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安倍政権・自民党の法的暴走

首相は憲法解釈の変更に絡み、12日には「最高責任者は私だ」と発言( 2014/02/21 朝日新聞朝刊 の第1面記事)に驚いた。正に民主主義を覆す独裁政治家の名にふさわしい姿。それを許すのは、選挙投票率に表れる日本国民の政治的無関心と無責任であろう。自分もその一人であることを含めての意味で。
日本国憲法 第10章 最高法規 第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、・・ 侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。 第98条 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、・・及び国務に関するその他の行為の全部または一部は、その効力を有しない。② 日本国民が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。 第99条 天皇又は・・及び国務大臣、国会議員、裁判官・・は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。 『愛国心』の正体を尋ねて に関連記事と『日本国憲法』第10章の条文。
自民党をはじめ多くの国会議員が憲法改変を公然と表明している。第99条はこの憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。この憲法とは現在の憲法であるにも拘らず、この憲法を連合国アメリカに押し付けられた戦後の屈辱憲法であるが如くに卑屈で、敗戦前の国家全体主義に戻りたいという傲慢な意識の下での、現憲法を破壊する意思を何の躊躇いもなく表明している。これは明らかに、憲法第99条の憲法順守の法的義務違反の暴挙意識である。日本国民は、『日本憲法』の、特に第10章の最高法規の意味を読み解いていないと言わなければならない。憲法の意義を日常生活に照らして考えていない表れである。そこに日本人の政治意識の低さが隠されていると感じる。だから、このような『安倍政権』の危険な政治状況を生み出したのだと言わざるを得ない。こんな記事は日本人にどんなに不快な思いを抱かせるかと思うが、嫌われても意見を述べておかなければならない。
安倍政権の法的暴挙 その意味は憲法が規定している日本の法的規律を確認して、そこにおいて現在の安倍政権が画策している異常な精神構造下の非民主主義的本質を法的に明らかにしなければならないと考える事からの標題である。
日本政治の欠陥 三権分立と言う法的意義と日本の欠陥。日本政治の欠陥と三権非分立に記す。
上の政治的欠陥の具体的姿が表に出て来た。憲法は、第4章 国会 第41条 国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。日本の国会議員は法的には公務員でありながら、その公務員としての規定がない。国会議員の下で仕える議員秘書は「国家公務員法」第2条 ③項に一 内閣総理大臣 二 国務大臣 三 人事官及び検査官 ・・・ 十五 国会議員の秘書 等と規定されている。しかし国会議員は形式的には議員秘書を雇いその任命権者のような権力的支配権を行使していながら、国家公務員として規定されている議員秘書に対して、自分自身が法的にその公務員としての規定がない点をどのように意識しているのかとても不可思議な事である。国権の最高機関の議員が自分の身分をどのような公務員と認識しているのかを理解できない。日本の議員はその身分さえ曖昧にしたままでいる事が、その活動に都合が良いからだとは解釈できるが、それで良いのか。公務員としての規定が不要と考えるのか、そこに日本の法的問題があろう。立法公務員と言う法的規定を造りたくないからか。行政権を支配することがどれほど権力支配に都合が良いかの為に曖昧にしておきたいからか。立法権だけではうま味が得られない。行政機関の法律制定権に関わる利益が大きいのである。立法権より行政機関との二権に関わる利益。国会議員が国会で、法律を作るという基本的意識が欠落している。行政組織の肥大化と効率の悪さおよび役得行政形態の無駄温存。行政機関(自分を『国』と言う意識)の法律制定が最大の問題。三権非分立制の日本政治。その基本的問題の上に、現在の安倍内閣・安倍晋三総理大臣の法的暴挙の解釈を示したい。憲法擁護義務意識が全然ない。それは憲法第九十九条違反。その根底には、現憲法の人権規定に対して、強権的に国民を支配して、思うがままに命令する国家主義的・非民主主義的意識があると解釈する。それは憲法第三章 国民の権利及び義務 の擁護違反。今回の新聞記事で、解釈改憲『閣議決定で』が最大の具体的憲法違反を示す内容の指摘記事である。内閣は国会の法的機関の基に置いて、その法的規定に従って行政を司る事しか許容されていない。しかも憲法の規定まで、一内閣の意識で勝手に解釈改憲する事など許されていない。憲法第98条 国務に関するその他の行為・・その効力を有しない。の対象で、規定に反する憲法違反である。全く三権分立意識等微塵も感じられない安倍総理大臣である。現『日本憲法』がアメリカによって押し付けられたという敗戦の屈辱意識から来る嫌悪感に苛まれているように思える。時の内閣が勝手に『閣議決定』で、憲法規定を変更解釈できるとしたら、それは明らかに行政権の逸脱行為である。憲法第九八条違反である。

先日記事にした。 日本が危ない。酷過ぎる。安倍政権が続いたら、日本を破滅へおとしめると考えざるを得ない。NHK役員人事、靖国神社参拝、原発再稼働、憲法改変と解釈変更の歴史的見識無視、教育制度の政治権力支配化、特定秘密保護法成立の暴挙、集団的自衛権。

どれ一つをとっても、長い歴史的政治課題として決めかねる議題であった。その決められないが故の、民主主義政治の平和日本の長い歴史の足跡として国際的な評価を得て来た基本点であった。その経過を無視する内閣は独裁政治家集団と化したと言わざるを得ない。国民を危険な道におとしめる内閣だ。ミズリー号艦上での『無条件降伏』調印式の屈辱に導いた戦争政治責任者の断罪を日本国家として検証していない事が、最大の日本人の戦争戦後責任逃避である。

