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熱の物理

熱の概念
熱とは何か。熱はエネルギーの或る状態と解釈するだろう。それはどんなエネルギーか。日常の環境評価では温度と言う指標で熱の多さを捉えると言ってよかろう。例えば気体では、気体の熱エネルギー量を温度・気温として捉える。気体の熱エネルギーとは、物理学では気体分子運動エネルギー(気体分子運動論)として認識・解釈していると思う。この気体分子運動論が曲者に思える。その訳はエネルギーが質量に関係なくそれ自身で空間に実在しているものだから。光はエネルギーの伝播現象であり、質量はその光のエネルギーを論じるに必要ない筈だ。光が質量の運動エネルギーとは考えないだろう。その光の空間に実在するエネルギー像を物理学で認識していない処に問題の根源がある。

物理学理論(気体分子運動論)を斬る それでは、その気体分子運動エネルギーとはどのようなものを考えているのだろうか。気体にエネルギーが加えられると気体分子がエネルギーを吸収することになる筈だが、おそらく気体分子質量の速度の増加としてエネルギーを吸収すると物理学理論では解釈しているのだろう。何故気体分子が速度の増加を来たす事になるのか。気体を加熱したからと言って、分子の速度が上がる理由が見えない。調理用の圧力釜がある。加熱すれば、圧力釜内の水が蒸発し気体となる。加熱に因り圧力が上昇し水分子の圧力上昇としてボイルの法則の通り圧力エネルギーとして加熱エネルギーが蓄えられる。何も水分子が運動などする必要もない。蒸気機関でのピストンの仕事は水分子の運動エネルギーなど無関係で、水蒸気の圧力がその役割を果たしているだけである。水蒸気の圧力とは水分子が加熱によって体積膨張しようと内部圧力に変換されるから圧力上昇するのである。それが単純なボイルの法則による解釈である。水分子の運動速度など無関係だ。物理学理論でエネルギーと言うと、質量の運動エネルギーと位置エネルギーしか対象にしていないのではないかと誤解しそうになる。圧力エネルギーと言う概念が余り考えられていないようだ。ボイル・シャルルの法則も気体分子運動論としてボルツマン定数に因る解釈に終結している。圧力も膨張でなく分子運動速度に因る衝突力として捉えるようだ。気体の体積、水蒸気分子の体積膨張と言う現象は考慮されていないように思う。気体の発光現象も、気体に加えられたエネルギーが分子や原子に貯蔵され、その貯蔵限界を超えたエネルギーが放出されることと解釈できよう。原子の外殻電子の運動エネルギーが増減する解釈は意味がなく、間違っている。そもそも電子が回転していると考える必要など無い。電荷など無い筈だから。エネルギーと圧力の関係で一つ取り上げておきたい。海底1万メートルの水は静止状態でも途轍もない高圧に在る。その水圧も水の空間に蓄えられたエネルギーの筈である。さて、水圧だけではなく、海底の地殻深くになれば更に圧力が増していると考えられよう。その空間のエネルギーは特別の意味を持ち、日常生活での物理現象として関わることも無い異次元の世界の話であるが、圧力エネルギーであることには変わりがない。ただ、その圧力エネルギーと言う解釈が地球の中心核まで続くと解釈すべきかどうかを判断するべき根拠は不明だ。何も地殻が運動エネルギーの空間貯蔵帯とは考え難いという事からも、気体も同じように気体分子の運動エネルギーとして解釈すべきと言う論理性が見えないということである。当然気体の圧力分布に因り気体は流れて風を引き起すが、それは気体分子運動論でのエネルギーとは異なろう。温度の解釈には風は余り関係なかろう。

熱エネルギー 熱が物に蓄えられる時、物の質量の運動エネルギーの増加となるのではない。物の結晶格子等の空間に貯蔵されるエネルギーそのものの増加が熱の増加と言うことである。熱エネルギーは電気エネルギーや光エネルギーと同じく、空間に実在するエネルギーなのである。質量構造体の内部空間に貯蔵されて温度が高くなるのである。温度が高いということは、計測温度計にその物体から放射されるエネルギーが多いということであり、温度計に入射する熱エネルギーが多い準位で、温度計の出入りのエネルギーが平衡するのである。熱も電気も光もみんな同じエネルギーなのである。それは空間を占め、そこに独立した実在の空間エネルギー密度なのである。基本的に、熱とは光であれ電気であれ物に蓄えられたそのエネルギー量によって周辺空間に放射、伝導するエネルギー量が影響され、その量を計量する人の感覚や温度測定器の表示量として捉えるエネルギーの評価なのである。物のエネルギー量とその物の入射と放射のエネルギー平衡特性が比熱などの評価係数となっているのだろう。物の原子・分子の結合構造(勿論エネルギー還流のマグネット結合構造)でそれらの係数も決まると観て良かろう。

