タグ別アーカイブ: 空間エネルギー

オーロラと電磁界

(2023/05/28).

 オーロラは極地の上空に展開される、気体の発光現象である。地球極地研究所などで研究され、その解説がなされている。

 その中では、太陽風と言う解釈がその主要な発生原因となっているようだ。

 その太陽風は、太陽からの電子とプラスの電荷粒子がその主要な構成粒子と捉えられているようだ。

 そのような、『電荷』が基礎概念となった物理量に基づく電磁気学の教科書の解釈法が基本となっている。

 科学者のほぼすべての皆さんが、現代物理学理論の基本認識の下で科学研究を成されておられる。

 その解釈では必ず『電荷』が、論拠概念の基本となっている。『電界』は『電荷』によって空間に発生する電磁界の発生概念で、『磁界』は『電流(それは『電子』の流れ)』が流れることによって発生する空間の発生概念であると成っている。残念ながら、その現行教科書的な解釈である限り、電磁界の真相を科学的な論理性での理解が出来ていないと、残念ながら言わなければならない。

 ロゴウスキー電極空間の磁界(戻し) (2021/04/16)。更に、新世界への扉ーコンデンサの磁界ー (2011/02/20)。が電磁界の真相を示す実験結果である。 

 少なくとも、物理学理論に関わる科学研究をなさる研究者は、『静電界と解釈する空間には、必ず磁界が存在する』という意味の実験結果を学習し直す必要がある筈だ。その上で、プラズマとは何か?原子イオンとは何か?太陽風とは何か?等、『電荷』概念との関係に明確な解釈をお示し頂きたい。

 オーロラの形状は、とても不思議な天空の女神がお召しなさる、色鮮やかなレースに見える。地球上には、その表面に『エネルギー流』が在るのだ。地磁気とは、コンパスに流れる軸性エネルギー流との間の空間での近接作用力としての結果として検出される電磁気現象なのだ。『磁気』とは全く電流は無関係なのだ。マグネットのN極もS極も、ただ一つのエネルギーの流れる軸性の現象を、両端から見たエネルギー回転流の向きが逆になった状況を解釈した概念でしかないのだ。磁性材料の両端に、その極の周辺を流れる『軸性エネルギー流』なのだ。地球の地磁気も、同じく地球表面のエネルギー流の真相を解釈した状況なのだ。

素流姿

(2023/05/29).

  素流姿
 
 素粒子の意味が分からず 
 渾沌の深みに嵌り空を見る
 映るは白い流れ雲   
 計れもできず素流姿と
 紙に落とせば     
 顰蹙を
 欲しくもないのに
 買う覚悟

『電子』が自然界に存在しない事実を確信した。科学的基礎理論の根幹概念を否定すれば、素粒子と言う物理学理論の分野の意味が消えてしまった。空間エネルギーの構成要素の素粒子が存在すれば、素流姿は消え去るが。

専門家からの罵倒が聞こえるようだ。消え入るように草叢にでも隠れて居よう。

血液とエネルギー流

(2023/05/20).

 疑問と格闘。自分が不図気になる事柄、それが疑問だ。理解しようと検索して調べる。しかし、素人の自分には、その解説が理解できない。理解出来ないということは、自分の能力が無いからだと覚悟すれば、その検索内容の解説を学習すれば済むことだ。

 しかし、どうも素直に解説を信じられない事が多い。だから、疑問と格闘となる。取り留めもなく迷い道に分け入ることになる。

 そんな時、https://hokakebune.blog/2022/06/02/赤血球が謎運ぶ/ と素人の疑問の記事投稿となる。そこには、医学生理学分野の門外漢ではあるが、電気回路現象からの共通な自然科学の基礎的な感覚的認識からの解釈に基づいた、大切な意見も含まれる筈だ。自然現象の全体像が、あらゆる科学論には共通な根底に在るだろうと言う認識からのものだ。

