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教育の政治的中立性とは何か?

昨日(2015/06/26)の朝日新聞4面に、教員の政治的中立「違反には罰則を」 自民内で改正案浮上 の見出し記事があった。教育公務員特例法の政治的行為に関する規制強化、罰則規定追加の問題のようだ。最近の自民・公明党政権の思想弾圧権力の暴挙が目に余る。自分の遥か昔の政治的意識を振り返って考えると、余りにもお粗末で恥ずかしい。全く政治などには関心も、新聞を読む習慣もない政治的意識欠落人間であった。「政治的中立性」等と言われてもどんな意味かも理解していなかった。それが政治・行政に意識が向くようになったのは長岡工業高等専門学校での殺害される危機(禪と科学)に直面してからのように思う。特に昭和14年12月1日、舞鶴鎮守府へ戸籍転籍と戦後処理問題(私は何者でしょう(3)故郷貝野村と舞鶴鎮守府)に人生の不可解の意味が隠されている事実に辿り着くまでの、昭和63年暮れからの逃避行での自分探しと新聞の政治記事の読み取りを通して、今の政治的意識の重要性を知ることになった因縁さえも不思議に思う。

若者の政治参加意識の低さと問題視されるが、自分を振り返ればそこに問題と解決すべき方策がある。人は働きを通して社会的に成長できる。自分のように仕事が無しに何十年も隔絶した墓穴を彷徨うようでも役に立てない。今派遣労働制の労働者の人権抑圧の生活困窮化の悪法が、人の生活の政治関心を阻害する社会的弱者虐待社会へと進もうとしている。政治参加の無関心化を生み出す原因に生活の質の劣化が大きくなっている。選挙年齢18歳の新しい制度を採ることになった。高校生も選挙に参加することになる。しかし国会は、今選挙の投票率が極めて低い状況をどのように分析し、その解決策を法律制定にどんな思惑で取り入れたのか、その結果がどのように投票率の改善として結果に表れると考えているのか。その社会状況を的確に分析し、改善の方策を法律の枠組みにした立法機関としての役割を果たすことが国権の最高機関としての使命である。18歳年齢投票制を制度に取り入れても、何の問題解決には成らない。もっと投票率が落ちる可能性が増える。若い人達がどれ程政治的ニュースを新聞を読み、TVを見て関心を抱いていると国会議員は理解しているのかが現在の日本の政治環境の最大の問題である。政治批判もしない若者が選挙年齢に登録されれば、もしや『憲法改正の国民投票』での改正賛成票が増えるのじゃないかの目論みの、単なる思い付き法律制定でしかないように見える。

教育における「政治的中立性」とは何か? 教育はとても大切だと思う。昔、70年以前『天皇の為に死ね』と幼い子供はじめ国民(臣民と言った)全体に教育した国家権力構造であった。そんな精神異常国家であったのはほんの70年前であった。今戦争を知らない人が多くなってしまい、全てが忘れられそうにある。内閣総理大臣も戦争を知らない。戦争を知らない人は戦争をしたがるのかと恐ろしくなる最近の国会の異常さである。生命・財産を守る為に、銃・武器を持って戦えと命令する国家権力が生まれる。銃を持って戦う人間を生命の消耗品と見做して戦争を仕掛けるのだ。靖国神社に祭られる為に生命を投げ出して戦えと命令する。その兵士の生命はどのように生命を守るという意味の生命の意味に矛盾しないのかを『国民の生命・財産を守る』為と唱える現政権に尋ねる。以前、下村文部科学大臣がお蔵入りした「教育勅語」を国会図書館からお探しになっているという情報に触れた。今回この記事の冒頭の新聞記事に触れ、いよいよ自民党の精神性の本領を表して来たと恐ろしさを感じた。いつもの悪い癖かもしれないが、恐ろしさを抑えられず6月26日に呟いた。“こんにちは。教育の政治的中立性とは何か?違反者に罰則を加えると自民党で検討しているとはどういうことか?違反者とはどのような人を言うのか定義が欲しい。政治的批判精神を教育で鍛えてはいけないというのか?選挙は批判精神を持って初めて意味を成す。”今安全保障の概念変更が国会で問題になっている。最大の問題点は、その法の用語の定義、法体系性の概念の不明確さである。曖昧さは誤魔化しの政治の本質を映す。具体的な事例以前に簡明な定義付けが重要である。定義から具体的な事例を事細かく例示しなければ政治権力の思惑による闇の権力行使が起こる。関連してつぶやいた。“教育の政治的中立とは。何でも思うことを発言出来て、お互いに批判し合う自由な共同生活の公的機関の空間と解釈する。”さらに、“思想信条の自由を保障するとはどういうことか。どんな場合においても自由な発言を制限してはいけないということだ。”“発言にはおのずから批判が伴う。しかし政治権力・公的機関による束縛は憲法の精神を損なう。”この呟きには、昔憲兵が行った公権力による言論・思想弾圧を行った恐怖政治が念頭にあった。更に“銃を持って戦場に行ってはいけない。国(?政治権力のことか?)の為に積極的に銃を持って戦場に行くべきだ。どちらに賛成するか生徒・児童に問うと政治的中立でない事になるのだろうか。”返す返すも、平成18年12月の教育基本法の改悪を何故拒否できなかったのかと悔む。国民世論調査で、70%が何故改悪を望んだのか。改悪を望んだ人は教育基本法を読んだことがあったのか?何故70%もの賛成が示されたのかと。政治介入・強権支配による教育萎縮・崩壊

今回自民党の「文化芸術懇話会」での報道機関への言論弾圧的な学習会があった。内閣の一員も参加して。国家公務員法第二条に規定がある。内閣は国家公務員の特別職である。憲法の精神を守る義務がある。

