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ヒッグス粒子の不可解

現代物理学の理論と展望 その現代的課題は科学者の市民社会への説得力の問題であろう。市民社会は、高等理論や高等数学で得られる結論が日常生活の感覚から途轍もなく離れた話になっている事に戸惑いを持っている。真剣に理解しようとする市民は、その論理が日常用語で納得できるべく説明がなされなければ承知出来ない気持ちで苛立ちを感じても居よう。専門家集団である科学者は、研究内容が教科書の基礎原理や基本法則に照らして、考えれば理解できる筈の内容でなければならないと、常に教育的環境と未来を背負う子供たちに最大限の智慧と知能の奉仕を心がける責任があろう。何故こんな事を書くかと言えば、電気磁気学の理論的矛盾を理解している観点から判断するに、専門家の科学者はその事に気付いていないのではないかと危惧するからである。その矛盾を無視して高度の研究で得られたと言う結論は市民社会への説得力がないと言わなければならない。基礎の曖昧なままでの研究には、その研究費の多額な出費に対して説明責任がそれだけ大きく伴い、そこにその未来展望と信憑性が掛かってくると思う。

陽子概念とその加速原理の不可解 最先端の物理学研究は、その論理性が何よりも大切であろう。論理性とは、その解釈や考え方が根底になる「物理学諸法則」から解き明かす説明が矛盾なく出来ると言う事である。子供たちは教科書の原理や法則を本当だと信じて、真剣に学習しているのです。もしその原則に反する様な解釈が必要な事が最先端の研究内容に含まれたり、法則を否定しなければ理解できないような事が少しでもあれば、それは研究する科学者の大きな責任になると考える。ヒッグス粒子の問題は、『陽子』という素粒子がさらに細かい素粒子から成り立つかの如くに解釈される「素粒子論」の研究に見える。全部で17個の素粒子に分かれると言うのか、それだけの素粒子が無ければこの世界が理解できないと言うのか、その辺の認識を日常生活の感覚から得ようと努力しても、余りにも乖離が大き過ぎてとても無理である。そこで、その理解の糸口でも探そうかと考えれば、やはり教科書で学んだ基礎から考える事になる。その基礎からの考察が最先端研究の内容の理解に資するものでなければ、研究の論理性は失われるのじゃないかと思う。『陽子』の教科書の説明・定義はプラスの電荷とある質量を持っている素粒子とある。福島原発事故の放射性物質の問題も、市民が理解しようとすれば、原子核の問題を学習しようと考える。単純な「荷電粒子の加速問題」は教科書の原理になっている。電荷を加速できるのは『電界』というその空間の電気的状態しかないのである。電荷の加速は「磁界」ではできないのが電気磁気学の根本原理である。しかるに、CERN粒子加速器は殆どが「磁界による制御加速法」である。一応教科書的電気力は電界と磁界の両方をベクトル的に合成した、『ローレンツ力』で解釈することになっている。『電荷』という物理的実在性を否定する私の立場からすれば、CERNの磁界加速法はエネルギー粒子加速法としては当然の事である。しかし、陽子のプラス電荷概念を矛盾と解釈しないで、プラス電荷の陽子を磁界加速すると言う専門科学者の不可解さは許されないと思う。絶対に磁界で『プラス電荷』の加速は出来ないのである。27kmという加速リングの一定のままでは磁界での電荷加速は出来ないのである。結論は陽子という素粒子の空間的描像を示す事が専門家の科学者にしてほしい基礎研究である。磁界と電荷の事は前に エネルギーで観る世界ー素粒子ー に書いた。

問答』 17個の素粒子で世界が構成されている。と科学者は解説している。17個それぞれの素粒子の意味を日常用語で説明する責任が科学者に求められる。如何に説明しますか?

