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エネルギーから電子殻を問う

はじめに 電子殻(ダッシュボードに掲示された)という用語を初めて知った。その電子殻についてどう考えるかと問われているのかと思った。『電荷』概念の意味が分からず、30年以上にも亘って教科書の科学理論に疑問を感じてきた。むかし(1982)『静電界は磁界を伴う』という電気磁気学理論の科学常識に反する内容を電気学会全国大会で発表した。今となれば、それが技術屋の感覚的挑戦であったが,間違いなく的を獲ていたと驚くばかりだ。静電界という電場がむしろ磁場とも看做すべきエネルギーの流れであったという発見だから。たった一つのその実験結果の意味が如何なるものであるかを科学理論の根幹に照らし合わせながら考察を積み重ねてきた。物理学の根本である電子殻に因る原子像さえ否定しなければならない羽目に陥ってしまった。もう一度、先人が創り上げた科学理論ではあるが、その根幹を成す電子の概念および機能をエネルギーとの関係で、考えを整理して置かなければならないと思った。結果的に図らずも伝統的科学理論を否定するような仕儀になってしまった事誠に申し訳のないと思ってもいる。『電荷』の自然世界での実在を否定するという事がどれ程大きな社会的混乱を教育に与えるかは想像に難くないから。手元にあった 科学革命の構造 トーマス・クーン 中山 茂訳 みすず書房 (1987 第19刷) を開いて読めば、余りにも溝が深すぎると・・。電子とは『エネルギー』の一つの姿でないかと思いながら。

原子構造 原子の周りを電子が何故回転していると分かるのだろうか。最近も新しい113番目の原子の発見が話題になっていた。それ程厳密な科学研究の証拠が示されている中で、電子が原子核の周りをまわっている意味が理解できないと言ってみても意に介されないとは思うが、エネルギー感覚から述べておかなければならないと思う。

電子の責務 電子に対してどのような科学的責務が課せられているか。電子が獲得したものでなく、人間が付与した役割である。自然界が『電荷』と質量を持った電子に取り囲まれた原子核の原子構造体から成り立っていると理解されていると思う。その原子にもいろいろの特性がある。シリコン、酸素、窒素、炭素あるいはネオン等とそれぞれ際立った特徴を持っている。それらがすべて電子殻の電子によって構成されている。みんな同じ電子殻構造の話で統一されるものと思う。筆者の拙い高校生程度の知識に因る電子像を先ずまとめてみたい。

電子統一情報 ウイキペディアから拾った。とても理解できない専門的な電子像の規定であると思う。空間に占める大きさまで分かっているようだ。この9ケタ、10ケタの数値が堂々とまかり通る電子像に近寄りがたい科学理論の畏れ多さを感じる。

電子に付与された任務・責務(期待される電子像) 昔教育の審議会で期待される人間像という考え方が論議されたことがあった。電子像を的確に捉えようとしても期待される任務・責務が超人的な機能でなければならないかの如くに思われ、科学理論の世界が巨大な構造体で入り口から怖気づいてしまう。電子も観方によって哀れとさえも思える。過重労働の期待で瀕死の状態にならなければ良いがと陰ながら心配である。筆者のお粗末な電子像の認識をまとめてみた。

さて、上に挙げた電子像が普段頭に描く姿に思える。原子同士が隣り合わせれば、先ず原子の外周を取り囲んでいる電子同士が相手との情報交換の遣り取りを任され、相手原子を認識する責務が課されている。手を繋いで良いと判断するのも電子で、原子同士を繋ぐ役目も電子の仕事だ。化学結合とか共有結合とかイオン結合とか、とても判別し難いような複雑さの判断も電子自身に任されている。「オラ―そんなのやだ―」などと言って、「東京さ逃げる―」てな訳にはいかないのだ。それが電子の科学的宿命だ。何しろ過大な期待が掛けられているのだから。期待を掛けるお偉方はどこに居るのか姿も見えないが。兎に角電子は大変な重責に怯え続けているようで、何とか少しでも開放してやれないものかと思う。

4番目の任務 原子エネルギーの収支取締役という、日々雑兵の激務に追われる中で、特段のお役目を頂戴してしまった。原子に降り注ぐ『光』がある時、先ず外堀の電子にすべての的確な対応が義務付けられている。電子はどのようにその光との関係を処理すれば良いか、与えられた責務を忠実に執り行おうと考えた。決して外堀から母屋の御主人・核主(お昼寝中かもしれない)様に影響が及ばないように処理しなければならないのだ。最初に挙げた1番目の任務との関係では、足を踏み入れてはいけない禁制帯とかがあり、そこは飛び越えなければならない事になっている。現代物理学の大きな学問領域を成す量子力学では、光と電子の責務との関係がとても詳細に分かっていて、その関係が自然科学を理解する根本原理になっているようだ。しかし、その材料などの量的評価に因って科学技術が進歩したかといえば、それは理論と実際は余り関係ないようだ。光エネルギーをどのように電子が苦労をして責任を果たそうとしているかを拙い科学認識で掘り起こして考察してみたい。すべての電子はどれも同じ電子統一情報に因って細密に規定されているようだ。光エネルギーを処理するに当って、もしうまく禁制帯を飛び越えて伝導帯の位に跳躍出来たとする。その時光エネルギーをどのように、統一電子情報との関係を厳守したままで、処理出来るのかに悩んでしまった。エネルギーというものは電子の情報という質量、電荷および空間寸法には全く影響を与えないで済むものなのか。高等数学式で考える能力が無いので、日常言葉でしか解釈できずにいる。さて、もしもの仮定での話ではあるが、電子が雲のような掴みどころのない波動(その実体が何を指すかを理解できないのだが)であるとしたら、それも質量と電荷を波動の中に備えているのだろうか。その波動もやはり原子核の周りを周回運動していると考えるべきなのだろうか。そこでその波動が光を外部から受けたときは光エネルギーをどのように電子波動の中に取り込むことになるのだろうか。兎に角、陰に隠れた主の核主様に影響が及ばないようにしなければならないとなれば、電子雲の全てが総がかりで対応しなければならないように思える。連射砲のように降り注ぐ光を禁制帯を飛び越えながら処理する技は如何なる理論で可能なのかが理解し難いのだが、その理論まで電子に負わせるのは期待する電子像の範囲を超えてしまうだろうと気掛かりだ。

