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戦後75年間の不可解?

わが身に起きた愚かさの思いと戦争と政治の現実を伝えたくて。行政とは何か?

人権と政治行政の関係。人が人として平等に生きる社会でありたい。行政が人の個人としての情報をどのように取り扱っているかを教えることが民主主義の教育の基本の筈である。三権の意味や日常の生活で誰もが意識して居なければならないことがある筈。戸籍の意味。住所届の必要性と意味。労働契約の意味。知らないでは済まないことをすべて教える義務が教育機関・行政に課されている筈だ。それが民主主義と言う社会制度における義務教育に課された役割である。隠して、不平等は許されない事だ。筆者のような無知による愚かさを生きないで済むように。

日本国憲法。労働基準法。教育公務員特例法。その法律の存在する意義は何か?人権とは?

今から56年前の昭和39年6月16日。新潟地震が発生した。その時、新潟県立新津工業高等学校の電気科実習室に居た。遠く蒲原平野の先には新潟コンビナートの石油基地がある。その燃える黒い煙が遠くに見渡せる場所だ。揺れる中で、危険も顧みず大きなボール盤を倒れないように抑えていたことを思い出す。帰りは列車もなく、兎に角帰ろうと徒歩で帰途に就いた。途中でバスに乗ることが出来、乗り継ぎながら長岡までたどり着いた。その年の春4月から、そこで教育と研究の仕事で16年間過ごした。今日こんな写真を見つけた。忘れていた。昭和39(1964)年の7月とある。秋には東京オリンピックが10月10日開会式での祭典があり、その初年度に参加していた。申し訳なくも最前列で写って居た。主催:全国工業高等学校長協会。後援:島田理化工業(株)、三菱電機(株)。90名ほどの参加者。

しかし、新潟県教育委員会と言う教員の採用機関に採用されていなかった。教員は『公立学校共済組合』に登録して、正式な教員と認定され、正規の処遇が成されるようだ。愚かにも筆者は新潟県教育委員会での採用事務説明を受けたことも、その採用に関わる諸手続きをしたことも無かった。新潟県教育委員会に出向くことが全くなかった。しかし、愚かにも少しも採用されていないなどとは気付かなかった。

不可解と疑いの関係事項

1.学級担任。

2年目(1965)4月から、学級担任を任された。電気科2年生、翌年続いて同3年生で卒業させた。その年(1965)の夏休み中には、教育委員会の指導課からの要請で工業科教員の研修講習会に参加した。茨城県の日立製作所の各工場、最後は本社研究棟で1週間程の研修を受けた。各県からの指導的中堅(筆者を除き)の参加教員での構成(7人程)であった。

続いて4年目(1967) から再び2年間、電気科2年生、同3年生の担任をした。そして卒業させた。4年続けて学級担任をした。その訳は何故か?昭和50年度も電気科2年生、翌年3年生と続けての学級担任。アルバイトでの学級担任とは子供達に対して許されない筈だ。

2.半年間の内地留学

昭和44年(1969)、丁度大学紛争で荒れていた頃であったが、希望して東京工業大学の電気工学科の研究室に内地留学をさせて頂いた。秋の10月1日から翌年3月31日までの6月間であった。確かに今になって考えれば、その内地留学申請書を正式に提出した覚えがない。その時は高野校長であった。どの様な手続きであったか不明だ。それ程世間知らずで居たかとお恥かしい。その内地留学で、最新の研究室の魅力を経験し、パワーエレクトロニクスの技術の高さとその魅力に取りつかれた。学校に戻ってからは、実験室に閉じ籠り、新しい半導体制御技術を生徒実習に取り入れようと実験装置作りと自己研修に深入りした。電力用半導体制御回路、ワードレオナード等を生徒実習に取り入れる等は指導要領の逸脱であったかも知れないが、全国的にもおそらく無かっただろう。電動機の始動法などには意義が見えなかったから。

最大の不可解

3.新潟県教育委員会の任命状および委嘱状。「知事部局」からの手紙。

昭和53(1978年)母が亡くなり、長岡市役所で何かの手続きをしていた。急に呼び出しの管内放送が掛かった。電話だと言うので出ると、新津工業高校の八子校長であった。内容は⦅県からの引き受けて欲しいという話がある。承知した方が良いが、どうするか?⦆と言われた。「分かりました」と答えた。今は、その事の意味が悪意に満ちた「策略」以外に何も思えない。新潟県教育委員会に採用されていない、全く新潟県教育委員会には教員としての管理台帳もない筈だから。

それは昭和53(1978)年4月28日。任命状 発令者は新潟県教育委員会教育長。

 

 

 

 

 

 

 

この、工業「電気工学1」の専門調査員に任命する。㊙の文書である。筆者は「電気工学1」(電気理論)の授業担当をしたこともなく、専ら電力系(電気機器、発変電、送配電など)の授業しかしていない。この指定の日に参加したことは確かである。しかしその一度きりで、内容は3回とあるが他に調査の会合への連絡もなかった。その担当の代表者は長岡工業高等学校の柳町教諭であった。何の意味の㊙任命状か?これが教育を担う教育委員会の事務責任者、行政職の教育長の発令とは如何なものか?教育委員長ではないところに『教育の政治からの中立性』が懸念される。

 

翌昭和54(1979)年6月にはまた委嘱状が来た。

この委嘱の意味は、その年の7月16日から7月21日までの 昭和54年度産業教育指導者養成講座(工業科)ー文部省主催の東京工業大学での養成講座ーでの講座参加の意味であったのか?

