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戦後75年間の不可解?

わが身に起きた愚かさの思いと戦争と政治の現実を伝えたくて。行政とは何か?

人権と政治行政の関係。人が人として平等に生きる社会でありたい。行政が人の個人としての情報をどのように取り扱っているかを教えることが民主主義の教育の基本の筈である。三権の意味や日常の生活で誰もが意識して居なければならないことがある筈。戸籍の意味。住所届の必要性と意味。労働契約の意味。知らないでは済まないことをすべて教える義務が教育機関・行政に課されている筈だ。それが民主主義と言う社会制度における義務教育に課された役割である。隠して、不平等は許されない事だ。筆者のような無知による愚かさを生きないで済むように。

日本国憲法。労働基準法。教育公務員特例法。その法律の存在する意義は何か?人権とは?

今から56年前の昭和39年6月16日。新潟地震が発生した。その時、新潟県立新津工業高等学校の電気科実習室に居た。遠く蒲原平野の先には新潟コンビナートの石油基地がある。その燃える黒い煙が遠くに見渡せる場所だ。揺れる中で、危険も顧みず大きなボール盤を倒れないように抑えていたことを思い出す。帰りは列車もなく、兎に角帰ろうと徒歩で帰途に就いた。途中でバスに乗ることが出来、乗り継ぎながら長岡までたどり着いた。その年の春4月から、そこで教育と研究の仕事で16年間過ごした。今日こんな写真を見つけた。忘れていた。昭和39(1964)年の7月とある。秋には東京オリンピックが10月10日開会式での祭典があり、その初年度に参加していた。申し訳なくも最前列で写って居た。主催:全国工業高等学校長協会。後援:島田理化工業(株)、三菱電機(株)。90名ほどの参加者。

しかし、新潟県教育委員会と言う教員の採用機関に採用されていなかった。教員は『公立学校共済組合』に登録して、正式な教員と認定され、正規の処遇が成されるようだ。愚かにも筆者は新潟県教育委員会での採用事務説明を受けたことも、その採用に関わる諸手続きをしたことも無かった。新潟県教育委員会に出向くことが全くなかった。しかし、愚かにも少しも採用されていないなどとは気付かなかった。

不可解と疑いの関係事項

1.学級担任。

2年目(1965)4月から、学級担任を任された。電気科2年生、翌年続いて同3年生で卒業させた。その年(1965)の夏休み中には、教育委員会の指導課からの要請で工業科教員の研修講習会に参加した。茨城県の日立製作所の各工場、最後は本社研究棟で1週間程の研修を受けた。各県からの指導的中堅(筆者を除き)の参加教員での構成(7人程)であった。

続いて4年目(1967) から再び2年間、電気科2年生、同3年生の担任をした。そして卒業させた。4年続けて学級担任をした。その訳は何故か?昭和50年度も電気科2年生、翌年3年生と続けての学級担任。アルバイトでの学級担任とは子供達に対して許されない筈だ。

2.半年間の内地留学

昭和44年(1969)、丁度大学紛争で荒れていた頃であったが、希望して東京工業大学の電気工学科の研究室に内地留学をさせて頂いた。秋の10月1日から翌年3月31日までの6月間であった。確かに今になって考えれば、その内地留学申請書を正式に提出した覚えがない。その時は高野校長であった。どの様な手続きであったか不明だ。それ程世間知らずで居たかとお恥かしい。その内地留学で、最新の研究室の魅力を経験し、パワーエレクトロニクスの技術の高さとその魅力に取りつかれた。学校に戻ってからは、実験室に閉じ籠り、新しい半導体制御技術を生徒実習に取り入れようと実験装置作りと自己研修に深入りした。電力用半導体制御回路、ワードレオナード等を生徒実習に取り入れる等は指導要領の逸脱であったかも知れないが、全国的にもおそらく無かっただろう。電動機の始動法などには意義が見えなかったから。