 例えば、Wikipedia の赤血球の解説には、1日に2000億個生まれ、120日間に20~30万回体を循環して、酸素を運ぶとある。それは約10分間に1回血液が循環するような計算になるということか?別の記事には、血液循環速度は?と検索すると、25秒から50秒で1回循環すると言う解説もあるようだ。それは血液が心臓から出て、心臓に戻るまでの時間のことかも知れないが本当か?と思う。余り、経済的な競争を伴わない研究分野は研究対象から取り残されているようだ。赤血球がどの様な生理学的機能を持っているかは、病気の治療等にも余り関わりないから研究対象に成らないのか?と。それはまた別の問題であろう・・。

 血液とエネルギー流」の標題にした。電気回路現象は電線路空間を流れるエネルギーの伝送現象がその本質的物理現象である。しかし生理学の身体活動では、血液が生命保持の最も基本的な、しかも平易な意味での重要な機能を担っていると考える。細胞への栄養素供給、酸素供給、白血球など免疫系の機能など、多くの生命保持機能がその担う基本であろう。しかし、物理学で認識されていない懸念が、『エネルギー』と言う空間の物理量にある。そのエネルギーと言う物理量が空間に満ちている、その物理的認識が欠けているのが、現代科学論の矛盾論の基本にある。身体の全体に満ち溢れているのが、やはりエネルギーなのだ。こんな論は科学理論の対象に成らない傾向がある。それは科学的実験による証明が示せない点である。光は本質的に無色だ。等と言う論も科学論としては余り意味を成さないだろうから。光が無色の空間エネルギー分布波の縦波だと言う論も、科学的手法には成って居ないから科学論として取り上げられないかも知れないから。

 しかし、『体温』がどの様な物理的現象の結果に因るか?と尋ねても殆ど、的確な回答が得られないように思う。学説はある様だが、それは余り理屈、論理性のないものに思え、信じるに価値が無いと思う。

 すべての生物は、その命の保全が基本的機能と成って居よう。外界の危険から保護するには、その外界情報を先ず確実に認識する事であろう。それはどの様な仕組みか?電気回路の信号は電線路の空間を流れるエネルギーである。決して『電子』などは矛盾の物理学概念である。身体の神経伝達経路は決して電線路のような二本の導体で挟まれた空間は無いから、何処を何が神経情報として伝送されるか?である。

 決して、伝送信号として分子体などを考えるとしたら、それは信号伝達速度が遅く、瞬時の危険信号の伝送には不可能である。残るものは、眼球の硝子体管の光伝送現象と同じく、神経細胞のファイバー状の索が光ファイバー伝送空間と同じ機能を担った空間構造体と成っている筈だ。その神経信号は当然電気信号と同じ、エネルギー空間密度分布波である筈だ。その信号源が、体温の全身に分布した『エネルギー』の筈だ。そこに、赤血球の重要な機能が有ると考える。体温と言うエネルギー分布に対して。

 こんな医学生理学に関する知識のない素人の生理学的解釈が、市民的科学論ではないかと思う。専門家は狭い分野に特化した対象がその研究主題となる。それは、広く子供達への教育に迄、科学的基礎理論の統合した意味の研究はされない傾向となる。

 教育において、『参照基準』などの伝統的解釈理論に縛られた弊害を専門家が創り出す危険もある。

学問の自由と教育と公共の福祉

(2023/05/16),

学問の自由という意味はとても深い内容を含んでいる。教育との関係では、更に複雑になる様だ。

どうか皆様にもお考え頂きたい。自然科学理論を市民の理解できる易しいものに取り戻したくて。

公的機関で、教育をする場合、その指導内容は厳しく制限されているようだ。日本では「学習指導要領」と言う基準で、教育する内容が決められている。その指導内容を決めるのは、やはり専門家の解釈理論が基になって決まるのだろう。そこには自然科学論として正しいかどうかでなく、社会的科学常識として多くが認める内容に集約されたものになるように思える。専門家と言う社会的専門集団の解釈が支配する。