法律の素人の言 また疑問。今の安全保障関連法案がもし国会で可決された時。オラそんな法律は日本国憲法違反だから、そんな法律は許せないので裁判所に直ちに取り消してくださいと訴える。そんな政治に直接関係した話をどうしても教育の場で子供達、生徒に政治的中立を守る為に話して、意見を述べさせたい。これは教育の政治的中立性に違反し、罰則の対象になるのだろうか。選挙に投票に行くには最低この位の時事問題に興味関心を持って貰わなければならないと思うが如何でしょうか。自民党の罰則検討問題の議員の皆さんにお聞きしたい。

日本国憲法は日本の手本

日本語と日本のこころを表した本、それが日本国憲法だ。易しい言葉で、人の有り方を説いている。
そんな素敵な法律があることを何時も気にかけていたい。
気に入った本がある。文字が大きくて読みやすく、安価で長く読み継がれている。日本国憲法の本守りたい憲法

憲法九条 戦争放棄を読む この日本国憲法の精神は世界の規範だ。平和の為に、決して生活がどんなに困窮しても武器を採って、他所の国で人を殺害することだけは致しません。それがこの憲法の眼目である。アメリカが占領時代に日本に残してくれ、日本人が大歓迎した戦争放棄の法典だ。人はその基本的人権が政治権力-日本政府や行政権ーによって不当に侵害されることは許されないと。

憲法第1条:日本とドイツ

今日本人の意識から戦争の記憶が消え去ろうとしている。知らない世代が殆どになった。総理大臣も全く実感はできない戦後世代である。ほんの僅かに90歳以上の方々が、戦場や空襲の恐ろしさを実体験しただけの時代になってしまった。戦後世代には戦争の意味も中々理解できないかもしれない。どんなに非情で、鬼畜の精神状態に置かれる等という状況は理解できなかろう。それは自分も経験が無い。銃を持って、敵に狙われる暗闇に立たされている状況など考えられない。発狂するような不安感に苛まれるようになるのだろう。平和を守るとは、何があっても戦場には行かない決死の覚悟をする事である。ずるずると周りに引きずられて、戦争に加担するのが人間の弱さである。今は、まさに自民党の政権下で、その武器を取って戦闘に走りはしないかという危険な政治状況にある。アジア太平洋戦争と日本の戦争責任をすべての日本人が考えなければいつまで経っても戦後の意識が始らないと感じて来た。教科書からも消え去る状況にある。文科省が戦争の実態を消し去ろうとしている。

ドイツ基本法第1条ドイツ基本法

ドイツ基本法を最近知った。この第1条[人間の尊厳、基本権が国家権力の拘束]が素晴らしい。1949年制定で、日本より2年遅い。しかもそれから40年もの歳月を経た1989年11月9日(日本の年号が改まった平成元年)に東西ドイツを隔てていた壁が破られ、はじめて統一ドイツへの歩みを始めたのである。今も憲法としての基本法が、ドイツの基礎を支えていると思う。あの非情なヒットラー政権の忌まわしい歴史の事実を、アウシュビッツ収容所の現実世界と共に忘れず記憶に残し続ける努力があってこその現在と未来と思う。どんな国の人間も、危険なものを本質的に持っていることを覚えていなければならない。今のドイツの精神を輝かせた基礎をヴァイツゼッカー元大統領が示したと思う。

日本国憲法第1条憲法第一章天皇第一章天皇

憲法の条項の構成に思う。この憲法は昭和21年2月(敗戦の翌年)上旬、ほぼ1週間の短期間に連合軍GHQの民政局で原案を創り上げたと聞いて、理解している。その当時の憲法制定(昭和21年11月3日憲法公布、現文化の日。翌22年5月3日憲法発布記念日)までの詳細は外交文書として残され、公開されているのだろうか。今でもアメリカに押し付けられた憲法と不満を言う国会議員、憲法第99条憲法擁護義務違反者がいる。主権者たる国民から憲法改正の意見が噴出している訳でもないのに、国会議員が先走って、憲法改正の擁護義務違反を唱えている不思議な憲法規定第99条。制定当時の文書が公開されなければ、主権者たる国民は政治家の発言を検証しようがない。外交文書は特定秘密保護法で破棄され、消されるようじゃ、未来が危ない。政治はすべて主権者国民のものである。政治家は主権者国民の為の政治執行の代理として責任を負っているのだ。政治の重要な足跡は歴史的検証が可能であるように残すのが政府・内閣の義務である。

天皇は象徴である。 第1章第1条に天皇は象徴と規定されている。この憲法の第1条が天皇の規定になっている意味は、GHQの草稿が明治憲法の構成を踏まえてなされたからと考える。明治憲法には明治憲法天皇大日本帝国憲法第1条

と第1条から第17条までが天皇に関する規定である。現日本国憲法は第2章第9条が戦争の放棄である。第3章国民の権利及び義務 第10条から第40条まで。旧憲法(明治憲法)は第2章臣民権利義務 第18条から32条まで。憲法の構成は新・旧ほとんど同じである。戦後の日本国憲法の原案が、GHQの方々によって2月上旬の短時日の内に草稿されたと聞いている。驚くべき能力と感心し敬服する。その草稿が9ヶ月後の11月3日の憲法公布に至るまでに、如何なる経過を辿ったかは知らない。今でも気掛かりな文言がある。『政府』と『国』の用語の表現内容にどのような認識を持って決められたかである。『国』という用語をGHQの委員がどのように理解していたかが不可解である。アメリカ国民が『国』という統治概念を『政府』以外に理解できるのかが不思議である。『政府』とは日本の用語使いでは、どうも外務省が外国との関係で捉える用語に思えて、理解できない。私は『政府』を行政機関・内閣すべてを含んで解釈する。総務省、法務省、防衛省、文科省、経済産業省等すべての行政機関を指すと考える。行政機関が自分の省の業務を『国』と解釈し、表現する慣行には違和感を感じる。その時の『国』にはどのような意味を意識した結果なのか。また裁判では、必ず『国』という用語が使われ『政府』とは言わない。裁判には『政府』という用語の意味は存在しないかの如くに聞こえる。裁判員制度もある訳だが、『国』という用語の意味が理解できない。『政府』と何が違うのか?特に、明治憲法では『国』という用語・概念が無いように思う。戦後の憲法で初めて、『国』がでてきた。アメリカでは『国』と『政府』との違いをどのように定義するのだろう。憲法制定時における、その法文作成過程を知りたい。そこまで理解しないと、アメリカに押し付けられたなどという発言議員の真意も理解できない。

