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原子・分子結合力と周回軌道電子論の矛盾

初夢の恐怖  初夢の恐怖 原子核の周りを今年も元気に電子が高速で回っている。科学の世界も安泰であります。そろそろ独りぼっちは寂しいので、纏まった分子結合への夢を見た。回転する電子同士が手を繋ぐ。中心の核私は電子に振り回されて目が廻る初夢の恐怖。それでも電子周回軌道原子構造論は安泰と言う初夢。夢の謎解きが待ちどうしい。2018/01/11 追記。

はじめに 世界は光が支配している。宇宙全体を支配するのは光である。星も砕け散れば光になる。光は原子の全てを創り上げている。質量は光である。光はエネルギーの空間像である。世界はエネルギーである。人類よ、エネルギーの意味を捉えよう。エネルギーに質量が必要と言う誤解を解こう。自然は単純である。雷の発生理論が上空での氷の摩擦での電荷分離現象が原因であるなどと言う研究機関の解釈が罷り通るのはやめて欲しいと願う。

原子とは 複雑怪奇が原子から始まった。『電荷』がその基になってしまった。電荷は光になるか、ならないか?世界に存在する全てが光になる。光を含めてエネルギーが世界の根源であるから。原子は原子核とその周りを周回する電子から成り立つとなっている。その原子核は陽子(正電荷と質量)と中性子(電荷なしの質量)の集合体と成っている。理解できないこと、中性子は正電荷と負電荷が合体して中性なのか、電荷に無関係なのかが明確か?正電荷の陽子が陽電子と中性子に分裂するとも言われる?核の陽子がクーロン力に逆らって集合体を構成する原理は何か?こんな事を言ってはいけないだろうが、そもそもプラスの陽子と中性の中性子で原子核が成り立つという必然性は何なんだろうか。湯川秀樹博士の中間子論で核理論は成り立っていると言われるが、筆者にはとても理解できないので窮してしまう。。最も単純な原子は水素である。一つの陽子の核と周回運動する一つの電子から構成されていると。陽子も電子もすべてエネルギーから出来ている。陽子も電子も消滅すれば光を含めたエネルギーに変換される。世界はエネルギーと等価である。