 

 

 

 

実はその後に、とんでもないことがあった。夏休みに入ってから、突然自宅に「新潟県知事部局」から極秘の書面が届いた。しかしそれは結局新潟県教育委員会が取り仕切る『県外先進校の視察業務』であった。昭和54(1979)年8月6日~8日の2泊3日の工業科指導主事の指定の高等学校訪問であった。昭和57年度から新しい教育カリキュラムが実施されることになっていた。工業科の教科内容が大幅に変更され、学習能力の或る意味での対策でもあったのかとは思う。当時長岡技術科学大学が開学され、そこで少し研修を受けていた。

その昭和54(1979)年の12月初めに、川上学長の面接を学長室で受けた。「割愛人事」だと言われた。しかしその意味も知らなかった。その後いろいろ不可解な事があったが、翌(1980)年3月7日に、長岡技術科学大学で『宣誓式』があり、行った。電気系の二人の先生と3人一緒であった。その日は工業高校の卒業式であったが、教頭に連絡して欠席した。3月末に教員移動が新聞に掲載される。自分の名前も隅に、「退職」?とあった。新潟県教育委員会の発表として。正式登録も無い者を社会的に体裁を取り繕った行政手法としか思えない。筆者の採用を管理していない訳だから。

その後の長岡技術科学大学での処遇はどう考えても闇の中での取り扱いであった。正規の事務的手続きは全く執り行われていなかったようだ。『文部省共済組合』への登録手続きもしていない。だから教員とは見做されていなかった筈だ。大学に入る時も、去ってからも一切事務手続きに関わったことが無い。それを人権侵害と言わずに何と言えるか。

自己反省。何でここまで愚かな人生を歩いて来たかと呆れるだけだ。すべてが暗闇の中を過ごしてきた。一人の人間としての取り扱いをされていなかったように思う。意味の分からない事ばかりに最近になって初めて気づくのだ。電気学会に加入していなかったように思う。会費を納めていなかったから。新潟県長岡市学校町に古家を購入して住んだ。

以下については、不動産屋が処理していたようだ。当時の話を後で何故かと思ったことがある。原戸籍や除籍簿を要求された。今ならその訳が分かる。

しかし、その不動産登記(?)もなく不動産取得税も請求された覚えがいなかった。銀行通帳が無かったから、銀行の借入金も通帳に記録がない筈だし、給与の振込もないし、記憶にない。全く不可解だ?

新潟県教育委員会(新潟県知事)にお尋ねしている。

先般、正式の教員として採用していない。新津工業高等学校での非正規アルバイトのような仕事であろう。公立学校共済組合員の登録はない。と教えられた。

確かに給与の振込銀行口座も無かった。昭和55年の給料明細書に、共済短期掛金:9110円。共済長期掛金:12908円。は何処に収めたのか?さらに電気科主任手当てが支給されていた。しかし振込先は労働金庫本店口座である。しかも昭和55年4月分として5360円の振込がある事になっている。既に存在しない職務に支払われたのか?何故私の銀行口座が無かったのか?すべて印鑑を押して、手取り額の支払いを受け取っていた。考えれば、内地留学中の給与は受け取っていなかったのかと理解できない?

公立学校共済組合にも登録されていない者が、新潟県の産業教育指導者養成講座への参加要員として選定されるのか?新潟県教育委員会には筆者の教員としての管理台帳もない筈だ。しかも文部省主催の講座である。文部省が正規の教員でないこと位知っていた筈である。上のことについて回答を待っている。

それから、僅か6年後の昭和60(1985)年3月長岡技術科学大学から長岡工業高等専門学校へ邪魔者排除の対策が採られた。其れが中曽根臨時教育審議会である。文部省はすべて承知の上で(舞鶴鎮守府戸籍転籍)の社会的に抹殺する仕組みを執ったとしか思えない。政治には全く無関心のノンポリであったが、その後の数年間で経験した理解できない社会的不条理に身の危険を感じ取り、止む無く昭和63(1988)年身を隠さざるを得なかった。理解しかねる身に降りかかった「不可解な出来事」の意味を解くための長い暗夜行路の旅であった。振り返れば新潟地震のあの災いが56年間の闇の始まりであった。

舞鶴鎮守府と義務教育。

昭和20(1945)年4月、京都府舞鶴市の舞鶴国民学校に新1年生として入学した。8月15日の終戦を迎えた。その後故郷には昭和24年4月まで『戸籍』が無かった。恐らく新潟県中魚沼郡貝野村立貝野小学校には転校手続きもなく、中学を卒業するまで、義務教育の履歴が日本政府機関には無いと思われる。

舞鶴鎮守府の軍の公舎で、その館に入った処の右側に大きな「鯉の滝登り」の絵図が掛けられていたのを覚えている。その館の前広場に、戦闘機か小型の飛行機が据えられてあった。父ともう一人の軍人が飛行機に乗せてくれた。精々2人乗り程度の座席であった。

