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脳の機能と個性

人の思考や行動を司るのは『脳』である。人同士が集まれば、様々な意見や趣味の違いがあって初めて人社会の複雑で、面白味を分かち合える集団となる。統一的に制御・強制された社会は不気味である。人は、多くが集まればそれぞれ異なった固有の個性を持っている者の集まりとなる。その一人一人に違った個性が造られる仕組みは何が決めるのだろうか。生物学的脳構造も、その構成分子にも違いがある訳ではない。考える筆者は、その分野・脳機能については全くの素人である。専門的な解説書は難しくて、理解に辿り着くのが難しい。だから自分の『脳』の中の働き方を、勝手に想像してこんな物かと表現して見ようと考えた。実は、筆者が世界の自然科学理論の論理性に疑問を感じて、そんな矛盾が何故人間の思考によって構築されたかを不思議に思った。その事を『基礎科学』とは何だろうの記事にした。そこで考えた『脳』の機能をもう少し掘り下げられたらと思った。
脳の機能図(Functional Diagram of Brain) 人は生まれて成長し、個性によってその存在を輝かす。その成長過程はすべて脳の成長過程であると考える。脳が成長する仕組みを簡単に表現して見た。図式なら複雑な科学理論も、脳の構造的分野論も分らなくても大まかに感覚的に共感出来れば良いとの意味で表現した解釈図である。

脳の機能図上の図を見てどう感じてもらえるかが重要な点である。筆者の独り善がりとなるかも知れない。それは科学論からすれば、この図に表現する基礎的説得力を示すデータなど全くないのだから当然である。考える基本的方法が科学的研究成果の積み上げとはかけ離れたものであると言えよう。しかし、筆者は大変気に入っている。人の個性とは何かと考えてみた。その人を取り巻く環境、情報の種々相など『脳』が学習する経験的習得の内容がみんな異なる筈である。いつ、何を、どのような状況で脳が感じとったかは、同じ状況に居ても、それまでの成長過程での違いが『脳』の感応度Kiに違いを生む筈である。少し数式的に表現して見れば、『脳』が受け取る情報の形態・強さXiは Xi=Ki(xi-Si) で表式化して見た。SiとXiの差を『脳』がどう評価し、どのように修正するかで、外界事象の感知対象iに対する感応度Kiを脳自身で修正するだろうと言う意味を表現した。この考えのもとには、工学的な感覚で帰還制御方式(feed back control)があり、その安定定常化に作用する意味を、脳にも自然の仕組みとして備わっている筈との感覚から取り入れた。理屈は無い。外界事象とは脳が感応する対象で、何に強く感応するかはそれぞれ異なる。人間社会、運動、芸術、動物、虫、中でもカマキリと千変万化の内容である。

脳の本質 脳は自ら環境に合わせた脳を作る。人間だけでなく、あらゆる生物は初めの細胞から生物的プログラム(DNA)が仕組まれて、脳の成長と共に育つと考える。プログラムは多様な変化順応の仕組みを持っている。環境(外界事象)が脳を育てる。環境によってプログラムが決まる。しかし、その基本的方向性はある程度先天的なDNAに因るかも知れない。後天的な環境も脳の特性に影響を与えるだろうから、教育の原理の重要な意味がここに隠されているのだろう。教育制度を通して、国家的教育制度の中味を統制することは、個人の柔軟な個性を変質させかねないと言う意味で、人権への強制になりかねない。さて、植物の脳は何処にあるかは分らない。種子が発芽して、そこから成長するから、そこに成長を支配する基の仕組みがあると考えても良かろう。野菜の胡瓜を見れば、成長するのはどんどん伸びる茎の先がその環境に対応してプログラムを実行しているようだ。胡瓜の花が咲き、実がなり成長する。実を作る仕組みも水と養分に太陽光を受け取って、次の世代への引き継ぎのためのプログラムを実行しているだけである。環境の温度に従い、空気、水があれば太陽と共に成長する。その水分が全て土や空気中から吸収されるかどうかが分らない。植物が地球の生命を育てていることを思えば、植物自身が水を創り出していると考えたい。科学常識論からは地球の環境を理解できない不思議を抱えてしまう。胡瓜にもその生命を育てる脳機能があろうが、それをどう理解するかは難しい。人にもその成長は環境が支配し、いかようにも変わる可能性を持っているのだろう。昔狼少女の話題があった。写真268狼にさらわれて、オオカミの群れで育った二人の少女の話である。人の社会に連れ戻されたが、3年目にやっと立つことができた。カマラ11歳の年(*)。