原子・分子結合力の原因は電荷かエネルギーか 電荷概念を否定し、クーロンの法則を斬ると言えば電気磁気学の伝統的な論理の拠り所を失ってしまう。何の頼る術もない。しかし、原子同士が結合し複雑な高分子から生命現象まで司る世界は現実だ。質量の万有引力では原子結合は説明できなかろう。他に結合する力の原理は何があるか。そこに「電荷」が救いの神に成っていた。しかし『電荷』とは何かと尋ねても答える術もない。プラスとマイナスの『電荷』の空間的存在形態の違いを明らかに出来ない。プラスの電荷は突起を持って居るとか、マイナスの電荷は陥没欠損穴を持って居るとかの空間的違いが無ければ、プラスとマイナスと言う実在性を論理的に説明できない筈だ。そもそも電荷がどのようなものかを説明もできないし、確認出来ないのだ。摩擦によって熱は発生する。摩擦熱だ。熱はエネルギーだ。古代から人は摩擦で火を起こして来た。摩擦で熱エネルギーに変換できる事は見て理解できる。不思議な事に摩擦で電気が発生すると解釈した。摩擦電気と言う。引き付ける力が存在する現象を眼で見ることが出来た。摩擦によって確かに引き付ける力を産むと言う事だけは確かである。その現象が『電荷』が生まれたからであると言うことを検証し、確認出来る訳ではない。電荷は眼に見えない。しかし、眼に観えない元素の世界の科学論が結合力を必要とした事に因る必然的結果として、摩擦現象の引き付ける力が元素の世界に結びついたと考える。誰も否定できない科学論になった。摩擦が眼に見えないがプラスとマイナスの電荷を産むと解釈した。摩擦すると分子結合の物質が摩擦面で、原子の外殻を周回する電子を剥ぎ取り、どちらかの物質側の一方にその電子が移動でもすると考えるのだろう。その為二つの物質で電荷の平衡が破られそれぞれ一方の電荷に分かれると考えるようだ。その電荷分離の原理はどちらの電荷が集合するかの詳しい訳は原子論的に少しも説明されない。摩擦によりクーロンの法則に反する電荷移動が起こる理由が見えないのだ。この摩擦の場合はクーロンの法則は忘れないと理論にならない宿命のようだ。ヴァンデグラフ起電機が後押しもした。丁度粒子性と波動性のように科学理論に横たわる宿命として閑却するようだ。誠に理論は都合が良いのだ。しかし今、エネルギーと言う空間に実在する物理量、光を認識すれば、物を引き付ける原因が『電荷』でなければならないと言う事を一概には言えない筈である。先ず熱エネルギーが放射現象として空間に実在する意味を理解できるかの問題にもなろう。質量には無関係の熱エネルギーを。布団を陽に乾せば、熱エネルギーが籠って暖かくなる。その熱エネルギーである。摩擦現象が熱を産むことは誰もが知っている。しかし科学論の引力に成った時、摩擦熱の意味は消えて摩擦電荷が主役に躍り出る。電気の解説になると、摩擦で熱は発生しないかの如くに、摩擦で発生するのが電気と決まっているかの解釈であるが、そこに間違いの基がある。それが誠に都合よく現象を説明出来たから、摩擦電気と言えば納得できる解釈として世界の常識となった。雷まで氷が摩擦し合うことで電荷が発生するとの解釈で説明されて、その論が認知されている。摩擦は仕事のエネルギーを対象物に与えるから、何らかのエネルギーがその対象物に蓄積されるのはエネルギー保存則の原理通りである。そのエネルギーは殆どが熱である。物体に熱が溜まれば、その近傍の空間にその熱エネルギーの影響が現れるのは当たり前のことである。その近傍空間に現れるエネルギーの影響がどのようなものであると認識するかの問題である。ドアノブの火花―熱電変換ー 2014/02/09 に関連記事。

周回軌道電子論の矛盾と言う意味 原子構造に関する研究に全く携わった経験の無い者が論じる事が如何に失礼かと思いながら、書く事を許して頂きたい。電気技術感覚からの原子構造に対する感覚的矛盾論である事を述べたい。専門家から観れば、愚にもつかない内容かもしれない。核燃料のウラン235もやはり92個の周回電子軌道論で解釈されるのだろうと言う点で、数Å内にそんな電子軌道が成り立つ筈が無いとクーロンの法則との矛盾を否定できない困難が理解を妨げるから。周回電子間のクーロンの法則の排除力を考慮せずに、それ以上に離れた遠隔力の核のプラス電荷との間でクーロンの法則が有効に働くなどと言う意味が原子構造空間内で論理性を説得できるのだろうか。この論の基にはクーロンの法則を斬る(2013/01/06)での『電荷』概念否定の意味がある。この正と負の電荷間に働く電気力が周回電子と中心核を纏める構成源の力と成っている。その原子と他の原子間に働く分子構成力として、主体となるものは原子外周を回転する電子が担っている事になっている。回転しながら原子間の構成力となるにはどのような空間像で理解すれば良いのだろうか。2価、3価と結合手が多くなれば原子同士が超技巧結合手法でも採らなければ原子が眼を回してとても耐えられる筈は無いと思う。そんな周回運動する電子同士に因る分子結合が可能と言う理論が罷り通る科学論とは本当に不思議な事だ。付いて行けない超高等理論だ。

金属結晶と自由電子―怒りの科学論―

金属原子の結晶はどのような原子結合により、どんな結晶構造と成っているかを考えてみる。原子理論によれば、金属結晶は化学結合と言う結合によるらしい。共有結合でもなく、イオン結合でもない。Wikipedia の解説でも、化学結合である。標題に副題―怒りの科学論―と追加した。何故かと言えば、化学結合なる結合概念は原子間を強く結合させるべき結合力の実態が何も見えないのだ。少しも原子同士を結合する力などないのであり、幻の結合力である。そんな不明確な結合概念で、科学論が成り立っていることに怒りを覚えずにはいられない。怒りの科学論等と息巻いてみても、どうせ筆者も原子の中を見る訳にはいかない訳だから無理ではある。炭素結合の秘め事に原子結合新建築法を考えてはみたが。クーロンの法則を斬るなど辻斬りと思われる極悪非道の罵りにあいそうだ。

