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空を見上げて

空を見上げてまた筆で描いた。一月前に投稿した記事「今朝の新聞科学記事に驚いたー相対論と隕石ー」を今見てくれる人がいる。その記事を読んだら、また説明したくなった。『特殊相対性理論』は光や観測者の速度を定義する「空間」を明確にしていない点が致命的である。光の『光路』と『光速度一定』と言う意味を明確に定義しなければ、光について論議できない。光は決して、人間が主体的に判断できる程、人間に都合よく振舞わない。上の筆字で、「見上げる自分が観えますか」は自然はあくまでも観測者に都合よく存在していないと言う意味である。観測者が観測する空間は、観測者が思う程に静止した空間ではありません。上空を見上げても、その空は静止空間ではない。観測者の自分は地球星の一点に居る。地球は公転と自転をしている。何に対して運動しているのだろうか。何時如何なる時でも、観測者の自分は地球の運動の上に存在している。地球が運動していると言うその「空間」はどのように認識出来るか。が大問題なのである。自分が見上げる空の意味は、地球が運動しているその運動速度を定義する「空間」を認識できなければ、自分が空間に対してどのような関係にあるかを理解できないのである。観測者は自分の足元を確定できないのである。その地球が運動していると確定できる空間を認識出来れば、空を見上げたときの『光』の意味を理解する可能性が生まれる。その「空間」こそ光の速度や光路が定義される空間なのである。それを『光規定空間』と私は定義付けている。地球の自転・公転はもとより、その中心の太陽も運動していないとは決めつけられないのである。天体は、基本的に回転でその存在を保っていると解釈する。『光規定空間』は言わば『絶対静止空間』と言う解釈で捉えて良かろうと思う。光規定空間の光路

光は一定の光速度[m/s](空間ベクトル)で直進する。その光は直進する為の伝播媒体(エーテルなどの質量性物質)は不要である。

上の「一定の光速度」と言う意味は光が空間を進む時間とその空間距離の比率を表した言葉であろう。それが常に一定速度である。その速度は光が伝播する光自身が規定する空間の長さと時間から決まるものである。人の観測など何の意味の成さない筈だ。光が決める自然である。もし光源が上の絵図の②のように光規定空間に対して運動していたとすれば、その光源から放射される光が光源の運動には無関係に、光が放射された瞬間から、その光は光源の運動には一切関係なく、独自に光規定空間上を一定の光速度で伝播する筈である。「新聞記事」の宇宙船上からの光の軌跡が舟の速度との関係で解釈されている点が、基本的に間違いである。光は放射瞬時に光源とは無関係な「光路」を伝播する。「直進する」と言う意味も障害物が無い場合には、光規定空間上を一直線で伝播すると言う事である。星の近傍を通過するような場合は、その星が空間の障害物になるから、光は回折して、曲がる現象を呈する。水星の近日点の重力解釈は違うだろう。

相対速度とは?

