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電磁界と空間エネルギー

はじめに(2020/03/24)
電気磁気学はあらゆる電気現象を理解する基礎物理学となっている。しかし、物理学理論では空間に『エネルギー』が質量から独立して存在すると認識していないように思える。電気回路のコイルの中には『エネルギー』が貯えられるというが、その『エネルギー』はどこに在ると物理学では認識するのか。物理学理論では『エネルギー』は何から出来ていると考えるのか。素粒子と『エネルギー』のどちらが世界構成の大本と解釈するのか。

電界と磁界
空間に電界が在るという。空間に磁界が在るという。電界や磁界は電気磁気学での空間に仮想した概念の電気物理学用語の代表である。空間に仮想した概念 (*)であるが、電界や磁界は『エネルギー』との関係を持たないのか?その電界や磁界が空間に在るという意味は何を原因として、どのような空間像を表現したものか。空間がコイル(透磁率μo)とコンデンサ(誘電率εo)から成り立つという解釈を『誰が』最初に唱えたのか、きっと仙人かも知れない。仮想した概念(*)という意味が御理解いただけないかと心配だ。その単位に含まれる、空間距離の[m]は現実に在り、それは実在概念だ。しかし電圧 [V] あるいは電流 [A] は確かに測定器で測れるから、仮想した概念とは誰も認められないのじゃないかとも思える。電圧あるいは電流を計るとは測定器の中で何を計っているのだろうか。その測定する実体はコイル内の空間に在る『エネルギー』じゃないですか?とお尋ねしたい。電圧とか電界あるいは磁界と言う概念の物理量は『何』を原因として発生するのか?その意味を以下で考えてみたい。電圧[V]=[(J/F)^1/2^] 、電流[A]=[(J/H)^1/2^] が空間構造特性値L [H]やC [F] と『エネルギー』 [J] との関係にある。

乾電池で豆電球を点灯する。これも専門用語を使えば電磁界の回路となる。スマホで発信する電子回路の複雑さとは違って、電気回路で言えば、小学校の理科の話にも成る、易しい内容である。しかし、筆者が『電流は流れず』と唱えた基本の考察対象に取り上げた回路でもある。易しいことは難しい事でもある。基礎とか基本という事の中には、とても複雑な意味が隠されている。その事に気付くかどうかは、それぞれ各人のそれ迄の生活環境、受けた教育環境即ちどのような高等教育で専門的な事を修得してきたか、また社会人になって仕事としてどの様な専門的業務に携わってきたか等にも因ろう。その点からいえば、筆者は大学の工学部で、電気工学を4年間学んだだけの所謂「工学士」でしかない。そんな筆者が述べる内容が余りにも学術機関に所属して研究をされている方々の研究業績に比べて稚拙で、乖離度が大きく全く研究と言う基準には遠く及ばない内容であろうとも思う。しかし、それも宿命と思いながら、ここまで日常の生活感覚に科学理論や物理学理論を照らし合わせながら、その論理的矛盾を追求してきた。この電気回路は高度の科学研究の対象とはならないが、どこから考えても、おそらく誰にでも考えることの出来そうな、取り付きやすい回路であろう。そんな易しい電気回路でありながら今現在の電気理論で解釈しようとすれば、余りにも矛盾が大きくて、将来の子供達への教育内容としては耐えられないと断ぜざるを得ないのだ。そんな思いから、これからこの回路を通して問い掛けようとする内容はとても気難しいことかも知れない。特に電気理論に関する教育に携わっておられる方々、あるいは電気回路に関する教科書をお書きになられておられる方々にとってはとても反感を覚えるような内容であるかも知れない。そんな何も得るものが無くても書かずにいられない切羽詰まった状況であることをご理解頂きたい。ただ一言付け加えておきたい。それは電気理論として取り扱われる技術理論が悪いという訳ではないのだ。技術法則は電気現象の技術的取り扱いにはとても簡便で、優れた歴史的文化である。その技術的解釈理論が長い科学の伝統を作りながら、今日の科学技術社会を発展させてきたのだ。そんな社会的文化でもある、技術概念を簡単に捨てる訳にはいかないのも当然である。電気技術者として過去に少しは関わった筆者もその辺の意味を十分理解した上での訴えなのである。何が良くない点かが分かり難いとも思う。それは科学技術理論と自然世界の『真相』とは異なるという事を理解してほしいという点である。誠に言い難いことで恐縮なのだが、自然の『真相』は易しくて、きわめて純粋であるという事に尽きるのだ。だから、自然科学理論として社会を導いてきた、その技術法則を自然界の物理的「真理」と捉える考え方、その如何にも権威的な教育の姿勢が間違っているという事である。筆者が我慢できない解説、それは電気回路の電線内を『電子』が『電流』の逆向きに流れるという非論理的な伝統科学論に支配されている事である。『電子』が通ると解釈すると、その回路の『エネルギー』伝送機能と電磁現象の光速度流が見えない科学論になるから。今も手元にある、「科学革命の構造」トーマス・クーン著、中山茂訳 (みすず書房)が。その『パラダイム』に関わる科学理論と自然現象について論じたいと思う。難しい学術論の形式的内容にはならないから、誰でも考えられる内容で論じられると思う。それはどこの家にもある生活用品の懐中電灯の話でしかないから。しかも数式を極力使わないで、日常用語で述べたいと思う。

