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色が生まれる物理現象

(2021/05/15) 。世界は彩鮮やかだ。この地球に生きる世界は華やかな彩に満ちている。そんな美しい世界に物理学など絡めるのは誠に心苦しい。それでも未来を担う子供たちの為にも、伝えておかなければ成らない事がある。

彩と科学論。
色彩は光のエネルギーが醸し出す自然現象だ。自然現象の中で、光に関する科学論は物理学が担う学問的分野であろう。しかし日常生活の身の周りの光の不思議について、物理学は余り役に立たない自然世界認識論になっている。その原因は光のエネルギー空間像の認識が無いからであろう。

波と量子力学。
光は量子性と波動性を兼ね備えていると量子力学と言う科学理論で言う。とても難しいから深入りできない。今日改めて量子力学と検索した。2重スリットのお話の解説が出た。量子力学の不思議さを殊更解説して、その不思議な現象が有るからこそ量子力学が学問として貴重な分野である。と言わんがための専門領域の宣伝記事に思えた。その不思議を説こうとしない専門性の不思議に脱帽だ!学問的解釈では、日常生活で不図疑問に思う事に対して必要な易しい自然現象の解釈を示せないのだろうか。突然高く聳える絶壁で学問領域を権威の城壁に囲い込む。光の何たるかについて解き明かそうと言う学問研究の姿勢が見えないのが残念である。

薔薇、真赤なバラが咲いた。
何故薔薇の花弁が真赤な色になるのか。どの様に物理学は答えを示してくれるでしょうか。光を振動数で解釈している限り、真赤なバラの色の訳など理解はできなかろう。二重スリットの解説から、光がそこに示す現象の訳を考えた時、空間を伝播する光の実相を・空間像をどの様に捉えているのか。波の意味をどう解釈しているかで、その物理現象の捉え方が変ってこよう。その物理現象を理解するには色彩の生れる訳を知ることが必要だ。その意味で、色彩の訳を考えてみたくなった。景色が醸す彩はすべて同じ空間の光が基で、それぞれの色合いを演出する。それが自然の姿だ。不思議な世界だ。その意味を物理学で紐解いて欲しいのだ。

花虎の尾に揚羽。この揚羽蝶の彩はどのような物理現象によって解き放たれているか?そんな日常生活に触れる自然現象の意味を物理学理論に求めたいのだ。光の物理的実体を物理学ではどのように解釈しているか?花虎の尾の花弁の色は何故その色を醸し出しているか。何が原因でその色になるのか。全て特別の事ではなく、目の前の光が創り出す世界でしかない。目の前の光とはどんなものと物理学では認識しているか?振動数では自然の色の解説はできない。光は全てに平等なエネルギーを振り撒いている。その光のエネルギーをどの様に処理して放射するかがそれぞれの存在する自己主張・アイデンティティーであろう。自由と言う世界の姿を見せている。それが個性でもある。揚羽蝶の羽の彩模様は代表的な自然の極微模様と言っても良かろう。自由な羽の表面構造が創り出す光エネルギーの共振空洞現象の結果と認識する。

赤くはないが白い椿の花。白い光がある訳ではない。目の前の空間に満ちている光が花弁に入り込み、その花弁の表面の細胞空間内でのエネルギーの空間像の変換を経て、固有の光成分の集合体として放射現象に至る。その光の波長分布成分スペクトラムが白色を演出するのだ。その反射光を人の色覚と自然の関りとして白く捉える仕組みでしかなかろう。

白熱電球と言うランプ光。昔の穏やかな光の色。

光にはそれぞれ独特の色合いがある。電球はそのフィラメント等の物理現象でその特徴の色合いを出す。この放射光は少し赤み側の波長成分に中心波長が在るスペクトラムであろう。そのような光成分になる訳は、フィラメント内に入射する電気エネルギーがそのフィラメント空間に時間積分で増加し、ある程度の貯蔵限界に達するたびに外部に放射する。その周期が電球フィラメントのエネルギー放射周期となるからと解釈する。その周期が電球の色調を生むからと考える。

記事を書きながら、分からない事に突き当たる。その疑問を解くのに暫く考える。過去に解決した解釈と突き合わせて、考えを纏める。全く実験もなしに、解釈法を提起するその基は『エネルギー』に対する感覚しか頼りになるものは無い。白熱電球のエネルギー変換について中学2年生の学習課題がある。その意味も兼ねて、己にその解決を課した。その結果が上の図である。この白熱電球の発光の物理現象は電球の抵抗が等価的に√(Lr/Cr) [Ω]であるとの認識が基礎にある。全ての空間の『エネルギー』は空間の定数 C[F/m] L[H/m] あるいはεo[F/m] μo[H/m]に因った共鳴現象で伝播する縦波である。電気抵抗の技術単位オーム [Ω] も自然世界の現象との関係で理解するにはL C 機能で捉える必要がある。電気回路要素の『エネルギー』処理機能 (2020/04/12) 。図2.でその意味を捉えた。