象徴とは 新憲法では、天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴と定義された。憲法学者やその専門家の皆さんが十分研究を重ねて論じていることであろう。しかし、専門家の論説は日常用語での解釈しかできない自分には理解し難い。象徴とは、(広辞苑第2版によれば)主として抽象的な事物を示すに役立つ形象または心像。想像力に訴える何らかの類似によって抽象的な或る事物を表す記号と見なされる感性的形象。とある。この用語解釈によれば、確かに日本国とは具体的にこれだと示せないと言う意味では、抽象的な事物になるから、その象徴という意味を天皇の規定に使うことなのかもしれない。日本国民は誰もが抽象的な事物ではない。しかしその統合となれば、具体的に是だと示せないから、抽象的事物に当たると言う意味で、その象徴と定義したと考えれば用語に相当する意味である。この用語を法文に使う時点で、どのような論議があったのかを知りたい。 広辞苑の用語解説によれば、日本国の象徴として、富士山を挙げるとしても、それ程違和感もない。しかし人間を象徴と決める法律用語にはなかなか受け入れ難いものがある。どこまでも、象徴という概念には、自己主張を持つ個性としての精神的人間性という存在を否定している規定に見える。政治状況がいかなる状況になろうとも、戦争になる危険な状況になったとしても、政治的な発言も個人としての見解表明もできない存在に閉じ込める規定と成っているのではないか。内閣の助言と承認の下での行動という意味は、内閣の特定秘密保護法や集団的自衛権の発動などについても、全く意見を表明できないような意味での象徴ではないか。日本国も、日本国民もその象徴の為に、自己主張が抑制されるような感じも受ける。第一章で、天皇は、内閣の助言と承認、指名あるいは国会の指名、議決により、とすべて人間の本質的社会性を規定する基本的人権が、法律上の日本人に付与されている筈の権利が与えられていない。このすべての人間に公平・平等に与えられるべき基本的人権が、付与されていない天皇が象徴という状況を認めるべきなのかと、相当の精神的葛藤を伴いながらも素直に納得するには至らない。天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。とは福沢諭吉の言葉にもある。この言葉は、すべての人間に特殊な階級を創ってはいけないと言う事を言っているのだ。非人間的な人権で差別化された、象徴という事が本当に許されるのか。英国には憲法が無い。英国の王室に近い制度に日本があると言う解釈もある様でもある。英国の人権意識と民主主義は長い歴史を通して、盤石なものになっている。その点で、日本の意識はあやふやな状況にあり、比べられない。日本人の人権意識は行政官僚をはじめ、相当怪しくなってきた。憲法が国家権力の為にあると言う意識にある点で、明治の時代に近いものがある。その中での、象徴という存在がなかなか理解できないのである。権力迎合、大衆迎合気質が日本人の基本的性向に思える。車座社会とか、村社会という表現で言い表されるようだ。異なる個人意識の尊重が基本的に認められにくい社会性の中での『象徴』が持つ意味は平和に有効かと危惧する。一つ参考に挙げておく。 「象徴」の意味を考える に論じられている解釈は何か物足りない。

天皇と戦争責任 象徴は政治的意見を内閣に伝える事が出来ない。政治の戦争への道を止める事が出来ない。人間としての基本的人権が認められていないから。政治に利用されるだけの存在に思える。第4条 ・、国政に関する権能を有しない。はそういう意味である。それは、先の70年前の敗戦で終わった旧憲法(明治憲法)に、第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス 第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス とある。この意味をどのように日本語として解釈するか。天皇は神様の如く、人間とは異なる神格化された存在で崇め奉られていたと観て良かろう。日本では、天皇に戦争の責任があると言うのは、極めて少数の意見と看做される。何故明治憲法の下で、条文通りに解釈しないのか不思議である。天皇に責任が無くて、何故8月15日の終戦の宣告を天皇がしなければならなかったのか。そこに全ての意味が含まれている。天皇に戦争責任が無いかの如くに、戦後を歩いて来た。政府は天皇に戦争責任があるとは決して言わない。あの全権を持つ天皇に責任が無くて誰に責任があると言えるのだろう。政府、政治の中枢にいる者には天皇の戦争責任に触れれば、それが自分自身に跳ね返る責任になるからでもあると解釈したい。それは日本が戦争前後での政治の形体・制度に断絶が無いと言う意味に繋がるのである。日本国憲法で、新しい民主主義国家になったと言っても、明治時代の『法例』を廃止し(中曽根、竹下内閣時には改正をしている)、民法、刑法を全面的に書き改められなければならないのに、戦後もその法的束縛が日本の社会・政治制度を縛って来た。春、秋の叙位叙勲制度(国家体制維持に効果)も明治時代の訓令の名残と解釈している。戦争前後での精度に断裂が無い。戦争の意味はその根底にある多くの問題を抉りださなければ、その意味を検証したことにはならないと思う。戦争の意味を考える時、何故戦争に至ったかは何故天皇が静止できなかったかに全てが掛っている。天皇は生命を掛けて、責任を全うしなければならなかったのである。勝っても負けても戦争の責任は全て、天皇にあった筈だ。何百万人もの人命が失われた事の責任を持つ戦争である。法令違反で、謝罪し頭を下げる会見風景とは次元の異なる話である。基本的人権という概念から考えて、天皇は神の如くの存在とみなされ、全権を掌握していた特別の存在であった筈だ。飽くまでも法治国家としての法律的解釈からの認識である。人間としての基本的人権が全ての人に平等、公平であると言う意味をどのように解釈するかに掛かっていよう。天皇はその全ての人にという範囲に属さない存在である。法律の専門家の解釈では難しいが、日常生活用語から解釈すればの素人の捉え方である。この天皇の世界平和への道標としての働き方の意義を考えた時、政治に対して何も発言できないことが有効なのかに疑問を感じる。現憲法の第4条で、国政に関する権能を有しないとの規定がなされていることは、象徴という概念での法的意味合いである事に由来していると言えよう。今の自民党政権での短兵急な国民主権者を法的に束縛する強権政治動向を目の当たりにした時、憲法第1条の意味が特別な重要性を持つ問題に思える。政治の世界で、象徴の果たすべき意味合いと意義を改めて考えてしまう。