質量とエネルギー等価則

熱エネルギーとは 今常温でMo[kg]の鉄の塊がある。その鉄を加熱した。高温の鉄の塊からは熱と光が放射される。その熱い鉄の塊の重量を計ることを考えると仮定する。鉄の質量は計りに掛けると、加熱によって加えたエネルギー分だけ等価的に質量が増加する筈と考える。それが『質量・エネルギー等価則」の意味である。エネルギーは質量に等価である。しかしここまでエネルギーを実在物理量と捉える考え方は現代物理学の中に受け入れられるかどうかは分からない。高温の鉄の塊から熱放射・光放射が続く。その放射エネルギーは鉄の持つ熱エネルギーと等価な質量の一部をエネルギーとして放射するのである。『エネルギー』も質量と同じく物理的実在量なのである。と言っても、鉄の重量を計って、熱エネルギーに相当する質量・重量の増加した結果が観測など出来ることは無理であろう。熱エネルギーの増加分をほぼ光速度の2乗で除した分など計測に掛る筈はないだろうから。実験的に検証する科学的論証は無理であろう。それでも、原理的に熱エネルギーが質量と等価であるという意味は熱く加熱されたエネルギー分だけ質量が増加しているということである。同じ様に電気コイルに貯蔵される電磁エネルギーが有れば、そのコイル内に溜ったエネルギー分の質量換算量だけ質量が増加したコイルとなる。一般的な現代物理学理論で、エネルギーが質量とは無関係に実在するという認識がどの程度理解され、受け入れられるかははなはだ心許ない。化学理論でも同じく、原子構造で電子が外殻を周回運動しているとの捉え方をしている限りは受け入れ難い考え方であろうと思う。

 

ボイル・シャルルの法則と水蒸気

気体の体積膨張と収縮はボイル・シャルルの法則として纏められている。温度と圧力と体積の関係が分かり易い数式で表現されている。筆者にも感覚的に理解し易く、受け入れやすい式である。しかし少し詳しい説明になると、気体定数やアボガドロ定数との関係で解説されるが、その高等理論(特に気体分子運動論)を理解するには能力的に困難が伴う。地球気温の異常さを感じ、豪雨水害の悲惨な生活破壊の多さを見るにつけ、空気と言う気体の中味をどう解釈すれば市民的科学テラシーの常識を持つと言えるのだろうか。酸素O2と水素H2と窒素N2と水H2O(水蒸気)の温度特性に違いが有るからじゃないかと考えるが、それらの個別の気体分析は検索に出て来ない。みんなアボガドロ定数の御蔭で教育されているからか、何処にも違いは見えない。空気中の水蒸気含有率(質量)の温度依存特性でも調べられて居れば分かるのだが、こんな時代だからデーターが有ればと思う。空気中の水蒸気含有率は素人解釈ながら、地球表面に於ける太陽光線の『レンズ収束効果』による気温上昇への拍車をかけないかと気掛かりなことでもある。地球上が水蒸気でその温度特性に翻弄されているような気分だ。産業革命の元になった蒸気機関は水分子の特性を際立てた主役である。現代の原子力発電等の汽力発電所は水分子H2Oの独壇場だ。その力強さは湯灌で水を沸かすと、底から沸騰と言う自然現象で水分子が膨張する様子に見られるが、それも他の気体分子と同じ現象で理解すべき事だろうか?酸素と水素原子が結合した分子H2Oと言うが、とても不思議なことと感じる。ペットボトルの空気(水蒸気)収縮 お茶の飲み残しのボトルを冷蔵庫に入れた置いたら冷やされて細くくびれていた。改めて30数度のお湯をボトルに入れ、冷凍庫に入れて見た。冷やされて氷が出来て、写真のように体積収縮で括(クビ)れてしまった。上空に寒気が張りだし、空気の水蒸気が体積収縮を起こし、上空の低気圧に因る地上の水蒸気を含む空気が急上昇し、竜巻になったり、冷やされた水蒸気が雹になる現象の意味が良く理解できると思った。酸素分子も同じような現象を起こすのだろうかとアボガドロ定数に関する気体論とボイル・シャルルの法則を考えた。気体分子運動論が現代物理学の標準理論になっているようだ。その理論には質量がエネルギー解釈の基本条件になっているから、その理論による水分子H2Oの質量の運動エネルギーで解釈すると成ると、ボイル・シャルルの法則以上に理解不能の筆者だ。以前『温度とは何か』が問うもの でも考えた。

