タグ別アーカイブ: 舞鶴鎮守府

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私は偽物か (2013/10/14)  に昨日コメントがあった。表題のような言葉が載っていた。それはスパムとボードにあった。意味も理解せず削除した。意味を調べたら、「詳細はこちらをご覧ください。」であった。過去の30数年間の身の周りに起きた様々の事柄を総合的に考えれば、日本政府によって常に「亡き者」とする対象として取り扱われてきたとしか思えない。日本国憲法の基本的人権規定に照らして、あり得ないことが『行政機関の保有する電子計算機に係る個人情報の保護に関する法律』に私 金澤 喜平がその保護対象として存在していない事である。その「詳細はこちらをご覧ください。」の一部を以下に記す。

気付かずに通り過ごした過去の事柄が突然「あれ?」と疑問となって浮かび上がる。知らずに過ごせば、それは何も学習しなかったと同じ事だ。新潟県教育委員会の教育職員として正式に採用されていなかったなど、採用事務を受けた経験がなければ知らないで過ごす。人として当然の権利を行使する機会から排除され、新潟県の教育公務員としての職員登録に無いなど知る由もない。まさか昭和14年(1939年)12月1日、舞鶴鎮守府へ新潟県中魚沼郡貝野村から戸籍が転籍されていたなど知る由もない。平成5年5月末に舞鶴鎮守府および溝尻海軍住宅の嘗て住処を尋ねたころに、転籍の事を知った。父 金澤 好明は昭和天皇即位の礼に軍艦代表として参列した。昭和14年10月1日徴兵を避けるため、日本発送電株式会社に入社した。しかし、内務省(貝野村)と軍によって軍籍に戸籍転籍の異常手段を採られた。昭和16年9月召集を令せられた。

貝野村立貝野小学校には、正式に登録されていないと思えるため、義務教育終了の個人情報(総務省、下の1.行政機関の保有する個人情報)が無いとい。)さえ無いとの点で、政府機関での筆者の存在が否定されているとしか考えられない。昭和20年8月終戦後に故郷(新潟県中魚沼郡貝野村甲)に舞鶴鎮守府の京都府舞鶴市溝尻海軍住宅から帰ってきた。舞鶴国民学校1年生のまま学籍転籍の手続きもなしに、その年の9月貝野小学校に行ったと思う。しかし、小学校から、貝野村立貝野中学校の卒業まで、名簿は特別に男子の名簿の最後に付け足しであった。だから正式には削れば削除となる可能性の名簿順だ(下記の1.行政機関の保有する・・)に関係して。地区姿の5名のうち自分だけ除け者扱いであった。高等学校、予備校研数学館および新潟大学での授業料を収めた記憶がない。いくら記憶力が無い筆者と雖も授業料納付を忘れるとは考えられない。今その訳はすべて、戦後処理に掛かっているとしか思えない。敗戦時、父も溝尻海軍住宅に一緒に住んでいたが父は戦後のしばらくは用が有る為帰れないからと、母と3人兄妹で帰京した。父は多分年末まで帰らなかったと思う。何用で遅くなったかは知らない。小中学校時代は生まれ故郷であっても、疎開っぺと嘲られて過ごした。

  1. 行政機関の保有する電子計算機に係る個人情報の保護に関する法律(総務省) 平成1年(1989)10月1日施行(昭和63年(1988)12月16日法律第95号)
  2. 法例(管轄機関?) 明治31年制定。改正 昭和39年(1964) 法100号(池田内閣)。改正 昭和61年(1987) 法94号(中曽根内閣)。改正 平成1年(1989)法27号(竹下内閣)。
  3.  上の2.法例 その第3条[行為能力] 人ノ能力ハ其本国法二依リテ之ヲ定ム②外国人カ(「が」という意味であるが濁点をつけない)本国法二依レハ(バ)無能力者タルへ(べ)キトキト雖モ日本ノ法律二依レハ(バ)能力者タルへ(べ)キトキハ前項ノ規定二拘ハラス(ズ)之ヲ能力者ト看做ス と誠に意味深な法律がある。
  4.  特定秘密の保護に関する法律(内閣官房) 平成25年(2013)12月13日 第108号。

