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ゆっくりと遠近の世界をー速度「理科基礎」-

大それた疑問は生きている意味を問う自己確認の旅かも知れない。それが人生か。生まれた時の産声は人生を問う第一声でもある。何も知らない世界だから、保護されながら生きられる。すべてが恐怖の世界の筈だから。そこに向けた第一声が記念の産声だ。その時から長く生きながらえると、生意気にも哲学などと訳の分からない事を穿り返したくなる。始末に負えない生物になる。しかし、特段社会に害を及ぼす訳でもなく、極めて冷静・平穏な筈であるが、幾ばくかの差し障りを生むかもしれない事は我知らず。自然科学などと数式を頼りに論を展開している内に、いつの間にか余り数式が頼りにならない心境になってしまい、己の数学的能力の限界を悟る。止むなく学術的でない日常用語での科学論を展開する仕儀になってしまったのかと。感覚だけが頼りの『時空論』をと考えてみる。自然世界の現象を理解するには『速度』が物理現象には欠かせない。究極は『光速度』とはどんなことかを認識することに尽きるように思う。華やかな世界の科学理論「一般相対性理論」は理解の程遠い話だから、産声を立てる心算で、身近な感覚から眺めよう。高等学校での物理で取上げる自然現象の『速度』とはどんな意味かを考えながら。
空間 『空間』は世界の基盤である。世界の事象を考える、考えないに関わりなく、その空間の意味を疑問には思わなかろう。生まれた時からその空間世界に同化して生きて来たから。

写真285手のひら 手を広げてみれば、その空間は宇宙の果てまでつながっている。手のひらに宇宙を乗せていると思っても良かろう。世界の考え方は自由である。青空の下であれば、その空に向けた手のひらには微かでも何百億年前に遠い星の放った光が届いているのだ。今手のひらの向きとその光の基の星の位置とはどんな関係にあるかと不図思う。今届いた光の軌跡は観る事は出来ない。想像する以外に軌跡を知ることは出来ない。星は何百億年の時を経た今、手のひらの裏側に在るかもしれない。空間の意味を世界を知る基準として捉えようとすれば、そこには不可能の意味を同時に知る事にもなろう。灯りの無い砂漠の平原で満天の星を眺めた時、一つ一つの星の光はすべて遠い過去に放たれた、しかも時間の違う時代の光なのだ。1万年前の星座と今見る星座とにどんな違いがあるかも知ることは出来ない。世界はすべて流れているから。決して静止していないのだ。すべての星の光は星との相対運動の下での観測になる。だから観測波長も相対速度の下での観測になる原則から逃れられない。世界の存在する『空間』も、その意味を知ることはなかなか難しい。空間を少し数式で考える時空間ベクトルと単位ベクトルで扱う。
時間 『時間』とは何かと問う人がいる。それに答える人もいる。様々な事柄がインターネットの中に行き交う。『相対的・・』などと問答が展開されるのが多いようだ。日常当たり前に疑問も抱かない時間とは何かと問う人は、きっと現代物理学論の話題に興味を持ち、勉強をしているからなのかも知れない。そんな疑問を持たれる人がいる事に興味を持って、少し考えてみた。私は思う。『時間』など自然には無いのだと。自然はただそこに今ある姿を示しているだけで、『時間』などと言うものは無い。『時間』で自然を見ようとするのは人間の『性(サガ)』故のことでしかない。理屈を付けて因果関係を理解するために時間を必要とするからである。日の出と日没で生命にリズムが生まれるが、それは人間の為に創った訳ではなく、自然そのものでしかない。『時間』と言う概念がどうしても欲しい。そう感じるのが人間だから、その訳を探ってみるのも良かろう。太陽も地球も空間に存在する為には静止しては居ない。回転によってその存在形態を造っている。その結果が回転に伴うリズムを生む。そのリズム(生命のリズム)そのものが生命の存在するリズムの基本となっている。回転は輪廻転生と言う同じ事は許さない原理を創りだしている。生命に限りがあるのも自然のリズムがある故である。「生きたい」という願う心にはリズムの『時間』が刻みつけられている。生きる安心の為に『時間』を意識するように自然に生かされた存在なのだ。大した事ではないのだが、自然を『モノの理』として納得したくなるのも人間の性であろう。大自然の実相を悟るなど度台無理な筈なのだが、何とか理屈を付けておきたくなるのも人間であるが故だ。纏めれば、『時間』には二つの意味があるか。一つは人間の概念:社会集団生活上不可欠な『時間』。二つ目に生命のリズム:自然の本質である回転のリズム。宇宙の空間と時間を考えた時、世界の始まりも終わりもない。地球や太陽系は無くなる時が来るかも知れないが宇宙は輪廻転生の原則で決して消えない。特別の理論など要らない。