電子とエネルギー 電子がエネルギーを保有するという意味はどのような物理的現象で捉えるのか。電子にはいろいろな状況があるように思われる。自由電子と電子殻内の電子とでは必ず違う筈と思うが、その訳・状況がハッキリと認識されているのか、説明できるのかそこが良く理解できない。電子には速度の違う状態があると理論では唱えられているように思える。教科書によれば、導線内を流れる電子を自由電子と唱えているように思う。その自由電子でもそれぞれにはエネルギーに違いがあるのか、無いのか。その伝導帯の自由電子には速度の違いがあるのだろうか。酸素の電子が電子殻から解放されて自由電子に成る議論は無いから、原子核の束縛から解放されて自由電子に成る場合は、金属導体や半導体原子だけに当てはまる電子とエネルギーの関係なのだろう。電気回路の導線には電子が充満して流れるように解説されている。超伝導等のように、極低温のエネルギー環境の低い場合は、電子殻の電子は特別の能力を賦与されて、自由に原子核の束縛から解放される自由電子となる資格(特殊任務)がある電子なのだろうか。その自由電子のエネルギー状態はどのようなエネルギーレベルと捉えるのだろうか。原子の環境がエネルギーが高い場合が自由電子の生まれる条件かと思えば、極低温での超伝導の自由電子とはエネルギーが多いのかあるいは『無』なのか良く意味が理解できない。

原子の司令官は誰か 周期律表という科学分析の宝がある。原子の個性と特徴で分類されている。原子の特性を発揮する司令官は誰か。原子の本基は原子核が握っている筈だ。司令官という機能の物理学的基幹は如何に在るか。外堀を守る電子じゃ役不足であろう。

原子構造体と役割分担? 原子構造が原子核と電子殻から構成されているとの解釈に因る意味とその電子機能について考えてきた。殆どの教科書の解説は原子外殻の電子が担っているように説明されている。原子の質量は殆ど中心の核が占めている。一体核は原子の特性に因る外部事象との関係機能としてどんな役割を担っていると考えれば良いのか。核は分裂の時だけ意味を持つような、日頃は原子の中心に隠れた存在であるように見受けられる。電子殻の電子だけが仕事をするような原子で周期律表の顔が立つのだろうか。

電子殻電子が原子の特性を表せるか 元素にはそれぞれ異なる特性がある。その中で幾つかの原子を取上げて、原子の特性がその電子殻の電子でどのように解釈すればその電子殻を論理的に適正に評価出来るのかに思いを寄せてみた。

炭素C この原子の結合の代表例がダイヤモンドの宝石であろう。ダイヤモンドの結合空間構造は炭素原子の表面を4等分した立体角π毎に結合面を持つものであろう。決して平面結合ではない。もし電子殻で4価の電子で炭素原子を解釈するなら、その電子にはエネルギー差はなく、同一の電子殻内に存在する筈だ。そこで、その電子が隣の炭素と結合する時、電子は原子表面を周回運動していると考えるのだろうか。結合する時には運動は停止するのだろうか。電気磁気学理論によれば、クーロンの法則で同一電荷は反発することに成っている。今でも電気の教科書がクーロンの法則を基本理論に据えているなら、どのような論理性で負の電子同士が結合の責務を担い得ると解釈できるのか。しかもダイヤモンドという特別に結合の強い状態を電子が担うという科学論理は余りにも矛盾と欺瞞で構築されているとしか思えない。共有結合とは一体どんな電子の魔術結合力を利用しているのか。電子が周回運動しながらとなれば、とても電子に因る結合論に論理性があるとは見えない。科学は平易な基本に分かり易い忠実な解釈がなされなければならない筈だ。

炭素C (2) 炭素といえば、電気回路では抵抗体のカーボン被膜抵抗などがある。さて、炭素の特性で電気エネルギーの熱変換機能が日常の電気技術の基本に成っている。こんな考察は誰もしないだろう。何も得るものがなく、反発を買うだけであるから。しかし電気技術に携わった事がある者として、少し専門家としての解釈を示しておこうと思う。ここでの話は矛盾の中の教科書の解釈理論からの内容であり、『電流は流れず』という筆者の論理の視点とは異なる。事実は、電線路導体内を電子が流れている訳ではない。しかし教科書に依れば、電子が流れていることに成っているので、その電子が抵抗負荷内を通過する時どのような電子の機能で炭素原子の外殻周回電子にエネルギー的働きをすることが出来るのかという疑問を提起しようということである。炭素抵抗は負荷としては熱を発散している。触れてみれば熱いから分かる。その電気エネルギーを熱に変換する機能は炭素原子の電子殻電子のどのような与えられた責務として働いた結果の現象なのだろうか。こんな基本の基の字のような初歩的な愚問が現代科学理論に欠かせない入門の課題なのである。高度科学理論が取上げられても、足元の理論の根拠が矛盾なく説かれなければ、砂上の楼閣にも見えてしまう。

酸素原子O 酸素は生命の維持に欠かせない。呼吸の問題。 等とまた愚問を取上げれば科学には相応しくないと常識の世界では非難される。常識という科学理論がおかしいとの思いに掛けての科学論であれば止むを得なかろう。酸素が燃焼を司る元素であることは間違いない真理である。酸素を燃焼機能原子として知ることは自然科学の基礎知識として重要であろう。そのことと酸素原子の電子殻電子の科学論理との関係はまた別の基礎科学論である。自然の真理を説き明かすに欠かせない科学的思索・考察でもあろう。原子構造論の基本が電子殻の電子概念に委ねられていることだあれば、その論理性を質しておかなければならなかろう。酸素原子の外殻電子殻の電子数は6個であろう。その電子が何故燃焼の機能を発揮すると考えるのか。電荷と質量を持った電子が周回運動をしていると考えているようだ。燃焼に電子の何が機能するのだろうか。電荷か質量か運動か?電荷も質量も速度にも燃焼エネルギーを発生する機能が観えない。酸素原子の特性は熱エネルギーを放射する自然現象を司る機能である。無から熱エネルギーは生じない。何かを熱エネルギーに変換するのである。それが何であるかは分からない。原子構造そのものの解釈の問題に通じている課題であるから。

