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教育の政治的中立性とは何か?

昨日(2015/06/26)の朝日新聞4面に、教員の政治的中立「違反には罰則を」 自民内で改正案浮上 の見出し記事があった。教育公務員特例法の政治的行為に関する規制強化、罰則規定追加の問題のようだ。最近の自民・公明党政権の思想弾圧権力の暴挙が目に余る。自分の遥か昔の政治的意識を振り返って考えると、余りにもお粗末で恥ずかしい。全く政治などには関心も、新聞を読む習慣もない政治的意識欠落人間であった。「政治的中立性」等と言われてもどんな意味かも理解していなかった。それが政治・行政に意識が向くようになったのは長岡工業高等専門学校での殺害される危機(禪と科学)に直面してからのように思う。特に昭和14年12月1日、舞鶴鎮守府へ戸籍転籍と戦後処理問題(私は何者でしょう(3)故郷貝野村と舞鶴鎮守府)に人生の不可解の意味が隠されている事実に辿り着くまでの、昭和63年暮れからの逃避行での自分探しと新聞の政治記事の読み取りを通して、今の政治的意識の重要性を知ることになった因縁さえも不思議に思う。

若者の政治参加意識の低さと問題視されるが、自分を振り返ればそこに問題と解決すべき方策がある。人は働きを通して社会的に成長できる。自分のように仕事が無しに何十年も隔絶した墓穴を彷徨うようでも役に立てない。今派遣労働制の労働者の人権抑圧の生活困窮化の悪法が、人の生活の政治関心を阻害する社会的弱者虐待社会へと進もうとしている。政治参加の無関心化を生み出す原因に生活の質の劣化が大きくなっている。選挙年齢18歳の新しい制度を採ることになった。高校生も選挙に参加することになる。しかし国会は、今選挙の投票率が極めて低い状況をどのように分析し、その解決策を法律制定にどんな思惑で取り入れたのか、その結果がどのように投票率の改善として結果に表れると考えているのか。その社会状況を的確に分析し、改善の方策を法律の枠組みにした立法機関としての役割を果たすことが国権の最高機関としての使命である。18歳年齢投票制を制度に取り入れても、何の問題解決には成らない。もっと投票率が落ちる可能性が増える。若い人達がどれ程政治的ニュースを新聞を読み、TVを見て関心を抱いていると国会議員は理解しているのかが現在の日本の政治環境の最大の問題である。政治批判もしない若者が選挙年齢に登録されれば、もしや『憲法改正の国民投票』での改正賛成票が増えるのじゃないかの目論みの、単なる思い付き法律制定でしかないように見える。

教育における「政治的中立性」とは何か? 教育はとても大切だと思う。昔、70年以前『天皇の為に死ね』と幼い子供はじめ国民(臣民と言った)全体に教育した国家権力構造であった。そんな精神異常国家であったのはほんの70年前であった。今戦争を知らない人が多くなってしまい、全てが忘れられそうにある。内閣総理大臣も戦争を知らない。戦争を知らない人は戦争をしたがるのかと恐ろしくなる最近の国会の異常さである。生命・財産を守る為に、銃・武器を持って戦えと命令する国家権力が生まれる。銃を持って戦う人間を生命の消耗品と見做して戦争を仕掛けるのだ。靖国神社に祭られる為に生命を投げ出して戦えと命令する。その兵士の生命はどのように生命を守るという意味の生命の意味に矛盾しないのかを『国民の生命・財産を守る』為と唱える現政権に尋ねる。以前、下村文部科学大臣がお蔵入りした「教育勅語」を国会図書館からお探しになっているという情報に触れた。今回この記事の冒頭の新聞記事に触れ、いよいよ自民党の精神性の本領を表して来たと恐ろしさを感じた。いつもの悪い癖かもしれないが、恐ろしさを抑えられず6月26日に呟いた。“こんにちは。教育の政治的中立性とは何か?違反者に罰則を加えると自民党で検討しているとはどういうことか?違反者とはどのような人を言うのか定義が欲しい。政治的批判精神を教育で鍛えてはいけないというのか?選挙は批判精神を持って初めて意味を成す。”今安全保障の概念変更が国会で問題になっている。最大の問題点は、その法の用語の定義、法体系性の概念の不明確さである。曖昧さは誤魔化しの政治の本質を映す。具体的な事例以前に簡明な定義付けが重要である。定義から具体的な事例を事細かく例示しなければ政治権力の思惑による闇の権力行使が起こる。関連してつぶやいた。“教育の政治的中立とは。何でも思うことを発言出来て、お互いに批判し合う自由な共同生活の公的機関の空間と解釈する。”さらに、“思想信条の自由を保障するとはどういうことか。どんな場合においても自由な発言を制限してはいけないということだ。”“発言にはおのずから批判が伴う。しかし政治権力・公的機関による束縛は憲法の精神を損なう。”この呟きには、昔憲兵が行った公権力による言論・思想弾圧を行った恐怖政治が念頭にあった。更に“銃を持って戦場に行ってはいけない。国(?政治権力のことか?)の為に積極的に銃を持って戦場に行くべきだ。どちらに賛成するか生徒・児童に問うと政治的中立でない事になるのだろうか。”返す返すも、平成18年12月の教育基本法の改悪を何故拒否できなかったのかと悔む。国民世論調査で、70%が何故改悪を望んだのか。改悪を望んだ人は教育基本法を読んだことがあったのか?何故70%もの賛成が示されたのかと。政治介入・強権支配による教育萎縮・崩壊

今回自民党の「文化芸術懇話会」での報道機関への言論弾圧的な学習会があった。内閣の一員も参加して。国家公務員法第二条に規定がある。内閣は国家公務員の特別職である。憲法の精神を守る義務がある。

