タグ別アーカイブ: 特定秘密保護法

不思議に乗った夢路にも

希望と悔恨の色を見る。自分の氏名を検索したら金澤と金沢では異なっていた(今はまとまったようだ)。氏名は法務省が管轄かと思えば、自治省《内務省》今は総務省の管轄下の地方政府機関(意味不明の呼称の地方公共団体と言う都道府県庁、市区町村役場・役所)かとも思う。金沢の様な「沢」の字で表記される名前が如何に多いかが不可解だ。戸籍表記に「沢」の字は使われていないだろう。市販の印鑑は『金沢』しかない。氏名の漢字表記不可解の混乱放置の原因はどこの省庁機関に責任が在るのだろうか。私は何者でしょう(2)氏名と長岡市政責任。全て、社会的常識に欠けた自分の責任となるようだ。学校の社会科等では『戸籍』や政治的行政機関と個人との関係を教えられなかった。過去を振り返れば、無知が故に、社会的悔恨の多い事を知る。日本では、「行政機関」の非民主的特殊権力村に情報秘密管理権能が集中している。『特定秘密保護法』によりますます個人情報も閣議の思惑で処理の秘密に葬られる危険を危惧する。今まで、社会常識からみれば、偏屈と看做される自分勝手な生き方で過ごしてきた。常識に照らせばアスペルガー症候群と看做されるかもしれない。そこで、調べてみた。

アスペルガー症候群とはアスペルガー症候群

人の中に居ると、確かに浮いてしまう。相手にされなくなる。人に『先生だった?』と疑問符付きで皮肉られる。その意味を考える。知っている人は新潟県の教育委員会に採用されていない事を知っていたようだ。新潟県教育行政の過去と未来ー犯罪?- 本人の自分が知らない事で周りの社会が動いている。コミュ障に曝されていたようなもの。先日、「29WD-1 ニュートンの万有引力則の矛盾(回転と波動)領域11」が検索にでた。天体の問題であるから、長岡技術科学大学の電力工学の分野ではない?小泉連立第2次改造内閣の頃だったようだ。一つ心当たりがある。2004年3月に、長岡税務署で確定申告する時に九州まで発表に行くなど、免職処分では無理と訴えた記憶はある(内緒話)。不可解は如何ともし難い。自然科学の本質を求めて、『電荷』否定の道に入り、今絶対的確信の境地にいる。考えれば迷惑を多くの人に掛けて来た。常識からみれば、確かに想像力に障害があると観えよう。この2004年は申年で、不吉にも10月23日中越地震にみまわれた。11月に翌年の2つの発表登録をした。そこから発表を加速した。市民的科学認識を追究しているうちに、全く専門性の無い世界に踊っているような科学感覚に染まっている。ニューロン(neuron)を尋ねて お邪魔している。

戦争と平和

戦争と平和は小説はじめ多くの論題になっている。最近の日本の政治の方向性に疑問を強くする。1999年8月15日に『詩心 乗せて観世の 帆掛船』の文集を作る初めに、一号 戦争と平和 を記す。特定秘密保護法に続き国家安全保障戦略に『愛国心(国を愛するとは?)』と言う意味不明な法用語を使う政治状況を考えると、現在の日本が戦争への危険な状況にあると危惧する。政府(内閣など)の方針に黙って従えと言う半強制的な政治手法は、民主主義の日本において極めて異例な状況と観る。これを『国を愛する心を育む』の『国』だというのだろうか。そんな見えない相手を愛せとは、どんな法的合理性があるというのだろうか。『詩心・・』の一号の短文ながら筆には多過ぎるので、下手なペン文字で書いた。改めて、細筆で描き変えた。戦争と平和筆

