全てがそこに始まった。『電荷』否定の社会的挑戦の道。昭和60年3月、長岡技術科学大学から不要人材と追放され、4月長岡工業高等専門学校での歓迎されない会での、『何の為に来たのか?』の孤立の戦いに始まった。『中曽根臨時教育審議会』の存在も知らなかった。知ったのは長岡高専から逃げてからの、昭和62年9月、テレビニュース画面に映った中曽根康弘総理大臣の姿を見てからであったと思う。自分がその抹殺対象だ等とは微塵も知らなかった。中曽根総理大臣は海軍主計局に居たと微かなうろ覚えにある。ミズリー号での、『無条件降伏』調印式への日本代表団送迎ボートクルーであった父とその後の戦後処理を知っていたかとも考えられる(2014/6/2 これは今考える想像の話である)。このゴムボートによる送迎の映像は隠されてしまった為もう見られないのかも知れない。そこに戦争の意味が示されているが、教育には生かされないのが残念である。戦争の実情を教育に生かせず、隠している。私は何者でしょう(3)故郷貝野村と舞鶴鎮守府 に関連。社会的な絆を持とうと社会に関わると、裏方で怪しい雰囲気に苛まれて来た。理由は分からないが、存在を否定されているように思える。そんな具体的な事件が起きた。私は偽物か の様な事がいつも有ったようだ。『電荷』否定への道は遠かった訳だ。
信じられない疑念事件 高専での4月始業後の最初の授業で感じた違和感。5年生の卒業研究のテーマを決める説明オリエンテーションの時間であった。何か廊下に人の気配を感じたが、見た時には誰もいなかった。相当ザワザワした雰囲気があった。その後相当経ってから、教室授業(4年生電磁気学)が盗聴されているのだと確信するようになった。翌年の4月から、電気科4年生の教室が変更に成った。今まで一度もそのような教室が変わる事はなかったらしい。それは、廊下側に窓が無かったのが、新しい教室は廊下から良く見える部屋に成った。何月だったかは定かでないが、ある日明らかに教室の授業内容・黒板の板書を写真に撮って行ったことを確認した。写真を採るには、窓が無い教室では巧くないからの教室変更だったのだ。写真に撮ったのは、丁度アンペアの法則を、直線導体からの距離に対する磁場分布を計算していた内容である。微分演算rotによる解釈をして示していた内容だった。きっとそんな計算をした事が無い人達であっただろう。
(2021/07/03) 追記。上に記事内容を少し補足する。一本の直線状の電流と言う物理的意味は全く無意味な事であった。電流と言う計測量は必ず二本の電線で囲まれたような空間でなければその概念そのものが無意味なのである。決して導体で囲まれた空間でなければ、電流と言う概念は存在しないのだ。
孤立無援の精神的緊張 電気磁気学授業内容を準備するに、特別に意識が研ぎ澄まされていたのだろう。皆当たり前の『電気の法則』が全て吟味対象となっていたと思う。『アンペアの法則』『ファラディの法則』を矛盾に感じ始めたのが全ての始まりに成った。創造は深い傷から生まれる(斎藤進六先生の言葉)。精神的緊張感が『電荷』否定への確信を生んだ。教科書的の電気理論は理屈に耐えるものでない事を確信した。しかし、大学の教授陣や電気の先生に話をしても、誰もチンプンカンプンで、何の疑問も持っていない事だけは確認できた。そんな中での理屈の組み立ての戦いをどうするかも、全く先が見えなかった。全くの無鉄砲の中に立たされたと感じた。真剣に考えれば考えるほど、未知の矛盾と立ちはだかる壁が増えるだけであった。中でもアインシュタインの『特殊相対性理論』の不可解な論理には頭が混乱する程悩まされる壁であった。専門の解説書を読めば読む程、難解な論理で覆われている。たった光の速度の意味がそんなに複雑な瞑想の世界を理解しなければならないのかという混乱。ミンコフスキーの光空間もその混乱の最たる原因である。今になれば、みんなまったくの無意味が綴られているだけであると言えるのだが。周りを全て無視して進むよりほかに道はなかった。それが『電荷』否定の道であった。無法松も、無鉄砲も何でも御座れの道しかなかった。 自然科学と人間性 人間とはどこに自然の真理を求めている等と言えるのだろうか。人間程自然の実相からかけ離れた自然の生命の容は無いのじゃなころうか。この自然界が生んだ人間であるにも拘らず。他の動植物を見て、どこに人間程真理、純粋、真剣さから掛け離れた存在があるだろうか。裏と表の両面性の人間。みんな真剣な一直線に生きている。人間程、特別に裏の世界が大きい生き物は無い。矛盾をあたかも正義のように繕う人間。原子力に『爆弾』も『発電所』もみんな社会的正義のように振る舞う人間。人間の自然科学性を研究対象とするのも必要かもしれない。こんな論も『禪』からの道かもしれない。日本から発信の世界に向けた東洋哲学的自然観。