光の速度と空間特性』の(3)二つの運動体間の光伝播特性について論を纏めようと考えたが、光の空間伝播と言う解釈にはやはり特殊な認識が必要と感じた。アインシュタインの『特殊相対性理論』とは全く異なる解釈の展開ではあるが、日常の感覚とは少し視点を変えなければならない事が有る。光規定空間の場は地上の座標とは異なり、そこでの光伝播を論じようとすると、日常の生活での『相対速度』と光の伝播に関する『光相対速度』との違いを明確にしておく必要を感じた。先ず日常の例で相対速度と言う意味を考えておく。ロケットの打ち上げの様子は誰もが映像で見慣れているだろうから、それを題材に考えてみた。ロケットの打ち上げの様子を人が観察している状況で考えてみる。私も宇宙の事に関しては全くの素人である。だから疑問だらけでありながら、論じることに面映ゆさを禁じえない。例えば、ロケットは真上に発射されているようだが、暫くすると横に流れているように見える。その訳は「地球の自転の影響なのだろうか?」等である。マイケルソン・モーリーの実験では地球の表面速度を約 30[km/s]と考えていたようだから。地球自転の影響でロケットが曲がるなどと考えることは間違った解釈なのかどうかは、ロケットの発射現場の人に聞かないと分からない。専門家には素人の論は相手にされないが、一通り教科書の中身を学び過ごした目から見ると、総合的に判断して、余り専門の理論に固執しないで考えて良いかと思う。その中から役立つ理論を抽出して、日常生活の中に結び付けられたら良いと思う。古い理論の伝承鳩教育が現状の教育機関の問題点と思う。ロケットの話に戻す。観測者からロケットまでの距離が『相対離隔距離』と言えよう。人はロケットを見ながら、その上昇する早さとか方向とかのおおよその状況を推し量る。人からの距離が x[m]とする。この長さと方向性を数式で考えると、空間ベクトルに成る。ベクトル x になる。このベクトルの時間的変化率、即ち時間微分 dx/dt が所謂『相対速度』と言うものの解釈、定義になる。この相対距離の時間微分を「ベクトル解析」と言う有効な数学で解釈すると、「空間ベクトル解析」と言う論題になる。その『相対速度』はどのようになるかを示したい。人がロケットを観測して、その観測結果がロケットの速度として認識出来る訳では決してない。ただ考え方として理屈を付ければこのように表現でき、納得できるだろうという程度である。人がロケットの早さとか、その距離とかを目視で認識するのは、対象物が両目に張る角度γしか無かろう。近くではその識別力は相当効くが、遠くに離れるとどの程度の能力になるかとは思うが。兎に角数学的に解けば、時刻 t の時の離隔距離 x(t) と少し経過した時刻 t’ の距離 x(t’) の各ベクトルの差を経過時間 tr = t’-t で割れば時間微分となる。その時間間隔 tr を限りなく0にするのが極限値としての時間微分の意味である。lim(リミット)と言う記号で表した。その結果がロケットの時刻 t における瞬時的速度を表す事になる。その大きさが V であり、方向が単位ベクトル n で表される。また、発射台からのロケットの相対速度を解析すれば、人からの距離の微分と同様に同じ結果と値 Vn になる。なお、ロケットがより遠くの場合でも、もし同じ速度 Vn であれば、ベクトル解析結果は同じ微分値となるのは当然である。この辺の話になると、人間の観測感覚とは合わないだろう。

さて、人が離れた物を認識するのは何に拠るかと言えば、無意識ではあるが、それが『光』である。光で認識する訳であるが、光の相対速度を考えようとすると、特別な解釈の意識を持たなければならない。地球上でロケットを観測しても光の相対速度から、ロケットから反射する光が同じ地球上で観測するため、相対的に地球の運動はほとんど影響なく認識出来ると解釈して良い。(この文章は間違いである。2013/04/21に訂正。)ロケットからの光はロケットから放射された瞬時に、ロケットの速度とは無関係に光規定空間を光速度で伝播する。他方観測者の観測点は地球の光規定空間に対して何らかの測定不可能な相対運動をしている。そのロケットと観測者の相対的光規定空間上の瞬時的相対離隔距離はあるベクトル的な時間関係で定まっている。しかし、その座標関係を観測上も、計算上も瞬時的に捉える事は困難である。光の観測で或る程度の相対関係を認識するだけである。ロケットと観測者の二つの相互の状態を捉えるには、光あるいは電波に因るより他に方法はない。ロケットから放射された光を観測者が捉えたとしても、その瞬時のロケットの位置を捉えることに成る訳ではない。観測対象からの光伝播特性は 光伝播時間算定のための瞬時空間ベクトル解析法 日本物理学会講演概要集第54巻第1号第1分冊77頁(1999)(発表欠席)に解説してある。ロケットと観測者の光規定空間上の速度ベクトルが明らかなら、光の観測でロケットの相対速度を理解できるが、二つの速度が一般的には解らない訳であるから、光の到達時間の遅れをどう補正できるかで、観測結果が決まるであろう(以上追記)。