昭和14年(1939)12月1日。舞鶴鎮守府へ戸籍転籍 貝野村役場 村長。  昭和16(1941)年 9月2日。充員召集 舞鶴鎮守府。   昭和16年12月19日。香取丸へ戸籍移動 香取丸。   昭和20年(1945)9月1日。海軍上等兵曹。(以上、父の軍歴票)。

昭和19年2月7日。香取丸被弾沈没。   同年3月31日。香取丸船籍除籍。

昭和20年4月。舞鶴国民学校へ新1年入学。  昭和20年8月15日終戦。終戦時の住所:京都府舞鶴市字溝尻 海軍住宅。即刻、父(戦後の後片付けがある)を残して汽車を乗り継ぎ故郷に帰る。

昭和20年8月28日。厚木基地にマッカーサー司令官着く。   昭和20年9月2日。ミズリー号甲板で日本代表団、無条件降伏調印式。

昭和22年5月3日。日本国憲法発布。   昭和23年1月1日。民法(戸籍法)改正。

昭和24年4月・・日。父母の子供(三女)の出生届により戸籍編成と戸籍事項。昭和14年からの舞鶴鎮守府の関連期間が記載なしの不明のままだ。

今ようやく専門家(?)として、電気現象の意味を自然界の中の深い『エネルギー』の仕組みとして捉えるところに到達した。しかし、日本社会の中で、得た認識をどう生かせるのかとその社会的活躍の場が見当たらない。余りに己の愚かさを日本社会で弄ばれている様だから。日本が法治国家なのかと理解できない!

ハミルトンの風車からエネルギーを観る

はじめに (またの文末の自分の恥さらしで御免なさい。憲法と市民権など全くの無知であった。権力と市民権の関係の教育を受けた記憶も無い)。ハミルトンの風車はブログの最初の科学の記事で、放電現象と電荷・電流概念(2010/08/02)にある。何故ハミルトンの風車を取上げるかには理由がある。新世界ー科学の要ーで示した静電界のエネルギー流についての解釈を早合点したようだ。訂正しなければならないと思ったからである(2017/11/07追記・修正した)。それはコイルとコンデンサの磁気ループについても訂正になる。

ハミルトンの風車

極性とエネルギー流 ハミルトンの風車を検索すると、その回転現象の解説にはイオン風と言う電荷が原因となった説明が成されている。マイナスの3万ボルト程で大きな卍型の針金が相当の速度で勢いよく回転する。しかもプラス側の電極が無いのに、マイナスを印加するだけで良く回転する。昭和40年頃の高等学校での公開実験での強い印象が残っている。1.6mmΦの屋内配線用銅線で構成した直径30,40cm風車実験結果が思い掛けずも成功したのも不思議であった。何も傍にプラス電極が無い、空間に置かれたマイナス電極の風車である。針金の先端からジーと音を立てて噴射しながら回転する。ただし、印加電圧が正極性の時はそれ程強い回転力は得られない。明らかに極性によって異なる電気現象であることははっきりしている。放電管内の流れがマイナス電極側からしか流れない事も良く分かっている事だ。その流れを陰極線と名付けたのだ。その流れる実体を『電子』と呼んで解釈するのが現代物理学理論の根幹である。『電荷と質量』を備えた素粒子が『電子』である。その電荷と質量の空間的描像も明らかに説明できないにも拘らず、『電子』と言う素粒子(レプトン)が実在し得るとの前提で構築された電磁界理論である。その電子と言う『電荷』概念への疑問を抱いたのが電磁界の新世界に踏み込む事になった原点である。ハミルトンの風車の回転現象を電子とイオンで解説されているのが常識論である。結局、電子もイオンも『電荷』と言う実在しない物理量概念で、見えないが故に、簡便な解釈で伝統的に積み重ねてきた理論体系の基礎概念となって、社会的な常識論の根幹となって来たという事であろう。今唱えたい事は電子やイオンに替わって、それに対応する『エネルギー』一つで統一的に解釈すべき基礎理論が求められていると言う結論になる。

針電極 針電極のような金属の先端を尖らせて、負の高電圧を掛けるとコロナを噴射する。それは導線に沿ってエネルギーが針先端から空間に噴射されるからと解釈する。導線周辺にコンパスを近付ければ導線を周回する向きに磁気ループが存在するだろう。それは電流で解釈すれば、それが先端部から流れ込む向きと同じ方向ではある。このエネルギー流の解釈は、電子・電流の解釈との明確な違いを説明するだけの根拠を示せないのが残念ではある。残念であるというより、目に見えないものを科学技術で自然現象を利用するように概念化して来た多くの先人の業績を讃えるべきであろう。然しながら、自然の真底に横たわる眞髄は科学技術概念の奥に隠れているのだ。それはを認識するのは各人の自然科学的感性に委ねられていると言えよう。

