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人の色覚と光の三原色

人の色覚。人が身の周りを見渡せば、そこには彩り豊かな世界がある。何故こんなに豊かな色の感覚が目に備わっているのか。光に色がある訳ではない。光に色が無いのに周りは色彩の世界だ。色彩は光が運んで目に入ることで生まれる、脳の認識世界なのだ。人は共通の色彩感覚を備えている。こんな常識外れの疑問や『問答』は、経済的な利益からは全く無関係の領域の科学論考と言えよう。むしろ科学と言うより哲学の領域かもしれない。きっと誰もが薄々気付く事であるかも知れないが、社会的・時間的束縛や置かれた競争的立場から、追究するだけの余裕が無いのが現実である為の、無関心の部類に捨てているのであろう。しかも科学論文にするだけの、説得できる資料・データを揃える事が難しい。論ずる視点も、論点も広い範囲を俯瞰しなければならないから、データを揃えられない。そこに描く世界は、自分の感性に響く現象の姿を、感覚的認識の世界を、矛盾のない未来像として示す論述になるだけである。光の物理的本質と人の光に対する神経細胞の間に存在する総合的統合の解釈を示すことが必要になる。IT検索すると、光は横波の振動波だと決め付けられる。その教科書的論理を筆者は理解できない。光の振動波ではとても色覚について論じるべき筋道は見えてこない。光はエネルギーの縦波である。この光の捉え方で初めて色覚の疑問に沿える話になる筈だ。眼球内の光伝播現象が最初の論点になる。眼球の構造認識の問題である。光伝播の導路である『硝子体管』の光ファイバーの認識が関門である。眼球の光ファイバーと光量子 第65回日本物理学会年次大会で、発表資料のOHPシートの印刷が濃すぎて、投影できなかった恥ずかしい経験がある。研究機関にも所属していないため、予行練習も出来ず、ブッツケ本番で臨む。その資料が次のものだ。

OHP朝日の分散OHP資料(襖上の模様は金魚鉢の傍の襖に映った朝日の分散模様である。暫くした時間経過後にその分散模様が移動して、畳上に投影されていた。その二つの太陽光線の分散模様を、運良く捉えた写真である。自然が語りかける一瞬の姿である。)

眼球の色覚の説明資料が示せなかったので、失礼な発表であったと後悔。眼球の光ファイバーと色覚 に既に論考を示したが、光の三原色と言う観点を含めて、改めて考えてみる。なお分散に関するIT解説で光の分散がある。

写真224光の三原色と分散 (疑問追記、2015/01/03)絵具は24色などがあるが、光の三原色は紫や土色など何色を演色出来るのだろうか。

光の三原色という大変重要な人の色覚に関係する原理がある。TV等の色彩はこの原理によって可能になっている。この光の原理は人の色覚と色彩世界の間に秘められた不思議を提示している。科学技術との結びつきと言う面で見れば、この三原色の色の関係そのもので十分である。しかし、色の世界の物理的意味は何も理解できていない。何故かと言う『問答』に何も答えられないのだ。たとえば、赤(R)と緑(G)の混合色が何故黄色(Y)になるかに答えられるか?人の色の認識が何によって決まるかと言う本質的疑問には何も答えられないのである。生理学と物理学の統合した科学論の問題であろう。生理学で、神経細胞の情報伝達の物理的認識が如何なるものであるかに掛かっていよう。光ファイバーのタンパク質の繊維構造がどのようであるか?情報はすべてエネルギーの縦波である。電磁波ともいうエネルギーである。それはおそらく『熱エネルギー』とも言えるであろう。エネルギー波の解釈は電気磁気学の教科書的解釈では捉え切れない問題である。電界、磁界論では神経細胞を伝達する情報網の解釈には対応できない筈だ。電界、磁界と言う概念そのものが如何にも人間臭の科学概念であるのだ。電磁エネルギー伝播現象は空間であれ、細胞内であれ横に触れる波の実体など何処にも存在しないのだ。その物理的解釈・認識が科学論の基本的認識にないと、矛盾や混迷から脱する事が出来ない筈だ。そこで改めて、赤と緑の混合色が何故黄色になるかと言う『問答』を取上げる意味が成り立つ。物理学と言うものはその問答を拾い上げて初めて成り立つ学問であろう。この『問答』に今答えられるもの等何もない。しかしその答えられないと言う事を認識した上で考えを深めるべきと思う。なお、上の朝日の分散の色で、緑色が殆ど無い。その訳も理解できないが、畳上の分散模様には緑色がはっきり分かれている。一つの疑問として置きたい。

