はじめに 今年は、高等学校の理科教育について思うことが多かった。自然科学の最先端の研究分野は際限なく領域が狭まり、専門に特化してゆく傾向に見える。その自然科学という分類の中の研究者・科学者の置かれた科学する対象と役割は全体を見渡す哲学性が益々失われ、理学・自然科学全体を展望したその社会的問題を統合的に論じる視点の欠如を生み出すことになる傾向が強い。利益優先の科学技術競争、それも残された僅かな対象に集中した競争に依る歪んだ社会を歩む危険性さえ気付かずに過ぎて行く。社会の未来に対する無責任が進行する。利益・経済競争で企業風土・技術の貴重な資源が失われ、科学技術の薄っぺらな不完全性の社会が生まれる。そんな人道的にも、技術的にも貧相な社会に進んでゆくような不安感がぬぐえない。科学技術と言っても、『生物』関係の生命現象はその謎の中を覗いても全く理解の範囲を超えた分野に思える。細胞の中の何が何の生命の機能を果たす役割を成しているか全く理解できない。生命現象の解説論を読んでも、細胞の『エネルギー』が云々と言う一文に出会う時、その『エネルギー』とは何かとつまずいて理解できなくなる。体温と『エネルギー』の関係は?などと考え込んでしまう。また高度医療の関連研究現場での医薬品開発競争に於いても、その利益と社会的経費負担の未来像の兼ね合いの設計図構築についてさえ不安の原因にもなる。そんな現状に於いて、その未来への橋渡しとしての教育内容に何を厳選し、どうまとめるかが大きな課題となっている。未来への道筋が見えるのだろうか。本当に教育に立ち向かう姿勢があるのかと、教育する側が問われている。『電荷』とは何かに答えられるだろうか。『エネルギー』とは何かに答えられるだろうか。空間に存在するその実像を描けるだろうか。数式でなく日常用語で伝えられるだろうか。
と大仰な事を述べても自分は、ただ時の流れるに任せて、不図浮かぶ疑問を糧に膨らませ、行き着く先も見えぬままそこはかとなく漫然と無様な姿を曝している。昔携わっていた頃の仲間や職場環境もはるか昔の事でみんな別世界の出来事になり、繋がり一つない中に居る。止むなき仕儀と梲が上がらないながらも書き記す記事には少なからず人生を掛ける価値はあるものと自負を持つ。哀しいながらも。ただ、何故疑問が次々と浮かぶかが不思議である。しかも疑問の先には新しい観方が生まれる。数学などせいぜい四則演算程度しか分からないが、電気回路の計算などに三角関数の手法を適用してみると、数学の持つ論理性と言う意味が分からなくなってくる。この記事を書くきっかけは、積分計算で考えた事である。その関係は次の機会に回し、今回は数学の意味を考えて見る。科学技術と自然科学とでも少しは違う感じがある。従って数学が自然科学の範疇に入らないとしても違和感はなかろう。自然科学の解釈には数学を武器としてその論理性に説得力を発揮できると考える。それは特に物理学系に於いてであろうか。生物や地学さらに化学では余り数式を必要としていないかもしれない。狭い電気回路解析の範囲からの視点かもしれないが、数学が自然科学の範疇に入るかどうかを考えてみた。そんなことで検索をしてみたら、数学が自然科学に分類されて・・ に同じ疑問と考えがあった。ここでは電気回路計算などで突き当たった壁としての数学の意味を取上げてみたい。
自然科学とは何か 数学との関係を考えるに、先ず自然科学とはどんなことかと考えてみた。
自然科学とは 誰もが同じ意味で捉えているとは限らないだろうから、自分なりの解釈をしてみた。
ファイル「自然科学とは」を書き換える。自分がこんなことを書いていたかと!
“自然を科学(分析と統合の反復重層思考による統合認識)するとは?