科学理論と専門家の統合的理論体系の構築への貢献性。学識経験者・有識者が社会的仕組みや科学論理を決めることになる。そこには自然科学の真理が保障されている訳ではない。専門家集団の論理が支配するのだ。今、科学理論で、物理学者が解釈するとき、決して『電荷』を否定するような自然世界の真理を唱える事は起きないだろう。

自然世界の真理は。社会の混乱を引き起こす可能性がある。『静電界には、磁界は存在しない』が現在の自然科学の世界的常識である。公共の福祉とはどの様な意味だろうか。公共とはどの様な意味だろうか。

そもそも、教育とは誰のために在るものだろうか。それは飽くまでも、教育を受ける子供達の為のものの筈だ。さて、教師が子供達を前にして、教える時、教科書の内容が間違っていると確信できた時にどのように教えれば良いか。教科書通りに間違いでも教えなければならないのか。それはどの様な過程を経て決まるべきか。少なくとも、電気回路で『電子』が導線内を流れる等と言う解釈は間違っているのだ。その間違いはどの様に、誰が社会の一般市民に伝えるのか。教育では、子供達にどのようにこの間違いを修正して、正しい意味を教えることになるのだろうか。

公共の福祉と学問の自由の問題だ。

日本国憲法 第三章 国民の権利及び義務 (第十条 ~ 第四十条)。

第二十三条 学問の自由は、これを保障する。

が簡潔に掲げられている。
しかし、この学問の自由と言う事は、いろいろの面でなかなか難しい問題を含んでいる。科学理論は長い過程を経て、科学者の研究の積み重ねによって、その総合的解釈の合意の基に共通した、間違いないとの認識の下で唱えられてきた。それが現在の物理学理論であり、科学理論全体の総合的解釈論と成っている。

誰も自然世界に、『電荷』が存在しない等とは唱えてこなかった。原子構造もプラス電荷の『陽子』とマイナス電荷の『電子』がその理論的構成原理となって、一般常識に成っている。プラスの『電荷』とマイナスの『電荷』が引合うと言う暗黙の解釈と成っている。そこには理屈が無い。結合の現象を『電荷』によると解釈しているだけである。何故【+】と【-】の間に引力が働くかの理屈は示せない。『電荷』の空間像が示せないからだ。

この問題は、科学理論の意義として、極めて重大な社会問題の筈だ。『電荷』否定を教育の世界に取り込むには、トンデモナイ社会革命の様な問題となる。そこには、公共の福祉などと言う憲法の意味との関係で、社会的混乱をどう収めるかの時代の課題となる筈だ。

30数年前の『静電界は磁界を伴う』のコンデンサの電荷解釈否定が、現今の教育上の課題となっていると考える。物理学の専門家は如何にその事に解決法をお示し頂けるか。無学の筆者が考える疑問です。小学校に何処に入学したかが、自分が知り得ない不可解なるままであるが・・。

新世界への扉 コンデンサの磁界https://wp.me/p19wiU-4w

物理学理論と教育の統合失調症

(2023/05/16).

 科学理論は実験によって、その真偽が決まる。

 平成2年12月、新潟県の精神病院へ強制的に投獄された。統合失調症と見做されたようだ。その事が家族には全ての筆者に対する解釈の根底を成している。その事が決して研究職など有り得ない、妄想の基と言われ続けている。しかし、驚くことは寧ろ科学理論の方が統合失調症に思える。昭和最後の年、1988(昭和63)年、自分の存在の意味が解らなくなり、その意味を捜して旅立った。研究職としての自分が観えない事に気付いて。今は、情報公開制度の請求対象者としても認められていないとしか考えられない。そこには、研究職の過去が無いことからの不明の道しか見えない‥?