この辺の微妙な光の速度差を論じようとすれば、光速度を定義する場を明確にしておかなければならない。その点で、ローレンツの収縮やアインシュタインの論理で、考察対象の速度v や光速度 c と言う場合のその速度を定義し、論じる基準の空間が何も明確にされていない処に論理的矛盾が有る。言わば「曖昧さ」の上に論じられているのである。私が『光の相対速度』と言う場合に、その意味を誰もが分かるようにしておかなければ、論理にならないと思うので、ここに取り上げた。ロケットの速度を人の観測と言う場に「空間ベクトル解析」と言う数学的手法の意味を説明した。光の伝播現象に、光一粒(光量子、光子と言うもので、1波長分のエネルギー空間分布を私は定義)の空間での瞬時、瞬時の座標位置を「瞬時空間ベクトル解析」により捉えようとするものである。ここで説明しておきたかった事は、光の速度基準空間が『光規定空間』と言う宇宙の全空間を支配する均等な絶対空間と解釈すると言う点である。この辺は宇宙論の専門家とは全く異なる視点で解釈している事をご承知いただきたい。光が世界を支配する全ての「王者」であると言うのも、この事、即ち「空間と時間ー”時空”」を規定する支配者が光である事に基準を置いているからである。素粒子も変換時に光を放射する。光をどんな素粒子が構成すると言うのかを明確に示されれば、私も『世界の王者が光だ』などとは言わないで済むかもしれない。素粒子の根源も『光』である

光の速度と空間特性

(2021/09/12)追記。とても気になることがある。この記事も幾つかのファイルが削除されてしまった。光の空間伝播特性を確認したのは、1991年1月の湾岸戦争の砲撃の様子をテレビで見ている頃の事である。場所は新潟県立小出病院の閉鎖病棟のベットの上である。前年の12月、突然新潟県立悠久荘の精神科医が自宅に来て、強制収容された。抵抗で、断食に入る。覚えているのは小水が黒くなって、意識不明で倒れた。やむなく転院となったようだ。意識が回復したのは年末であった。

閉鎖病棟での解析は、統合失調症の研究ではお役に立てないのだろうか。1カ月で断食に因る結果か、頭脳の利きが良く不思議に短時日で纏められた。

新潟県の抹殺行政の処理の結果を含んでいると思えてしまう。

(2020/06/09) 追記。この記事は分かり難いかと思い、改めて光の相対速度と空間 (2020/06/08) に書き換えた。

光その不思議な世界 求め続けた道。

(3)  二つの運動体間の光伝播特性 ー基本例題ー

(1)で、光規定空間という絶対空間を定義して、世界を支配する王者が『光』であるとの認識に拠り、『光相対速度』を定義した。その光規定空間での光速度とはどんな特性を演じるかを理解する必要がある。アインシュタインの『特殊相対性理論』とは全く異なる点は、極めて常識的な日常の感覚で理解出来ると言う点である。そこで基本的な光伝播特性を理解するための簡単な例題を挙げて解説してみようと考えた。二つの運動体が光規定空間の一本の直線上を運動する場合を取り上げる。その概要図を示す。

宇宙空間の直線状の運動を空想すれば良い。あくまでも地球上の空間では、地球がすでに運動しているのでここで考える直線状運動は考えられない。それが上の概要図である。ここで動作式を記すには変数などの添え字が多くて無理である。別のファイルからの挿入形式としたい。これからその準備に掛かかるのでしばらく猶予を願う。(6月13日) この項に取り掛かる前に『相対速度とは?』を準備として追加した。ようやく基本例題の問題が出来た。

(2) 本解析法の基本は「単位ベクトル」に拠る。その事を空間ベクトル解析と単位ベクトルとして纏めた。 (2011年6月10日)。

(1)  『特殊相対性理論』に疑念を抱いて、『光規定空間』に拠る『光相対速度』を提唱した。その基本的考え方を以下に纏めた。(2011年5月22日)