ネオン原子Ne 不活性ガスとして捉えられているようだ。外殻電子殻が8個の電子で充満され、化学反応機能が無く安定した元素と看做されているようだ。気体分子結合(Ne2)もしないとの解説がある。同時にネオンサインとして、夜の街の広告照明灯に活躍している。酸素と違って、熱でなく発光現象である。このネオン原子も8個の電子が同等のエネルギーを持って、電子殻内を周回運動していると解釈しているのだろう。どんな軌道で平衡を保ちながら運動できるのか空間的描像を描き難く、理解の域を超えてるが答える能力も無いので我慢も止むをえない。さてネオンサインの発光現象では不活性原子の電子が電気エネルギー(高電圧のエネルギー供給空間)に反応して、どのような光エネルギー放射変換機能を発揮すると解釈するのだろうか。本当のところは電子が存在して関わる現象ではないのであるが、電子殻で理論が構築される限りは、その発光現象の訳が示されなければならないと思う。ネオンサインに量子力学は場違いな話で笑われそうだが、ネオン原子の電子が高電界中を飛んでくる電気の電子と衝突し、禁制帯を飛び越えて高エネルギー電子に成り、再び原子に戻るから発光機能を発揮できのだろうか。電子殻電子の原子構造論から判断すれば、そんな特殊任務付与解釈にしか辿りつけない。内心は無理なこじ付けと思いながら。

リチュウム原子Li とても興味を覚える記事「リチュウムは躁病と欝病を治すだけでなく、それにかかりやすい人を病気から守る働きもする。さらに、リチュウムはほかのさまざまな精神病や情緒不安定、とくに鬱病に効果のあることが知られてきている。」(発見と創造 科学のすすめ W.I.B.ビヴァリッジ著/松永俊男・鞠子英雄 共訳 培風館 p.60.  昭和58年初版)を見た。最近は携帯電話の電池にも使われ、核反応の三重水素とも関係が深いとある。3価で、反応性の高い原子のようだ。電子殻の電子の機能と考えるには理解に戸惑ってしまう。原子とは不思議だ。

むすび どんなに原子とその特性を電子殻構造論から理解しようと思っても、納得できない現実に突き当たる。『電荷』あるいは電子概念に基づく電磁気現象解釈は一見理に適っているように思えても、細かく考えてみると全体としての統合性で辻褄の合わない点や矛盾が見つかる。結局『電荷』に基づく基礎的論拠は物理学理論にそぐわないとしか思えない。『エネルギー』の千変万化する自然の現象に思いを寄せれば、『電子』もその一つの姿に思える。

半導体とバンド理論を尋ねて

追記(2018/05/16) 反省を込めて追記。既に前に同じような記事を投稿していた。半導体とバンド理論の解剖 (2014/01/25) である。さらに太陽電池の解剖 (2014/02/06)にも有る。辿れば、その前年のトランジスタの熱勘定 (2013/01/30)から始まっていたようだ。そこで、電気エネルギーと熱エネルギーが同じものであると考えていたようだ。現在は、『電荷』概念では自然現象の本質を理解することは無理であるとの認識にある。このトランジスタの熱勘定で論じた意味が極めて大切なことを示唆していたと思う。荒っぽくて、反感を買うようの記事が多くて誠にお恥ずかしい。2013年には「量子力学」とは何か?電子科学論の無責任など。

半導体の電子とは? 電力技術における電子の意味を尋ねて30年以上過ぎた。結論は『電荷』も自然界には実在しないと確信するに至った。それならば当然電子も『電荷』などとは関係ないことになる。電気回路の金属導体中を電子が通り、電流になると解釈されている。ただし、筆者は電流は流れず等と言ってきた。だから以下の記事も科学論として認知されるようなものではないかも知れないが、市民や電気の初学者が疑問に思うことに対する『問答』としての価値は十分にあるものと思う。言わば統合的な理屈の自然科学論として見て欲しい。専門的な領域を超えた論理として。さて、現代物理学理論の根幹を成すものに量子力学がある。その代表的な適用が半導体である。半導体の電子のエネルギーレベルとその動作領域の抽象的認識概念が理論構築の原点になっているように思う。フェルミ準位がその要のエネルギー基準値として存在することになっているように思える。そのフェルミ準位は半導体の物性特性に因って、そのエネルギーレベル(電子のエネルギー量)が何ジュール[J]、あるいは何[eV]と決まった値があるのだろうか。

エネルギーバンドとフェルミ準位 電気工学、電気物理と同じ電気エネルギーを取り扱うのに、その専門分野ごとに理論的解釈法や概念がまったく異なる。ただ、原子構造については原子核とその周りを回る電子から構成されているという解釈は自然科学論の基本原則として世界の共通認識になっている。原子構造が科学論の原点にある。『電荷』否定はその科学論から除外されてしまう。永年電力技術で感覚的に身に付けたエネルギーの実在性が染み付いた論理構成の習慣が『電荷』概念の曖昧性に拒否感を抱くようになってしまった。電気物理での半導体の電気現象解釈理論はバンド理論で、正しく原子構造論の電子のエネルギー論を論じているように思う。それは『電荷』概念に基づいて理論構築されている。半導体結晶は基本的にダイヤモンド結合の構造と解釈されている。電子による共有結合が基本になっているように思う。原子核の周りをどのような速度で電子が周回運動をしているかは分からないが、それぞれの電子が回転し互いの隣り合う原子同士の間では、核の周りは複雑な電子回転に伴う『負電荷』の空間場になっているように思われる。単純な電気理論から考えると、負の『電荷』の空間場で、隣り合う原子同士の間でダイヤモンド結晶になる訳が理解できないのだ。電子が回転しながら隣の原子同士が結合する姿が現実世界の空間概念で描けないから理解できない始末にいる。そんな理解能力の無い者が現代物理学理論のバンド理論の意味を考えるなど誠に恥ずかしい極みではある。しかし、初めてバンド理論を学ぶ若い方々も同じような疑問を抱くのではないかと思うので、少し考えを述べてみたい。電気材料を導体、半導体および絶縁体と三つに分けてバンド理論の基礎が説かれる。全てに価電子帯と伝導帯がある。半導体と絶縁体にはその帯の間に禁制帯と言うバンドギャップが存在する。それらのバンドの『帯』と言う幅で表現される意味は電子の持つエネルギーの量の大きさに関係したように見受けられる。電子が回転運動していることに因る運動エネルギーの量の大きさを意味しているのかと思う。電子には質量があるから、その御蔭で運動エネルギーの解釈だ可能である。水素原子は原子構造が単純だから、電子のエネルギー量は基礎物理学では良く算定されて議論されているが、シリコン原子の電子になれば、その運動エネルギーは算定は可能なのだろうか。どの程度の回転速度になるのだろうか。その算定が出来て初めて、新しい半導体の技術開発にバンド理論の意義が生きて来る訳と考える。決して理論が理論の為の理論であってはならない筈だ。『電荷』の実在性はその理論構成に具体的に生かされてこそと思う。リン(P)やヒ素(As)の不純物が添加されると実際の電子のエネルギー量はどの程度のジュール[J]になるのだろうか。