空間エネルギーと『エネルギー保存則』

『パラダイム』と言う用語の定義で、トーマス・クーン氏も一度撤回せざるを得ない程激しい攻撃にさらされたとも言われている。その用語の持つ意味本来の意味と更に通常科学などの用語の新しい捉え方など合わせて、その論説の優れた先見性も中々受け入れられ難かったからかと思う。『パラダイム』の意味も新たな捉え方で筆者には適切な用語と理解したい。そう訳者あとがきをみて思った。また、英和辞典にも、模範、典型の標準的意味と別に、パラダイム:⦅思想・科学などを規定する方法論・体系⦆として適語が示されている。

空間エネルギー

この言葉・用語が受け入れられ難いのだろう。その理由は、『電流』あるいは『電子』『電荷』など電気理論の根幹である概念と対立する物理概念・量であるから。検索すれば何か精神論と関係付けられた意味が載っている。そのような意味も考えれば必ずしも否定しかねる面もある。人が言葉も文字もなかった、人類生誕の時代も社会的意思の疎通が成された訳であれば、それぞれの思いは精神的な意味のつながりで可能であったとしか思えないから。生きとし生けるすべてがその心のつながりの中に居るのかも知れない。しかしここでは、この『空間エネルギー』と言う筆者が唱える用語の意味は全く物理現象として身の周りの自然界に溢れている物理量を指すのである。その代表が光である。また配電線路が有れば、それは電気エネルギーである『空間エネルギー』の流れの設備であると見える。『空間エネルギー』は質量から独立した『エネルギー』が空間に存在するという事を述べるものである。それは物理量として自然の世界、空間に実在するものを対象に観ているのである。しかし、それは測定することも出来ず、見ることも出来ないものであるところに、認識し難さの大きな壁があるのかも知れない。光の1波長のエネルギー分布を観測する事など夢の世界の話であるから。『空間エネルギー』が理解されにくい最大の原因は『電流』、『電荷』あるいは『磁束』などの基本物理量・概念をすべて飲みつくしてしまう概念・意味を持っているからであろう。だから考えてみれば、空恐ろしいことに挑戦してきたのかと思わざるを得ない。『禪』とは何か?

掲げた懐中電灯の回路で、乾電池から豆電球までの間は導線で繋がれている。その部分を図にエネルギー伝送路とした。電線が何の役割を持っているか。電池は何を貯えたものか。豆電球は何を光に変える電気製品か。光とは何か?豆電球が熱くなるのは何故か。こんな<問答>は、誰でも日頃の日常生活で不図思う疑問に関わるものではなかろうか。このような事を、科学理論・物理学理論の諸概念と突き合わせながら、考えてみよう。

〈第1問〉電池は何を貯える製品ですか。

『電子』ですか?『エネルギー』ですか?『電流』ではありませんね!多数決で決める訳にもいきません。電気技術者は、物理学者は何と答えられるだろうか。

〈第2問〉豆電球は何を光に変える製品ですか。

『電子』ですか?『エネルギー』ですか?

