベクトルをi 、 j およびk とするように設定すれば、何も虚数を必要とはしない。従って結論としては、[j]を単なる単位ベクトルと解釈すれば良い筈だ。

複素数を解剖する

標題修正と追記) 標題の「斬る」を穏やかな「解剖する」に修正する。更にコメントが有ったので、ガウスの記憶の不明を記し、数式計算に関する件については理解不能を末尾に記す。(10月30日 末尾追記) コメントの数式の指摘に対する考えを示した。

虚数 虚数と言う数は、我々が生きているこの現実世界に存在するものを表現できない。虚数は、私が高等学校の数学の授業で学習したのが最初の出会いであった。当時の数学は「解析1」「解析2」を1,2年生で、「幾何」を3年生で学習した。教科書に載っていたように記憶しているが、虚数概念の導入にガウスが窓ガラスを這う蠅を見て、座標に虚数軸を思いついた、と言うような記述があったように覚えている(コメントで誤りと指摘された。ガウスでなくデカルトで、しかも虚数には関係ないとご指摘いただいた。しかしその点を確認出来ない)。確かではないが、当時は成程なと感心はした。2次方程式の解に虚根の導入がとても重要な数学の領域を拡大する手段になったと教えられた。今その虚数概念を「斬る(解剖するに表現緩和)」と言う意味でこの記事を書いている。私もガウスに倣って、食卓の上を飛び回る蠅を観察して、座標にどう表現するかを頭に描いてみた。我々が現実に生活する場は、どんなに考えても立体的な3次元空間である。蠅の運動を記述するなら、基準座標を適当に設定すれば良かろう。食卓の上に3っつの直角に交わる軸を設定する。それぞれの座標軸の方向に単位ベクトル i, j and k を決める。ある一瞬の時刻 t での、蠅が居る位置が座標 r(t) で定まる。そのベクトルを座標原点Oからの位置として、 r(t)=x(t)i+y(t)j+z(t)k  で表す。高等学校で、微分の微小時間を極限までゼロに近付けると、「飛ぶ矢は飛ばず」と言う意味で解釈する事を学んだように覚えている。それと同じで、極めて短い時間を考えれば、蠅は一瞬、一瞬の時刻で止まっているとも見做せる。その各軸に対応する位置が大きさ x(t)、y(t)、およびz(t) となる。この各一瞬の時刻 t が蠅の運動を記述するに必要である。その時刻の変数を時間の次元として加えるから、「4次元座標」で世界を記述する事が出来る。高等数学や宇宙物理学で5次元や多次元論が語られるけれども、私には4次元を超える次元は不要としか観えない。さて、振り返ってみて、「虚数軸」を導入した「複素数」が世界を表現するのにどれだけ役立つかと考えた時、実在世界の記述法には全く役に立たない数学的概念であると思う。複素関数論と言うとても難しい数学の世界がある。オイラーの等式訂正と指数計算例その基礎的で、有名な式に、「オイラーの公式」がある。複素数は実軸の意味で、確かに現実の物理量を表現するが、虚軸でどんな物理量を表すのかと問えば、それは何もこの現実世界に実在する物を表現し得ないのである。数学が私のような凡人には入り込めない世界を表現しているように思える。目の前に描き得る具象世界でしか、この自然界を理解できない者には「虚数」は受け入れ難いものに観えてきた。上に挙げた、オイラーの等式は巷では、世界の『至宝』として論じられ、本が書店に飾られている。有名なファインマンさんが『至宝』であると、そう褒められたように言われている。自然対数の底が自然科学の数学的記述の数式の根底を成している事も事実である。あらゆる計算の基に使われている訳だから、その数値が無ければ、計算が出来ない事になる程、数理科学の支配者のような存在である。他の数値で代用できる事態ではないが、その意味を考えると、自分の頭にはとても不思議な違和感を覚える事も確かである。その辺を、自然対数の底 e と虚数の意味を含めて、幾つか具体的な「計算例」を8つ程示した。この計算例の中で、7. の 1^jx^=?(cos x +j sin x ) は自然対数の底 e が如何なる意味なのかを考える意味で取り上げた。

