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レンズと焦点距離

極める専門を見失った浦島太郎は競争社会に向かないのかな?昔は電気工学が自分の専門分野だと少しは思っていた。去年は変圧器の奇想天外診断などと言う思い付き実験が長年実験的証明も無しで悶々としていた電気回路に明確な電線路空間におけるエネルギー分布の姿を捉えることに結びついた。それも電気の教科書の内容に背くような結果になった。その流れから電気回路現象の解釈に今年は幾つかの進展を得たと安心している。いつも考えることが物議を醸すようなことが多いようで誠に恐縮している。レンズと焦点距離などと言って何を書くかと責められそうで誠に心配ではある。高等学校の3年生の物理の授業でレンズの機能を教わって、感心して了解し、納得して長いことその教科書の解釈を信じて来た。ここ数日眼とカメラの関係で、レンズの焦点距離に頭の中で混乱が生じていた。以前書いたレンズと光路を見たのが切っ掛けでもある。焦点距離と光路の話として、雑科学ノートー光学機器の話 などがある。この光路と焦点距離の解説が理解できないのである。そのレンズと光路の関係を全く数式を使わずに、日常用語で説明してみよう。

(2017/11/18)追記。 『焦点距離』とはどのような定義用語なのか分からなくなってしまった。一つのレンズには一つの焦点距離しか存在しないのではないか?と考えたいのだが、カメラの焦点距離はそんな意味では使っていないようだ。 理科や物理で教えるレンズの機能は一つのレンズで、その光学的光の道筋を説いて理解を促している。しかし実際のカメラの『焦点距離』は上の説明にあるように、11mmと数100mmとで、遠くの像が大きく拡大された望遠レンズでの像が示されている。カメラの『焦点距離』はレンズの機能説明の意味とは全く異なった使い方をしている。デジタル一眼レフカメラの基礎知識は画角と言う用語との関係で解説されている。もう少し考えたい。コメントに対する意見で考え違いであった事から追記となった。用語『焦点距離』の定義が明確か(?)の問題でもある。次の図で考えて見た。

レンズの写像と焦点距離(焦点距離とは?) カメラで使う焦点距離とレンズの焦点距離との用語の意味が必ずしも同じとは見えない。筆者自身も明確に捉えていなかったようで、実に不甲斐ない。実用的にはレンズはカメラとしての光学技術を生かす事を求めるものである。しかし学校教育でレンズとしての機能を学ぶ場合には、カメラの焦点距離は理論的に難し過ぎて、学習するには困難である。単一レンズの光学的機能を理解する事が先ず基礎として必要であろう。その場合の焦点距離とはどのような意味で定義するかの問題として捉えたい(筆者の独断であるが)。無限遠の太陽の写像はレンズに決まった写像距離即ち『焦点距離』を示す。それを焦点距離と定義すれば分かり易いと思う。そのレンズを使って被写体の像を写すと、その写像位置は太陽の写像より必ず離れた位置に結ぶ。その関係をレンズ径11㎝のもの(下の手持ちレンズの①)で調べた結果が上の図である。同じ寸法の観測対象・被写体A、BおよびCをレンズを通して衝立に写す。少し遠いAは太陽の写像距離とほぼ同じ距離に小さな像を結ぶ。観測対象が近付くと、写像位置は離れて結び、像は大きくなる。この写像位置をすべて対象に対しての、それぞれの焦点距離と言っているようだ。それがカメラの焦点距離の意味に近い。ただカメラでは、望遠レンズなども含めるとなかなかその焦点距離と言う用語の意味はレンズの意味を理解する事とは繋がり難いように思う。『焦点距離』と言う用語も観測被写体に対する鮮明な写像を得るそれぞれのレンズからの写像距離であるという意味で使われている。無限遠の太陽の写像距離を焦点距離と決めれば、レンズ単体に対して、一つだけの焦点距離となり混乱しないと思う。ただカメラでの使用とは違ってしまうが。さて上の図のような写像距離を簡単に調べるには、手にレンズを持ち被写体を観測しながら、レンズと眼の距離を変えて、丁度被写体の姿が消えた時(被写体の像が正立像で見える状態から眼を離すと或る位置で像が見えなくなる。視界が靄のように何も見えない状態に成る。その眼とレンズの距離が写像位置に成り、衝立に像が写る焦点距離と言われる距離である。それ以上に眼を離すと、反転像が見える事に成る。その眼で見えるレンズとの間の距離は焦点距離・写像距離とは何の関係も無い距離である。)のその距離が写像距離(普通に言う焦点距離)である。形が消える未経験の写像となる距離の時が所謂一般に言う焦点距離に当たる。その点の前後で、視界に見える像は正立像から逆転像に丁度切り替わる境でもある。眼で見えなくなる位置がいわゆる焦点距離(フイルムに写る写像距離)であるという意味が分かれば、レンズの実像と言う意味が理解できたと言えるだろう。教科書の『焦点(レンズ軸に平行な光線が収束するという点)』と言う概念は無意味であり必要が無い。また理解不能の状態だ。ウイキペディアに焦点距離がある。この焦点距離の定義は太陽の焦点距離と同じ意味である。カメラの写像の距離(フイルムの位置)とは異なる意味だ。??。

