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半導体とバンド理論を尋ねて

追記(2018/05/16) 反省を込めて追記。既に前に同じような記事を投稿していた。半導体とバンド理論の解剖 (2014/01/25) である。さらに太陽電池の解剖 (2014/02/06)にも有る。辿れば、その前年のトランジスタの熱勘定 (2013/01/30)から始まっていたようだ。そこで、電気エネルギーと熱エネルギーが同じものであると考えていたようだ。現在は、『電荷』概念では自然現象の本質を理解することは無理であるとの認識にある。このトランジスタの熱勘定で論じた意味が極めて大切なことを示唆していたと思う。荒っぽくて、反感を買うようの記事が多くて誠にお恥ずかしい。2013年には「量子力学」とは何か?電子科学論の無責任など。

半導体の電子とは? 電力技術における電子の意味を尋ねて30年以上過ぎた。結論は『電荷』も自然界には実在しないと確信するに至った。それならば当然電子も『電荷』などとは関係ないことになる。電気回路の金属導体中を電子が通り、電流になると解釈されている。ただし、筆者は電流は流れず等と言ってきた。だから以下の記事も科学論として認知されるようなものではないかも知れないが、市民や電気の初学者が疑問に思うことに対する『問答』としての価値は十分にあるものと思う。言わば統合的な理屈の自然科学論として見て欲しい。専門的な領域を超えた論理として。さて、現代物理学理論の根幹を成すものに量子力学がある。その代表的な適用が半導体である。半導体の電子のエネルギーレベルとその動作領域の抽象的認識概念が理論構築の原点になっているように思う。フェルミ準位がその要のエネルギー基準値として存在することになっているように思える。そのフェルミ準位は半導体の物性特性に因って、そのエネルギーレベル(電子のエネルギー量)が何ジュール[J]、あるいは何[eV]と決まった値があるのだろうか。

エネルギーバンドとフェルミ準位 電気工学、電気物理と同じ電気エネルギーを取り扱うのに、その専門分野ごとに理論的解釈法や概念がまったく異なる。ただ、原子構造については原子核とその周りを回る電子から構成されているという解釈は自然科学論の基本原則として世界の共通認識になっている。原子構造が科学論の原点にある。『電荷』否定はその科学論から除外されてしまう。永年電力技術で感覚的に身に付けたエネルギーの実在性が染み付いた論理構成の習慣が『電荷』概念の曖昧性に拒否感を抱くようになってしまった。電気物理での半導体の電気現象解釈理論はバンド理論で、正しく原子構造論の電子のエネルギー論を論じているように思う。それは『電荷』概念に基づいて理論構築されている。半導体結晶は基本的にダイヤモンド結合の構造と解釈されている。電子による共有結合が基本になっているように思う。原子核の周りをどのような速度で電子が周回運動をしているかは分からないが、それぞれの電子が回転し互いの隣り合う原子同士の間では、核の周りは複雑な電子回転に伴う『負電荷』の空間場になっているように思われる。単純な電気理論から考えると、負の『電荷』の空間場で、隣り合う原子同士の間でダイヤモンド結晶になる訳が理解できないのだ。電子が回転しながら隣の原子同士が結合する姿が現実世界の空間概念で描けないから理解できない始末にいる。そんな理解能力の無い者が現代物理学理論のバンド理論の意味を考えるなど誠に恥ずかしい極みではある。しかし、初めてバンド理論を学ぶ若い方々も同じような疑問を抱くのではないかと思うので、少し考えを述べてみたい。電気材料を導体、半導体および絶縁体と三つに分けてバンド理論の基礎が説かれる。全てに価電子帯と伝導帯がある。半導体と絶縁体にはその帯の間に禁制帯と言うバンドギャップが存在する。それらのバンドの『帯』と言う幅で表現される意味は電子の持つエネルギーの量の大きさに関係したように見受けられる。電子が回転運動していることに因る運動エネルギーの量の大きさを意味しているのかと思う。電子には質量があるから、その御蔭で運動エネルギーの解釈だ可能である。水素原子は原子構造が単純だから、電子のエネルギー量は基礎物理学では良く算定されて議論されているが、シリコン原子の電子になれば、その運動エネルギーは算定は可能なのだろうか。どの程度の回転速度になるのだろうか。その算定が出来て初めて、新しい半導体の技術開発にバンド理論の意義が生きて来る訳と考える。決して理論が理論の為の理論であってはならない筈だ。『電荷』の実在性はその理論構成に具体的に生かされてこそと思う。リン(P)やヒ素(As)の不純物が添加されると実際の電子のエネルギー量はどの程度のジュール[J]になるのだろうか。

