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視界と光の科学(屈折)

はじめに(2020/02/11)
視界は人が見る光の世界である。すべての生き物はその命の保全を図るに周辺外界の安全を常に注意しなければならない。その感覚器官の中心に視界認識が有ろう。視界の意味を知るには光の物理現象を知る必要が有る。その上で更に、人や動物は水平二眼によって視界を構成認識しているという意味を考える必要が有ろう。そこには、上下と左右の視界構成の機能的意味の違いが有るように解釈する。それが次回の記事(視界論)になろう。その為の予備知識を整理しておきたい。

光の科学(物理特性) 光とは何か?と考えた時、思い浮かぶ現象・知識の基礎は次のようなもの(高校生の学習項目程度)になろう。しかしその解釈は物理学での教科書の内容とは同じくないかも知れない。あくまでも筆者の電気回路技術感覚を基にした『エネルギー』を基準にした解釈になる。光も空間エネルギーの振る舞いとして捉えたいから。科学実験で観測不可能な『エネルギー』であるところにその科学論としての認識の困難さが有ろうが。

①光は毎秒30万キロメートルもの超高速度で直進する。自然現象を理解することが大切である。光の速度を知ることで、さらに何故その速度なのかあるいは直進とはどの様な空間に対する意味なのかなどに疑問を抱くことが物理学の大切な視点と考える。それは哲学にもなろう。

②屈折現象が有る。空気と水、空気とガラス、空気と角膜などの境界面で、垂直でない角度で入射するとその媒体の特性によって屈折が起きる。それはその伝播空間媒体での光の速度が異なるからである。境界面に垂直で入射する光は屈折はしないが、入射媒体内で波長によっても速度は異なる。それが色収差あるいはプリズムの原因と考える。上のような意味が屈折現象の起きる原因の基と考える。

③望遠鏡、顕微鏡あるいはカメラなどはレンズの表面の曲率によって、主に空気との間の屈折現象を利用する光学機械・器具である。

④反射現象。光は鏡、放物面鏡あるいは水面などで反射する。木炭のような完全吸収体以外の物体はすべて反射体である。物が見えることはその対象が反射体であるからだ。確かに太陽光や焚火あるいはホタルの光は反射光ではない。それは質量のエネルギー変換(化学物質反応)光と見做してよかろう。それらの発光源からの光以外の視界に入る風景の万物はそれぞれの色彩と形を持っている。その景色の基になる光は同じ光でありながら、対象はそれぞれの色彩をもって反射光を放っている。

⑤電波と同じ特性である。パラボラアンテナでの反射現象は光と電波で全く同じである。

⑥光はエネルギーである。その現代物理学理論での表現は ε=hν [J]  である。プランク定数 h[Js] と振動数 ν[1/s =(Hz)]で評価した表現式である。しかし、光の実体は空間分布エネルギーの縦波と考える。光には教科書の解説のような振動などする物理的実体は何もないだろう。光のエネルギー量と振動数の概念を具体的に解説することが市民感覚と物理学理論との乖離をなくする大事な現代的課題と考える。

ここに挙げた6個ほどの認識について、そのような現象は何故起こるのだろうか?それらの現象の中で、今回は屈折について、その何故?について考えてみよう。

屈折とは?
屈折現象について物理学での解釈はホイヘンスの原理で成される。何故媒体が異なる境界面で屈折するのか。光の進行方向が曲がるのか?ホイヘンスの原理は良く分かり易い説明である。しかし、光の波長が違うとプリズムのように屈折角が何故違うのだろうか?ホイヘンスの原理で理解できるだろうか。波長が異なる光の違いをホイヘンスの原理でどのように捉えますか。波長とは何ですか?その辺の極めて日常的な生活感覚からの疑問が自然現象を理解するためにはとても大切な事と思う。物理学理論あるいは教科書での解説は、それは学術的な専門家集団の常識的統一解釈を取りまとめた共通認識論法である。決してそれが自然現象の本質を捉えた論理的な科学論であるとは限らないのだ。国家統一論と同じく、全体的な掌握手法としてとても有効ではあろう。自然現象を論理的に矛盾無く捉えようとすると、厳しい事象を乗り越えなければならない現実に突き当たる。屈折現象は光の物理学理論になるが、光の捉え方で、波動性と粒子性の統一し難い困難がその一つの例でもあろう。光が粒子でないことは分かると思うが?また波動性と言っても、どんな波動かと疑問が沸いて当然と思う。その波動性をすんなり現代物理学理論として理解するような能力を筆者は持っていない。学術論が理解できない劣等感は若い頃から抱いてきた。そんなことから今回も、素人的な感覚だけから、一つのレンズを取り上げて、その屈折現象を具体的な実験装置で考えてみたい。

