タグ別アーカイブ: 理科教育

数学と自然科学

はじめに 今年は、高等学校の理科教育について思うことが多かった。自然科学の最先端の研究分野は際限なく領域が狭まり、専門に特化してゆく傾向に見える。その自然科学という分類の中の研究者・科学者の置かれた科学する対象と役割は全体を見渡す哲学性が益々失われ、理学・自然科学全体を展望したその社会的問題を統合的に論じる視点の欠如を生み出すことになる傾向が強い。利益優先の科学技術競争、それも残された僅かな対象に集中した競争に依る歪んだ社会を歩む危険性さえ気付かずに過ぎて行く。社会の未来に対する無責任が進行する。利益・経済競争で企業風土・技術の貴重な資源が失われ、科学技術の薄っぺらな不完全性の社会が生まれる。そんな人道的にも、技術的にも貧相な社会に進んでゆくような不安感がぬぐえない。科学技術と言っても、『生物』関係の生命現象はその謎の中を覗いても全く理解の範囲を超えた分野に思える。細胞の中の何が何の生命の機能を果たす役割を成しているか全く理解できない。生命現象の解説論を読んでも、細胞の『エネルギー』が云々と言う一文に出会う時、その『エネルギー』とは何かとつまずいて理解できなくなる。体温と『エネルギー』の関係は?などと考え込んでしまう。また高度医療の関連研究現場での医薬品開発競争に於いても、その利益と社会的経費負担の未来像の兼ね合いの設計図構築についてさえ不安の原因にもなる。そんな現状に於いて、その未来への橋渡しとしての教育内容に何を厳選し、どうまとめるかが大きな課題となっている。未来への道筋が見えるのだろうか。本当に教育に立ち向かう姿勢があるのかと、教育する側が問われている。『電荷』とは何かに答えられるだろうか。『エネルギー』とは何かに答えられるだろうか。空間に存在するその実像を描けるだろうか。数式でなく日常用語で伝えられるだろうか。

と大仰な事を述べても自分は、ただ時の流れるに任せて、不図浮かぶ疑問を糧に膨らませ、行き着く先も見えぬままそこはかとなく漫然と無様な姿を曝している。昔携わっていた頃の仲間や職場環境もはるか昔の事でみんな別世界の出来事になり、繋がり一つない中に居る。止むなき仕儀と梲が上がらないながらも書き記す記事には少なからず人生を掛ける価値はあるものと自負を持つ。哀しいながらも。ただ、何故疑問が次々と浮かぶかが不思議である。しかも疑問の先には新しい観方が生まれる。数学などせいぜい四則演算程度しか分からないが、電気回路の計算などに三角関数の手法を適用してみると、数学の持つ論理性と言う意味が分からなくなってくる。この記事を書くきっかけは、積分計算で考えた事である。その関係は次の機会に回し、今回は数学の意味を考えて見る。科学技術と自然科学とでも少しは違う感じがある。従って数学が自然科学の範疇に入らないとしても違和感はなかろう。自然科学の解釈には数学を武器としてその論理性に説得力を発揮できると考える。それは特に物理学系に於いてであろうか。生物や地学さらに化学では余り数式を必要としていないかもしれない。狭い電気回路解析の範囲からの視点かもしれないが、数学が自然科学の範疇に入るかどうかを考えてみた。そんなことで検索をしてみたら、数学が自然科学に分類されて・・ に同じ疑問と考えがあった。ここでは電気回路計算などで突き当たった壁としての数学の意味を取上げてみたい。

自然科学とは何か 数学との関係を考えるに、先ず自然科学とはどんなことかと考えてみた。

%e8%87%aa%e7%84%b6%e7%a7%91%e5%ad%a6%e3%81%a8%e3%81%af自然科学とは 誰もが同じ意味で捉えているとは限らないだろうから、自分なりの解釈をしてみた。

数学 数学は自然科学の範疇には入らない。それは自然世界を対象とすれば、必ずその対象の『次元』あるいは『単位』が付帯する筈である。『次元』『単位』については国際単位系(SI)の要約日本語版 あるいは物理量の次元と単位 などが参考になろう。