空間のエネルギー。

 1987年4月2日、電気学会の年会で発表した実験結果がある。『静電界は磁界を伴う』と言うとても簡単な実験内容であった。それは平板電極によるコンデンサに電圧を掛ける。少し電圧値を高くすると、その平板電極間にある変化が生じる事が観測される。少し電圧が高電圧、3万ボルト程になるので、取り扱いには注意が必要だ。感電事故による人身事故の危険があるから。

 平板に一定の直流電圧を掛ける。電気理論によれば、プラス、マイナスの電荷が電極板に現れる。その為、電極板の間には『静電界』と言う電界が生じることに成っている。そこには決して磁界など存在しない。『磁界』は電流が流れてはじめて、その導線の周りに生じる。それが『アンペア―の法則⦆である。『電荷』の流れと言う『電流』があって初めて、『磁界』は発生すると言う科学の原則から理論は成り立っている。それが教科書の原理である。

 しかし、『静電界は磁界を伴う』の実験結果は全ての科学理論の論拠となる根幹を否定する実験結果である。

 専門的科学者は、真理から目を逸らし、不都合を置き去りにする。

 上の平板に高電圧を掛ければ、電極板間の空間に何が在るか分かる筈だ。

 空間の電磁界の様子を検査する器具にはどの様な物があるか? 『電界』を検出する器具があるか❓『磁界』を検出する器具があるか❓
 磁界、磁気のみはコンパス、マグネットで検出可能であるが、電界は検出できない。

光の振動数 その意味不明 (2022/12/23) のコメントに光との関係で静電界の意味が付言してある。

 

理科教育過去からの思い

一度公開して、下書きにしたままに成って居たので戻す。

/二年ほど前の記事を見て思う。

https://hokakebune.blog/2021/02/10/電荷と科学リテラシー 

https://hokakebune.blog/2021/02/24/『エネルギー』一筋の道/

https://hokakebune.blog/2021/02/27/科学教育の未来を問う

https://hokakebune.blog/2021/03/03/エネルギー流と定在波

https://hokakebune.blog/2021/03/11/摩擦とエネルギーギャップ

https://hokakebune.blog/2021/03/14/心 鬼灯に遊ぶ

https://hokakebune.blog/2021/03/16/科学と哲学

<a href="https://hokakebune.blog/2021/03/19/科学理論に危機感を❕

https://hokakebune.blog/2021/03/23/自然と言う世界

過去の記事ながら、この頃にほぼ纏まった内容と成っている。

光をはじめ空間のエネルギーを自然界の物理的実在量と捉えずに、未来の物理学理論の基になる自然観とは成り得ない。それが学術理論を学ぶ以前の、市民の科学リテラシーとしての自然観であるべきと。

如何に教育、教科書に反映するか喫緊の課題と思う。『電荷』では理学理論の基礎概念とはなり難いから。/

https://hokakebune.blog/2021/04/09/物理学理論は役立つのか

2020年秋の事

気が付けば驚き。

エネルギーが電圧・電流https://wp.me/p19wiU-3tF

学問の自由https://wp.me/p19wiU-3oK

電磁誘導現象の真相 https://wp.me/p19wiU-3up

電荷の論理性 https://wp.me/p19wiU-3vk

科学技術概念の世界 https://wp.me/p19wiU-3uK

電気回路と妙珍ベクトル https://wp.me/p19wiU-3v9

この年の10月には既に電気回路のエネルギー流が。/

雷と電気回路の相似性

雷。それは、雷の自然現象として現れる物理的現象の意味と自然世界を人が解釈するための科学技術理論との間の関係を考えるに良い考察対象である。

雷の正体を示せば、それは水蒸気の『熱エネルギー』である。しかし、ベンジャミン・フランクリンは〈雷は電気である〉と言った。

筆者は雷の正体が何物かを、その物理現象の本質を示せば、丁度電気回路と相似な現象と見做せると解釈する。

雷と電気回路の相似性

雷の解釈を、その火花放電現象の、大きなエネルギーの放射から、その現象を空間に発生する大きな『電圧』で捉える点では、ベンジャミン・フランクリンが言う意味に共通している。ただ、現在の電気理論では『電圧』の物理的意味を『電荷』で解釈している。しかし自然世界には『電荷』などは存在しないと言う点で、解釈の基本が大きく異なる。筆者は『電圧』という概念が空間の『エネルギー』の偏りの分布による『エネルギーギャップ』を評価した科学技術概念であると捉えている。

