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光の屈折と分散

初めに 光の実像をどのように認識するか?光は目の前の空間に実在する。眼で物を観ることは眼に光が入り、その光の一粒(?)ずつの総体として物を脳機能に因って理解する。取り入れる情報は光のエネルギーである。光のエネルギーを物理学でどのように解釈しているかと言えば、プランクの定数と光の振動数の積で捉えている。そんな数式で表現されても、光のエネルギーとはこれこれだと、感覚的に捉え切れないのじゃなかろうか。振動するとは何がどのように振動しているのかを説明して貰わなければ解りっこない。振動数と光のエネルギーを結び付けて理解できる方が物理学の世界を語れる事になっているようだ。振動数の意味が理解できない筆者が語る内容はきっと伝統的な物理学教育現場にとっては逆賊者か反逆者の教義ぐらいに思えるだろう。その辺の事情も良く分かるが、やはり光の「振動数」とは何かを明確にする必要がある。意味不明な『振動数』では物の理屈の物理学には成らないと思う。『振動数』が意味する内容は、気体分子運動論で熱エネルギーを解釈する論法の『質量』の振動論に通じる意味であると思う。すべてエネルギーは『質量』が有って初めて存在する事になっている。光の『振動数』も光子と言う光の粒が気体分子運動論の分子と同じく何か隣り同士の光子が体当たりしながら、その体力を競う能力を持って運動エネルギーとしての存在感を発揮する様子を描いているように思える。しかし光子が『質量』を持つとは言えないから、その辺は曖昧のまま説明できない高度な数学的概念が理解できるまで頑張って努力しなさい、そうすれば分かるようになるから。と御高説に至る。おそらくマックスウエル電磁場方程式の電界・磁界の横振動波を思い描いて解説するだろうが、電界や磁界が振動する訳ではなかろう。電界・磁界には光のエネルギーの空間像を見て採るだけの頼りになるものが見えない。エネルギーと結び付いて理解できない。子供達も検索で光に質量は無いのにどうしてエネルギーがある事になるのかと質問する。エネルギーは質量が持つ運動エネルギーだと物理学教育で教えているからだろう。電気回路内は質量の無いエネルギーだけなんだけれども。質量と電荷を持つ電子が必要になる原因もその辺に在る。光のエネルギーを『振動数』で認識するなら、その振動数の意味を明確に分かり易く解説して欲しい。検索で屈折現象の解説がされている。光の伝播媒体で、速度が異なるから異種の媒体の接触境界で屈折すると説明されている。それで正しいと思う。しかし物理学とは、「何故」と問う事から始まる。何故媒質に因って速度が異なるのでしょうか?振動数では説明にならないでしょう。媒体が違っても振動数は変わらない筈だ。変わるのは波長だ。さて屈折する理由は何か?その何故かを問題にするのが物理学の要になる。電磁力の本質と言う記事を書いて、電気現象の空間ベクトルの話に移ろうと努力の甲斐もなく、光とレンズに足止めされたまま動きが出来ずにのた打ち回っているような気分だ。無所属の悲哀をかみしめながら引き籠り状態だ。仕事をと考えても、考えることが科学常識の否定のような事ばかりでは世間で許され、受け入れられる席などやはり無いかと気遅れのままお恥ずかしい限りだ。止むをえず科学理論の常識にまた逆らうような事ではあるが、物理学の未来像への提言をまとめて置こうかと考えた。日常的科学常識に支えられている科学世界の現状を批判するとは、大人気も無く嫌われると分かっていても言わなければならないと思う哀しさ。少しは専門的技能として電気工学と電気回路論から身に染み付いた質量の無い『エネルギー』感覚が筆者の世界観の根底を成している、その『エネルギー』から観る世界・自然界を描きだせればと願っている。ここまでの話には、数式は無い。数式は必ずしも科学論には必要とは限らない。『電荷』が存在するとお考えの方は、その『電荷』の具体的空間像をお示し頂きたい。数式は無くても説明できる筈ではないでしょうか。プラスとマイナスの『電荷』の違う空間的理由を。光も同じ意味で簡単な日常用語で説明できると思う。『振動数』とは何が振動しているかを。

屈折と分散に隠れた意味 ここに書いたことは誰もが当然のこととして分かっていた。筆者だけの不明であったので削除させてもらった。光の散乱・分散分かり易い高校物理の部屋 に在る。しかし、一般に光の速度は一定の光速度と認識しているが、それは媒体が真空でしか通用しない現象と考える。空気中も真空と必ずしも同じとは言えなかろう。確かに空間定数は空気中も真空と同じと解釈しているが、夕焼け(水蒸気含有量)などは分散現象であろう。真空と空気中での光の速度の差は無いと言えるのか?(2017/12/04)以上追記。