 

%e5%ae%9f%e5%83%8f%e3%81%a3%e3%81%a6%e4%bd%95%e3%81%a7%e3%81%99%e3%81%8b実像って何ですか? 凸レンズの機能の説明の教科書的解説方法である。レンズに入射する観測対象からの軸平行光線の光路は焦点を通り、レンズの中心を通る光路との交点に実像が結ばれると説明される。そんな実像はありません。おそらくカメラの撮像面に写る反転像を解釈する原理としての説明になったのであろう。

%e3%82%ab%e3%83%a1%e3%83%a9%e3%81%a8%e7%84%a6%e7%82%b9%e8%b7%9d%e9%9b%a2カメラと焦点距離 カメラのフイルムや撮像面は丁度焦点距離(この焦点距離と言う意味が曖昧なのである。カメラの写像距離で被写体までの距離で変化するから焦点距離と言う用語で解釈すると、焦点距離は無限に存在する訳である。その『焦点』と言う意味にどのような意味を持たせているかが明確でなければならない。その『焦点』の用語が、単一レンズの原理として使う教科書用語『焦点(こんなものは存在しない)』との意味と関係付ようとする処に混乱の基が生まれる。平行光線の『焦点』は存在しない事を知るべきだ。2017/12/28追記)の位置に在る。光が焦点を通過した後に出来る像などではない。カメラの像は確かに反転像である。カメラについてはデジタル一眼レフカメラ (この解説記事でも、「レンズの焦点距離」と言う表現が使われている。しかしレンズに決まった焦点距離が定義されている訳ではない。レンズと観測対象との距離で、その写像距離はそれぞれの距離に対して、無限に存在する。だからレンズの焦点距離と言う表現は誤解と混乱を招く。太陽光線の焦点距離と言う意味で定義すれば、確かにレンズに一つの焦点距離が確定する筈だが、そのように定義されている訳でもない。2017/12/28追記)が参考になろう。

%e3%82%ab%e3%83%a1%e3%83%a9%e3%81%ae%e5%8e%9f%e7%90%86カメラの原理 薄暗い部屋で、障子戸をレンズを通してレンズから焦点距離(太陽光線の焦点距離で、実際はそれより少し大きい筈であった。写像距離とすべき意味を間違っていた。2017/11/21追記)だけ離した紙に写すことが出来る。レンズと距離と像の関係はカメラの原理を表している。この紙に写った像を実像と言えばそれは理解できる。しかし教科書の説明の焦点距離より後方の像は存在しない(文末のコメントの指摘通り、間違いでした。太陽光線の焦点距離より必ず後方に写像位置は来る。2017/11/21訂正追記。)。