『光』それは世界を支配する王者。その科学的認識が20世紀に大きな影響を及ぼしてきた。その顕著な世界が『特殊相対性理論』である。今はその理論が誤りであると確信できた。もうすでに10年以上経過した。「自由空間における光の伝播特性と周波数」(1998.10.5) 「光伝播時間算定のための瞬時空間ベクトル解析」(1999.) 「2軸回転系の光伝播特性」(2000.9.25) の3報を日本物理学会講演概要集に記す。ここにその過去の記述を纏めておきたい。ファイルの挿入と言う形式で記したい。『光の相対速度』を算定式に纏めた奇遇の時を経た結果でもある。『光の相対速度』とは? それは光源から放射された光が「光速度一定」で伝播する『伝播空間座標』とその光を観測する『観測者』の運動との関係で変化するのである。  上で、速度と空間の考え方を説明した。

 光規定空間座標 光の世界を論じようとすると、どうしても遠い宇宙論に話が及ぶ。光は直進すると言う意味を運動する地球上で観測する場合にどう解釈するかをはっきりさせておかなければならない。宇宙全体の空間と時間(人間の認識上で規定したー時空概念ーでしかない)を決定するのが『光』であると言う解釈での『光規定空間』と呼ぶ。

光規定空間座標と光の相対速度 光が伝播する空間特性を捉えようとすれば、ある程度数式で解析しなければならない。

写真086その空間での光の伝播特性のベクトル解析法を説明した。光が光源S(t)から放射された後、光源に観測者が居るとして、その光が観測者に対してどのような相対速度で伝播するかという問題である。特別難しい数式でなく、せいぜい三角関数で解ける問題であろう。(訂正)(1)式のnc_c_t=cn_c_t=が正しいので訂正します。訂正ファイルを入れ変えた。

光の相対速度の特性 上に求めた『光の相対速度』の式(3)を少しグラフ上に描き表してみようと思う。

写真087

(2015/10/5)追記。上の続きが載せてなかったのに今日気付いた。二つの運動体間の光伝播時間のベクトル解析結果である。この内容は日本物理学会講演概要集 第54巻第1号第1分冊p.77 (1999) に在る。講演発表は欠席。

光伝播時間光伝播時間

伝播時間(2)伝播時間(2)

光規定空間座標を仮定して、その空間座標上での光伝播と観測に関わる伝達時間がすべて光と観測者との運動の相対性によって決まるという論である。特殊性と言う意味は否定し、空気伝播の音声の相対性論と変わりない事を論じた。ただ、光規定空間座標を我々観測者が認識することは不可能である。我々自身が光の光速度一定で伝播するその空間に対して、どのような速度で運動しているかを実際に知る事は出来ないから。例えば太陽のその空間に対する速度も知る事は出来ないから。しかし地球上の光観測においては、光放射源と観測者間の相対運動に因っても観測波長や伝播時間は変化する。なお、地球の運動速度により、観測波長は変わらなくても、伝播時間は変わる可能性がある。