色の世界を尋ねてを参考に挙げておく。

追記(2014/12/13) 疑問に疑問が重なり続ける。単純な疑問が不図浮かぶ。光の三原色で「茶色」はどのように構成されるか。土色は自然のありふれた茶色だ。TVで「黒色」は光を零にすれば得られる。しかし茶色は三原色には無い。IT検索にはいろいろ質問があるが、満足できる回答が余り無いようだ。光と絵具の混同した質問もあるが、絵具の発する色彩の物理的意味が光の場合と何故異なるかも明確に理解できている訳ではなかろうから、混同するのも当然であろう。絵具を混合すれば、その混合絵具の分子構造により、光の変換特性が決まるからと解釈したい。分子の空間格子のColor Cellが光変換の原因であろうと解釈する。蝶の鱗粉と同じ意味である。絵具と光の三原色の間の関係も放射光と人の色覚との関係で全てが決まる訳である。だからその間の物理的意味合いは理解できる筈である。光が色を持っている訳ではない。解決できなくても、疑問が理解を深める基になる望みにしたい。

色の世界を尋ねて

世界は不思議に満ちている。『色彩』という彩りの意味一つを取り上げても、その自然の深みを知ることが出来ない。日常生活は彩りの世界にある。目に入る光の基の繰り広げられる感覚の世界である。しかし、光には『色』は無い。色の無い光が人に演ずる『色覚』の世界である。何故そんな事が起きているかを考えると、その不思議な意味に取り付かれてしまう。庭の佛相華(辞書を引いたらー仏桑花ーとある。何処かで見間違ったものかとも思うが、「佛」という文字とその姿という意味の「相」が花の呼び名に相応しいと以前から使っていた)、南国の花ハイビスカス、に揚羽蝶が止まる。なかなか羽を広げた写真を撮らせてくれない。赤い大きな花弁と揚羽蝶の彩りが、ひと際『色の世界』を演出して見せる。日中の花びらの赤い色は、何故赤いかが解らない。背景の葉の緑色も同じく、その色の訳の何故かは分からない。解らないと言う意味は、光の物理的意味が理解できないと言う意味である。揚羽蝶の色は『生物物理』の研究対象として、その『鱗粉』の解釈の問題となっているようだ。陽の光が空気を通して揚羽蝶の翅に当たり、鱗粉の構成分子と空洞構造の中での反射共鳴の結果として翅から放射される光が微妙な色模様を演出していると私は解釈している。赤いハイビスカスの花弁は、陽の光を吸収して、何故赤い色に見えるのかを理解できない。いつもの事ながら、最終の決まりが何処に行くかが不明のままに書き出した。書き始めるに当って、相当思考の纏まるに困難と思うような題材を選ぶ時の習慣のような気がする。だから、纏めるに困難でありながらもそこには新たな解釈や斬り込みが予想される時のようだ。一日以上下書きのままにして置いた。検索で「蝶の翅の鱗粉」を調べて見た。相当のデーターが検索に応えられる。電子顕微鏡写真でその複雑な構造が見られる。そこで考えた。『顔料』は日本画等の色彩の材料だ。宝石もルビーの赤や水彩絵の具の色彩も『色』の代表に思い浮かぶ。そこで、その色が何故『色』という個性、特徴を示すのかと考えて見た。「Color cell 」という言葉が浮かんだ。『色』とは『光』と空間を占める『物質』の間に繰り広げられる独特の自然現象である様に思える。物質は分子や原子による空間の構造物である。分子も原子も本来は『色』を持たない。どんな『顔料』もその構成分子が色を持つ訳ではない。色を示す訳は、物質が本質的に『色』を持っている訳ではない。何が『色』を演出するかと言えば、物質が構成する『光』を閉じ込め加工して放射する『色空間』あるいは『光の壺』とでも言いたい分子構造による『格子状微細空間』の仕業として解釈する以外に方法が無い。その『色空間』を「Color cell」と考えた。光について「振動数概念」の捉え方ではこの解釈は生まれないと判断した。『光量子』の一粒の捉え方が決め手である。可視光線の『波長』の寸法と『色空間』の寸法が丁度釣り合う大きさに思える。