 

 

 

 

(2021/06/20)追記。サイエンスコミュニケーションの機関誌を読みながら、科学理論の果たす役割は何かなと不図思いながらこの記事を読み直した。準備した絵図の掲載を忘れていたことに気付いた。年の性かな?

空間と色彩 自然の天然の色合いは言い様もなく美しい。昼光と言う光が平等に照らし、みんな違う色合いを奏でる。同じ光が創り出す世界なのだ。デジタルCD 板の模様もその空間構造が創り出す。同じ原理で世界の色彩は生まれる。模型で書けば上の空間のような仕組みと解釈できる。自然は極めて単純であるが故に、その姿は極微の美しさを生む。忘れていた図を載せた。

 Axial energy flow も軸対称の回転エネルギーの流れである。縦波とは言えないかも知れないが、エネルギーの流れである。その『速度』が光速度かどうかはいつか分かるか。今は不明。

電気抵抗の物理特性 (2019/11/17) がCL解釈の方向へのはじめか。

むすび。

光が特別のものでなく、その『エネルギー』の空間分布構造によって、無限の色彩模様を演出しているのだ。空間に実在する『エネルギー』の光速度の縦波伝播模様が世界の色彩を生み出しているのだ。専門の科学研究に進む前に、日常生活の身の回りの出来事に疑問を持ち続けて欲しい。光が『エネルギー』の空間の流れであることを知って欲しい。絵具もクレヨンもその成分の分子構造が光に対して『エネルギー』をそれぞれ特有の変換作用をして、光の分布構造を創り変える結果によって生み出された色彩なんだろう。たった一つの『エネルギー』の姿が光の色彩なんだ。揚羽蝶の羽根の極彩色も昼光が差し込み、その光のエネルギーが羽根の空間構造の中で変換されて、放射される光の空間分布エネルギー波の醸し出す造形である。光が空間の『エネルギー密度波』であると言う認識が無ければ理解できないと思う。人の視覚との関係で世界が繋がっている。

眼球の網膜像入試問題を見て

先日の大学入試のセンター試験問題で、物理に眼球の網膜像の問題が有った事を新聞で見た。昨年春、日本物理学会第65回年次大会で、生物物理分野に『眼球の光ファイバーと光量子』と言う標題の発表をした。それは正しく、今回の入試問題のカメラ機能で人間の目を解釈する事の間違いを指摘したものであった。昨夜はその網膜上の反転像を再び考えた。学会で発表した概要で「・・カメラのような反転像ではなく、正立像と解釈すべき事を示している。」と記述した。最終的には、医学の専門家・眼科医の解釈がどのようであるかを論理的に、誰もが納得できる説明がなされることが必要であろう。私には実験も、解剖の確認も出来ない。昨夜考えた、幾つかを指摘して、正立像と判断した根拠を示したい。なお、当ブログ「眼球の光ファイバーと色覚」を参照いただきたい。

人間の眼球の中心軸には光ファイバーが貫通している。眼に入射した光の画像は上の図の眼球内の④のファイバーに入る水晶体のレンズ③との接続部で像が結ばれると解釈する。そもそもカメラのような機能で眼球の機能を解釈する教科書的認識を納得できないとした原因はレンズがカメラのように境界面で空気に接している訳ではない点である。眼球内は硝子体液で満たされていて、水晶体レンズとの境界での光の屈折など起きないと解釈した方が理解しやすい。

眼への光の入射、入射画像の屈折について考えてみよう。図の①の角膜表面が瞼の瞬きにより、液体の薄い膜で潤っている。入射する可視光線の波長は長くて7600オングストローム(千分の0.76ミリメートル)程度らしいから、入射光の屈折は角膜表面の薄い液と角膜の球面曲率で基本的に決まると思う。角膜通過後は虹彩で絞られた瞳から、水晶体レンズに到達するまでに、眼房水と角膜の境界での屈折がその光伝播媒体の分子空間定数(透磁率と誘電率)の差で起きるだろう。①の画像入射について、蛇足話を一つ。人間は空気中でないと物が見えにくい。一昨年100m自由形水泳競技で自己記録(1分26秒81)を出した。しかし、ゴーグルが外れて眼が水中の視界になった。魚と違い殆ど見えなかった経験で、強く実感している。