コイル磁場とアンペアの法則 導線に電流I[A]が流れているという。その導線の周りの磁界H[A/m]を周回積分すると、電流に等しくなる。2πrH=I がその数式表現である。導線をコイル状に巻いても、そのコイル導体の周りには同じように関係する数式が成り立とう。 この関係は以前の記事ファラディ電磁誘導則・アンペア周回積分則の物理学的矛盾に示した図版⑥にある。その原図を載せておく。
その図版⑥のコイル周りの磁気をエネルギー流として解釈すべきとして示した。コイル磁場の断面図②と平面図③にエネルギー流を示した。図①の磁束Φなどは物理的には決して存在しない。あくまでも人間の仮想的な解釈概念でしかない。ここで、コイルを採り挙げてアンペアの法則の意味を考えてみよう。何故コイルかと言えば、コイルの外側out side の部分には磁界が無い。もしアンペアの法則が正しいなら、コイルの周りには外側であろうと内側であろうと、コイル導体に対して、同じく磁界が無ければならない筈だ。もし電流が導体の中を流れるものであり、その電流が空間的な遠隔点に磁界を作りだす超能力を持つと仮定できるなら、当然コイルの外側にも磁界が出来なければならない筈だ。コイルの外側に磁界が出来ない訳を誰も説明できないのである。誰もが説明できない訳は磁束も電流も人間が仮想的に解釈法として考えだした仮想的物理量でしかないからである。自然界の電気現象には、電流も磁束も無いのだ。だからコイルの外側に磁界が何故出来ないかを説明できないのだ。結局、導体の周りにはエネルギーが流れているので、そのエネルギー流と磁石のコンパスのエネルギー流との間で相互作用が生じて、エネルギー流間の近接作用力による力の働きが観測されるのである。その磁石にかかる力を電気現象では電流と磁界と言う捉え方で認識している。アンペアの周回積分則が直線導体ではなんとなく解釈に便利であるかも知れないが、少し変わったコイル導体などになると、説明に矛盾が生じる。説明が出来ないのは、元々の電磁気量の概念に矛盾があるからなのである。このような説明は、なかなか科学論としては異端の論に成り、認められないのが実情だ。普通は科学論は数式に依り如何にも原理的であるが如き解説でなされ、こんな科学概念の否定という論法は殆ど科学論には成らないのである。しかし自然の本質を見極めるには、数学的抽象論など余り役立つとは思わない。例えば、アンペアの法則でも、その式が表す意味を実際に計ろうとしても決して実験的に計れるものではない。空間の磁界を測定するには、例えば磁針を空間に持ち込めば、その測定対象の磁界を乱してしまうから、測定値が狂うのである。光の空間伝播量の瞬時値が計れないのと同じで、磁界の数量が計れる訳が無いのである。だからアンペアの法則も、電気回路現象を理解する一つの方策として、こんな数式で解釈したら良いだろう位の事なのである。アンペアの法則が自然現象の本質だ等と考えるのは間違っている。磁界などを計っているのではなく、エネルギーの光速度流のあるいは近光速度流間の相互作用を捉えて技術的に測定方法を確立したという事である。あくまでも磁界や磁束と言う仮想概念が本当に実在する物理量である訳ではない。ここまでの話で、電流が本当は流れる等と考える事が物理的に矛盾していると確信したのが、昭和62年8月である。電流を切り捨てる。自分が長い間回路解析で最大に信じていた電流を、その基本概念を切り捨てなければならない羽目に成ったのだ。自分を斬ると同じ踏み絵であった。『電荷』否定の実験的検証がその電流切り捨てを後押しした。その時点まで、『電荷』の概念が怪しいと睨んで、考え続けていた。『電荷』が怪しく、その否定を確信した実験が昭和61年秋の、高電圧電界内・コンデンサ内の磁場検証実験である。昭和62年電気学会全国大会、仙台市、東北大学での発表『静電界は磁界を伴う』-この実験事実に基づく電磁界の本質ーである。