タグ別アーカイブ: 天皇の基本的人権?

言葉とその意味(日本国憲法に観る)

日本国憲法前文。

日本国民は・・・。・・ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

とその前文に在る。とても崇高な現代精神がうたわれている。

戦後75年を振り返り、今ある大切な日本を思う時。日々思い感じる事どもに、何か深い悲しみを覚える。この日本国憲法は、昭和22(1947)年5月3日に発布され、新しい民主主義の国として出発したことを祝い、憲法発布記念日として、その5月3日が祝日に指定されている。2000年代に行政改革の名のもとに、行政を監視する「行政管理庁」も現在の総務省内にお隠れになった。政府提出の法律が憲法違反でないかを監視する役割は内閣法制局ではないのか。憲法前文の精神はどのように法律に反映されるのか。

戦後多くの苦しみと屈辱を受けてきた法制度がある。優生保護法による人権侵害が何処に憲法精神の意味を具現していると言えるのか。法律は憲法精神によって、それに反することは許されない筈だ。時効が20年とは、憲法前文に反した違法の法律に正当な意味が有るのか。この度の最高裁の判決(泉佐野市の故郷納税訴訟問題)では、誠にその通りと理解できた。

最高法規という意味が理解できないのだ。

第10章 最高法規 第98条 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部または一部は、その効力を有しない。 ② 日本国が締結した条約・・。

人権保障の日本国憲法の精神は日本にはないのか。最高法規という意味に理解が出来ない。

裁判官には、憲法の精神を肝に銘じて裁判を行う権威と義務が課せられていると思う。

第3章 国民の権利及び義務

第10条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。と言う法律とは何か?

この国民たる要件はどの様な法律で定めるのか。具体的に誰でも分かり易い事が求められる。

その亡霊の如き「法例(明治31年)」が憲法を支配しているようだ。昭和39(1964)年改正(池田勇人内閣)。昭和61(1986)年改正(中曽根康弘内閣)。平成元(1989)年改正(竹下登内閣)。これらの改正の意味は何か。

法例第3条[行為能力] 人ノ能力ㇵ其本国法二依リテ之ヲ定ム②外国人カ日本二於テ法律行為ヲ為シタル場合二・・・。

この「人ノ能力」とは日本国憲法の基本的人権を明治時代の「法例」が規定する異常な日本の法律体系に思える。

聞こえてくるのだ。昔の声が。「アジャパー」とか「無茶苦茶で御座りまする」などと仕組みを嘆く声が。

日本国憲法は日本の手本 (2015/06/03)  、日本語に愛を―憲法と日本人― (2015/07/31) 。

軍歴表が暴露するー日本の日本人に対する戦争犯罪ー

戦争とは?

戦争の犯罪性や本心を隠蔽する事を、戦争終結段階の最高秘密に葬り去ることである。責任所在の隠ぺいである。ここに、日本政府(海軍、内務省ー警察、村役場ー、外務省、法務省など)の公的履歴表である父(金澤 好明)の『軍歴表』の一端を公開する。

軍歴表は片側8面折り畳み式になっている。

上に4枚の図面を公開する。左側から(1)、(2)、(3)および(4)と番号を付ける。簡単に各図面に説明を付ける。

左側の(1)折り畳み軍歴表の表紙に当たり、表面は父の本籍等の身分事項。 1番右側の(4)(1~4ページ)が兵役年期や艦團部隊内配置。

右から2番目(3)(5~8ページ)が履歴の記載欄である。ここに、戸籍転籍・移動の戦時における異常の事実が記されている。戦後処理の未処理問題として現在に引き継がれた、日本政府犯罪の原点として解釈する。昭和14年12月1日 舞鶴鎮守府所管へ轉籍 南雲印 貝野村役場。父はこの年の10月、日本発送電株式会社(戦後東京電力株など9電力に分割)に入社。昭和16年9月2日充員召集ヲ令セラレ 舞鶴鎮守府。この発令者は?。戸籍を所有した海軍で、召集と言う命令をどう解釈すればよいのか。次の戸籍に関する記載事項。 7ページの 打和印 昭和16年12月19日 戸籍移動届・・・香取丸。ハワイ真珠湾攻撃によって口火が切られた日米太平洋戦争。それが昭和16年12月8日であった。その年に家族の戸籍移動と言う異常な行政。なお8ページの黒墨消しは戦後の緊急処置として多く取られた手法の痕跡である。アリューシャン列島の激戦地である玉砕のアッツ島の救援援護作戦としてキスカ島での状況記載部分である。

次の右から3番目(2)(9~11ページ)の最後の11ページに 近藤印 昭和20年9月1日 任海軍上等兵曹 舞鶴鎮守府。8月15日敗戦後の、すでにマッカーサー元帥が厚木基地に来た後である。翌日9月2日は横須賀沖に停泊したアメリカ軍軍艦ミズーリ号甲板で、無条件降伏の調印式である。誰が日本代表団をそこまでの送迎の任にあたったか。外務省に問い合わせた電話で、アメリカのラウスダン艦が運んだと説明を受けた?ゴムボートで、丁度210日の台風の荒波の中を送迎したのである。舞鶴の溝尻海軍住宅に敗戦後まで家族で住んでいたが、故郷に帰った時には海軍の戸籍のまま、過ぎた。昭和24年吉田第3次内閣の4月、戦後の処理行政として、父(実際は昭和36年9月6日死亡)を闇に死亡扱いで葬り去ったか?戸籍は村役場で、糊付けによる偽装工作の戦後処理をした。

玉音放送と言う手段を取らなければ、戦争が終結したとは誰も認められなかった。日本人に戦後の未来への希望が欲しい。