屈折現象 何が屈折を起こす原因か?昔“何も足さない 何も引かない”と言うコマーシャルがあった。何か『エネルギー』一つを背負った旅ガラスの心境に思えた。捉えどころのない『エネルギー』だが、光の振動数より分かり易いとここまで引き摺って来た。

光エネルギーの屈折 光は電気エネルギーと同じく、空間に存在するエネルギー密度分布波である。質量など必要としない、エネルギーそのものの空間分布の波である。上の図は学会での発表に使ったもので、プリズムを想定して描いた屈折現象の解説である。光エネルギーあるいは光は光速度で空間を伝播する。その光速度は、障害の無い真空自由空間では何故毎秒30万キロメートルであるのか。その訳は真空の空間が握っていると考えたい。エネルギーが通過するに許された空間の支配条件に従わざるを得ないということであろう。光と同じ電気エネルギーが伝送線路の電力用ケーブルを伝送される状況と比べて考えてみよう。ケーブルは電気絶縁物で充填されている。その中でのエネルギー伝送速度は遅くなる。ケーブルの単位長さ当たりの誘電率と透磁率でほぼその伝送速度は決まる。プリズムのガラスの媒体特性も誘電率と透磁率で評価できるだろう。その媒体の空間定数の値で光の伝播速度が決まるだろう。真空は何も伝播媒体が無い空間であるが、その真空でも誘電率と透磁率が科学技術の単位系を決める根本的定数として決められている。真空透磁率μo=4π×10^-7^[H/m]がMKS単位系の拠り所と決められている。その空間媒体の定数が光エネルギーの伝播速度を規定している。プリズムのガラス中の速度もその定数によって決まる。

光エネルギーの速度 図は波長λの光が空間を伝播する状況を透磁率と誘電率に因って解釈したものである。電力系統のエネルギー伝送と自由空間での光伝播とは同じ物理的現象として解釈すべきである。ここには少し数式が入っている。平方根と分数と三角関数と若干の空間的定数概念[H/m]、[F/m]の空間的ベクトルの方向性を基にした数式である。この図で伝えたい事は光には正弦波の周波数が無く、波長λの繰り返しのエネルギー密度分布波の縦波が空間媒体の定数によって規定された速度で伝播するエネルギー波であるという事である。一波長でエネルギーなのである。媒体は構成成分の分子構造体であろうから、その構造体の物理的特性(空間エネルギーに対する吸収・放射の共鳴度とでも言えば良いかは明確ではないが、何らかの影響度を及ぼす強さ)に因って速度の影響を受ける筈である。その特性が誘電率と透磁率によって決まると解釈する事を示した図である。上の図は真空の空間特性と所謂光速度C[m/s]の意味である。分散は波長λに因って光のエネルギー密度分布波が異なるため、光伝播空間の媒体特性に因って、通過速度に影響が生じることは容易に理解できよう。実験的には分散が起こることは周知の事実であるから、その物理的理由をどのように解釈するかの問題であろう。光の空間的エネルギー分布を計測するなど不可能なことであろうから、科学的な検証は不可能であろう。光のエネルギーを振動数で解釈するという論理で、屈折や分散の物理的意味が感覚的に心に響くかは、高校生に尋ねて見れば分かるであろう。光エネルギーは1波長でエネルギーなのである。光を検出するには周波数や振動数でしか計り様が無いから、振動数が理論的な概念に組み込まれているだけなのである。数式を示してもそれが物理学の目的ではなかろう。自然は不思議の宝庫であり、魅力に溢れている。解ったと言うにはまだ早い。

分散 色収差はカメラなどの光学技術で問題になる。しかし技術は、技術者はその問題を解決して製品の質を高めて来た。しかし物理学は分散の物理学的意味を明らかにしているだろうか。解らない処を噛み砕いて何故かと考える事の大切さを教えているだろうか。不思議と思う事を伝えているだろうか。意味を教えないで伝統的教育法に従った数式を覚えさせるだけて済ませていないだろうか。

夕焼け小焼けは何故赤い

昨夜は、仲秋の満月。今朝も、朝日が昇る時刻(5時半)になっても、満月が西空に輝いていた。15度程の角度に残る満月である。幾何学で解釈出来ない不思議を輝かせている。

この地球には美しさが溢れている。時の流れで移り変わる四季の彩り。他の星の営みはどんなだろうか。この地球だけに現れる輝き。夕焼け空の燃える赤。IT検索には皆同じ解説で描かれる。そんな常識論を打ち破りたいと思う。日光と公転・自転

