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政治と教育

教育基本法(昭和22年3月31日)われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。・・。

と新しい教育を目指して戦後の日本が始まった。しかし、『根本において教育の力にまつべきものである。』が何処か変質したものに変わったようだ。教育の政治的中立性 (2020/07/22) 。

政治と行政は密接な関係である。日本の教育行政は文部科学省が担っている。そこで、教育の中身が決められて、その規定事項に従ってしか教育が許されないことになっている。予算の裏付けによって子供たちの理想の教育が初めて可能である。『学習指導要領』と言う国家行政の検閲によって教育内容が縛られている。

理科教育について「学習指導要領」の内容を学習させて頂いた。

右は高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説の77ページである。

原子に関する部分の文章を読むと、

電子、原子及び原子核に関する現象についての観察、実験などを通して、次の事項を身に付けることができるよう指導する。

ア 原子について、次のことを理解するとともに、それらの観察、実験などに関する技能を身に付けること。

イ 原子について、観察、実験などを通して探求し、電子と光原子と原子核における規則性や関係性を見いだして表現すること。」と書かれている。

‥の観察、実験などを通して・・とはどの様な事を指しているのか?これが教科書を検定する検定基準になると解釈する。とても腑に落ちないのだが、教科書検定以前に、この学習指導要領の内容と意味を『検定』する必要はないのか。誰がどのように『合格』と判定して告示に至ったのだろうか?

また、思考力、判断力、表現力等を育成するに当たっては、原子について、観察、実験などを通して探求し、電子と光、原子と原子核における・・。等と原子について「観察と実験」とはどの様な事を想定した指導要領か?これで子供たちの理科教育を考えた教育機関の目的がどこに在るのか理解できない。

教育と学術審議会と政治。

何か政治の目玉が見当たらないと、教育を政治の題目にするようだ。政治が教育を取り仕切る日本の教育制度は正しいのだろうか。教育委員会の制度が形式的に整えられている。しかしそのトップは行政機関の教育長が取り仕切っている。独立した教育委員長ではない。

教育審議会が教育の基本方針を答申し、それによって方向付けられる。教育審議会委員は行政が選任し、その方向性は既にそこで決まるようだ。その結果が上に挙げた「学習指導要領」として決まって行く。日本の科学者は上の例のような「原子に関する、観察と実験・・」の教育指導論で良いと考えているのだろうか?今回「学習指導要領」の一部を拝見して驚いたので取り上げた。『電子』が電気現象には無用のお荷物であるとの認識から。

数学と自然科学

はじめに 今年は、高等学校の理科教育について思うことが多かった。自然科学の最先端の研究分野は際限なく領域が狭まり、専門に特化してゆく傾向に見える。その自然科学という分類の中の研究者・科学者の置かれた科学する対象と役割は全体を見渡す哲学性が益々失われ、理学・自然科学全体を展望したその社会的問題を統合的に論じる視点の欠如を生み出すことになる傾向が強い。利益優先の科学技術競争、それも残された僅かな対象に集中した競争に依る歪んだ社会を歩む危険性さえ気付かずに過ぎて行く。社会の未来に対する無責任が進行する。利益・経済競争で企業風土・技術の貴重な資源が失われ、科学技術の薄っぺらな不完全性の社会が生まれる。そんな人道的にも、技術的にも貧相な社会に進んでゆくような不安感がぬぐえない。科学技術と言っても、『生物』関係の生命現象はその謎の中を覗いても全く理解の範囲を超えた分野に思える。細胞の中の何が何の生命の機能を果たす役割を成しているか全く理解できない。生命現象の解説論を読んでも、細胞の『エネルギー』が云々と言う一文に出会う時、その『エネルギー』とは何かとつまずいて理解できなくなる。体温と『エネルギー』の関係は?などと考え込んでしまう。また高度医療の関連研究現場での医薬品開発競争に於いても、その利益と社会的経費負担の未来像の兼ね合いの設計図構築についてさえ不安の原因にもなる。そんな現状に於いて、その未来への橋渡しとしての教育内容に何を厳選し、どうまとめるかが大きな課題となっている。未来への道筋が見えるのだろうか。本当に教育に立ち向かう姿勢があるのかと、教育する側が問われている。『電荷』とは何かに答えられるだろうか。『エネルギー』とは何かに答えられるだろうか。空間に存在するその実像を描けるだろうか。数式でなく日常用語で伝えられるだろうか。

と大仰な事を述べても自分は、ただ時の流れるに任せて、不図浮かぶ疑問を糧に膨らませ、行き着く先も見えぬままそこはかとなく漫然と無様な姿を曝している。昔携わっていた頃の仲間や職場環境もはるか昔の事でみんな別世界の出来事になり、繋がり一つない中に居る。止むなき仕儀と梲が上がらないながらも書き記す記事には少なからず人生を掛ける価値はあるものと自負を持つ。哀しいながらも。ただ、何故疑問が次々と浮かぶかが不思議である。しかも疑問の先には新しい観方が生まれる。数学などせいぜい四則演算程度しか分からないが、電気回路の計算などに三角関数の手法を適用してみると、数学の持つ論理性と言う意味が分からなくなってくる。この記事を書くきっかけは、積分計算で考えた事である。その関係は次の機会に回し、今回は数学の意味を考えて見る。科学技術と自然科学とでも少しは違う感じがある。従って数学が自然科学の範疇に入らないとしても違和感はなかろう。自然科学の解釈には数学を武器としてその論理性に説得力を発揮できると考える。それは特に物理学系に於いてであろうか。生物や地学さらに化学では余り数式を必要としていないかもしれない。狭い電気回路解析の範囲からの視点かもしれないが、数学が自然科学の範疇に入るかどうかを考えてみた。そんなことで検索をしてみたら、数学が自然科学に分類されて・・ に同じ疑問と考えがあった。ここでは電気回路計算などで突き当たった壁としての数学の意味を取上げてみたい。