最大の不可解

3.新潟県教育委員会の任命状および委嘱状。「知事部局」からの手紙。

昭和53(1978年)母が亡くなり、長岡市役所で何かの手続きをしていた。急に呼び出しの管内放送が掛かった。電話だと言うので出ると、新津工業高校の八子校長であった。内容は⦅県からの引き受けて欲しいという話がある。承知した方が良いが、どうするか?⦆と言われた。「分かりました」と答えた。今は、その事の意味が悪意に満ちた「策略」以外に何も思えない。新潟県教育委員会に採用されていない、全く新潟県教育委員会には教員としての管理台帳もない筈だから。

それは昭和53(1978)年4月28日。任命状 発令者は新潟県教育委員会教育長。

 

 

 

 

 

 

 

この、工業「電気工学1」の専門調査員に任命する。㊙の文書である。筆者は「電気工学1」(電気理論)の授業担当をしたこともなく、専ら電力系(電気機器、発変電、送配電など)の授業しかしていない。この指定の日に参加したことは確かである。しかしその一度きりで、内容は3回とあるが他に調査の会合への連絡もなかった。その担当の代表者は長岡工業高等学校の柳町教諭であった。何の意味の㊙任命状か?これが教育を担う教育委員会の事務責任者、行政職の教育長の発令とは如何なものか?教育委員長ではないところに『教育の政治からの中立性』が懸念される。

 

翌昭和54(1979)年6月にはまた委嘱状が来た。

この委嘱の意味は、その年の7月16日から7月21日までの 昭和54年度産業教育指導者養成講座(工業科)ー文部省主催の東京工業大学での養成講座ーでの講座参加の意味であったのか?

 

 

 

 

実はその後に、とんでもないことがあった。夏休みに入ってから、突然自宅に「新潟県知事部局」から極秘の書面が届いた。しかしそれは結局新潟県教育委員会が取り仕切る『県外先進校の視察業務』であった。昭和54(1979)年8月6日~8日の2泊3日の工業科指導主事の指定の高等学校訪問であった。昭和57年度から新しい教育カリキュラムが実施されることになっていた。工業科の教科内容が大幅に変更され、学習能力の或る意味での対策でもあったのかとは思う。当時長岡技術科学大学が開学され、そこで少し研修を受けていた。

その昭和54(1979)年の12月初めに、川上学長の面接を学長室で受けた。「割愛人事」だと言われた。しかしその意味も知らなかった。その後いろいろ不可解な事があったが、翌(1980)年3月7日に、長岡技術科学大学で『宣誓式』があり、行った。電気系の二人の先生と3人一緒であった。その日は工業高校の卒業式であったが、教頭に連絡して欠席した。3月末に教員移動が新聞に掲載される。自分の名前も隅に、「退職」?とあった。新潟県教育委員会の発表として。正式登録も無い者を社会的に体裁を取り繕った行政手法としか思えない。筆者の採用を管理していない訳だから。

その後の長岡技術科学大学での処遇はどう考えても闇の中での取り扱いであった。正規の事務的手続きは全く執り行われていなかったようだ。『文部省共済組合』への登録手続きもしていない。だから教員とは見做されていなかった筈だ。大学に入る時も、去ってからも一切事務手続きに関わったことが無い。それを人権侵害と言わずに何と言えるか。

自己反省。何でここまで愚かな人生を歩いて来たかと呆れるだけだ。すべてが暗闇の中を過ごしてきた。一人の人間としての取り扱いをされていなかったように思う。意味の分からない事ばかりに最近になって初めて気づくのだ。電気学会に加入していなかったように思う。会費を納めていなかったから。新潟県長岡市学校町に古家を購入して住んだ。

以下については、不動産屋が処理していたようだ。当時の話を後で何故かと思ったことがある。原戸籍や除籍簿を要求された。今ならその訳が分かる。

しかし、その不動産登記(?)もなく不動産取得税も請求された覚えがいなかった。銀行通帳が無かったから、銀行の借入金も通帳に記録がない筈だし、給与の振込もないし、記憶にない。全く不可解だ?