思考する脳、感情の心  脳と心は区別できない。人が物事を考える切っ掛けは外部の刺激・外界事象に気付く事が初めに成るように思う。物事にハッと驚く、あれ変だぞと感覚的に心で受け取ることが多いのじゃなかろうか。その切っ掛けの原因を感じ取るか、気付かないで過ごすかが思考する脳の機能の訓練を決めると思う。脳はそれまでに受け、経験した外界事象(国語の学習、自然にとけ込む喜びなど)の積み上げで、身の周りに起こる事象に対する感応度Kiが決まろう。それは既に脳の中に、事象i に対して、ある決まった判断基準(criterion)Si が出来ている。感知情報xi に対して、Si であまり感応しなければ、脳の受け付ける情報は Xi=0 として意に介さないで過ごすことになる。この気づきの感応度Ki がSi が強固に訓練されると、凝り固まって自由に発想を変化させる余裕がなくなると思う。そこには発見も創造も起きにくい。学習する事が教えられた事を記憶し、習熟する事だと思いすぎると、そこには持っている脳の能力を発揮する機会を失うことにもつながる。感性を磨くとは、外界事象に素の心で向き合えるかである。学習する事がその妨げになる可能性も大きい。

気付きの問題 摩擦電気という話がある。エボナイト棒を擦ると、電気が発生する。プラスの電気とマイナスの電気が二つのものの間に分れて生じる。大学で物理学の講義に良く使われる電気磁気学の実験的現象である。古来からみんなが疑わない実験的認識の事実である。しかし、その電気だと言う物を見ることも確かめることも出来ない。今だから、言える事である。何故擦るとプラスとマイナスの電気に分れると言えるのか。プラスとマイナスの電気は本質的に相性が悪くて、離れたいという性質があると言えるからなのか。離れたいなら離れても理解できるが、プラスとマイナスは常に近付く事を電気存在の基本に据えている筈だ。その一緒に成りたい物同士が何故離れるのか。離れて安心したかと思えば、今度は引き合うと言う。そんな天邪鬼な電気を自然界は認める筈がない。人間だけの理屈である。ここに述べた疑問に大学の専門家はどう答えるのだろう。

発見すること 創造すること 科学的常識が科学理論の根底を支えていると言う。学説と言うものが支配する。しかし、それらの内容はひょとした気付きによって、矛盾の多いものに見えてくる。理論的概念の間に矛盾が存在するのである。理論は解釈法として便利だから、長い歴史的定説になってきた。科学法則は殆どそのような意味で重宝がられてきたのである。教育の授業で使う、訓練されたベテランには誠に都合がよい手法を提供する。トランスの電磁誘導で、磁束がコイルを貫通する解釈手法は本当にうまく、如何にも正しそうに説得出来る方法である。ファラディーの電磁誘導原理の説明に盤石な指導法であった。ところが、磁束と言う概念は突き詰めると、矛盾だらけである。図解では矢印の磁束で便利に使えても、それは間違いである。本当は磁束を矢印の頭のないもので表わす事は無理である。磁束概念は頭も尻尾も描けば嘘になる。Div B = 0 はその事を定義している。磁束には初めも終わりも無いのである。この記述も本当は嘘である。磁束は無いのである。人間の思考で矛盾に気付かずに使ってきた手法である。

個性と感応度 人の個性はいろいろの傾向で分ける事も出来るが、基本的には皆違うと思う。しかし、一卵性双生児では歳をとっても同じような個性を示すという。DNAがどれ程脳の性向を決めるかは驚きに値する。顔かたちが同じ事から、脳の働き方にもどれ程強い影響を与えるかは想像できる。だから、個性はDNAで決まるとすれば、脳の成長過程で、学習の仕方までも決まっているのかもしれない。後天的に個性への影響を及ぼす原因は、その人生の極端な衝撃的出来事でもなければ、余りないのかもしれない。外界事象の環境に慣れる学習が普通の事であろうから。普通は感応度Kiも外界評価基準Siもほぼ常識的なものに収まると考える。伝統的な考え方に、共通理解をする傾向を持つのだろう。日本人の気質と西洋人の気質に違いがある様に、国民の集団的気風に違いが生まれる。しかし、その中でも感性の豊かかどうかで、外界事象に対する感応度Kiに特徴的な性向が現れると考える。その違いが豊かであって欲しい。ただ、人は革命的な変化は望まない。『電荷』否定は科学的真理であるが、科学常識に対する革命だ。理科教育をどうするのかが心配だ。真理と方便の学識が問われる。