化学結合の矛盾 金属原子同士は相当強い結合力で結ばれていると見做してよかろう。ところが、化学結合と言う結合の描像は誠に怪しいものである。その空間的描像を思い描くとしたらどんな物になるだろうか。金属原子が規則的に並んで、その間を自由電子が満たしていると考えれば良いだろうか。兎角科学論は数学的表現で記述しようとする。数式がより高度な正統的科学論のスタイルと見做されるようだ。その科学論については、空間描像を数式で誤魔化しているように思う事が多くなってきた。言葉で数式なしに伝えられないものは、本当に伝えたいことがその筆者には分っていないように見える。

金属結晶と自由電子

結晶と原子結合 上に考えるための金属結晶とその原子結合の空間的構造を教科書的な概念から描いてみた。あくまでも教科書的な解釈の矛盾を抉り出せればと言う観点からの考察の参考図である。描こうとしても、具体的にその『自由電子』や原子の空間的認識ができない物を図面に描こうとする事自体が無理なのである。そこを何とか描けばであるが、一応仮想図とでも名付けておこう。金属の切断面をみると、細かい区画に分かれて表面が構成されているように見える。その区画ごとに結晶がまとまっているようだ。その結晶間には壁で仕切られているようにも見える。しかし、その結晶区画間の壁は自由電子の移動に何か影響があるようには解釈されていない。そこで原子結合とその周りを思い描くには、その原子を取り囲んで自由電子が浮遊しているような図で考えれば良いのかと言う教科書的解釈に見える。その絵図を描いてみた。自由電子が空間的にどのような形状で、空間に分布していると捉えれば良いかは、あまり具体的には詳しい解釈が示されてはいないだろう。詳しい事を説明する程、誰も自由電子を明確に捉えている訳ではないのだ。それは自由電子なるものが粒子なのか、波なのかなどと、物理学理論で曖昧のままに今日を迎えているからである。要するに分らないのである。真実は、『電荷』を持った電子なるものが存在しないからなのである。

格子と真空

原子結晶格子の真空 原子の空間寸法をどのように認識でるのか。金属結晶の空間格子構造を観測は出来ないのだろう。教科書による原子概念を理解しようとしても、その原子の空間的形状や寸法が明確に捉えられていないことから、元々無理なのかもしれない。結晶構造を検索で調べても、どの解説も一つ一つの原子が格子状の構造で示され、そこには原子とその存在する空間との関係を少しも考える意識がないように見える。ITの検索には、子供か市民か専門家ではない人達の適切な疑問による質問が寄せられている。それに応える解答の記述内容は質問者の感性に対応できない、決まり切った方法の解説で終わっているようだ。その質問の中に、原子が結合したその周りの空間は真空か?と言うものがある。それを図に描いてみた。このような単純な感覺に基づいた疑問に、答えられない事が現代の自然科学論の社会的課題である事と思う。詳細の状況を日常用語で説明できない筈はないと思うが無理なのだろうか。その具体的考察の材料として、単純な原子結合格子像を描いてみた。原子の空間的実像とその原子結合の意味を解説して欲しい。

原子の構成源はエネルギー 素粒子などが原子、陽子あるいは光の構成源ではない。質量が光に変換する。その意味を理解しているならば、決して素粒子などを特別に必要とする筈はないのである。『電荷』がどんな素粒子から出来るか。光がどんな素粒子から出来ているか。エネルギーが空間に存在する事を理解できるかは、光がどんな物理量であるかを認識できるかどうかに掛っている。質量に依存した運動エネルギーと言う概念しかエネルギーを認識できない現代物理学論に問題が有るのだ。上の絵図の原子間空間は真空かどうかを解釈するに、原子その物が空間のエネルギーの局所化した状態と認識すれば、空間が真空かどうかでなく原子その物が空間にエネルギーの広がりとして原子間を塞ぐと考えれば問題はないのである。格子全体が原子の中心からの広がり同士で重なっているとみなすべきである。《真空》とは何かになるが、光が通過している空間もエネルギーから見れば、何もない真空ではないとも言えるから、真空と言う定義も改めて考え直さなければならなかろう。

