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故ヴァイツゼッカー元ドイツ大統領に思う

1月31日94歳で亡くなられた。ご冥福をお祈り申し上げる。以前日本に来られた当時の記憶はあった。しかし、1985年5月8日のドイツ終戦40周年記念演説の事は知らなかった。当時の自分を思い出すと、殆ど政治などには関心が無かった。【基本的人権】についてさえ余り考えてもいなかった。昭和が終わってから自己確認と同時に、社会科学を、日本国憲法を考え始めた。氏の訃報にふれて、本を手に入れた。丁度自分の、『以下余白』の不覚の履歴書の頃の時期である。

写真261荒れ野の40年

1985年が戦後40年に当たる。昭和20年敗戦の年に生まれた方々も40歳になった。年数からして時代も人も変わった筈である。昭和60年である。日本は高度経済成長の時代で、敗戦の意味も忘れかける頃であったようにさえも思える。その時にも、ドイツは東西に分断され、統一されていなかったのである。 今の日本の政治状況を照らし合わせてみた時に、考え込まされてしまう。その意味で、記念演説、荒れ野の40年の本を多くの人にも読んで欲しいと思う。今、日本は戦後70年という節目に立っている。新聞などでも、その戦争の忘れかけた記憶を掘り起こして、戦争の悲惨さ、恐ろしさ、地獄の世界、その実像を後世に伝えなければと取上げられている。しかしドイツなどではそれ程の取り上げ方はされていないように思う。その訳は何故かと問わなければならないように思う。同じ同盟国として、戦争の当事者、敗戦国でありながら、今におけるその意味の捉え方に違いが生まれているように思う。ドイツのメルケル首相も日本の安倍首相も共に戦後の1954年生まれである。ドイツは近隣国との間での不協和な状況は見えない。西ヨーロッパ圏は大陸の中で国境が複雑に絡み合い、過去からの限りない紛争、統廃合の歴史を経て、その痛みを限りなく経験して来た筈である。今、EU統合の一つの歴史の中で、未来への共同の道を築こうと歩んでいる。特別な民族意識の問題も無く、平和への共同歩調を歩んでいる。それでも、ウクライナのロシアとの領土紛争問題がある。イラクのフセイン政権崩壊後の敗者、勝者の権力闘争の歪がテロ集団を生みだした。第二次世界大戦の一人の人間ヒットラーが民族浄化と言う狂気の世界戦争を生み出した。そんな状況を創りだすのが、人間の本性としてみんなが持っている事実であることを知らなければならない。その戦後70年の問題は、一人ひとりの人間の持つ『欲望』が過激化するか、穏健に収まるかで、行く道が決まって行くのだろ。「核爆弾」『化学兵器』『戦闘機』どれ一つとっても、みんな人類の未来への希望となるものではない。それが人間の本性なのである。今の世界の姿を見ながらヴァイツゼッカー元ドイツ大統領が唱えた言葉を読んで、本当に偉大な指導者であったと尊敬の念にかられる。振り返って日本の戦後70年は、その戦争の意味を未だに検証せずに、『忘れ去ろう』『無かった事にしよう』と考える政府指導者の政治状況にあると観えるから悲しい。人間は本性としてとても言い尽くせない卑劣な面を隠し持っているのだ。武器を取れば人殺しを命令するのだ。それが国家権力、国家指導者の姿である。何百万人を殺しても、正義と考える。国民の生命と財産を守るために、武器、戦備を整えて、財産等何も無い国民を戦場に送りだす命令者としての権力行使を国家存続の使命と自負する醜さがテレビに写る。ヘイトスピーチが街にあっても、それを抑えられない日本政府だ。人権とは万民に共通のものである。特定の国の人を差別することが許される筈は無い。何故か第2次世界大戦前の日本に広がった民族意識に似た状況がまたぶり返しているように思える。何処に民族などの違いが在るのか。人間がアジアに産まれ来た海と地上の間に人間の民族の違い等、何処にも有りようが無い。産まれ来た最初には人間の姿もしていない。虫や動物と同じで、区別も出来ない存在の筈だ。何処から民族などと言う意識が生まれるのか理解できない。朝鮮半島が南北に分断されている原因は何処にあるのか。先のアジア太平洋戦争の日本の侵略統治が原因でであろう。日本の敗戦時における、戦勝国のロシアの共産主義とアメリカの統治の争いとなって分断されたのであろう。世界史など勉強しなかった自分の愚かさを今になって知ることになる。『色即是空 空即是色』意識するも人間の『業』なり。事実を直視しよう。事実を勉強しよう。真理とはそんなところから見えると思う。