光速度 『速度』という意味をどのように理解してるか。「空間」と『時間』について述べた。世界に静止する実在は「空間(何もなく、動かない広がりであるが故に世界が存在できる)」である。太陽の運動、地球の運動と言えば、その運動(位置と『速度』)を定義する基準座標が決まらなければ運動を論じられない。自然の世界を理解するということは、安易な法則で捉えようとしても無理がある。自分の運動を考えるに、『速度』は地球の自転、公転の上に地上の観測できる速さの総体として受け取らなければならない筈だ。それでも太陽系内での話である。短距離走100mの世界記録と言えば、トラックの地面を『速度』の基準座標として捉えている。しかし本当は太陽系全体が回転エネルギーの局所化された運動形態である。この辺の事について地球の自転と万有引力を考えるで少し論じた。その中の日常には関わりないとしても真理は全体の中の一部になっていると頭の片隅に置くべきであろう。物理学では、運動などの力学的エネルギーとして、運動エネルギーと位置エネルギーの二つで捉える解釈法が採られている。我々は太陽に拘束されて生かされている。ならば、地球に対する太陽の重力加速度(もし位置エネルギーを唱えるなら)など余り考えないようだが、それも無視出来なかろう。運動法則が自然世界の真理と言うなら、地球の太陽系での力学的エネルギーも宇宙論の基盤に理解できなければならない筈だ。『エネルギー』は力学的エネルギーだけが物理学で基礎概念として教育内容の対象に論じられるが、その教科書的エネルギーなど世界の『エネルギー』の内の一部でしかない。太陽から放射されるエネルギーは光などに質量を定義していないから、力学的エネルギーの範疇には入らないだろう。物理学理論のエネルギー論は片手落ちではないか。そこで再び『速度』とは何かを考える。何故地表座標基準での『速度』だけではいけないかは、『速度』の極限を示す光の『光速度』を問題にしたいからである。光は何を運ぶのか。振動数を運ぶ訳ではない。『エネルギー』を運ぶのである。光を周期波として解釈するが、その半波長でも『エネルギー』なのである。『速度』とは『エネルギー速度』なのである。いわゆる運動エネルギーは質量を媒体とした『エネルギーの速度』と解釈すれば普遍的に捉えられる(私だけの感覚かな?)。『光速度』はアインシュタインの『特殊相対性理論』で世界を席巻して有名である。しかしその理論では、光の速度を規定する空間座標が明確に(慣性座標系は曖昧である)定義されていない。どう考えても理解できない。1887年のマイケルソン・モーレーの実験結果を過大評価した結果、アインシュタインは間違ったと思う。だから『特殊相対性理論』は詭弁論だと。光が特殊な現象を演出する訳でなく何も日常の感覚とかけ離れてはいない事から光の速度と空間特性として纏めた。また関連して、光速度は空間定数(H/m,F/m)で決まる に記した。地球の運動が光の速度との関係で、相対的である事は当たり前な事である。1676年にレーマーが光速度を計算した。それは地球と木星との相対的な運動の影響が、光の速度『光速度』の算定に役立つと考えての事である。もし、アインシュタインの『特殊相対性理論』を唱えるなら、レーマーの実験での地球の運動に基づく『光速度』の算定結果を否定しなければならない筈だ。すべての光は光源と観測者との相対的な関係が観測結果に含まれるのだ。ただ光速度が地球の公転速度(約30km/s)に比べても比較出来ない程の速さである。その光速度測定法における算定には誤差が伴い易い筈だ。マイケルソン・モーレーの実験結果はその誤差を取り除けなかっただけだと解釈する。1933年、Dayton C.Miller, The Ether-Drift Experiment and the Determination of the Absolute Motion of the Earth  Rev.Mod.Phys.5,203(1933) にはマイケルソン・モーリーの追認実験が成され、測定結果も示されている。何故この結果が検討されないできたのか不思議だ。