(*)狼にそだてられた子 アーノルド・ゲゼル著 生月 雅子訳 家政教育社

『基礎科学』とは何だろう

『科学』の始まり、それは人の心に始まる。                           

(2012/08/27)  神経(細胞)と情報伝達機能 について末尾に追記。

基礎科学の大切な事には誰も異論は無いであろう。ところで、『基礎科学』とは何だろうかと考えてみると余りはっきりしていないように思う。その事を9年ほど前に、自分自身の考えを整理するためにも、思い巡らしてみた。そのことをここに公開する意味があると考える。人類の歴史の足跡に刻まれたものが全て科学の心に彩られたものと言っても良いであろう。人が考えること、それが科学のすべてと言いたい。動物だって生きることは考えること。しかし、火を使うのは人間だけである。乾燥した木っころがあれば、摺り合わせて火も起こせる。この「火を起こす」事には大変深い意味が含まれている。道具として石の矢じりや弓を使う事の意味には、さらに心と科学の関わりで興味のあることである。アンデスの山岳地帯で、食べ尽くした動物の骨を上空から落とし、割れた骨の髄を食べる禿鷹の行動。その行動も自由落下の意味を感覚的に捉えた、科学の心に基づいていると言えるかも知れない。弓矢を使う人間には、自然の法則を認識した科学の心があっただろうか。この辺の疑問・解釈にどのように軍配を采配すれば私が納得できるだろうか。こんな調子で、自分を追い込むことで、頭を抱える己の姿を客観的に見詰めるのが考えるときの癖である。この滑稽さに自身で苦笑。この問いに対する答えは教科書には無かろう。だから勝手に自分で答えを決めなければならない。人それぞれで答えが違うかもしれない。違って良い。

私の自分自身への答え                                           「心」と「考える」の言葉の意味の違いが分からない。「考える」のは『脳』の機能の働きであると言えよう。しかし、「何を考える」かの「何を」を決めるのは『脳』であろうか。確かに『脳』の働きなしに思考・行動のすべての生命活動は成り立たない。しかし「何か」を考える基に成るもの、即ち「切っ掛け」は『脳』ではないように思う。何故なら、思考・行動の「考える」切っ掛けを『脳』自身が決めるとしたら、恐らく生命活動の全体が混乱することになると思うからである。「切っ掛け」は全て外界の状況やその人を取り巻く外との関わりであると見る。「考える」と「心」の言葉の含む意味の違いはこの辺にありそうだ。「心」の大切なことは、その人が己自身と己自身以外の対象(社会的、経済的環境、人間関係の環境、自然環境などのすべての外的状況)との関わりに対して、どのように『脳』に「考える」切っ掛けを生みだすかを決めるものであるからである。言わば「心」は、その人の「感性」と同じ意味を表す言葉と考えても良かろう。だから「感性を磨く」と「心を磨く」は究極で一致した意味であろう。外界の事象に対峙した時、その事象の捉え方にそれぞれの個性と言われる特質が表れるのである。「感性を磨く」とは、外界の事象をその奥深くに隠されている核心にまで踏み込んで、その眞相を見抜く力を鍛えることであろう。人間は強いが、際限のない欲望の虜にもなり易い面を持っている。その時点までに積み重ねてきた訓練や経歴によって、さまざまな性向として、その人自身の感性が磨かれてゆくのであろう。欲望に目が眩んでしまう、自分の理論に固執し過ぎる、等の状況によって事の真実を見失う事も多かろう。教科書に書かれたことをすべて鵜呑みにする、あるいは棒暗記するなど、深く考えずに済ます学習態度を長年続けていれば、それがその人の「感性」の感度や性向を決めてしまうものであり、事象の眞實を見抜く力にはならない結果を来たす。そこには「輝く個性」などは生れようがないのである。このような過去の『脳』の使い方が、人間の優れた脳機能のお陰ゆえに(工学的には、帰還作用の蓄積効果とでも呼べば良いのであろう※)、自ら「感性」の良し悪しを作り上げてしまうことになるのである。『脳』の機能は多面的で、様々な経験を通してこそ、外界の事象に対して鋭く、深く見取る「感性」に磨き上げることが出来るのである。ここまで来て、最初の自分に提起した「問い」の一部に対して、「心」と「考える(脳機能)」の意味の違いにだけは一応の自分の納得できる「答え」が得られたと思う。私、素人の独断と偏見であると言われても。