自然対数の底 電気工学ではオイラーの公式が良く使われる。周期関数の三角関数での取り扱いが多かったので、正弦波である場合には、周期性を図面上に表現して視覚的に理解し易いかと言う意味で利用されたものと解釈する。しかし、オイラーの公式のように自然対数の底 e で表現する意味が何なのかは、明確ではなかろう。電気工学で表現する複素平面の図形は、「半径 1 」である。何も自然対数の底 e でなければならない訳が観えない。その事を、例題 7.  で示した。しかし、虚数を導入したオイラーの公式そのものがどんな意味を電気工学に与えたかと問えば余り意味が無いと思う。周期関数の回転座標表現で、 j sin θ の意味は何なのかと考えれば、何も意味は無いのである。三角関数で周期性の波形を表現する場合、その瞬時値が時間的にどのように変化するかだけである。それは、第一項の cos θ だけで十分である。しかも自然現象は、殆ど正弦波ではなく、電気回路の限られた導線での縛られた空間の観測回路信号に見られるものである。空間伝播エネルギーには正弦波は余りないと考える。電力系統の電力監視に於いても、あくまでも抽象的空間概念であるが、瞬時電力理論の『3次元空間』が複素関数論に比べても、格段に深い意味を提示できる。その一端を 光速度は空間定数(H/m,F/m)で決まる の図(3)に触れている。その詳細は「空間瞬時ベクトル解析法と交直変換器への適用」を参考にして頂きたい。

(コメントに関して) 指数計算例題の 7. について 1^jx=1 であると。しかし、その意味が理解できない。 1^jx=e^(log 1^jx) も、更にそれが=e^0^jx=e^0=1も理解できない。(log 1^jx)は(log 1)^jx=0^jx か(log(1^jx))=log 0 かも理解できない。

(コメントの数式への回答) 1^jx=1 というコメントに対して、次のように考える。ここで、一応虚数計算を仮に受け入れるとして、その指数計算に対するコメントに応えたい。1 のjx乗が 1^jx = 1 であるとは、虚数乗と言う数 jx が  jx=0 でも、=1 でも、=j270° でも、=j^3 でも虚数項を含まないで、1^jx=1 の実数値を表すと解釈したい。もし、 3^jx= やπ^jx=も e^jx= と異なり、自然対数の底 e でないだけで虚数項が含まれないなら、元もと虚数乗と言う意義が無いと考える。

1+1=? ー数学の論理ー

人が周りの世界を見る時、「数」という尺度で観る。古来からの当たり前の知識である。日常生活では、せいぜい一つ二つ、千万あるいは億の数値の意味が理解できれば事欠かない。しかし、現代社会のように、学問と言う特殊な、専門的分野の業界での生活が日常化して来ると、とても普通の市民が立入れない分野が増えて来る。特に『数学』と言う分野になると、そこに表現された数式一つの形式さえ、何を意味しているかが全く分からない人の集団業界に見えて来る。最近思うのである。数学と言う学問領域の最先端がどんな状況にあるかは全く分からないが、そこで用いられる表現化形式に世界と繋がる何かを本当に具体的に掴もうと意識しているのだろうかと。多分、そんな具体性等は『数学』の範疇に入らない等と言われよう。前から論じている事であるが、「虚数」がある。この世界に無い数の概念である。実在世界に無い数の概念が、科学技術分野、自然科学分野では当たり前に存在する数のように、数理世界の表現手段として、殆どその数的意味の内容が何であるかを疑いもしないで日常的に書き記し、利用されている。確かに、便利なのである。例えば、自動制御回路を組む時、その回路の『安定性』が重要である。少しの雑音信号で回路動作が不安定に成り、発散して仕舞っては困る。そこでの「ナイキストの安定判別法」には複素数が基になる。他にも、電気工学には動作解釈に虚数が多用されてはいる。「ラプラス変換法」等もその一つである。しかし、その複素数の虚数がどれほど重要な意味を持っているかは疑わしく思う。確かに電気回路解析時における手段としてはとても便利に使える。今まで、その虚数、複素数の意味を具体的に考えないで利用して来た。技術分野では、誰もがその便利さに驚きの思いだけで利用して来た。今も深くその意味を考える等自分にはおこがましい事であり、能力は無い。それにしても気掛かりな事が多くある。数学とは、論理的に完璧さを追究する学問体系と普通は考えるだろう。それは本当だろうかと怪しく感じて来た。そう思うのは、自分だけの思い過ごしかも知れない。しかし虚数の概念には、『虚時間』等と言う提唱者が世界的に有名な方で居られる。時間ならその数値の次元、単位は秒 [ s]等になるだろう。しかし私の頭で、世界を虚時間で認識する等と言う事はとても無理である。標題の 1+1=?  とは、1 が何を指す数なのかを、この世界の中で捉えていなければ無意味だと言いたい。例えば、リンゴ一つの意味の「1」と長さの意味メートルの「1」とを加えても、それが何を表現するかは理解できない「?」である。もっとも簡単な算数式の「1+1=」さえそこには『世界に実在するもの、矛盾なく誰もが理屈で考え得るもの』の対象でないと、その数式の表現する内容が矛盾と曖昧さに覆われたものになるのじゃないかと心配である。前からこんな事を書き記そうと思っていたが、今日になったのには切っ掛けがあった。ブログ『生活電気の・・』の中味を考えている内に、ハタと自分の無力さを知って、驚いた。それは、三角関数の計算で全く理解できない基礎にぶつかった。例えば、「sin 30° , sin (π/6[rad]) =? 」をどのように計算するのだろうか?(間違えて済みません。訂正します。角度が30°、60°の場合は、正三角形から幾何学的寸法の計算で得られる。また、45°も直角三角形から簡単に得られます。だから例に、sin 35.5° とでも挙げれば良かったと後悔です。思慮不足で済みませんでした。)と豆腐に頭をぶつけなければならないショックを受けた。便利にどんな三角関数計算も「電卓」一つで済まされる時代である。しかしその『基礎』に踏み込んでみると、何にも理解出来ていない自分が在る。1[㎡] + 1[m/s] = 2 [?] 等の計算をしないように気を付けようと、改めて『基礎』の大切さを噛み締めたい。論理性と言う理屈の中味に注意したい。