太陽光発電理論と電子 量子力学の理論として大まかに理解している事は、原子や分子にエネルギーを与えると、原子の外殻周回電子がそのエネルギーを受け取って、電子の質量の運動エネルギーの増加を来たし、遠心力と釣り合う様な電子軌道の膨らみを来たすと理解している。光などのエネルギーが電子の運動エネルギーとして吸収される訳をどのように理解すれば良いかも分からないので困惑している。更に何らかの原因で逆に電子の軌道が下のレベルに落ちると光としてエネルギー放射を来たすらしい。勝手な解釈と言われれば、致し方ないが電子の運動エネルギーと光との変換過程が理解できない。量子力学の基本理論を理解している訳ではないが、太陽光発電での半導体は太陽の光を吸収して、電気エネルギーに変換する発電機能設備である。発電パネル内で、電子が光エネルギーを吸収してエネルギーの高い状態で伝導帯に入る。その伝導帯では電子が自由電子となり、原子の束縛から解放されると解釈して良いのだろうと思う。伝導帯の電子はどの程度のエネルギー増加になっているのかを知りたい。発電パネルから次は電気回路を通して負荷に電子はエネルギーを運ぶのかと理論のつながりを考えるのだが、電気回路内の電子による電流概念となると、どうも電子はエネルギーを担う役割は想定されないことになっているようだ。一体半導体内で光エネルギーを受け取ったかと理解するが、回路理論になるとそのエネルギーを担う電子と言う概念は無いようであるため、どこか論理的な繋がりが無いようで理解に苦しんでしまう。もう一度述べる。量子力学における半導体のバンド理論では原子の周回電子のエネルギーの増減を論理構成の基本に据えている。伝導帯の電子は増分エネルギーを電子質量の運動エネルギーとして余分に担ってエネルギー供給機能を果たす役割が期待されているようだ。そこでの電子は速度の増加としての特別の電子になるのであろうか。次に半導体理論によって理論付された電子に関係して、その太陽発電パネルをエネルギー源として捉える電気回路理論では、折角のバンド理論で担ったエネルギーの増加分を電流の根拠である電子には求めていないのである。当然のことであるが、電気回路論では電子に質量に関わる概念は意味を持たないから、電子における『電荷』と電界との間の電気磁気学理論に基づく論理しか考察対象には成らない。だから原子構造論における電子エネルギーに関する運動エネルギーは全く無意味に成る。総合的に全体を見渡した時、半導体パネルで受け取った太陽光エネルギーは電気回路のエネルギー伝送にどのような機能で関わり、負荷に太陽光エネルギーを供給することになると考えるのだろうか。『エネルギー』を基本に考えると、太陽光線も電気回路を伝送する電気エネルギーも負荷に供給されるものも、みんな同じ『エネルギー』でしかないのである。電子の『電荷』は理論的に『エネルギー』を持ち得ないのである。