最後に、速度とは『エネルギー速度』だと結論付けた。水の波、水圧エネルギー波、空気波(音声圧力波)等の波も『エネルギー速度波』であり、エネルギーの伝播速度はその媒体空間特性が決めると解釈する。それに関して専門用語『振動数』の解剖がある。

十五夜お月さん

陰暦がある。月の満ち欠けを暦に利用する。太陽歴に比べれば年周期に巧く合わない。しかし、電灯の無い昔は月明かりが日々の生活の流れを感じさせてくれた基準でもあったのだろう。何処で見てもみな同じく見えたから。

満月の光 何故あれ程に満月は輝くのか。地球に対しては、有名な言葉が残されている。「地球は青かった」とガガーリン少佐の宇宙から見た地球の姿。地球放射光のスペクトル分析をしたら、成分はどう評価されるだろう。夜空を飾る天の川がある。しかし街の明かりが邪魔をして、降りそそぐ天の川の星の眩さなど見る事ができなくなった。月から見た地球の光も遠い星の光もみんな空に輝く。あの夜空に光る遠い星星はみんな恒星なのだろうか。恒星は全て太陽と同じ光放射原理によるのだろうか。学説の水素核融合に因る?太陽は何故燃える?しかし、月の光は太陽の反射光である。あれだけ輝いても。満月

(2013/11/19)今朝の5時過ぎに満月が高く輝いていた。仰角45度程の高さにあった。(20日の朝5時前は仰角60度近い高さに見えた)。太陽の反射光であるから、日の出に近い太陽の位置を考えると、真丸い正反射の満月が在る位置が自分との三角形での幾何学的座標位置を巧く頭で整理して、理解できないのである。太陽からの地球の相対的距離から光がほぼ8分以上遅れて届く訳であるが。8分の差を考慮しても、満月のままで少しも月の影が欠けていないとは信じられない。当然太陽との位置関係を頭に描けば、満月は地平線上近くになければならないだろう。光は直進するのだから。月の満ち欠けを日々追い続けると、その季節毎に満月の天頂位置も違うし、日中に半月の月が天頂で、北向きであったりする。その月の欠け方は太陽の方向と合致しない事がある。どんなに解明しようとしても、合点できない月の満ち欠け現象だ。その合理的解釈に一つの道が可能性として残されている。光規定空間と太陽系の運動速度の関係である。先ずは江戸時代から歌われているという歌謡を日本人の感性の繊細さの例に挙げてみよう。うさぎうさぎ1