焦点の意味が分からない

%e6%89%8b%e6%8c%81%e3%81%a1%e3%83%ac%e3%83%b3%e3%82%ba手持ちレンズ ①は直径11.5cm 、f=30cm (焦点距離)でジオプター+3Dとある。②は直径5.25cm 、f=10.5cm程。焦点距離は太陽光線を集光して測定した。老眼鏡も同じ凸レンズで、同じ機能の特性を示す。メガネの焦点距離についてはハヤシメガネ度数・焦点きょり早見表 にジオプターとの関係が示されている。また高校物理の教科書の理論がメガネの理論ーFNの高校物理 に解説されている。この高校生が学習する内容がとても難しくて私は分からないのである。特に問題と考える点が焦点距離と光路の関係である。

拡大鏡の例

3d%e6%8b%a1%e5%a4%a7%e9%8f%a1+3D拡大鏡 焦点距離(約30cm)より短い5cm程での拡大。目の位置には無関係に同じ大きさに見える。

%e5%86%99%e7%9c%9f381焦点距離(この焦点距離は太陽の写像距離で解釈していたが、必ずしもそのような定義ではなかった。2017/12/28追記) レンズを手にして考えた。レンズで文字を拡大してみる。文字とレンズの距離が焦点距離以内なら、眼をレンズに近付けても、遠避けても文字の大きさは同じように見てとれる。

%e5%86%99%e7%9c%9f375眼で見るレンズの像① 正立拡大像はAが焦点距離fに対してf以下であれば、ほぼ同じ大きさに見てとれる。目の位置Bの距離に関係なく。この拡大鏡のレンズ機能はどこに像を結ぶと言うものでもなく、眼とレンズの距離Bがほとんど零でも文字は同じく見える。この意味は目に入る光の光路がどの位置でも同じように存在することを示している。目の位置がBの範囲のどこにあっても眼の瞳に『ア』の文字の各点からの光が同一立体角の中に含まれた立体錐の範囲で入射すると言う事である。

%e5%86%99%e7%9c%9f377眼で見るレンズの像② 反転縮小像。Aが焦点距離より相当大きい場合で、カメラに近い状況。Bが焦点距離以下で像はボケる。Bがf以上なら比較的鮮明な反転像が見える。B=fの時が焦点距離の意味を如実に説明している。その時何も眼に像は見えない。その意味を考えて欲しい。その答がカメラの光路の解釈になる。

レンズを通した眼およびカメラの光路 これが難しい。カメラの光路はどのように結像を結ぶか。フォーカス(絞り)に依る光量の意味を合わせて考える必要がある。この事を考える基本認識が重要である。

%e9%9b%86%e5%85%89%e3%81%99%e3%82%8b%e7%84%a6%e7%82%b9%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%84集光する焦点は存在しない。 この認識が基本になければならない。太陽反転写像はレンズの焦点距離に熱吸収・冷却の映写面を工夫できれば、観測可能の筈だ。

カメラの写真と光路 カメラは焦点距離(写像距離か・・?)にフイルムがあり、そこに像を結ぶ。今は技術革新が進み、カメラもその機能をデジタル技術の仕組みにしてしまった。像も画素の点のパズルの組み合わせになった。カラーフイルムは一部を拡大してもアナログであるから鮮明な像が印刷できる。そんな昔のカメラを眺める。

nikon-fe2一眼レフカメラNikon FE2  裏ぶたを開ければ、カメラの原理が見える。

%e7%84%a6%e7%82%b9%e9%9d%a2%e5%83%8fカメラバルブ(解放)のフイルム面の像、像は何も見えない。

%e3%83%88%e3%83%ac%e3%83%bc%e3%82%b7%e3%83%b3%e3%82%b0%e3%83%9a%e3%83%bc%e3%83%91%e3%83%bc%e5%86%99%e5%83%8fフイルム面のトレーシングペーパー上の写像(解放撮影)。フイルム面の反転像(障子戸)が鮮明に写っているが、その焦点距離面で眼で観測すると何も像は見えない。