第9条(第二章 戦争の放棄)と象徴天皇の法的意義 国の交戦権は、という国とは誰のことか?国権の発動たる戦争と、の国権とは誰のことか?国の交戦権は、これを認めない。の国とは誰のことか?ここに在る『国』、「国権」は総理大臣ではない。第9条は武器、武力による国際紛争に加担することを禁じている。どんな法律で工作しようと、憲法第十章第98条に於いて、すべての法律の武力行使は禁じられる。それを守るのが第99条に示された天皇・・国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員に課された義務規定である。戦場に武力行使を容認する様な自衛隊を送る事は憲法で否定されている。その戦闘に加わる自衛隊公務員は憲法第99条違反者である。もしそのような派遣をする場合に、天皇にどの条項を持って関係を付け得るのか?戦争は国事行為なのか?

自由・平等の基本的人権 その観点から見た時、ドイツ基本法と日本国憲法の第1条をどのように考えるかと、余りにも大きな違いに戸惑う。海に囲まれた島国の特殊性は、日本人の意識に大きく影響を与えているだろう。自分の人生の意味を考えた時に、基本的人権を如何に解釈すれば良いかという意味を紹介の記事に重ねて観てしまう。舞鶴市溝尻海軍住宅(佐官住宅は塀付き、父は尋常高等学校出でしかないが、教範長、下士官としてその向かいの住宅)から、戦中、戦後の足跡が消されている。ミズリー号での『無条件降伏調印式』の日本代表団を9月2日ゴムボートで送迎したことから戦後が始まった。その事実が戦争を忘れない日本の戦後の始まりになった筈だ。その映像が消されて、戦後も戦争そのものも忘却の彼方に霞んでしまう。

戦後は法体系から始まった

アジア太平洋戦争ー第二次世界大戦ーが敗戦によって終わりを告げた。戦争がどのような実体かを今若い人は知らない。しかし、感心するほど一生懸命戦争の事を勉強する若い方々も多く居られる。筆者も社会常識は全くなく、日本という社会状況を知らなければ「自然科学」を取上げるにも自分の立ち位置を知ることが重要であると取り上げたのが『日本国憲法』の条文解釈であった。「曖昧な日本と憲法」43頁ほどの冊子にまとめた。その初めに纏めてみた一覧表がある。

戦後の法体系

こんなところが社会科学の入り口かと思ってまとめた。

親不知海岸の陥没と柏崎刈羽原発の危険性

原子力発電所が全国に設置されてしまった。この地震地帯の日本列島に。世界最大の原子力発電所が新潟県柏崎刈羽にある。専門家の活断層調査をテレビ映像で見ると、僅かな深さの地表の状態を調べているだけであるようだ。ボウリング調査しても、活断層の様子は調べられない。津波の上陸地点はボウリングに因ってもある程度推定はできるが、海底の活断層の調査は出来ない。海底陥没が巨大津波の原因であるという基本認識が地震災害・防災の専門家には無い。こんな危険な科学認識の下で、地震列島での原子力発電等恐ろしい限りである。

原子力防災ガイドブック(長岡市) 原子力防災ガイド・今年2月発行の原子力防災に関する冊子を見て、この記事を書く切っ掛けに成った。この冊子を作り、全戸に配布した訳だが、その意味を理解できない。この冊子が何の役に立つのかが理解できない。

親不知海岸の陥没現象 急峻な絶壁の海岸線は親不知が有名である。福井県の東尋坊も有名な柱状節理の断崖である。柱状節理、板状節理と不思議な陸地が何故発生したかも解けていなかろう。岩石が巨木の化石であると考えるが、その証明は難しい。石の囁き聞こえますか 。東尋坊の断崖で気掛かりな事がある。福井県は恐竜の化石が発見される点で中国・韓国との陸続きであったのではないかと。そこまで太古の地形を思い描けば、日本海での大陸の分断は何が原因かと思い巡らせれば、陸の陥没を思う。その断崖が、いつの時代にどのような状況を原因として出来たかは分からないのであろう。断崖によってその発生形態も様々ではあろうが、急峻な断崖は地層の断裂に因る陥没が原因と想定する。それは断裂に因る陥没以外は考えられない。特に大陸との繋がりが想定される事を考えれば、何故日本列島が分断されたかと、その地球的変動要因を考察する必要がある。何万年、何千万年の地球の地殻変動を検証して示すことなど出来ない。

海底陥没に因る津波 原子力発電所の安全性は、地質学的な断層診断から、その震度に対する耐震性を基本に設計される。しかし、津波に対する対策は防波堤の高さを高くする以外ない。ところが、津波の発生原因を防災の専門家は認識していない。気象庁の解釈さえ海底陥没の力学的津波計算が出来ないのである。例えば、海底4000mに1㎥の真空空間が時間0.1秒間に発生したら、どんなパワーが生じるか?その上部の海水面に対して、どんなエネルギーの影響を及ぼすか?そんな現象を解析しているだろうか。地震がもたらす地表での形状変化は、やはり山崩れや道路・地表面の陥没にその特徴が現れる。それは亀裂として裂け目が発生する。その亀裂の空間体積分は何故生じるのか。どこに行くのか。地球の地下に陥没するからである。そんな単純な現象も、専門家の学説によれば、地殻の滑り込みによる断層での何か摩擦のひずみが蓄積されて、その歪みの開放現象である地震を捉えている。だからその歪み解放として、上部の地殻の跳ね上がりが起きると。その海底の場合の跳ね上がりが津波の原因だという。こんな嘘が専門家の常識的学説なのである。頭で学説を唱えるからこのような噓が罷り通るのだ。水力学の基礎計算が出来ないのじゃないかと疑いたくなる。トリチェリの真空やボイルの法則は知っていても、実際の水の中での感覚が身についていないから、何の役にも立たない学説で生活の糧を得ているように見える。よく水流に実験設備で、波を作る様子をテレビで見せるが、あんな溝の中で波を作っても水力学の実験にお決まりの様子しか見えない。水の底を伝わる圧力エネルギー考えてはいなかろう。水面の現象を見て考えるのは「横波」の間違った理論から来るのである。日本海側の断崖海岸の発生原因が誰もが理解できるような科学的認識を示さない限り、その近辺の原子力発電所の安全性など政府が唱える事は出来ない筈だ。