脳の不思議に踏み込んで                                         ※ 帰還作用の蓄積効果 とは何かを、図解によって説明したい。図一 脳の構造。    図二 脳の機能。図三 生命(心)の脳。の三つの図に分けて、「帰還作用の蓄積効果}と言ったことの意味を説明したい。図一は脳の構造と知覚器官(般若心経の文言の眼耳鼻舌身意から意を除いた意味を込めた)を単純化して示したものである。図の各部の番号(1)、(2)及び(3)の関連を脳の機能と言う面に絞って表現したのが次の図二である。                                         「外界事象」とは自分自身を取り巻く外部の自然環境や社会的状況等すべての事柄を含めたものである。その外界事象を情報として内なる自身に取り入れ、またその事象に対する自身の意思や行動を外界に発するものを(1)検知・発心動(※)器官として表した。その出力には危険から身を守る行動、獲物を捕獲する知恵、愛の思いに生まれるときめき、発汗その他の分泌物、言葉や書画での心の表現・芸術活動などの生命活動のあらゆる外的形象が含まれる。

(2)脳基幹(※)として纏めた部位は脳の中心部の深くに位置した諸器官(脳幹、海馬、小脳、視床下部、さらに脊髄をも含めた)であり、この脳基幹が生命を司る中枢部位であり、その人の生命の全象の源になる「こころ」の在りかと私は考える。あらゆる外界からの情報、大脳での思考情報のすべてを融合して、全体を統合した最も有効な調和情報として生命の姿を決めている。その意味を込めて、その部位の機能を情報統合・指令・管理中枢と考える。医学書の説明では、その部位の近辺に「橋」と言われる部位がある。しかし、その「橋」の働きについて詳しい説明が見当たらない。そこで、「橋」と言う言葉の意味を、私の考える『脳』の全貌をどのように捉えれば良いかの一つの手掛かりとして意味付けたいと思った。情報は決して単純な一方通行の形態ではないと思う。だから、特に大脳との情報のやり取りは、この脳基幹との間で複雑なやり取りを繰り返しながら、ある思考結果に収斂するものと考える。その為の情報の配送機能を受け持つ器官が必要であろうと考え、その役目を「橋」に託したのである。当然、(1)の出力器官に対しても、情報伝達の「橋」の役目の存在は同じように必要であろう。結局、脳全体の機能はある部位ごとに独立しては意味を成さず、全身の機能が一体の生命の塊としてしか意味をなさないものであろう。

(3)大脳は脳梁によって支えられ、脳の全体を覆うように大きな体積を占める。ここは脳基幹からの情報に基づいて、思考(分析・判断・評価・整理)する中枢と観て良かろう。(2)脳基幹と(3)大脳は外界事象の情報に基づいて、さまざまな処理情報に変換しながら、二つの間で情報の交換・分析様態を作り続けて、常にある方向性あるいはその瞬間対応の最適化をなすことに努めるように働くものと考える。この「ある方向性」と言うものが、その時点までのその個人の辿ってきた『脳』の履歴に大きく関わるものであろうと考える。『脳の履歴』とは元々あるハードとしての『脳』に、如何なる脳機能の鍛錬をしてきたかを『脳』のソフト機能としてそれぞれの個人の脳特性(個性と言ってよかろう)になっているのであろうと言うことを、そのように表現した。このように全くの独断によって自分の『脳』の内部を自分で分析して、その脳機能の全体像を解釈してみて、何とか自分を納得させられるだけの結論が得られたと思う。

以上の脳機能の解釈を、心(生命)の外界事象との関わりをどのように意味付ければよいかを1つの図案に表現してみた。それが図三である。生命(心)は単一ではその意味を失うものと思う。その生命すなわち『心』は己を取り巻く外部との関わりがあってこそ生きている。その『心』に生命の意味の重心を置いて、『脳』の機能の意味を考えた結果を図案化したものである。(辛巳カノトミ 神無月 20日  記 2001.10.20)