屈折と媒体

こんな実験装置は時間を掛ければ手作りできそうである。特別予算を組むほどではない。透明プラスチック容器にレンズを取り付け、不透明版を張り付ければできそうだ。側面が透明であれば、半透明膜の写像は観測できよう。レンズを通した光はボックス内の焦点距離に像を結ぶ。半透明膜が焦点(写像距離)に在れば、像が写る。カメラはレンズの両面が空気だ。空気とレンズの境界面で「屈折」が起きる。その距離をXとする。次にボックスの中に水を満たして半透明膜を移動して写像距離を調べる。必ず長さXは長くなるはずだ。その距離Xは何で決まるかと言うと、レンズの表面の曲率半径とレンズとその接触媒体の物性(誘電率)によって決まる筈だ。当然レンズの光の入射面では反射も起きている。屈折で色収差(プリズム現象)も基本的にはある。また、水以外の透明なゼラチンなどではさらに距離Xは変わろう。レンズ表面の曲率と伝播媒体の特性差で距離は決まる筈だ。レンズ内部ではそれぞれの入射角によって方向が異なる直進光路を辿る。出口ではその媒体によって屈折角が違うため、Xが変る。Xが違っても鮮明な写像(媒体内でエネルギーが吸収されない限り)が映し出される。眼球内の硝子体のような媒体であれば透明であろう。媒体間の屈折の物理現象について、誰もが水中でゴーグルを外して水中視界を見ようとすれば、理屈抜きに感覚的に理解できよう。同じ目で空気中では見えても、水中では視界など歪ボケして見えないのだ。それでなくても元々人の角膜の曲率半径は小さく、小さな瞳からの僅かな光で視界を認識する。水中では角膜表面での屈折が弱く、水晶体の終端即ち硝子体管の入口に視界の像が結べないからだ。そんな意味も考える屈折の実験装置になればと提案した。

2016年にレンズに関する関連記事。

レンズと焦点距離 (2016/11/03) 。眼球の光路とカメラ機能 (2016/11/09) 。レンズの機能 (2016/11/27) 。

⑥の光はエネルギーである。その意味を 光とは何か?-光量子像- (2012/01/15) に述べた。

2017センター試験 物理レンズ問題を見て

大雪の中センター試験が実施された。受験生はじめ関係者の皆様御苦労さまでした。2日目の物理にレンズの問題があった。昨年の暮れに、レンズと焦点距離で『レンズの焦点』を否定した。3年前にレンズと光路で、レンズの焦点の意味を取上げて疑問を記した。今年の問題を見て、自分の能力不足のために教科書の理論が理解できない事からの誤解であれば、社会的混乱を引き起すようなことがなくて良いとも思うのだが、やはり残念ながら問題が間違っているとの意味を述べるべきと考える。御免なさい。
試験問題

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上の問題を見て少し異様に感じた。それは物体(蝋燭の火?)とレンズの寸法の違いである。余りにもレンズ寸法が大き過ぎると感じた。この図の寸法の違和感の原因に教科書のレンズ解釈に原因があるのではと勘繰らざるを得ないのだ。教科書の指導内容で重要な点はレンズの焦点の理解であろう。観測対象物体からのレンズ軸に平行な光線は必ず軸上の『焦点』を通る。と言う点であろう。
物体寸法拡大変更図

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物体の寸法が大きいと何が違うか。それは『実像』と言う図形の形状に違いが現れる。
実像とは何か?