原子力発電所は民間企業活動事業か その運転の安全性や避難計画を政府が法律で規定するという意味をどのように民間企業活動と認識すれば良いかが理解しにくい。上に挙げた「原子力防災ガイドブック」を各地方行政で作り、原発事故時の住民の安全対策の責任負うとは奇妙な法体制だ。安全を守るのが絶対に保障されなければ、そんな技術は住民の近くに在ってはならないのだ。安全であれば、ガイドブックなど作る誤魔化し行政は不要だ。安全でないなら,住民が避難する様な住む、食べる、活動する全ての自由を奪う科学技術が許される訳はない。福島原発事故が住民の住居を奪う、基本的人権を侵害している事実は、日本国憲法が保障する基本的人権の侵害でなくて何なのか。自然災害の津波による事象とは異なる事犯なのである。人為的な基本的人権侵害なのである。化学工場が爆発する事に因る、住民避難とは異なる事象である。しかも核燃料の廃棄処理にも見通しも無く、その方策も政府が設計し、莫大な政府予算が充てられる。そんな企業活動は民間ではない。全部政府が責任もって取り仕切るか、全く手を引くかでなければならない。原子力村の狢組織の予算分捕りを喜ばせるだけに成っている。基本的に原子力発電は決して安全ではなく、生命を奪う可能性のある危険な科学技術である。どんなに体裁を繕おうと安全性は保障されない。今福島県の避難住民は日本国憲法の保障する基本的人権を侵害されている事実を政府は認識しているのか?誰がその大きな責任を負うのか。新潟県で、ヨウ素剤の未配布問題があるが、何故そんな予算を行政で採らなければならないのか。原発が危険でないなら不要の筈だ。電力会社が全ての安全対策をすべきだ。自然災害とは異なるのだ。

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憲法九条 戦争放棄を読む

過去と現在と日本国憲法 日本国憲法は国権・政治的権力を規制するものだ。大切な憲法の九条の意味をもう一度読み返して、考えて見よう。今、日本が再びアジア太平洋戦争の前夜の政治状況に戻ろうとしている。安倍総理大臣の政治的思考・行動は、丁度ドイツのヒットラーの時代に似た雰囲気を醸し出しているようだ。当時のドイツでも、様々な不安や不満を吸収する気分の高揚感を煽って進行し、気が付いた時には独裁政治の渦に巻き込まれ、後戻りできない戦争と悲惨な結末を迎える事になった。初めはみんな特別意識せずに引き摺り込まれるのである。他人事と思う油断が、後の祭りだったと気付く事になるのだろう。今でも、日本は周辺国から戦時における賠償問題の解決を迫られている。日本人自身があの戦争の問題を検証しないで、ひた隠しに過ごして来た事がその原因となって、いつまでもぶり返しているのだと思う。連合国に因る東京裁判で戦争責任を問われた。しかし、日本人自身が、日本政府があの戦争についてどのような公式の検証をしただろうか。国民にその公的な形で、戦争の総括をして示しただろうか。そんな検証結果が存在しているだろうか。日本国憲法 戦争放棄と国民主権

日本国憲法の制定 敗戦時に、もし日本自身が憲法を作るとしたら、それは明治憲法と余り変わらない物になっただろう。GHQの施政下で、無謀な戦争に導いた神格天皇制での国家全体主義の政治体制が断罪され、国民主権の民主主義政治体制に改められた。戦後新しい『日本国憲法』が発布され、教育の場でも教科書に準じた副読本としても使われた。その憲法は、アメリカのGHQの精鋭が憲法の専門家でもないにも拘らず、昭和21年2月頃、僅か数週間で創り上げた原案が基になっているとおぼろげながら記憶にある。その中でも、特別の条項が第九条の戦争の放棄である。また基本的人権と男女平等の精神が民主主義の基本理念として輝かしく詠われている。その部分を上に示して、その意味を読み直してみた。

戦争を知らない世代と平和ボケ しかし、戦後の長い歴史の中で、経済的に目覚ましい復興を成し遂げて、世界第2位の経済大国を経験するまでになった。国土も狭く、資源も少なく、人口もそれ程でない中で、何故それだけの経済成長を成し得たのだろうか。敗戦後、ポツダム宣言によって新たに世界の一員に成れた。第九条があるから、危険な日本の過去の恐ろしさはもう無いだろうと、近隣諸国にもある程度の安心を持って受け入れられて来た。後はただ平和な争いの無い中で、仕事をすれば良かった。経済成長で、豊かさを追い求めて来れた。その豊かな生活が染みついた後で、その科学技術の開発競争の限界に辿り着いてしまった。一度豊かさが当たり前で過ごして来た生活世代の多くの者が、経済成長と言う皆が分け合う所得配分が成り立たなくなったため、精神的な不定愁訴を抱える原因となってしまった。限られた所得の中で、所得を取り合う競争が格差を助長して、極端な貧富を生み出し、経済力で強圧的な人間と貧しさで生活困窮者の分別社会になってしまった。経済性だけが人間の競争の原則・道理のような意識構造が社会常識のように出来上がってしまった。昔の隣同士の関係が、今は世界に広がり、近隣諸国が隣近所の諍いの対象になってしまった。戦争がどんな悲惨な結果を導くかも知らない世代は、武力を使って相手をねじ伏せようとの思いをいとも簡単に行動に結び付けようと考える。誰かの第三の矢の如き経済成長と言う豊かさに結びつく方策は既にない。人の旨みを奪い去って利益を得る以外ないのだ。資金力で強圧的に従わせようというのが現在の日本の政治、安倍内閣の思考・方向性である。