平板コンデンサ内のエネルギー流 そのエネルギー流での解釈は、平板コンデンサ内へのエネルギー貯蔵をどう捉えるかに、その有意性があろう。『電荷』貯蔵に因る解釈よりも矛盾は少ないだろうから。コンデンサ内でのエネルギー消費は殆ど無かろう。従って、エネルギー流は平板コンデンサ内で何らかの回転流として貯蔵されるだろうと考える。二枚の電極板に対して、エネルギー流がどのようであるか、上下二つの流れであるか、一つの流れであるかは見えないものを解釈する訳で、そこに悩ましい決断が求められる。新世界ー科学の要ーで示した解釈は二つのエネルギー流で決断した。それは下部電極表面での磁界の方向が決まるエネルギー流を上部と同じ電極表面に沿って流れ込むと解釈したからであるが、その点が少し早合点であったと反省している。それは新世界への扉ーコンデンサの磁界ーで示したように、下部電極表面でのコンパスの指示方向が電極表面に流れるエネルギー流との合成流に因ると解釈したことに因った。コンパスの磁気の意味をそのエネルギー流が原因と解釈する捉え方そのものが新しい科学的世界観でもあり、その事との関係で迷いがあったと反省している。今回上に示した図の平板間の一つのエネルギー流で解釈する方がコンデンサ内でのエネルギー貯蔵の姿としては共感し易いと言う感覚的な意味合いをも含んで決めた。誠に科学実験による検証方法という手法が採れずの感覚論で誠に不甲斐なさも抱かざるを得ないと同時に、混乱を与えたらと申し訳ないと思う。コンデンサ内のエネルギー貯蔵で、二つの流れは不自然であろうと感じるからである。以上の考えから、結論を図のようなエネルギー流で捉えた。この平板電極内の空間とその外部との関係は明確な描像を描くことはできない。コンデンサ貯蔵エネルギーが完全に電源との繋がりがなく、独立したエネルギー流になるかと考えれば、それは無いだろうと思う。その曖昧なまま表現した図である。負極性の場合で示したが、エネルギー流は電源の負側からの供給が主流になるとの解釈をハミルトンの風車から類推したことで、正極の電極板に対して少し反発する流れになるかと考えざるを得ない。それがその電極近傍でのコンパスの指示方向の原因となる貯蔵エネルギー流とコンパスのエネルギー流との兼ね合いの問題であるから。基本的にはそのエネルギー流がコンパスの指示方向・磁気ループの解釈の拠り所と考えざるを得ない点にある。

アーク・火花放電 高電圧工学と言う分野がある。それは電力系統の保全対策として、送電線路への落雷に対する対策や、支持絶縁碍子の性能向上に欠かせない研究分野である。その電気的特性は高電圧試験によって基礎研究が成される。平板電極間でのアーク放電現象はその基本観測である。電界強度の空気限界は大よそ30kV/cm位と考えられている。それ以上の電界で火花放電し、絶縁は破壊される。その火花放電現象の原因は電極間に塵などが入り込めば、その局部的エネルギー密度が高くなり、局部のコロナが全体としての放電に移行してしまうだろうと考えられる。その辺の現象を電極板の『電荷』で解釈しようとしてもなかなか難しいと思う。丁度、雷が空間の状況と水蒸気の熱エネルギーの供給・放出との兼ね合いで決まる事から思えば、電気現象も『電荷』では捉え切れない謎が多いだろうと思う。

『電荷概念の否定』の観点 伝統的科学理論が常識として世界に受け入れられてきた。正と負の対称な二つの『電荷』が世界の根源を支えていて、その『電荷』無しには科学理論を論じられない事になっている。伝統的科学の世界観で共通理解に在る社会的安定性の観点から観れば、『電荷』否定の反社会的科学論は誠に迷惑な事ではあろうと理解はしている。2000年にワープロ代わりにパソコンを購入した。雨蛙や日本カナヘビ、揚羽蝶など身近なものを眺めて、生活の術もなくただ漫然と流されて来た。科学研究の機関に所属する事も不可能な人生の状況に追い込まれた。今過去を知って見れば、職歴も書けない現実が身に染みている。退職の手続き一つした覚えが無い現実。翻弄され続けている身には日本国憲法(特に、第98条1項 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部または一部は、その効力を有しない。とあるが、その条項は何の為のものか理解できない。)が欲しい。まさか昭和14年12月1日や昭和39年4月1日に戻る訳にもいかないし、どうしたら良かろうか?平成7年7月(11月の間違い?)には、国会で事務局職員にわざわざ筆者の正面写真までお撮りいただいたので、不審者リストにでも御登録されているかも知れない。身分が不明のまま捨て置かれているかと疑いたくもなる。昭和63年2月にも国会で物議の基になったかもしれないが。当の本人筆者は何も知り得ないまま今日に至る(*1)人定証人喚問。しかし正規でなくても幾らかの現場での経験から、身に付いた電気工学の技術感覚から物理学基礎概念の意味が腑に落ちず、光の伝播現象と物理学基礎概念の実相を我儘勝手な解釈で追い求めてきた。今思う、『電荷』概念否定の感覚に間違いは無かったとそれだけは安堵した。種々雑多な内容をITの世界に恥ずかしげもなく、恐ろしさも知らず綴って来た。パソコンでの情報発信で、学会での正規の学術研究には成らないかもしれないが、専門的学術に無関係の方々にも科学の基礎とは何かと考える意味は伝えられたと感じる。どれも特別科学研究となる様な新しい事でもなく、日常生活で感じる科学感覚が基での考えを発表して来た。しかし、『電荷』否定一つが、科学理論と自然科学の解釈論に未来への課題として無視できない処に在ることだけは示せたように思う。未来に向けた、子供たちへの教育の問題として。