%e5%86%99%e7%9c%9f434レンズ軸に平行な光線光路は『焦点』を通ると解釈されている。またレンズの中心点Oを通る光線は真っ直ぐ進むと解釈されている。試験問題の『実像』とは何かがハッキリとは理解できないのだが、写真機のフイルムに像が写る時のその『写像』の事なら焦点距離(この焦点距離と言う意味が曖昧である。太陽光線の写像位置を焦点距離と決めれば、レンズに一つの焦点距離が定義されることになり、曖昧さは消える。2017/12/31追記)の位置に、レンズ軸に垂直に表れると解釈される『像』の事であろう。教科書の理論の『焦点』の意味を図面上に用器画法で描いてみたのが上の図である。何方が描いてもそんなに違う筈はないだろう。図のように、得られる『実像?』は多分予想する図とは異なっているだろう。無理に教科書通りの『焦点』の意味を生かして描けば、ご覧のとおりの奇妙な『実像』となるのだ。こんな『実像』を教科書は求めて教育しているのか?物体の寸法がレンズの寸法に比べて小さければ、用器画法で得られる実像はこんなに奇妙な姿であるとははっきり分からないだろう。

レンズ機能の原理 焦点距離(写像距離と言うべきであった。その事はレンズと焦点距離で訂正とその訳を示した。2017/12/31追記)の位置に像は結ばれるのだ。その位置のフイルム面(カメラ)全面が対象物体からの『焦点』である。レンズ軸上に『焦点』があるのではない。レンズ軸上の『焦点』は物体のレンズ軸上の光だけが通るのである。だからレンズ軸上の『焦点』には物体のただ一点(軸上の物体の点)からの光しか像を結ばない。

レンズの機能

教育と科学がとても大きな問題に思える。今過去の、いや現在の教育内容で何か空(ムナ)しい、無意味なものが多くあるように思えて来た。来年度の新入生を迎える為の学力評価の『入学試験』が始る時期に来た。日本の教育制度では「理科教育」で『科学教育』ではない。理科の問題に既に伝統のレンズの問題も予定されているだろう。レンズの『焦点』と言う概念が何時から使われているかは知らないが、長くレンズの機能解釈の基本原理として教育内容に位置付けられて来た。『焦点距離』は重要な概念であるが『焦点』は存在しないのである。電磁気の『マグネット』の意味はその自然現象の本質を理解するには難しいかもしれないので、磁束で教育されている事をそれ程非難できないかも知れない。しかし、レンズの『焦点』については余りにもお粗末すぎるだろう。一体理科の教育者は何を教えているのか。考えない教育する側の社会的問題と言えないだろうか。天眼鏡、ルーペ、拡大鏡と呼び方もさまざまにある程に身近なレンズで、メガネなどもその機能を使う日常生活の必需品である。その機能がレンズを手に持って誰も確認しなかったなどとは信じられないじゃないですか。レンズの中心軸に平行な光線が一点の『焦点』を通過するなどと言う理論が罷り通る科学・理科とは何なんだ。ここに記す内容もただ感覚に頼るだけの思考が導くだけなのだが。

レンズに二つの機能 レンズには大きく分けて二つの機能があると観る。一つは拡大機能(ルーペ)、もう一つは写像機能(カメラ)の二つであろう。天体望遠鏡も顕微鏡も拡大機能を利用する器具・道具である。しかしそこには写真に記録する写像機能も重要なものになっている。拡大機能と写像機能の二つを兼ね備えているのである。肉眼で観測する拡大機能がレンズの基本の利用価値になっている。カメラのフイルムに映す仕組みは眼で観測する拡大機能とは異なるのである。カメラの焦点距離の位置で眼で見ても全く像は見えないのである。フイルムに映す写像のピント・焦点距離と眼で観測する視覚像の光の関係は全く異なるのである。眼は何を・どんな光の入射を見るかの認識の問題かもしれない。