数式の意味 具体的な数式を取上げて考えてみよう。

%e6%8c%87%e6%95%b0%e9%96%a2%e6%95%b0指数関数 自然現象を表現するに欠かせない関数式である。特に過渡現象の評価式として欠かせない。過渡現象と言っても、世界を思い浮かべれば、どこでもいつでも過渡の連続である。輪廻転生の世界である。水素原子も水素原子のままではあり得ない。花が咲けば実にもなる。しかしこの式はそんな世界を見る物理的な自然現象を評価する何物をも示していない。xは無次元でなければならない。時間とか距離とか質量とかの物理量を対象とした変数とはなり得ない。自然対数の底eは単なる数でしかない。世界の何をも意味していない。e^x^も3.5^x^も単なる数の累乗と言う純粋な数学的表現でしかない。そこには何も世界観が反映されてはいない。関数f(x)が世界を表現する物理的意味を持つためには、1×e^x^の係数1が何らかの『単位』を持たなければならない。そのように世界を認識する対象の『次元』『単位』を明確にした時に初めて、自然世界に結びつくのである。またこの式には自然現象解析式としては欠点がある。それはxが無限となっても、零となっても関数値が最終値には到達できない点である。電気回路解析にこの過渡項が含まれると、永遠に自然現象が到達する最終値に到達しない矛盾を持つ関数式である。この指数関数式だけでは自然世界を語る意味を有していないと言う点で、あくまでも数学の範疇で自然科学の範疇には入らない。

%e3%82%aa%e3%82%a4%e3%83%a9%e3%83%bc%e3%81%ae%e5%85%ac%e5%bc%8fオイラーの公式 世界の至宝とも言われる式である。指数関数と三角関数更に虚数の関係をこの単純な式に表現していると言う意味であろう。確かにそれは純粋な数学的意味ではそうかも知れない。電気工学でも良く利用する関係式でもある。三角関数の長い表現式を短く表せるから便利かもしれない。それはその背景にその式の意味することを共通に理解する約束事を決めているからでもある。この式が本質的に成り立つと言う蓋然性など無い。このように両辺を等号で結ぶ(定義する)と言う一つの解釈する考え方を表現しただけであろう。

角度 三角関数の変数xは円形の二次元平面の角度でなければならない。角度はラディアンあるいは度である。この角度と言う概念は単純でありながら『次元』を持たない無次元量なのである。物理的解釈量の計算式に組み込んだ時、全く『単位』の意味を成さない概念量なのである。不思議な量である。

虚数 iあるいはjの記号で表現する数量である。数に虚数記号i等を付ければ、その数は虚数と言う数量を表すと決めたのである。この虚数が世界を表現するに有効な数であるかどうかと悩んでしまう。『虚時間』等を論じる人もいる。当然『虚空間』も話題になろう。『虚』の字が付けば理解できない世界が益々複雑怪奇な様相を呈して来る。科学技術の世界、電気回路解析の世界でも虚数記号は多いに使われている。オイラーの公式の指数関数などにより実数と虚数を組み合わせて、電気現象を論じ、解釈法を講義すれば、如何にも高度な知識技能の持ち主と思われるだろうが、余り意味はないのだ。jsinxの数値には何の意味もない筈だ。有効な量は実数のcosxだけである。ナイキスト線図などの過渡現象解釈法では、系の安定性評価法として有用であると常識になってはいる。それはそれで誠に結構な虚数の応用例ではある。しかしどう考えても、この世界に虚数で表現されるべき実在があるとは考えられない。それは非現実世界の数量である。この虚数概念が科学論の非現実的で、曖昧な論理を展開する抽象化に拍車を掛けたのかもしれない。虚数量で認識すべき現実世界は存在しない。虚数はその数が明確な『次元』を持ち、現実世界の物理量で定義した『次元』とは異なる何者であるかを確認できる自然世界を表現することは出来ないであろう。虚数は自然描写に役立つか 。電気回路解析で、インピーダンスベクトル表現において、リアクタンス成分に虚数概念を適用する手法は伝統的な優れた電気工学基本解析法として定着している。その場合の虚数のリアクタンス値も実数の抵抗値と同じ単位『Ω』である。ただその意味も直角三角形の関係が成り立つと言うものを実数と虚数で表現することで図解表記法として優れていると言う事からの虚数表現であると考える。特別本質的に虚数概念でなければならないと言うものではなかろう。むしろ何故直角三角形でベクトル的な抽象化が有効な表現法になるのかが不思議にも思える。勿論過渡現象でなく定常動作時の表現法での事である。例えば、電源電圧が方形波の波形では、虚数表記の直角三角形が適用できない。正弦波でない方形波電圧では電圧の回転の意味が無くなるから。