焦点調節と水晶体。④のファイバー入射面に視野像を結ぶには毛様体小帯の働きに拠るだろう。この働き加減で、水晶体の変化だけでなく、角膜とその間の眼房水にも影響が及ぶだろうと思う。それらの全体的な構造の変化と狭い瞳からの入射光に対する水晶体のレンズ調節効果によって視野像の焦点調節がなされると解釈する。また蛇足と思うが、水晶体の蛋白質がどんな成分か興味がある。実は、烏賊とか鯛とかの魚介類の目玉の構造が面白いと思っていた。魚の煮付けをして、その目玉を乾燥させる。それを剥くと玉葱のように膜の積層構造になっている事が分かる。魚眼の焦点調節がその積層構造からどのように成され得るかも面白そうだ。人間の水晶体も、上の図のようにタンパク質膜が積層上に成っていて、毛様体小帯の伸縮作用が効率的に働くのだろうと勝手に解釈する。

人の視力。ランドルト環の円環の切れ目を見分ける能力で視力を判定する。視力 1.0 の人はそのランドルト環の切れ目の長さが 1.5 mm で、5m の距離から見分けられると言うことらしい。その視野角度θを計算してみると、tanθ=0.0004 から、度で求めれば、 0.00716 度程度になる。また、人の視野は物を凝視するときその一点に視点が注がれ、周りの視界はぼんやりと感じられるだけに成るように思う。自分の視野を考えるとそう思う。周りの危険を察知することが出来るように、ぼんやりの認識で済ますと思える。凝視する視力で、視野像の光は殆ど平行光線として目に達すると解釈したい。だからファイバーの入り口で反転像に成るとは解釈し難いのである。人間の目について、教科書的な網膜上の反転像と言うカメラ機能解釈は受け入れられないのである。

眼球の光ファイバーと色覚

光の物理学的認識が問われている。光を周波数・振動数で認識することでは、その本質に迫れない。光一粒の認識が重要である。そのことは光の屈折現象の物理的解釈に関わる重要な基本点である。その光量子の空間像を 光とは何か?-光量子像ー に基本概念示した。

(2019/10/30)追記。記事の末尾にも追記した。どうしても、眼科の専門家の眼球機能の認識に納得できずに、先日書棚にあった、専門家の本を無意味として捨てた。光の屈折現象の物理的意味が正しく理解されていないと思った。媒体間の境界での特性差が屈折の特性を決めるのである。オットセイ、カバあるいはペンギンが何故水中でも空気中でも見えるか?人はゴーグルを付けなければ水中では見えない。その意味は眼球内のレンズ効果の理解に生かされなければならない。