月の影に餅を搗くウサギを見た。江戸時代に行智の歌で歌われていたらしい(岩波文庫 30-237-1  わらべうた 参照)。

太陽系の速度 光はどんなときにも直進する。これが光認識の基本である。その光の速度はエネルギーの極限値として、存在する空間との共鳴で発現する。その基準値として、定義した空間定数に従うと捉える。それが空間定数の『真空透磁率』『真空誘電率』である。その基準空間が、逆に光の速度に因り決められると言える『光規定空間』である。光の速度『光速度一定』が宇宙の世界認識の全ての基準と考えなければならない。人の光観測では、全ては『光の相対速度』しか観測できないのである。『光速度一定』の原則により、光を観測すれば、如何なる時も『相対速度』しか観測できないのである。殆どの場合は、必ず「ドップラー効果」の下での観測になる。ただ、地球上で、実験室的に相対距離が変動しない場合には、その観測値は相対的に互いに相殺されて、放射源のそのままの光の観測結果になるだけである。『光規定空間』とは所謂『絶対空間』と言うことになる。その空間に対して光は『光速度一定』なのである。従って、太陽がその『光規定空間』に対して静止していなければ、地球の観測する太陽光はドップラー効果の下の観測結果になる。宇宙の星の観測も当然その関係の下での観測結果になる。こんな単純な解釈は日常生活感覚に基づく自然認識からしか理解できないかもしれない。学術論はとても難しく理論が構築されるから、市民的感覚とはそぐわないし、馴染めないと思う。光は自然の全知全能の神と看做しても差し支えは無かろう。英霊や亡霊の気味悪さだけは無い。光には、日本で最近頓に目につく権力支配・体制迎合による偽装や虚偽も無い。安心して頼れる。これでは大人気なくて、世間からまた嫌われる。しかし怒りはどうすれば消えるのか?今朝の新聞によると、沖縄県竹富町、教育委員会がその独立の気概を示してくれて嬉しい。文科省の教育現場への圧力行政は最低の教育破壊の実態を示す。

空を見上げて

空を見上げてまた筆で描いた。一月前に投稿した記事「今朝の新聞科学記事に驚いたー相対論と隕石ー」を今見てくれる人がいる。その記事を読んだら、また説明したくなった。『特殊相対性理論』は光や観測者の速度を定義する「空間」を明確にしていない点が致命的である。光の『光路』と『光速度一定』と言う意味を明確に定義しなければ、光について論議できない。光は決して、人間が主体的に判断できる程、人間に都合よく振舞わない。上の筆字で、「見上げる自分が観えますか」は自然はあくまでも観測者に都合よく存在していないと言う意味である。観測者が観測する空間は、観測者が思う程に静止した空間ではありません。上空を見上げても、その空は静止空間ではない。観測者の自分は地球星の一点に居る。地球は公転と自転をしている。何に対して運動しているのだろうか。何時如何なる時でも、観測者の自分は地球の運動の上に存在している。地球が運動していると言うその「空間」はどのように認識出来るか。が大問題なのである。自分が見上げる空の意味は、地球が運動しているその運動速度を定義する「空間」を認識できなければ、自分が空間に対してどのような関係にあるかを理解できないのである。観測者は自分の足元を確定できないのである。その地球が運動していると確定できる空間を認識出来れば、空を見上げたときの『光』の意味を理解する可能性が生まれる。その「空間」こそ光の速度や光路が定義される空間なのである。それを『光規定空間』と私は定義付けている。地球の自転・公転はもとより、その中心の太陽も運動していないとは決めつけられないのである。天体は、基本的に回転でその存在を保っていると解釈する。『光規定空間』は言わば『絶対静止空間』と言う解釈で捉えて良かろうと思う。光規定空間の光路

光は一定の光速度[m/s](空間ベクトル)で直進する。その光は直進する為の伝播媒体(エーテルなどの質量性物質)は不要である。

上の「一定の光速度」と言う意味は光が空間を進む時間とその空間距離の比率を表した言葉であろう。それが常に一定速度である。その速度は光が伝播する光自身が規定する空間の長さと時間から決まるものである。人の観測など何の意味の成さない筈だ。光が決める自然である。もし光源が上の絵図の②のように光規定空間に対して運動していたとすれば、その光源から放射される光が光源の運動には無関係に、光が放射された瞬間から、その光は光源の運動には一切関係なく、独自に光規定空間上を一定の光速度で伝播する筈である。「新聞記事」の宇宙船上からの光の軌跡が舟の速度との関係で解釈されている点が、基本的に間違いである。光は放射瞬時に光源とは無関係な「光路」を伝播する。「直進する」と言う意味も障害物が無い場合には、光規定空間上を一直線で伝播すると言う事である。星の近傍を通過するような場合は、その星が空間の障害物になるから、光は回折して、曲がる現象を呈する。水星の近日点の重力解釈は違うだろう。