法律の素人の言 また疑問。今の安全保障関連法案がもし国会で可決された時。オラそんな法律は日本国憲法違反だから、そんな法律は許せないので裁判所に直ちに取り消してくださいと訴える。そんな政治に直接関係した話をどうしても教育の場で子供達、生徒に政治的中立を守る為に話して、意見を述べさせたい。これは教育の政治的中立性に違反し、罰則の対象になるのだろうか。選挙に投票に行くには最低この位の時事問題に興味関心を持って貰わなければならないと思うが如何でしょうか。自民党の罰則検討問題の議員の皆さんにお聞きしたい。

停滞性気性日本

異常性突出と停滞性気性の混合型日本。なんか何処かに有るワクチンかと間違わないで欲しい。今日の毎日新聞の記事、野坂昭如の「七転び八起き」 第200回「思考停止」70年 生命の危機 敗戦から学べを読んだ。思考停止の文字に惹かれた。今の日本の状況に疑問を抱かざるを得ない。日本の民主主義とは何かと考えて仕舞う。日本は民主主義でない精神状態の国民の集まりと同じではないかと。多くの日本人の特徴として、何故か政治権力に対しての批判は口を閉ざして発言しない風潮が見える点に在る。権力に逆らう事は不孝者と思われるようだ。政治の話は政治家に任せておけば良いと。お上に楯突くなど以ての外だと。それは日本人の過去の歴史的摺り込み学習の『脳特性』が大きく影響していると思う。家父長制度、天皇の神格化の強制のいわゆる『封建制』社会意識。それが太平洋戦争の敗戦を境に、急激な政治制度の変革に見舞われた。中央統一政権の下で、それが朝廷であるか武家政権であるかに関わりなく、長い鎖国の下での閉鎖島国性が精神構造の髄に染み込んでいた。明治の開放大転換制度も朝廷・天皇による臣下制度の家父長封建社会の継続の道を歩んで来た。それが敗戦により「民主主義」という未知の別世界に放り込まれた。そんな自由な世界が有ったのかと驚きながらも、それまで天皇に養われている下僕のような精神性に強制的に押し込められた「臣下」の庶民はその恩恵を享受した。それまで天皇を奉りながら、敗戦に陥れた政治家・軍人の責任者にとっては旨みと権威が削がれて誠に不愉快な制度になったとの思いであっただろう。そんな訳で、誰も自ら戦って民主主義を手にしたことの無い日本人しか居ないのだ。それこそ、自ら望んで獲得した自由・平等・公平の制度ではない。民主主義など欲しくなかったのかもしれない。お上の下す命令にただ従うだけを常識的な大人と考えているのじゃなかろうか。選挙になれば、顔役を無批判に支持する古典的封建制の統一に従う。カネさえ回ってくれば、自衛隊が兵器を持って海外に行こうと『国』が言うのだから(『国』と言う何者もいないのに)止むを得なかろうと。NHKのトップと同じ考えで。ガチガチの国粋主義者内閣でも、アメリカも軍事協力さえ有れば無条件支持になる。日本国憲法第9条を制定した占領下の法律を御都合だけで無視しても良いと、今も占領下のような日本と看做す。天皇制で、象徴とはどういう意味付けだったのか。民主主義国家における象徴「天皇」の法の基における平等の精神は国民にどのような精神的感覚を植え付けているかを考えない訳にはいかない。全ての人が平等・公平・自由の価値観の基に於いて初めて民主主義精神の意味が理解できるはずと思う。敗戦に於いて、天皇が国民に謝罪をして来なかったことがとても大きな問題と思う。広島、長崎の原爆で日本人を殺し、悲惨な生きる苦しみを背負わせた責任。勿論アメリカが落とした原子爆弾が原因であることに、その犯罪性に最大の責任がある。しかし、そこまで負ける事が分かりながら、戦争を継続させた事による大量死に至った責任が有る。真珠湾攻撃を決行した無能の責任がある。如何に敗戦に至ったかの原因・戦争突入の経緯とその意味を日本人自身が検証してこなかった事がいつまでも心のわだかまりとなっていると感じる。戦後の心を開放することができない事態に至っていると感じる。戦後70年という節目がその重い意味を、本当の民主主義とは何かの問いに答えるべき時を連れて来たと思う。その曖昧な精神的疑似民主主義の上に戦後制度設計を作り上げてきた責任は官僚組織の『国(意味不明な)』意識に現れている。主権者が国民一人一人であるという民主主義の根幹が生きていない。男女同権と言うのであれば、天皇が男女同権の意味を率先して示す制度でなければならないのにそれが通用しない国会議員の意識は戦前のままに残っている。国民の象徴であれば、男女に差別があっては象徴の意味を成さない。家父長意識が消えない日本。子供たちにこんな曖昧な状態を残してはいけない。

福島第一原子力発電所崩壊と原子力発電所再稼働事件 福島県人が今でも原子力発電所周辺には住めないままである。この事態を考えた時、日本国憲法の国民の基本的人権の保障という意味を理解していないとしか見えない。政府はその事を理解していない。何があっても、居住権を奪う事は許されない。天災が原因ではない。人工の発電所が起こした環境破壊が原因で住めなくなったのである。憲法の保障する基本的人権を侵害していることには間違いない。その事に少しも気付かない振りをしている。そこには停滞性気性の日本が見える。

敗戦後70年 過去の戦争責任を日本人が問わずに来た。だからまた過去の戦争への道を、再び歩もうと言う状況を作り出している。経済性以前の人道上の信義の問題。