光の競演は、光の本質の解釈に掛かる。7色の光と言うが、光に色がある訳ではない。青い光も、赤い光も人の目に入る時のその光と角膜との関係で決まるのだ。光を『波長』で認識する。波長は光が伝播する空間にその速度をゆだねる。それが光速度である。光は真に『真空』であれば、それは物理的に定義される真の『光速度』である。しかし、空気中での光の挙動は完全な真空の光速度には成らない。光は空間のエネルギーの粗密分布の縦波である。決して横波のような、波などを打って進行するものではない。光エネルギーの空間分布と人の瞳との相対関係で、相対速度で、光の色は変わって映るのである。人のエネルギーの受け取り方で決まるだけである。地球上での実験での光の観測は同じ座標上での観測であるから、光の波長の変化は一般には起こらない。しかし、太陽光を観測するとなれば、地球の観測点と、太陽との相対性が必ず関係するのである。そんな意味を解釈する基準にしたいと思って、表現したのが上の図である。光の速度は地球上の人間に都合がよく決まる訳ではない。仮定として、「太陽が静止している」を条件にした。広い宇宙で、星が「停止」している事は考え難い。太陽も同じと考える。太陽だけが宇宙で静止している等、どのような原則から導き出せるかとても納得できるものでない。太陽も光の伝播基準空間に対して運動をし、更にその太陽に対して公転の地球があると考えるべきいである。しかし、そこまで考えると話がまとまらないので、太陽には静止の条件を掛けた。

光一粒と言う意味 ITでの検索で、接する理論では、光があたかも堅い石のような塊の一粒ででもあるかのような印象を受ける。光は塊ではない。だから塵にぶつかると運動量の変化を受けるが如き説明がある。青い光はチリで散乱し易い。赤はそう散乱しないので残る。などが主流の説明になっている。上の図で、太陽光が地球に到達したとき、空気層でどのような特性を示すだろうか。直進すると考えるか屈折すると考えるかの問題である。決して空気層にそのまま直進して入ることは無い。必ず屈折する。

夕焼けの原因 先ず、空気中の水蒸気の密度。水蒸気と夕焼け上空と地表との気温の分布状態。即ち、水蒸気の気温依存による雲の分布が影響する。その空気中の水蒸気の様体と分布が太陽光線の屈折に影響を与える。水蒸気の存在が光のエネルギー量を吸収する。光はエネルギー量の変化を受けて、エネルギー分布が変化し、それが光の波長の変化となる。光は粒ではないから、伝播空間の媒体の状況で変化するのである。完全真空なら、光は影響を受けない。

観測点Pで見る夕焼け空 右に先の図から拡大して、夕焼けの説明図にした。①は単に空気層での屈折を示した。しかし観測するP点は公転で、地球の空気層と共に、速度V_p で光から逃げることになる。水蒸気の空気層内の分布と量及び気温分布で②のような光のエネルギー分布が相対的に『赤方偏移』を引き起しているように観測される。それが夕焼けの基本的解釈である。

天眼鏡の屈折司令官

IMG_0653窓際で『天眼鏡(こんな呼び名があった)』を陽射しに置いた。太陽光は、そのエネルギーの強烈さを秘めている。オリンピックの採火も鏡で太陽のエネルギーを使う。陽射しの中に居れば、ポカポカと暖かい。その熱エネルギーは光が持っている。レンズを使えば、すぐに火起こしができる。平行光線の太陽光をレンズで屈折させて、焦点に集めれば木材は燃え上がる。理科や物理学で光を解釈すると、とても複雑な意味付けがされる。難しくなる。波長、振動数あるいは周波数などの言葉で説明されると、光の温かみも消えてしまう。

温かみの基は何だろう 物理学的、教科書的解釈には、日常生活で感じる感覚に応えて欲しい。温かみや温度の意味が説明できるだろうか。『エネルギー』とは何か?

屈折の司令官 レンズ、天眼鏡あるいはプリズムは光の性質を理解する大切な意味を示してくれる。『屈折』と言う現象である。光の進行方向が変化する現象である。光は基本的に曲がらず、直進する。この光の直進と言う意味一つをとっても、それは難しい意味を含んでいる。余談になるので避けたいが、光の進む空間と言う意味は惑わされ易いので、その進む空間の意味を明確に定義しておかなければ、論議が成り立たないのである。例えば、今真上の頭上に向かって、光を点滅させたとすれば、その光は頭上を真っ直ぐ進みはしないのである。地球は自転、公転しているから、光の進む空間に対して常に方向を変化させているからである。以上が余談である。ここで取り上げる光の話は、手元の狭い範囲の話であるので光の直線進行の意味は光の相対速度まで考える必要はない。屈折と光路