私は偽物か の記事のように、水泳の検定合格の書類作成で、登録しようとすると、すべて『不合格』で受け付けられないとなる。上の1.の『行政機関の保有する電子計算機に関わる個人情報・・(総務省)』の個人情報の中に、筆者の情報が無いと考えざるを得ない。特に、学校教育に関する内容は情報公開の対象から予め除かれている規定がある。特定秘密保護法(内閣官房)との関係付けされたら、情報機関も太刀打ちできない国家秘密として葬り去られる。紹介 にあるような不可解がその訳となろう。今でも、登録時の名前の問題で異常と考える思いをすることが多い。

2.の法例の改定時期が昭和39年(1964年)の池田内閣時および昭和61年(1987)の中曽根内閣時、さらに平成1年(1989)の竹下内閣時と何か筆者の人生の節目に関わっているように不可解な改定である。その法例は内容が3.に記したような人の「能力行為」という極めて異様な人格権に関わる評価の問題に関係している。現在の日本国憲法の新しい民主主義の時代に、なぜこのような明治時代の幽霊法令の様なものが憲法と並んで位置付けられているのか不思議の極みなり。当然新憲法のもとで、他の法律に組み込まれるべきものである。飛行機や花火での脅し、さらに自動販売機での電源遮断(100円投入すると装置を電源遮断され、大金100円を3回も強奪された)。官邸系からの不快メールの御送信。

アッツ桜

アリュウシャン列島のアッツ島も今アッツ桜が咲いているのだろうか。

アッツ桜 1943年(昭和18年)5月19日アッツ島の戦いで日本軍が玉砕した。丁度今頃の季節だった。御冥福を祈る。父も昭和17年5月2日第三特別陸戦隊附同年7月1日第五警備隊、北潜?隊進駐援護作戦に従軍。キスカ島での1年以上に亘る作戦後、昭和18年7月29日キスカ島撤退作戦で帰還した。帰還と言っても父は帰れなかったようだ。シュムシュ(占守島)島に深い因縁があったかもしれない。同年7月29日鳴神島発ー8月1日占守(シュムシュ)島着とあるが、8月5日第51警備隊附天寧派遣の命令により8月17日占守島発(日帝丸)19日天寧着。9月17日天寧発(和光丸)19日室蘭着。20日同発22日舞鶴海兵団入団。この時は既に衰弱し、立つ事も出来ずに実家の父(信策爺さん)に背負われて帰る。父からはキスカ島での戦闘の話や、ネズミを食べて過ごしたなど。また撤退時の雲に隠れての幸運の話等を聞いた。軍歴票は墨で塗られて不明の部分がキスカに関係している。敗戦後の9月2日ミズリー号の後も、その年は暮まで帰られない仕事があったようだ。何時帰ったかも覚えていない。

舞鶴での思い出がある。舞鶴東港は平成5年に訪れた時、兵舎があるようだった。敗戦前にはそこに本館があり、入口の広間には大きな鯉の滝登りの額が掲げられていた。館の正面には飛行機があった。父と偉そうな軍人が居て、その飛行機に乗ることを許されて乗った。席は一つか二つしかなかった。父は帰還後、新兵教育の教班長をしていたようだ。終戦後、舞鶴国民学校から、おそらく貝野小学校に転校の手続きは成されていなかったのではと?すべては昭和24年4月の貝野村役場での中央からの行政官が来られての処理行政に因ってどうなったか?

戸籍転籍の不可解 昭和14年12月1日(1939/12/01)舞鶴鎮守府所管(所管という意味が不可解である。権力による強制的な仕打ちか?その日付で第一国民兵役編入とあるが、戸籍転籍は法律に因らない不法行政?)へ轉籍 父は召集されるのを危惧して、10月1日に日本発送電株式会社へ就職した。それを内務省が計って轉籍にしたと思う。戸籍附票の筆頭者頭の「亡」の字の意味。しかし軍には昭和16年9月2日に、『充員召集ヲ令セラレ』で舞鶴鎮守府から発令されているから、それまでの2年間は日本発送電株式会社の社員として送電線路保守業務にも務めていた筈だ。昭和36年交通事故で亡くなり、東京電力社長 木川田 隆一 氏の弔辞には、昭和14年から一貫して21年間送電線路保守員として働いた云々・・と有り軍歴は無いことになっている。舞鶴鎮守府の前は、大正15年12月13日横須賀海兵団 舞鶴練習部入団。軍艦 『加古』その後『多摩』乗り組み。軍艦多摩乗組員代表で昭和天皇の御大礼に参列。菊の紋入りの大きな勲章が家に在った。軍歴の記載の不可解。第一国民兵役満期 昭和21年9月5日。帰休 26年3月31日。とは?