知識と智慧

以下の記事を読んで何が智慧かと大いに恥ずかしくもある。独善と幼稚さが見えるから。

(7月1日追記) 知識と智慧の標題で書き始めた。下手な筆書きで『學力とは』を挿入した。誤解せれるといけないので、少し前書きを追加させて頂きたい。確かに『知識』を詰め込む事も大切ではある。それはやはり初めは何が大切で、何が不要であるかを見極める事が困難であるから。その判断力を身につけるには、多くの事を知り、全てを見通すだけの総合的な体系を描き得る迄になる必要がある。そこで、教育現場では特に気を付けなければならない重要な点が浮かび上がる。子供に教育する側が、子供の将来に、今教えている事がどの様な影響を与えるかと言う未来への予測能力を持つ必要があると言う事であろう。だから無駄の知識の詰め込みは、教育する側に避けるだけの能力が有るかどうかが重要になって来る。適切な内容に絞った教材を提供し、深い未来を見越した指導のできる教師の姿勢が求められると言う事であろう。一番の問題は、文科省と取り巻き審議会の伝承鳩教育感に未来性が見えない事である。教育を受ける子供たちに、取捨選択する難しさを押しつけている事に気付かない教育行政が問題である。ここでも指摘しておく。『電流』は電線の中を流れない。電気回路の電流解析の経験を積み重ねなければ、その電流概念の『嘘』に気付かないのである。熟練は理論より現場経験を通して身に付く。総合的視点が要求される。知識は当てにならない事を覚悟して、深く自分で考える訓練を積み重ねる以外ない。鵜呑みにする記憶学習ほど重荷になるだろう。電流は流れず  について考えてください。関連記事です。電流計は何を計るか も電流の意味を考える参考と成りましょう。