〈第3問〉電線で囲まれた空間の物理的意味は何ですか。

何の意味もないのですか?

〈第4問〉電球から放射される光や熱はどの様な物理量ですか。

『エネルギー』ではないですか?

〈第5問〉『エネルギー保存則』の『エネルギー』とはどの様な物理量ですか。

降り注ぐ太陽光線は保存されますか?その前に太陽光線が『エネルギー』と思いますかと聞かなければなりませんね。トマトもキュウリも太陽光線の『エネルギー』、それを栄養の一つとして食べて成長していると考えたら間違いですか?それを『エネルギー保存則』の意味と考えられませんか?『質量』と『エネルギー』は等価という意味に繋がりませんか?

懐中電灯回路のエネルギー論

上に挙げた幾つかの〈問題〉は電気回路の中に、『空間エネルギー』の存在を理解するか、認識するかの人の意識の問題に掛かっている。ここに在るのは『パラダイム』に関わる問題なのである。その専門性が故に細分化され自然科学と言う広い自然界を包含した学問の哲学性が衰退し、どんどん知的魅力に欠けつつあるように思われる。しかし、日常生活に直結した科学技術の分野の先鋭化は益々経済的競争に資する形で進んでいる。そこに自然の真理と科学技術理論との関わりの乖離が進んだ。理論の矛盾が遠くに霞んでいるように観える。その意味を懐中電灯の中に示したい。残された『パラダイム』の問題として。

回路電磁空間。

乾電池と豆電球を導線で結べば、電球に電圧V[V]が掛かり、電流I[A]が流れる。これが電気回路解釈の基本法則で、「オームの法則」である。この法則から見れば、導線が2本で十分電気現象を理解できる。豆電球の抵抗値が何Ωと分かればすべて解決する。電線で囲まれた空間など殆ど意味がない。殆どの人はその空間など意識しなかろう。電池のマイナス側から『電子』が流れ、電池のプラス側に戻れば、それで科学理論の原理は全て解ったと言っても良い科学論の『パラダイム』に在る。1864年、有名なマックスウエルの電磁場方程式が登場した。電磁波が空間を伝播するという事をその方程式に表現してまとめた。電気信号が空気中を伝わるという科学的発見の理論方程式である。後にヘルツと言う人が無線通信(空気中の電気信号の伝播)の実験に成功した。その後の100年に亘って、電気送電網が生活に灯りをともし、近代生活を支えて来た。今は「携帯通信機」が誰もの生活必需品になっている。情報革命ともいえる時代を生きている。光も電磁波の一種であるという。光の速度は「特殊相対性理論」でとても理解できない数学的記述で、どこで測っても、例えば地球の速度との相対速度にも無関係に『光速度一定』の規範に在ると説かれる。レーマーの光速度測定実験に照らしてその確かさを信じれば、筆者には「特殊相対性理論」の唱える意味がさっぱり理解できない。筆者にはPCや通信機の回路の意味さえ何も知り得ない電子回路の通信技術全盛時代だが。みんな空間を伝播する電気信号理論の筈だ。そんな科学技術が先導する社会に生きて、懐中電灯回路の導線で囲まれた「空間」の電気磁気学的意味を紐解いてみようと思う。光も電波も、それを伝える媒体(昔はエーテルが伝える媒体と考えたこともあった)が何もない真空空間を伝播するというのだ。その電気的な現象が有るのに、何故懐中電灯の回路で、電線で囲まれた空間に電気的意味が無いと考えるのか?電線路空間には本当は電界と磁界と言う電気磁気学の専門用語の空間概念があるという事になっている。しかしオームの法則ではそんな意味は全く考えない。技術法則は誰でもが理解し易く出来ている。しかし少しでも専門性がその威厳を持って、介入してくるととても複雑な理論に化けるのである。オームの法則が電気現象の自然世界の真理を唱えたものかと言えば、それは必ずしも正しくはない。ここで「間違い」と言う言葉を使うことがとても複雑な心理的負担を感じるのだ。「間違い」ならオームの法則は教科書から消して良いかとなるが、それは困るし、正しくないと言わなければならない。しかし「間違い」とそう言わざるを得ないその訳は、本当は電線の中を『電流』が流れられないから。また『電子』が『電流』の代わりに電線の中を逆向きに流れると解説されるが、それも「間違い」である。自然の『真理』と社会的技術概念との間にはとても曖昧で、複雑な意味が隠されているのだ。何故マックスウエルが空間を電波が伝播すると唱えたのか。懐中電灯の電気と電波の電気は違うのだろうか?空間に『電界』と『磁界』があると電気磁気学理論では解説される。しかし、懐中電灯の回路では電線の間の空間に電磁界が在るとは考えなくても、オームの法則だけで立派な電気技術者として社会に貢献できる。それで電気回路の専門家として、いわゆる科学理論の『パラダイム』の専門家集団の一員として立派に責任を果たせる。しかし自然世界の『真理』として『電子(電流の逆向き)』を流さなければならない訳・理由は無い筈だ。金属導体は本質的に『エネルギー』を反射する。『エネルギー』伝播に何の障害にもならない空間がマックスウエルが唱えたように有るのに、その空間を通らない電気現象あるいは『エネルギー』などない筈だ。導線で囲まれた、導かれる空間にこそ電気現象の本質があることを考えて欲しい。光と同じ電気『エネルギー』は空間しか光速度で伝播できないことを理解してほしい。この科学的認識の前提には、光の空間エネルギー分布縦波認識が必要ではあるが、それは別に学習すればよいだろう。振動数では光の1波長の空間のエネルギー分布波は理解できないから。