『熱』の正体

ザ・ピーナツが唄った有名な歌がある。恋のバカンス、岩谷時子作詞、宮川泰作曲。ため息の出るような あなたのくちづけ 甘い恋を・・。恋のバカンス 熱い砂

これから暑い夏が来る。そんな季節に似合う『熱』の歌か。歌詞にある「金色に輝く熱い砂の上で」の熱い砂の意味に『熱』の意味を探ってみようかと思った。

気体分子運動論を斬る 『熱』をITで検索すると、その正体を妄想物理学論で解説されている。妄想と言っても、現代物理学理論の世界の常識論として幅を利かせている論説である。皆そんな解説を覚えなければならない科学常識が世界に蔓延している。誠に悲しい事である。実力も無いのに、若さぶって熱い砂の上で、裸で恋でもしたいものだとこの妄想を膨らましてみた。『熱』が気体分子運動論で処理されている現代物理学は正さねばならない。『熱い砂一粒』の中に『熱』の世界を感じ取ろう。科学的自然観を素直に表明すれば、また嫌われる。

砂粒一つ

一粒の砂 砂一粒に『熱』を重ねて見た。ウイリアム・ブレークの詩文の一部を添えた。エネルギー(ENERGY)とは?にある。その言葉も丁度ここで『熱』の本質を見抜くに当てはまるようである。哲学的で、その深い捉え方が気に入っている。裸で砂の上に二人寄り添えばどんなに暑かろうかと妄想が膨らむ。下から砂の『熱』が皮膚に射し込む。そうです『熱』が射し込むのです。決して砂の中の分子運動が恋をやっかんで、振動して皮膚を傷める訳ではないのです。砂・砂の鉱物分子が振動なんかしていません。アチチ、アチチと砂がお日様に焼かれて、射し込んだ光の『熱エネルギー』を恋人同士の皮膚にエネルギー放射をしているだけなのです。皮膚に射し込むのが『熱』と言うエネルギーなのです。夏陽射しの中に立てば、太陽からの光が直接顔や衣服の面に射し込む為に、そのエネルギーが『熱』になるだけなのです。空気の振動が皮膚や衣服を振動させる訳では決してございません。振動されても熱くはなりません。光エネルギーが直接体の中に射し込むから『熱中症』と言うのです?これは冗談ですが、丁度『熱』が身体の『中』に入る事から起きる『症状』と読めば、現代物理学理論より説得力があるだろうと自画自賛したい。一粒の砂が赤外線、可視光線あるいは紫外線等の所謂熱線と言う光エネルギーを放射して、環境に比して余分なエネルギーの不平衡をエントロピーの何とやらで、平衡させる物理現象でしかないのである。高尚な市民の立入れない学識経験者の学理等申し訳ないが信用出来ない。一粒の砂の中に、その自然の心を読み取る事が出来るのである。自然を見ないという有名な物理学者の話も聞いた事がある。数学で世界が見えるように考えておられるようであった。数学などほんの一面しか自然を表現できないだろうと感じている。

 

熱とは内部エネルギー? 内部エネルギーと言う言い方がある。内部エネルギーとは何か。どこにどのようなエネルギーかと質せば、結局何かの振動エネルギーとなる。じゃあその振動エネルギーとは何かと質せば、実に曖昧である。アインシュタインのブラウン運動などが引き合いに出されたりする。目に見える物・ブラウン運動で解釈するなど滑稽である。『熱』を見る事は出来ない。光の正体を見る事が出来ないと同じ事である。景色や風景、物の姿を見る事は出来るが、光を見る事など出来ない。光は透明であり、形も姿も見せない。

 

エネルギーの正体 光を含めて、現代物理学理論は『エネルギー』の正体を認識していないのだ。エネルギーは振動もしていないし、姿も見えない。エネルギーの代表的姿は光と言えば良かろう。光一粒を見る事は出来ない。光速度に対応する観測の術は無い。光エネルギーの空間的像を描いた、光とは何か?-光量子像ー