さて、眼球に関する重要な指摘をしておきたい。医学的には、眼球の機能をカメラと同じように、網膜上に光学的な倒立像を結び、その像が視神経を通して脳に伝達されると解釈されている。眼科のお医者さんの多くの方がそのように解釈していると思われる。それはお医者さんの示す目の絵図にカメラの機能と同じ様子で示されているから。それは間違いと思う。眼球の中心眼軸には『光ファイバー』が貫通しているとみなすべきである。上の図は、参考文献Dispray Atras of Elementary Anatomy の日本語訳本(その原文はフランス語の Librarie Maroine SA Editeur. Paris 1980 であるらしい。 ) を見ての解釈である。(2019/05/19)追記。この文献には硝子体管の終端は網膜の視神経に繋がっている。しかし黄斑が視力の重要な部位を占めているようであることから、その点点模様が硝子体管の光ファイバーの終端模様と考えた。その文献には眼球の硝子体液の中心には硝子体管が示されている。その硝子体管を私は光ファイバーと解釈したのである。私はその光ファイバーが眼球の中心軸を貫通していると観る。カメラのようにレンズが空気中に在る様な構造で捉えて、水晶体のレンズで屈折した光が眼底の網膜上に反転像を結ぶと考えるのは間違いと解釈する。角膜に入射後の光は瞳孔、水晶体レンズを通過した後、平行光線として硝子体管と言う光ファイバー内を進行する。光の像は丁度『金太郎飴』の切断面のように、平行光線として黄斑の窪み部まで縦波のエネルギー波として到達する。従って眼底に結ばれる結像は黄斑に正立像として到達すると解釈する(ただし、光ファイバーが捩れているなら正立像とは違うかも知れない)。何故このように考えるかと言えば、カメラ構造解釈では、網膜全体に光感知機能・神経が張り巡らされていなければならず、更にその光の色覚まで網膜全体の細胞に識別する機能を負わせなければならない事になる。ここで『眼の色覚』の生物物理的解釈が問われる事になる。眼球の構造の昔の解釈では、『光ファイバー』などと言う光学的認識は無かった訳で、カメラと同様な機能解釈が当然のこととして受け入れられたものであろう。今でも、光量子の一粒の解釈が物理学では正確に認識されていない。光をあくまでも『波動論』として認識している訳であるから、「振動数」と言う横波概念でしか解釈できないのである。光を含め全ての波は「縦波」である。そのことを認識しなければ、『プリズムの屈折現象』の説明は出来ない筈である。「プリズムと光量子の分散(発表欠席)」ー日本物理学会第64回年次大会講演概要集 第1号第2分冊、p.405.  (2009)ーに基礎論を展開。日常生活で誰もが体験する物理現象さえ物理学理論は説明できないのが現実である。風呂の中の光の屈折現象も、水面の境界面で光の進行方向が屈折する。何故かと問えば、せいぜいホイヘンスの波面解説くらいのもので説明するだけである。一見、確かに光の屈折現象の説明が出来ているように思える。高等学校の物理の教科書などでも、プリズムや虹の七(?)色が光の波長によって屈折率の違いの為に分散すると説明されるが、『なぜ波長の違いで分散するか』の問いには何も答えられないのである。それは、屈折現象をはじめとする光の物理的基礎理論が完成していないからである。眼球の内部構造で、中心に『硝子体管』が貫通している事を冒頭図面に示した下部の文献で知り、直感的に眼球の光ファイバーの存在と眼球機能の本質を悟った。それは、光量子一粒がエネルギーの空間密度分布波との認識とが結びついたからである。単に波長や振動数では、媒質の境界面での瞬時的屈折原理を理解することは出来ない筈である。光の数波長あるいは何振動数分かを媒体の境界面で、じっと待ちながら、この光の波長は幾らだから、この方向に屈折させれば良いという判断司令官が境界面に居るとでも考えるのだろうか?そんな如何にも人間臭い解釈での物理現象の存在は天然・自然の神が許さない。境界面に光の一粒の先頭波面が到達すると同時に、瞬時に自動的に進行方向が決まると解釈するのが自然の本質を認識すれば、当然であろう。振動数を認識する時間的余裕を自然現象は与えてくれない。それが光の世界である。眼球の色覚機能。それは黄斑の窪みに到達した縦波の光をそのエネルギー分布密度で直ちに分離識別する機能として理解しなければならない。微細のファイバーの一本、一本で運ばれた光をプリズム効果で弁別するものと解釈した。その到達する深さの違いとして色の状態を判断するのであろう。医学に全くの素人である私の解釈は光量子概念からの必然的結論である。2011年の大学共通入試問題に眼球の問題が出た。眼球の網膜像入試問題を見ては私がここで誤っていると指摘した「カメラと網膜解釈」の問題その物である。私は医学に関して全くの素人である。しかし、物理学の真髄が教科書には無い事を知った。それが20数年前の事である。ただ1点、『電荷概念の虚像』(『電荷』という虚像)が全ての物理現象解釈に影響を与える事態に至ったと、今その怖れをも感じている(2012/01/30/ 追記、修正)。

網膜と色覚 もし視覚の像を網膜で捉えるとすれば、網膜の各部分ごとに入射光線の波長を識別しなければならない事になる。それは光の寸法、一粒の光子の波長を全ての波長にわたって識別する細胞の検知能力が要求される。網膜全面にわたりその識別を要求できる程、細密な細胞形態を望めるだろうか。波長は何を持って識別すると考えるのだろうか。その識別能力は黄斑部の細胞の奥深さでの光分散機能(プリズム効果)に期待する以外になかろう。(2013/03/18)追記。