新潟県教育委員会(新潟県知事)にお尋ねしている。

先般、正式の教員として採用していない。新津工業高等学校での非正規アルバイトのような仕事であろう。公立学校共済組合員の登録はない。と教えられた。

確かに給与の振込銀行口座も無かった。昭和55年の給料明細書に、共済短期掛金:9110円。共済長期掛金:12908円。は何処に収めたのか?さらに電気科主任手当てが支給されていた。しかし振込先は労働金庫本店口座である。しかも昭和55年4月分として5360円の振込がある事になっている。既に存在しない職務に支払われたのか?何故私の銀行口座が無かったのか?すべて印鑑を押して、手取り額の支払いを受け取っていた。考えれば、内地留学中の給与は受け取っていなかったのかと理解できない?

公立学校共済組合にも登録されていない者が、新潟県の産業教育指導者養成講座への参加要員として選定されるのか?新潟県教育委員会には筆者の教員としての管理台帳もない筈だ。しかも文部省主催の講座である。文部省が正規の教員でないこと位知っていた筈である。上のことについて回答を待っている。

それから、僅か6年後の昭和60(1985)年3月長岡技術科学大学から長岡工業高等専門学校へ邪魔者排除の対策が採られた。其れが中曽根臨時教育審議会である。文部省はすべて承知の上で(舞鶴鎮守府戸籍転籍)の社会的に抹殺する仕組みを執ったとしか思えない。政治には全く無関心のノンポリであったが、その後の数年間で経験した理解できない社会的不条理に身の危険を感じ取り、止む無く昭和63(1988)年身を隠さざるを得なかった。理解しかねる身に降りかかった「不可解な出来事」の意味を解くための長い暗夜行路の旅であった。振り返れば新潟地震のあの災いが56年間の闇の始まりであった。

舞鶴鎮守府と義務教育。

昭和20(1945)年4月、京都府舞鶴市の舞鶴国民学校に新1年生として入学した。8月15日の終戦を迎えた。その後故郷には昭和24年4月まで『戸籍』が無かった。恐らく新潟県中魚沼郡貝野村立貝野小学校には転校手続きもなく、中学を卒業するまで、義務教育の履歴が日本政府機関には無いと思われる。

舞鶴鎮守府の軍の公舎で、その館に入った処の右側に大きな「鯉の滝登り」の絵図が掛けられていたのを覚えている。その館の前広場に、戦闘機か小型の飛行機が据えられてあった。父ともう一人の軍人が飛行機に乗せてくれた。精々2人乗り程度の座席であった。

昭和14年(1939)12月1日。舞鶴鎮守府へ戸籍転籍 貝野村役場 村長。  昭和16(1941)年 9月2日。充員召集 舞鶴鎮守府。   昭和16年12月19日。香取丸へ戸籍移動 香取丸。   昭和20年(1945)9月1日。海軍上等兵曹。(以上、父の軍歴票)。

昭和19年2月7日。香取丸被弾沈没。   同年3月31日。香取丸船籍除籍。

昭和20年4月。舞鶴国民学校へ新1年入学。  昭和20年8月15日終戦。終戦時の住所:京都府舞鶴市字溝尻 海軍住宅。即刻、父(戦後の後片付けがある)を残して汽車を乗り継ぎ故郷に帰る。

昭和20年8月28日。厚木基地にマッカーサー司令官着く。   昭和20年9月2日。ミズリー号甲板で日本代表団、無条件降伏調印式。

昭和22年5月3日。日本国憲法発布。   昭和23年1月1日。民法(戸籍法)改正。

昭和24年4月・・日。父母の子供(三女)の出生届により戸籍編成と戸籍事項。昭和14年からの舞鶴鎮守府の関連期間が記載なしの不明のままだ。

今ようやく専門家(?)として、電気現象の意味を自然界の中の深い『エネルギー』の仕組みとして捉えるところに到達した。しかし、日本社会の中で、得た認識をどう生かせるのかとその社会的活躍の場が見当たらない。余りに己の愚かさを日本社会で弄ばれている様だから。日本が法治国家なのかと理解できない!