自由電子と原子結合 最初の仮想図に、結晶内を『自由電子』electronと電子を放した原子との二つの空間配置で書き表した。金属原子が電子を放せば、電気的にはプラスになると見られよう。原子が格子状に堅く結合して、その周りに自由電子が浮遊している形状でしか教科書的解釈の『化学結合』を捉えようがない。そこで『化学結合』の原子同士を強固に結合させる力が生まれると説明できるかを考えてみよう。その結合力はどのような法則の力で解釈するのだろうか。クーロン力だろうか。プラスの原子とマイナスの電子ならば、教科書的クーロン力で説明できようが、問題は電子が自由電子で何にも束縛されずに自由に浮遊していると考えるべき電子と思うから、原子間の結合力になる何らの役割も無いと見做さなければならない。 束縛がないから自由電子と特別に電子に自由の名を冠したと見做すべきだろう。だから自由電子は原子結合の力に関与できないと観る。それなら原子同士はプラス同士だから、どんな結合力を仮想すれば良いのだろうか。

自由電子が導体電流の基になり得るか 今日まで『自由電子』の存在を疑いもしないで過ごしてきた。何故意味の無い、明確な定義づけの出来ない『自由電子』を科学世界の常識として認めてきたのか。さて改めて、『自由電子』が自由に移動して、電流の概念を満たす要件を備えているかを考えてみよう。電流が持つと定義される要件は何だろうか。代表的な周期律で29番目の銅Cu、その金属内部を思い描いてみよう。物理学者は、その電気銅の表面に問いかけてみても、その金属結晶の中を負の『電荷』を身に付けた『自由電子』が自由に移動する方向性を持った流れと成り得ると思えるのだろうか。静電界の問題では、金属で遮蔽された空間内に、『電子』が存在すれば、静電誘導問題として議論になる。今考えている銅金属内の自由電子が銅原子格子間の空間に浮遊しているとしたとき、それは真空内に浮かぶ電子だろうか。その電子に働く電界は在るだろうか。電子はある決まった電界の存在によってはじめて移動する筈だ。銅金属導体内に電界の存在を考慮できなければ、電子が移動するとは考えられない。導線に外部から電圧を掛ければ、それは直ちに電源短絡の事故になる。導線は殆ど電界に堪え得ない導電性を持って考えられている。抵抗がないと見られる。だから銅金属に電界を掛けることなどできないのである。自由電子の負電荷が電子移動の原因とする力をどのように理解すれば良いか。

自由電子が導体外部の磁場発生原因となり得るか 自由電子が電流(電子の逆向き)となり、それが導体外部の磁気発生の原因となるかどうかで確認できる。電子をその具備条件から考えれば、負電荷を持つもので磁気の性質は持っていない。自由電子が導体の中を移動しても、その影響が導体外部に及び、しかも本来保持しない磁気を発生させると言う解釈はどんな論理性で、説得力を得るのか。磁気と言うものも、その存在する空間の(磁気)エネルギーなのである。電子が空間に存在する事がその周りの空間に磁気を伴うか?と言う論理性に疑問を持ったのが『電荷』否定の道への出発点であった。自由電子と言う西洋科学概念が世界の論理を支配して来た訳であるが、それは東洋哲学に照らせば矛盾以外の何ものでもない。東洋思想で検証する科学の道が市民に開かれた自然科学論に成る。自由電子が何故磁気を作り得るかを考える事が科学論なのである。数式では論じられない。数式に乗せるには、決められた概念・法則に従うから可能なのである。その概念・法則を解剖してみれば、自ずから論理性とは何かに思い至り、その概念の矛盾に気付く筈である。『電荷』否定を数式では論じらない。同じく、『電荷』の実在性を数式で論説できない。