%e3%83%9e%e3%83%83%e3%82%af%e3%82%b9%e3%82%a6%e3%82%a8%e3%83%ab%e3%81%ae%e5%bc%8fマックスウエルの電磁場方程式 所謂電磁波の伝播現象を表現した偏微分方程式と言われているものである。1964年に発表された。ある空間座標の1点の位置をベクトルr 、その点のある時刻tでの電磁氣の状態がE(r,t)(これを電界強度と言う)と H(r,t)(磁界強度と言う)である時の、その点のその二つの電気量間に在る関係を表現したと見做せる式である。表現し難い電気現象の状態を基本的に2本(実際は4本であったかも知れない)の方程式にまとめたと言う意味で、優れた業績として高く評価されたのであろう。実際の原資論文(ページ数53ページ)を読んだ訳ではないので、どのような方程式に表現されていたかまでは分からない。専門的な解釈で、この方程式には電磁波が空間を伝播する時、その電波が光の速度で伝播すると言う意味をこの方程式に示された事がとても重要な評価すべき点であると捉えられていると理解している。しかしこの方程式を眺めても、特別光速度の定数が使われている訳でもない。光速度と言う解釈がこの方程式に隠されている事を最初から認識していたかは分からない。方程式の電波の状態を表す変数がそれぞれ直交した電界と磁界の二つで、そのベクトル量に直交した方向へ電波が伝播する意味を表現している。微分演算で「回転」の意味を表すrotの記号は誰がいつ頃から使いだしたかが分からない。同様にdiv,gradについても?

光速度 光速度の値がどのように当時考えられていたか。光の速度測定 にその当時の様子が解説されている。フーコーの実験で、1862年光速度c=2.986×10^8^m/s と測定されていたようだ。既にマックスウェルの方程式の頃にはほぼ正確な光速度の値が認識されていたようだ。有名なマイケルソン・モーリーの実験が1887年である事やヘルツの電波伝播実験が31歳頃の1887年である事などとの時代のつながりにも科学技術・自然科学の進展の意味を重ねて見るところにも興味が湧く。以上はマックスウェル方程式の電磁気学的意味を考えたものであるが、その数学的意味についても考える必要があろう。

