タグ別アーカイブ: 哲学と科学

和の趣き(2018年報告)

不立文字と言う東洋哲学の用語がある。筆者はその言葉の意味を、自然世界の事象を極めんとして深く学べば、常識的な言葉で表現出来なくなるという意味で捉えている。新しい科学的発見と言う意味で世界に新しい認識を広げる事と真逆の方向性、即ち今までの常識的解釈で認識していた世界の意味を深く突き詰める事によって矛盾が観えて来て、今までの常識的認識は真理から離れた上辺の捉え方で在ったと気付くことを表現した言葉のように思う。だから常識的な科学的専門用語が使えなくなってしまい、常識的な科学論が出来なくなる窮地に陥ることを指している言葉のようだ。電気磁気学を解釈するに「電荷」の必要が無くなってしまった。自然科学を論説するに科学常識となっている原子とその構造は誰もが納得し信頼する基礎概念であった筈であるが、電荷を否定したら、何を基礎として自然現象を解釈すれば良いか分からない窮地に陥ることとなる。当然電界も磁界も使えなくなる。それが自然世界を深く理解する結果の到達点で、いわゆる不立文字が表現する状態の意味になる。インドに生まれた東洋思想・東洋哲学の眞髄は解釈の矛盾を突き詰めて、削ぎ落しによる中心にある真理を悟ることにあるのだろうと考える。残るものは『エネルギー』一つになる。それは光であり、熱であり、結局質量である。すべては「色即是空」の見えるもの又見えないものと変幻自在に変化する認識量が『色』であり、見えたと思えば見えなくなる『空』でもあるという意味ではないか。そんな解釈論は自然科学の実証・検証による論理性が成り立たない話となってしまう。それが不立文字と言う事であろう。2018年の投稿記事をまとめてみれば、『エネルギー』の意味を尋ね歩いただけのようである。それでも自然科学論の心算である。『エネルギー』の空間分布構造を実験的検証で示すのが理想の科学的手法であることを突きつけられれば、記した記事の内容は空間エネルギー分布を測定していないから科学論でなく哲学となるかもしれない。(2019/02/01)追記。少し気が引ける思いである。標題の『和の趣き』で、ある出版社の本やお酒の名前に使われていることを知った。御免ね。(2019/02/02)追記。『不立文字』は昭和62年9月1日に始まったのかもしれない。電流は流れず の決断を自分に課したのがその年の8月であった。標題の『和』は総和で無く、東洋的という意味合いだ。Google翻訳では、「和の趣き」はTaste of Japanese で「和の趣」はWorth of Japanese Wisdom となる。とても翻訳は意味が深いと思った。

4月2日 哲学と科学 ここには『正の電荷』を誰が発見し、どのような場面でその存在が観測・証明できるのか。を問う事を記した。電子と言う負の電荷は陰極線として観察されている。しかし、正の電荷はどんな場面で観測されるのか。

生物とエネルギー 1月4日 体温とエネルギー 1月5日 生命と酸素 12月16日 生命活動とエネルギー 

原始・電子・エネルギー 原子・分子結合力と周回軌道電子論の矛盾(1月9日) 半導体とバンド理論を尋ねて(5月14日) エネルギーから電子殻を問う(5月21日) 電池における電子の役割を問う(5月24日) エネルギーと結合(10月10日) 結合エネルギー:不思議の砦(12月2日) エネルギーの象形(12月5日)

電気現象と技術・エネルギー 白熱電球のエネルギー変換原理は?(2月12日) 電気回路要素『抵抗』の物理的意味(2月24日) 『瞬時電力』の物理的意味 (3月15日)技術概念『電流』とその測定(9月24日) 瞬時電磁界と概念(10月23日) エネルギー その見えざる正体(11月6日)

地球の景色 青空と白い雲(1月18日) 太陽系はどのような力学によってその位置に存在するのか?(3月28日) 津波と圧力水頭(5月1日) フェーン現象(6月17日) 波の心を観る(11月14日) 山の木霊(12月20日)

哲学・光・エネルギー 光の正体(1月25日) エネルギーの速度(4月2日) 非力学的エネルギー(4月10日) 世界は不思議(5月6日) 焚火の科学(5月26日) 水辺の散策(6月16日) 水蒸気と蒸気線図(6月16日) プランク定数の概念(7月17日) 世界の実在物理量エネルギー(7月26日) 運動エネルギーの概念(9月15日)

哲学と科学

哲学と科学の違いは?と検索に多くの記事が出ている。それだけ違いが分かりずらい主題でもある。だからみんなはっきりと理解したいと思うのだろう。しかし、解説記事を見ても殆ど満足する人はいないのじゃなかろうか。科学とは何かと簡単には答えられないだろう。更に哲学は人の精神活動に関わる上に歴史の社会状況を踏まえた深い考察が根底に無ければならず、科学以上にとても広い分野を網羅するものであろう。最近頓に思う事がある。それは今まで考える事が自然科学についてだと思っていたが、どうも科学に対する科学界の一般の問題意識と全くかけ離れた処を自分は彷徨っているようだと思う様になった。それは科学論なのかあるいは哲学なのかと分からなくなってしまった。解らなくなったところで、その分からない中味を分析して、哲学と科学について考えてみようと思った。何の社会的評価も特別の専門的評価(博士など)も受けていない者が論じることに賛同は得られないかも知れないが。

哲学は科学も包含 哲学は科学の基盤を整える。博士・博士号はPh.D. でDoctor of Philosophy の略であるように、哲学の無い科学は無いのであろう。最近は極めて狭い専門分野で博士号を取得できる体制に成っているようで、何とも言えない状況だ。自然科学に対して自然哲学と哲学に自然を被せた使い方もある。自然哲学と言う表現でどのような意味を持たせるのかは分からない。哲学と科学を対比させながら、その違いを明らかにするのはとても難しい予感がする。それには少なくとも科学とは何かがハッキリと捉まえられていなければならない筈だ。そこの処で困難な壁に突き当たる。その科学とは何かを考えることが既に哲学に成るように思うから。『電荷』が実在し、しかもそれには『正』と『負』の違いがある事を誰が観測し、証明したのか。正と負の『電荷』をどのような空間像と認識するのか。自然科学の根本原則まで問わなければならなくなる。科学論の根本を解剖する論証は哲学であろう。放電管の放電現象を観測しても、陰極線は観測されるが、陽極線(正極線)が観測されたという報告は無いのじゃないか。それなのになぜ『正電荷』が存在すると成っているのか。誰が『正電荷』の存在を確認し、証明したのか。今でも電気回路の『電流』に関しては『負電荷』の電子のみしか解釈に関わっていない。しかも電子は『電荷』と『質量』の両方で構成された複合素粒子概念で解釈されている。このように科学論の根本原理になる程曖昧性が色濃く成る。

科学と哲学の違い 科学論の根本・原理を科学論の論理性を持って解剖する分析法は哲学になると考える。科学と哲学を論じるには、科学の本質を暴きだす作務がなければならなかろう。そこには科学の本質をよく知り、それを洞察する眼力が欲しい。それは東洋哲学の特徴的な『削ぎ落とし』の思考になるのではなかろうか。『不立文字』への覚悟。捉え難い『エネルギー』の何たるかを問う必要があろう。