その『エネルギーギャップ』という意味は、電気回路で言えば、電源電圧の負極側の電線付近の空間が正極側電線付近に対して、より高密度の『エネルギー』の分布の偏りの状態になっているという意味である。

さて、雷に対しては、決して『電荷』等の現象でないことは電気回路と同じく、空間に生じる『エネルギーギャップ』が空気絶縁の限界に達した時、その空間の『エネルギー』が発光放射に至る現象なのだ。その『エネルギー』は何処から来るかと言えば、海からの水蒸気が持ち込む『熱エネルギー』なのだ。地上の上空に張る寒気で、水蒸気の体積収縮が起き、上空に水蒸気の水分が上昇気流となって積乱雲を発生する。地上と積乱雲との間の空間に丁度電気回路の静電容量の空間が出来る。水蒸気の『熱エネルギー』が地上に残り、空間に『エネルギー』の貯蔵されたコンデンサ状の空間が発生した状況となる。『エネルギー』の貯蔵量が限界に達すれば、丁度高電圧の火花放電現象と同じ状況が起きる。それが『雷』の正体の物理現象である。それは丁度熱爆発現象と見做せる。雷と電荷の物理 (2021/06/22) でも述べた。

雷は海から蒸発した水蒸気の『熱エネルギー』の限界爆発現象である。

『熱』の正体 (2014/05/15) 。沸騰を読む―原子と寸法― (2014/05/21)。古い『熱』についての記事だ。

『熱』は光や電気というものと本質は同じ『エネルギー』で、その間に差はない。人には、見えるもの 見えないもの (2015/03/04) がある。『熱』も『エネルギー』もその空間の姿を科学的に測定できない。検証できない存在は科学論の認識になり難いのだろう。

 

 

電荷の定義?

『電荷』が自然科学論の根幹で矛盾の権化となっている。これが科学論の論理性とは驚き桃の木だ。科学論には論理性等無縁と思える。

『電子』や『陽子』などが原子論構成素子として解釈の基礎となっている。原子は科学論を論じるに、意識するか無意識かに関わらず、自然世界の根源的概念となっている。その原子の中でも『電子』は普通の電気回路での『電流』と言えば、その『電子』の逆流等と、多くの検索記事で論説されている。学校でも『電荷』はとても大事な必須概念として教えられる。そこから科学理論の、教育によって考えずに、記憶する集団科学論の抜け出せない『地獄門』に入ることになるのだ。

それは教育の放棄にも等しい事だ。考える事から逃げているように思える。

しかし、『電子』はどの様なものかと問えば、10桁の数列の驚くべき精度?の数値で示される。ただ桁数で権威付けした、定義と言うだけの、説得性の何もない意味不明の提示がされている。

ところが、『電荷』とは何かと問うても、その『電荷』についての定義はない。

電気回路でコンデンサに蓄えられるものは『正』と『負』の『電荷』で解釈される。その『電荷』とはどの様なものかは一切不明のままである。『電子』でもなく、『陽子』でもなくまた、『原子イオン』あるいは『正孔』でもない。兎に角『電荷』で解説される。電気回路の解説で、『電荷』が論理の中に使われるとき、その『電荷』が『電子』でもなく、『陽子』でもなく、ただ『正』と『負』の『電荷』なのだ。『電子』でもなく『陽子』でもない、別の独立した『電荷』という物理量が論者の思い通りに、自由に、お呼び寄せられる極めてご都合の良い自然世界の「物理量」と成っている。科学者はとても有能だから、只思えば、『電荷』が『正』と『負』で天から降臨するようだ。それは、〈雷〉の科学論文にも、ただ『電荷』だけで論理が成り立つとの思し召しの論になっている。コンデンサの両電極に〈クーロンの法則〉を無視して自由に同一極性の『正』あるいは『負』の『電荷』が反発力を考慮もせずに御集合なさるとなっている。誠に自由な、科学的権威が取り仕切る概念の世界が、自然世界と別に存在するようだ。

だから『電荷』と言う物の空間像も、その物理的概念の『定義』も提示できないのだ。

『電荷』の概念?