偏微分方程式の意味するところ 式を見ても光速度で伝播すると言う意味など簡単には読み取れない。時間と距離の二つの変数に依る微分が同時に仕組まれている事が式の意味を複雑にしている。微分演算子の記号rotは距離微分を表現しており、丁度水平面上の波が円状に広がるその強度分布の変化の様子をベクトル量として捉える意味を表すと言えよう。微分する距離ベクトルに直交したベクトルで、どのように分布しているかを表現しした意味を表す。それが時間の偏微分とベクトル的に等価であると言う意味である。そこに光速度との関係は式上に直接表されていない。方程式に隠された光速度伝播を読み取るには、少し空間ベクトル解析法を適用するのが分かり易い分析法になろう。『瞬時電磁界理論』とは に方程式の空間的意味の解釈の仕方を述べてある。一通り電磁気学的にはその解釈で教科書の共通理解は出来る筈だ。しかし、それは汎用性の専門学術的解釈法でしかない。それではまだ自然科学の本質に迫る真理と言う深みに於いては遠く及ばないのである。アインシュタインが『特殊相対性理論』の理論構築の基本方程式としたのがこのマックスウェル電磁方程式である。空間の電界は『電荷』が実在世界の実在的物理量であることを前提にした論理概念である。当然変位電流も、それが原因とする磁界も同じ『電荷』が世界の物理的根源物理量(素粒子概念)であるとの認識に基づいている。最初に感覚ありで、『電荷』否定の道を探った科学論は初めから伝統科学論の破壊作務の道であった事になる。その典型的対象が『マックスウェル電磁方程式』の無用論になる。その具体的意味はパラボラアンテナ面での電磁界描写が出来ない矛盾で分かる筈だ。パラボラアンテナ面の中心軸に対してどんな電界と磁界ベクトルを描けるかに示される。衛星放送の電磁波方程式を解剖するに述べた。『エネルギー』一つの世界観である。だから光の縦波(エネルギー密度波の縦波)論に繋がり、『特殊相対性理論』は詭弁論の記事になった。パラボラアンテナ面での電界と磁界の空間ベクトルを考えるだけで、マックスウエル電磁場方程式の論理性に矛盾があることは分かる筈だ。さらにもう一つ、今はデジタル信号の時代で、デジタル信号は直流の断続信号であると見做せる。大きさ1と0のデジタル波形にどのような電界と磁界の横波信号で電波伝播現象を解説できるだろうか。正弦波の穏やかに変化する信号波形には理論解説手法として役立った(実際は役立たない)かもしれないが、デジタル信号にどんな説明が出来るだろうか。瞬時的には直流値と0の繰り返し波形である。デジタル信号波形も空間の特性値(誘電率と透磁率)との共振現象で伝播するエネルギーの縦波であるから、波形は歪んだ断続波になるだろう。要するに『エネルギー』の縦波(光と同じ)の光伝播現象で捉えれば十分なのであり、横波概念は不要だと言う事である。

微分演算子とベクトル計算 高度な数学理論は抽象性が際立っていて、なかなか理解できない。数学的論理性を持って、物理世界を解釈しようとすると、その物理量が眼の前の空間にどのように存在するかを確認する事から理解の糸口を探る。式に表現するにはその物理量の『次元』『単位』をまず確認する。その物理量の概念が空間的方向性を持つベクトルであるか、あるいは大きさだけのスカラー量であるかを確認する。その世界認識の基本的確定後に初めて、数式の変数や関数での表現法に移る。数学的表記法は微分演算子などのように、複雑な数学的意味の内容を簡便な記号で表現できる点に特徴が発揮される。そんな記号が式を複雑なように見せかけているのであるが、記号の意味はそれほど難しい訳ではない。記号が表現している意味を日常用語で解釈し直せば、殆ど数式の意味は分かる筈だ。ただ空間の3次元座標(3本の直交した軸の表現空間)を頭に描くには訓練を必要とするかも知れない。微分演算子の空間的意味は別の機会にしたい。

数学と理学 理学と言えば一応理科教育で取上げる4科目を上げることが出来よう。物理学、生物学、化学および地学となろうか。その中で数学と関わりが強いのは物理学である。他の科目は殆ど数学には無関係と思う。数学が活躍する分野は応用の経済学統計、データー処理など社会系分野に欠かせない程広がっている。しかし、理学の生物や化学では数式を使うことは殆どなかろう。物理学も特に相対性理論や素粒子部門がその数学に強く関わっているようだ。物理学でも素粒子部門と物性部門の2つに分かれている。物性は技術系物理学で、素粒子部門は数学系物理学と言えるように思う。宇宙論や素粒子論の数学はどのような意味の変数や関数そしてその『次元』『単位』を扱うのかとても理解できない難しさに思える。どんな世界観を持って数式を使うか。技術感覚からは遠すぎる。物理学で教育的観点から思うに、『電子』の実像をどのように子供達に伝えるかそんなところが最も大切な数学以上に求められる課題と思う。数学や数式では『電荷』や『電子』の物理的実像を伝えることは出来ない。

 