整流回路とリサジュー図形

遥か昔々の話になるが、大学の学園紛争の頃に半年間の内地留学(東京工業大学、宮入・片岡研究室)でパワーエレクトロニクスという半導体素子での電力制御や動力制御の最先端の学術研究の雰囲気を経験する機会に恵まれた。電気回路の深い意味を解析する電気技術の魅力に傾倒し、基本回路動作を実験を通して確認する事が出来た。最初が電力半導体整流回路であり、それが末尾の文献である。当時既にトランジスタで汎用の電動機を制御したり、鉱石運搬巨大車両を制御するアメリカの最新技術に驚嘆した。その頃高等学校の電気実習でも、半導体素子に因る電動機制御を採りいれるべきと勝手に思い込んで、学習指導要領の内容にそぐわない生徒実習を行っていた当時を苦笑する。正弦波交流回路だけでは、伝統的業績・過去の法則尊崇の念に縛られて、電気回路現象の奥に秘められた『エネルギー』感覚は身に付かないと思う。その正弦波をスイッチングすることで、はじめて回路内の『エネルギー』処理の意味が感覚的に理解できる筈だ。その『エネルギー』には決して質量は関係していない事を理解し、物理学の質量に依存した『エネルギー』感覚から脱却できる手掛かりになろう。今回は、30年程前に考えた電力系統の制御・監視システムの瞬時電力理論でのリサジュー図形の意味を基本的なところで復習しておこうと考えた。初心者の理解に役立てば良いのだが。
三相全波整流回路 電気回路技術は半導体と言う分類に入る元素(シリコンやゲルマニューム)の存在とその特性に負う科学技術の微細構造素子の開発に因って現代社会構造が構築されたと言っても過言ではなかろう。電力回路技術の基本回路に整流回路が有る。    三相全波整流回路 6個のダイオードを繋ぐだけで、三相交流から直流電圧に変換できる。電源が三相平衡電圧ea 、eb およびecとする。線間電圧実効値Vとする。直流電圧の平均値Vdは1.35Vとなる。半導体素子のダイオードは何の制御機能もないが、その両端に掛かる電圧極性だけで、自動的にスイッチング動作をする極めて便利な素子である。この回路動作を理解するには、半波整流回路でのダイオードのスイッチングを考えると良いかもしれない。蛇足ながら、p側ダイオードA,B and C とn側のA’ ,B’ and C’ のスイッチングに分けて考える事にしよう。

p側ダイオード素子のオン区間

    p側ダイオードのスイッチング 三相交流電圧の内で一番電位の高い素子がオンする。その時他の素子には自動的に逆バイアスの電圧が掛ることになる。一つの素子がオンすれば、他の素子は必ずオフとなり、極めて回路動作が安全に保たれる訳である。n側ダイオードも同様に素子の電圧極性で、自動的にn点に電源電圧の最も低い電圧の相の電位が繋がる。

オン素子と整流電圧

オン素子と直流電圧 電源電圧の最大値の相と最低値の相が自動的にダイオードのスイッチングで、プラスのp点とマイナスのn点につながる。その結果、線間電圧で最大値の相が負荷側の直流電圧となって現れる。図3に示したようになる。直流電圧も電源周波数の6倍の微小変動の波形であるが、リアクトルが有ると負荷抵抗には平滑された電圧波形のVdが掛ることになる。

オン素子と電流

導通素子と電流波形 三相のダイオードと電流波形を色分けして示した。三相交流電流ia、 ibおよび ic は電圧波形が正弦波であるにも拘らず、矩形波電流となる。しかも導通区間2π/3の波形である。この電流波形になる訳は何が原因か?電源電圧波形が正弦波でありながら、各相電流波形は急峻に直流電流値Idに立ち上り、一定電流のまま2π/3流れて再び瞬時に零になる。この原因はすべて直流負荷側の(平滑)リアクトルLの『エネルギー』貯蔵に関わっている。その『エネルギー』には決して質量等関係しない事を物理教育で指導しているだろうか。この『エネルギー』は光の『エネルギー』と何も違わない『エネルギー』と言う実在物理量なのである。リアクトルは『エネルギー』に対して貯蔵するにも、放出するに、その変化に抵抗する機能が強い回路素子である。整流回路の整流作用が瞬時的応答でダイオードの優れたスイッチング機能が発揮される訳にリアクトルの特性が関わっていると観ることもできよう。