朝日新聞 2013/04/04付の科学欄の記事を見て。巨大直線加速器 日本が頼り 「国際リニアコライダー」(ILC)の巨額の建設費(8000億円とも言われる)を掛ける素粒子研究の記事だ。ヒッグス粒子を捉えて宇宙の謎を解く意味らしい。おしくら饅頭のような説明しかできない『ヒッグス粒子』にどれ程の意味があると言うのか。CERN円形加速器で巧く行かないので、直線加速器が必要と言う。次々と果てしなく巨大化するだけで、何の結論も市民に説明出来ないのだ。国際熱核融合炉(ITER)も1兆6千億円の内の巨額の負担を日本も約束したとある。『質量』など光エネルギーの局所化でしかない。そんな無意味の研究は許せない。『電荷』の空間像を示せず、どこにその論理性があるのか。

雷と不立文字

また雷の事を書きたくなった。去年11月に「雷と指数関数」の標題で書いた。微分方程式の解法の矛盾点を含めて論じた。今回は『不立文字(フリュウモンジ)』という東洋哲学用語との関係で論じて見ようと思う。雷様と昔から畏敬の念を持って接して来た自然現象でもある。科学的にも中々捉えきれない不思議さを秘めている。不立文字という用語の意味は、或る事象を説明しようとしても、言葉で解説して理解して頂く事が出来ない、という程度の意味と解釈している。ここで雷と不立文字の関係は雷を言葉で説明できないと言う事に結びつく話に成るであろう。書けない事を書くと言う事がそもそも矛盾である。それでも自分なりに「自然科学論」を書く心算でいるのだ。厳密に自然現象を論じようとすると、数式では説明できないだろうと言う事である。しかも『専門用語』の意味を厳密に認識しようとすると、結局矛盾に突き当たり、その専門用語さえ使えなくなると言う意味である。数式も専門用語も使えなくなれば、科学論が成り立たない事になる。落雷は夏に多い天空の自然現象であり、恐ろしい現象でもある。電力工学では、「高電圧工学」の分野として、長年研究されて来た。しかし未だに、すっきりと分かったと言えない状況にあろう。その原因の根本は『電荷』を実在物理量と決めて、解釈しているからに過ぎない。電荷概念を捨てることにより、始めて「雷」の物理的真実に迫れる筈である。 『電荷』という虚像で、少し電荷概念の矛盾について述べた。落雷現象を、自分の能力の無さを棚上げにして、電荷概念なしに解釈してみたい。右にその落雷の考察ポイントを①から④までの番号を付けた所の現象を基に考えてみたい。落雷現象は、先ず初めに「前駆放電」という現象が雷雲と地上の間の空間に起きる。「放電」という言葉そのものが概念では電荷の現象という意味であるから、使えないのであるが光を空間が放射する事の意味に限った解釈で「放電」の用語を捉える事にする。丁度、電磁界の解釈で、電界と磁界という用語を使わなければならなかったと同じ説明上の『不立文字』の問題でもある。電荷概念は、日常生活で遭遇する現象の説明に誠に巧く出来ているから、誰もが信じて疑わないのである。しかし、論理的に追究すると、矛盾だらけの姿を曝すのである。なんとなく「摩擦現象」を電荷で最初に解釈した遠い過去の時点の科学認識も社会状況にも遡って考えてみる必要があろうと思う。『雷雲』が電荷を貯蔵すると言う物理的根本の解釈の基は何か?高電圧工学では、入道雲の発生時に、上昇気流に伴って、水滴や氷粒の摩擦が起きる。その摩擦を基に電荷の分離が起き、雲の中にプラスの電荷部分とマイナスの電荷部分が分かれて生じるような解釈が取られている。何で同じ者同士が摩擦をすると、プラスとマイナスの電荷に分かれなければならないのだろうか。例え分かれたとしても、プラスとマイナスは常に引き合う基本的性質を持つと定義しているのだから、ワザワザなんで分離する力が生じると言うのだろうか。このようなしつこい理屈を述べると、科学論に反すると言われるのである。科学論は数学的論理方程式によって、科学的論理解釈に脳が訓練された特有の思考方式による科学者の集団的論理場領域なのである。①の雷の発生起点となる雲の状況をどう認識するかが一つの要点になろう。クーロンの法則を基にしなければ、電磁気学が成り立たないと解釈する点に大問題がある。電荷を否定すれば、クーロンの法則は即座に破棄しなければならない。雷の現象には、雲の中での放電と雲と地上との間の落雷とがある。落雷は高速度撮影の観測写真等で、前駆放電現象が見られる。番号①を起点に複雑な軌跡の光の筋が②のように天空に広がり、如何にも何処に放電すれば良いかと、触手を伸ばして相手を探しているような姿の光の筋である。その一筋の③から④へと伸びた筋が目的地に到達したが如くに、その筋が「主放電」の落雷現象の道筋に成る。この主放電の光の軌跡がエネルギーの放射源である。落雷現象が如何にも雲と地上の間に貯まった『電荷』の中和現象と解釈すれば、科学論として辻褄が合うように思える。しかしそんなに簡単に落雷現象を『電荷の中和現象』と解釈して納得したと言えるかという事である。触手を何本も空間に伸ばした複雑な前駆放電の光の筋をどのように解釈したら良いかという『問答』になろう。