第九条 戦争放棄と武器使用 どのように読み直してみても、武器を使用して良いと解釈できる余地はない。集団的自衛権と言う用語自体が歴史的に長く論争に使われて来たが、武器を使用して国内以外で紛争、問題を解決する余地を条文から読み取れない。国際的にどんなに状況が変わっても、日本国憲法の九条には、武器・武力を使用する解決法は許されていない。国内にミサイルが飛んで来るような場合に、撃ち落とすのは九条に決して抵触はしない。それは戦闘には当たらない。外国や、領海外で武器・武力の使用はどう条文を読んでも、九条からは許されない。戦後、武器の使用が無い事がどれだけ日本が信頼されて来たかは言い尽くせない。

基本的人権と国民たる要件(影武者『法例』支配の日本国憲法) ここで、次に基本的人権が続いている。その第三章が日本国憲法の民主主義を保障し、規定する条項である。第十条には、その基本的人権を保障する国民たる要件が法律(法律とはどの法律か?)で規定される。全てが基本的人権を保障される訳ではない。そこに『法例』がある。明治31年に制定された法律(?)である。今までその意味が理解できなかった。憲法以上に隠された秘密があるようだ。戦後に新しい日本が誕生したと言っても、日本国憲法の人権を決めるのは明治の法例である。昭和22年に改正があった事は憲法施行に伴うものだろう。その後、戸籍に関する法例改正要綱試案(1961年に婚姻の部、1972年に親子の部)があった。法例の改正に関して、昭和39年佐藤栄作内閣?、昭和61年中曽根内閣、平成元年竹下内閣法律第27号による全面改正がある。この法例は皇室典範等と同等の分類にあり、日本の法律体系の重要な基本に位置付けられている。気掛かりがある。霞が関の外務省が私に対して執った扱いは尋常ではない。平成7年7月7日の事件。外務省の5階まで、私に一人で事務次官室に行くことを何故許したのか。その時省内は薄暗く、誰ひとりとも出会わなかった。ただ一人、職員(田辺さん?)が居て対応した。他に誰もいないとは?全員どこに雲隠れしたのか?また、当日は霞が関一帯は、厳戒な警備が張り巡らされていた。法務省、自治省なども廻った。翌日は最高裁判所東門で、『国とは何か?』の文書と舞鶴鎮守府に関する訴えの文書を最高裁判所長官あてに、秘書官がおいでになったので手渡した。丁度その8月の沖縄基地の使用期限切れの裁判判断の時期である。法例とは何か?法例は『日本国憲法』を明治の亡霊が闇の中から支配している『影武者法例』である。日本の政治制度は『日本国憲法』で民主主義体制になったと考え違いをして、騙されていた事になる。昭和22年の憲法発布(5月3日)に合わせて、法例は廃止すべきであった。全てを新しい法制度にすべきであった。春・秋の叙位叙勲の褒章制度も明治の国家体制の残骸、明治の訓令がその法的根拠として、そのまま踏襲されている。今も明治の国家権力支配制度が、多くの面で日本人の精神構造を非民主的国家体制により蹂躙しているのである。法例が日本を明治的全体主義の疑似民主主義国に操っていると観る。民法・刑法が明治のままに、いつまでも変革・改正できずに旧法が最近まで、引きずられていると観る。私に対する、省内に勝手に入らせるなどと言う論外な対処は私の存在を否定したものと同じで、その外務省の対応が、日本国憲法の基本的人権保障の対象外である事を示しているとしか思えない。誰にでもそういう対応をするのなら理解でき、許せる。しかし、舞鶴鎮守府の香取丸戸籍の除籍の後の、偽装戦後処理はどう理解すれば良いのだろうか?