『温度とは何か』が問うもの

温度とは何か この標題で今年(平成23年春)の物理学会で発表する予定であった。温度は物理学のあらゆる研究の条件となる重要な環境指標である。しかし『温度』と言う物理学的概念は中々捉えようのない不確かな概念でもあると思う。そこで私なりの解釈を学会の場で問題提起をしようと投稿した(日本物理学会講演概要集第66巻第1号第2分冊、p.443)。ところが今年は、日本物理学会第66年次大会(新潟大学キャンパス)が東日本大震災の影響下で中止となった。一応発表に使う資料を準備した。そこでその内容の一部をここに報告する事にする。『温度とは何か』は熱現象に関わり、その本質は的確に捉えられていないと思う。物理学理論、教科書的理論はとても納得できるものでないと言わなければならない。熱に関わる事に踏み込むと、収拾が付かなくなる程、言はば魔の領域でもあると聞いていた。温度は熱エネルギーと密接にかかわり、古くは産業革命の原動力となった蒸気機関の発明からの『熱理論』の研究対象となってきた。工業製品の自動車エンジン、クーラーの熱交換機、原子力発電所の原子炉と蒸気タービン等あらゆる現代科学技術の隅々に主動力源として応用されている。ならばその理論は完ぺきであると解釈するのが当たり前と思われよう。例えば水の蒸気機関では『蒸気線図と熱サイクル』として完璧な技術理論が完成されている。蒸気の圧力p[kg/㎠]と比体積v[㎥/kg]および温度T[℃]並びにエンタルピーi[kcal/kg]やエントロピーs[kcal/kg K]の関係で、その水蒸気の詳細な状態量を評価している(しかし、これらの概念量の単位はMKSに統一されていない上に、温度も摂氏温度[℃]と絶対温度[K]が混合している点は注意)。理論は兎も角として、この熱力学応用技術は完全に確立されていると見て良かろう。それでも『温度とは何か』と問わなければならない事がある。私が指摘したい事は『物理学理論』として大学などの教育現場で行われている『熱理論』の授業内容が無用に思える。今回の学会講演概要集にも計らずも(?)私と同じ標題の論文が載っているが、その内容は解釈・理屈が私のものと正反対である。