自然科学とは何か 数学との関係を考えるに、先ず自然科学とはどんなことかと考えてみた。

自然科学とは 誰もが同じ意味で捉えているとは限らないだろうから、自分なりの解釈をしてみた。

ファイル「自然科学とは」を書き換える。自分がこんなことを書いていたかと!

“自然を科学(分析と統合の反復重層思考による統合認識)するとは?

それは人が自然(人間も含めて)を理解するための共通の解釈手法を確立することである。そこには言語が必要である。解釈の基準として概念が造られ、その階層化が図られる。より根源的な必須概念は何かを探ることが結局科学の根本目的であるように思う。

科学にも汎用(実用)性と哲学(思想)性の2面がある。

汎用性は、理解の簡便さと損得競争にその有効性を発揮する。社会体制の安定・統制に有効である。

哲学性は純粋な精神的自然融合意識の探求で、極めて感覚的世界観の構築が目的となる。これは汎用性の対極となり、その破壊作務ともなり易い。従って、従来の共通認識と相容れない様相を呈し、過去からの権力構造の社会体制に不都合な異質性と見做されやすい。

数学と自然科学の間に

数学は極めて哲学性の強い科学となろう。しかし、自然科学に分類できるかと言えば、必ずしもそうとも言えない。

自然の認識に数学を適用する場合には、大切な条件が必要と考える。それは数式の中の変数および関数の意味を自然の世界の実相に対応させて扱う事が条件となる。自然現象の『何』を数学的に取り扱い、適合させるか。即ち物理的『次元、単位』を明確にしなければ、数学が自然科学の部には入らないと思う。数学的に取り扱う数量概念の変数・関数が自然現象の『何』を対象にしているかが明確であって初めて、自然科学に分類されるだろう。”

との内容ファイルである。自分なりの解釈であるので、批判があってよいと思う。

数学 数学は自然科学の範疇には入らない。それは自然世界を対象とすれば、必ずその対象の『次元』あるいは『単位』が付帯する筈である。『次元』『単位』については国際単位系(SI)の要約日本語版 が参考になろう。

数式の意味 具体的な数式を取上げて考えてみよう。

%e6%8c%87%e6%95%b0%e9%96%a2%e6%95%b0指数関数 自然現象を表現するに欠かせない関数式である。特に過渡現象の評価式として欠かせない。過渡現象と言っても、世界を思い浮かべれば、どこでもいつでも過渡の連続である。輪廻転生の世界である。水素原子も水素原子のままではあり得ない。花が咲けば実にもなる。しかしこの式はそんな世界を見る物理的な自然現象を評価する何物をも示していない。xは無次元でなければならない。時間とか距離とか質量とかの物理量を対象とした変数とはなり得ない。自然対数の底eは単なる数でしかない。世界の何をも意味していない。e^x^も3.5^x^も単なる数の累乗と言う純粋な数学的表現でしかない。そこには何も世界観が反映されてはいない。関数f(x)が世界を表現する物理的意味を持つためには、1×e^x^の係数1が何らかの『単位』を持たなければならない。そのように世界を認識する対象の『次元』『単位』を明確にした時に初めて、自然世界に結びつくのである。またこの式には自然現象解析式としては欠点がある。それはxが無限となっても、零となっても関数値が最終値には到達できない点である。電気回路解析にこの過渡項が含まれると、永遠に自然現象が到達する最終値に到達しない矛盾を持つ関数式である。この指数関数式だけでは自然世界を語る意味を有していないと言う点で、あくまでも数学の範疇で自然科学の範疇には入らない。

%e3%82%aa%e3%82%a4%e3%83%a9%e3%83%bc%e3%81%ae%e5%85%ac%e5%bc%8fオイラーの公式 世界の至宝とも言われる式である。指数関数と三角関数更に虚数の関係をこの単純な式に表現していると言う意味であろう。確かにそれは純粋な数学的意味ではそうかも知れない。電気工学でも良く利用する関係式でもある。三角関数の長い表現式を短く表せるから便利かもしれない。それはその背景にその式の意味することを共通に理解する約束事を決めているからでもある。この式が本質的に成り立つと言う蓋然性など無い。このように両辺を等号で結ぶ(定義する)と言う一つの解釈する考え方を表現しただけであろう。

角度 三角関数の変数xは円形の二次元平面の角度でなければならない。角度はラディアンあるいは度である。この角度と言う概念は単純でありながら『次元』を持たない無次元量なのである。物理的解釈量の計算式に組み込んだ時、全く『単位』の意味を成さない概念量なのである。不思議な量である。