この検証実験に取り組むまでに、考えた事がある。それは地磁気の空間での意味が、それに対して関係する電界とはどのようなものかと言う疑問であった。有名な物理学者・P.A.M.ディラックが唱えたモノポールはその時点で棄却した。その地磁気の変動に対して、空間に直線導体を張ったら、どんな電圧が現れるかと考えた。しかしその電圧は検出する事は出来ない筈と知った。そんな磁界と電界の関係を色々探る思考を重ねた。10月初めに、長岡技術科学大学で、初代学長川上正光先生の講演があった。その時ある方に『電荷』は本当にあるだろうか?と言うような話をした。その方は実験で証明しなければという。すぐ帰って考えたのが高電圧実験での磁界検出であった。十月末の、空が大嵐の日に、高電圧の値を上げて行くと、ロゴウスキー電極間にぶら下げておいた検出用磁針が静かに指示方向を変えるではないか。全くの驚きであったと同時に、しめたと予測の手掛かりに未来が見えた。この自然の神秘を探り出されるのを天が嫌って朝から雷の大嵐に成っていたのかと勘繰りたくなった。自然の神秘を探り当てたと驚愕を感じた。科学技術から掛け離れた物理学の根本の否定と言う、理解されない混乱の発表だった筈だ。『電荷』否定の道のりは、変人・狂人の社会的『逸脱者』と非難されながら、対処する術を知らなかった。それこそ法の範囲を超えざるを得ない道のりである。『電荷』否定の実験の意味を新世界への扉ーコンデンサの磁界ーとして記した。
一言追記しておきたい 静電界中における磁界検出実験に対しては、誰にも理解できない事であったと思う。昭和62年長岡技術科学大学に逃げてから、ある教授にゲラ刷りを渡した《高専の方ですか?と言われた、居所の無い身である》や電気系の教授にも話したが相手にされなかった。電気系の教授には、『ホール素子』で計ってみたらどうですかと、頓珍漢な返答が返って来た。空気中の光に近いエネルギー流を『ホール素子』で計れると考える話では、議論に成らない。ついでに記す。私は分限免職の処分を受けたらしい。その処分書を見たのは、根本原因が舞鶴鎮守府の軍歴表にある事を知って相当経ってから(平成10年頃?)である。長岡技術科学大学の事務局・庶務課に出向いて、職員から手渡されて初めて知った。その中を見ると、昭和63年10月7日?頃、長岡技科大で私に事情聴取をして、処分を決めたという事に成っている。しかしその日は、こっそり無届で、びわ湖湖畔での電磁界研究会で丁度筆者が大量の『写真データ』公開した学会発表の日であった。昭和63年9月技科大から去ったのは、6,7月頃学内の図書館に調べ物をしようと、入館の図書カードで受け付けられず、身分がない事を知らされた。系長に問いただしたら、そんなカードを使ってはならないと、いとも簡単に言われた。じゃ何を使えと言うのか?大学に居てはいけないのだと理解した。
クーロンの法則 物理学で『電荷』が基本概念として、何故社会的にこれ程広く認知されて来たか。筆者が『電荷』否定を唱える事の意味は、自然科学理論の根幹である社会的合意の常識に挑戦する事だったのだ、と改めて怖ろしさを思う。考えてみると、自分のこれと思ったら我慢できない無鉄砲さの社会的には幼稚さと非難される性格が原因には成っていると思う。そんな先行きを考えない行動は今でも非難される事である。自己分析すれば、科学理論に挑戦する事は、社会の反逆者的な批判と無視の憂き目にあう覚悟を持たなければならなかったのだ。しかしそんな思慮深さを持ち合わせていない幼稚さから、今の自分の世界に辿り着いたかと。と同時に、何故人はここまで、『電荷』を世界の基礎として信じて来られたのかと不思議でたまらない。『電荷』が物理学理論でその構成原理として必要とした意味はクーロンの法則である。『電荷』と同時に、否定すべき原因はクーロンの法則にある。距離の長さが法則の『力』の値を決めるという科学的認識に疑問を抱かない、人間の非論理性を考えないでは済まされない問題なのだ。クーロンの法則を斬る に『電荷』否定の論証の為の記事を記した。距離が数学的法則表現の変数である代表例がニュートンの万有引力則である。それもクーロンの法則と同じ意味を持っている。
導体内の自由電子と外部磁界の矛盾 電流概念の原因たる自由電子を取上げてみよう。ここからは時間を置いて記す。金属結晶と自由電子―怒りの科学論―。