『特殊相対性理論』は詭弁論

アインシュタインが現代物理学に及ぼした影響は計り知れない。私が電気磁気学の『アンペアの法則』『ファラディの法則』の物理学的解釈に矛盾を感じて、物理学の基礎理論に挑戦する事になった。1986年(昭和61年)に、電磁エネルギーと光の関係に取り組む最初の関門がアインシュタインの余りにも有名な『特殊相対性理論』であった。それから四半世紀も過ぎた。アインシュタインが1905年に「運動している物体の電気力学について」として発表した論文が『特殊相対性理論』と言われている元の論文である。私がその論文、『特殊相対性理論』が間違いであると確信したのは『光の相対速度 cr』を導出した1991年1月である(2014/10/08末尾に追記☆)。その基本式について、光相対速度と空間ベクトル解析に表した。結局マイケルソン・モーレーの相対速度検出実験結果に対する評価の間違いが根本的な問題である。即ち『ローレンツ短縮』の仮説が間違いである。光の相対速度式の導出への考え方を簡単に整理してある。『特殊相対性理論』は詭弁論 と標題にした。それは余りにも極論で、信じられない人が多いと心配でもある。しかし、それが端的な表現と思う。アインシュタインは光や観測者の速度を決める空間を明確に定義して論じていない点に全ての詭弁性の基が有る。これらを整理した記事が光の速度と空間特性 である。(9月30日付記)光速度は空間定数(H/m,F/m)で決まる追記☆) 1991 年(平成3年)1月正月松の頃、特に記憶している事は湾岸戦争でのミサイルの飛ぶ映像である。筆者も人生をほぼ終りと諦めていた事件の只中にいた。前年の秋は、食べるものも無く一人意識も朦朧として、過ごしていた。とうとう「処置入院」という強制的な法的処置をとられた。12月20日前後と思う。止むを得ず病院食に「断食」で抵抗する。結果意識不明で怪我を伴う転倒、更に小水が真っ黒になった。無意識のまま、年末に別病院へ転院となる。そこでは食事を取ることにした。急に意識が鮮明になった。脳の働きが鋭敏になった。複雑な計算も、現象の解析力も不思議に高くなっていた。元旦明けから『光の相対速度』の解析と計算を始めた。しかし置かれている場所が場所で、先行きへの不安があったが、それ以上に次々と光の運動理論が頭の中を支配しているかの如く、2週間ほどで最終結論まで到達してしまった。そこでアインシュタインが誤ったと確信した。1990年春から、マイケソン・モーリの実験の速度差を図解解析を始めて、結果として半年で『光の相対速度』の算定式に到達した。その解析の全てを上の『光の速度と空間特性』に示した。「断食」は脳の生まれ変わりに役立つと思った。「脳内の不純物」を削ぎ落すように感じる。また「処置入院」の医師の診断は『統合失調症』らしいが筆者は聞いてもいないし、診断書を見たこともない。しかも入院中から「薬」というものは飲まずにすべてごみくずに捨てていた。医師も知っていた筈。院内での「カラオケ大会」がうるさいと文句を言ったら、強制的に「ハロマンス」という注射をされた。2月初めに打たれた。それで物事を考える機能は完全に失われた。医師の犯罪行為だ。あれは意識を混濁させ、自由意思黙殺の「いじめ薬」である。そこでの『光相対速度』の解析は精神的法的診断の下では「無効論」になるのだろうか。精神科医師の誤診である。 一つ追加しておく。それは1991年4月中旬と記憶している。突然病院の上を、4、5機の飛行機が轟音を立てて暗くなる程の上空すれすれに近くを通過した。どんな意味なのか不思議だったが、今までも不可解な事件が身の回りには多かったから、その関係かと理解していた。一体飛行機やヘリコプターが轟音を立てる飛行の意味は何なのか?今でも続く。

我が科学革命の道のり

(2013/3/25)少し修正・追記をした。

 物理学の世界に踏み込む切っ掛け。  今思う事は、科学と己の意識の間に途轍もない複雑な関係が渦巻いている。何も知らない世間知らずの自分が、ただ流されていた。事件の渦中に投げ込まれたのは、昭和60年3月であった。長岡技術科学大学から長岡工業高等専門学校へ邪魔者排除の対象に選ばれた。中曽根(康弘)臨時教育審議会の抹殺対象として好適であったようだ。筆者は電力変換工学などの所謂強電部門を専門としていた。PWM変換装置
《(挿話)丁度その当時開発・研究していた回路が並列多重化電圧型PWM変換装置で、右に示したものである。昭和60年4月の電気学会全国大会では、発表を欠席せざるを得なかった。「詩心 乗せて観世の帆掛船」 37号 不思議は智慧との出会い旅 で取上げた。この回路には今でも私が惚れる不思議がある。制御方式が極めて単純でありながら、制御性能が優れている。あれから『瞬時電力理論』の実電力・虚電力応用の研究開発からは遠ざかってしまったので、不思議はそのままで置き去りと思う。ヒステリシスコンパレータ制御方式で、写真の波形は三相の一つの a 相電流 ia を三組の変換回路によってそれぞれ勝手に制御すると、偏差電流 ia1,ia2 および ia3 の波形が自動的に多相化制御され、その合成電流即ち a 相の系統電流 ia は指令値に極めて良く追従した電流となる。この自動的に制御される意味は、十分解析せずに中断した事を残念に思っている。ややもすると、強引な制御方式の回路設計をし易いが、理論過信に陥る危険を避けるのみならず、自然には不思議な安全が隠されているのかもしれない。生物多様性が地球の安全の仕組みのように。人間の知識を振りかざしても、たかが釈迦の手の中の世界と!》