レンズ機能の焦点距離 焦点距離(これも写像距離と言うべきか?)に結像する写像はその位置で眼で見ると決して像は見えない。フイルム面の2次平面上の各点にレンズの全面を通した被写体の各一点からの光が到達する。その光路は焦点などを通らない。

%e6%9c%aa%e7%b5%8c%e9%a8%93%e3%81%ae%e8%a6%96%e7%95%8c未経験の視界 今チューリップをレンズを通して見るとする。目がレンズの焦点距離に在るとする。その位置には2次元平面でチューリップの反転像の光の模様が描かれている。しかし目で観測すると、その観測像は現実世界では決してお目にかかれない渾沌の視界である。目の瞳にはチューリップの或る一点からの光がレンズ全面を通して到達する。だから瞳には上下左右全面からチューリップの一点の赤い光が入射することになる。それがフイルム面なら、その点に鮮明なチューリップの一点の像が写ることになる。目の位置を動かせば、その2次元平面のそれぞれ対応した反転像の光線の視界になる訳である。

レンズの光学理論と教育 (2017/11/21追記)単一レンズの解釈で、『焦点』と言うレンズに平行な光線が収束するという点など存在しない。その単純な疑問からレンズの機能を理解しようと考えたが、高度の光学機械のカメラ、望遠鏡および顕微鏡等の虚像概念なども含めて考えるととても複雑な機能で、単純には理解できない事を知った。以下の記事での教育に関わる問題については、筆者も『焦点距離』の意味を太陽光線の焦点距離と捉えた間違いもあったようでお詫びしたい。光学と言うレンズ一つの機能でも、その基礎的理解が教科書の『焦点』の解釈で間違っている事が何故なおざりにされているかは、教育者側の大きな問題であると思う。教育に対する専門家が問われているのではなかろうか。顕微鏡や望遠鏡の光路の意味を考えて見る必要を感じている。焦点距離と写像距離の用語の使い方なども含めて。以上2017/11/21追記。レンズの話は高等学校の物理教育で教える内容である。上に述べた考察は教科書の理論が間違いであることを論じた事になる。何も特別に科学研究費を請求する程高度の研究などではないのだ。レンズを手にして光の像がどのように出来るかを眺めてみれば分かる筈だ。日常の遊び心で分かる問題だ。どんな高度の数式を扱っても理解できない問題だ。こんな基本的な光の現象が間違って教育されていたことになる。教えるとなれば真剣にその意味を理解し、とことん納得して疑問の無い自分の考えを子供達に教える筈だ。教科書に書いてあるからと言うだけで、納得できるのだろうか。科学理論とは何なんだ。入学試験では、レンズの解釈に焦点は必ず光が通ると答えなければ間違いとなる。しかしその答が間違いである。誤った教育である。学習指導要領が間違っている。電気現象で『電流』が自然界の真理であるかの如く教育される『物理学』の問題と同じ事である。日常の生活感覚と厳めしい科学理論の間を遮る絶壁のような社会問題と看做せよう。なお、とても詳しい解説がある。光と光の記録ーレンズ編 は所謂専門家の解説であろう。このような厳密に理論を展開されている方の解説にも異議を唱えなければならない事が哀しいのだ。レンズへのレンズ中心軸に平行な光線が焦点を通過すると言うレンズ機能の解説が間違いである。(2017/08/24)追記。極めて専門的な記事に失礼でした。確かに近軸光線について焦点がずれることまで詳しく解説されています。平行光線がすべて焦点を通ると言う『焦点』があると言えば、それは違うと言うことを言いたかったのです。それ程単純ではないと言う意味です。この論説はさすがに専門家の詳細な検証記事で素晴らしい。それが近軸光線について焦点の意味に踏み込んだ解説であり、平行光線が『焦点』を通る訳でない事を示していると思う。