落雷のエネルギー解放現象 空間の放射エネルギーには様々な種類がある。今問題になっている『放射性物質』からの核分裂放射エネルギーもその一つである。核分裂放射エネルギーは目に見えない。しかし、空間に展開される落雷の放射エネルギーは強烈な放射光を放って、空間の貯蔵エネルギーを解放するのである。「量子力学」で、原子、分子の光の放射現象を取り扱う。蛍光灯の「蛍光物質」の放射光もその理論で解釈されている。しかし、電子の運動エネルギーが何とかこうとかと解釈されるが、そんな原理は当てに成らない。その理論の矛盾を挙げておきます。蛍光灯の発光現象は水銀蒸気の発する紫外線が蛍光物質を刺激する光の波長の可視光線への変換現象と解釈されている。紫外線に比べられないような、150MHz の波長空間(定在波)で 40cm の直管蛍光灯が高輝度で発光する。これは余り理論解釈と違い過ぎましょう。空間への放射エネルギーの形態はさまざまである。あの夜空を引き裂く落雷の主放電の光放射現象を、その光の放射エネルギー量を積算計算したら、途轍もないエネルギー量になろう。要するに空間に貯蔵された空間エネルギーの放射現象が雷現象の正体である。高密度エネルギーに直撃されたら、人の生命は耐えきれない。結局雷現象を科学論として取りまとめられたかと言えば、エネルギーの空間実在量として認識できるかどうかにかかる問題であると言えよう。光をそのエネルギー量として捉えられるかどうかであろう。

質量とエネルギーの等価性 ここで取り上げるにはと躊躇する。しかし、先日NHKの番組で、「宇宙の渚」とかがあった。古い資料の中に見つけた物がある。宇宙と繋がる様な図案である。質量・エネルギーの等価性実は、事情があって、発表出来なかった資料である。日本物理学会第64回年次大会。エネルギーが質量の基 第64巻1号第1分冊 p.20.(2009)  の発表のために準備した資料である。丁度宇宙の渚での「スプライト」の雷放電模様に関係した絵図に連想できると思う。ヒッグス粒子などの素粒子論に対抗した異なる質量概念の解釈絵図である。序でだから、その時のもう一つの資料も示そう。素粒子衝突の模型を描いたものである。丁度粒子加速器での粒子衝突の様子にもなろう。必ず衝突すれば、エネルギーが、質量が光に変換されて、放射される。陽子などの粒子を加速すると言うが、電気磁気学理論では、陽子の電荷加速なら、電界以外の加速力は無い筈である。しかるに、セルン加速器は「磁界」で加速している。陽子の加速に磁界加速は原理的に『嘘の不可能な加速法』である。それは余談として、粒子衝突で放射される光は質量の運動エネルギーが光に変換すると言うより、質量が加速されたエネルギー分まで等価的に「増分質量」と解釈すべきものであり、その分も含めた物の中の一部が『光放射エネルギー』に変換されたと解釈すべきである。その光はエネルギーの大きさに差はあろうが、蝋燭の光と本質的には変わりが無いのである。これらの光はすべて消滅する訳ではないのだ。光はそのままエネルギーなのである。光が放射されて、必ず何かの障害に突き当たる。そこで屈折、反射および吸収の様々な障害という媒体との相互干渉で、状態変換を起こす。遂には吸収されて熱エネルギーなどになる。その熱エネルギーも完全に原子・分子の内部に吸収されれば、それは『質量』になる。それが『質量・エネルギー等価則』という事だ。『エネルギー保存則』は自然界・宇宙の基本法則である。光のエネルギー保存則をどのように解釈するかが素粒子論の問答に成る。