リサジュ―図形と瞬時空間ベクトル 上の図4の電源側の三相交流電流は特徴的な波形であり、電力供給側の電源にしてみればその電流が系統にどのような影響を及ぼすかを捉えておかなければならない問題であろう。その特徴的な波形であるから、単に線路電流波形を観測するだけでは物足りなくは無いかと思う。電源側でそれが三相整流回路負荷に因る物と観測できれば、観測・制御に有効であろうと考える。その電流波形の特徴をリサジュー図形で示してみよう。これは30年程前に手掛けて諸般の事情で頓挫した考えでもある。その後利用されているかどうかは、筆者は関わった事が無いので分からない。

スイッチングとリサジュー図形 電気回路現象をリサジュー図形上で判断・認識する手法。ここで取上げた三相整流回路は電源に線路インピーダンスが無い特殊な場合ではあるが、線路電流が特別な波形であることから、瞬時電力理論の空間ベクトルの軌跡をリサジュー図形で観測すれば六角形を示す。六角形と言っても電流ベクトル i は六角形の各頂点の静止ベクトルで、瞬時に次の頂点にジャンプし、六角形の線上には無い。電圧ベクトル e は電源電圧の角周波数 ω の一定速度で円周上の軌跡を描く。リサジュー図形はオッシロスコープの入力信号に三相ー二相変換情報を採りいれる必要があり、その基礎的理解が必要である。その意味を初心者でも理解できる解説が必要と思うので、別に改めて述べたい。ここでは、瞬時電力理論の空間ベクトルについては従来の電気理論ではなかなか理解し難いかもしれない。関連記事と30年前の資料を参考文献として挙げる。

(文献) 静止電力変換回路の基礎(1) (電力用半導体整流回路)  新潟県工業教育紀要 第7号 p.165.~179. (昭和46年)

この記事の中味で、測定データとして興味ある内容が載っている。誰も調べないだろうと言う意味で貴重に思える。第18図 ωoとα、βの関係 のグラフである。この単相半波整流回路は実用性の全く無い回路の実験データではあるが。ωoは負荷のL/Rで、驚いたことにこれが『時定数』であり、今年の回路解析の記事に通じている。単相半波整流回路はリアクトルの『エネルギー』の意味を理解するには良い回路だ。その記事を抜粋して載せさせてもらう。

消弧遅れ角の実験結果 既に『時定数』が回路動作を決めると考えていたようだ。

(参考文献) 空間瞬時ベクトルと交直変換器への適用 電気学会 電力技術研究会資料 PE-86-39 p.71.(1986)

(参考記事) 三相交流瞬時空間ベクトル (2017/04/07)

電力技術に残した未練

『裸愚落筆』に人生の悲哀を記した。己の愚かさを、過去を描けば、なお深まりて、寄る辺なき瀬を、ひとり漕ぐ船。今、社会正義の砦が崩落の危機にある。戦後の日本に新たな正義を構築するために、昭和22年に制定された『検察庁法』。以前、暗中模索の中で、地元の長岡法務支局および検察庁更には裁判所内の検察審査会などで、長岡工業高等専門学校での我が身に降りかかった殺人未遂事件について訴え回ったこともあった。何処も「糠に釘」の無視の知らせに時の経つのみ。人生の終わりになって、わが身に起こった真実を知る事になった。法務省に、人権擁護の意思など何処にもないにも拘らず、そこが掲げる〈人権擁護〉とは何をか況やである。

 流されながらも、今『現代物理学』の基礎理論の矛盾を明らかにして、自然科学の全体の意味を問い直さなければならない時代に突き当たったと感じるまでになった。物理学理論に研究の矛先を向けてきたが、元々技術が性に合うわが身にとっては、やはり消化不良で中断せざるを得なかった『電力技術』への思いが今も未練がましく燻ぶっている。