太陽光発電理論と電子 量子力学の理論として大まかに理解している事は、原子や分子にエネルギーを与えると、原子の外殻周回電子がそのエネルギーを受け取って、電子の質量の運動エネルギーの増加を来たし、遠心力と釣り合う様な電子軌道の膨らみを来たすと理解している。光などのエネルギーが電子の運動エネルギーとして吸収される訳をどのように理解すれば良いかも分からないので困惑している。更に何らかの原因で逆に電子の軌道が下のレベルに落ちると光としてエネルギー放射を来たすらしい。勝手な解釈と言われれば、致し方ないが電子の運動エネルギーと光との変換過程が理解できない。量子力学の基本理論を理解している訳ではないが、太陽光発電での半導体は太陽の光を吸収して、電気エネルギーに変換する発電機能設備である。発電パネル内で、電子が光エネルギーを吸収してエネルギーの高い状態で伝導帯に入る。その伝導帯では電子が自由電子となり、原子の束縛から解放されると解釈して良いのだろうと思う。伝導帯の電子はどの程度のエネルギー増加になっているのかを知りたい。発電パネルから次は電気回路を通して負荷に電子はエネルギーを運ぶのかと理論のつながりを考えるのだが、電気回路内の電子による電流概念となると、どうも電子はエネルギーを担う役割は想定されないことになっているようだ。一体半導体内で光エネルギーを受け取ったかと理解するが、回路理論になるとそのエネルギーを担う電子と言う概念は無いようであるため、どこか論理的な繋がりが無いようで理解に苦しんでしまう。もう一度述べる。量子力学における半導体のバンド理論では原子の周回電子のエネルギーの増減を論理構成の基本に据えている。伝導帯の電子は増分エネルギーを電子質量の運動エネルギーとして余分に担ってエネルギー供給機能を果たす役割が期待されているようだ。そこでの電子は速度の増加としての特別の電子になるのであろうか。次に半導体理論によって理論付された電子に関係して、その太陽発電パネルをエネルギー源として捉える電気回路理論では、折角のバンド理論で担ったエネルギーの増加分を電流の根拠である電子には求めていないのである。当然のことであるが、電気回路論では電子に質量に関わる概念は意味を持たないから、電子における『電荷』と電界との間の電気磁気学理論に基づく論理しか考察対象には成らない。だから原子構造論における電子エネルギーに関する運動エネルギーは全く無意味に成る。総合的に全体を見渡した時、半導体パネルで受け取った太陽光エネルギーは電気回路のエネルギー伝送にどのような機能で関わり、負荷に太陽光エネルギーを供給することになると考えるのだろうか。『エネルギー』を基本に考えると、太陽光線も電気回路を伝送する電気エネルギーも負荷に供給されるものも、みんな同じ『エネルギー』でしかないのである。電子の『電荷』は理論的に『エネルギー』を持ち得ないのである。

過去の関連・関係記事 今迄に取上げた考察記事は半導体、電荷およびエネルギー論については次のようなものがある。

金属結晶と自由電子―怒りの科学論―

金属原子の結晶はどのような原子結合により、どんな結晶構造と成っているかを考えてみる。原子理論によれば、金属結晶は化学結合と言う結合によるらしい。共有結合でもなく、イオン結合でもない。Wikipedia の解説でも、化学結合である。標題に副題―怒りの科学論―と追加した。何故かと言えば、化学結合なる結合概念は原子間を強く結合させるべき結合力の実態が何も見えないのだ。少しも原子同士を結合する力などないのであり、幻の結合力である。そんな不明確な結合概念で、科学論が成り立っていることに怒りを覚えずにはいられない。怒りの科学論等と息巻いてみても、どうせ筆者も原子の中を見る訳にはいかない訳だから無理ではある。ダイヤモンドの秘め事に原子結合新建築法を考えてはみたが。クーロンの法則を斬るなど辻斬りと思われる極悪非道の罵りにあいそうだ。

化学結合の矛盾 金属原子同士は相当強い結合力で結ばれていると見做してよかろう。ところが、化学結合と言う結合の描像は誠に怪しいものである。その空間的描像を思い描くとしたらどんな物になるだろうか。金属原子が規則的に並んで、その間を自由電子が満たしていると考えれば良いだろうか。兎角科学論は数学的表現で記述しようとする。数式がより高度な正統的科学論のスタイルと見做されるようだ。その科学論については、空間描像を数式で誤魔化しているように思う事が多くなってきた。言葉で数式なしに伝えられないものは、本当に伝えたいことがその筆者には分っていないように見える。

金属結晶と自由電子

結晶と原子結合 上に考えるための金属結晶とその原子結合の空間的構造を教科書的な概念から描いてみた。あくまでも教科書的な解釈の矛盾を抉り出せればと言う観点からの考察の参考図である。描こうとしても、具体的にその『自由電子』や原子の空間的認識ができない物を図面に描こうとする事自体が無理なのである。そこを何とか描けばであるが、一応仮想図とでも名付けておこう。金属の切断面をみると、細かい区画に分かれて表面が構成されているように見える。その区画ごとに結晶がまとまっているようだ。その結晶間には壁で仕切られているようにも見える。しかし、その結晶区画間の壁は自由電子の移動に何か影響があるようには解釈されていない。そこで原子結合とその周りを思い描くには、その原子を取り囲んで自由電子が浮遊しているような図で考えれば良いのかと言う教科書的解釈に見える。その絵図を描いてみた。自由電子が空間的にどのような形状で、空間に分布していると捉えれば良いかは、あまり具体的には詳しい解釈が示されてはいないだろう。詳しい事を説明する程、誰も自由電子を明確に捉えている訳ではないのだ。それは自由電子なるものが粒子なのか、波なのかなどと、物理学理論で曖昧のままに今日を迎えているからである。要するに分らないのである。真実は、『電荷』を持った電子なるものが存在しないからなのである。

格子と真空

原子結晶格子の真空 原子の空間寸法をどのように認識でるのか。金属結晶の空間格子構造を観測は出来ないのだろう。教科書による原子概念を理解しようとしても、その原子の空間的形状や寸法が明確に捉えられていないことから、元々無理なのかもしれない。結晶構造を検索で調べても、どの解説も一つ一つの原子が格子状の構造で示され、そこには原子とその存在する空間との関係を少しも考える意識がないように見える。ITの検索には、子供か市民か専門家ではない人達の適切な疑問による質問が寄せられている。それに応える解答の記述内容は質問者の感性に対応できない、決まり切った方法の解説で終わっているようだ。その質問の中に、原子が結合したその周りの空間は真空か?と言うものがある。それを図に描いてみた。このような単純な感覺に基づいた疑問に、答えられない事が現代の自然科学論の社会的課題である事と思う。詳細の状況を日常用語で説明できない筈はないと思うが無理なのだろうか。その具体的考察の材料として、単純な原子結合格子像を描いてみた。原子の空間的実像とその原子結合の意味を解説して欲しい。