(6月26日に記す) 世の中の生き方を身に付けることは誰もがそれぞれの境遇の中で、修得するものであろう。それは知識と言うより知恵なのかも知れない。生き方はその人の環境によって様々に変わるものだろう。学歴が殊更要求されるようになったのは、生きる活動分野がだんだん特定され、専門分野に仕分けられるようになった現代社会の宿命のようになったからなのだろうか。しかし、その『専門性』が本当に社会の構成上に役立っているのだろうかと疑いたくなってきた。学歴は文字どうり学校教育の履歴の質・量に基づく職業人・社会人としての社会的能力評価の尺度を言うのであろう。高い教養を身につけるには、大学や高等教育を受ける事が必要と見られている。現代の極端な情報化社会では決まり切った機構・方策に縛られた生活手段の獲得に単純化された。学校教育の方策も教育行政の指導性も、その専門性が全く見えない日本の現状を呈している。『学力とは何か』一つを思い描いてみてもなかなか見えない。2003年にそんな思いで筆にした拙い乍の一文が有る。学校で受ける教育で、「読み書き算盤」は一番大切なものである。道路で遊べない都市化環境での運動機能や体力強化は特に必要であろう。しかし、今も自分で考え、解決する能力の育成が重要と言い、ゆとりが有って初めてそれが可能と言いながら、今度は分厚い教科書の内容で、決まり切った知識の詰め込みに突き進もうとしている。小学校でどれだけ知識や算数計算能力を詰め込んでも、どんな人間に成長する事を目標にしているのかとても危険に思える。みんな同じ知識を詰め込まれて、同じ方策に組み込まれて、専門性と言う虚構の組織固めに利用される人間だけの社会体制を構築しようとしているようにしか見えない。宮大工や瓦職人という日本古来の伝統の職人は知識と言うより智慧がその人を支えていたのであろう。確かに、私のように下手な日本語しか書けない者は現代社会の中で生きるには無能とされるであろう。学歴を積んで、学位を得る事が一応の現代職業人として最低の物差しの評価と成っているようだ。また職人の場合は、学歴で得た知識では体に染み込んだ感性・感覚には成らない。道具を使いこなして、身体と道具が統一された無意識体の動きにまで高められて初めて名人と言はれるのだろう。こんな事を何故書いているかと言うと、自分の現在の心境で、学習によって得た知識が余り次元の高い知恵には成り得ていないように思えるのである。と言うより、無駄な学習が多いと思うのである。高等学校で数学に「虚数」が出て来る。2次方程式を解くと、実数だけでは説明できない。理系の大学に入れば、虚数を知らないで授業に対応できない。大学教授の授業はとても高度な数学、例えば「一般相対性理論」が理解できるように等のチンプンカンプンな数式の羅列が出て来る。だからせめて、高等学校で虚数が分からないといけない、となる。虚数は自然描写に役立つか数学の論理性の限界。等に数学と言う大切な学習知識の意味を短文に記した。少し違った方向から『基礎科学』とは何かで感性・感覚と言う禅での直覚的理解に思いを触れてみた。知識は学んで後に、それを捨てる事が真の智慧に到達する道と思う。詰め込んだ知識は、経験の無い未知に出会う時、真にその能力を役立てられないように思う。危機管理に役立たない。知識は飾り物になっている。学びに於いて、学習効果を目的にすれば、そのまま記憶して試験成績を高くすれば良い事になる。その学習態度が、極めて拙いと言いたいのである。外国語や言葉は確かに表現能力を高めて、社会との対話、意思表明に役立つ。学習に興味を抱けたら、それだけで満点である。面白かったー。と子供が楽しければ最高である。『学習で理解した』と言う事の意味を考えてみた。私は教室で先生の話を聞くと、とても楽しい。ところが理解に苦しむ内容は殆ど頭に入らない。その場合は、その内容は決して記憶の領域に残らない。試験の点数は推して知るべしである。自分は能力が無いと諦めていた。しかし、今になって考えてみると、「解る」と言う事と「覚える」と言う事には相当の差が有ると思う。今『電流』は間違った物理概念である、いわゆる電線の中を電流あるいは電子が流れると言う解釈が間違いなのだ。超伝導もその導体の内部の分子・結晶構造のエネルギー伝道が熱化のロスを生まないで、効率良く利用される状態であると解釈できる。こんな解釈は『電流』の意味を学習で理解したと思っている人には到底受け入れられない解釈である。学習した事をすべて捨てる時に何か新しい物が見えて来ると思う。自由に感覚を磨いて、直覚的に判断できる職人の領域が『智慧』の意味と思う。この基本には『エネルギーが世界に実在の唯一であり、その極限が光である』と言うただ一つに判断基準を置くだけなのである。