虚数 iあるいはjの記号で表現する数量である。数に虚数記号i等を付ければ、その数は虚数と言う数量を表すと決めたのである。この虚数が世界を表現するに有効な数であるかどうかと悩んでしまう。『虚時間』等を論じる人もいる。当然『虚空間』も話題になろう。『虚』の字が付けば理解できない世界が益々複雑怪奇な様相を呈して来る。科学技術の世界、電気回路解析の世界でも虚数記号は多いに使われている。オイラーの公式の指数関数などにより実数と虚数を組み合わせて、電気現象を論じ、解釈法を講義すれば、如何にも高度な知識技能の持ち主と思われるだろうが、余り意味はないのだ。jsinxの数値には何の意味もない筈だ。有効な量は実数のcosxだけである。ナイキスト線図などの過渡現象解釈法では、系の安定性評価法として有用であると常識になってはいる。それはそれで誠に結構な虚数の応用例ではある。しかしどう考えても、この世界に虚数で表現されるべき実在があるとは考えられない。それは非現実世界の数量である。この虚数概念が科学論の非現実的で、曖昧な論理を展開する抽象化に拍車を掛けたのかもしれない。虚数量で認識すべき現実世界は存在しない。虚数はその数が明確な『次元』を持ち、現実世界の物理量で定義した『次元』とは異なる何者であるかを確認できる自然世界を表現することは出来ないであろう。虚数は自然描写に役立つか 。電気回路解析で、インピーダンスベクトル表現において、リアクタンス成分に虚数概念を適用する手法は伝統的な優れた電気工学基本解析法として定着している。その場合の虚数のリアクタンス値も実数の抵抗値と同じ単位『Ω』である。ただその意味も直角三角形の関係が成り立つと言うものを実数と虚数で表現することで図解表記法として優れていると言う事からの虚数表現であると考える。特別本質的に虚数概念でなければならないと言うものではなかろう。むしろ何故直角三角形でベクトル的な抽象化が有効な表現法になるのかが不思議にも思える。勿論過渡現象でなく定常動作時の表現法での事である。例えば、電源電圧が方形波の波形では、虚数表記の直角三角形が適用できない。正弦波でない方形波電圧では電圧の回転の意味が無くなるから。

%e3%83%9e%e3%83%83%e3%82%af%e3%82%b9%e3%82%a6%e3%82%a8%e3%83%ab%e3%81%ae%e5%bc%8fマックスウエルの電磁場方程式 所謂電磁波の伝播現象を表現した偏微分方程式と言われているものである。1964年に発表された。ある空間座標の1点の位置をベクトルr 、その点のある時刻tでの電磁氣の状態がE(r,t)(これを電界強度と言う)と H(r,t)(磁界強度と言う)である時の、その点のその二つの電気量間に在る関係を表現したと見做せる式である。表現し難い電気現象の状態を基本的に2本(実際は4本であったかも知れない)の方程式にまとめたと言う意味で、優れた業績として高く評価されたのであろう。実際の原資論文(ページ数53ページ)を読んだ訳ではないので、どのような方程式に表現されていたかまでは分からない。専門的な解釈で、この方程式には電磁波が空間を伝播する時、その電波が光の速度で伝播すると言う意味をこの方程式に示された事がとても重要な評価すべき点であると捉えられていると理解している。しかしこの方程式を眺めても、特別光速度の定数が使われている訳でもない。光速度と言う解釈がこの方程式に隠されている事を最初から認識していたかは分からない。方程式の電波の状態を表す変数がそれぞれ直交した電界と磁界の二つで、そのベクトル量に直交した方向へ電波が伝播する意味を表現している。微分演算で「回転」の意味を表すrotの記号は誰がいつ頃から使いだしたかが分からない。同様にdiv,gradについても?

光速度 光速度の値がどのように当時考えられていたか。光の速度測定 にその当時の様子が解説されている。フーコーの実験で、1862年光速度c=2.986×10^8^m/s と測定されていたようだ。既にマックスウェルの方程式の頃にはほぼ正確な光速度の値が認識されていたようだ。有名なマイケルソン・モーリーの実験が1887年である事やヘルツの電波伝播実験が31歳頃の1887年である事などとの時代のつながりにも科学技術・自然科学の進展の意味を重ねて見るところにも興味が湧く。以上はマックスウェル方程式の電磁気学的意味を考えたものであるが、その数学的意味についても考える必要があろう。