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安倍政権・自民党の法的暴走

首相は憲法解釈の変更に絡み、12日には「最高責任者は私だ」と発言( 2014/02/21 朝日新聞朝刊 の第1面記事)に驚いた。正に民主主義を覆す独裁政治家の名にふさわしい姿。それを許すのは、選挙投票率に表れる日本国民の政治的無関心と無責任であろう。自分もその一人であることを含めての意味で。
日本国憲法 第10章 最高法規 第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、・・ 侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。 第98条 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、・・及び国務に関するその他の行為の全部または一部は、その効力を有しない。② 日本国民が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。 第99条 天皇又は・・及び国務大臣、国会議員、裁判官・・は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。 『愛国心』の正体を尋ねて に関連記事と『日本国憲法』第10章の条文。
自民党をはじめ多くの国会議員が憲法改変を公然と表明している。第99条はこの憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。この憲法とは現在の憲法であるにも拘らず、この憲法を連合国アメリカに押し付けられた戦後の屈辱憲法であるが如くに卑屈で、敗戦前の国家全体主義に戻りたいという傲慢な意識の下での、現憲法を破壊する意思を何の躊躇いもなく表明している。これは明らかに、憲法第99条の憲法順守の法的義務違反の暴挙意識である。日本国民は、『日本憲法』の、特に第10章の最高法規の意味を読み解いていないと言わなければならない。憲法の意義を日常生活に照らして考えていない表れである。そこに日本人の政治意識の低さが隠されていると感じる。だから、このような『安倍政権』の危険な政治状況を生み出したのだと言わざるを得ない。こんな記事は日本人にどんなに不快な思いを抱かせるかと思うが、嫌われても意見を述べておかなければならない。
安倍政権の法的暴挙 その意味は憲法が規定している日本の法的規律を確認して、そこにおいて現在の安倍政権が画策している異常な精神構造下の非民主主義的本質を法的に明らかにしなければならないと考える事からの標題である。
日本政治の欠陥 三権分立と言う法的意義と日本の欠陥。日本政治の欠陥と三権非分立に記す。
上の政治的欠陥の具体的姿が表に出て来た。憲法は、第4章 国会 第41条 国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。日本の国会議員は法的には公務員でありながら、その公務員としての規定がない。国会議員の下で仕える議員秘書は「国家公務員法」第2条 ③項に一 内閣総理大臣 二 国務大臣 三 人事官及び検査官 ・・・ 十五 国会議員の秘書 等と規定されている。しかし国会議員は形式的には議員秘書を雇いその任命権者のような権力的支配権を行使していながら、国家公務員として規定されている議員秘書に対して、自分自身が法的にその公務員としての規定がない点をどのように意識しているのかとても不可思議な事である。国権の最高機関の議員が自分の身分をどのような公務員と認識しているのかを理解できない。日本の議員はその身分さえ曖昧にしたままでいる事が、その活動に都合が良いからだとは解釈できるが、それで良いのか。公務員としての規定が不要と考えるのか、そこに日本の法的問題があろう。立法公務員と言う法的規定を造りたくないからか。行政権を支配することがどれほど権力支配に都合が良いかの為に曖昧にしておきたいからか。立法権だけではうま味が得られない。行政機関の法律制定権に関わる利益が大きいのである。立法権より行政機関との二権に関わる利益。国会議員が国会で、法律を作るという基本的意識が欠落している。行政組織の肥大化と効率の悪さおよび役得行政形態の無駄温存。行政機関(自分を『国』と言う意識)の法律制定が最大の問題。三権非分立制の日本政治。その基本的問題の上に、現在の安倍内閣・安倍晋三総理大臣の法的暴挙の解釈を示したい。憲法擁護義務意識が全然ない。それは憲法第九十九条違反。その根底には、現憲法の人権規定に対して、強権的に国民を支配して、思うがままに命令する国家主義的・非民主主義的意識があると解釈する。それは憲法第三章 国民の権利及び義務 の擁護違反。今回の新聞記事で、解釈改憲『閣議決定で』が最大の具体的憲法違反を示す内容の指摘記事である。内閣は国会の法的機関の基に置いて、その法的規定に従って行政を司る事しか許容されていない。しかも憲法の規定まで、一内閣の意識で勝手に解釈改憲する事など許されていない。憲法第98条 国務に関するその他の行為・・その効力を有しない。の対象で、規定に反する憲法違反である。全く三権分立意識等微塵も感じられない安倍総理大臣である。現『日本憲法』がアメリカによって押し付けられたという敗戦の屈辱意識から来る嫌悪感に苛まれているように思える。時の内閣が勝手に『閣議決定』で、憲法規定を変更解釈できるとしたら、それは明らかに行政権の逸脱行為である。憲法第九八条違反である。

先日記事にした。 日本が危ない。酷過ぎる。安倍政権が続いたら、日本を破滅へおとしめると考えざるを得ない。NHK役員人事、靖国神社参拝、原発再稼働、憲法改変と解釈変更の歴史的見識無視、教育制度の政治権力支配化、特定秘密保護法成立の暴挙、集団的自衛権。

どれ一つをとっても、長い歴史的政治課題として決めかねる議題であった。その決められないが故の、民主主義政治の平和日本の長い歴史の足跡として国際的な評価を得て来た基本点であった。その経過を無視する内閣は独裁政治家集団と化したと言わざるを得ない。国民を危険な道におとしめる内閣だ。ミズリー号艦上での『無条件降伏』調印式の屈辱に導いた戦争政治責任者の断罪を日本国家として検証していない事が、最大の日本人の戦争戦後責任逃避である。

『愛国心』の正体を尋ねて

いよいよ『愛国心』の強要が始まった。今朝(2013/12/11)の朝日新聞に記された記事がある。しかし、その『愛国心』と言う意味が分からない。政府(この意味は?)が「国家安全保障戦略(NSS)」の中味に、国家安全保障を支える社会的基盤を強化する目的として、「国を愛する心を育む」と言う文言が記されると言う。これに対して公明党が改正(改悪と考える)教育基本法の文言「我が国と郷土を愛する態度を養う」にすることを要求しているとある。こんな当たり前の言葉を殊更に法的文面に記す必要が何処にあるのだろうか。我が国と言う言葉の中味は政治的意味合いの無い事であろう。日本の政治体制を覆すとか革命を起こすとかの意味を考えているなら、そんな危険な状況は阻止しなければならないのは当たり前である。まさか、私が唱える『電荷概念否定』の科学論まで国家反逆罪になるというのではなかろう。確かに『電荷概念否定』の科学論は現在の自然科学に革命的な変革を『自然の真理』として巻き起こすだろうとは感じる。しかし、それは平穏な言論の論理的な平和な戦いであろう。『オーム真理教』事件のような事は「公安調査庁」が十分対応できた筈の問題と考える。教育に関係した事に『愛国心』を関連付ける事がどれほど危険かは先の大戦で学習している筈である。

『愛国心』その意味が分からない。宗教における「神」と同じくどうにでも解釈できる意味不明の用語である。「神」と言っても、ある人はイエスキリストであり他の人には釈迦であったりとまちまちである。『愛国心』とは何を愛する心かと言うことが意味不明なのである。『国』を愛すると言われると、自分の生活する生活の基盤である社会や制度を理解し、自分の信じる理想を目指していれば喜んで愛する筈である。しかし先日国会を強行に通された『特定秘密保護法』などが幅を利かす社会体制を愛することなど出来ない。何処までも反対である。そんな独裁政治の行われる危険のある社会を愛する事は出来ない。