それは人が自然(人間も含めて)を理解するための共通の解釈手法を確立することである。そこには言語が必要である。解釈の基準として概念が造られ、その階層化が図られる。より根源的な必須概念は何かを探ることが結局科学の根本目的であるように思う。
科学にも汎用(実用)性と哲学(思想)性の2面がある。
汎用性は、理解の簡便さと損得競争にその有効性を発揮する。社会体制の安定・統制に有効である。
哲学性は純粋な精神的自然融合意識の探求で、極めて感覚的世界観の構築が目的となる。これは汎用性の対極となり、その破壊作務ともなり易い。従って、従来の共通認識と相容れない様相を呈し、過去からの権力構造の社会体制に不都合な異質性と見做されやすい。
数学と自然科学の間に
数学は極めて哲学性の強い科学となろう。しかし、自然科学に分類できるかと言えば、必ずしもそうとも言えない。
自然の認識に数学を適用する場合には、大切な条件が必要と考える。それは数式の中の変数および関数の意味を自然の世界の実相に対応させて扱う事が条件となる。自然現象の『何』を数学的に取り扱い、適合させるか。即ち物理的『次元、単位』を明確にしなければ、数学が自然科学の部には入らないと思う。数学的に取り扱う数量概念の変数・関数が自然現象の『何』を対象にしているかが明確であって初めて、自然科学に分類されるだろう。”
との内容ファイルである。自分なりの解釈であるので、批判があってよいと思う。
数学 数学は自然科学の範疇には入らない。それは自然世界を対象とすれば、必ずその対象の『次元』あるいは『単位』が付帯する筈である。『次元』『単位』については国際単位系(SI)の要約日本語版 が参考になろう。
数式の意味 具体的な数式を取上げて考えてみよう。
指数関数 自然現象を表現するに欠かせない関数式である。特に過渡現象の評価式として欠かせない。過渡現象と言っても、世界を思い浮かべれば、どこでもいつでも過渡の連続である。輪廻転生の世界である。水素原子も水素原子のままではあり得ない。花が咲けば実にもなる。しかしこの式はそんな世界を見る物理的な自然現象を評価する何物をも示していない。xは無次元でなければならない。時間とか距離とか質量とかの物理量を対象とした変数とはなり得ない。自然対数の底eは単なる数でしかない。世界の何をも意味していない。e^x^も3.5^x^も単なる数の累乗と言う純粋な数学的表現でしかない。そこには何も世界観が反映されてはいない。関数f(x)が世界を表現する物理的意味を持つためには、1×e^x^の係数1が何らかの『単位』を持たなければならない。そのように世界を認識する対象の『次元』『単位』を明確にした時に初めて、自然世界に結びつくのである。またこの式には自然現象解析式としては欠点がある。それはxが無限となっても、零となっても関数値が最終値には到達できない点である。電気回路解析にこの過渡項が含まれると、永遠に自然現象が到達する最終値に到達しない矛盾を持つ関数式である。この指数関数式だけでは自然世界を語る意味を有していないと言う点で、あくまでも数学の範疇で自然科学の範疇には入らない。
オイラーの公式 世界の至宝とも言われる式である。指数関数と三角関数更に虚数の関係をこの単純な式に表現していると言う意味であろう。確かにそれは純粋な数学的意味ではそうかも知れない。電気工学でも良く利用する関係式でもある。三角関数の長い表現式を短く表せるから便利かもしれない。それはその背景にその式の意味することを共通に理解する約束事を決めているからでもある。この式が本質的に成り立つと言う蓋然性など無い。このように両辺を等号で結ぶ(定義する)と言う一つの解釈する考え方を表現しただけであろう。
角度 三角関数の変数xは円形の二次元平面の角度でなければならない。角度はラディアンあるいは度である。この角度と言う概念は単純でありながら『次元』を持たない無次元量なのである。物理的解釈量の計算式に組み込んだ時、全く『単位』の意味を成さない概念量なのである。不思議な量である。