「基礎科学」の話から大変それてしまった。何故こうなったかは自分でもよく分からない。しかし、「科学する(用語?)」と言う事はその人の『心』と自然の姿との共感・共鳴があって初めて成り立つものと思う。そのことから心と外界事象との関わりに思いが向いた結果であろう。結局は図三の表現に「基礎科学」の本源があることを述べたかったのであろう。私が物理学会で発表するときに、必ず『心』にこだわりを感じるのも、科学者の感性と言うものへの疑念があるからである。科学者に求められるものは「純粋な真理への憧憬の心」であろう。素心での自然との対話こそ科学者が立ち戻るべき道であろう。そこに至るには、子供の頃の無欲な心に磨き続ける環境で育てられなければならないだろう。親が子供に接するときの躾や小言が「将来に高収入を得るため」や「高い地位に就くため」に勉強しなさい等と言うようでは、気掛かりだ。現代物理学の基礎理論は基礎に値するだけの価値が無い程、その論理性の欠落と矛盾の上に展開されている。『教育』は決して点数で評価できない処に、その本当の意味が隠されている。「勉強」と「教育」の深い意味を込めて、やはり図三の「生命(心)の脳」を噛み締めたいと思っている。

図三 生命(心)の脳                                             図三で、外界事象(現在)と人の生命の中に「過去と現在」と言う表現で、現在と過去・未来を分けた。この図案は自分でも満足している。ここに再掲したい(2012/08/27 追記 )。外界事象を現在としたが、そこから心窓(知覚器官ー視覚、触覚、嗅覚等ーを通して入る情報の入り口を表した)の情報を人は現在と感じる意味である。しかし、夜空の星を見上げれば、その光は現在の光とは言えない。百年前の星の光かもしれない。現在とは人の認識に関わり、その人がどのように解釈するかにもかかっている事である。太陽でも8分前の光である。星座の姿も現在と言う時間の解釈で、星座の位置関係は全く異なるものである。宇宙と言う世界まで含めれば、現在と言う時刻もどう解釈すれば良いかと、外界事象の意味も大変深い意味を持つ事になる。目で見た情報の時刻の意味まで「眼」に責任を負わせるのは酷であろう。それはその人の心の中『脳』に責任を取ってもらわなければ真実は見えない。専門と言う学問分野では、天文学のみに限らず、殆どが自らの集団の理論体系に『脳』が染められてしまうのである。それは私自身が経験したことである。電気理論の「電流」を一つの信仰のように自然の真理として認識していた。長い教鞭で、生徒、学生に得意になって指導法を工夫しながら教えてきた。ところが、それが『嘘』であることに気付いた。電線の中に「電流」などが流れ得ないことは、論理的に全体像を統合すれば、当然のこととして悟ることが出来る筈である。自分の『脳』の中に蓄積された専門理論、即ち電磁界理論の基礎概念が瓦礫のように崩れ去るのである。電流は流れず にその事を記した。『脳』に蓄積された知識が全て曖昧で、頼りないことに気付いた時、初めて学問の奥深さと意味を知ることになる。今となれば、「電流」などと言う物理概念がなんと滑稽なことかと思うと同時に、人間の『脳』と『基礎科学』との関わりに、その社会的意義を重ね合わせて、考え込まざるを得ない。

神経と情報伝達機能(2012/08/27) 全くの素人が生命科学の領域に口を挟む事を恥ずかしいと思いながら、一言書きたい。科学技術の安定性を保つには「帰還制御」の機能が自動的に働く事が必要条件である。そんな工学的な見方が、いつも頭にある。人間の行動を考えた時、脳で行動の指令を出すと見て良いだろう。しかしその指令が何を判断基準に発せられるかと考えると、なかなか難しいことのように思える。小刀で、物を斬り込む作業を考えても、脳からの指令とその行動の状況の情報とが合致しているかどうかを、比較して整合性が取れている状況下で初めて、脳からの指令が伝わったと言えるのであろう。鉄棒の離れ業をこなす空中運動の指令と身体状況の関係も同じ事であろう。『神経細胞』の働きの機能は、本当に脳の指令の「伝達」がその役割であろうか。その信号の伝達速度の限界はどの程度であろうか?等素人には理解できない疑問が多過ぎる。どうしても、工学的観点から考えると、全ての外界情報・身体位置情報などを脳に伝える機能が『神経細胞』の役目に思えて困っている。脳からの発信情報は本当に『神経細胞』を通しているのかと理解できないでいる。『信号は全て縦波の電磁エネルギー波である』から、身体の空間を通してどこからでも伝達できる筈である。しかし指先の痛みや、位置、熱さ等は神経細胞を通さなければ、その的確な情報は脳に伝わらないと思う。だから、「神経細胞」の機能は「帰還フィードバック機能」のように思える。以前「ストレッチ」で体の関節を調整しながら、その効果は骨と骨を繋ぐ「靭帯」の柔軟性の鍛え方が重要であると思った。そんな運動を通して、頭を巡らしていた事が「神経細胞」の機能であった。