圧力水頭「理科基礎(仮称)」の題材として

理科教育の事など余り考えなかったのだが、先般の日本学術会議の提言を読んで、日本の科学技術との関係での「理科教育」の未来が全く見えない事態にあると考えざるを得ないと思う様になった。余りにも学理。学術と言う権威に支配された実態が日本の教育制度の硬直性を曝していると言わざるを得ない。責任は文部科学省の官僚的支配にある。教育は基本的に「自由」を建前にすべきである。政府支配と専門家的権威支配は教育を荒廃させる。制度ばかり小手先の変更をして朝令暮改の繰り返しに過ぎない。現場に負担を掛ける縛りが文科省の仕事のように見える。中味はもっと現実的な内容にすべきである。理論・法則などを覚るだけでは役には立たない。役に立たないような内容の教育しかしていないからだ。そこで、今回は「圧力水頭」と言う水力技術の問題を取上げて見たい。理科教育は科学技術教育に切り替えるべきだとの意味も含めて。能力不足の者が言うことじゃあまり役に立てないかとも思うが、考える題材として取り上げたい。「水」は地球の生命であれば、その様々な現象は学習するには余りあると思う。原子力発電所の再稼働で心配な日本ではあるが、水力発電所はもう過去の忘れ去られたエネルギー源になってしまった。その水力発電所の科学技術としての水の力学とエネルギーを眺めて見ようと思う。津波の意味を知るには圧力水頭の意味を知ることが重要だから。

フランシス水車の水力発電所

水力発電所の圧力水頭発電所の圧力水頭 貯水ダムの水のエネルギーを利用する発電所。水の水力学はベルヌーイの定理で理解している。結局は水のエネルギー保存の理解の問題である。ただ、圧力水頭と言う概念は運動エネルギーでも位置エネルギーでもないもう一つのエネルギーである事を理解しておくべきだろう。ファイルにしたものを載せる。

運動エネルギー流体の質量

エネルギーと水頭エネルギーと水頭 流体には3つのエネルギーがある。位置のエネルギー、運動エネルギーそして圧力エネルギーである。圧力エネルギーは総水頭から位置エネルギーと運動エネルギーを除いた残りのエネルギーになる。

圧力水頭圧力水頭 現代物理学の分野に気体分子運動論がある。気体の圧力と熱エネルギーの関係の基礎理論である。気体と液体の圧力で、基本的にどのような違いがあるのだろうか?余り物理学理論では、圧力エネルギーの実在性を認識していないのではないか。静止水圧については道草問答(7)水圧と水頭に述べた。この圧力水頭が波 「理科基礎(仮称)」の題材としての葛飾北斎の波の理解に欠かせない意味である。なお水車についてはフランシス水車-水力ドットコム-によく説明されている。

新世界-科学の要ー

少し遅すぎた。新世界への扉ーコンデンサの磁界ーに対する解答である。『静電界は磁界を伴う』-この実験事実に基づく電磁界の本質ーを昭和62年電気学会全国大会で発表してから、電磁界の本質に辿り着くまでの年月は長かった。今年の桃の節句に、ようやく本質を捉えた。余りにも単純すぎる結論である。その結論を示そう。(2017/11/02)修正追記。下の図のエネルギーフローにはやはり電気的『極性』が無い点が欠点である。電極の負極性側のエネルギー流の電極面にそう流れは図の通りで良かろう。正極性側は少し修正したい。2017/11/07 訂正した。