偏微分方程式の意味するところ 式を見ても光速度で伝播すると言う意味など簡単には読み取れない。時間と距離の二つの変数に依る微分が同時に仕組まれている事が式の意味を複雑にしている。微分演算子の記号rotは距離微分を表現しており、丁度水平面上の波が円状に広がるその強度分布の変化の様子をベクトル量として捉える意味を表すと言えよう。微分する距離ベクトルに直交したベクトルで、どのように分布しているかを表現しした意味を表す。それが時間の偏微分とベクトル的に等価であると言う意味である。そこに光速度との関係は式上に直接表されていない。方程式に隠された光速度伝播を読み取るには、少し空間ベクトル解析法を適用するのが分かり易い分析法になろう。『瞬時電磁界理論』とは に方程式の空間的意味の解釈の仕方を述べてある。一通り電磁気学的にはその解釈で教科書の共通理解は出来る筈だ。しかし、それは汎用性の専門学術的解釈法でしかない。それではまだ自然科学の本質に迫る真理と言う深みに於いては遠く及ばないのである。アインシュタインが『特殊相対性理論』の理論構築の基本方程式としたのがこのマックスウェル電磁方程式である。空間の電界は『電荷』が実在世界の実在的物理量であることを前提にした論理概念である。当然変位電流も、それが原因とする磁界も同じ『電荷』が世界の物理的根源物理量(素粒子概念)であるとの認識に基づいている。最初に感覚ありで、『電荷』否定の道を探った科学論は初めから伝統科学論の破壊作務の道であった事になる。その典型的対象が『マックスウェル電磁方程式』の無用論になる。その具体的意味はパラボラアンテナ面での電磁界描写が出来ない矛盾で分かる筈だ。パラボラアンテナ面の中心軸に対してどんな電界と磁界ベクトルを描けるかに示される。衛星放送の電磁波方程式を解剖するに述べた。『エネルギー』一つの世界観である。だから光の縦波(エネルギー密度波の縦波)論に繋がり、『特殊相対性理論』は詭弁論の記事になった。パラボラアンテナ面での電界と磁界の空間ベクトルを考えるだけで、マックスウエル電磁場方程式の論理性に矛盾があることは分かる筈だ。さらにもう一つ、今はデジタル信号の時代で、デジタル信号は直流の断続信号であると見做せる。大きさ1と0のデジタル波形にどのような電界と磁界の横波信号で電波伝播現象を解説できるだろうか。正弦波の穏やかに変化する信号波形には理論解説手法として役立った(実際は役立たない)かもしれないが、デジタル信号にどんな説明が出来るだろうか。瞬時的には直流値と0の繰り返し波形である。デジタル信号波形も空間の特性値(誘電率と透磁率)との共振現象で伝播するエネルギーの縦波であるから、波形は歪んだ断続波になるだろう。要するに『エネルギー』の縦波(光と同じ)の光伝播現象で捉えれば十分なのであり、横波概念は不要だと言う事である。

微分演算子とベクトル計算 高度な数学理論は抽象性が際立っていて、なかなか理解できない。数学的論理性を持って、物理世界を解釈しようとすると、その物理量が眼の前の空間にどのように存在するかを確認する事から理解の糸口を探る。式に表現するにはその物理量の『次元』『単位』をまず確認する。その物理量の概念が空間的方向性を持つベクトルであるか、あるいは大きさだけのスカラー量であるかを確認する。その世界認識の基本的確定後に初めて、数式の変数や関数での表現法に移る。数学的表記法は微分演算子などのように、複雑な数学的意味の内容を簡便な記号で表現できる点に特徴が発揮される。そんな記号が式を複雑なように見せかけているのであるが、記号の意味はそれほど難しい訳ではない。記号が表現している意味を日常用語で解釈し直せば、殆ど数式の意味は分かる筈だ。ただ空間の3次元座標(3本の直交した軸の表現空間)を頭に描くには訓練を必要とするかも知れない。微分演算子の空間的意味は別の機会にしたい。

数学と理学 理学と言えば一応理科教育で取上げる4科目を上げることが出来よう。物理学、生物学、化学および地学となろうか。その中で数学と関わりが強いのは物理学である。他の科目は殆ど数学には無関係と思う。数学が活躍する分野は応用の経済学統計、データー処理など社会系分野に欠かせない程広がっている。しかし、理学の生物や化学では数式を使うことは殆どなかろう。物理学も特に相対性理論や素粒子部門がその数学に強く関わっているようだ。物理学でも素粒子部門と物性部門の2つに分かれている。物性は技術系物理学で、素粒子部門は数学系物理学と言えるように思う。宇宙論や素粒子論の数学はどのような意味の変数や関数そしてその『次元』『単位』を扱うのかとても理解できない難しさに思える。どんな世界観を持って数式を使うか。技術感覚からは遠すぎる。物理学で教育的観点から思うに、『電子』の実像をどのように子供達に伝えるかそんなところが最も大切な数学以上に求められる課題と思う。数学や数式では『電荷』や『電子』の物理的実像を伝えることは出来ない。

 

レンズと焦点距離

極める専門を見失った浦島太郎は競争社会に向かないのかな?昔は電気工学が自分の専門分野だと少しは思っていた。去年は変圧器の奇想天外診断などと言う思い付き実験が長年実験的証明も無しで悶々としていた電気回路に明確な電線路空間におけるエネルギー分布の姿を捉えることに結びついた。それも電気の教科書の内容に背くような結果になった。その流れから電気回路現象の解釈に今年は幾つかの進展を得たと安心している。いつも考えることが物議を醸すようなことが多いようで誠に恐縮している。レンズと焦点距離などと言って何を書くかと責められそうで誠に心配ではある。高等学校の3年生の物理の授業でレンズの機能を教わって、感心して了解し、納得して長いことその教科書の解釈を信じて来た。ここ数日眼とカメラの関係で、レンズの焦点距離に頭の中で混乱が生じていた。以前書いたレンズと光路を見たのが切っ掛けでもある。焦点距離と光路の話として、雑科学ノートー光学機器の話 などがある。この光路と焦点距離の解説が理解できないのである。そのレンズと光路の関係を全く数式を使わずに、日常用語で説明してみよう。

