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観自在菩薩

魔訶般若波羅蜜多心経の最初の五文字である。それは経文全体の本源となるべき最も大切な意味が込められていると観る。ここに述べる事は、全く門外漢の解釈であり、一般の解釈とは相容れないものであることを先にお断りしておきたい。

この心経と言う経文全体が漢字の羅列に思えるほど、内容を理解することなど筆者には土台無理な事である。だがしかし、一つだけ『色即是空。空即是色。』の意味については筆者にも強く共感できる思いがある。それは物理学理論の欠陥を指摘していると思われる深い自然界の実相を洞察した真理の標言と考える点である。それが空間の『エネルギー』である。

『質量』は『色』の一つである。それはよく見える世界の姿である。その『質量』が光となって空間に放射されると、その光の『エネルギー』を見ることも測ることも出来ない『空』となる。物理学理論の対象とできない実験的検証不可能の自然世界の実相が『空』の『エネルギー』と理解した。

大昔、理論など何もなく、ただ自然の事象を己の心に照らし合わせて、納得できる結果として辿り着いた悟りの言葉と解釈したい。心経の言葉としてまとめられる迄には長い伝承を通して受け継がれ、その結実の花となった東洋思想と理解したい。

経文の漢字で気掛かりが二つある。

一つ目は『波羅蜜』の『蜜』の字である。これは『密』の字の間違いではないか。真言宗でもある密教の『密』の字の筈だ。なんで心経の中に甘い蜂蜜の『蜜』の字が入るのか、それは場違いだ。

二つ目は最後の『ギャー諦ギャー諦』の『ギャー』の漢字(変換されない)は無意味である。『諦』の字義はとても深い意味を持っていて、不明な事柄や事象を分かる様に明らかにするという意味である。諦観などと使う。経文の最後のまとめとして、『掲諦』の文字によって、明らかになった道標を掲げて、みんなで前に進みましょう。という意味と解釈する。それが経文の最後の言葉に相応しかろうと。

さてそこで、『観自在菩薩』の意味はどの様なものと考えるかである。その意味として、これは『菩薩様がこう述べた』などの意味では全く納得できない。『禪』の根本原理は民主主義と解釈する。権威によって自由を妨げる事はしない筈。権威を作らない。全体主義を嫌う。その禅的な捉え方からすれば、菩薩様とはならない筈だ。これから述べる筆者の解釈はとても今までの標準的な論説とは全く異なり、常識外れであろう。『自在』と言う用語は自在鉤等、囲炉裏の鍋を自由に上げ下げできる吊り具を言うことから「自由に」と言う意味を込めて使われる。それが一般的かと思う。しかし、それでは大切な生きる指針を伝える『心経』の冒頭言としての『自在』の意味としては無意味に思える。『菩薩』は『菩提薩埵』の『菩提』と『薩埵(サッタ)』を合わせた言葉とも採られているようでそちらを採りたい。『菩提樹』などと使われる『菩提』は迷いから目覚めること。悟りの智慧等と解説される。『薩埵』は衆生と言う悟りに至らない人の意味かと考える。このように考えた時、「観自在菩薩」の意味は最後の⦅掲諦⦆と合わせて、『物事の本質を己の中に観つけるように進んでゆきましょう。』位の意味と勝手な解釈をしたい。

『波羅多』の意味を自然は災害の波も、また柔らかい絹織物の穏やかさ「羅」も多い。とまた勝手な解釈をしたい。だから「三密」ではないが『密』の漢字を当てたい。

悟りとは?-色即是空の自然観ー

面壁達磨は、まる9年間只ひたすらに洞窟の中の壁に向かって座禅をした。壁は何も答えてくれない。世間の生活とは隔絶して、壁に向かい、己に問いかけ、自問自答の壁が己の出す答えを反射して来るにまかせて過ごしたのだろうと勝手に解釈する。しかし、全く世間と途絶しては生きて行けない。近隣で、食べ物を差し入れてくれたり、身の回りの世話を陰で支えた人は居ただろう。そんな壁に向かった姿は尋常には映らず、無意味な業と蔑まされるような所業であっただろう。しかし、必ずや納得する『悟り』を得たと思う。その悟りとはどんなものであろうか?

