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哲学の意味?

今年は書き初めの代わりに、哲学の意味を考えた。

写真150哲学 日常に無関係な内容かもしれない。その文字に込められた、偉大な中国文明の漢字の意味を探りたくなった。

現代社会は人類の智慧を確認したくなる様相を示している。グローバルと言う経済競争で世界が利益を求めて混沌の中に彷徨っているようだ。先日、NHKの番組に法隆寺を尋ねる紹介があった。聖徳太子の願いが自然災害、疫病更に権力闘争の災いを無くしたい事にあっての建立であったのだろうと思う。世界は現在も宗教と言う信仰心で、それぞれの人心がまとまる事を願って営まれている筈である。宗教が昔からの智慧の拠り所として尊ばれて来た。しかし,今ますますその宗教が世界の対立の火種になっている。国家間の権力闘争と同じく、己の権力による支配を宗教と言う精神的呪縛力を利用した手段で危険な日常性を作り出している。そこに哲学の意味を重ねて考えて見た。今世界は哲学など、先を競って利益を獲得する為の経済競争の中では何の価値も認められない時代になったようだ。哲学など生活の足しには成らない。それどころか、経済性追求の意識には邪魔者かも知れない。人の幸せ、社会の安全より自己の経済力が社会支配の求める意識になっている。派遣労働による人の生活不安など政治は競争の正当性に隠して、社会的不健全性を広めている。そこには政治の正当性は見えない。格差は人の能力によって生まれても、それが当り前な社会制度と進める。こんな政治は間違っている。社会正義や哲学は意識外に押しやられる。

哲学の文字の意味を自己流で解釈してみた。

写真152文字の意味 勝手な自己流の解釈を付けた。今世界の智慧は宗教でなく、科学者にとって変わられたように見える。科学理論が人の理解を超えた内容になっており、如何にも科学理論が世界の真理を言い当てていると勘違いし易い状況を生み出している。『哲』の字の意味は昔優れた指導者を哲人とも言ったようだ。日常生活で、生活の道具や生活技術の優れた事を「手」の文字で言い当て、仲間を守る統率力を武力の優れた意味を「斤(マサカリ)」に託し、理屈や説得力を「口」の文字で表現したと。現代社会は、科学技術が生活の豊かさを労働の苦役から救った形で社会の基盤になった。生活の安全な有効性の限界を超えてしまった今は、「ドローン」等の危険な手放しの上空輸送まで正当化しようとしている。「ドローン」はひも付きの制御可能な安全性の範囲でしか利用できない筈である。「ドローン」を操縦する者には危険のリスクが無い。それが社会的危険となる。無人爆撃機も科学技術の許される規範を超えている。社会的安全性に歯止めを無くした人間の驕りの精神構造が世界に溢れている。考える事は踏み切れない壁がある事を自覚することでもあろう。考える事が哲学だ。そこに現代哲学の意味がある筈だ。福島原発の悲惨な事故とその後遺症も解決できずに、人の幸福に生きる権利を奪いながらも、政治はその事に対する哲学を忘却している。

科学技術や科学理論と哲学 大学の哲学学科は文学部に属している場合がほとんどであろう。古くは宗教がその担い手であっただろう。しかし哲学は現代の社会に直接かかわる事柄を考える事がその使命であると考える。本当に電気回路の導体に電流が流れると考えるのだろうか。金属導体の中を電子が電荷と質量を背負って移動すると考えるのだろうか。科学理論には論理的矛盾が多過ぎる。欲望と権力支配とが哲学を忘却している。電気回路一つを取上げて考えると、益々理解できない疑問に突き当たる。解った心算でいても、不図気付く疑問が膨らみだすのだ。