我が存在 私は偽者か

水泳の検定結果をpcに入力すると、「不合格」と打ち出されて、認定証の作成が出来ない。と作成関係者から説明された。名前が認識されないと言う事は存在が否定されていると同じ意味に思える。昭和14年12月1日以降にどのように舞鶴鎮守府から戸籍が回復したか?(2019/02/12)追記。氏名は漢字をGoogleで翻訳すると必ず[Yoshihira]でなく[Kihei]と翻訳される。

学習と考える

『学習』と『考える』という間にある意味の違いを『考え』てみる。筆者が今、辿り着いたと思う自然科学の世界は今までの教科書的科学論とは余りにも懸け離れたところにある。それは現代物理学の世界的に認識された、科学常識の理論と全く異なるものである。何故人と異なる考えに到達したのかと、その原因を手繰り寄せてみたい。その事を『考える』という言葉の意味の中に探ってみたいと思った。『考える』という意味には、今までと異なる、あるいは自分が知っている事・知識と異なる物事に新しく挑戦して、より理解などを深めるという意味があるように思う。兎に角自分にとって新しい局面を切り開く場合に『考える』という意味が当てはまると思う。学校で、はじめて学習する場合の、学習内容も当然その『考える』中に当てはまるだろう。ところがその学習内容を、十分納得して、理解するまで考えるかという問題がある。教科書の内容はあるいは先生が教えることはすべて正しいと、『考える』事をせずに済ましていないかという問題である。『学習』は一通り教室で、先生の言う事を聞いて過ぎればそれで済んでしまう。誰もが社会的常識として広く合意を得ている内容なら、それを素直に受け入れるのが普通の理解の仕方である。だから耳や目で確認し、一つの認識の過程を通り過ぎれば『学習』の形体は成り立つ。『学習』という文字の意味をどのように解釈するかとなると、『学習』と『考える』の二通りの意味に分かれるように思う。辞書を引いて、『学習』という意味を理解すれば、それは『学習』であろう。しかし『学習』という意味を自分で辞書にある意味以外にもう少し深く、あるいは自分なりの解釈を付けると成るとそれは『考える』の意味に近くなると思う。もともと『学習』の文字を見れば、『習』は習うという意味で、むしろ考えるというより慣れる・習熟するという意味に成ろう。『学』も中々意味深長で、簡単には片付けられない。しかし『習』より学ぶという事で、『考える』比重が重くなるように思う。そんな意味の二文字で、割合軽く習うこと、あるいは習熟の仕方を学びとるぐらいに解釈してよさそうに思う。

『考える』 人それぞれに学び方に特徴があろう。自分の事で恐縮であるが、記憶力が極端に劣ると悲観していた。何故そうなったかは何らかの理由があると思う。所謂『学習』があまり得意でない。言い換えれば、偏っていると思う。記憶の訓練を怠って来たから、脳が記憶の訓練を十分しなかった為に、その機能が劣ってしまったと思う。脳はそれぞれの成長過程で、それなりの訓練と鍛え方で、その脳の機能は個人的な特性を備えるものと考えている。その事は『基礎科学』とは何だろうに示した。記憶力を鍛えなかったが故にか、全て理屈を付けて理解するより脳に蓄える術が無いように成ったか。だから理屈は強いと思う。本を読む時も、遅い分それは本当かと疑いながら読み進む傾向にある。自分の感覚と付き合わせながらそれを理解する。上の『基礎科学』云々も勝手に自分の考えをまとめただけで、全くの素人論でしかない。しかし、筆者は誠に気に入っている解釈である。それは自分の考え方の方向性を感覚的に捉えて書き表したからかも知れない。どこにも無い、あるいは常識を覆すようなことを表現するには相当『考える』作業が要求される。不図気がついて、過去の記事を読んでみた。學力とはの筆墨がある。似た記事に知識と智慧を書いていた。偏屈な自分の考え方が記事の中に溢れている。悪い癖は皮肉が多い事と思いながらも、自分の記事を読み返して、中味は良かったかと確認をする。その時の想いであれば止むを得ないと覚悟して。