般若心経と自然科学 『般若心経』と言われる経典がある。それは一体誰が膨大なインド仏教の経典から、要約して取りまとめたのだろうか?こんな短い文章に纏めるとは至難の業である。当然『悟りの人』でなければできない事である。その経典を読んでも、なかなか理解できない。しかし、世界を「色即是空 空即是色」と看破した眼力・勘力には悟り人の真骨頂が現れていると観る。筆者はただ『エネルギー』一つしか見えないので、それが『色(シキ)』に当たるとの解釈である。しかし、『エネルギー』は『色』に成って現れるかと思っても、それは変幻自在の『空(クウ)』の中での幻みたいなものである。だから形として『色』に成って現れても、何時消え去るかは分からない。それが『色』があると思えば、『空』の何もなかったと思い当たると言う位の意味であろう。今筆者は『エネルギー』と言う自然世界を統べる根源として、言わば素粒子論での「素粒子」に当たる基本に到達したと思っているから『色即是空』の意味に共感できるのである。科学論のしかし自然科学などと言う物理学的な思考を昔の人は採らなかった筈である。それにも拘らず、現代物理学論の根源(もし、筆者が唱える『エネルギー』の世界観をそこにあてはめられるなら)に到達していたと考えざるを得ない悟り人の精神的な感性に驚く。現代物理学の世界はとても複雑で、宇宙論から素粒子論まで、素人の筆者が理解できる訳は無いのであるが、とても納得し、信じられる世界観ではない。

科学理論と市民感覚 先日も『重力波』の検出云々の科学者の話がニュースに流れていた。例えビックバンにより、爆発があったとしても、その衝撃波が検出に掛かるのは有り得る訳であるが、何故それが衝撃波と異なる『重力波』と言うことになるのかの論理性が誰にも理解できるように説明されなければ、その論は信用出来ない。市民の科学認識力で理解できないような説明で済ます専門家の牙城での論には閉口する。そもそもビックバンと言う自然事象が起きたと言うことさえ、何の証拠も無ければ、検証も出来ない事なのである。宇宙に初めと終わりが有ると考える事自体が、何の証拠も無い論に惑わされているのである。人間は寿命が有るから、宇宙にも初めと終わりが有ると考えるのが理に叶うと感じ易いだけなのであろう。人間初め動植物には男性・女性と言う二つの対照的な世界が有るから、『電荷』にもプラスとマイナスが有るとの社会的合意・認識が生まれた。それは、それが当たり前と考えやすい人間的性(サガ)から生まれた概念解釈法に基づいているからであろう。日常生活で遭遇しないような世界を科学論として唱えれば、一般市民は偉い科学者がいうことだから、兎に角専門家として敬い、黙って信じればその仲間に入ったと安心出来る錯覚に浸れるからではないかと思う。結局原子核理論の専門性など当てに成らない事を『福島原発事故』が示した。放射性・放射線の正体も厳密性は示せない事ははっきりしてしまった。そこに政治、経済が関係し、業界の特殊性が加わるととても複雑になり、益々曖昧性が幅を利かせる話に成る。論理的とか、真実等は掻き消されて流されるのである。東洋哲学の禪は複雑さは排除する。科学論さえ日常生活感覚から判別する。余計な概念は捨て去る事が禪の本筋である。原子は電子と同じく現代物理学の論拠である。しかし禪は、原子さえ基本粒子とは見ないだろう。素粒子論のあらゆる素粒子さえ一つの『色』と『空』で解釈する。『エネルギー』はさまざまな姿に変幻自在に変化するから、これという形・実像でとどまらない。だから『原子』もエネルギーの局所化した、宇宙構成の流れゆく一つの仮の過程の姿でしかないと観る。世界に留まる物・確定した物・変化しない物など無いと言うのが「色即是空空即是色」の意味である。どうすれば『悟り』に辿り着くかは未知の中。日常生活の中での市民感覚での科学的認識の共有が出来た時に世界は悟りに到達したと言えるのかと。長岡技術科学大学の第2代学長 斎藤進六先生が就任時の話で、創造性の『創』の字の意味を話された。心に痛手を受ける深い傷の意味と。その時は自分がそんな思いを経験するとはつゆ知らず感心して聞いていた。禪と科学

日常生活での発見 自然現象に見る不思議の具体例を挙げよう。世間的常識、科学的学説否定の見解を拾い上げておく。『雷の正体』で、雷は空気中の水蒸気の熱エネルギーが原因である。日本雨蛙は、土の中に産卵し、土から生まれる。水の中でのオタマジャクシの生態を取らない。雨蛙と幼生生殖ドアノブの火花ー熱電変換ー。雷と同じく『電荷』など存在しない。電圧計が計るもの。技術の意味を解説した。大津波の発生原因を探る。地震の学説を否定した。地球の生い立ちを問う。石は何から出来たかを問う。石炭の意味も併せ考えて欲しい。こんな単純な自然観に辿り着いてしまった。これ以上何を求めれば、自然世界に心が共鳴できるのだろうか。それにしても科学技術と自然界の真理との間の関わり方に、人間の思考を重ねて見るとあるいは物理学者などの専門家の論理を手繰ると、人間の知識とは何かと考え込まざるを得ない。