アジア太平洋戦争の悲劇が忘れ去られようとしている。日本史も教育では古代から始まり現代史まで行き着かないで終了していなければ良いがと思う。※敗戦記念日とした。勝たないで良かったという意味である。敗戦の意味を何故そのようになったかの検証が政府で示されていない事が問題なのである。日本政府には、政治の事実を歴史に残すという制度・意識が殆ど無いと言ってよい。悪い事は記録から消し去り、うやむやのうちに書類も破棄して消し去る意識が常態になっている。大事な内閣の政治判断の会議でも簡単なまとめ記録で、誰の発言かさえ示されない。詳細な議事録が後日検証する資料として残されることが政府の責任である。その辺の状況は、福島原発事故の検証記録で、日本とアメリカの資料の分量を比較してみれば、その差は歴然としてる。検証に耐える資料を残す制度・習慣がないまま、特定秘密保護法などが成立する事が片手落ちであろう。当時の日本の軍隊の暴力的な状況が戦後の世代には教えられていないため、殆どその現代史の重要な状況が理解されずに過ぎて行こうとしている。村山総理大臣の当該戦争への痛切な反省表明や河野談話があるが、それを認めたくない政治家・国会議員が居る。若者はアジア太平洋戦争の実体を教育されていないため、その戦争の事実を知らない人が多いと思う。逆に、戦前の政治体制に引き戻そうとする意識の政治家も多いように見える。政治家の言葉には『平和』の為と言いながらその進む方向が、経済的利益を守る事のためで、戦争も辞さない危険な姿に思える。特定秘密保護法についても国家安保戦略についても、経済界の指導的立場の人からの発言が何も聞こえてこない事がなおさら戦前の状況に似ていると思えて心配である。黙って政治の方向に無関心を装う特性が日本人には多いように感じる。行政の体制に従うと、安易に利益を得やすく、生活がしやすいからと。そんな無抵抗の風土には、徴兵制への危険を感じる。

『愛国心』の正体を尋ねて

いよいよ『愛国心』の強要が始まった。今朝(2013/12/11)の朝日新聞に記された記事がある。しかし、その『愛国心』と言う意味が分からない。政府(この意味は?)が「国家安全保障戦略(NSS)」の中味に、国家安全保障を支える社会的基盤を強化する目的として、「国を愛する心を育む」と言う文言が記されると言う。これに対して公明党が改正(改悪と考える)教育基本法の文言「我が国と郷土を愛する態度を養う」にすることを要求しているとある。こんな当たり前の言葉を殊更に法的文面に記す必要が何処にあるのだろうか。我が国と言う言葉の中味は政治的意味合いの無い事であろう。日本の政治体制を覆すとか革命を起こすとかの意味を考えているなら、そんな危険な状況は阻止しなければならないのは当たり前である。まさか、私が唱える『電荷概念否定』の科学論まで国家反逆罪になるというのではなかろう。確かに『電荷概念否定』の科学論は現在の自然科学に革命的な変革を『自然の真理』として巻き起こすだろうとは感じる。しかし、それは平穏な言論の論理的な平和な戦いであろう。『オーム真理教』事件のような事は「公安調査庁」が十分対応できた筈の問題と考える。教育に関係した事に『愛国心』を関連付ける事がどれほど危険かは先の大戦で学習している筈である。

『愛国心』その意味が分からない。宗教における「神」と同じくどうにでも解釈できる意味不明の用語である。「神」と言っても、ある人はイエスキリストであり他の人には釈迦であったりとまちまちである。『愛国心』とは何を愛する心かと言うことが意味不明なのである。『国』を愛すると言われると、自分の生活する生活の基盤である社会や制度を理解し、自分の信じる理想を目指していれば喜んで愛する筈である。しかし先日国会を強行に通された『特定秘密保護法』などが幅を利かす社会体制を愛することなど出来ない。何処までも反対である。そんな独裁政治の行われる危険のある社会を愛する事は出来ない。