(2017/11/18)追記。 『焦点距離』とはどのような定義用語なのか分からなくなってしまった。一つのレンズには一つの焦点距離しか存在しないのではないか?と考えたいのだが、カメラの焦点距離はそんな意味では使っていないようだ。 理科や物理で教えるレンズの機能は一つのレンズで、その光学的光の道筋を説いて理解を促している。しかし実際のカメラの『焦点距離』は上の説明にあるように、11mmと数100mmとで、遠くの像が大きく拡大された望遠レンズでの像が示されている。カメラの『焦点距離』はレンズの機能説明の意味とは全く異なった使い方をしている。デジタル一眼レフカメラの基礎知識は画角と言う用語との関係で解説されている。もう少し考えたい。コメントに対する意見で考え違いであった事から追記となった。用語『焦点距離』の定義が明確か(?)の問題でもある。次の図で考えて見た。

レンズの写像と焦点距離(焦点距離とは?) カメラで使う焦点距離とレンズの焦点距離との用語の意味が必ずしも同じとは見えない。筆者自身も明確に捉えていなかったようで、実に不甲斐ない。実用的にはレンズはカメラとしての光学技術を生かす事を求めるものである。しかし学校教育でレンズとしての機能を学ぶ場合には、カメラの焦点距離は理論的に難し過ぎて、学習するには困難である。単一レンズの光学的機能を理解する事が先ず基礎として必要であろう。その場合の焦点距離とはどのような意味で定義するかの問題として捉えたい(筆者の独断であるが)。無限遠の太陽の写像はレンズに決まった写像距離即ち『焦点距離』を示す。それを焦点距離と定義すれば分かり易いと思う。そのレンズを使って被写体の像を写すと、その写像位置は太陽の写像より必ず離れた位置に結ぶ。その関係をレンズ径11㎝のもの(下の手持ちレンズの①)で調べた結果が上の図である。同じ寸法の観測対象・被写体A、BおよびCをレンズを通して衝立に写す。少し遠いAは太陽の写像距離とほぼ同じ距離に小さな像を結ぶ。観測対象が近付くと、写像位置は離れて結び、像は大きくなる。この写像位置をすべて対象に対しての、それぞれの焦点距離と言っているようだ。それがカメラの焦点距離の意味に近い。ただカメラでは、望遠レンズなども含めるとなかなかその焦点距離と言う用語の意味はレンズの意味を理解する事とは繋がり難いように思う。『焦点距離』と言う用語も観測被写体に対する鮮明な写像を得るそれぞれのレンズからの写像距離であるという意味で使われている。無限遠の太陽の写像距離を焦点距離と決めれば、レンズ単体に対して、一つだけの焦点距離となり混乱しないと思う。ただカメラでの使用とは違ってしまうが。さて上の図のような写像距離を簡単に調べるには、手にレンズを持ち被写体を観測しながら、レンズと眼の距離を変えて、丁度被写体の姿が消えた時(被写体の像が正立像で見える状態から眼を離すと或る位置で像が見えなくなる。視界が靄のように何も見えない状態に成る。その眼とレンズの距離が写像位置に成り、衝立に像が写る焦点距離と言われる距離である。それ以上に眼を離すと、反転像が見える事に成る。その眼で見えるレンズとの間の距離は焦点距離・写像距離とは何の関係も無い距離である。)のその距離が写像距離(普通に言う焦点距離)である。形が消える未経験の写像となる距離の時が所謂一般に言う焦点距離に当たる。その点の前後で、視界に見える像は正立像から逆転像に丁度切り替わる境でもある。眼で見えなくなる位置がいわゆる焦点距離(フイルムに写る写像距離)であるという意味が分かれば、レンズの実像と言う意味が理解できたと言えるだろう。教科書の『焦点(レンズ軸に平行な光線が収束するという点)』と言う概念は無意味であり必要が無い。また理解不能の状態だ。ウイキペディアに焦点距離がある。この焦点距離の定義は太陽の焦点距離と同じ意味である。カメラの写像の距離(フイルムの位置)とは異なる意味だ。??。

%e5%ae%9f%e5%83%8f%e3%81%a3%e3%81%a6%e4%bd%95%e3%81%a7%e3%81%99%e3%81%8b実像って何ですか? 凸レンズの機能の説明の教科書的解説方法である。レンズに入射する観測対象からの軸平行光線の光路は焦点を通り、レンズの中心を通る光路との交点に実像が結ばれると説明される。そんな実像はありません。おそらくカメラの撮像面に写る反転像を解釈する原理としての説明になったのであろう。