電圧と空間と電界

マックスウエルが唱えた方程式には、電界と磁界と言う理論の根幹をなす概念がある。電気現象は空間の中に存在するという意味である。右の図のような電池の配置で空間の電気的意味を考えてみよう。乾電池1個なら電圧は1.5ボルトである。その乾電池を2つ繋げばその電圧は2倍の3ボルトとなる。乾電池も電気にはプラスとマイナスがある。このプラスとマイナスという意味も中々意味深な概念で、哲学的論題になる。世界に「マイナス」と言う物の存在は無いのだ。電気だけの特殊な、不思議な世界観のもたらした概念なのだが。身の周りに「マイナス」の物を探してごらんなさい。見つかりますか?「プラス」も「マイナス」も原子論の世界で生れた概念なのでしょう。本筋の論議に戻りましょう。電池の端子から電線を張りましょう。その電線の間には、それぞれ電池の電圧が何処の電線にもかかります。その電線から別の電線を枝分かれして図のように空間に或るギャップを開けて配線した。その間の間隔は A も B も同じとする。今電線路には何も電球などの負荷は繋がっていない。さて何を問題とするか。それは空間が電気的に何か意味を持っているかどうかを考えて欲しいのだ。『電界』と言う概念について。図の AとB で空間の電気的状態が違うことを知ってほしいのだ。A とB の『電界』が違うのだ。と言う事は『空間』がオームの法則では理解できない意味を持っているという事になる。そこに電気現象の本質が隠されているという事だ。世界は空間で出来ている。空気と水の空間で、音も光もその速度が違う。今、A とB のギャップを1㎝とする。Bの方の電池の電圧をどんどん高くしてみよう。とても高い1万ボルトの電圧としてみる。するとそのギャップの空間が何か異常な空気になるかも知れない。 近くの田圃の上に送電線が通っている。多くの電気エネルギーを送る電気設備だ。電線の間が大きく離れている。何故そんなに間隔を開けなければならないのかと理由を考えるだろう。その空間の広がりが必要だからとしか考えられない。電気を送るには無駄と思えるような空間が必要なんだ。『電流』、『電子』が電線の中を流れるだけで、電気を送れるならそんな空間はいらない筈だ。空間が電気現象、電気エネルギーの伝送に必要だからと理解できよう。もう一つ空間の『電界』の意味を取り上げてみよう。