原子の構成源はエネルギー 素粒子などが原子、陽子あるいは光の構成源ではない。質量が光に変換する。その意味を理解しているならば、決して素粒子などを特別に必要とする筈はないのである。『電荷』がどんな素粒子から出来るか。光がどんな素粒子から出来ているか。エネルギーが空間に存在する事を理解できるかは、光がどんな物理量であるかを認識できるかどうかに掛っている。質量に依存した運動エネルギーと言う概念しかエネルギーを認識できない現代物理学論に問題が有るのだ。上の絵図の原子間空間は真空かどうかを解釈するに、原子その物が空間のエネルギーの局所化した状態と認識すれば、空間が真空かどうかでなく原子その物が空間にエネルギーの広がりとして原子間を塞ぐと考えれば問題はないのである。格子全体が原子の中心からの広がり同士で重なっているとみなすべきである。《真空》とは何かになるが、光が通過している空間もエネルギーから見れば、何もない真空ではないとも言えるから、真空と言う定義も改めて考え直さなければならなかろう。

自由電子と原子結合 最初の仮想図に、結晶内を『自由電子』electronと電子を放した原子との二つの空間配置で書き表した。金属原子が電子を放せば、電気的にはプラスになると見られよう。原子が格子状に堅く結合して、その周りに自由電子が浮遊している形状でしか教科書的解釈の『化学結合』を捉えようがない。そこで『化学結合』の原子同士を強固に結合させる力が生まれると説明できるかを考えてみよう。その結合力はどのような法則の力で解釈するのだろうか。クーロン力だろうか。プラスの原子とマイナスの電子ならば、教科書的クーロン力で説明できようが、問題は電子が自由電子で何にも束縛されずに自由に浮遊していると考えるべき電子と思うから、原子間の結合力になる何らの役割も無いと見做さなければならない。 束縛がないから自由電子と特別に電子に自由の名を冠したと見做すべきだろう。だから自由電子は原子結合の力に関与できないと観る。それなら原子同士はプラス同士だから、どんな結合力を仮想すれば良いのだろうか。

自由電子が導体電流の基になり得るか 今日まで『自由電子』の存在を疑いもしないで過ごしてきた。何故意味の無い、明確な定義づけの出来ない『自由電子』を科学世界の常識として認めてきたのか。さて改めて、『自由電子』が自由に移動して、電流の概念を満たす要件を備えているかを考えてみよう。電流が持つと定義される要件は何だろうか。代表的な周期律で29番目の銅Cu、その金属内部を思い描いてみよう。物理学者は、その電気銅の表面に問いかけてみても、その金属結晶の中を負の『電荷』を身に付けた『自由電子』が自由に移動する方向性を持った流れと成り得ると思えるのだろうか。静電界の問題では、金属で遮蔽された空間内に、『電子』が存在すれば、静電誘導問題として議論になる。今考えている銅金属内の自由電子が銅原子格子間の空間に浮遊しているとしたとき、それは真空内に浮かぶ電子だろうか。その電子に働く電界は在るだろうか。電子はある決まった電界の存在によってはじめて移動する筈だ。銅金属導体内に電界の存在を考慮できなければ、電子が移動するとは考えられない。導線に外部から電圧を掛ければ、それは直ちに電源短絡の事故になる。導線は殆ど電界に堪え得ない導電性を持って考えられている。抵抗がないと見られる。だから銅金属に電界を掛けることなどできないのである。自由電子の負電荷が電子移動の原因とする力をどのように理解すれば良いか。

自由電子が導体外部の磁場発生原因となり得るか 自由電子が電流(電子の逆向き)となり、それが導体外部の磁気発生の原因となるかどうかで確認できる。電子をその具備条件から考えれば、負電荷を持つもので磁気の性質は持っていない。自由電子が導体の中を移動しても、その影響が導体外部に及び、しかも本来保持しない磁気を発生させると言う解釈はどんな論理性で、説得力を得るのか。磁気と言うものも、その存在する空間の(磁気)エネルギーなのである。電子が空間に存在する事がその周りの空間に磁気を伴うか?と言う論理性に疑問を持ったのが『電荷』否定の道への出発点であった。自由電子と言う西洋科学概念が世界の論理を支配して来た訳であるが、それは東洋哲学に照らせば矛盾以外の何ものでもない。東洋思想で検証する科学の道が市民に開かれた自然科学論に成る。自由電子が何故磁気を作り得るかを考える事が科学論なのである。数式では論じられない。数式に乗せるには、決められた概念・法則に従うから可能なのである。その概念・法則を解剖してみれば、自ずから論理性とは何かに思い至り、その概念の矛盾に気付く筈である。『電荷』否定を数式では論じらない。同じく、『電荷』の実在性を数式で論説できない。

電気回路と自由電子 電流が流れると言う電線と同軸ケーブルを例に取上げて、自由電子の意味を探ってみよう。

回路と自由電子

模式的に自由電子を赤色で書き表した。負の『電荷』を懐に入れた自由電子など存在しないと説得するために、自由電子を使って解説するなど全く面倒な科学論説だ。しかし、教科書が間違っている等と言う事を説得するには、教科書の中身の矛盾を説明しなければならないと言う、本当に変梃な論法だ。