%e3%82%ab%e3%83%a1%e3%83%a9%e3%81%a8%e7%84%a6%e7%82%b9%e8%b7%9d%e9%9b%a2カメラと焦点距離 カメラのフイルムや撮像面は丁度焦点距離(この焦点距離と言う意味が曖昧なのである。カメラの写像距離で被写体までの距離で変化するから焦点距離と言う用語で解釈すると、焦点距離は無限に存在する訳である。その『焦点』と言う意味にどのような意味を持たせているかが明確でなければならない。その『焦点』の用語が、単一レンズの原理として使う教科書用語『焦点(こんなものは存在しない)』との意味と関係付ようとする処に混乱の基が生まれる。平行光線の『焦点』は存在しない事を知るべきだ。2017/12/28追記)の位置に在る。光が焦点を通過した後に出来る像などではない。カメラの像は確かに反転像である。カメラについてはデジタル一眼レフカメラ (この解説記事でも、「レンズの焦点距離」と言う表現が使われている。しかしレンズに決まった焦点距離が定義されている訳ではない。レンズと観測対象との距離で、その写像距離はそれぞれの距離に対して、無限に存在する。だからレンズの焦点距離と言う表現は誤解と混乱を招く。太陽光線の焦点距離と言う意味で定義すれば、確かにレンズに一つの焦点距離が確定する筈だが、そのように定義されている訳でもない。2017/12/28追記)が参考になろう。

%e3%82%ab%e3%83%a1%e3%83%a9%e3%81%ae%e5%8e%9f%e7%90%86カメラの原理 薄暗い部屋で、障子戸をレンズを通してレンズから焦点距離(太陽光線の焦点距離で、実際はそれより少し大きい筈であった。写像距離とすべき意味を間違っていた。2017/11/21追記)だけ離した紙に写すことが出来る。レンズと距離と像の関係はカメラの原理を表している。この紙に写った像を実像と言えばそれは理解できる。しかし教科書の説明の焦点距離より後方の像は存在しない(文末のコメントの指摘通り、間違いでした。太陽光線の焦点距離より必ず後方に写像位置は来る。2017/11/21訂正追記。)。

焦点の意味が分からない

%e6%89%8b%e6%8c%81%e3%81%a1%e3%83%ac%e3%83%b3%e3%82%ba手持ちレンズ ①は直径11.5cm 、f=30cm (焦点距離)でジオプター+3Dとある。②は直径5.25cm 、f=10.5cm程。焦点距離は太陽光線を集光して測定した。老眼鏡も同じ凸レンズで、同じ機能の特性を示す。メガネの焦点距離についてはハヤシメガネ度数・焦点きょり早見表 にジオプターとの関係が示されている。また高校物理の教科書の理論がメガネの理論ーFNの高校物理 に解説されている。この高校生が学習する内容がとても難しくて私は分からないのである。特に問題と考える点が焦点距離と光路の関係である。

拡大鏡の例

3d%e6%8b%a1%e5%a4%a7%e9%8f%a1+3D拡大鏡 焦点距離(約30cm)より短い5cm程での拡大。目の位置には無関係に同じ大きさに見える。

%e5%86%99%e7%9c%9f381焦点距離(この焦点距離は太陽の写像距離で解釈していたが、必ずしもそのような定義ではなかった。2017/12/28追記) レンズを手にして考えた。レンズで文字を拡大してみる。文字とレンズの距離が焦点距離以内なら、眼をレンズに近付けても、遠避けても文字の大きさは同じように見てとれる。

%e5%86%99%e7%9c%9f375眼で見るレンズの像① 正立拡大像はAが焦点距離fに対してf以下であれば、ほぼ同じ大きさに見てとれる。目の位置Bの距離に関係なく。この拡大鏡のレンズ機能はどこに像を結ぶと言うものでもなく、眼とレンズの距離Bがほとんど零でも文字は同じく見える。この意味は目に入る光の光路がどの位置でも同じように存在することを示している。目の位置がBの範囲のどこにあっても眼の瞳に『ア』の文字の各点からの光が同一立体角の中に含まれた立体錐の範囲で入射すると言う事である。

%e5%86%99%e7%9c%9f377眼で見るレンズの像② 反転縮小像。Aが焦点距離より相当大きい場合で、カメラに近い状況。Bが焦点距離以下で像はボケる。Bがf以上なら比較的鮮明な反転像が見える。B=fの時が焦点距離の意味を如実に説明している。その時何も眼に像は見えない。その意味を考えて欲しい。その答がカメラの光路の解釈になる。

レンズを通した眼およびカメラの光路 これが難しい。カメラの光路はどのように結像を結ぶか。フォーカス(絞り)に依る光量の意味を合わせて考える必要がある。

カメラの写真と光路 カメラは焦点距離(写像距離か・・?)にフイルムがあり、そこに像を結ぶ。今は技術革新が進み、カメラもその機能をデジタル技術の仕組みにしてしまった。像も画素の点のパズルの組み合わせになった。カラーフイルムは一部を拡大してもアナログであるから鮮明な像が印刷できる。そんな昔のカメラを眺める。

nikon-fe2一眼レフカメラNikon FE2  裏ぶたを開ければ、カメラの原理が見える。

%e7%84%a6%e7%82%b9%e9%9d%a2%e5%83%8fカメラバルブ(解放)のフイルム面の像、像は何も見えない。

%e3%83%88%e3%83%ac%e3%83%bc%e3%82%b7%e3%83%b3%e3%82%b0%e3%83%9a%e3%83%bc%e3%83%91%e3%83%bc%e5%86%99%e5%83%8fフイルム面のトレーシングペーパー上の写像(解放撮影)。フイルム面の反転像(障子戸)が鮮明に写っているが、その焦点距離面で眼で観測すると何も像は見えない。