  さて、3月中頃に突然決まった移動で、4月からの長岡高専での授業担当科目が4,5年生の電気磁気学と数値解析と告げられた。どれも全くの専門外である。電磁気学は学生に教科書も無い。授業の一歩から全て手作りで行った。全てをポインティングベクトルによる解析法を導入して進めた。世界にない授業展開である。長岡高専には二年間いた。この抹殺対象人事に関わったことが、今の物理学基礎理論に対する深い認識に到達する原点となった。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」の例えがある。人生の不思議な因縁さえ感じる。電気磁気学の授業を始めるに、先ず『アンペアーの法則』と『ファラディーの電磁誘導則』の矛盾の解決に迫られた。
 
 筆者は電力変換工学の『瞬時実電力・虚電力理論』の4次元空間ベクトル展開で、微分演算子(div,rot,grad)の電力理論への適用を考えていたので、電磁気学への思い入れも深かったと思う。《金澤: 空間瞬時ベクトル解析法と交直変換器への適用 電力技術研究会資料 PE-86-39  (1986.8.4) 》は注目された筈である。物理学基礎理論が虚飾に満ちたものであると断言できる認識に到達するまでには、殺害の地獄の中を生き延びた経験があった。生命を掛けた沈黙の戦いを過ごした。その成果が、自然科学の『神髄』と思う。それが昭和62年4月に仙台市、東北大学で発表した『静電界は磁界を伴う』-この実験事実に基づく電磁界の本質―(電気学会全国大会 32 )である。翌年NatureのLetterにも投稿したが、所属の無い立場故に諦めた。その査読評にも great interest とあった。今思っても大変な科学革命の本質を指摘した内容であった。ある新聞に『ノーベル城のお殿様』と言う漫画の連載記事まであった。その4月にはフランスのイブモンタン氏が来日した事を印象深く覚えている。この歴史的発見にまつわる、多くの神秘的で、運命的な事柄は『耀發』にも認めてある。今も、新潟県(教育長と教育委員会委員長との組織体制の権限不明?)の欺瞞雇用・職歴なし(採用辞令の発令なし)の16年間も踊らされた愚かさを恥じ入って居なければならない。だから世界的な発見も陽の目を見られない。その偽装・幽霊教職で、工業高等学校での担当科目は電子工学を皮切りに、電気機器、発送配電、電気法規、電力応用などの指導に関係した。今強く思うことは、物理学教育が座学で、技術訓練なしの理論伝達教育では物理的感性の習得は無理かも知れないと思う。物理教室で、技術教育をどう取り入れるかが大問題である。高等数学や数式を取り扱っても、変圧器自作の経験なしに電磁気学の理解は困難であろう。結局古典教育の伝達法になり易いだろう。