空間と『エネルギー』。電池の導線にもう一つコンデンサを繋いでみよう。コンデンサと言う要素の構造は金属導線を平板に広げた2枚を向かい合わせた形態である。その平板面積に比例してコンデンサの容量 C[F] が決まる。コンデンサ容量が大きいという事は、その金属平板の間の空間により大きな『エネルギー』を貯蔵できることになる。その物理的意味は単に金属の間の空間には『エネルギー』が存在するという事でしかない。細い電線でも2本あればどんなに少なかろうと、そこには『エネルギー』が在るのだと言える。『電荷』の存在と言う基本認識の『パラダイム』に属する科学論に賛同される方も、コンデンサの空間内に『エネルギー』が貯まるという意味を理解できると思うのだが、どの様な『エネルギー像』で認識なされるのかとお尋ねしたい。当然誘電体の分極と言う『電荷』概念に基づく解釈をなさるのではないかと思う。しかし、たとえ誘電体の無い真空空間でも『エネルギー』は貯まる筈と考える。それは光が電気の『エネルギー』と同じ物理量であることからの認識になる。

『電界』と『磁界』

『電界』と『磁界』は本来空間に定義された概念である。そこで、物理学理論ではその空間にある『電界』や『磁界』は何の為に必要と考えるのか。空間に張られた電線の間に電圧が在るという事は、その電線の間隔の距離で電圧を割った値が『電界』の値で、E[V/m]と言う単位の意味である。空間に電圧が掛かっている意味だ。電線の中に『電子』を加速するための電圧が掛かっている意味はない。次に『磁界』とは何か。懐中電灯の二本の電線を広げて空間を作り、その間に磁石のコンパスを近付けると向きが変り、その空間に何かが在ると考えられる。それが電線に流れる『電流』を原因として空間に生じる磁気の意味と考える。電線で囲まれた空間に何も無かったら、コンパスが力を受ける理由が無い。空間に磁気があることは確かだ。その回路の電線を広く広げて空間を大きくする。きっとコンパスの作用する動きの強さが空間の場所によって違うはずだ。コンパスが力を受ける強さで、そこに磁界が在ると考えて良かろう。『磁界』もその大きさを電流の単位アンペア[A]で、 H[A/m]という距離との比率で評価する。電線の『電流』からの距離で評価する。その『電流』が流れないと言いながらの『磁界』であるから、筆者の理屈は矛盾していると言われそうだ。それが『アンペアの法則』と言う電気磁気学の基礎理論の意味の話になる。誰も『アンペアの法則』が間違っている等とは言わないだろう。それを『電流は流れず』という事で、『電流』の概念を否定した解釈を1987年の秋、電気学会の電磁界理論研究会で発表した。『電流』を否定したら、電気理論は使えない『パラダイム』からの離脱と言える状況になる。電気の研究者などと言っていられないことで、職業の場を失う。それは空間の『エネルギー』の実在を認識するかどうかに関わる電磁界理論の根幹を問う課題となる。現在の電気理論を、物理学概念を科学論展開時の論理的論拠として考える専門家は決して『電荷』や『電子』を否定しない筈だ。否定したら『パラダイム』からの離脱を意味するから。『電子』が『電流』の逆向きに電線内を流れるという『パラダイム』の現代科学者集団の専門性に則っているから、『電流』や『電荷』を決して否定はしない。そこにその科学理論が現代社会の規範となって、一般市民も信奉する科学常識に支配された世界となっている。そこに『パラダイム変革』の難しさがあるのだろう。

電球の機能と放射エネルギー

電球の物理現象は何だろうか。電線路空間に『電界』と『磁界』があることは理解されても、だからと言ってそれがどれだけの価値があるのかと反論され、理解されないかも知れない。さて、豆電球は灯りをともす。灯りは空間に光を放射することで得られる。光は電波と同じ電気の姿ともいえる。光は電波と波長が違うだけの空間に放射される『空間エネルギー』である。空間を飛び、伝播する電気の『エネルギー』である。電球はどんな秘術を尽くして光を作るのだろうか。簡単に理解できない魔術的物理現象を使って豆電球のフィラメントを『電子』が通過すると、置き土産に光の『エネルギー』を放射して、しかも『電子』は何も失わず『エネルギー保存則』の原理も無視して世間的に通用する科学常識と言う理論となり得るのだろうか。フィラメントと言う抵抗体のコイル内を『電子』が通過すると、どの様な機能で光の『エネルギー』を放射するのかを解説できなければ、科学の論理性が疑われる。『電子』が『エネルギー』に対してどの様な機能を発揮するのかが説明されていないのだ。『電子』論は『エネルギー』を全く無視しても、その解釈が科学論として通用している。其処が不可解なのだ。