レンズ機能の焦点距離 焦点距離(これも写像距離と言うべきか?)に結像する写像はその位置で眼で見ると決して像は見えない。フイルム面の2次平面上の各点にレンズの全面を通した被写体の各一点からの光が到達する。その光路は焦点などを通らない。

%e6%9c%aa%e7%b5%8c%e9%a8%93%e3%81%ae%e8%a6%96%e7%95%8c未経験の視界 今チューリップをレンズを通して見るとする。目がレンズの焦点距離に在るとする。その位置には2次元平面でチューリップの反転像の光の模様が描かれている。しかし目で観測すると、その観測像は現実世界では決してお目にかかれない渾沌の視界である。目の瞳にはチューリップの或る一点からの光がレンズ全面を通して到達する。だから瞳には上下左右全面からチューリップの一点の赤い光が入射することになる。それがフイルム面なら、その点に鮮明なチューリップの一点の像が写ることになる。目の位置を動かせば、その2次元平面のそれぞれ対応した反転像の光線の視界になる訳である。

レンズの光学理論と教育 (2017/11/21追記)単一レンズの解釈で、『焦点』と言うレンズに平行な光線が収束するという点など存在しない。その単純な疑問からレンズの機能を理解しようと考えたが、高度の光学機械のカメラ、望遠鏡および顕微鏡等の虚像概念なども含めて考えるととても複雑な機能で、単純には理解できない事を知った。以下の記事での教育に関わる問題については、筆者も『焦点距離』の意味を太陽光線の焦点距離と捉えた間違いもあったようでお詫びしたい。光学と言うレンズ一つの機能でも、その基礎的理解が教科書の『焦点』の解釈で間違っている事が何故なおざりにされているかは、教育者側の大きな問題であると思う。教育に対する専門家が問われているのではなかろうか。顕微鏡や望遠鏡の光路の意味を考えて見る必要を感じている。焦点距離と写像距離の用語の使い方なども含めて。以上2017/11/21追記。レンズの話は高等学校の物理教育で教える内容である。上に述べた考察は教科書の理論が間違いであることを論じた事になる。何も特別に科学研究費を請求する程高度の研究などではないのだ。レンズを手にして光の像がどのように出来るかを眺めてみれば分かる筈だ。日常の遊び心で分かる問題だ。どんな高度の数式を扱っても理解できない問題だ。こんな基本的な光の現象が間違って教育されていたことになる。教えるとなれば真剣にその意味を理解し、とことん納得して疑問の無い自分の考えを子供達に教える筈だ。教科書に書いてあるからと言うだけで、納得できるのだろうか。科学理論とは何なんだ。入学試験では、レンズの解釈に焦点は必ず光が通ると答えなければ間違いとなる。しかしその答が間違いである。誤った教育である。学習指導要領が間違っている。電気現象で『電流』が自然界の真理であるかの如く教育される『物理学』の問題と同じ事である。日常の生活感覚と厳めしい科学理論の間を遮る絶壁のような社会問題と看做せよう。なお、とても詳しい解説がある。「光と光の記録ーレンズ編 」は所謂専門家の解説であろう。(2017/08/24)追記。確かに近軸光線について焦点がずれることまで詳しく解説されています。平行光線がすべて焦点を通ると言う『焦点』があると言えば、それは違うと言うことを言いたかったのです。それ程単純ではないと言う意味です。この論説はさすがに専門家の詳細な検証記事で素晴らしい。それが近軸光線について焦点の意味に踏み込んだ解説であり、平行光線が『焦点』を通る訳でない事を示していると思う。

波 「理科基礎(仮称)」の題材として

「理科基礎(仮称)」が科学教育の中に望ましいと日本学術会議のある部会の提言として公表された。高等学校の理科の科目の中には、地学、生物、物理および化学の4科目がある。その中身は相当内容がかけ離れたものから構成されているようだ。さて、それらの4科目を統合して、一つの科目「理科基礎」を確定しようとしたとき、誰がどのように取りまとめる事が出来るだろうか。提言が出た以上は、日本学術会議の提言であるから、日本の科学者・教育者の力量が問われることになろう。高等学校の教科書が出来ないなどとは言えない。何年も先では済まない筈だ。教育行政を担う、文部科学省の緊急の対応が問われる筈だ。理科の各科目の中から、基礎として何を選ぶかという考え方では、先ず纏まる可能性は低かろう。文科省の『学習指導要領』がある限りは、その内容からはみ出すことは出来ない硬直化した教育体制であるから。もし一科目としてまとまったとしたとき、その中身は全くつまらない役にも立たない内容の羅列に成らざるを得なかろうから。先ず解決する可能性は、『学習指導要領』の枠を取り外すことに尽きる。しかし、提言の3 高校理科教育に求められるもの の中で、(C)現在までの学習指導要領の変遷の経験を重視 という項目が前提条件として楔を打っている。この(C)がある限りは日本学術会議の折角の提言も絵に描いた御飾り餅にしかならない。以上の思いを踏まえた上での無駄な記事とは思うが、一つ「波」を取上げて論じて見よう。全く過去の理科の基礎とは異なる面から考えてみたい。