①導線の自由電子 銅Duの導線側面を削り取り、中身をみる事を想定しだ図だ。銅原子同士が結合して、格子状になっているとしたら、銅線の外側表面は拡大するとその格子状態が剥き出しになっているかどうかで一思案だ。せめて教科書の意図をくんで、何とか自由電子の面目の立つ方法を考えてみるが、どうしても図のような自由電子の立ち居振る舞いの表現しか浮かばない。そもそも自由電子が固体か流体かも分らない。分らない物を空間に書き表そうなどと考える事自体が間違っている。数式に頼る意味は、具体的に深く事実を探ろうとすると、自己矛盾と言う世界に迷い込むから、権威ある方はそんな迷い道に入らないようにとても上手く逃れる方法の道を堂々と歩むのである。市民が自由電子とは何かと追究するための参考になれば、こんな図が役立つかと思って描いた。後は誰でも想像力を働かせれば、自由に考えられるかも知れない。少し電気の事を知っている者として、問題の考え方の例を挙げてみよう。『電荷』に対する電気的小難しい数式による問題に、静電誘導の解析がある。自由電子が導線内を移動する場合に、その自由電子は自分を生んだ親に当たる銅原子の格子が静電誘導の鏡面の役割をすると考えれば良いのか。もし今でも授業でそんな静電界の解析をする教師がいたら、それは困りものだ。自由に移動する負電荷の電子は金属内で、誰を相手に鏡に映して鏡面現象の理論を全うするのだろうか。その電荷の相手は導線金属の外側に結局負電荷を誘導すると言うのが静電誘導の理論解説になっている。自由電子は結局導線の外側面に全て現れる事になるのが教科書的な、高度の数式による静電誘導の理論である。しかし、この場合は自由電子の負電荷に対して、親の銅原子の正電荷が丁度電荷を打ち消すから、静電誘導も上手くゆかない。静電誘導現象の辻褄を合わせようとすると、自由電子は銅原子のプラス電荷と未練がましく離れられない姿を晒すようにしか見えない。自由の筈がちっとも自由に動けない籠の鳥電子に成ってしまう。中々理論と言うものは、あっちを立てれば、こっちが立たずで、何とも見苦しい様を晒すものだ。筆者も電気の専門家(文科省などの政府には邪魔であろう)として誠に恥ずかしい。どう考えても理解できないのは、プラスの銅原子同士が結合して格子になり得るか。その様なプラス電荷の格子の中をマイナスの電子が何故クーロン力の縛りから解き放たれて自由に動けるのか。『電荷』の存在矛盾が、電気理論の論理性を筋立てて解釈をしようとすると、どうしても避けられない矛盾の壁に突き当たる結果を生む。プラスとマイナスの『電荷』で自然界を解釈しようとした事があらゆる矛盾を生む原因に成っているのだ。この辺の詳しい意味を『電荷』概念で電気磁気学の教科書を執筆される専門家は、しっかりとその専門性を発揮して、矛盾の無い深い解説をして頂きたい。電気技術でなく、理科や物理学においてこそお願いしたい。

②同軸ケーブルの自由電子 同軸ケーブルはテレビの信号用配線ケーブルとして多く使われている。その断面構造は中心に導線Duが一本通り、有機材(ポリエチレン)被覆の絶縁の外側が網組銅線で囲まれている。デジタル信号など高周波の信号が通る。電気回路としては、二本の導線と同じものである。一本が中心を通り、もう一本が外皮の網状導線と形態が変わっているだけである。何故高周波では、同軸ケーブルになるのだろうか。電気信号の伝播速度は高周波であろうと、50ヘルツの商用電気であろうと全く同じである。教科書の電気理論上は、自由電子が移動する話になっている。ただ、送配電線路と同軸ケーブルの配線とはその長さが極端に違う。その長さが何に影響するかと言えば、信号のエネルギー密度が極端に異なる点に求める事ができよう。信号はエネルギー量が極めて小さいから、長い線路亘長では減衰してしまう。電力の場合は、エネルギーロスが有っても、エネルギー密度が極めて高いから送電が可能である。微弱の高周波エネルギー密度の信号を伝播するには、外部放射損失を抑えた信号伝送回路が求められる。幾ら周波数が高くてもエネルギーが大きい訳ではない事を認識してほしい。(蛇足ながら、量子力学で、e=hν [J]の周波数νが高ければエネルギーが高いと勘違いし易い表現は間違いだ。)さて、この同軸ケーブルで、自由電子の振る舞いを考えてみよう。中心導体の中は銅原子の格子の中を浮遊する自由電子は①と同じ事になる。中心と外装の網組導体での自由電子の流れる方向は逆向きでなければならない。網組みの中を流れる自由電子は網の線間を渡り行かなければ上手く電流の役割を果たせない。網の間の渡りが出来る自由電子は中々超能力を持つものだと感心する。高周波デジタル信号を伝えるには、自由電子も難儀な役割を担わされたものだ。本当はそんな役割を人間様に課せられても、自由な自然は我関せずで、人間の思考に副えないのだ。実際自由電子が流れても行ったり来たりで、何にもエネルギーなど運べないのだ。自由電子が辿り着いても、電子はエネルギーを運ぶ訳ではないから、電子の行きと帰りでエネルギー保存則の観点から、負荷へのエネルギー供給分は電子の魔術的能力に因ると考えなければならなくなる。『エネルギー』と言う独立した物理的実在量の認識に欠けている。例えば、自由電子についても『電荷』と『質量』で定義されているから、自由電子のエネルギーはその『質量』に運動エネルギーが付加され、その加速時の力に『電荷』の電界加速の原理が要請される。そこには、エネルギーは運動エネルギーしか見えない。もしその解釈を電気現象の基本とするなら、自由電子が負荷端に到達したとき、そのエネルギー分を負荷に供給して、戻る自由電子は運動エネルギー分に相当する増加速度を減速して電源・送信端に戻らないと、エネルギー保存則の意味が否定されると思う。その様なら、自由電子には誠に御気の毒様とお悔やみ申し上げなければならない。

電気エネルギーの伝送形態 エネルギーは決して電子等必要としていない。『エネルギー』の独立独歩の気概を損ねたら、物理学における電気磁気学の未来は無い。上にエネルギー流として緑色の色付けで示した部分がある。導線の外表面に沿ってエネルギーが縦波として流れるのである。

参考論説記事 電流計は何を計るか 電流は流れず 『電荷』と言う虚像 クーロンの法則を斬る 電流と電圧の正体 電子科学論の無責任 力学から見た電流矛盾 回路とエネルギー流―電流解剖論― 生活電気と『光速度』 電荷の否定は科学的発見か 『電荷』否定への道

自由電子科学論への怒り 中曽根臨時教育審議会とは何だったのか。『電荷』否定の科学論が科学界の常識にそぐわなかった事は誰よりも理解できる。ガリレイ・ガリレオも地動説で社会(宗教権力の教義)の常識にそぐわなかったがために、死後300年後まで罪人の汚名を着せられた。『電荷』概念の過ちを何処で、どのように正すことができるのか。26年と言う年月は長かったが、それでも先が見えない。未来の子供達に、広い視野で正しく見渡せる新しい常識を教えてゆかなければならない。本質を見極められれば、無駄や間違いも少なく済むのである。原子力発電の廃炉を考えたときの経費対エネルギー量の評価係数が間違って未来への借財として加算される事は、ガリレオ・ガリレイの300年の話の比ではない。