(*1) 人定証人喚問:昭和63年1月中頃、自宅に何処からか『長岡工業高等専門学校の健康保険証』が送付されて来た。長岡技術科学大学の電気系事務室で電気系長にこんなものが送られて来たと見せた。そんなものを持って居てはいけないと取り上げられた。その後、その保険証がどのように処理されたかを確認していない。その数日後、長岡工業高等専門学校の事務職員がやはり自宅に「未だお返し頂いてない保険証をお返しください」と封書が届けられた。身に余る不可解に対処し切れずに、無知を曝して今日まで彷徨って来た。今も不届きなへリコプターが飛んでいる。畏れ多くも国会で不届き者と人定喚問でもして、我が身の悪行の所業を解明して頂かないと死に行く人生に辻褄が付きそうもないと考えている処でございます。(2018/10/12)追記。誠にお恥ずかしい次第であります。『静電界は磁界を伴う』電気学会全国大会(1982)の発表から、脱藩したと観られる 瞬時電磁界理論の実験的検証とその意義 電気学会電磁界研究会資料 EMT-88-145 (1988) の発表まで、すべてロゴスキー電極間の静電界中の磁界模様の実験写真である。電場が磁場であることの証明写真である。電気磁気学の電荷概念を否定しなければ、この写真は嘘になる。世界の構成根源要素は『エネルギー』一つに集約される筈と、ハミルトンの風車の実験(1965年頃実施)に結びついた。

美空ひばりと臨教審の以下余白

(2020/02/10)追記。小面を打つ

響けよと 打つ小面にその丈を 込めても高が 鑿の画数 空道

昭和から平成に変った年に、やり場のない思いを能のお面『小面』を彫りながら、高が27画のノミ程度と。出来上がったお面は柱に掛けていたが、それも今はない。今も思い出す。昭和63年1月の大学入試の時、何故か監督の出番がなく、待機組になっていた。終了後、菅野学長が機械系の教授と話していた。『これで終わったね』と。どうも自分に関係ありそうな二人の素振りに思えた。全く意味が分からず、只流されるより「道」はなかった。仰る通り、その年の年末には自分の居場所はなかったのだと考え、新たな『道』はないかと旅に出た。小面を刻みながら老子と『空』から『空道』の雅号を付けて過ごした。既に32年が過ぎた。空間ベクトルと回転軸 (2017/09/07) の記事の隣の記事がここに在ったので読み返した。もちろん舞鶴鎮守府のことなど知る由もない。当時の学校町で、狭い前の道に自動車をはみ出し、すべてに反抗して迷惑を掛けながら過ごした。テレビ画面の片隅に新潟NHKの番組で、三角状の青い不気味な符号に踊らされ、郵便ポストに新聞のチラシを投げ込んだり、何かに誘導されてきたようだ。自動車も勝手に警察が処分したようだが持ち主の本人は知らない。あれから30何年過ぎたか。『静電界は磁界を伴う』の実験的科学研究論の物理的意義は十分解釈できたと思う。学術研究の機関に居てはおそらく無理であった筈だ。すべては、宮入先生にお逢いし、研究室で教えて頂いたことが、特に「磁束は電圧時間積分」の解釈からアンペアの法則への疑問につながり、ここまでの道のりを歩いてこれたと感謝です。

実は、小面を打つ」は今年の正月、お世話になりながら失念していた、横山蒼鳳先生を思い出して当時を振り返ることになって詠んだ。長岡駅前での書道教室に、参加させていただき教えを頂いた。本棚に先生の著書「越後・笹神 五頭に抱かれて」を見つけた。中に赤い「振込通知票」が挟まっていた(ご迷惑をお掛けしたことお詫び申し上げます)。著書は平成4(1994)年7月発行とある。記事の中に、平成元年2月13日午後7時10分。七時のNHKニュースが「リクルートの江副逮捕」を・・。とある。そのニュースのことを知らなかった。きっと小面を刻んでいたかもしれない。『長命は 最高の芸術だ』の御筆墨が載っている。添え書きに元県議会議長 角谷久次さんの好んで・・。とある。本当にその通りと思いながら、感謝。思えば平成4年7月の中頃、小出の閉鎖病棟から退出して、娑婆に戻ってきた。戻ってきたが、さて何を目当てに生きればと、様々な経験を積んだ。店の裏方で、天ぷら揚げや巻きずし巻きなど思い出せば、無礼も多かったろうが楽しかった?平成5年5月末には舞鶴鎮守府の旧い講堂を案内しても貰った。その1月下旬には、失礼ながら宮澤内閣に『辞表』を送付させて頂いた。NHKのニュースで宮澤内閣総理大臣と河野官房長官が困惑している様子らしき映像が有った。自筆の「風来坊」の額を掛け乍ら汚泥処理に励んでも見た。飛んでもないお恥かしき仕儀を重ねて、長生きをしてきた。30年以上にわたって、多くの方々に陰から御支援いただきながら、浦島退屈の介よろしくご支援にお応えできずに過ごしてしまった。これからは「無法松」の振る舞いは何とか無いように心がけたく存じますが。今「視界と光の科学」をと考えながら、少し御遠慮しようか思案。以上振り返って追記。