電気回路と自由電子 電流が流れると言う電線と同軸ケーブルを例に取上げて、自由電子の意味を探ってみよう。

回路と自由電子

模式的に自由電子を赤色で書き表した。負の『電荷』を懐に入れた自由電子など存在しないと説得するために、自由電子を使って解説するなど全く面倒な科学論説だ。しかし、教科書が間違っている等と言う事を説得するには、教科書の中身の矛盾を説明しなければならないと言う、本当に変梃な論法だ。

①導線の自由電子 銅Duの導線側面を削り取り、中身をみる事を想定しだ図だ。銅原子同士が結合して、格子状になっているとしたら、銅線の外側表面は拡大するとその格子状態が剥き出しになっているかどうかで一思案だ。せめて教科書の意図をくんで、何とか自由電子の面目の立つ方法を考えてみるが、どうしても図のような自由電子の立ち居振る舞いの表現しか浮かばない。そもそも自由電子が固体か流体かも分らない。分らない物を空間に書き表そうなどと考える事自体が間違っている。数式に頼る意味は、具体的に深く事実を探ろうとすると、自己矛盾と言う世界に迷い込むから、権威ある方はそんな迷い道に入らないようにとても上手く逃れる方法の道を堂々と歩むのである。市民が自由電子とは何かと追究するための参考になれば、こんな図が役立つかと思って描いた。後は誰でも想像力を働かせれば、自由に考えられるかも知れない。少し電気の事を知っている者として、問題の考え方の例を挙げてみよう。『電荷』に対する電気的小難しい数式による問題に、静電誘導の解析がある。自由電子が導線内を移動する場合に、その自由電子は自分を生んだ親に当たる銅原子の格子が静電誘導の鏡面の役割をすると考えれば良いのか。もし今でも授業でそんな静電界の解析をする教師がいたら、それは困りものだ。自由に移動する負電荷の電子は金属内で、誰を相手に鏡に映して鏡面現象の理論を全うするのだろうか。その電荷の相手は導線金属の外側に結局負電荷を誘導すると言うのが静電誘導の理論解説になっている。自由電子は結局導線の外側面に全て現れる事になるのが教科書的な、高度の数式による静電誘導の理論である。しかし、この場合は自由電子の負電荷に対して、親の銅原子の正電荷が丁度電荷を打ち消すから、静電誘導も上手くゆかない。静電誘導現象の辻褄を合わせようとすると、自由電子は銅原子のプラス電荷と未練がましく離れられない姿を晒すようにしか見えない。自由の筈がちっとも自由に動けない籠の鳥電子に成ってしまう。中々理論と言うものは、あっちを立てれば、こっちが立たずで、何とも見苦しい様を晒すものだ。筆者も電気の専門家(文科省などの政府には邪魔であろう)として誠に恥ずかしい。どう考えても理解できないのは、プラスの銅原子同士が結合して格子になり得るか。その様なプラス電荷の格子の中をマイナスの電子が何故クーロン力の縛りから解き放たれて自由に動けるのか。『電荷』の存在矛盾が、電気理論の論理性を筋立てて解釈をしようとすると、どうしても避けられない矛盾の壁に突き当たる結果を生む。プラスとマイナスの『電荷』で自然界を解釈しようとした事があらゆる矛盾を生む原因に成っているのだ。この辺の詳しい意味を『電荷』概念で電気磁気学の教科書を執筆される専門家は、しっかりとその専門性を発揮して、矛盾の無い深い解説をして頂きたい。電気技術でなく、理科や物理学においてこそお願いしたい。