  技術も、その研究内容は初歩の見習い的のものから始まった。送信機の払い下げの中に、双三極真空管 2B29 があった。出力の大きい発信器を作った。担当科目「電子工学」の分布定数波を生徒実習に取り入れた。教室に5メートル程の平行線路を張り、150MHzの定在波の測定・観測実験で供した。それが1.の「分布定数…」である。科目『発送配電』、『電気機器』を担当して、モーターの起動実習に、その教育効果に疑問を感じていた。大学紛争の直中、電気書院の『電気計算』に宮入庄太先生のパワーエレクトロニクスの特集記事を拝見し、内地留学で半年間の研修をさせてもらった。ようやく最先端の技術に触れ、教育への改革課題の目標を見定めることができた。ただ、その研修は、新潟県と文部省の関わりの制度でありながら、宮入研究室には何の研修補助も無かった事を後に知った。勝手にしたと、無視の文部省。新潟県教育委員会からは研修許可辞令もなし。

2.以降の『静止電力変換回路の基礎』は、日本のどこの工業高校でも実施できない最先端の生徒実習に供する為に整えた製作実験装置とそのデータの公開である。『半導体整流・・』は各種変圧器の結線により生じる様々な現象や問題点を徹底的に調べたものである。整流回路の電流は正弦波とは全く異なり、変圧器に直流偏磁現象などを引き起こす。それを知らなければ、系統ひずみの問題認識も困難である。この装置製作と実験データ取りで、寒中の寒い実験棟での無理で急性肝炎で生命の危機に見舞われた。他の装置も制御対象は容量3kWの電動機で、速度制御の意味を知るに役立つ実習内容であっただろうと思う。新潟県教育委員会で採用もされていないなど知る由もないまま。

 長岡技術科学大学に転勤したと思ったのも勘違いであったのだ。毎日が実験室の設備と配線準備にほとんど費やした。元々電気回路の複雑な解析には自信があった。静止電力技術は半導体のスイッチング制御に因っている。過渡の連続制御になる。8.の『瞬時無効電力の一般化理論とその応用』で、正弦波交流解析の理論的矛盾に、目から鱗が落ちた思いをした。『瞬時実電力・虚電力理論』を超えるものはないと。10.の『・・電力理論に基づくひずみ波電流の解析』は その理論の有効性を実証する内容である。電力系統の高調波ひずみは大きな問題であり、その現象解析が行われていた。しかし、この論文で、第5、第7高調波の比率がどのような原因で生じるかを的確に示した。全ての高調波問題は、この論文で解明された筈である。電力系統関係者がこの事に気付いているかどうかは知らないが。正弦波解析では解明不可能である。11.は『我が科学革命・・』にも載せた回路であり、未練を残した一つである。自慢になるが、13.は『PWM変換器』のスイッチング素子の制御速度限界の設計値を算定する基準を論理的に示した論文である。その後の事は全く知らない。

 さて、電力技術分野で、最大の未練を残した論文が最後の 14.「空間瞬時ベクトル解析法と交直変換器への適用」電気学会電力技術研究会資料、PE-86-39,(昭61-8) である。どうしてもその時の研究状況とこの論文の意義を説明しておきたい。論文8.の重要な応用例として発表したものである。そのある一頁を右に示す。三相のスイッチング回路SWの制御は過渡現象の連続であり、その回路の電力的瞬時値を回路の瞬時アドミタンスベクトルcon(瞬時コンダクタンスcon と 瞬時サセプタンスcon)として捉え、その回路の瞬時定数を捉える方式を開発したものである。これは電力系統の状態監視機能に適応することを見据えた制御監視システムの開発である。なおここで付記しておかなければならないことがある。このシュミレーションについては、高専5年の卒業研究生が1週間ほどで出してくれたものである。4年の数値解析でルンゲクッタを指導していたお陰で、その習得力で作成できたものと感謝している。さらに、私は卒業研究の指導をしていながら、その評価については門外漢で、評価の関わりから外されていた。トンデモナイ学校であった。この論文の回転鎖鎌のような(a)図は誠に興味ある未練を残した瞬時解析図である。東大の関根先生から発表時に質問を受けた図でもある。

この研究会の資料は、空間瞬時ベクトル解析法と交直変換器への適用に示した。