異常な日本の30年を過ごして。

『愛燦々』 テレビの歌謡番組を観るようになったのは昭和が終わり、平成になってからであった様に思う。後から振り返って、あの歌が自分と関係が有りそうだと気付く。特に美空ひばりが歌った歌を何十年もたってから、その歌詞に込められた意味に気付く。始まりは、『愛燦々』昭和61年(1986)秋のようだ。長岡工業高等専門学校で、殺害から逃れる秘策(観世の文言札)で生命を守りながら、『静電界は磁界を伴う』の実験に挑戦していた頃かもしれない。その年の春、久しぶりに電気学会春の全国大会で、561  瞬時ベクトル空間モデルと空間瞬時アドミタンス を発表した。しかし発表者名は自分一人だった。共同研究者名を書くようなゆとりも、長岡技科大との行き来もなく当然他に居なかったと解釈していた。しかも内容が電気磁気学の偏微分式での変梃りんな内容であった事もあり、他に賛同は得れれないだろうと。ただ、その具体的なかたちでまとめたのが文献(1)である。その研究会資料は相当なストレスと緊張の中でまとめたものでありながら、良く出来たと満足できる。電力系統の瞬時監視機能として有用な手法と思った。この資料も一つの評価を得て、ひばりの『愛燦々』の意味となったかと勝手に解釈している。またその昭和61年(1986)4月、電気学会論文誌Bに文献(2)が掲載された。半導体電力変換器の基本動作解析を論じた。その解析手法には自分らしい特徴があったと思う。少し世間が騒がしくなり始めたのがその頃であったのかと、相当年数がたって歌謡番組を観ながら感じ始めた。

『みだれ髪』 この詩は昭和62年(1987)秋の頃を歌ったものと思う。昭和62年春殺害の危険から逃れて、やっと約束の長岡技術科学大学に戻った。しかしそれも独り善がりの世間常識から外れた仕儀であった事を愚かにも何十年も経って初めて気付いた。その『みだれ髪』の意味は今でも分からない。昭和62年春には良かったが、秋にはどうにも成らない結末となってしまった。春3月高専の校長に4月からの転勤について確認した。大学から『割愛』の話が有る。『割愛』の意味も昭和54年(1979)秋と二度目の事だから、結果がどう出るか自分が決める事ではないと予定通りの行動しか取れないと覚悟していた。だから高専の校長の言う事を聞く意思もなかった。3月31日『保険証』を会計課に返して二度と戻らないと4月2日の東北大学での電気学会の発表に向けて高専を去った。『保険証』が身分証明書などと言う事も聞いたことがなかったから知らない無知であった。発表内容は『静電界は磁界を伴う』と言う『電荷』否定の発表であるから、そんなトンデモナイ内容が世間で通用する筈はなかった。科学理論の根幹を否定する内容だから。前の年の電力技術解析理論の話とまるで180度方向転換した内容であれば、世間も相当戸惑っただろうとは推測できる。とんでもない仕儀となり御免なさいでした。一体春丁度良かった帯の長さも秋には余ると。春どう行動すれば良かったのか今でも理解できない。4月自宅に高専の校長から手紙で教官会議に出席するようにと言う要請が有った。それは『転勤』していないと言う意味であったかどうかも分からない。筆者には意味の分からないいろいろの仕掛けが無知の自分に仕掛けられたが、常識知らずには対応しようがなかった。相談する者も一人も居ない。ましてや家族が知る訳もないから相談もできない。自分の立場を説明するべき意味を筆者自身が知らない訳だから。能力なしの『助手』と見られているから。今日現在も、パソコンに向かえば、それを見て何と無駄な人生をと非難されるが、そう思われるのも当たり前と自分で思う。家族に説明できる何の実績も示せずに今日が在るから。昭和62年春に長岡技術科学大学の学長選挙が有った。新聞でも取り上げられた社会的教育問題に成ったようだが、自分に関係しているとは全く理解できなかった。薄々感じたのは、8月に成って、電気学会の秋の『電磁界研究会』への論文を書いている時、なかなか捗らずに提出が遅くなり、9月1日以降の受け付けに成ってしまって、何か急ぐような雰囲気を感じた頃からとても気になりだした。斎藤 進六 学長に迷惑を掛けてしまったのだろうと遣る瀬無さと申し訳なさが残る。電力工学と電磁界理論では研究の畑が違う。転勤もしていなくて、研究分野も変われば、世間でも対応できなかった訳であろうと今は分かる。それが全て『みだれ髪』の意味なのかと。義理のじいちゃんが大学近くの病院へ入院していたので、家族に頼まれ毎日洗濯ものを交換に行く。筆者も家族も無知の中世間の常識に対応出来る術は無かった。病院近くで大学事務局の人がいつも周りについて監視していたようだった。みんなみだれ髪の基だったかもしれない。御免なさい。