②同軸ケーブルの自由電子 同軸ケーブルはテレビの信号用配線ケーブルとして多く使われている。その断面構造は中心に導線Duが一本通り、有機材(ポリエチレン)被覆の絶縁の外側が網組銅線で囲まれている。デジタル信号など高周波の信号が通る。電気回路としては、二本の導線と同じものである。一本が中心を通り、もう一本が外皮の網状導線と形態が変わっているだけである。何故高周波では、同軸ケーブルになるのだろうか。電気信号の伝播速度は高周波であろうと、50ヘルツの商用電気であろうと全く同じである。教科書の電気理論上は、自由電子が移動する話になっている。ただ、送配電線路と同軸ケーブルの配線とはその長さが極端に違う。その長さが何に影響するかと言えば、信号のエネルギー密度が極端に異なる点に求める事ができよう。信号はエネルギー量が極めて小さいから、長い線路亘長では減衰してしまう。電力の場合は、エネルギーロスが有っても、エネルギー密度が極めて高いから送電が可能である。微弱の高周波エネルギー密度の信号を伝播するには、外部放射損失を抑えた信号伝送回路が求められる。幾ら周波数が高くてもエネルギーが大きい訳ではない事を認識してほしい。(蛇足ながら、量子力学で、e=hν [J]の周波数νが高ければエネルギーが高いと勘違いし易い表現は間違いだ。)さて、この同軸ケーブルで、自由電子の振る舞いを考えてみよう。中心導体の中は銅原子の格子の中を浮遊する自由電子は①と同じ事になる。中心と外装の網組導体での自由電子の流れる方向は逆向きでなければならない。網組みの中を流れる自由電子は網の線間を渡り行かなければ上手く電流の役割を果たせない。網の間の渡りが出来る自由電子は中々超能力を持つものだと感心する。高周波デジタル信号を伝えるには、自由電子も難儀な役割を担わされたものだ。本当はそんな役割を人間様に課せられても、自由な自然は我関せずで、人間の思考に副えないのだ。実際自由電子が流れても行ったり来たりで、何にもエネルギーなど運べないのだ。自由電子が辿り着いても、電子はエネルギーを運ぶ訳ではないから、電子の行きと帰りでエネルギー保存則の観点から、負荷へのエネルギー供給分は電子の魔術的能力に因ると考えなければならなくなる。『エネルギー』と言う独立した物理的実在量の認識に欠けている。例えば、自由電子についても『電荷』と『質量』で定義されているから、自由電子のエネルギーはその『質量』に運動エネルギーが付加され、その加速時の力に『電荷』の電界加速の原理が要請される。そこには、エネルギーは運動エネルギーしか見えない。もしその解釈を電気現象の基本とするなら、自由電子が負荷端に到達したとき、そのエネルギー分を負荷に供給して、戻る自由電子は運動エネルギー分に相当する増加速度を減速して電源・送信端に戻らないと、エネルギー保存則の意味が否定されると思う。その様なら、自由電子には誠に御気の毒様とお悔やみ申し上げなければならない。

電気エネルギーの伝送形態 エネルギーは決して電子等必要としていない。『エネルギー』の独立独歩の気概を損ねたら、物理学における電気磁気学の未来は無い。上にエネルギー流として緑色の色付けで示した部分がある。導線の外表面に沿ってエネルギーが縦波として流れるのである。

参考論説記事 電流計は何を計るか 電流は流れず 『電荷』と言う虚像 クーロンの法則を斬る 電流と電圧の正体 電子科学論の無責任 力学から見た電流矛盾 回路とエネルギー流―電流解剖論― 生活電気と『光速度』 電荷の否定は科学的発見か 『電荷』否定への道

自由電子科学論への怒り 中曽根臨時教育審議会とは何だったのか。『電荷』否定の科学論が科学界の常識にそぐわなかった事は誰よりも理解できる。ガリレイ・ガリレオも地動説で社会(宗教権力の教義)の常識にそぐわなかったがために、死後300年後まで罪人の汚名を着せられた。『電荷』概念の過ちを何処で、どのように正すことができるのか。26年と言う年月は長かったが、それでも先が見えない。未来の子供達に、広い視野で正しく見渡せる新しい常識を教えてゆかなければならない。本質を見極められれば、無駄や間違いも少なく済むのである。原子力発電の廃炉を考えたときの経費対エネルギー量の評価係数が間違って未来への借財として加算される事は、ガリレオ・ガリレイの300年の話の比ではない。