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『愛国心』の正体を尋ねて

いよいよ『愛国心』の強要が始まった。今朝(2013/12/11)の朝日新聞に記された記事がある。しかし、その『愛国心』と言う意味が分からない。政府(この意味は?)が「国家安全保障戦略(NSS)」の中味に、国家安全保障を支える社会的基盤を強化する目的として、「国を愛する心を育む」と言う文言が記されると言う。これに対して公明党が改正(改悪と考える)教育基本法の文言「我が国と郷土を愛する態度を養う」にすることを要求しているとある。こんな当たり前の言葉を殊更に法的文面に記す必要が何処にあるのだろうか。我が国と言う言葉の中味は政治的意味合いの無い事であろう。日本の政治体制を覆すとか革命を起こすとかの意味を考えているなら、そんな危険な状況は阻止しなければならないのは当たり前である。まさか、私が唱える『電荷概念否定』の科学論まで国家反逆罪になるというのではなかろう。確かに『電荷概念否定』の科学論は現在の自然科学に革命的な変革を『自然の真理』として巻き起こすだろうとは感じる。しかし、それは平穏な言論の論理的な平和な戦いであろう。『オーム真理教』事件のような事は「公安調査庁」が十分対応できた筈の問題と考える。教育に関係した事に『愛国心』を関連付ける事がどれほど危険かは先の大戦で学習している筈である。

『愛国心』その意味が分からない。宗教における「神」と同じくどうにでも解釈できる意味不明の用語である。「神」と言っても、ある人はイエスキリストであり他の人には釈迦であったりとまちまちである。『愛国心』とは何を愛する心かと言うことが意味不明なのである。『国』を愛すると言われると、自分の生活する生活の基盤である社会や制度を理解し、自分の信じる理想を目指していれば喜んで愛する筈である。しかし先日国会を強行に通された『特定秘密保護法』などが幅を利かす社会体制を愛することなど出来ない。何処までも反対である。そんな独裁政治の行われる危険のある社会を愛する事は出来ない。

「国家」、『国』(言葉づかい)とは何か と言う記事を1999年9月に書いた。『国』と言う用語の使い方は大変曖昧な意味であると感じた事からの記事である。そこには、物理学の基礎概念に対する矛盾を感じ取り、『電荷』概念の否定と言う象徴的科学理論の根底の癌細胞に辿り着いたような事件の発端に似ているかも知れない。保守政党の『自由民主党』の政治の目標が強権的で、独裁政治の雰囲気を漂わせている事が心配である。『愛国心』と言うその意味が漠然としているからこそ危険なのである。その基には、『国』と言う用語が「日本国憲法」でも多く使われている事に留意すれば、『国』と言う意味をまず明確に認識する事から始めるべきであると考える。そこで『国』と言う意味について自分なりに定義付けをした。単に自分の用語解釈であるが皆さんはどのように認識するかが知りたいと言う意味も含めて記事にする。自分だけが間違っているのかと心配でもある。皆さんは余り気にせずに使うようだから。『国』とは?いつも思うのであるが、『国は何何を云々』と言う意味を英語等に翻訳した時、『国』と言う用語をどのような意味で訳すのだろうか。ましてや「国側」などは日本の国の中に、「国側」とそれに対抗する人達がいる事を前提にした言葉づかいではなかろうか。民主主義国家であれば、日本の国の中に権力を付託されて主権者の為に理想とする政治を取り仕切る立場の者は「内閣」はじめ行政諸機関である。それは『国』あるいは「国側」などでは決してない。それは政府機関である。この場合の政治概念で、普通は政府と言う用語で使わなければならないと考える。

大日本帝国憲法における用語 『国』は一つも使われていない。『政府』と言う用語が全部で十か所程使われている。「日本国憲法」には『政府』は前文に一ヵ所。『国』は全部で十五程使われている。日本国憲法の精神が謳われている締めの条項は 第十章 最高法規 に示されている。この第十章はすべての政府の法律(特定秘密保護法等)や内閣および政府関係者の発言が最高法規である日本国憲法に抵触しているかどうかを皆が監視し続ける事が平和を守るための義務であると考える。この憲法の基本的人権や平和希求の精神はすべての国会議員及び内閣は守らなければならない。国会議員や政府関係者が憲法改定などを発言する事は憲法が否定、禁止していると解釈する。国民の中から憲法改正の声が大きくなって、矛盾がその時代の社会制度に耐えられなくなったときに初めて国会での憲法改定に結びつくものと考える。選挙が間接的な民主主義の基本ではあるが、全ての人に自己表現する権利は憲法が保障している事であるから、大いに発言し、意見を表明する事が憲法下に生きる権利として享受すべきものである。(日本国憲法 第十章 最高法規 条項)を読んでみよう。最高法規

精神的抽象概念の『国』 外国に居て日本に思いをはせる時、『国』を思い出す等と言うのであろう。外国に一歩も出た経験がないから、本当のところは分からない。日本人なら、世界遺産にも登録された富士山等は如何にも日本の『国』の象徴的国土の姿として思い出すであろう。そんな自然豊かな日本の『国』は懐かしく敬愛の情も湧き、愛する気持ちが生まれよう。それは自然の景観を背景とした人間の醜い闘争心や醜悪さは何処にも無い純な『国』の姿である。その『国』には人権侵害やいじめの人間の醜さもない。その『国』なら誰もが愛することに異議はなかろう。

『愛国心』と言う用語に秘められた怪しさ 日常用語において、政治、法律に関する場合にはとても注意深く用心しなければならない。その代表的用語に『国』『愛国心』を指摘しておきたい。『愛国心』とは『国』を愛する心と読めるから、やはり『国』の意味を具体的に分析して読み取っておく必要がある。自分が住む地方の風景や土地の状況あるいは地域の人の人情などを故郷として、『国』と観る場合は愛するとしても何も問題はない。ところが、憲法で使われる『国』と言う用語が含み持つ意味には明確さが欠けているのである。何を指す用語と皆さんは理解していますか。『国』が国家権力を行使する政府・政府関係機関と考えるとすれば、その『国』と『愛国心』を結び合わせると大変危険な政治的状況に陥り易い事になる。日本の社会が平和で自由で、世界に貢献する民主主義社会である事を願う時、その政府あるいは国家公務員側の法制度並びに権力行使に対しては愛するかどうかは心の問題であるから、強制的にその時の政権の政治方針・理念を『愛せよ!』等と法律に規定するなど理解できない。国土や日本人の人情を愛する意味とは全く異次元の話である。嫌なら嫌と表明する権利は憲法で基本的人権として保障されているのである。法律に『愛国心』を盛り込む等は、その意味が不明確である事から許される法律用語には成らない。