追記(2013/4/3)。今日、眼球の光ファイバーに関する記事を見た。YAHOO!知恵袋の質問の回答にあった。Wikipedia.org/  のファイル:Schematic diagram of the human eye en.svg の記事。私の記事の眼球構造の図が間違っているとの指摘もあるようだ。しかし、安心した。どうも専門家の指摘のように思う。この『眼球の光ファイバーと色覚』の図で、ファイバーが網膜の黄斑に繋がっているのが間違いだとある。(2013/04/09)-その御指摘は御尤もである。今日改めて、参考資料(カラーでみせるやさしい解剖)を確認した。確かに、視神経に硝子体管が繋がっている(2021/03/24)この『繋がっている』は間違いであったことを確認した、眼底で分かった。だから御指摘は当然と思う。しかし、御指摘の中心窩付近の傷害、変成が視力に影響するらしい事から、やはりそこの黄斑部がファイバーの接続箇所と解釈したい。どうもその説明の図には黄斑の名称がなく、中心窩(チュウシンカ)が黄斑の事かと思う。カメラと等価な眼球の光解釈は確実に間違いであると思う。黄斑と中心窩に硝子体管が繋がると解釈したいー修正・追記。(2018/03/14 追記)この眼球の光学的網膜写像の解釈には違和感を抱かざるを得ない。その意味を眼球の光路とカメラ機能-?-に眼球型カメラと言う図での矛盾を描いた。眼球の網膜はカメラのフイルム面のように平板ではない。網膜面に写像が得られるとすれば、どのようなレンズの屈折で可能かは納得する理解が出来ない。何故球面にレンズの写像が出来ると考えるのだろうか。レンズの焦点・焦点距離とは?などで最近考えた事との関連で眼球の『硝子体管』と『黄斑』の関係に強く再確認の思いを得た(2018/03/14追記)。

(2019/10/30)追記。黄斑円孔内の空間で、どの様な波長弁別機能が存在するかは全く分からない。光の屈折原理は光伝播媒体の異なる特性差によって、光エネルギー密度の差が速度差を生むからである。眼球のレンズの前後の境界で物質的空間特性がどれほど異なるかと考えればほとんどその差はないと考える。角膜の球面構造と空気のような、空気とレンズの境界の特性差のようなものが無ければ、眼球内部でのレンズの屈折は原理的に起きない。眼球内部でレンズの屈折光がが望めない媒体ならば、網膜面に光が視界の像を結ぶ訳が存在しない。「コメント」を頂いた中に、黄斑についてビタミンA云々というお教えがある。下のような学会での私の解釈は、光の基本的屈折原理だけからの「自然の本質は単純・純粋にある」と言う観点からのものであり、特別科学的に信頼できる確信などない。黄斑内部で光の波長と細胞との間で生命の不思議な仕組みがきっとあるだろうと今は思う。科学理論は広い分野を包含した哲学的で、必ずしも科学的実験での証明ができなくても、総合的な自然感覚(例えば、人の水中での視界は全く見えないが、ゴーグルを付ければ空気と角膜の媒体間の屈折により正常によく見える等。)が新しい研究の不思議解明の道しるべとなると考える。以上追記させていただいた。確かに今確認すると、私の図は不適切である。光の波長識別の説明は示されていない。光の浸透深さで波長を識別する意味が図には無い。眼球の光ファイバーと光量子 日本物理学会 第56回年次大会で発表した資料を示す。目の色覚機能この図が示す色覚機能は光ファイバーの一本を通して縦波のエネルギー密度波が黄斑部に入射して、その波長に応じて、屈折による分散方向が異なると解釈したものである。その位置を黄斑内部で検出して、その情報を視神経から脳に伝達すると解釈した図である。先に書いた文の削除は、少し参考資料に惑わされて書いた部分である。あくまでも『黄斑』の黄色い点の一点ずつが光ファイバーの接続点を示すとの解釈である。視神経管の構造を検索で調べたら、中心は血管の動脈と静脈が通って居りその周りを視神経が通るとある。黄斑部の波長識別信号が視神経に網膜内を通って繋がっていると解釈したい。しかし、「カラーでみせるやさしい解剖の図と違う解釈になるので、黄斑からの経路がどのように繋がっているかは全く分からない。

(2021/10/06)追記。上の波長弁別領域の解釈は、如何にも素人の早とちりであったようだ。コメントに有り難い専門家のご指摘を頂いた。ビタミンのお話で、合点が行く。

(2013/5/17追記) 先日検索した文献(*)に、硝子体の構造が示されていた。そこには、繊維細胞の複雑に絡み合った様子の顕微鏡写真が載っている。その細胞の一本一本が光ファイバーと観れるかどうかははっきり言えない。しかし、硝子体(管)と硝子体液から眼球が構成されている事から、その文献によれば、益々硝子体(管)が管状の『光ファイバー』であると確信できる。(*)江内田 寛, 坂本 泰二:硝子体の構造. 眼科手術.17:355-357.2004 (現在この論文が何故か以前のように簡単に見られなくなった。2014/02/19 現在)