上掲の本の中の有名な言葉を写させてもらう。『問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、又そうした危険に陥りやすいのです。』

この演説には、人間の本質を描きだし、その危険性と未来への和解の可能性を示している。希望と同時に絶望への危険性もあることを描写している。ヴァイツゼッカー大統領の偉大さは、当時のドイツでは戦後40年で、やはり早くその過去の負い目から逃れたいと言う世論が噴き出しそうな状況で、改めて、その過去の罪業に真正面から向き合い、如何にその間違いを二度と繰り返さないために記憶し続ける事が大切かを説いた点であると思う。訳者の解説を通して、当時のドイツの状況を知ることができた。今の日本の政治的状況には、もう戦後は終わりにして、未来の為に有耶無耶の中に過去を葬り去ろうとする意志が強く働いているように自分には見える。ヴァイツゼッカー演説の説いた危険性の意味が日本の今に見えるのである。国民の生命と財産を守る。とはどんな意味なのかと考えてしまう。言葉には表面的な意味とその奥に隠された意図がある。苦く辛い意味をオブラートで包んだ言葉。戦場に送られる時は、決してその生命も財産も国家の為に捨てれとなる。特攻隊が日本的その実体である。

第一次世界大戦 戦後70年を考える時、その前の第一次世界大戦も知らなければと思った。当時は日英同盟が結ばれていた。日本軍の軍艦「香取丸」はイギルスの製造である。太平洋戦争の「香取丸」は日本製である(余談)。その戦争は1914年6月28日のテロによるサラエボでのオーストリア皇太子暗殺が原因で、4年間の悲惨な世界戦争に発展した。その戦争終結後23年目にまた第二次世界大戦である。アジア太平洋戦争(1941年12月8日真珠湾攻撃から)の期間4年と同じである。日中戦争と言う侵略行為は決して頼まれての行為ではない。日本軍の特徴に『びんた』がる。上官の思惑通りに従わなければ『びんた』がさく裂する。びんた軍律。天皇万歳と唱えて死ねと言われていた。日本は異常でなかったか?その異常な雰囲気を今でも感じる。それでも、第二次世界大戦から70年経った。もう世界大戦になれば、人類の破滅に繋がりかねない。

ドイツ基本法 ドイツの憲法を調べてみた。第一次世界大戦で敵方であったドイツと第二次大戦では同盟国として、英米と戦うことになった。ドイツのワイマール憲法に習って作ったと聞いた大日本帝国憲法にも関係したドイツの現状を知らなかった。大日本帝国憲法(明治憲法)の構成は殆ど現在の日本国憲法に引き継がれている。第1章 天皇である。しかし現在のドイツ憲法は、『ドイツ基本法』が憲法に当たる。日本より遅れて、1949年制定。その後1990年に東西ドイツが統合された。