教育者側 先生といわれる立場の方々は既に教科書の教科内容については十分知識を備えている。だから、改めて教育内容について『考える』事をほとんど必要とは思わない。特に教育法を工夫して、その積み重ねを続けることによって、益々自信を持ちその社会的常識のルールから逸れる事は決して許されないと思う事に成る。それはその人の『脳機能』の方向性が固まってしまい、常に物事の考え方が専門という業界方式から外れられない。極めて保守的な思考形態に縛られてしまう。一つの教育内容や教育方法を守り、少しの手直し程度で十分改革的だと考える。だから、決して原理・原則・法則を疑う等という根本的な思考の『考え』は浮かばない。捨てる事がどんなに心細いかは、その経験以外に知る術はない。昭和62年夏、人に信じられない『電流概念』の破棄を電磁界研究会での表明を記した。しかも自分の身分が全く暗闇の中に居ることを薄々感じながらの覚悟。その覚悟は今も間違っていなかったと気持ちの昂ぶりを誘う。決して教師は自分の積み重ねた過去の指導内容を捨てる事は出来ないだろう。それは同じ内容の教育にしか携わらないから、他の観方が出来ない環境にあるからがその原因である。ここで断っておかなければならない点は、自分が今になればとても恵まれた(?)環境であったと言える。長岡技術科学大学から追放されて、長岡工業高等専門学校で抹殺の為の全く異分野の教科を指導した経験である。高等学校でも教えた事の無い教科『電気磁気学』を突然高専の4,5年生に指導する事に成った点である。専門らしき分野は『半導体静止電力変換回路』の開発であったが、突然の電気磁気学の指導は精神的な負担が大きく、そのストレスが神経を過敏に研ぎ澄ませた事も一因だろうと思う。しかも教科書も無い演習であれば、全て手作りの授業である。ポインチングベクトルで全てを解釈する授業体制を採った。そんな授業はどこにも無かろう。アンペアーの法則、ファラディの法則などに矛盾がある事を授業内容の中で認識を強める事に成った。これらは教科書の内容を否定する事であるから、『考える』そのものの意味に成る。授業内容が現在の筆者の自然科学認識を生み出してくれたのだと感謝すべきかと思う。

『電荷』否定 科学概念の中で、最も根源的な基礎概念が『電荷』である。その存在を否定すれば、もはや科学論として成り立たないと見られる。何故そんな『電荷』否定に到達したかを『考える』事の意味に触れながら論じたい。 『電荷』否定への道でその詳細を述べたい。『電荷』の否定以外真の自然科学の未来は開けない。

戻り方は『考え』られない 自然科学の矛盾は納得できる解決が可能。しかし、舞鶴鎮守府、「香取丸」戸籍の行政問題の矛盾は納得できる解決の仕方が見えない。私は何者でしょう(3)故郷貝野村と舞鶴鎮守府

科学と行政ー振り返って未来をー

日本の科学研究がその質と品位で問われている。残念ながら「STAP細胞」事件がその象徴的な事となった。小保方晴子ユニットリーダーと理化学研究所の問題として世界にそのお粗末さを曝した。理化学研究所が発表した検証結果と小保方研究員が不服申し立ての間での詰めの甘さが何故かと疑いの思いを増幅している。何故もっと詳しく調査時点で、理化学研側の調査委員会は小保方氏から詳しく中味を質すことをせずに、曖昧な結論を発表したのか。小保方氏はSTAP細胞は出来ていると主張しているから、それを確認するのが再度の結論に至るに最低の果たすべき責任であろう。市民に対しての責任である。 自分も、能力がなく一人悩んだ27年前を思い出した。長岡工業高等専門学校(中曽根臨時教育審議会の抹殺人事計画)での殺害から生命を守る戦いから逃げて、長岡技術科学大学に戻った(昭和62年、1987年4月)。しかし、戻るべき場所も無い事も考えずの暗夜行路の旅立ちであった。何故殺害されるかの理由が分からない。当時の自分はもっとお粗末で、大学と言う組織の意味も、研究体制も理解していなかった。だから、世間的常識にそぐわない行動をとっていた。周りには誰も相談する人も無く、常識外れの道の上で、何をすれば良いかが分からずに笑われ続けていた。結局長岡技術科学大学に居られなかった。昭和63年9月こっそりと引き払って逃げた。10月にびわ湖湖畔での、電気理論研究会があり、2年前に、長岡工業高等専門殺人学校で採り纏めておいた『静電界ギャップ内の磁気模様』の写真データの投稿資料の発表をした。それからは自己確認の旅に彷徨い続けた。それから10年以上経ってはじめて、自分の自己確認が出来た。舞鶴鎮守府への戸籍転籍が軍歴表に在る事を知った。それが分かっていればもっと何とか抗議も、戦う術も有っただろうが、全くの無手勝流の暗中模索は手足の無い達磨でしかなかった。気付いた時は既に10年過ぎては遅かった。既に研究する所属組織も無く、過去を手繰り寄せれば、どこまでも寄る辺ない自分を知るだけだ。私は何者でしょう(3)故郷貝野村と舞鶴鎮守府。ただ一つ残された自己主張の道は、科学理論の『嘘』を暴く事だけであった。ここまで来て、『電荷』の存在否定と、電荷概念の噓の実体を暴けたという自信だけは得た。ただ、最近日本政府の教育行政機関である文部科学省が、「教育勅語」を国立国会図書館からを拾い出して、完全廃棄した戦時の教訓をひっくり返して、過去に戻そうと画策しているように思える。一体これからの「科学教育(理科教育)」をどう未来に勧めて行くのか、文科省の意識が危険極まりなく、とても心配である。教科書の検定制度がとても教育には危険であると思う。最近になって、新潟県の違法人事行政の意味を知った。教員として働いたと思っていたのに、昭和39年の春から、新潟県教育委員会からは、何の採用通知も無く、辞令交付も無く16年間に亘って過ごした履歴は何だったのか。文部省にも関わりを持ったが、一体その行政はどのような正当性があるのかと今に思う。結局、舞鶴鎮守府の日本軍に関する事項を私の全てを抹殺する事で消し去ろうとしていたと理解できる。戸籍が糊付の偽装工作を通す日本政府で、法務省・外務省・総務省全ての政府機関が関係している問題である。こんな犯罪行政が罷り通る日本なのだ。新潟県教育行政の過去と未来ー犯罪?-。日本に真の科学が育つかとても心配だ。今回の理化学研究所の問題にその心配が重なる。