虚数 iあるいはjの記号で表現する数量である。数に虚数記号i等を付ければ、その数は虚数と言う数量を表すと決めたのである。この虚数が世界を表現するに有効な数であるかどうかと悩んでしまう。『虚時間』等を論じる人もいる。当然『虚空間』も話題になろう。『虚』の字が付けば理解できない世界が益々複雑怪奇な様相を呈して来る。科学技術の世界、電気回路解析の世界でも虚数記号は多いに使われている。オイラーの公式の指数関数などにより実数と虚数を組み合わせて、電気現象を論じ、解釈法を講義すれば、如何にも高度な知識技能の持ち主と思われるだろうが、余り意味はないのだ。jsinxの数値には何の意味もない筈だ。有効な量は実数のcosxだけである。ナイキスト線図などの過渡現象解釈法では、系の安定性評価法として有用であると常識になってはいる。それはそれで誠に結構な虚数の応用例ではある。しかしどう考えても、この世界に虚数で表現されるべき実在があるとは考えられない。それは非現実世界の数量である。この虚数概念が科学論の非現実的で、曖昧な論理を展開する抽象化に拍車を掛けたのかもしれない。虚数量で認識すべき現実世界は存在しない。虚数はその数が明確な『次元』を持ち、現実世界の物理量で定義した『次元』とは異なる何者であるかを確認できる自然世界を表現することは出来ないであろう。虚数は自然描写に役立つか 。電気回路解析で、インピーダンスベクトル表現において、リアクタンス成分に虚数概念を適用する手法は伝統的な優れた電気工学基本解析法として定着している。その場合の虚数のリアクタンス値も実数の抵抗値と同じ単位『Ω』である。ただその意味も直角三角形の関係が成り立つと言うものを実数と虚数で表現することで図解表記法として優れていると言う事からの虚数表現であると考える。特別本質的に虚数概念でなければならないと言うものではなかろう。むしろ何故直角三角形でベクトル的な抽象化が有効な表現法になるのかが不思議にも思える。勿論過渡現象でなく定常動作時の表現法での事である。例えば、電源電圧が方形波の波形では、虚数表記の直角三角形が適用できない。正弦波でない方形波電圧では電圧の回転の意味が無くなるから。
マックスウエルの電磁場方程式 所謂電磁波の伝播現象を表現した偏微分方程式と言われているものである。1964年に発表された。ある空間座標の1点の位置をベクトルr 、その点のある時刻tでの電磁氣の状態がE(r,t)(これを電界強度と言う)と H(r,t)(磁界強度と言う)である時の、その点のその二つの電気量間に在る関係を表現したと見做せる式である。表現し難い電気現象の状態を基本的に2本(実際は4本であったかも知れない)の方程式にまとめたと言う意味で、優れた業績として高く評価されたのであろう。実際の原資論文(ページ数53ページ)を読んだ訳ではないので、どのような方程式に表現されていたかまでは分からない。専門的な解釈で、この方程式には電磁波が空間を伝播する時、その電波が光の速度で伝播すると言う意味をこの方程式に示された事がとても重要な評価すべき点であると捉えられていると理解している。しかしこの方程式を眺めても、特別光速度の定数が使われている訳でもない。光速度と言う解釈がこの方程式に隠されている事を最初から認識していたかは分からない。方程式の電波の状態を表す変数がそれぞれ直交した電界と磁界の二つで、そのベクトル量に直交した方向へ電波が伝播する意味を表現している。微分演算で「回転」の意味を表すrotの記号は誰がいつ頃から使いだしたかが分からない。同様にdiv,gradについても?
光速度 光速度の値がどのように当時考えられていたか。光の速度測定 にその当時の様子が解説されている。フーコーの実験で、1862年光速度c=2.986×10^8^m/s と測定されていたようだ。既にマックスウェルの方程式の頃にはほぼ正確な光速度の値が認識されていたようだ。有名なマイケルソン・モーリーの実験が1887年である事やヘルツの電波伝播実験が31歳頃の1887年である事などとの時代のつながりにも科学技術・自然科学の進展の意味を重ねて見るところにも興味が湧く。以上はマックスウェル方程式の電磁気学的意味を考えたものであるが、その数学的意味についても考える必要があろう。