波 「理科基礎(仮称)」の題材として

「理科基礎(仮称)」が科学教育の中に望ましいと日本学術会議のある部会の提言として公表された。高等学校の理科の科目の中には、地学、生物、物理および化学の4科目がある。その中身は相当内容がかけ離れたものから構成されているようだ。さて、それらの4科目を統合して、一つの科目「理科基礎」を確定しようとしたとき、誰がどのように取りまとめる事が出来るだろうか。提言が出た以上は、日本学術会議の提言であるから、日本の科学者・教育者の力量が問われることになろう。高等学校の教科書が出来ないなどとは言えない。何年も先では済まない筈だ。教育行政を担う、文部科学省の緊急の対応が問われる筈だ。理科の各科目の中から、基礎として何を選ぶかという考え方では、先ず纏まる可能性は低かろう。文科省の『学習指導要領』がある限りは、その内容からはみ出すことは出来ない硬直化した教育体制であるから。もし一科目としてまとまったとしたとき、その中身は全くつまらない役にも立たない内容の羅列に成らざるを得なかろうから。先ず解決する可能性は、『学習指導要領』の枠を取り外すことに尽きる。しかし、提言の3 高校理科教育に求められるもの の中で、(C)現在までの学習指導要領の変遷の経験を重視 という項目が前提条件として楔を打っている。この(C)がある限りは日本学術会議の折角の提言も絵に描いた御飾り餅にしかならない。以上の思いを踏まえた上での無駄な記事とは思うが、一つ「波」を取上げて論じて見よう。全く過去の理科の基礎とは異なる面から考えてみたい。

葛飾北斎「富嶽三十六景」の一つ「神奈川沖浪裏」に波の象徴的な姿が描かれている。絵画として誇張されて描かれてはいるものの、海岸における波しぶきは如何にも心に響く迫力を持っている。決して正弦波ではないその波形は、ある瞬間を切り取って、写した空間の具象図である。そこには心の美的感性を揺り動かすが、頭を悩ます難しさは微塵もない。さて、波の科学論はと考えると途端に難しくなる。その原因は何であろうかと考えて見た。それは目で観たり、感覚で捉える自然現象を日常生活に馴染み難い抽象的表現で共通理解を計ろうとする手法が科学理論の本質を成しているからであると思う。例えば太鼓の響きは耳だけでなく、腹にも響き気持ちを高揚させもする。その事も太鼓の持つ特性であり、自然現象と人の心身の関係性が造る世界の姿である。その事を科学理論で表現し、説明しなさいと言われても、「チョット待ってください」と言わざるを得ない。こんな事を考えるようじゃ、学校で教える理科教育などの話が出来る訳がないとも思う。

「波」をどう教えるか 子供達が興味を持って授業を受けるかどうかが大事な視点である。それは受ける側の子供の立場に立って考える事が出来るかどうかの行政側の問題である。教える内容やその取り扱いが適切かどうかは行政側の問題だ。子ども・保護者側の意見をくみ取る方策があるだろうか。教える側の論理だけで、教科書内容が過去の手法を伝承するだけの形式に陥っていないだろうか。葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」の絵図の物理的解釈が題材になったら良かろうと思う。そこには水の持つ「エネルギー」を意識しなければ解決できない基本概念が含まれている。サーフィンの力学エネルギーなら子供達も面白かろうと思う。海底の地形が海水面の波形に影響することが理解できるにはエネルギーの意味を理解しなければ無理であるから。

サーフィンサーフィンと波  この波は波頭が競り上がった波形だ。水が何故先頭で重力に逆らって、上昇するのだろうか。それを考え、理解するのが自然現象を対象とした教科「理科」が学校教育で取り上げられる存在理由である。考える事を、覚えるだけではいけないと解りかけている筈だが、生徒に求めるだけで、教育環境を整備する側の機関・文部科学省が考える事を怠り、過去に拘る現状は誠に見苦しい。何故、水が波頭部で上昇するのか位は子供達が理解できるような教育でなければ価値がない。水の波が横波の解釈では、『学習指導要領』の廃止を考える事からしかまともな理科教育への解決方法は無かろう。