『電荷』否定への道

全てがそこに始まった。『電荷』否定の社会的挑戦の道。昭和60年3月、長岡技術科学大学から不要人材と追放され、4月長岡工業高等専門学校での歓迎されない会での、『何の為に来たのか?』の孤立の戦いに始まった。『中曽根臨時教育審議会』の存在も知らなかった。知ったのは長岡高専から逃げてからの、昭和62年9月、テレビニュース画面に映った中曽根康弘総理大臣の姿を見てからであったと思う。自分がその抹殺対象だ等とは微塵も知らなかった。中曽根総理大臣は海軍主計局に居たと微かなうろ覚えにある。ミズリー号での、『無条件降伏』調印式への日本代表団送迎ボートクルーであった父とその後の戦後処理を知っていたかとも考えられる(2014/6/2 これは今考える想像の話である)。このゴムボートによる送迎の映像は隠されてしまった為もう見られないのかも知れない。そこに戦争の意味が示されているが、教育には生かされないのが残念である。戦争の実情を教育に生かせず、隠している。私は何者でしょう(3)故郷貝野村と舞鶴鎮守府 に関連。社会的な絆を持とうと社会に関わると、裏方で怪しい雰囲気に苛まれて来た。理由は分からないが、存在を否定されているように思える。そんな具体的な事件が起きた。私は偽物か の様な事がいつも有ったようだ。『電荷』否定への道は遠かった訳だ。

信じられない疑念事件 高専での4月始業後の最初の授業で感じた違和感。5年生の卒業研究のテーマを決める説明オリエンテーションの時間であった。何か廊下に人の気配を感じたが、見た時には誰もいなかった。相当ザワザワした雰囲気があった。その後相当経ってから、教室授業(4年生電磁気学)が盗聴されているのだと確信するようになった。翌年の4月から、電気科4年生の教室が変更に成った。今まで一度もそのような教室が変わる事はなかったらしい。それは、廊下側に窓が無かったのが、新しい教室は廊下から良く見える部屋に成った。何月だったかは定かでないが、ある日明らかに教室の授業内容・黒板の板書を写真に撮って行ったことを確認した。写真を採るには、窓が無い教室では巧くないからの教室変更だったのだ。写真に撮ったのは、丁度アンペアの法則を、直線導体からの距離に対する磁場分布を計算していた内容である。微分演算rotによる解釈をして示していた内容だった。きっとそんな計算をした事が無い人達であっただろう。

孤立無援の精神的緊張 電気磁気学授業内容を準備するに、特別に意識が研ぎ澄まされていたのだろう。皆当たり前の『電気の法則』が全て吟味対象となっていたと思う。『アンペアの法則』『ファラディの法則』を矛盾に感じ始めたのが全ての始まりに成った。創造は深い傷から生まれる(斎藤進六先生の言葉)。精神的緊張感が『電荷』否定への確信を生んだ。教科書的の電気理論は理屈に耐えるものでない事を確信した。しかし、大学の教授陣や電気の先生に話をしても、誰もチンプンカンプンで、何の疑問も持っていない事だけは確認できた。そんな中での理屈の組み立ての戦いをどうするかも、全く先が見えなかった。全くの無鉄砲の中に立たされたと感じた。真剣に考えれば考えるほど、未知の矛盾と立ちはだかる壁が増えるだけであった。中でもアインシュタインの『特殊相対性理論』の不可解な論理には頭が混乱する程悩まされる壁であった。専門の解説書を読めば読む程、難解な論理で覆われている。たった光の速度の意味がそんなに複雑な瞑想の世界を理解しなければならないのかという混乱。ミンコフスキーの光空間もその混乱の最たる原因である。今になれば、みんなまったくの無意味が綴られているだけであると言えるのだが。周りを全て無視して進むよりほかに道はなかった。それが『電荷』否定の道であった。無法松も、無鉄砲も何でも御座れの道しかなかった。科学と人間 自然科学と人間性 人間とはどこに自然の真理を求めている等と言えるのだろうか。人間程自然の実相からかけ離れた自然の生命の容は無いのじゃなころうか。この自然界が生んだ人間であるにも拘らず。他の動植物を見て、どこに人間程真理、純粋、真剣さから掛け離れた存在があるだろうか。裏と表の両面性の人間。みんな真剣な一直線に生きている。人間程、特別に裏の世界が大きい生き物は無い。矛盾をあたかも正義のように繕う人間。原子力に『爆弾』も『発電所』もみんな社会的正義のように振る舞う人間。人間の自然科学性を研究対象とするのも必要かもしれない。こんな論も『禪』からの道かもしれない。日本から発信の世界に向けた東洋哲学的自然観。