幽霊人事の顛末記 誰もが理解できないと今になって思う。①新潟県立新津工業高校から長岡技術科学大学への移動。川上正光学長との面接で、割愛人事と言われた。しかし割愛人事とは何かも知らなかった。最初から『助手』と言う話で決まっていたから。しかし、どうもそれはおかしい事だったようだ。②長岡技術科学大学から長岡工業高等専門学校への移動。大学では大変邪魔な存在であったようだ。移動の3月に、急に石崎電気系長から人材を高専で欲しがっているから行かないか?と話があった。不安のまま決まった。高専の村山助教授の研究室に居候の形で自分の研究室でない間借り研究室形式となった。この事は、その部屋には誰でも、何の目的にでも、例え薬物でも、自由に入れる仕掛けと成っていたのだ。村山助教授は研究室の名札もそのままで、2年後に戻るという話。自分も元に戻るという話。ここでの教育環境は、学生実験の担当は細貝教授(ネズミの小便の電気配線における影響を卒研での課題にしていたように聞いた)の実験項目を代理で2年間させられた。授業はほとんど全て、中曽根臨時教育審議会の名の下で、盗聴から授業風景の写真撮影まで、限りない人権侵害を尽くされた。電気科の教官会議では学生の成績に関する話は一度も聞かないで過ごした。卒研の評価もどのように成されたかも知らない。すべて筆者を除外の扱いか?生命殺害の危険を察知し、飲み物食べ物全てを鍵掛の金属工具箱で厳重に管理した。昭和61年9月から翌年3月31日まで、1日も欠かさず幾つかの鍵や鍵穴封印の紙を準備して、生命を守った。③長岡高専から長岡技科大への移動・逃走。昭和62年3月末が予定の期限であった。長岡技科大で邪魔者であった訳だから、帰れはしなかったのだろう。ただ、昭和61年8月、長岡技科大で電力部門の研究会だあった。その時発表したのが電力技術理論として、自分の自信作の「空間瞬時ベクトル解析法と交直変換器への適用」である。きっとその画期的な内容で、邪魔者の見直しが語られたのだろう。しかし、既に長岡技科大での人事には困難があっただろう。電力技術部門での処遇は無理の筈だから。また、更に困難な事態が発生していた。担当授業が『電気磁気学』であった事が、電力技術と電気理論との研究対象変換が『静電界は磁界を伴う』の昭和62年電気学会全国大会の発表となり、益々混乱に拍車をかけてと思う。昭和62年2月下旬、長岡技科大電気の教授から盛んに大学に戻らないでと心配されたが、愚か者の意地っ張りから断り、予定通りの移動を覚悟した。高専の校長が1月には政府の官房副長官に話をしたらしいがその意味は知らない。等いろいろ問題のある事件であった。3月初めに校長に移動の確認に会いに行ったら、人事担当者を呼び、またもや割愛人事だと告げられた。何の意味かも知らない。4月に仙台での電気学会発表をした。その折、家族も一緒に連れて行った。行きも帰りも、うるさい『蠅』や『カラス』が付きまとっていた。2,3匹で。高専から逃走してからは、世間を騒がせるような事件になってしまい、大変な事態を来たした。話が出来、相談できる人は皆無の中での、全く四面楚歌の世界を、只混乱して、馬鹿にされながら過ごした。以上当時の思いを記した。人事は常識に従う世界で、自分が常識にそぐわない生き様であった。科学理論に対する考えも自分は常識の世界と異なるのだ。しかし真理は我に在る。