偏微分方程式の意味するところ 式を見ても光速度で伝播すると言う意味など簡単には読み取れない。時間と距離の二つの変数に依る微分が同時に仕組まれている事が式の意味を複雑にしている。微分演算子の記号rotは距離微分を表現しており、丁度水平面上の波が円状に広がるその強度分布の変化の様子をベクトル量として捉える意味を表すと言えよう。微分する距離ベクトルに直交したベクトルで、どのように分布しているかを表現しした意味を表す。それが時間の偏微分とベクトル的に等価であると言う意味である。そこに光速度との関係は式上に直接表されていない。方程式に隠された光速度伝播を読み取るには、少し空間ベクトル解析法を適用するのが分かり易い分析法になろう。『瞬時電磁界理論』とは に方程式の空間的意味の解釈の仕方を述べてある。一通り電磁気学的にはその解釈で教科書の共通理解は出来る筈だ。しかし、それは汎用性の専門学術的解釈法でしかない。それではまだ自然科学の本質に迫る真理と言う深みに於いては遠く及ばないのである。アインシュタインが『特殊相対性理論』の理論構築の基本方程式としたのがこのマックスウェル電磁方程式である。空間の電界は『電荷』が実在世界の実在的物理量であることを前提にした論理概念である。当然変位電流も、それが原因とする磁界も同じ『電荷』が世界の物理的根源物理量(素粒子概念)であるとの認識に基づいている。最初に感覚ありで、『電荷』否定の道を探った科学論は初めから伝統科学論の破壊作務の道であった事になる。その典型的対象が『マックスウェル電磁方程式』の無用論になる。その具体的意味はパラボラアンテナ面での電磁界描写が出来ない矛盾で分かる筈だ。パラボラアンテナ面の中心軸に対してどんな電界と磁界ベクトルを描けるかに示される。衛星放送の電磁波方程式を解剖するに述べた。『エネルギー』一つの世界観である。だから光の縦波(エネルギー密度波の縦波)論に繋がり、『特殊相対性理論』は詭弁論の記事になった。パラボラアンテナ面での電界と磁界の空間ベクトルを考えるだけで、マックスウエル電磁場方程式の論理性に矛盾があることは分かる筈だ。さらにもう一つ、今はデジタル信号の時代で、デジタル信号は直流の断続信号であると見做せる。大きさ1と0のデジタル波形にどのような電界と磁界の横波信号で電波伝播現象を解説できるだろうか。正弦波の穏やかに変化する信号波形には理論解説手法として役立った(実際は役立たない)かもしれないが、デジタル信号にどんな説明が出来るだろうか。瞬時的には直流値と0の繰り返し波形である。デジタル信号波形も空間の特性値(誘電率と透磁率)との共振現象で伝播するエネルギーの縦波であるから、波形は歪んだ断続波になるだろう。要するに『エネルギー』の縦波(光と同じ)の光伝播現象で捉えれば十分なのであり、横波概念は不要だと言う事である。
微分演算子とベクトル計算 高度な数学理論は抽象性が際立っていて、なかなか理解できない。数学的論理性を持って、物理世界を解釈しようとすると、その物理量が眼の前の空間にどのように存在するかを確認する事から理解の糸口を探る。式に表現するにはその物理量の『次元』『単位』をまず確認する。その物理量の概念が空間的方向性を持つベクトルであるか、あるいは大きさだけのスカラー量であるかを確認する。その世界認識の基本的確定後に初めて、数式の変数や関数での表現法に移る。数学的表記法は微分演算子などのように、複雑な数学的意味の内容を簡便な記号で表現できる点に特徴が発揮される。そんな記号が式を複雑なように見せかけているのであるが、記号の意味はそれほど難しい訳ではない。記号が表現している意味を日常用語で解釈し直せば、殆ど数式の意味は分かる筈だ。ただ空間の3次元座標(3本の直交した軸の表現空間)を頭に描くには訓練を必要とするかも知れない。微分演算子の空間的意味は別の機会にしたい。
数学と理学 理学と言えば一応理科教育で取上げる4科目を上げることが出来よう。物理学、生物学、化学および地学となろうか。その中で数学と関わりが強いのは物理学である。他の科目は殆ど数学には無関係と思う。数学が活躍する分野は応用の経済学統計、データー処理など社会系分野に欠かせない程広がっている。しかし、理学の生物や化学では数式を使うことは殆どなかろう。物理学も特に相対性理論や素粒子部門がその数学に強く関わっているようだ。物理学でも素粒子部門と物性部門の2つに分かれている。物性は技術系物理学で、素粒子部門は数学系物理学と言えるように思う。宇宙論や素粒子論の数学はどのような意味の変数や関数そしてその『次元』『単位』を扱うのかとても理解できない難しさに思える。どんな世界観を持って数式を使うか。技術感覚からは遠すぎる。物理学で教育的観点から思うに、『電子』の実像をどのように子供達に伝えるかそんなところが最も大切な数学以上に求められる課題と思う。数学や数式では『電荷』や『電子』の物理的実像を伝えることは出来ない。