ドイツ基本法の第1条に感銘を受けた。第1条[人間の尊厳,基本権による国家権力の拘束] (1)人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、および保護することは、すべての国家権力の義務である。(2)ドイツ国民は、それゆえに、侵すことのできない、かつ譲り渡すことのできない人権を、世界のあらゆる人間社会、平和および正義の基礎として認める。(3)以下の基本権は、直接に妥当する法として、立法、執行権および司法を拘束する。以上の第1条を見るだけで、この憲法に対する国家観には日本の解釈とに大きな隔たりがあるように思う。今でも、本当に日本は精神的に民主主義の国なのだろうかとこの第1条を見て思った。戦争前後で、日本にはドイツと異なり『断裂』が無い。

日本から世界へ道を

武力は武力の報復を生む。過剰な競争は世界を混乱に陥れる。強き者が弱き者をかばうところに人の道が生まれる。資本主義とは世界に平和をもたらすための人の智慧の道の筈だ。過剰な競争は地獄への道である。今年の日本は敗戦後70年であるが、戦後70年と言う視点で捉えられるようである。昭和20年8月15日が終戦の日ではなく、敗戦で終わった日である。戦後70年と言うと、何か原因も分らないが戦争に突入しており、結末の状況も意識に無く、その戦争の意義・責任も十分検証せずに、ただ歴史上の年代としての戦争が終了した事実の年から70年目に当たると言う意味にもとれる。しかし敗戦後70年なのである。昭和20年8月15日、その日から70年に当る年である。敗戦で味わった苦境と悲惨を知っている人の日本人の中に占める比率がどんどん減っている。敗戦という事実をどのような意味で捉えるかは大切な事と思う。日本人自身、日本政府としてのあの敗戦の原因を公的に検証していない。東京裁判さえも占領軍の不当性に因るという批判さえも囁かれる。積極的にその戦争が間違いであったと言う反省は『自虐』という見方で、過去を消し去ろうと言う意識に強く見受けられる。その象徴的な意味が『靖国神社』に示されている。当時の戦争に関わった責任ある人々及びその子孫が戦後も政治・行政機関の要職を占めている事実が、その戦争の意味を全く検証しないで現在に至っている要因であるように考える。敗戦の前後で、体制意識に断裂も無く継続して今日まで続いているのも事実である。一体日本人がアジア太平洋戦争に関わった原因は何であったのか。何故日本の国でない、中国、朝鮮・韓国に踏み込んで、誰の利益の為の戦争であったのか。更にアメリカに戦争を仕掛けたその目的とその結果に対する予測を誰がどのように考えて決め、戦争に突入する決定をしたのか。全て戦闘に入るまでの経過を考えた時、戦争の相手から要請された訳ではなかろう。戦争を始めた意味と何故敗戦の苦境に至ったかを日本人は考えたのだろうか。結果にはその原因がある筈だ。広島、長崎の原爆による非道な爆撃は人道的な意味で許されない事実である。原子核の科学技術の人間が越えられない科学技術的制御不能性(原子力発電の巨大システムとなる時、その現場に関わる人間全員が、どんな状況でも全ての制御系統を把握し、的確に初期対応ができるほど日常の緊張と能力は極めて不確実性を含んだものであろう。)と人間の精神の根本的罪悪性(原子爆弾の製造・保有は人間を殺すための非人道的科学兵器)がその陰に常に付きまとう事実さえも無視、隠蔽しようと非安全に流れる人間世界の実相がある。何故あんな悲惨な原爆の被害を受けなければならなかったのか。国民の生命・財産を守るという大義名分が戦争をする指導者の常套句である。あの戦争で、国民の生命と財産がどのように守られたか?どんな戦争による世界の幸せを生みだしたか。戦争が国民の生命と財産を守る等と言う事は全くのウソである。国民の生命等は指導者層の思惑のための道具としか見なされない。その戦争の意味を考え、誰がその責任を負わなければならないのか。先の戦争で、敗戦の色が濃くなったとき、『特攻隊』が日本軍の戦闘の悲しい作戦として実行された。自分の部下に半強制的な逃げられない死の自爆兵器と成れと命令をする。それは今のテロの自爆攻撃の命令と余り変わりがない野蛮な行為である。その過去を日本人は咎めずに、許すとしたら、未来に日本人の意識に隠れた危険な無意識性が潜んでいると思って恐ろしい。すぐに全体的集団意識化し易い国民性に思えるから。統一・集団意識、行動が好みに思えるから恐ろしいのである。過去を分析せずに未来を展望できないだろう。この日本人の傾向は、文科省の教育体勢の国家的統制意識に強く見受けられる。全国統一試験制度、中には卒業認定に共通試験認定制度をなどと言う言説さえ見える。一見良さそうに思えるかも知れないが、個性的な考え方を抑え込もうとする制度であることには違いない。それぞれに異なる考え方が広まるように、統一制度は廃止すべきである。それが未来への日本の進むべき道である。戦争に突入する前夜の日本を覆う空気は、今も色濃くきな臭く残っているように感じるのが的外れであるように願う。統一と個性は政治制度における命題でもあろうが、戦争という破壊行為に繋がる重要な要因でもある。人間と言う命は何故人間を殺す事に平気なのか。他にこんな命が地球上にいるだろうか。こんな悲しい事を書き記す自分の無能(競争する意欲が元々ないのか?)と愚かさが悲しい。