コイル磁場とアンペアの法則 コイルの磁気導線に電流I[A]が流れているという。その導線の周りの磁界H[A/m]を周回積分すると、電流に等しくなる。2πrH=I がその数式表現である。導線をコイル状に巻いても、そのコイル導体の周りには同じように関係する数式が成り立とう。 この関係は以前の記事ファラディ電磁誘導則・アンペア周回積分則の物理学的矛盾に示した図版⑥にある。その原図を載せておく。アンペア周回積分則と・ その図版⑥のコイル周りの磁気をエネルギー流として解釈すべきとして示した。コイル磁場の断面図②と平面図③にエネルギー流を示した。図①の磁束Φなどは物理的には決して存在しない。あくまでも人間の仮想的な解釈概念でしかない。ここで、コイルを採り挙げてアンペアの法則の意味を考えてみよう。何故コイルかと言えば、コイルの外側out side の部分には磁界が無い。もしアンペアの法則が正しいなら、コイルの周りには外側であろうと内側であろうと、コイル導体に対して、同じく磁界が無ければならない筈だ。もし電流が導体の中を流れるものであり、その電流が空間的な遠隔点に磁界を作りだす超能力を持つと仮定できるなら、当然コイルの外側にも磁界が出来なければならない筈だ。コイルの外側に磁界が出来ない訳を誰も説明できないのである。誰もが説明できない訳は磁束も電流も人間が仮想的に解釈法として考えだした仮想的物理量でしかないからである。自然界の電気現象には、電流も磁束も無いのだ。だからコイルの外側に磁界が何故出来ないかを説明できないのだ。結局、導体の周りにはエネルギーが流れているので、そのエネルギー流と磁石のコンパスのエネルギー流との間で相互作用が生じて、エネルギー流間の近接作用力による力の働きが観測されるのである。その磁石にかかる力を電気現象では電流と磁界と言う捉え方で認識している。アンペアの周回積分則が直線導体ではなんとなく解釈に便利であるかも知れないが、少し変わったコイル導体などになると、説明に矛盾が生じる。説明が出来ないのは、元々の電磁気量の概念に矛盾があるからなのである。このような説明は、なかなか科学論としては異端の論に成り、認められないのが実情だ。普通は科学論は数式に依り如何にも原理的であるが如き解説でなされ、こんな科学概念の否定という論法は殆ど科学論には成らないのである。しかし自然の本質を見極めるには、数学的抽象論など余り役立つとは思わない。例えば、アンペアの法則でも、その式が表す意味を実際に計ろうとしても決して実験的に計れるものではない。空間の磁界を測定するには、例えば磁針を空間に持ち込めば、その測定対象の磁界を乱してしまうから、測定値が狂うのである。光の空間伝播量の瞬時値が計れないのと同じで、磁界の数量が計れる訳が無いのである。だからアンペアの法則も、電気回路現象を理解する一つの方策として、こんな数式で解釈したら良いだろう位の事なのである。アンペアの法則が自然現象の本質だ等と考えるのは間違っている。磁界などを計っているのではなく、エネルギーの光速度流のあるいは近光速度流間の相互作用を捉えて技術的に測定方法を確立したという事である。あくまでも磁界や磁束と言う仮想概念が本当に実在する物理量である訳ではない。ここまでの話で、電流が本当は流れる等と考える事が物理的に矛盾していると確信したのが、昭和62年8月である。電流を切り捨てる。自分が長い間回路解析で最大に信じていた電流を、その基本概念を切り捨てなければならない羽目に成ったのだ。自分を斬ると同じ踏み絵であった。『電荷』否定の実験的検証がその電流切り捨てを後押しした。その時点まで、『電荷』の概念が怪しいと睨んで、考え続けていた。『電荷』が怪しく、その否定を確信した実験が昭和61年秋の、高電圧電界内・コンデンサ内の磁場検証実験である。昭和62年電気学会全国大会、仙台市、東北大学での発表『静電界は磁界を伴う』-この実験事実に基づく電磁界の本質ーである。この検証実験に取り組むまでに、考えた事がある。それは地磁気の空間での意味が、それに対して関係する電界とはどのようなものかと言う疑問であった。有名な物理学者・P.A.M.ディラックが唱えたモノポールはその時点で棄却した。その地磁気の変動に対して、空間に直線導体を張ったら、どんな電圧が現れるかと考えた。しかしその電圧は検出する事は出来ない筈と知った。そんな磁界と電界の関係を色々探る思考を重ねた。10月初めに、長岡技術科学大学で、初代学長川上正光先生の講演があった。その時、パワー研で、赤木先生に『電荷』は本当にあるだろうか?と言うような話をした。赤木さんは実験で証明しなければという。すぐ帰って考えたのが高電圧実験での磁界検出であった。十月末の、空が大嵐の日に、高電圧の値を上げて行くと、ロゴウスキー電極間にぶら下げておいた検出用磁針が静かに指示方向を変えるではないか。全くの驚きであったと同時に、しめたと予測の手掛かりに未来が見えた。この自然の神秘を探り出されるのを天が嫌って朝から雷の大嵐に成っていたのかと勘繰りたくなった。自然の神秘を探り当てたと驚愕を感じた。科学技術から掛け離れた物理学の根本の否定と言う、理解されない混乱の発表だった筈だ。『電荷』否定の道のりは、変人・狂人の社会的『逸脱者』と非難されながら、対処する術を知らなかった。それこそ法の範囲を超えざるを得ない道のりである。『電荷』否定の実験の意味を新世界への扉ーコンデンサの磁界ーとして記した。

一言追記しておきたい 静電界中における磁界検出実験に対しては、誰にも理解できない事であったと思う。昭和62年長岡技術科学大学に逃げてから、理学センターの小口武彦教授にゲラ刷りを渡した《高専の方ですか?と言われた、居所の無い身である》や電気系の教授にも話したが相手にされなかった。電気系長石崎彰教授には、『ホール素子』で計ってみたらどうですかと、頓珍漢な返答が返って来た。空気中の光に近いエネルギー流を『ホール素子』で計れると考える話では、議論に成らない。ついでに記す。私は分限免職の処分を受けたらしい。その処分書を見たのは、根本原因が舞鶴鎮守府の軍歴表にある事を知って相当経ってから(平成10年頃?)である。長岡技術科学大学の事務局・庶務課に出向いて、泉職員から手渡されて初めて知った。その中を見ると、昭和63年10月7日?頃、長岡技科大で私に事情聴取をして、処分を決めたという事に成っている。しかしその日は、こっそり無届で、びわ湖湖畔での電磁界研究会で丁度筆者が大量の『写真データ』公開した学会発表の日であった。昭和63年9月技科大から去ったのは、6,7月頃学内の図書館に調べ物をしようと、入館の図書カードで受け付けられず、身分がない事を知らされた。石崎系長に問いただしたら、そんなカードを使ってはならないと、いとも簡単に言われた。じゃ何を使えと言うのか?大学に居てはいけないのだと理解した。

クーロンの法則 物理学で『電荷』が基本概念として、何故社会的にこれ程広く認知されて来たか。筆者が『電荷』否定を唱える事の意味は、自然科学理論の根幹である社会的合意の常識に挑戦する事だったのだ、と改めて怖ろしさを思う。考えてみると、自分のこれと思ったら我慢できない無鉄砲さの社会的には幼稚さと非難される性格が原因には成っていると思う。そんな先行きを考えない行動は今でも非難される事である。自己分析すれば、科学理論に挑戦する事は、社会の反逆者的な批判と無視の憂き目にあう覚悟を持たなければならなかったのだ。しかしそんな思慮深さを持ち合わせていない幼稚さから、今の自分の世界に辿り着いたかと。と同時に、何故人はここまで、『電荷』を世界の基礎として信じて来られたのかと不思議でたまらない。『電荷』が物理学理論でその構成原理として必要とした意味はクーロンの法則である。『電荷』と同時に、否定すべき原因はクーロンの法則にある。距離の長さが法則の『力』の値を決めるという科学的認識に疑問を抱かない、人間の非論理性を考えないでは済まされない問題なのだ。クーロンの法則を斬る に『電荷』否定の論証の為の記事を記した。距離が数学的法則表現の変数である代表例がニュートンの万有引力則である。それもクーロンの法則と同じ意味を持っている。

導体内の自由電子と外部磁界の矛盾 電流概念の原因たる自由電子を取上げてみよう。ここからは時間を置いて記す。金属結晶と自由電子―怒りの科学論―