電池の機能

乾電池も図のようなプラスとマイナスの意味を持たせた長短の二本線の記号で表示する。誰もがその記号で電池を理解するだろう。記号からプラスとマイナスの『電荷』による電圧が掛かっている意味の機能素子と思うのではないか。しかし、電池に求める技術的機能は『エネルギー』の貯蔵機能ではないのか。『電子』の貯蔵器とは思わないだろう。Energy Cell とした。「+」と「-」の記号は少しでも電気を学習すると、全く違和感もなく当たり前の科学常識として意識化される。考えてみればプラス、マイナスと言う表現で定義する物がこの世界に存在すると何故考えるのかその訳が理解できない。何故「+」と「-」を必要としたかはクーロンの法則で代表されるような、物の結合力を託す理論構築のための概念が必要だったからであろう。それならそのような『電荷』が空間で引合う結合力を発揮するには、単に「+」と「-」と言うだけで、その空間像がどのように違うから引合う力が生じる現象かを、その空間的理由を論理的に示さなければならない筈だ。日本の「この紋所が見えないか!」と同じ科学的暗黙の威圧だけで納得させているようだ。「+」と「-」に空間的にどのような構造的違いがあるというのか。その違いが無ければ互いに作用し合うという理屈は成り立たない。論理性が理論の根本からないまま、科学常識として暗黙の科学論となってしまった。なぜ電池が「+」と「-」の『電荷』を貯蔵することでその役割を果たせるとなるのか。あくまでも欲しいのは『エネルギー』の筈だ。『電子』と『+イオン』で『エネルギー』がどの空間に、どの様に貯蔵されると考えるのか。『エネルギー』は空間に実在する物理量なのである。『電子』や『電荷』ではコンデンサやコイルの空間に或る『エネルギー』の代わりには成り得ないことを認識すべきではないかと思う。『電荷』を否定した立ち位置で想定できることは、化学材料物質の構造形態の変化として、空間に『エネルギー』が貯蔵されるものなのであろう。

 

まとめ

『空間エネルギー』と『電荷』の間の関りをどう解きほぐすかの社会哲学的課題であるかもしれない。自然世界の『神髄』と自然科学理論の論旨との関係を自覚したうえで、教育に誤った権威的態度を取らないことを目指すべきと思う。この記事を考えながら、『Electrons』の紋所と科学理論 (2020/4/7) と電気回路要素の『エネルギー』処理機能 の関連記事となった。

電流は流れず

(2020/02/03)追記。電子は流れず (2019/06/06)がより分かり易いかも知れない。

(2019/06/04)追記。ITに質問が有る。『電流が電子の逆流と言う解釈』の矛盾に何故気付かないのか?電子がマイナスからプラスへ流れると言うのが・・・・ に真剣な質問が有る。解答者は定説に固執しているだけで、何も疑問を抱かないのかな。そこには科学はない。確かにこの標題『電流は流れず』は極端な表現で誤解を与えやすいことではあるが、科学技術概念としての『電流』は優れた計測量であり、西洋文明の貴重な技術文明の成果である。しかし電子の逆流で説得しようと言う解答者の意識は本当の理科教育の阻害となり、考える教育にはなっていない。今は『電子』とはどのような空間像で捉えるかが問われているのだ。参考に技術概念『電流』とその測定 (2018/09/24) 。

(2019/02/02)追記。今この『電流は流れず』と言う意味について述べておきたい。電気磁気学が物理学の基礎科目と考えるのが現在の大学の教育指針になっているだろう。しかしそれはオームの法則とクーロンの法則等の電気技術理論の内容でしかなく、自然世界に存在しない『電荷』概念に依存した仮想的技術論なのである。昭和62年春の『静電界は磁界を伴う』から始まって、その年の秋の「電磁エネルギーの発生・伝播・反射および吸収に関する考察」電気学会、電磁界理論研究会資料EMT-87-106 ,(1987年10月8日)をまとめるに当って、8月5日ごろ決断したのが『電流概念の棄却』であった。どう考えても、電流と言う概念が自然界の真理とするには余りにも矛盾が多過ぎて、論理性で耐えきれないと重い決断を自分に課した。全く無知な自分が関わる中曽根教育審議会に絡んだ、大学事件の中でのことで、進退極まった精神から選んだ決断-電流棄却―であった。その昭和62年9月1日長岡技術科学大学で特別講演会が開催された。その御講演者が仰った言葉『不立文字』を覚えている。今になれば、『電荷』否定から、電流は流れずと成り、電界や磁界さえ自然現象を解釈するに使えない処に辿り着いてしまったようであり、正しく『不立文字』の世界に居るような感覚である。