太陽の寸法測定と光空間

(2012/06/06) 追記。空間の寸法、距離は光の速度が決める。その速度が一定速度『光速度』である。宇宙は星星の運動空間である。星の速度は何に対して定義するか?その基準が宇宙論には定義されていない。空間の定義が無い曖昧な宇宙論になっている。その空間の定義を決めるのが『光の速度』である。その光が決める空間を『光規定空間』と定義する。それを下の記事で解説した。地動説は太陽に対して、太陽を中心とした「太陽系」の地球等の公転・自転の見方を捉える考え方である。しかし太陽系も大きな渦の中の一つの星座系でしかないのである。太陽も運動している。決して静止している訳ではない。その太陽が何に対して運動しているかという問題である。その基準空間が『光規定空間』であると解釈すべきである。光が直線で伝播すると言う基本を空間規定の「宇宙公理」と看做すのである。光が直線で伝播すると言うその意味を厳密に捉えているかどうかの問題でもある。先般の金環日食の観測から太陽の寸法を確定するというニュースが有った。しかし太陽からの光が地球に到達するのに約8分かかる。太陽が光空間に対して運行速度を持っているとすれば、「金環日食の陰から太陽の寸法は測れない」事を言いたいのである。それを一つの図に表現してみた。図では少し誇張して公転速度を拡大表現してある。もし光の伝播軌跡に対して、太陽が静止していると仮定すれば、地球が公転してE_1_の位置なら太陽からの8分前の光が地球に到達する。しかし太陽だけが宇宙の天体の中で、運行速度ゼロと言う事は考えられない。もし太陽の運行速度がV_s_とすれば、地球の公転に因る位置は太陽に吊られて、E_2_の位置に在ることになろう。その時の金環日食の像は8分前の太陽からの影像を観測することになる。それは太陽の寸法には成らない筈である。

突然記事を投稿したくなった。今朝のニュースを見て、自分には理解できなかったからである。先日の金環日食に基づく観測からの「太陽の直径測定」の話である。私が理解できないと言う意味は「宇宙の天体はすべて運動している」事に関する点である。太陽の運行速度は幾らかと光が直線で進行伝播する事。宇宙論の論考の基準に何を根拠にして論じるかの命題である。光は直線的に進む。と言う意味一つをどのように考えるかの基本を決めなければ曖昧な論理になる。人は自分が世界の中心に居ると考えやすいと思う。しかし世界の中心は『光が決める』ものと私は考えている。素人の単純な頭で考える事は高が知れている。難しい数学は手に負えない。「アインシュタインの特殊相対性理論は詭弁論」と言い続けて来た。ただ電磁気学の矛盾から、光の相対速度に辿り着いたのが基本にある。光が世界の王者だと言う意味を単純に表現できないかと考えて、一つの図面に現わしてみた。天体(自転なし)の光軌跡。光の速度は途轍もない速さである。天体の運行速度と光の速度を1つの図面に描き表すなど出来ない。しかし考え方を表現するには光の速度が遅いと考えて仮想することは可能であろう。天体は運行に伴い先ず自転していると考えて良かろう。しかし光の軌跡を表現するに、天体が自転していたら複雑な軌跡になるので、単純化の為に自転なしの天体を仮想した。『光規定空間』に対して運行速度V_S_の回転運動体とする。天体の決まった1っ点から光を放射し続けたとする。各位置0,1,2.・・・8の1周した時の光の位置は『光軌跡』のような線上に瞬時パルスの光が存在すると考えられる。同一方向に『光速度』で光パルスのエネルギーが伝播するから、その瞬時瞬時の位置が光速度で『光軌跡』の形状のまま拡大すると解釈する。これが『光規定空間』と言う意味の1つの説明である。これから続いて述べてゆきたい。