波はすべて縦波 『学習指導要領』は水面波を横波の代表例として指導することに決めている。それは残念ながら間違っている。そこにはエネルギーの意味が全く考慮されていない。波を生み、伝播する原因はエネルギーである。波の本質を理解しない波動論は間違いである。波はすべて「エネルギー」の縦波である。それが波を教える眼目でなければならない。

音声 「オーイ」と呼び声が聞こえる。その声を波形に描いてください!と言われてもそれは無理であろう。日常生活での空間伝播の波の自然現象ではあるが正弦波などで描く訳にはいかない。音声については「学習指導要領」も縦波として教えてはいる。音声の本質は何であろうか。話し声は空気や水の『何か』を伝える媒体(気体、液体)が必要です。真空中を音声は絶対に伝わらない。ラジオやTVなどを通した音声は伝達経路が真空であっても伝わってくる。それは電波と言う波だからだ。同じ波でありながら、電波と音声には本質的に異なる何か、理解できない事が隠されているのだろうか。電波も音声波もどちらもエネルギーの縦波である。理科の教科書では電波を縦波とは教えていない。横波として説明している。それは世界の物理学で、おそらく横波として取り扱っているからでもあろう。それは間違っている。その訳は、エネルギーの縦波と理解しないからであり、エネルギーの存在を認識しないからでありましょう。電波の場合は『電界エネルギー』と『磁界エネルギー』がエネルギーとして同じものとの認識が出来ないからであろう。別の異なる空間のエネルギーなど存在できない筈なのに、別々のエネルギーとして分析しているからである。その原因は空間に、質量の関わりのないエネルギーが存在すると認識しないからであろう。その意味が象徴的に表れるのが『光』である。『光』の半波長でもエネルギーを持っている。振動数、周波数を持ちださなくても光のエネルギーである。

縦波 水の波も音の波も弦の波も電磁波も、みんな波と言う波はすべてエネルギーの縦波である。エネルギーの空間(媒体も含む)の縦の伝播現象である。水面波も水にエネルギーを与えなければ決して波を発生しない。波と言う波はすべてエネルギーが造り出しているのである。過去の波に関する記事を拾い上げておこう。三味線と縦波 糸電話ー力学的解剖ー 津波(tsunami)を解剖する 専門用語『振動数』の解剖 など。