温度は何が決めるか 特に気体の温度は何が決めるかと言う『問答』である。それを右の図面で考えてみようと思う。先ず温度とは物理量かの問いである。教科書的熱力学は温度が基にあって、その時の気体分子をどのように解釈すれば良いかの論議に成っている。その逆で、『温度を決めるのは何か?』が重要な視点であろう。図には3つの温度が示されている。室温と言う気体の温度T[K]、温度計の指示値T_th_[K]および白熱電球のフィラメント温度T_f_[K]の3つである。温度計を電球の放射光から遮蔽すれば、室内の気体の定常温度Tを指示する筈である。室温は電球の放射光と気象条件などの外部条件の基に平衡温度に落ち着く。しかし電球の光が温度計に照射されれば、その温度計の指示値は室温より上昇する。その時の温度計の指示値は決して気体分子の運動エネルギーにより決まるものではない筈だ。直接電灯からの放射光のエネルギーが温度計の液体に入射してそのエネルギーに基づく膨張が指示値となった筈である。逆に、温度計の指示値から気体分子運動エネルギーを計算することは出来ない筈である。気体(空気)の温度は温度計の指示値から読み取る訳であるが、その指示値は何が決めるのか。まさか、空気分子が振動して温度計のガラスに衝突し、その運動エネルギーの一部をガラスの振動エネルギーに変換し、更にガラスの振動がアルコールの液体の運動エネルギーに伝達し、アルコールの液体の運動エネルギーの増加で、アルコールが膨張すると説明する訳ではないと思う。分子の運動エネルギーが増加すると、分子の衝突の影響が強くなり、互いの分子間の反発力の増加で、分子間の離隔距離が広くなり、膨張したような広がりを生むと看做す解釈になっている。「分子運動論」の基本的認識はそのような解釈に基づいているのだろう。しかしその解釈は本末転倒した論理である。温度が与えられると、その温度によって、分子運動が決まると言う解釈が間違いである。即ち温度が気体の運動を決めるのではなく、気体分子に与えられるエネルギーの量により分子の状態が決まるのである。どのような状態を呈するかと言えば、気体、液体あるいは固体の運動では無く、ただ体積の膨張・収縮と言う状態の変化で現れるだけである。図で示した意味は、電灯からのエネルギーが直接温度計のアルコールに入射し、アルコールの体積膨張を来たす現象として説明したかったのである。ボルツマン定数k と絶対温度T から、気体のエネルギーを kT [J] とするがT は必ずしも気体の温度を示している訳で無いと解釈する。結局『温度とは何か』である。それは、気体であれば、気体分子が保有するエネルギー量が周辺の近接する気体分子、媒体の保有エネルギー量との関係に基づき、近接する物同士の間で、互いにエネルギー放射と吸収の平衡状態に落ち着くようにエネルギーが流れる自然現象である。『エネルギー』そのものが実在している事の認識ができるかどうかの問題でもある。光が訳の分からない何かが振動しているような曖昧な解釈が罷り通っている状態では理解が出来ないと思う。光も振動する物など何も無く、ただエネルギーが縦に、縦波として伝播しているのである。物理学熱理論では、気体の温度を「気体分子の運動エネルギー、振動エネルギーあるいは並進運動エネルギー」等の『運動の衝突・反発力』による膨張との解釈と観る。それは気体分子などの質量に付帯したエネルギーと言う意味では、『質量』が物理的拠り所となっている点が私の解釈と異なる。それなら、その運動エネルギーが如何程であれば、逆に気体の温度を幾らと規定するのかと、温度と気体分子運動との相互依存関係の有無について、回答を要求せざるを得ない。『温度とは何か』が問うものは「何が温度を決めるのか?」であり、『温度』その物の意味を問う事でもある。温度の値を決める原因は何かを明らかにすることが物理学理論の進むべき本筋である。蛇足かも知れないが、もう一度言う。決して、気体分子の運動エネルギー論が気体の温度を説き明かす解釈にはつながらない。温度の基は『エネルギー』そのものである。光、光量子等と言はれるもの、太陽光線はその代表的なもので、エネルギーそのものである。そのエネルギーが気体分子、温度計のアルコール液体、部屋の壁面、床面に吸収されて、それぞれに貯蔵されたその吸収エネルギーが平衡を保つように逆にエネルギー放射されるのである。気体分子や『モノ』に入射した『エネルギー』そのものにより、『モノ』が膨張するのであり、運動などしていない。近接体同士の間でのエネルギー量の平衡が保たれるようにエネルギーの流れが起きる。気体分子や『モノ』のエネルギー吸収・放射特性が同じ訳ではないから、エネルギー量とその膨張量は違う。それぞれの物質間で、エネルギーの吸収・放射を繰り返しながら、膨張が決まり、結果的にその平衡バランスで温度計の指示値が決まるのである。その指示値を室温と解釈しているのである。さて上の図には電球のフィラメント温度T_f_[K]が基に成って、光エネルギーが放射されるが、その放射量を決める法則が『ステファン(・ボルツマン)則』で、絶対温度の4乗に比例すると言う。この法則が正しいかどうかと言う疑問がある。ここで光・熱の放射法則に触れておこう。熱放射則としては先ずプランクの式を挙げなければならない。プランク則は特殊な黒体の放射則であるが、温度と放射光の基本関係を解釈する基に成っている。この二つの式だ、その単位をご覧いただきたい。式も複雑であるが、その単位が問題である。そんな空間を伝播する光のエネルギーを測定できる訳が無いのである。エネルギーの単位ジュール[J]のメートルmの4乗当たり等の空間概念が測定できる訳が無い。じゃステファン則の単位秒当たり、単位面積当たりの空間エネルギー流(電気ではポインティングベクトルと言う)を測定できるかと言う疑念である。この点については、『プランク定数』を疑うと言う標題で別に論じたい(まだ未投稿のままである)のでここでは踏み込まない。(2013/02/12)以下#までを 追記。熱輻射理論に関する考察および花が光か 光が花か で熱輻射理論への疑問を記した#。ステファン則等あらゆる熱力学理論の基本定数として欠かせないボルツマン定数k[J/K]が有る。それは1分子当たりの保有エネルギーと絶対温度の関係が物質に関わりなく一定であると言う意味を表したものである。その古い意味を含んだ法則に『ボイル・シャルルの法則』が有る。ボイル・シャルルの法則そのものの法則としての意味は重要と思う。しかしボルツマン定数との関係付が怪しいと見る。こんな定数が正しいと言えるのかと言う疑問である。気体定数R、アボガドロ定数Nと言うとても古くて偉大な定数が物理学・化学の科学論の大原則として、頑迷に蔓延っている。例えば、アボガドロ定数は1811年に提唱された仮説である。どんなガス分子も同一の体積には同一の分子数であると言う解釈である。ならば、ベンゼン核を含む芳香分子ガスも水素ガス分子も本当にそんな法則が成り立つと言えるだろうか。教科書的原理の殆どは誤った古典的解釈論の伝達法に成っていると思う。科学技術社会を構築して来たのは科学理論ではなく、経済成長と言う人の欲望が進めてきたと思う。結論として、「気体分子運動論」は不要で無意味な論である。最後に、発表一枚目の準備シート。