光観測とドップラー効果 (2012/07/21) 記。今まで、纏める事もせずに来た。何も難しい事は述べていないつもりでいる。抽象概念や高等数学も必要のない話しかない。ただ科学者の論理と殆ど異なる視点で、あるいは反する論理で述べている。単純な思考を具象空間で捉える事に絞った論である。光は『一定の光速度』で直線的に進行する。だから我々が光を観測する時、地球という運動体からの観測であるから、必ず『相対速度』でしか光を観測出来ない。マイケルソン・モーリーの実験ではそれを示せなかっただけであり、着眼点は間違っていない。だだ、光の伝播空間の媒体や空気の密度分布状況で、その一定速度も当然異なるのである。太陽光線の朝日、夕陽あるいは夕焼けなどにその一端が見れる。すべて光観測は「ドップラー効果」の下での観測に成る。これだけでは意味が分からないかも知れません。改めて、別の稿で論じたい。

相対速度とは?

光の速度と空間特性』の(3)二つの運動体間の光伝播特性について論を纏めようと考えたが、光の空間伝播と言う解釈にはやはり特殊な認識が必要と感じた。アインシュタインの『特殊相対性理論』とは全く異なる解釈の展開ではあるが、日常の感覚とは少し視点を変えなければならない事が有る。光規定空間の場は地上の座標とは異なり、そこでの光伝播を論じようとすると、日常の生活での『相対速度』と光の伝播に関する『光相対速度』との違いを明確にしておく必要を感じた。先ず日常の例で相対速度と言う意味を考えておく。ロケットの打ち上げの様子は誰もが映像で見慣れているだろうから、それを題材に考えてみた。ロケットの打ち上げの様子を人が観察している状況で考えてみる。私も宇宙の事に関しては全くの素人である。だから疑問だらけでありながら、論じることに面映ゆさを禁じえない。例えば、ロケットは真上に発射されているようだが、暫くすると横に流れているように見える。その訳は「地球の自転の影響なのだろうか?」等である。マイケルソン・モーリーの実験では地球の表面速度を約 30[km/s]と考えていたようだから。地球自転の影響でロケットが曲がるなどと考えることは間違った解釈なのかどうかは、ロケットの発射現場の人に聞かないと分からない。専門家には素人の論は相手にされないが、一通り教科書の中身を学び過ごした目から見ると、総合的に判断して、余り専門の理論に固執しないで考えて良いかと思う。その中から役立つ理論を抽出して、日常生活の中に結び付けられたら良いと思う。古い理論の伝承鳩教育が現状の教育機関の問題点と思う。ロケットの話に戻す。観測者からロケットまでの距離が『相対離隔距離』と言えよう。人はロケットを見ながら、その上昇する早さとか方向とかのおおよその状況を推し量る。人からの距離が x[m]とする。この長さと方向性を数式で考えると、空間ベクトルに成る。ベクトル x になる。このベクトルの時間的変化率、即ち時間微分 dx/dt が所謂『相対速度』と言うものの解釈、定義になる。この相対距離の時間微分を「ベクトル解析」と言う有効な数学で解釈すると、「空間ベクトル解析」と言う論題になる。その『相対速度』はどのようになるかを示したい。人がロケットを観測して、その観測結果がロケットの速度として認識出来る訳では決してない。ただ考え方として理屈を付ければこのように表現でき、納得できるだろうという程度である。人がロケットの早さとか、その距離とかを目視で認識するのは、対象物が両目に張る角度γしか無かろう。近くではその識別力は相当効くが、遠くに離れるとどの程度の能力になるかとは思うが。兎に角数学的に解けば、時刻 t の時の離隔距離 x(t) と少し経過した時刻 t’ の距離 x(t’) の各ベクトルの差を経過時間 tr = t’-t で割れば時間微分となる。その時間間隔 tr を限りなく0にするのが極限値としての時間微分の意味である。lim(リミット)と言う記号で表した。その結果がロケットの時刻 t における瞬時的速度を表す事になる。その大きさが V であり、方向が単位ベクトル n で表される。また、発射台からのロケットの相対速度を解析すれば、人からの距離の微分と同様に同じ結果と値 Vn になる。なお、ロケットがより遠くの場合でも、もし同じ速度 Vn であれば、ベクトル解析結果は同じ微分値となるのは当然である。この辺の話になると、人間の観測感覚とは合わないだろう。