『エネルギーに論及してこそ物理』光の屈折もエネルギーの縦波としての解釈が必要。

科学と行政ー振り返って未来をー

日本の科学研究がその質と品位で問われている。残念ながら「STAP細胞」事件がその象徴的な事となった。小保方晴子ユニットリーダーと理化学研究所の問題として世界にそのお粗末さを曝した。理化学研究所が発表した検証結果と小保方研究員が不服申し立ての間での詰めの甘さが何故かと疑いの思いを増幅している。何故もっと詳しく調査時点で、理化学研側の調査委員会は小保方氏から詳しく中味を質すことをせずに、曖昧な結論を発表したのか。小保方氏はSTAP細胞は出来ていると主張しているから、それを確認するのが再度の結論に至るに最低の果たすべき責任であろう。市民に対しての責任である。 自分も、能力がなく一人悩んだ27年前を思い出した。長岡工業高等専門学校(中曽根臨時教育審議会の抹殺人事計画)での殺害から生命を守る戦いから逃げて、長岡技術科学大学に戻った(昭和62年、1987年4月)。しかし、戻るべき場所も無い事も考えずの暗夜行路の旅立ちであった。何故殺害されるかの理由が分からない。当時の自分はもっとお粗末で、大学と言う組織の意味も、研究体制も理解していなかった。だから、世間的常識にそぐわない行動をとっていた。周りには誰も相談する人も無く、常識外れの道の上で、何をすれば良いかが分からずに笑われ続けていた。結局長岡技術科学大学に居られなかった。昭和63年9月こっそりと引き払って逃げた。10月にびわ湖湖畔での、電気理論研究会があり、2年前に、長岡工業高等専門殺人学校で採り纏めておいた『静電界ギャップ内の磁気模様』の写真データの投稿資料の発表をした。それからは自己確認の旅に彷徨い続けた。それから10年以上経ってはじめて、自分の自己確認が出来た。舞鶴鎮守府への戸籍転籍が軍歴表に在る事を知った。それが分かっていればもっと何とか抗議も、戦う術も有っただろうが、全くの無手勝流の暗中模索は手足の無い達磨でしかなかった。気付いた時は既に10年過ぎては遅かった。既に研究する所属組織も無く、過去を手繰り寄せれば、どこまでも寄る辺ない自分を知るだけだ。私は何者でしょう(3)故郷貝野村と舞鶴鎮守府。ただ一つ残された自己主張の道は、科学理論の『嘘』を暴く事だけであった。ここまで来て、『電荷』の存在否定と、電荷概念の噓の実体を暴けたという自信だけは得た。ただ、最近日本政府の教育行政機関である文部科学省が、「教育勅語」を国立国会図書館からを拾い出して、完全廃棄した戦時の教訓をひっくり返して、過去に戻そうと画策しているように思える。一体これからの「科学教育(理科教育)」をどう未来に勧めて行くのか、文科省の意識が危険極まりなく、とても心配である。教科書の検定制度がとても教育には危険であると思う。最近になって、新潟県の違法人事行政の意味を知った。教員として働いたと思っていたのに、昭和39年の春から、新潟県教育委員会からは、何の採用通知も無く、辞令交付も無く16年間に亘って過ごした履歴は何だったのか。文部省にも関わりを持ったが、一体その行政はどのような正当性があるのかと今に思う。結局、舞鶴鎮守府の日本軍に関する事項を私の全てを抹殺する事で消し去ろうとしていたと理解できる。戸籍が糊付の偽装工作を通す日本政府で、法務省・外務省・総務省全ての政府機関が関係している問題である。こんな犯罪行政が罷り通る日本なのだ。新潟県教育行政の過去と未来ー犯罪?-。日本に真の科学が育つかとても心配だ。今回の理化学研究所の問題にその心配が重なる。