葛飾北斎「富嶽三十六景」の一つ「神奈川沖浪裏」に波の象徴的な姿が描かれている。絵画として誇張されて描かれてはいるものの、海岸における波しぶきは如何にも心に響く迫力を持っている。決して正弦波ではないその波形は、ある瞬間を切り取って、写した空間の具象図である。そこには心の美的感性を揺り動かすが、頭を悩ます難しさは微塵もない。さて、波の科学論はと考えると途端に難しくなる。その原因は何であろうかと考えて見た。それは目で観たり、感覚で捉える自然現象を日常生活に馴染み難い抽象的表現で共通理解を計ろうとする手法が科学理論の本質を成しているからであると思う。例えば太鼓の響きは耳だけでなく、腹にも響き気持ちを高揚させもする。その事も太鼓の持つ特性であり、自然現象と人の心身の関係性が造る世界の姿である。その事を科学理論で表現し、説明しなさいと言われても、「チョット待ってください」と言わざるを得ない。こんな事を考えるようじゃ、学校で教える理科教育などの話が出来る訳がないとも思う。

「波」をどう教えるか 子供達が興味を持って授業を受けるかどうかが大事な視点である。それは受ける側の子供の立場に立って考える事が出来るかどうかの行政側の問題である。教える内容やその取り扱いが適切かどうかは行政側の問題だ。子ども・保護者側の意見をくみ取る方策があるだろうか。教える側の論理だけで、教科書内容が過去の手法を伝承するだけの形式に陥っていないだろうか。葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」の絵図の物理的解釈が題材になったら良かろうと思う。そこには水の持つ「エネルギー」を意識しなければ解決できない基本概念が含まれている。サーフィンの力学エネルギーなら子供達も面白かろうと思う。海底の地形が海水面の波形に影響することが理解できるにはエネルギーの意味を理解しなければ無理であるから。

サーフィンサーフィンと波  この波は波頭が競り上がった波形だ。水が何故先頭で重力に逆らって、上昇するのだろうか。それを考え、理解するのが自然現象を対象とした教科「理科」が学校教育で取り上げられる存在理由である。考える事を、覚えるだけではいけないと解りかけている筈だが、生徒に求めるだけで、教育環境を整備する側の機関・文部科学省が考える事を怠り、過去に拘る現状は誠に見苦しい。何故、水が波頭部で上昇するのか位は子供達が理解できるような教育でなければ価値がない。水の波が横波の解釈では、『学習指導要領』の廃止を考える事からしかまともな理科教育への解決方法は無かろう。

波はすべて縦波 『学習指導要領』は水面波を横波の代表例として指導することに決めている。それは残念ながら間違っている。そこにはエネルギーの意味が全く考慮されていない。波を生み、伝播する原因はエネルギーである。波の本質を理解しない波動論は間違いである。波はすべて「エネルギー」の縦波である。それが波を教える眼目でなければならない。

音声 「オーイ」と呼び声が聞こえる。その声を波形に描いてください!と言われてもそれは無理であろう。日常生活での空間伝播の波の自然現象ではあるが正弦波などで描く訳にはいかない。音声については「学習指導要領」も縦波として教えてはいる。音声の本質は何であろうか。話し声は空気や水の『何か』を伝える媒体(気体、液体)が必要です。真空中を音声は絶対に伝わらない。ラジオやTVなどを通した音声は伝達経路が真空であっても伝わってくる。それは電波と言う波だからだ。同じ波でありながら、電波と音声には本質的に異なる何か、理解できない事が隠されているのだろうか。電波も音声波もどちらもエネルギーの縦波である。理科の教科書では電波を縦波とは教えていない。横波として説明している。それは世界の物理学で、おそらく横波として取り扱っているからでもあろう。それは間違っている。その訳は、エネルギーの縦波と理解しないからであり、エネルギーの存在を認識しないからでありましょう。電波の場合は『電界エネルギー』と『磁界エネルギー』がエネルギーとして同じものとの認識が出来ないからであろう。別の異なる空間のエネルギーなど存在できない筈なのに、別々のエネルギーとして分析しているからである。その原因は空間に、質量の関わりのないエネルギーが存在すると認識しないからであろう。その意味が象徴的に表れるのが『光』である。『光』の半波長でもエネルギーを持っている。振動数、周波数を持ちださなくても光のエネルギーである。

縦波 水の波も音の波も弦の波も電磁波も、みんな波と言う波はすべてエネルギーの縦波である。エネルギーの空間(媒体も含む)の縦の伝播現象である。水面波も水にエネルギーを与えなければ決して波を発生しない。波と言う波はすべてエネルギーが造り出しているのである。過去の波に関する記事を拾い上げておこう。三味線と縦波 糸電話ー力学的解剖ー 津波(tsunami)を解剖する 専門用語『振動数』の解剖 など。

『エネルギーに論及してこそ物理』光の屈折もエネルギーの縦波としての解釈が必要。