「国家」、『国』(言葉づかい)とは何か と言う記事を1999年9月に書いた。『国』と言う用語の使い方は大変曖昧な意味であると感じた事からの記事である。そこには、物理学の基礎概念に対する矛盾を感じ取り、『電荷』概念の否定と言う象徴的科学理論の根底の癌細胞に辿り着いたような事件の発端に似ているかも知れない。保守政党の『自由民主党』の政治の目標が強権的で、独裁政治の雰囲気を漂わせている事が心配である。『愛国心』と言うその意味が漠然としているからこそ危険なのである。その基には、『国』と言う用語が「日本国憲法」でも多く使われている事に留意すれば、『国』と言う意味をまず明確に認識する事から始めるべきであると考える。そこで『国』と言う意味について自分なりに定義付けをした。単に自分の用語解釈であるが皆さんはどのように認識するかが知りたいと言う意味も含めて記事にする。自分だけが間違っているのかと心配でもある。皆さんは余り気にせずに使うようだから。『国』とは?いつも思うのであるが、『国は何何を云々』と言う意味を英語等に翻訳した時、『国』と言う用語をどのような意味で訳すのだろうか。ましてや「国側」などは日本の国の中に、「国側」とそれに対抗する人達がいる事を前提にした言葉づかいではなかろうか。民主主義国家であれば、日本の国の中に権力を付託されて主権者の為に理想とする政治を取り仕切る立場の者は「内閣」はじめ行政諸機関である。それは『国』あるいは「国側」などでは決してない。それは政府機関である。この場合の政治概念で、普通は政府と言う用語で使わなければならないと考える。

大日本帝国憲法における用語 『国』は一つも使われていない。『政府』と言う用語が全部で十か所程使われている。「日本国憲法」には『政府』は前文に一ヵ所。『国』は全部で十五程使われている。日本国憲法の精神が謳われている締めの条項は 第十章 最高法規 に示されている。この第十章はすべての政府の法律(特定秘密保護法等)や内閣および政府関係者の発言が最高法規である日本国憲法に抵触しているかどうかを皆が監視し続ける事が平和を守るための義務であると考える。この憲法の基本的人権や平和希求の精神はすべての国会議員及び内閣は守らなければならない。国会議員や政府関係者が憲法改定などを発言する事は憲法が否定、禁止していると解釈する。国民の中から憲法改正の声が大きくなって、矛盾がその時代の社会制度に耐えられなくなったときに初めて国会での憲法改定に結びつくものと考える。選挙が間接的な民主主義の基本ではあるが、全ての人に自己表現する権利は憲法が保障している事であるから、大いに発言し、意見を表明する事が憲法下に生きる権利として享受すべきものである。(日本国憲法 第十章 最高法規 条項)を読んでみよう。最高法規

精神的抽象概念の『国』 外国に居て日本に思いをはせる時、『国』を思い出す等と言うのであろう。外国に一歩も出た経験がないから、本当のところは分からない。日本人なら、世界遺産にも登録された富士山等は如何にも日本の『国』の象徴的国土の姿として思い出すであろう。そんな自然豊かな日本の『国』は懐かしく敬愛の情も湧き、愛する気持ちが生まれよう。それは自然の景観を背景とした人間の醜い闘争心や醜悪さは何処にも無い純な『国』の姿である。その『国』には人権侵害やいじめの人間の醜さもない。その『国』なら誰もが愛することに異議はなかろう。

『愛国心』と言う用語に秘められた怪しさ 日常用語において、政治、法律に関する場合にはとても注意深く用心しなければならない。その代表的用語に『国』『愛国心』を指摘しておきたい。『愛国心』とは『国』を愛する心と読めるから、やはり『国』の意味を具体的に分析して読み取っておく必要がある。自分が住む地方の風景や土地の状況あるいは地域の人の人情などを故郷として、『国』と観る場合は愛するとしても何も問題はない。ところが、憲法で使われる『国』と言う用語が含み持つ意味には明確さが欠けているのである。何を指す用語と皆さんは理解していますか。『国』が国家権力を行使する政府・政府関係機関と考えるとすれば、その『国』と『愛国心』を結び合わせると大変危険な政治的状況に陥り易い事になる。日本の社会が平和で自由で、世界に貢献する民主主義社会である事を願う時、その政府あるいは国家公務員側の法制度並びに権力行使に対しては愛するかどうかは心の問題であるから、強制的にその時の政権の政治方針・理念を『愛せよ!』等と法律に規定するなど理解できない。国土や日本人の人情を愛する意味とは全く異次元の話である。嫌なら嫌と表明する権利は憲法で基本的人権として保障されているのである。法律に『愛国心』を盛り込む等は、その意味が不明確である事から許される法律用語には成らない。

「日本国憲法・基本的人権」、「海軍・戦後処理」、「父と私」と「教育・研究の意義」

今、過去を振り返る。過去に執着するようでは、もう人生も終わりだと言う。自己確認で過去と向き合いながら、既に20数年過ぎた。常に過去だけを見て来たかも知れない。未来を語るにも、その基盤が無い。自然科学の真髄を見極めながら歩いて来た。雷の正体 電流と電圧の正体 クーロンの法則を斬る 電流は流れず 光とは何かー光量子像ー 眼球の光ファイバーと色覚 日本雨蛙 等がブログで投稿した科学論や発見の主なものである。自分なりに、未来への自然科学論の道筋を示したと考えている。しかし、過去未来の自分を見つめれば、言い表せない怒りが渦巻く。日本に自分が存在できないままで終わるのか?それは日本全体の犯罪国家としてしか自分には映らない。それが第二次世界大戦(太平洋・アジア侵略戦争)に原因があると観る。自分なりにまとめてみた。これは新潟市に出向いて、法テラスで何回か訴えた内容の一部からの抜粋。海軍と戦後処理

法律も知らないで、ただ無為に人生を生きて来たようだ。日本国憲法の対象国民から排除されていると同等の状況など知る由もない。『時効』などの問題では済まないと思う。役に立てない意味は、まさか排除した人間の「教育・研究」などを公教育に使う訳には行くまい。残念である。