「国家」、『国』(言葉づかい)とは何か と言う記事を1999年9月に書いた。『国』と言う用語の使い方は大変曖昧な意味であると感じた事からの記事である。そこには、物理学の基礎概念に対する矛盾を感じ取り、『電荷』概念の否定と言う象徴的科学理論の根底の癌細胞に辿り着いたような事件の発端に似ているかも知れない。保守政党の『自由民主党』の政治の目標が強権的で、独裁政治の雰囲気を漂わせている事が心配である。『愛国心』と言うその意味が漠然としているからこそ危険なのである。その基には、『国』と言う用語が「日本国憲法」でも多く使われている事に留意すれば、『国』と言う意味をまず明確に認識する事から始めるべきであると考える。そこで『国』と言う意味について自分なりに定義付けをした。単に自分の用語解釈であるが皆さんはどのように認識するかが知りたいと言う意味も含めて記事にする。自分だけが間違っているのかと心配でもある。皆さんは余り気にせずに使うようだから。『国』とは?いつも思うのであるが、『国は何何を云々』と言う意味を英語等に翻訳した時、『国』と言う用語をどのような意味で訳すのだろうか。ましてや「国側」などは日本の国の中に、「国側」とそれに対抗する人達がいる事を前提にした言葉づかいではなかろうか。民主主義国家であれば、日本の国の中に権力を付託されて主権者の為に理想とする政治を取り仕切る立場の者は「内閣」はじめ行政諸機関である。それは『国』あるいは「国側」などでは決してない。それは政府機関である。この場合の政治概念で、普通は政府と言う用語で使わなければならないと考える。

大日本帝国憲法における用語 『国』は一つも使われていない。『政府』と言う用語が全部で十か所程使われている。「日本国憲法」には『政府』は前文に一ヵ所。『国』は全部で十五程使われている。日本国憲法の精神が謳われている締めの条項は 第十章 最高法規 に示されている。この第十章はすべての政府の法律(特定秘密保護法等)や内閣および政府関係者の発言が最高法規である日本国憲法に抵触しているかどうかを皆が監視し続ける事が平和を守るための義務であると考える。この憲法の基本的人権や平和希求の精神はすべての国会議員及び内閣は守らなければならない。国会議員や政府関係者が憲法改定などを発言する事は憲法が否定、禁止していると解釈する。国民の中から憲法改正の声が大きくなって、矛盾がその時代の社会制度に耐えられなくなったときに初めて国会での憲法改定に結びつくものと考える。選挙が間接的な民主主義の基本ではあるが、全ての人に自己表現する権利は憲法が保障している事であるから、大いに発言し、意見を表明する事が憲法下に生きる権利として享受すべきものである。(日本国憲法 第十章 最高法規 条項)を読んでみよう。最高法規

精神的抽象概念の『国』 外国に居て日本に思いをはせる時、『国』を思い出す等と言うのであろう。外国に一歩も出た経験がないから、本当のところは分からない。日本人なら、世界遺産にも登録された富士山等は如何にも日本の『国』の象徴的国土の姿として思い出すであろう。そんな自然豊かな日本の『国』は懐かしく敬愛の情も湧き、愛する気持ちが生まれよう。それは自然の景観を背景とした人間の醜い闘争心や醜悪さは何処にも無い純な『国』の姿である。その『国』には人権侵害やいじめの人間の醜さもない。その『国』なら誰もが愛することに異議はなかろう。

『愛国心』と言う用語に秘められた怪しさ 日常用語において、政治、法律に関する場合にはとても注意深く用心しなければならない。その代表的用語に『国』『愛国心』を指摘しておきたい。『愛国心』とは『国』を愛する心と読めるから、やはり『国』の意味を具体的に分析して読み取っておく必要がある。自分が住む地方の風景や土地の状況あるいは地域の人の人情などを故郷として、『国』と観る場合は愛するとしても何も問題はない。ところが、憲法で使われる『国』と言う用語が含み持つ意味には明確さが欠けているのである。何を指す用語と皆さんは理解していますか。『国』が国家権力を行使する政府・政府関係機関と考えるとすれば、その『国』と『愛国心』を結び合わせると大変危険な政治的状況に陥り易い事になる。日本の社会が平和で自由で、世界に貢献する民主主義社会である事を願う時、その政府あるいは国家公務員側の法制度並びに権力行使に対しては愛するかどうかは心の問題であるから、強制的にその時の政権の政治方針・理念を『愛せよ!』等と法律に規定するなど理解できない。国土や日本人の人情を愛する意味とは全く異次元の話である。嫌なら嫌と表明する権利は憲法で基本的人権として保障されているのである。法律に『愛国心』を盛り込む等は、その意味が不明確である事から許される法律用語には成らない。