日本から世界へ と標題を決めて書きだした。ところが思うと少し違う方へ論が流れて行った。実は自然科学の話を世界に広めたいと思って掛ったのである。しかし、御正月の新聞を読めば、戦後70年との見出しが目に焼きつく。その事を抜きに自然科学に心を集中できないのも許される筈と、そんな言い訳をする。科学論に戻ろう。西洋哲学と東洋哲学の違いに関係づけられるかと科学理論の問題点を拾い出して、加算的科学論を削ぎ落し科学論との対比で眺めてみようと思った。東洋哲学は本質を追究する事により、理論と言う常識の中味からその矛盾をどんどん削ぎ落してゆく思考法のように思う。今私の頭の中には、もともと習得できなかった事でもあるが、自然科学理論の大方が無駄のように思えてくるのである。これは本当に自分でも困ってしまう事態である。それにしても、特に理解困難で、難しい数学理論に因る科学論の手法は全く不要でないかとさえ思うに至ってしまった。自分の能力の無さを棚にあげての解釈で誠に身勝手ではあるが。私が考える内容や観点は誠に単純で、複雑な基礎を学習しなくても良い程易しいもののように思える。ただ無いものを無いと言う論がこんなに難しい事であるとは、過ぎ去ったから思うのである。『電荷』が自然科学論の最も基本的概念として、世界の常識となって認知されて来たにも拘らず、それを否定するのが削ぎ落としの具体的事例として挙げたい訳である。『電子』と『電荷』の間の関係も誠に不可解な概念的結び合いになっているのだ。電子と電荷は異なる筈なのに、どのようにその差を認識したら良いかも判別できないのである。結論は『電荷』など実在しない物理量の概念を仮想して科学理論を構築して来たから、『電子』と『電荷』の取り上げる論理的差異を認識せずに、適当に使い続けて来たところに、矛盾構築の因果が生まれたと考える。電流は流れずの意味を又考えておこう。電流は『電荷』の時間的微分値で定義される。『電荷』だけで良いのに、何故質量を持つ『電子』の流れと言うのか。『電子』なら『電荷』の時間微分値と同時に『電子質量』の微分値も加えた合成値で電流を解釈しなければならないと思う。『電子』に質量が無いなら、用語『電子』は不要で全て『電荷』だけで良い筈だ。『電荷』そのものの概念が明確に認識できないにも拘らず、その存在を既定概念としているところに、矛盾の根源がある。存在しない『電荷』を取り上げて、その否定のために多くの側面からその概念の矛盾を暴きださなければならない程、頑迷に科学理論の根幹の概念『電荷』『電子』が科学常識に成ってきた意味は、その人間の意識との関係でとても大きな意味を持つ内容である。