電荷の否定は科学的発見か

自然科学は新しい発見によって、その基盤が拡大して来た。発見は古い解釈を新しい観点から見直す切っ掛けとなる。しかし、微動だにしないできた『不動明王』の如き概念に『電荷』がある。いつ、誰が発見し、どのようにその概念の修正がなされてきたかも判然とせず、今日まで『電荷』概念はあらゆる物理学理論の根幹をなす基礎として社会的に確立している。それにも拘らず、筆者はその『電荷』がこの世界には存在しないと断言して来た。自然科学の研究者の多くの方々の意見や社会認識と異なる訳だから、自分は自然科学について認識不足であるがための間違った主張と言われそうだ。世界の物理学の科学者が疑いもせず、存在を信じて来た『電荷』であるのだから。しかし、社会認識・科学常識に反する解釈でも、自分にとっては自然界を認識するための原理・原則と成ってしまった『電荷』否定の観点は譲れない。

直覚は・・

直覚は禪で使われもする。自分も何か格別な感覚で受け取りたくなる言葉だ。別の言葉で言えば、直覚は自然との融合の絆とでも言えるように思う。ただ共鳴する心の姿。そこには数式や理論は妨げになる。語句『感応』について。服部宇之吉 小柳司氣太 共著 修訂 増補 詳解漢和大字典 冨山房 で見つけた。㋑感じて饗応する。㋺外界のことが自然に心にひびきうごく。㋥(物理)導体が磁石、発電機などに接近して電気又は磁気を感じ起す。感応コイル。等と感応の解説がある。語句、直覚と感応は良く響き合う意味に思う。こんな筆墨が自然科学に程遠いかもしれないが、自然との心の絆に的を得た表現と思う。こんな観点から自分の自然観を振り返ってみたくなった。

科学的発見とは何か? 下村 脩氏が発見した『オワンクラゲ』の生物学の偉業がある。自然の不思議を説き明かしたノーベル化学賞の栄誉を得た。まさしく科学的発見と言える。それに対して、理論物理学はとても評価できるものに思えない。その事に関して、例えば標題に記した『電荷否定』の観点から考えてみる。それは何も発見していない。それどころか筆者は、長い自然科学史の根幹をなし、殆どの科学者が理論の論拠として来た『電荷』を否定し、電荷は世界に存在しないと言う認識にある。自然科学は、新しい発見が次々と積み重なって、自然認識の奥行きが深まり、どんどん複雑な自然観に展開されて来たように思われていよう。そんな自然科学に対する認識さえも、否定しなければならない心境にある。根幹的基礎概念の否定は科学的発見に当たるのだろうか?過去の自然科学の理論を否定することでもある。

直覚の道 電気磁気学の講義の中で、アンペアの周回積分・ファラディの電磁誘導則の矛盾に気付いた。誰も矛盾に気付かなかったのだろうか。そう考えると、筆者が感じた矛盾はどこから、どんな理由で湧きあがって来たのだろうか。電気磁気学は数式により、論理性の高い厳密な理論科学論の代表である筈だ。それなら、筆者が数学的な理解が無くて、電気磁気学の本質を分からないが故の矛盾観と看做されると言うことだろうか。確かに、高等数学とも言える現代数学については全く無関心で、それを理解する能力も無い。先日、NHKスペシャルで「神の数式」と言う現代物理学の話題が二夜連続で、放送されていた。その数式の表現形式の意味さへ珍紛漢紛で、それが数学の式との認識も出来ない程無知である。数式を放送で取上げるなら、その意味が理解できる視聴者がどれ程居るかを十分考えての放送とは思うが、筆者にも全く分からない数式である事を考えると、相当放送の意義に疑問を抱かざるを得ない思いだ。マックスウエルの電磁場方程式さえ、十分条件を満たしていないと観なければならない現実で、いったい高等数学で表現する物理的現象など意味があるのだろうかと疑問に思う。筆者が過去に懐いた疑問や矛盾は、殆ど瞬間的に頭の中に湧きあがる感覚である。その感覚の中味を具体的に後から確認することで、次第に確信的な問答として明確になってくる。その時に、理論はその意味を追究することで、矛盾に満ちているとの認識に至るのである。従って、その時には数学的表現式そのものが同時に意味の無いものとして理解されるのである。今まで自身も信奉して来た原理・原則が崩れ去るのである。大事に学習して来た理論付の基礎が崩れ去って、何も無くなるのである。全くの理論的武装力が崩壊し、何も無い状態に落ち込むのである。無手勝流と言う用語があるが、柳生但馬の守・石舟斎の無刀取にも成らない、何も無いことになる。その結果の確信が『電荷概念の噓』と言う結論であり、初めに懐いた疑問・矛盾の始発の観点である。自然科学理論の根幹を否定する、科学概念論は科学的発見の名には当たらない反逆科学論とでも言うものになるのかと思う。しかし、自然の真理は我が解釈論に在るのだ。科学者が『電荷』を信じるなら、その空間実像を明確に示すことが科学者としての責任である。市民の科学論としての意義を『未来の自然の真理』に求めるべきであるとの思いを強くする。基本さえ間違わないで、理解できれば、曖昧で不安な『放射性物質事件』も、誰もが真相を理解したうえで、『原子力発電』の是非を論じられる筈である。