『川の流れのように』作詞 秋元康 作曲 見岳章 唄 美空ひばり 1989年(昭和64年、平成元年)1月に歌われた。美空ひばり最晩年の歌だ。既に大学には居場所も無く、己の人生の意味を考える手立てもない中で、謳われた彷徨う自分に向けた歌であったかとも思う。『故郷』にどんな意味が有るかも知らず、二葉百合子さんの『岸壁の母』と繋がる故郷には『舞鶴鎮守府』の父の軍歴が有った。“知らず知らず 歩いて来た 細く長いこの道 振り返れば 遥か遠く 故郷が見える でこぼこ道や 曲がりくねった道 地図さえない それもまた 人生 ああ 川の流れのように ・・” 正にこの歌詞の通り、何も知らずに歩いて来た自分の人生のように聞こえた。今は電気磁気学と電力系統の電気現象を『光』によって統一的に解釈する感覚的な納得を得た。それは過去の電磁界理論とその概念を全く新しい姿で解釈し直さなければならないところに来てしまった事でもある。ただ、電気工学は技術用語で理解できるが、物理学での『電流』や『電荷』が自然界の真理と言うのは頂けない。その辺の混乱を如何に解決するか。

本人は何も知らない 情報化社会と人心操縦の社会問題。世間の動きを筆者は知らない。後から何かあったのかと何となく気付くだけである。本人には知らせず世間が知っているこの不可解な気味悪さが『人権侵害』である。何十年も続く不気味さの中を過ごして来た。近所の小さな消防車が朝の8時前に鐘を鳴らして通り過ぎる日があった。その鐘が鳴る日は悪い日らしい。やっと最近は鳴らなくなった。意味が分からないがどこの誰の指示で鳴らしていたのか、不可解な不気味さであった。昭和63年(1988)以降、初めて経験した事件がある。長岡技術科学大学から、所属身分の無い身を悟り、精神的な過負荷に耐えられず離れた。居場所も無く、長岡市内の釜風呂温泉方面の道の自動販売機で飲み物を飲もうと100円を投入した。途端に自動販売機が電源遮断された。その事件から情報操作が始ったように思う。同じ事がもう一回あった。長野県に新潟県津南町を通って夜辿り着いた。道路脇の自動販売機で、100円硬貨を投入した。途端にそれまで点灯していた街燈も消え町中が停電になった。行き先の無いまま自動車を運転すると、「廻って 廻って 廻れ~・・」と言うラジオの歌で操作される。きっと社会的に処理に困る人間に取る情報社会の手段が存在するのか。現在にも残っている事は飛行機の爆音や飛行機雲の『×印』やヘリコプターの轟音がある。変な『花火』も有る。すべて誰が指示しているかも不明で、執られる不快な人権侵害の所業だ。

中曽根臨教審と人事事件 昭和62年(1987)年末、長岡高専で人事の事件が有ったか?具体的には知らない。昭和63年(1988)正月、春の学会発表の論文を書いている時、突然鼻から異様な鼻汁が出る。早速病院で診察を受け、(鼻空上顎洞炎と歯科で診断され、治療して頂いた)回復。病院で待っている時、周りに高専の先生らしき者が数人いて話しかけて来た。自分に関係する事が事件に成っているらしい事を後から感じ取れるが、それが何かも知り得ず、本人が無視されたまま『何か』が決められていたようだ。本人が知らずにいるその意味を世間は知っていて、いろいろ仕掛け話をして来たのだろう。大学の保険証を使っていた。1月中頃に自宅に高専から『保険証』が送付されて来た。高専では大学に転勤したと言われ、高専から自宅に『保険証』が送付される不可解。昭和60年7月1日履歴が『以下余白』となっている事も2015年(平成27年)1月に初めて知った。高専の事務局に行って尋ねた。後で調べて連絡すると言われたが、後日電話で「少し待って・・(?)」と言われたきりで何もない。何も本人が知らないで、世間が騒ぐ人権侵害。昭和14年(1939)12月1日舞鶴鎮守府への戸籍転籍が存在を無視した諸行無常の30年に亘る人権侵害の意味か。

以下余白の不可解 昭和60年(1985)4月1日 長岡工業高等専門学校 電気工学科講師(校長)。昭和60年(1985)7月1日 同助教授(松永 光 文部大臣)。同日付 以下余白(高橋校長)。昭和60年7月1日から履歴が無しと読める。翌61年(1986)4月の辞令もなく、以降は履歴が消えている。だから4月以降の殺人専門学校の意味が読み取れる。生きていては困る訳だ。様々な工作があり、昭和61年(1986)の電気工学科の雰囲気が異様な空気になった。学科事務室が殆ど使われない幽霊室に思えた。昭和63年(1988)8月1日長岡技術科学大学の身分喪失の意味か、銀行通帳口座が無効になる。昭和39年(1964)4月1日新潟県教育委員会での辞令交付もなかった。

文献

(1) 空間瞬時ベクトル解析と交直変換器への適用 電気学会電力技術研究会資料 PE-86-39  (1986)

(2) 電圧型PWM変換器を用いた瞬時無効電力補償装置の動作解析と設計法 電学論B.106,p.323 (昭61-4)