過去の関連・関係記事 今迄に取上げた考察記事は半導体、電荷およびエネルギー論については次のようなものがある。

地球は太陽が造った

酸素はどのように生まれたか。

水はどのように生まれたか。

塩はどのように生まれたか。

植物はいつ生まれたか。

海はどのように出来たか。

動物はどのように生まれたか。

太陽の光がなければ地球に何も生まれない。

太陽光で地球は大きくなった。

酸素がなければ水は生まれない。

酸素と水と塩と植物がなければ動物は育たない。

太陽光線で植物が繁茂し、土となり動物が溢れ地球が大きくなった。

地球の内部地下にはその歴史が積層構造を成して記録に留められている。

植物がなければ酸素も水も増えなかった。

海がなければ人間も動物も生まれなかった。

と地球のいっぱいの不思議にそんなことを考えた。

楡ケヤキに自然を観る

40年程傍に置く楡(ニレ)ケヤキの盆栽が有る。元気がないので、植え替える事にした。起した根に驚いた。生きる生命の強烈な姿が現れた。

楡ケヤキ楡ケヤキ

姿作りの技がないため、曲がりながら背が伸びて仕舞った。

根張り根張り

鉢の中に隙間なく張り巡らせた根の姿。こんな盆栽の手入れの日常作業に、自然世界の本質が見える。物理学理論で捉えられない自然の奥底の真理が見える。『エネルギー』が自然世界の本質であると。太陽の光の『エネルギー』が生命を育てる。この土の中の根は何が根の『質量』に変換したかと考える。殆ど土は消えて、全部楡ケヤキの生命の中に消えてしまった。楡ケヤキの成長した幹や根は何がその『質量』に変換したのか。殆ど栄養も与えず、ヒモジイ思いの中で、限られた盆の中の土を栄養に変換して、生命を育ててきたのだ。欅は落葉樹だから、冬前には青葉が枯れて土に落ちる。限られた世界で、太陽光線を源にした生命の営みである。

世界の根源 すべて『エネルギー』一つが創り上げたものだ。宇宙の広大な広がりも、基は『エネルギー』という物理量が創り上げている。決して17個の素粒子が創り上げているのではない。『光』-『熱』-『質量』は『エネルギー』の諸相である。この図案化したものが世界を描くである。今年の年賀状にも。

天空に錦ー太陽と雲ー

光は直進する。しかし、伝播する空間の媒体により、光も進行方向を変化する。『屈折』『回折』および『分散』等の現象として知られている。夕焼けや朝焼けも、太陽光線の地球の空気層での非直線現象の一つの表れである。夕焼け小焼けは何故赤い に、太陽光線の地球上に展開される光の意味を述べた。以前(平成6年(1994)頃)毎日空の下で天空を眺めながら、外仕事(長岡市南陽工業団地)をやっていた。その天空に繰り広げられる、一瞬の輝きに会うことがあった。雲に日の錦

その時の雲と太陽が成す天空の輝きに感動した。晩秋かと覚えているが、その様子を思い出して絵に書いてみた。雲の片側が途切れて、その境目の切れ目に太陽が隠れた状態で、強い虹の錦に彩られる瞬間がある。その状態を辞書で引くと、繧繝(ウンゲン)または暈繝という難しい漢字が出て来る。辞書の説明には、その雲に現れる錦の輝きを解説するだけの認識が無いように思った。自然現象としての雲の輝きを知らないことであれば止むを得ないと思った。上の絵も思い出しての想像図でもあるから、十分その様子を伝えることには成っていないだろう。兎に角、目を瞠(ミハ)る感激の自然現象である。それも光が空気中の水蒸気で屈折・分散することによる自然現象である。その瞬間に出会うには、旅で毎日空の下を歩き続ける、昔の旅人でなければ、なかなか経験できない空の美観であろう。しかも、その時の光は太陽があたかも雲の中に埋もれていて、そこから光を放射するが如くに見えるのである。太陽光線の光源が雲の中に在るように見える。目にする光は、太陽からの直進光には見えないのである。

日暈(ニチウン) 今まで数回しか出会わない現象に『日暈』がある。上空にある太陽の周りに、その太陽を囲む大きな虹の円が現れることがある。それを日暈と言う。それも空気中の水蒸気と気温との関わりにより、太陽光線が織りなす屈折現象の一つである。