日本の魔境ー靖国神社ー

靖国神社について考えると、その存在の異常さに驚く。靖国神社とは何の為に存在するのか。祀るものは何か。それは宗教なのか、宗教でないのか全く判然としない。社(ヤシロ)があって人がお参りするから、神様というものに関係すると言えるかもしれない。神道でもない。

神とは何か 信仰対象としてのお祈りを捧げる心の拠り所とでも言えば良いのか。宗教とは何だ でも考えた。しかしはっきり言える事は、神などは存在しないと言うことだ。しかし、みんなお参りをし、お祈りをする。何に対してお祈りをするのだろう。普通はそのお祈りをする眼前に、対象となる社や神様と信仰する対象の像形・像影が有る。仏教なら仏壇の先祖、両親のお位牌や、あるいは仏像になる。またはお釈迦様かもしれない。何らかのお祈りの対象を形に表した表象が一般的に存在する。なかでも東大寺の戒壇院に在る『四天王像』の姿は、如何にも人間的な威容を示した拝みたくなる傑作の像形である。しかし一般的には、何が神様かはっきりしない。まさか、仏像やお位牌が神様とは言えなかろう。仏像がどんなに芸術的に優れていようと、その像が神様だとは言えまい。じゃあ何が信仰対象の神様かということになる。自分が今ここに生きている意味は、誰しも祖先や両親の御蔭であることには変わりがない。この地球星の一隅に生きている意味を感謝すれば、それなりの生命の繋がりに思いを致す事は良い事である。しかし、両親が神様には成るまい。お祈りで、手を合わせる事も宗教により異なるものであれば、それは一つの伝統に従う作法でしかないと思う。神など何も存在しないのである。お祈りするのは、その個人の心に描く信仰対象に対して捧げるものであり、万人に共通の神が存在する訳ではない。世界中には宗教毎に、信仰対象の神が互いに対立して存在する現実を理解すれば、神は各人の心の中に描くものでしかないのである。本当に神が存在するなら、世界共通でなければならないのである。宗教、宗派ごとに違うことは、それなりの意味を考えるに十分な考察内容を提供していると言える。国家と同じで、社会的集団組織をまとめ上げる政治的集団としての意義が大きいのである。政治権力と歴史的に強い繋がりを持っていた事は否定できなかろう。極めて、政治的に神という認識対象は都合が良いのである。人間は、死によって全ての物体が原子・分子に分解され、熱として放散され、万物が消滅するのである。人魂とか、霊魂とか英霊とか死霊とか、そんなものは決して存在しないのだ。新しい生命の構成要素として、原子・分子に生まれ変わる「輪廻転生」の一駒になるだけである。生命が繋がる営みにおいて、生命の持つDNAの不可思議が新しい誕生に引き継がれるだけである。その仕組みを神というならそれは正しかろう。自然そのものの仕組みを神と言えば良いかもしれない。そこには政治的懐柔策が入る余地が無いから、極めて公明正大の神の意識として有効であろう。自然の営みの中に、人の時と場所と時代などの全ての偶然が、生命の不思議を醸し出す、そこに神を抱くのはとても穏やかな意味合いで好ましかろう。しかしそんな、公明正大の意識は政治権力には何の魅力も無いから、望まれない。政治に利用され易い宗教らしき対象が、まさに「靖国神社」である。

禪と靖国神社 禪の本領は人間世界の事象について、『嘘』や『虚飾』『偽装』『虚偽』等の表と裏から徹底的にその本質を暴きだし、衆目の眼前に開け広げる事と認識している。真実や真理は人の社会にとって好ましいかどうかは言い切れない。茫洋としていた方が喜ぶ人の数が多かろうから。真理は社会常識の破壊につながるから、とても厳しい現実に曝される。禪の恐ろしさは、全てを暴露するその点に在る。靖国神社は信仰対象とする神に相当するものが何かと考えれば、天皇(神ー終戦までー)の臣民として、天皇の命令に従い、天皇に生命を捧げた特殊階級の特殊な死に方をした軍人であろう。終戦後、舞鶴海軍住宅から故郷に引き揚げて来た。貝野小学校での朝の全校集会の朝礼の様子を覚えている。斉木校長が恭しく敗戦後も、演壇の背景の奥まった処に両開き扉の神殿のような社殿が祭られていた。それは天皇を神格化した神殿である。戦後しばらくそれは続いた。校長が恭しく拝礼する姿であった。そんな戦時の異常な日本の神格化体制が戦後も噴き返そうとしているように思える昨今である様な雰囲気に危惧を抱く。何か神様にすがるような風潮が恐ろしいのである。暗黒日本にならなければと危惧するのである。しかも靖国神社には戦争犯罪者・戦犯(戦争突入の無謀政治による無条件降伏の悲しみを日本国民に背負わせた政治権力者)まで奉っている。靖国神社をIT検索すると、驚く事にWikipediaなどにも相当多くの内容で綴られている。

国会議員と靖国神社 「みんなで靖国神社を参拝する国会議員の会」なるお偉い方々がいらっしゃる。今年はその方々は集団行動として、とても繁盛している居られるように伝えられていた。何を信仰されているのか理解が出来ないが、なにはともあれ一つの示威行動の形態である事には変わりが無い。何を訴えたいのか理解するに窮してしまう。どなたを神として信仰なさるかは心の中に描く個人の秘密であるかも知れない。あるいは漠然として、特に神を信仰している訳ではないかもしれない。やはり何が目的かが理解できない。ただ極めて、日本的で世界の衆目からは変な日本の姿としか映らないだろうと思う。欧米人があの光景を見て、「国権の最高機関」の国会議員の集団行動として、世界の平和にどのような貢献をするのかと考えた時、どんな風に写るのかを聞いてみたいものだ。