私は何者でしょう(3)故郷貝野村と舞鶴鎮守府

自己確認の闇の世界に旅立ったのは昭和63年秋であった。50歳。

終戦時に続く。

父の軍歴表を見つけて、人生の過去をひも解き始めた。自分を知らないことの恐ろしさを知った。私が「舞鶴鎮守府」に触れると、妄想・空想・構想思考と統合失調症の部類になる。父の戸籍附票の偽装

社会的に認められない「日本海軍と国家体制」の事実の存在を行政はひた隠しにする。戸籍はこの事実を隠蔽するため、戦後処理をした。パスポートは外務省の認可に関わり、戦後処理問題に抵触し、発給出来ないかと思った(平成24年秋にパスポートを請求してみた。発給された。しかし発給の意味が分からない)。戸籍の改ざんは、削除と辻褄合わせの「糊付偽装」で修復した。昭和24年4月、貝野村役場での事である。戸籍には附票が有る。それは自治省の管轄であると、法務省で戸籍担当者(仁井谷?新谷?さん)から聞いた。その附票(訂正)が右のものである。父母が出生時からの本籍地?一切海軍住宅の存在は消し去られて、戦後「死亡」扱いの筆頭者「亡」で公的処理をされた。自分が、恥ずかしい過去の公開で社会的生きる意味を得る愚かさを味わう。

鎮守の故郷と父 故郷には鎮守様と呼ぶお宮が有る。季節の村祭りの舞台になる。名前を『箭放ち神社』と言うようだ。私が解釈するに村父の免許証は信濃川に面し、対岸は断崖が切立っている。今は「姿橋」が掛っている。大昔、おそらく対岸に矢を放ち渡綱を掛けた事から付けられた名前であろうと考える。初めは渡し船の止め綱の役に。大昔、荷物、物資の運搬は船便しかない。そこから船便で物資を運んでいたようだ。父の四股名(シコナ 本当は醜名の字)が『箭津錦(ヤツニシキ)』で、草相撲を取っていた。昭和7年、越路の片貝で長野県の『千曲川』と大関相撲で勝ち、長岡の内山市長からお祝いに、化粧回し料200円を頂いたと聞いた。父の氏名も何時からか知らないが、戦後はすべて戸籍と異なる『金沢』であった。なお、父の免許証の住所は、新潟県中魚沼郡水沢村貝野甲・・となっている。昭和29年頃、貝野村はある事件が基で、分裂した。従って、学区も分裂した。その意味で住所が水沢村に変更になる。

父は昭和36年9月6日(誕生日に同じ月日)に、オートバイに轢かれた交通事故で死亡。姿に千手発電所への、宮中堰堤からの導水路管の土捨て場がある。無知を利用された、その土地に関わる怒りが収まらない。その一つ、新潟県の用地課の策略。昭和62年10月、千葉県館山市で電気学会電磁界理論研究会の発表の当日。夕食時に、ホールに呼び出しの館内放送がある。電話に出たら、家に県の職員が訪ねて来て、用地の話で来たが、承知して貰えるかとの話だと言う。理解も出来ない突然の話であったが、家では困っているようで、多分承知したと思う。後で理解した、その話の内容は土捨て場の自分の土地のど真ん中を『新潟県の県道』を通す用地買収の話であった。そんな予定は用地再分割の地画整理のときから決まっていた話である。しかも、自分が千葉に研究発表のため留守であることを承知の上で、夜間自宅訪問の夜撃ち処理の策略であるのは明白だ。犯罪県庁の政治行政の実態。

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