(2013/08/14) 『電流は流れず』と言う物理学理論の根幹を否定する自己洞察は26年前に始まった。2005年5月3日に短文にして文集を出した。(2016/06/16)追記 少し忘れていた。2005/03/24に日本物理学会年次大会で、『誤った電流概念』の標題で発表していた。その時、26日には『クーロン力とは何か』でも発表していた。もうその時に、『電荷』概念は論理的に矛盾に耐えられないと確信していた。現代科学論の研究内容には及びもしない話で、せいぜい高等学校の教科書の内容の深い認識でしかない。しかしようやく、電気現象が『光速度』との関係で認識出来るようになった。それが電気抵抗のエネルギー論である。

(2012/03/09) 記事追記。『電流』は科学技術を支えてきた基本概念である。しかしその物理的実像を捉えようとすると、論理的な矛盾に突き当たる。その意味を解説し、理解頂くには余りにも多くの事象との絡みを解きほぐさなければ無理である事も分かる。この『電流』に関係した事を総合的に考えて初めて、『電流』が流れていないと理解できるのである。そこで初めに、関係する記事を拾い出しておく。 電流計は何を計るか 磁界・磁気概念の本質 『電荷』という虚像 電子スピンとは?-その空間像ー 超伝導現象とは何か? ファラディ電磁誘導則・アンペア周回積分則の物理学的矛盾。更に付け加えておこう(2013/08/15)。クーロンの法則を斬る 『オームの法則』-物理学解剖論ー

(2010年12月22日 この記事を以下のように投稿した。)『電流』と言う物理概念の教育上の意味を考えてみた。それは電流が電気回路導体の中など流れていない事実が含む意味についてである。何故実際に流れてもいない電流が本当に流れているが如くに教えられているのかは、とても深い教育上の問題を含んでいる。乾電池の(+)、(-)端子に電線で豆電球を結べば、その(+)端子から豆電球を通って(-)端子に向かって電流が流れると考える。ところが、そんな電流など流れていない事は誰でも考えてみれば当たり前の事と気付く筈である。しかし、簡単にはその事に気付かない。電気回路の基本にオームの法則がある。教室で電気回路の考え方を教える時に、この法則なしには不可能である。電流なしには大学入試の理科の問題も行き詰まってしまう。電流一つが教育上の社会的大問題を抱えている事になる。高等学校も大学も電気磁気学の授業が成り立たない。

この物理学の基本概念、電流が自然科学とその教育の根本に真剣に取り組まなければならない楔を打ち込む事になると考える。もしこの矛盾を放置したままであれば、物理学教育の何を論じても陳腐な議論になる。はっきり言えば、嘘を純真な子供たちに教えて済ましている事になる。それが物理学教育の実態であると言わなければならない。

電流は流れず。その意味を説明しよう。直流回路で、電流計をその(+)端子に流れ込むようにつなげば、指針が振れて如何にも電流が流れているように指示する。だから誰もが電流が流れていないなどとは考えにくい。電流の単位アンペアは定義から毎秒当たりに通過する電荷のクーロン量である。ならば、正電荷が乾電池の(+)端子から電流として流れるのかと問えば、否定される。真空放電管内の現象は(-)端子から電流とは逆向きに何か(電子)が流れることを示す。それでは、電流の逆向きに負電荷が流れると理論構築しようとすれば、それは矛盾に耐えられない。真空放電管内で見られる電磁気的現象をどう解釈するかも、電流は流れずの説明に有効である。放電現象と電荷・電流概念 も電流概念の意味を理解する参考になろう。