 昭和60年からの数年間は、地獄の暗闇と光の探究の毎日であった。光と電気磁気学の統合には参考文献が必要であった。2冊挙げる。アインシュタイン選集1,2,3巻(湯川秀樹監修 共立出版)。科学革命の構造 トーマス・クーン著(中山茂訳、みすず書房)。トーマス・クーンの科学革命を読んで、筆者が予見する電磁気学概念の知見が、世界の科学認識の混乱を解決する道になると確信した。その書籍の「まえがき」の一節を挙げたい。「・・時代おくれになった科学の理論と実状に眼を向けてみると、私がそれまで待っていた科学の本姓と、科学が特に成功を収めた理由についての、私の基本的な思想の若干は、根底からぐらついてきた。これは、われながら驚くべきことであった。・・・ 」 この文が当時の筆者の思いに一致した。世界の物理学理論に革命的変革をもたらす知見・発見であった。しかも論理的予測に基づいた実験結果であった。生命を掛ける価値を覚えた。自分がやらなければ、誰に出来るかと。もう25年以上経ってしまった。国籍条項欠格と言う日本政府の行為、新潟県、長岡市および十日町市全てが関わる人権侵害行政が原因と解釈する。昭和16年12月19日に何故日本海軍舞鶴鎮守府、巡洋艦香取丸(昭和19年2月7日被爆後被弾沈没、同年3月31日船籍除籍)に戸籍移動されたまま。私は何者でしょう(3)故郷貝野村と舞鶴鎮守府

 2.日本物理学会に入会して     1997年に会員にしてもらった。1988年10月、滋賀県琵琶湖湖畔の近江八幡市での電気学会電磁界理論研究会での実験写真データ(昭和61年に、長岡高専で撮り纏めた世界初の実験写真記録)発表後は、社会から逃避した。『瞬時電磁界理論の実験的検証とその意義』資料、EMT-88-145 (1988.10)。高専での殺害対象の本当の意味を探るための迷路を彷徨う。父の遺品『軍歴表』にそのすべての意味が隠されていた。原因を掴んで、ようやく頭に描いてきた新しい物理概念の発表を始めた。1998年宇宙線部門で、『物理的概念とその次元』を皮切りの発表にした。内容は物理学の本質的新概念である。それはエネルギー[J(ジュール)]とJHFM単位系に示した表にしてある。次は、アインシュタインの『特殊相対性理論』の詭弁性を指摘する長年の課題の発表。光速度の探究は、電気磁気学と切り離せない課題である。マイケルソン・モーレーの光の相対速度検出実験失敗の意味も、前出の『アインシュタイン選集1』を読み解く事で納得、理解できた。『嘘』の詭弁論である事が。 電気磁気学は物理学基礎理論の一翼をなす。その発表論文は、『誤った電流概念』(2005)、『クーロン力とは何か』(2005)、『超伝導現象の誤解』(2008)、『エネルギー流と回路解釈』(2008)および『虚偽に満ちた物理学基礎理論』(2010) などの日本物理学会で行ったものである。その内容は主に電磁気学の中心をなす電流概念の棄却を論じたものである。昭和62年秋、千葉県館山市での電気学会電磁界理論研究会で、理論的に電流概念の矛盾を始めて論じた。『電磁エネルギーの発生・伝播・反射および吸収に関する考察』(1987)。 その肉付け的内容を、様々な方向から指摘して、「電流の物理的矛盾」を発表した。電流が電気回路の導線の中を流れ得ないことを指摘した。それは同時に、『電荷』の概念を破棄する必要性を主張するものである。

『量子力学』は現代物理学を特徴付ける中心的分野である。1905年にアインシュタインが『光子』論を発表した。それに対して、ノーベル賞が授与された。その業績は偉大で、流石と思う。1900年にマックス・プランクが発表したプランク定数hがある。・・・中断・・・。  光の最小単位、光量子は雷の1波と同じエネルギーの分布波形である。光を構成する元になる元素など存在しない。『光こそ実在世界の根源的素粒子である』

3.原子構造とマグネット 小さな磁石が日常生活でたくさん使われている。とても強い力で引き付ける。
電気・物理発表資料(2)
 その力の素は何だろうか。何処にその原因があるのか。物理学は、きちんと説明できない。磁力線と言う引き合う線が磁石のN極とS極の間にできる。その線がゴム紐のような働きで、引き合うと。誰もがそう説明されると、素直に納得するだろう。しかし、私にとっては磁力線などと言う『実在しない物』を掲げられると、実在しない事を実証しなければならない『途轍もない否定論』の証明が要求される。それは『電荷』と言う『非実在物概念』と同じである。誰もが『光』の存在は否定できない。しかし、光が何から出来ているか、その素は何かと言う『疑問・問答』が西洋哲学、西洋自然科学には無かった。それは東洋哲学の、禪思想の『色即是空・空即是色』の意識において初めて、認識可能の世界観である。全ての根源に向かって問答を発する意識において初めて可能であるように思う。科学の思考の拠り所として、『電荷・磁束』を掲げた理論には到底越えられない自然界の壁である。だから、『光』が『光量子』が空間に実在する『エネルギー』と言う全世界・宇宙を構成する『真の素粒子』、それを筆者は『素原』と呼ぶことにする。