拡大機能 レンズを使うのは拡大して、詳細に視たいからである。

%e6%8b%a1%e5%a4%a7%e6%a9%9f%e8%83%bd%e8%a6%96%e7%95%8c拡大機能 レンズの焦点距離をFとする。単位は勿論[cm][mm]の長さである。確かに焦点距離が重要なレンズの機能を表す科学概念・用語である。ルーペで文字を見ようとする時、文字とレンズと眼の位置の間には自然にある関係があろう。レンズと文字の間の距離にはD<F、眼とレンズの間にはF<leの関係があろう。しかし丁度文字とレンズの距離Dが焦点距離Fと同じくなると何も見えなくなることが分かろう。その何も見えない状態は何故かと考えないだろうか。何か訳の分からないぼんやりとした普段経験しない視界が見える筈だ。何か見えるが、見えている物が何かが分からない視界である。きっとカメラの焦点ボケと同じ事と簡単に解釈して、気にも留めないで過ごすのだろう。拡大機能でレンズが使えれば何も不満はない訳だから、そんな見えない視界の意味を考えるなどの無駄はしたくないのが普通の生活の人だろう。何の得にもならないから。本当はそんな意味の分からない事にこそ大切な意味が隠されているんじゃなかろうか。その眼で見ている物の正体は、文字の一点の像(光)がレンズの全面から眼の瞳に入っているのである。だから眼は文字の一点の拡大像だけを見ている状態である。眼の位置を動かせばまた文字の異なる部分の光だけを瞳に取り入れている状態になるのである。その眼の位置にスクリーンを立て、像を写せばレンズを通した文字の像が写像される筈だ。なお、D=Fの状態は丁度レンズを通した像が正立像の拡大から、縮小の反転像に切り替わる境の点である。また、眼に映る視界、脳で認識する普通のルーペ利用時の視覚像は即ち拡大機能の場合は、眼の位置が変わっても拡大像の大きさは変わらないようだ。leが大きくなればレンズを通した視界が狭まり、眼をレンズに近付けleが小さくなれば、視界が広くなるだけで像の大きさはほとんど変化しないだろう。

拡大機能と眼の光路 眼のレンズからの位置が変わっても、拡大像の大きさは変化しないように見える。その訳はどう解釈したら良いか?

%e6%8b%a1%e5%a4%a7%e3%81%a8%e4%b8%80%e7%ad%8b%e5%85%89%e8%b7%af拡大と一筋光路 あくまでも拡大の視界は感覚的な認識が基である。厳密に測定できるものではなかろう。拡大像の位置は感覚的に基の対象の位置と同じ所に在るように思える。その条件で解釈すれば、観測対象の或る一点からの光はレンズのそれぞれ無数の方向に入射している筈だ。その無数の光路の内眼の瞳に入る光の筋は一筋である。眼の位置をレンズに近付けても対象からの光の光路の内その位置に対応した光だけが眼の瞳に入ると解釈する。その様子が図となる。眼の光路の入射角が同じかと勘違いしたが、拡大像の位置が変わらないと感覚的に思えるので、結局角度が変化してしかも大きさが変わらないと言う現象で捉えた結果が図となった。拡大像の位置は全く感覚的なものであろうから、その意味では上の解釈図は場合に依れば人によって違うかもしれない。

スクリーン拡大写像 実験による確認。厳密な距離設定が必要だが、そんな装置は持ち合わせていない。天眼鏡の柄をクランプで挟んで固定。LEDランプ光源を観測対象に選ぶ。レンズの焦点距離Fも太陽光線の反転写像(そこには一緒に空の青色や白い雲の姿も一緒に写っている)の状態から大よその寸法として測る。残念ながら実施した科学実験の厳密性など保証の限りではない。しかしこれでも立派な科学実験として通用すると思う。レンズの機能の原理くらいは大体理解できるから。少なくとも『焦点』などの誤りはない。