電荷の論理性❓

自然世界の風景や日常生活あるいは科学理論の基礎の解釈において、本当に『電荷』がこの世界に在ると感覚的に実感しているのだろうか。『電荷』と『電子』や原子核の『陽子』は勿論同じものではないと考えるだろう。『電子』や『陽子』は『電荷』がその質量と言う物理的実体に、別な物理概念としてその質量に付加している訳だ。その意味での『電荷』はどの様な空間の実在体として、『電子』や『陽子』に特別な『正』とか『負』という機能を発揮する意味が有るのだろうか。『正』と『負』という自然世界に存在する物理的意味が、どの様な物であるかが明らかに説かれなければ、その『電荷』という物理的概念は意味が無いのだ。曖昧なままで、実在すると言うだけの権威に掛けた主張に従ってはいけないのだ。そこには科学的と言う論理性が無いから。

さて、上の(2)式で、『正』と『負』の『電荷』が結合すると何になるか?数学の論理に従えば、『0』になる筈だが、決してそうはならない。雷の研究者、専門家の論説では、『正』と『負』の『電荷』が折角離れたのに、何故か再結合して、稲妻の光放射に変化する。その光になる現象の厳密な物理的論理の解説はどこにも無い。『正』と『負』の結合が何故光の『エネルギー』の放射になるか、その物理的原理の解説は無い。白熱電球の放射する光の『エネルギー』がどの様な物理的現象によって発生するかさえ解説できない。『エネルギー』の流れの論理的解釈もできない。決して『電子』では解説できないのだ。それも全て『電荷』という自然界に存在しない物理量が、恰も自然世界の真理の如く考えたところに誤りの原因が有ったのだ。電気回路現象に『電子』は決して、その概念の意義は存在しないのだ。雷の光の発生原因をどの様な物理現象かを解説できなければならない筈だ。

上の(2)式の❓が如何なる意味かを『電荷』で論説できるだろうか。

乾電池 1.5[V] の哲学

乾電池の電圧が 1.5[V] の理由を問う。

おそらく現代物理学理論では答えられない筈だ。だから哲学になるかと。

そんな事がある筈はないと誰もが思うだろう。この科学技術に支配されている現代社会で、その基礎理論と成っている理論物理学で解釈を示せないが筈はないと!

以前大学の教育の水準を保つ為に、『電気・電子工学』の基礎としての『参照基準』として『物理学』が欠かせない学習内容だと。それなら、乾電池の電圧 1.5 [V] の物理的意味位は答えられて当然の筈だ。しかし理論物理学は余り科学技術の具体的な内容に関心が無い精か、抽象理論に偏り、具体的で統合的な面で欠けているようだ。

その精か、現代理論物理学では解答できないのだ。

可笑しいと思いませんか。

その訳は簡単です。自然世界に存在もしない『電荷』や『電子』を科学理論の基礎概念として創造して、それに依存した理論を構築してきたからである。

自然界に実在しない物理概念『電子』や『正孔』等で抽象的な理論を構築してきたからである。理由・訳は極めて単純なのだ。

自然世界を支配している空間の『エネルギー』を認識していない欠陥理論だからだ。光や電磁波が『エネルギー』の縦波との理解が出来ていないからだ。ただ進行方向に光速度で伝播するだけの空間に分布した『エネルギー』の密度波だと理解していないからだ。

乾電池も交流発電機も、配線を通してその空間を伝送する『エネルギー』の供給源でしかないのだ。空間分布の『エネルギー』を認識する事が乾電池の、電圧 1.5[V] の意味を解釈できる基礎になる。それが大学の教育に欠かせないものとしての『エネルギー』が参照基準の筈だ。