技術社会と未来の安全性 原子核理論はじめ原子構造論も真理を捉えていない。今は専門家さえその明確な理解が出来ていないのである。放射能と放射線の意味が理解されているか。その用語の社会的認知はどうであるか。そんな不安は、『電子』一つもその実像を捉えられずに重ねている科学論に問題の根源がある。曖昧な科学論の上に重ねる「矛盾・不安」が現代社会の暗闇として広がっている。理論・理論と大学教育が偏重している事が、技術社会の技術力を欠落させ、益々技術欠陥社会の危険の増大を来たすのである。経済成長が社会的進歩と認識する流れは、高度技術に支配された社会に対応できない技術音痴の乖離性精神拘束社会に流れて行く。しかも指導的支配層が、技術音痴の法律・経済家が進めるとなれば、社会は益々危険になる。技術と社会安全性の統合力が欠落する危機が増える。身近な問題を挙げれば、テレビ番組の録画と記録利用の方法を誰もが利用できるかと言う問題である。複雑で操作も難しいが、それを時代の進歩と考えること自体が、社会的統合失調症の未来に向かっているのだ。技術統合失調症社会である。自然の基礎が如何なるかを誰もが理解でき、間違わないなら社会的合意の未来に勧める。複雑な、ヒッグス粒子などを論じるなら、その基礎の陽子のプラス『電荷』がどのようなものかを市民に説明して論じるべきだ。最近自動車の制御方式で、機械による自動制御運転の話題がある。しかし、道路上に高度制御された車とポンコツ車が同時に走る場合に、その統合された安全性をどう保てるのかが気掛かりだ。高所得者は、エコ対策での税制優遇を受けられるが、貧乏人にはない。また最近は高級車で、『前照灯』の白の高輝度ランプが増えて来て、対向車に視界の眩しさによる安全性の危惧がある。技術と調和した安全性の整合性欠落の問題が問われている。

虚数は自然描写に役立つか

最近気に係ることがある。数学で、複素関数論と言えば中々難しい内容のものである。複素平面あるいはガウス平面と呼ばれる、直交した実数軸と虚数軸で捉えた平面のことである。その虚数軸の虚数と言う概念の意味を考えると、実に難しいと思うのである。最近特に気掛かりなことは、物理学理論が私の取り付く島もないほど高度な数学的記述で論じられるが、その描写内容は実在空間との関係で何も認識できない抽象論に偏ってしまったように思う。専門的な分野で通用するかも知れないが、一般市民の理解から余りにも遠く離れ、その乖離が大き過ぎると思う。実在空間は二次元では何の意味もなさないと思う。必ず三次元で無ければ、目の前の空間を認識できない筈である。そこで、虚数軸を導入しても、実軸と虚数軸からなる平面は厚さが無いから実在性には役立たない。物は原子核でも体積を占める。そこで虚数概念を導入したとして、三次元空間をどのように表現するかと考えても、厚みの方向を表現できない。だから物理学理論では、実在空間の中にどのように考察対象が存在するかと言う、最も基本的な空間認識の欠落した範囲での解析において虚数が利用される。虚数概念の意味を考えるだけで、自然科学とは何か、科学技術とは何か、そこには同じ科学と言う言葉が使われるが、その中身に含まれる意味に違いがあるのではないかと、色々と考えさせられる。