さて、人が離れた物を認識するのは何に拠るかと言えば、無意識ではあるが、それが『光』である。光で認識する訳であるが、光の相対速度を考えようとすると、特別な解釈の意識を持たなければならない。地球上でロケットを観測しても光の相対速度から、ロケットから反射する光が同じ地球上で観測するため、相対的に地球の運動はほとんど影響なく認識出来ると解釈して良い。(この文章は間違いである。2013/04/21に訂正。)ロケットからの光はロケットから放射された瞬時に、ロケットの速度とは無関係に光規定空間を光速度で伝播する。他方観測者の観測点は地球の光規定空間に対して何らかの測定不可能な相対運動をしている。そのロケットと観測者の相対的光規定空間上の瞬時的相対離隔距離はあるベクトル的な時間関係で定まっている。しかし、その座標関係を観測上も、計算上も瞬時的に捉える事は困難である。光の観測で或る程度の相対関係を認識するだけである。ロケットと観測者の二つの相互の状態を捉えるには、光あるいは電波に因るより他に方法はない。ロケットから放射された光を観測者が捉えたとしても、その瞬時のロケットの位置を捉えることに成る訳ではない。観測対象からの光伝播特性は 光伝播時間算定のための瞬時空間ベクトル解析法 日本物理学会講演概要集第54巻第1号第1分冊77頁(1999)(発表欠席)に解説してある。ロケットと観測者の光規定空間上の速度ベクトルが明らかなら、光の観測でロケットの相対速度を理解できるが、二つの速度が一般的には解らない訳であるから、光の到達時間の遅れをどう補正できるかで、観測結果が決まるであろう(以上追記)。

この辺の微妙な光の速度差を論じようとすれば、光速度を定義する場を明確にしておかなければならない。その点で、ローレンツの収縮やアインシュタインの論理で、考察対象の速度v や光速度 c と言う場合のその速度を定義し、論じる基準の空間が何も明確にされていない処に論理的矛盾が有る。言わば「曖昧さ」の上に論じられているのである。私が『光の相対速度』と言う場合に、その意味を誰もが分かるようにしておかなければ、論理にならないと思うので、ここに取り上げた。ロケットの速度を人の観測と言う場に「空間ベクトル解析」と言う数学的手法の意味を説明した。光の伝播現象に、光一粒(光量子、光子と言うもので、1波長分のエネルギー空間分布を私は定義)の空間での瞬時、瞬時の座標位置を「瞬時空間ベクトル解析」により捉えようとするものである。ここで説明しておきたかった事は、光の速度基準空間が『光規定空間』と言う宇宙の全空間を支配する均等な絶対空間と解釈すると言う点である。この辺は宇宙論の専門家とは全く異なる視点で解釈している事をご承知いただきたい。光が世界を支配する全ての「王者」であると言うのも、この事、即ち「空間と時間ー”時空”」を規定する支配者が光である事に基準を置いているからである。素粒子も変換時に光を放射する。光をどんな素粒子が構成すると言うのかを明確に示されれば、私も『世界の王者が光だ』などとは言わないで済むかもしれない。素粒子の根源も『光』である