上の「電流は流れず」の意味は掲げた図の懐中電灯回路で考えてみましょう。オームの法則を始め科学技術を支えてきた歴史的に重要な、科学概念・法則が現代社会を支えている。「科学技術」と「物理学」は表裏一体のものとして受け止められている。科学技術を支える原理が「基礎物理学」であると。電気回路で、電圧E[V]と電流 I[A]の積で、電力P=E×I[W=(J/s)] の形でエネルギーの時間的消費比率が確実に計算される。その電力に時間 t [s] を掛ければ、消費したエネルギー量が算出され、電気料金の取引が成立する。こんな便利な科学技術は、長い歴史的な先達の努力によって初めて完成したものである。しかし、懐中電灯の回路からどんなことが学べるかを考えてみたい。科学技術と物理学の関わりについて考えざるを得ないのである。特に「物理学」は理論に偏り過ぎる為、複雑な数学的概念上での議論に抽象化され易い。その為この世界を認識する手段に、新しい概念を次々と加えて、古い概念との関わりを曖昧のままに議論を作り上げるようになる。「電流」と言う概念は技術概念としてこの上なく有用な概念である。しかし、それがどのようなものを意味しているかは考えようとしない。曖昧なままにやり過ごしている。それでは「物理学」とは言えない。実際に電気回路の導線の中を「何が」どのように流れているかをきちんと説明できなければ、それは『物理学』ではない。電流 I[A] と言うのは、もし電線の中を何かが流れていると考えるのであれば、その電流の定義から、毎秒当たりに 電荷がI[C(クーロン)]通過すると言う意味で解釈しなければならない。しかし、電子は負の電荷で定義された物理学的素粒子概念であるから、電流の流れる向きに、電子が流れるとは誰も言えない。(2019/06/04)追記。電子が電流と逆向きに流れると解説される。それで本当に分かると思っているのだろうか。それでは何も考えていない解説としか言えない。教育者側の問題がそこに在るのだ。以上追記。では「何が」流れるのかと尋ねざるを得ない。なお電流と言う概念の定義から、もう一つ曖昧な事がある。それは電流が電荷の時間微分と言う数学的「微分」と関係づけられている点である。例えば、懐中電灯回路の電流は、電池の電圧が一定であるから、流れる電流は一定値である。電流が電荷の時間微分なら、その数学的意味を電荷に適用すれば、時間的に電荷が一定の割合で増加する事と看做さなければならない。そんな電荷の分布状況を頭に描く事が出来るだろうか。導線内の何処の電荷が一定に増加すると理解すれば良いだろうか。もし電流が一定値と言う意味を導線内の何処でも一定の電荷が分布して、それが流れ続ける状況と解釈すると言うのだろうか。もしそうだとすれば、導線内の何処でも電荷の時間微分は「ゼロ」と言う、「流れるのに流れない」と言う数学的矛盾に陥る。「電流」と言う概念一つを取り上げても、その物理的意味を掘り下げようとすれば、「怪しい物理学」の臭いに包み込まれてしまうのである。

電流概念は論理的に厳密性を保証されているとはとても言えない。それは電荷概念、電子概念が極めて曖昧で、全く論理的な追求に耐えられない代物であるからである。

さて、実在と言う世界に照らしてみれば、懐中電灯回路で疑いなく存在するものは『エネルギー』である。電荷や電圧があろうが無かろうが、電池のエネルギーが確実に電球を介して放射される。そのフィラメントの近傍空間内でのエネルギー貯蔵が高温部を作り、その熱エネルギーが「光エネルギー」として空間に放射されるのである。そのエネルギーそのものの実在性を物理学は認識せずに、回りくどい様々な概念の組み合わせで辻褄を合わせているのである。しかし、そのエネルギーを実測しようとしても光の速度で流れるエネルギーを測定器で検出することは不可能である。光の計測単位ルーメン [lm] がエネルギー(ジュール[J])換算できない事にも表れている。エネルギー[J(ジュール)]とJHFM単位系 御参照ください。だから、太陽光線の入射エネルギー率P[W=(J/s)] の単位面積当たりの値を測定できないのと同じ事である。

追記(2013/6/22) 最近電気に関する記事を書いた。電流と電圧の正体 力学から見た電流矛盾    回路とエネルギー流ー電流解剖論ー 生活電気と『光速度』 等に電流概念の矛盾論を主に記した。