『電荷棄却の電子スピン像と原子模型』(2009年9月13日、神戸市甲南大学で、素粒子理論分科会で発表)で原子構造の革新的解釈を発表した。理論的矛盾排除の結果としての到達点である。教科書的原子構造論は、原子核の陽子数と同数の電子が原子外郭軌道を回転している描像で捉えている。そんな描像は『嘘』であるというのが本発表の趣旨である。筆者が高等学校で習う最初につまずいたのが、物理・化学の原子結合の『共有結合』の不可解さであった。とても理解できない結合の説明である。空間を頭に描いて、目の前の空間に4価の原子、炭素などがダイヤモンド結合していることを考えてみましょう。ある原子の4個の外郭電子が自由に軌道を周回しながら、どんな具合に他の4個の原子と電子同士が共有結合して、安定な原子構造を構成できると解釈できるのだろうか。筆者の頭では、そんな巧妙な空間立体構造を取り得る原子模型は描き得ない。ダイヤモンドは超硬度な結合力に因ると言ってもよかろう。炭素の結合手である電子が回転していて、ダイヤモンド結合などの強固な結合など出来る筈がない。電子の負電荷同士が結び付くクーロン力など、何処の物理学理論などに無くても物理学理論の専門家の権威は無理強いする強引性で、不思議な力を発揮している。今回の筆者の発表した基本的主張は電子の電荷などを否定した、マグネットのエネルギー回転流が原子の結合手になっているということである。何も原子の周りを外殻電子が回転する必要・必然性など何処にもありはしない。日常経験する豆磁石の強力な吸着力を考えることに、世界の神秘を感じ取る不思議が潜んでいる。電界と磁界は一つのエネルギー流の様相の違いでしかない。『科学技術の基礎に物理学がある』と言う認識を改めなければならない。物理学と言う学問体系は次々と新しい概念を積み重ねて、理論と概念の混迷に導いて来たと思う。

 先日、物理学のある大家からメールでのコメントに対して御返事を頂いた。中々実験の出来ない境遇で在るため、現代物理学理論の矛盾を指摘しても、論理だけでは納得頂けないものだと思い知らされた。哲学か文学論でしかないとの御指摘であった。新世界への扉ーコンデンサの磁界ーに挙げた「科学革命の証拠写真」は僅かな枚数の写真でしかないが、研究が継続不可能と諦めた残骸写真である。ただ、昭和63年10月に、撮り貯めた「静電界中の磁界検出データ写真」を中心に発表した物がある。「瞬時電磁界理論の実験的検証とその意義」電気学会電磁界理論研究会資料、EMT-88-145(昭和63年10月)である。写真32枚を載せた。しかしそれも地磁気の北側だけで、東西南北全てで確認しなければならない。西側で少し調べた時の様子は、磁針が停止せずにくるくると回転を始めた。地磁気との関わりで静止バランスが取れない状態と当時は解釈した。様々な面白い現象を予想させたけれども、長岡技術科学大学には、学生実験設備としての高電圧実験装置が何か他の設備用として流用されて、存在しなかった。実験が不可能であるため諦めざるを得なかった。実験で証拠を示せなければ、私の論はたかが文学論でしかないと論断され、誠に当時を思い返して、改めて残念な思いを繰り返した。今でも誰かがその残された実験をしなければ、永遠に『物理学基礎理論の迷走状態』から脱出できない事になると強く懸念せざるを得ない。『静電界中の磁界』と言う要点が科学革命の真理の証になるのである。