静電界静電界のエネルギー流のエネルギー流

次のように修正する。

写真590コンデンサ内のエネルギー貯蔵機能を考えた時、極板間に二つのエネルギー流があるとは考え難い。静電界と言う空間にはエネルギーが貯蔵された状態である。コイル内の磁気エネルギーもコンデンサ内の誘電体エネルギーもエネルギーに違いは無い。『電荷』での解釈には矛盾で論理的に成り立たなかろう。そのコンデンサに相当するロゴウスキー電極間の高電圧の空間にはコンパスで検出される磁界が存在する。そのコンパスと静電界と言う空間の間には『エネルギー』一つで統合した解釈が出来るのだ。そのコンパスのエネルギー流と平板コンデンサ間のエネルギー流との間の相互協調力(エネルギーの流れが同一方向に合わさることで力が強まる意味)で、コンパスの指示方向が決まると解釈する。平板電極でも上部電極と下部電極の周辺で、それぞれの磁気方向が反対になる。その訳を修正前の図では、下部電極(正極の電極)でも表面からエネルギーが流入すると解釈して、そのコンパスの指示方向が決まると考えた。そこに早とちりがあったと反省して、修正した。しかし、この解釈も実験的に明確にその原因・理由を示せる訳ではないので、あくまでもロゴウスキー電極に因る実験データをどう解釈するかの筆者の感覚に因るところが基本になっていることを申し添える。以上追記(2017/11/07)した。

その発表当時の認識は、只電磁界理論の論理的矛盾を確信していたから、発表内容については些かも不安を抱いたことはなかったが、エネルギー流の実相を捉えるところまではいっていなかった。『静電界は磁界を伴う』の解説に矛盾の意味を記してある。しかし、上に記した結論に至るには磁場のエネルギー流を捉える必要があった。2008年に日本物理学会で、磁力密度 f=rot(S/v) を発表するまで、待たなければならなかった。その結論が磁界・磁気概念の本質である。地磁気とコンパス にエネルギー流とコンパスの指示方向の意味を解説した。その磁石とエネルギー流の力の関係から、静電界の磁針の指示方向の変化する訳が明らかになる。以下#・・#の部分は早合点の間違いとして削除する。#留意頂きたい点は電界の極性には無関係である。プラスとかマイナスとかの電界方向には全く関係ない。金属電極の表面に沿って、外部から中心方向へ『エネルギー』が流れ込むのだ。従って、電極ギャップの中間平面から外部に『エネルギー』が流れ出ると解釈しなければならない。その『エネルギー』の流れる閉ループは、電極外部空間での様子を捉えなければならないが、そこまでは分からない。また電極中心軸には『エネルギー』の流れは無いと解釈する#この結論を持って、長く追究して来た『電荷』概念否定の長旅は終わって良かろう。クーロンの法則を斬るの説明でもある。

ここに示した静電界のエネルギー流の解釈が、すべての電磁界の本質を理解する要である。エネルギー流の速度は光速度に近いだろうが、電極によって拘束されている点から、どの程度の速度かは分からない。

『電荷』による科学理論、原子構造論、あるいは分子結合論や分子立体構造の解釈にも認識の変革が要請されるだろう。少なくとも、学校教育での『電荷』の取り扱い方は緊急を要する問題である。理科教育全般の問題でもある。『電荷』概念による教育は無駄なのであり、間違っている。

コンパスの回転現象 電極の周り、東西南北で、エネルギー流の方向は変化する。例えば西側で考えれば、上部電極付近では地磁気の方向と電極エネルギー流による磁気方向は逆向きになる。その結果、磁針に働く力も二つの逆向きの力が作用することになる。その為、コンパスが交互に不安定な力関係で回転する現象を来たす。それは当時の実験中に経験した現象であった。東側でも下部電極付近で同じように回転現象が見られるだろう。

『電界』も『磁界』も『エネルギー流』である。電界も磁界も自然の物理としては同じ、ただ『エネルギー』の観方でしかない。この解釈が『物理学』の基礎概念と成らなければ、真の科学技術の重要性を理解できない。大学は日常生活の最先端科学技術を的確に理解する為の基本を教育する機関でなければならない。高尚な学理など何の役にも立たない。実学の指導に徹するべきだ。実学ほどその根底は深い。原子核燃料のウラン235の原子構造を説明できますか?外殻に電子が92個回る原子構造が論理的に成り立つ訳が無い。空想の論理で大学が遊んでいる。

『以下余白』の不覚  30年の科学基礎理論の研究もその原点で不毛と成るか。外務省、法務省、総務省等日本政府の戦争処理に掛かっていよう。住所履歴に京都府舞鶴市溝尻海軍住宅が無ければ?私は何者でしょう(3)故郷貝野村と舞鶴鎮守府 。