放電現象と電荷・電流概念

(2012/03/13) ここに記した内容が『電流は流れず』の記事の説明に良く纏められていると、読み返して思う。後程、図を拡大し直す。

 物理学基礎概念に『電荷』がある。電磁界現象に関する論述には、その基礎論の論拠になるのが電荷である。電荷概念なしに理論の構築は不可能である。しかし、電子の負電荷が実在するかと問えば、その実在性を証明する事は不可能である。 図1.は高真空の放電管である。放電管のプラス、マイナス端子に高電圧を掛けると、1の陰極から電子が放出され、2の十字形の+電極の近傍を通過した電子が放電管の蛍光面3に十字形の跡を浮き上がらせる。この実験を通して、何かが1から3に放射されている事は確認できる。それを「陰極線」と言うことから、現在は「電子」と言うようになった。しかし電子と呼ぶのは結構であるが、電子が「負電荷」と言うものを持っているという解釈、概念は、何故かという問いに答えられない。その説得する論理性は持ち得ていない。陰極からエネルギーが放射されて、蛍光面にそのエネルギーの衝突で光に変換されたと解釈するなら、矛盾は無い。しかし、負の電荷をその電子の具象概念と解釈するとすれば、何故2の十字電極に吸収されずに、まっすぐ3の蛍光面に十字の影を作るか。また、電荷概念の力に関する基本法則はクーロンの法則である。近づけば逆二乗に反比例した強力な反発力で反発分散せざるを得なくなる筈である。しかし、この放電管の放電体の電子には、負電荷同士の反発力など何処にも確認するだけの根拠が見えない。自由に電子ビームは収束・分散の制御ができると言うことは、電子同士に電荷概念に基づく反発力など存在しないと見ざるを得ない。ブラウン管式テレビでも、電子顕微鏡でも、誠に巧妙に電子ビーム制御が行われる。

 図2.のガイスラー放電管の内部放電現象も中々複雑な模様を作り出している。この縞模様も単に電子が通過する事によって、出来る模様だと説明するだけの根拠がある訳ではないと考える。

 図3.のハミルトンの風車について考えてみよう。私が新潟県立新津工業高等学校での最初の学校公開祭で、高電圧の実習装置の公開実験に選んで行ったのがハミルトンの風車であった。卍形の電気銅線で直径40センチ程の大きなものに、電圧3万ボルトを掛けた。負電極においては、相当の回転速度で回転する。正の電圧に比べて、負極性で力強い高速回転をする。これは、確かに「イオンエンジン」としての宇宙空間での強力な推進力となるものという感触、手応えを感じる。

 最後に三極真空管を取り上げてみよう。今は昔の技術になってしまった。5球スーパーヘテロダインラジオなどと言うもので、世界の情報を手にしていた。もう博物館級の技術になった。この真空管の中も、電子と言う陰極線がカソードKからプレートPに流れる放電管と言える。電子の空間電荷の分布密度、いわゆる空間電荷効果と言う概念を利用した、エネルギー制御管である。この真空管の内部を通過するものも、熱陰極から放射される電子と言う解釈で理論が構築されていた。勿論、電子の逆向きに流れる電流などと言うものは流れていない。管内を流れ得ない物が真空管の外部導線の中を流れる電流などと言うものが実在する訳が無い。

 ここに取上げた放電現象の原因たる主体の物理学的正体は何か。と言う命題が持ち上がる。どれも電子がその正体であると解釈されてきた。負の電荷を身に纏った素粒子であると。ところが、導線を流れる電流と言う概念、あるいは電流の正体は、どのような特徴で認識されるかと問われれば、導線の周りに存在する磁気の強さで、その導線内に電流が流れていると解釈するのである。それでは、磁気があるということは磁石を近づければ確かめることはできるが、磁気の存在を確かめたからと言って、何も電流が流れている事を証明したことにはならない。何故かと言えば、電子には、負の電荷を纏っているとは定義されているが、磁気を纏っているとは全く考えられてはいないのである。だから電子が流れても、決して磁気が遠隔作用によって、導線の近傍に生じる等という理屈は成り立たないのである。逆に昔、磁気現象の存在の確認で、電線内に電流と言うものが流れているからだと決め付けてしまった事が誤解の原因となってしまっただけなのである。電子にはスピンという特性が備わっているとは言われているが、スピンが導線外部の磁気発生の原因になると説明できる論理性は無い。磁気も空間のエネルギーであり、電流が存在するからエネルギーになるなどと言う解釈は、余りにも幼稚で、論理性を無視した理屈と言わなければならない。

 結論は、全て『エネルギー』そのものが空間に存在するのである。導線の周りにも、エネルギーが流れているのである。放電現象の全てが、電荷などと言うものによって生じるものではなく、エネルギーそのものの流れである。しかも導線の中などには、エネルギーもほとんど入り込めないのである。内部に侵入したエネルギーは熱エネルギーに変換して、損失となるものが多くなる。電源の負側から負荷を通って、電源の正の側に流れると見なければならない(2016/06/30追記)この電源の正側に流れ込むは訂正しなければならず、放電管もそこでエネルギーが消費されると解釈すべきである。量子力学として、現代物理学の基礎をなす場合の、半導体素子の内部制御理論も、原子構造内部の格子構造内を通過するエネルギー流と解釈すべきものである。全ての統一的現象論はエネルギー一つで捉えるべきものである。