色の実相 (2012/01/30/ 追加挿入) もみじの紅葉、銀杏の黄葉また、DVDディスクの色模様を具体例に挙げて考えて見よう。情報化社会だから、検索すれば一通りの知識は容易に手に入る。もみじの紅葉の訳などは、いろいろのサイトに解説されている。ブドウ糖と結合した赤色のアントシアニン系色素が「赤い色」の原因だとある。その分子構造も分かっている。そこまでの解説でほとんどが終わっている。そこに「何故か」と言う疑問が生じるのである。光に「色」は無い。色の無い光がもみじ葉に当たると、何故赤い色の光が反射されて出てくるのだろう。アントシアニン系色素分子の何が赤い光に変換させるのだろうか。赤以外の光をすべて吸収して、赤色の光だけを放出すると言うのだろうか。もみじ葉への入射光の内のどんなスペクトラムをアントシアニン系色素が赤色の光に変換するのだろうか。そんな疑問で「何も分からない」と言う事だけははっきりして来る。確かに、アントシアニン系色素がもみじの紅葉の原因であろう。それだけで、その色素が紅葉の原因であると言うだけで、化学的、物理的解説として済ませるだろうか。色素と言う「赤色」を生む原因はプリズムの分散と同じ原理に因るのか、そうでなければ、色素分子の構造の『色空間』が光の加工・変換の原因になるのだろうか。こんな『疑問』を捉えて、『問答』を頭の中に循環させることが「科学研究」の種となる様に思う。IT「検索」は至極当たり障りのない何となく誰もが暗黙の了解で済ませている程度の「曖昧な認識」の範囲に留まっている。色素が原因だ、程度で満足出来ない疑問感知能力が大事であろう。「DVDディスク(音楽CDの間違いのようです)」の分散模様をカメラに収めた。ディスクの構造は3層に成っているらしい。表面に有機樹脂の透明な保護被覆がなされている。基底は銀かアルミの光反射鏡に成っているらしい。上の写真の光分散模様は小さな蛍光灯スタンドからの光の反射を捉えたものである。スタンド光源の平面寸法は10cm×7cm程度である。色の分散模様はどうも光源の種類に無関係の様である。白熱電球も太陽光線も光源の大きさによる分散模様の形状は異なるが、分散光の色模様はほとんど同じようである。それも『謎』に見える。その音楽CDの分散模様の分析を始めたが、なかなか難しい。

(2013/07/27)追記。右の解釈図は間違いです。(2013/07/31)追記。その間違いの図を残しておく。間違い図間違いの訳は、CDの表面での光の屈折による分散と解釈した点である。それは分散模様で、目に入るディスク色模様は三色が逆になる筈だ。しかし、観測する三色の色の順序は中心から、青、緑そして赤となっている。この矛盾は図解に間違いがあるからだ。きっとすぐ分かった人も多いだろう。

「間違いを正してください」と『問答』にするのも良いか?光源の放射光の面が反転した像を見ていることになり、その訳を次のように考え直した。CDの分散模様を確認した結果、大いに反省した。改めて解釈を述べたい。CD光分散光路先ず光源の光がどのような光路を通って目に入るかを①図に示す。蛍光灯の面光源が基本的に何色にも分散して目に入射している。黄色や紫系も有るが青、緑及び赤の三色が強く現れている。例えば青色は光源全体の面からの光が全て青色になって映るのである。緑も赤もそれぞれが光源の全面の分散光を映している。CDには光源が何面も映っている事になる。この色分散模様で、疑問が二つある。第一は、何故青、緑次に赤と順序が決まるかである。第二点は左右が反転して映る訳である。CDの事には素人であるため、なかなか理解できなかった。その訳は、全てCDの記録の方式に隠されていた。CD記録ビット結局記録信号が盤の円周上に「穴」が掘られて記録されているものと思えた。その「穴」の長さや数の密度で、信号を記録しているらしい。所謂デジタル信号として。その様子を②で解釈した。疑問の第二点の左右が反転して映る訳を、次のように解釈した。光路交叉理由