自然・科学・哲学

科学、自然科学について様々な面から眺めて来た。その過程で、闇雲に取っ付いて彷徨う事も多かった。今まで何かを求めて来たが、何を得たかも分からない。ただ、少し安心出来る精神的なゆとりを得たかもしれない。昔「臨教審」で話題となった「ゆとり」の意味が理解出来たかもしれない。(自分のゆとりを得たかもしれないと言う意味は、余り学問として常識化している学術的専門領域に囚われないで自由に自然を観測し、解釈をしてもそれ程「誤った結論」には成らないかの安心と言う意味で?)現在の「学校教育態勢」は、残念ながらまた以前の「詰め込み教育態勢」に逆戻りしてしまった。子供達は忙しく、机に向かう時間だけが増えて、余裕の中に生まれる「個性的発想」の余地は無くなるだろう。自然・科学・哲学そんな中で、今思う事を筆にしてみた。生物多様性の世界が、この地球星の宝物である。それは「自然」の世界である。人が関わる世界は自然を犠牲にして築いて来た世界である。先日も「日本かわうそ」の絶滅が表明された。その生物多様な世界を破壊する人の活動の一つが「科学」と言う分野で捉えられよう。科学的知見である「生命科学」のDNA一つを採り上げても、「何故DNAか?」の本質には答えられないのである。光とプリズムの関係を採り上げても、本質的理解には到達できないのである。「科学」とは人の社会の世界観でしかない。自然を理解しているかと言えば、殆ど知らない世界と言って良かろう。法則で捉えるが、それなりの仮想的社会評価の手段の一つでしかない。そこに『哲学』と言う分野が生まれる。自然科学と言う言葉を使う。『自然』と「科学」を合わせた使い方である。自然科学の意味は、自然を分析して、その本質を分かり易く理解する手法を整えるぐらいの捉え方で良かろう。しかし、標題のように『自然』と『科学』を分けた訳は、そこにそれぞれに特有な意味の違いが有る事に視点を絞って解釈してみようと考えた。

自然 nature  改めて自然とは何かを考えてみたい。字句の意味は「自ずから燃える」であろう。自然の特徴は束縛されない自由にあろう。自然は全裸無垢の生命と観た。植物も動物もその生きざまを精いっぱい生かし切ることに専念している。何も隠しだてが無い。人も初めから衣服を纏う事は無かっただろう。群生する草木、群れをなす動物などそれぞれの生命の生態は多様である。地球の生命の多様性を見て、その全てが水、海、風、陽、土、時の偶然と必然の運命に任されて、産まれたと解釈できよう。植物と水の初めの産まれ来た謎ー天然の精水ーは解けないが、生命と生命の関わり合いで地球の歴史の歩みに盛者必衰の影を残して現在に至ると見られよう。その来し方も僅かな手掛かりで推測するしか知りえない。例えば、化石と硯もその謎を見せる。人類もその自然の一部として生まれて来た。この人類を自然の生命の多様性の一部として見ようとすると、人間だけは他と違うと異論が聞こえそうだ。何故この人類を地球に生んだかは自然の意味を解くにも大きな疑問にして良かろう。確実に言える事は、地球に人類を生む必然性と偶然が有った。それも謎である。今の地球の環境に思いを馳せれば、人類は現在の地球上の生命の全てを入れ替える為の仕組みに生み出した「神=自然」の仕掛けかもしれない。未来に辿り行く先に生命の危機が仕掛けられていると。全てが「自然」の力である。地殻変動も地球の中心部からの必然的要請で有れば、どんな「天変地異」が有っても、想定外などとは言えない筈だ。人知を超えた地球の営みの上に人類も踊らされていると見て良い。核兵器も人間の驕りによる、その自然破壊の引き金としての人類自身の仕掛けとも見られよう。人類に『智慧』が有れば未来を切り開けようが?こんな自然の見方は、反発・非難の対象となろう。