幽霊人事の顛末記 誰もが理解できないと今になって思う。①新潟県立新津工業高校から長岡技術科学大学への移動。川上正光学長との面接で、割愛人事と言われた。しかし割愛人事とは何かも知らなかった。最初から『助手』と言う話で決まっていたから。しかし、どうもそれはおかしい事だったようだ。②長岡技術科学大学から長岡工業高等専門学校への移動。大学では大変邪魔な存在であったようだ。移動の3月に、急に石崎電気系長から人材を高専で欲しがっているから行かないか?と話があった。不安のまま決まった。高専の村山助教授の研究室に居候の形で自分の研究室でない間借り研究室形式となった。この事は、その部屋には誰でも、何の目的にでも、例え薬物でも、自由に入れる仕掛けと成っていたのだ。村山助教授は研究室の名札もそのままで、2年後に戻るという話。自分も元に戻るという話。ここでの教育環境は、学生実験の担当は細貝教授(ネズミの小便の電気配線における影響を卒研での課題にしていたように聞いた)の実験項目を代理で2年間させられた。授業はほとんど全て、中曽根臨時教育審議会の名の下で、盗聴から授業風景の写真撮影まで、限りない人権侵害を尽くされた。電気科の教官会議では学生の成績に関する話は一度も聞かないで過ごした。卒研の評価もどのように成されたかも知らない。すべて筆者を除外の扱いか?生命殺害の危険を察知し、飲み物食べ物全てを鍵掛の金属工具箱で厳重に管理した。昭和61年9月から翌年3月31日まで、1日も欠かさず幾つかの鍵や鍵穴封印の紙を準備して、生命を守った。③長岡高専から長岡技科大への移動・逃走。昭和62年3月末が予定の期限であった。長岡技科大で邪魔者であった訳だから、帰れはしなかったのだろう。ただ、昭和61年8月、長岡技科大で電力部門の研究会だあった。その時発表したのが電力技術理論として、自分の自信作の「空間瞬時ベクトル解析法と交直変換器への適用」である。きっとその画期的な内容で、邪魔者の見直しが語られたのだろう。しかし、既に長岡技科大での人事には困難があっただろう。電力技術部門での処遇は無理の筈だから。また、更に困難な事態が発生していた。担当授業が『電気磁気学』であった事が、電力技術と電気理論との研究対象変換が『静電界は磁界を伴う』の昭和62年電気学会全国大会の発表となり、益々混乱に拍車をかけてと思う。昭和62年2月下旬、長岡技科大電気の教授から盛んに大学に戻らないでと心配されたが、愚か者の意地っ張りから断り、予定通りの移動を覚悟した。高専の校長が1月には政府の官房副長官に話をしたらしいがその意味は知らない。等いろいろ問題のある事件であった。3月初めに校長に移動の確認に会いに行ったら、人事担当者を呼び、またもや割愛人事だと告げられた。何の意味かも知らない。4月に仙台での電気学会発表をした。その折、家族も一緒に連れて行った。行きも帰りも、うるさい『蠅』や『カラス』が付きまとっていた。2,3匹で。高専から逃走してからは、世間を騒がせるような事件になってしまい、大変な事態を来たした。話が出来、相談できる人は皆無の中での、全く四面楚歌の世界を、只混乱して、馬鹿にされながら過ごした。以上当時の思いを記した。人事は常識に従う世界で、自分が常識にそぐわない生き様であった。科学理論に対する考えも自分は常識の世界と異なるのだ。しかし真理は我に在る。

私は偽者か

自分の存在の意味が理解できない。昨年(2012年)9月16日のぶり返しになる。新潟県長岡市の県営プール、ダイエイプロミスでニチレイ泳力検定を受けた。100メートル個人メドレイ。受け取った検定合格の『認定証』3枚ある。最初に受け取った偽物。認定証1

殆どの文字が偽装文字である。2級の2、氏名、時間1分56秒36は1分50秒36の間違い。平成の文字。など文字は筆書きの偽装認定証。2

次に訂正要求に対して、送られて来た『認定証』。時間は24秒とある。これならオリンピックで金メダル間違いなし。驚いた。3

とうとう最後まで『ニセモノ認定証』しか発行されなかった。日本水泳連盟 泳力検定係が最終的に認定をするのである。本部のある岸記念体育館内にあるらしい。認定証は、氏名の文字は活字体で全て打ち出される。しかしとうとう最後までニセ文字である。日本水泳連盟は日本政府、文部科学省の管轄である。こんな『ニセ認定証』を我慢して受け取らなければならない事が悲しいのである。日本政府に『あなたは偽物』と認定されていると同じ事である。ダイエイプロミスの事務担当者に質すと、PCに打ち込むと、全て「不合格」となり、受け付けられません。という説明であった。

上の『認定証』について、日本政府犯罪と言わずして何と言えば良いのか。こんな人権侵害は、憲法が無い国と同じ国家に思える。こんな中で何が「科学研究」になろうか。

水泳の大会に参加 71才前に、はじめて大会に参加した。その記録も参考に。マスターフェスチバル記録

100m自由形で、飛び込んだ途端にゴーグルが外れてしまった。水の中では、視界が殆ど無い。25mのターンで壁に手が届くのに時間がかかり、競争を諦めようかと考えたが、折角だからと最後まで頑張った。1位でゴールには驚いた。しかも大会新で。5種目も参加する羽目になり、疲労の為に帰った時には完全に虚脱放心状態。