%e3%82%b9%e3%82%af%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%b3%e5%8f%8d%e8%bb%a2%e5%86%99%e5%83%8fdfスクリーン拡大反転写像 D=F時のスクリーンの写像である。レンズの拡大機能を実験で確認した。光の像を写す必要から、LEDの小型ランプの光をレンズを通してスクリーンに映した像である。それを写したカメラの性能が良くないので鮮明さに欠けるが、紙面のスクリーンに写した像は拡大されて、LEDのランプの中のリード線らしき2本の影まで映っているのが分かるほど鮮明な写像である。この像の意味はもし眼で見るとしたら、視界の意味が分からない茫洋としたものになるのである。像が見えないのである。レンズとスクリーンの間で、眼で像を観測すれば、写像の一点に当たる位置に対応する瞳の点に入る光は同じ観測対象の一点からの光だけが全方向から入射するから、何も像は見えないのである。

実験結果に対する考察 少し距離の厳密設定での測定が出来たら良いがと思う。数mm程度の精度で実験できたら申し分なかろう。この大まかな実験では、測定対象距離Dと焦点距離Fとの間の関係が厳密にどのように切り替わるかは確認できない。D=Fと言うが、その今回の実験上の精度は曖昧なものである。クランプで挟んでランプとの位置関係は目視で適当なものでしかないから。さらにスクリーンの位置もいい加減である。何しろ光に関係した科学実験だから、もう少し光の物理的厳密性に沿った実験でなければ、世界の王者の光(『エネルギー』の素粒子と言う意味で)に失礼かとも思う。実験結果は拡大機能と写像機能の両方の機能を同時に映し出した結果である。D>Fで写像機能に移り、カメラの縮小反転写像となると思うのだが、このD=Fなのかどうか厳密ではないが、実験結果の写像は拡大反転写像である。Dが遠い遠方の大きな値なら、例えば太陽のような場合なら、縮小反転写像が焦点距離のスクリーン(スクリーンが燃えてしまうが)に鮮明に写る訳である。

レンズの写像機能 観測対象が遠い場合のレンズの機能である。スクリーンやカメラのフイルムにレンズを通して像を写す機能である。

%e5%8f%8d%e8%bb%a2%e5%86%99%e5%83%8f%e6%a9%9f%e8%83%bdレンズの反転写像機能(カメラ) この場合も、眼で観測するのとスクリーン上に映すこととは違うのである。写像機能のスクリーンで映る像は、その位置で眼で観測しても何も見えない。その位置は焦点距離で、ほぼls=Fに近い(少し大きい)関係にある。眼でレンズを通した反転像を見ようとすれば、相当距離leが大きくないと見えない。しかもその位置はどこでも見える。反転した小さな像が見える。

 

%e3%82%b9%e3%82%af%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%b3%e5%86%99%e5%83%8f%ef%bc%88d%e2%89%abfスクリーン写像機能(カメラ) D>FでのLEDランプの反転写像である。いわゆるカメラの機能である。ルーペの姿も影で写っている。そのルーペの像はランプの影絵であるから何も反転等していない。その中心の光の像がLEDのランプの光の写真の像に対応するものであり、それがレンズの機能に依る反転した像である。このレンズとランプの間の距離Dが変化するとその像を写すスクリーンの位置も変えなければならない。それがカメラの焦点距離を調整するピントを合わせる操作と同じ事になる。

自然の心 レンズは世界を見る不思議の窓である。レンズは教育の意味を考える要に見える。自然はただそこにその心を伝えている。君の居るそこで、君が見ている物に自然の心が開かれている。君がその思いを読んでくれなければ自然も哀しかろう。物理学は自然を見つめることがその学問の肝心である。自然を見ないで数式に頼り、数式で理解できると考えるような教育をしてはいけない。眼もレンズも自然そのものの心である。数式ではレンズの心は見えないだろう。身近で、自然の不思議を見つけることに教育の本源があろう。眼もレンズも世界を見る為に在る筈なのに、その本質(機能)を見ていなかったのである。理論と言う人間の創りだした色眼鏡の頭脳意識で都合よく考えていただけだったのである。いつ官製理論の『学習指導要領』による官製統制教育から日本が解放され、自由の学習が出来るようになるのか。