(2016/11/22)追記。上の図で、レンズ軸に平行な光線が焦点Fを通過すると言う解釈は間違いである。教科書の誤りを信じていた結果の間違いでした。間違いで済みませんでした。焦点距離がもしFの位置であれば、その位置にスクリーンを置けば、A点からの光はそのスクリーンの面の一点にすべて集中し、像がはっきりと映し出されることになる訳です。従って上の図は間違いであります。以上訂正させて頂きます。(2017/12/04)再追記。間違いと言うのはFと言う焦点の概念だけであり、観測対象の一点Aからの光とレンズの屈折現象の角度の説明は良く出来ていて、正しい。平行光線が焦点を通ると言う意味が無意味である。図では眼で観測する時どの位置でも殆どAの文字は見える事を表現した。どの光路からの光であるかはレンズと眼と対象の間の関係で決まるだけである。しかし眼でなくて衝立などやフイルムに像を写すとなれば、Aからの光の様々な光路を通る光がフイルムの或る一点に全て集まる事により、Aと言う文字の像が鮮明に写る事になる。そのフイルムの位置とレンズの間の距離を焦点距離と表現しているのだ。焦点距離は観測対象のレンズからの距離で変わるのである。だからレンズが幾らの焦点距離かという表現は意味がない。無限遠の太陽の写像の距離を焦点距離と言うように定義すれば、レンズ一つに一つの焦点が決まるから混乱は避けられるだろう。そのような定義にすれば、衝立、フイルムに写す写像の位置は写像距離となり、焦点距離とは異なる事になる。しかしカメラなどの実際の焦点距離が写像距離を意味しているから、レンズの無限遠の定義を使うのは困難ではある。しかし、レンズの焦点と言う概念が平行光線からの教科書の解釈である限り、レンズと光の関係は混乱し続ける問題である。

光の屈折は光が進む空間の媒質(空気、水あるいはプラスチックなどの進行空間の材質)の特性の違いで起きる境界面の現象である。上に示した図はレンズに観測対象のA点から光が入ると、そのレンズへの入射角が様々であるから、それぞれの入射光線で屈折の方向も変化する。従って、レンズから出る光の方向もばらばらの方向性を持っている。手元に天眼鏡があれば、物を見て欲しい。人の目とレンズからの像と言う意味には、余り焦点には関係ない事が分かる筈である。どんなに位置を変えても眼には物がほぼ良く見える筈だ。どの方向の光路を辿って来た光かは分からなくても、対象物はよく見える。ある一筋の光があれば、他の光路の光は無関係なのである。目での観測に、レンズの焦点など余り関係ないと言いたい。写真機、カメラでのレンズの組み合わせは、とても技術的にも工夫されていて、その場合の光の光路はもっと複雑ではある。それは写真の撮影画面の広さに全面で鮮明な像が写らなければならないからである。画面に他の対象点の光が混じれば、ボケの像になるから。フォカスの調整と言う事になる。さて屈折の司令官とは?屈折は媒質の境界面で起きる。光の進行方向が変わるのである。何故変わるのだろうか?この理由を説明するのが物理学の専門領域になるのだろう。ここで『問答』をしたい。物理学では、このような現象になると言う結論を説明しているが、その原因までの「何故か」と言う事には答えていない。ある程度詳しく媒質について明らかにされていよう。角度に関して、『スネルの屈折の法則』がある。屈折率が詳しく分かっているようだ。光の屈折で『色収差』と言うプリズムの光分散の問題がある。波長に関係ない屈折の問題に話題を絞るとしても、屈折の問題を預ける司令官の采配を論じるには、光の物理学的特性の振動数を採り上げざるを得ない。司令官と光の振動数の取り組みを論じたいのが主題ではある。レンズに入射する光が何故進行方向を曲げて、屈折しなければならないのだろうか。レンズの中に入れば光の進行方向は直進すると観る。媒質の変化する境界だけで変化する。その進行方向を変化させる仕組みを決める基準を司令官と名付けた。物理学では光は振動数で解釈される。光の一粒も光子というhν[J]と言う振動数ν[1/s]で解釈される。屈折はレンズ面への入射角を検知して、その到来の光路から進行方向を司令官が判断すると観よう。司令官は入射光の何を検知してその入射角を判断するのだろうか。司令官がもし、可視光線の振動数を判断基準にするとしたら、光の横に(物理学理論では、縦の振動数ではないと思う)振動すると言う何を検知して入射角を計量・判断するだろうか。次に、何を基準に屈折角度を決めるだろうか。そこには光の速度での時間的余裕は与えられず、瞬時性が求められる。瞬時性とは振動数を検知する余裕は与えられないと言う事である。光速度で入射する光の入射角度および屈折角度は何を持って瞬時に判断するだろうか。光の本質を振動数で捉えている限りは、この『問答』は成立しないと思う。光一粒のエネルギー分布で、その波頭値の入射瞬時ですべての方向性が決まると解釈しなければならない。光のエネルギーが暖かさそのものであり、その波頭値のエネルギー分布が光の特質を決める司令官の判断基準である。光とは何か?-光量子像ーがその意味を示している。この記事は前のレンズと光路の追加説明でもある。