科学 science  自然の本質・真実を説き明かそうとする学問が「自然科学」であろう。他にも科学と付く学問分野は数知れない。社会系の科学は、人を理解するには謎が多過ぎる、人の集団化に伴う行動、それ等を社会性と見た解釈など対象とした学問の重要な分野の科学をなしている。しかし、時と言う尺度に乗せて、その科学論を眺めれば、その論理が本当に『真理、原理』として間違いなかったと言いきれない場合も多かろう。社会科学は言うに及ばず、自然科学においてさえ、多くの怪しさに包まれている。何故そんな事に成っているかを考えて置くことが未来に対して重要と思う。その事は、科学は人間的世界観でしかないからと言い切れよう。人がその時代時代で、諍い、抗争あるいは戦争の宿命の中でより有利な権力支配の標準的評価基準を纏める手法として構築して来たものであるからであろう。時代に合う『法則・原理』の有効性を求めて来たと考える。社会的な原則で、「国家」と言う統治概念の正当性もその意味の中で解釈する事も出来よう。「国家」と言う存在形式が絶対的真理とは言えない筈だ。自然科学も歴史の中で、それぞれの時代の偉人達によって、その努力の賜物として生み出された『法則・原理』である。しかし、時代が変われば、その解釈も変わるのである。特に自然科学に於いては、自然は複雑性を持ち合わせていない。その自然の原理・原則は「単純性」にこそその特徴を秘めている。だからこそ複雑な多様性を実現できるのである。ここで一つ言わせて頂きたい。世界を構成する素粒子が17個と言う論を信じる事は出来ない。特にヒッグス粒子が質量を生む基の素粒子などと言う科学論は受け入れられない。そんなに複雑性は無いと考える。質量はエネルギーの局所化した姿である。『エネルギーと質量の等価性』はヒッグス粒子を必要としない。ヒッグス粒子の不可解

哲学 哲学と言うと大変難しい学問と見るかも知れない。しかし、その意味は簡単な内容と思う。実践では困難が伴うだけであろう。哲学は破壊、恐怖そして安心。哲学は孤独である。それを筆に表した。「デカンショ節」も昔の唄になる。昔、蛮カラ学生の街に自動車も無い時代の良き学生の高揚歌であった。デカルト、カントあるいはショーペンハウエルと得意になって口にした哲学の話も今は昔だ。知識はITで検索でき、携帯端末の電磁器械と話をする。大学の哲学も哲学の歴史教育になる。本来哲学は時代を切り取り、新しい解釈をする学問と思う。新しい解釈は大学での教育としては困難が大き過ぎよう。真の「哲学」は時代の常識を破壊し、社会との亀裂を覚悟し、恐怖に打ち勝たなければ、新しい解釈は唱えられないから。その行き着く先に、透徹した眼力が無ければ、最後まで辿り着く事は至難の業であるから。そんな哲学の道は学生には向かない。決して集団での活動に、真の革新は生まれないと考える。孤独での自分との戦いに入るのが哲学と思う。自分が納得する為の道程であろうから。単純な言葉で表現すれば、哲学は気違いと世間から罵られる懼れの道である。哲学は社会常識を破壊する道である。今でも科学常識は『電荷』が物理学、科学理論の基礎概念と捉えられている点に集約されよう。

ゆとり 精神的な安堵が得られれば、一安心と言えよう。しかしそれは「科学理論」の世界に対しての事でしかない。ゆとりが常識の中に潜む『嘘』を見抜く力を得たように思う点にあるだけでしかない。何百年と世界に浸透した社会常識は簡単には崩れないだろう。学校で使う理科の教科書を電荷や電流なしに書けないだろう。『電流』をどう取り上げるかが問われていよう。電流は流れず で電流の教育的意味を考えてみた。社会体制を維持するためには、真実と真理は都合が悪く見られ易いのだろう。地動説を唱えて、宗教裁判(1613)で「有罪」の宣告を受けて1633年に幽閉され、三百何十年後に名誉が回復されたと言う偉人、ガリレオ・ガリレイの例も有る。生活にゆとりが欲しい。