 断食と脳細胞 宗教の行に座禅や断食行が有る。以前、テレビで「阿闍梨」への修業の苦行を見た。密教の修業だったか解らないが、最後の「断食行」に籠るまで、長い年月を山岳の踏破で過ごし、身体的な十分の訓練を経て断食に入るのであったように覚えている。お堂に籠り何日間で有ったか忘れたが、水は有ったかもしれないが、何も食べずに、外界と断絶して相当の期間を過ごすのである。IT検索に修行の様子が出ている。千日回峰行と「お堂入り」。お堂入りは、水も無しで不眠不臥、読経三昧で9日間の命懸けの業であると。明けて出る時に生きていれば、その人を「阿闍梨」と称号するらしい。こんな荒行が現実に在る事が信じられない。当然生き仏のような高僧として讃えるようだった。アジアや中東には「断食」が今でも行われているようだ。飽食の時代に生きて、「断食」は東洋哲学の究極の智慧なのかも知れない。命懸けではあるが、体に貯まった不純・不要な物を掃き清めて、脳の細胞の再生作用が働くように思う。殆ど脳細胞の大部分は使わず仕舞いで過ごしているようだ。危険であるが断食は脳の活性化に有効であると信じる。恥ずかしながら己の馬鹿を披露しよう。1990年12月ある病院に強制的に幽閉された。これで人生もお仕舞いと覚悟した。食を拒否する『断食』に入る。気が付いたら他の病院のベットの上だった。そこで食を摂った。それが大晦日の「病窓に 満月迎え 除夜の鐘」の句になる。意識不明で転倒した時の外傷が有った。全く気付ず、今でも痕跡が残っている。年が明けて、数日で『光の相対性理論』を纏めた。そんな研究が何の役に立つかも考えず。ただ生きている暇を弄ぶ為だけのノート作業であった。頭が冴えたのは、『断食』のおかげである。病院では一服も薬は飲まず、ゴミかごに捨てていた。ただ、医師が『ハロマンス』と言うよう神経作用の注射を強制的に注射された。意識朦朧となり、視力が定まらずの苦行の苦痛を嘗めた。

虚数と世界認識

市民感覚から様々な専門領域に踏み込んで、学習を試みる。物理学領域で矛盾に突き当たった。殆どが、高等数学の数式で表現されている内容に理解できない矛盾を観る。今回は、雑記ノートに(2009/12/06)で記されている『数学』の事に触れたい。箇条書きになっている。

1. 虚数は数学的世界認識の表現領域を拡大するために創案された数の概念である。

2. 数は世界認識における量的表現の基準概念として位置づけ・価値付された。

3. 数が自然界の現象解釈の深化の手段とするには、その量的基準となる『次元』、「単位」が明確であってはじめて有効な手段となる。

4. 虚数で自然現象を認識するには、その虚数の大きさと基準単位が明確である事が必須条件となる。例えば、虚数 i=√-1  と言う表記号を利用した時、面積S=i8[㎡] と言う面積が理解出来るかと言う疑問である。同じく『虚時間』と言うお話が巷の科学解説の御本に出ているが、そんな時間をどう理解すれば良いのだろうか。

『虚数』は数学的表現手段として、興味拡大につながったとしても、自然現象の『実在性』認識の役には立たない概念である。虚数と同じく「負数」も『次元』「単位」を付けると実在しない世界のお話となる。長さ -3.5[m] は実在しない。それはとても抽象的な、難しい世界である。

物理学的世界の実在性認識に『虚数』、「負数」は役立たない。

私が科学的能力が無いためなのか、やっぱり理解できない感覚上の概念である。

虚数は自然描写に役立つか

最近気に係ることがある。数学で、複素関数論と言えば中々難しい内容のものである。複素平面あるいはガウス平面と呼ばれる、直交した実数軸と虚数軸で捉えた平面のことである。その虚数軸の虚数と言う概念の意味を考えると、実に難しいと思うのである。最近特に気掛かりなことは、物理学理論が私の取り付く島もないほど高度な数学的記述で論じられるが、その描写内容は実在空間との関係で何も認識できない抽象論に偏ってしまったように思う。専門的な分野で通用するかも知れないが、一般市民の理解から余りにも遠く離れ、その乖離が大き過ぎると思う。実在空間は二次元では何の意味もなさないと思う。必ず三次元で無ければ、目の前の空間を認識できない筈である。そこで、虚数軸を導入しても、実軸と虚数軸からなる平面は厚さが無いから実在性には役立たない。物は原子核でも体積を占める。そこで虚数概念を導入したとして、三次元空間をどのように表現するかと考えても、厚みの方向を表現できない。だから物理学理論では、実在空間の中にどのように考察対象が存在するかと言う、最も基本的な空間認識の欠落した範囲での解析において虚数が利用される。虚数概念の意味を考えるだけで、自然科学とは何か、科学技術とは何か、そこには同じ科学と言う言葉が使われるが、その中身に含まれる意味に違いがあるのではないかと、色々と考えさせられる。