左右光路交差の訳。 円周上にビットの穴があいているから、その穴に光が入射すると、側面で反射され、光源からの光路が交差して、右からの光路は右側に戻ることになる。だから、目に映る光の映像は、右側の光源がCDの左側の盤面からの光として見えることになる。だから左右が交差した光路の光を観測することになる。光源の映像が左右反転するのである。

第一の疑問の解釈。 この解釈には戸惑った。屈折から考えると、どうしても説明がつかない。色の配置が逆になるのである。その解釈はやはり「穴」に求めざるを得ない結論になった。IT検索すると、専門的な解説が出て来る。確かに『屈折』では説明できない。『回折』と『干渉』による説明がなされている。私がこれから述べる解釈も、どれ程のものでもない。原因をその「穴」にしか求められないと言う直覚的判断である。それは「回折」でも『干渉』でもない。単純な穴の中での反射からの解釈である。Color Cell のように見える。やっと図にまとめた。スリットの貫通穴じゃないから、『回折現象』は当てはまらないと考える。光の波長による屈折の違いとして解釈した。屈折と分散保護膜に入射した光は波長により屈折角が異なる。その僅かな違いが穴の中で異なる光路を辿ると解釈した。その結果、青色と赤色の場合で、光路を示せば、図のように成るだろうと考えた。穴を通して、屈折の光路が逆方向に反射されることになる。勿論緑色も、その中間の方向に反射されて放射されることになる。以上で、修正の解釈とする。

大した事でもないのに、考えると色々複雑な現象と思った。私なりの解釈でしかないので、異論、批判を歓迎します。

 可視光線の寸法と電波波長 光の寸法という空間概念は一般的な物理概念としては認識されていないであろう。『光量子』『光子』という光の物理学的認識では、振動数が理論的な認識の基本的条件となっている。「振動数」がどの様に『光子』の空間的存在形態で捉えられるかについては、物理学理論では問わないで済ましていると思う。振動数が空間にどのような意味を持つかは『問答』の対象とはしない。だから光の寸法という捉え方を物理学では認識していない。私が主張する点は、正しくその『光の空間的寸法』である。そこで、今回ITからの検索などで、集めた電波技術の利用状況と「可視光線」との範囲を波長から纏めて見た。普通は振動数で表示する事が多いと思う。可視光線の配色を同時に表現しようとすると、波長範囲が長く伸びて、簡単ではなかった。適当に切り貼りしてまとめて見た。ここでの『波長』は、その寸法では十分説明できない処がある。それは『波長』を正弦波の1サイクルで捉えるのが「教科書」あるいは『物理学理論』の基本である。しかし、私が解釈する『波長』の寸法は『エネルギー』から見た寸法である為、正弦波の1サイクルには2つの波長が含まれる事に成る。その点は、ここでは一先ず「教科書」の波長で解釈する事にして置く。その点については、エネルギー伝播とその検出回路における「交流条件」という事との関わりがあるので、簡単ではない。さた、可視光線の範囲がここで取り上げる『光の世界』の話の基に成る。光はエネルギーの流れであり、『光子』というような言葉で認識する時に、光の粒子と頭に描くか、雲のようなエネルギーの流れと捉えるかによって、認識に差が表れよう。粒子ならどのように振動するかも頭に描けなければならないと思う。兎も角「色の世界」として話題にする波長の範囲は極めて狭いのである。その範囲だけで人は無限の色彩の世界を享受しているとも言えよう。

追記(2012/01/25)  今日の朝日新聞1面に「始祖鳥は黒でした」という囲み記事があった。科学誌ネーチャーコミュニケーションに発表される「始祖鳥の翼は黒かった」という記事の話である。まさに、色素・色彩の謎に迫る研究である。しかも誰も見た事の無い「始祖鳥」の化石動物の色彩に関する事である。古生代の世界の色彩は誰も知らない。恐竜の色がどんなに煌びやかであったかどうかなども想像できない。だから画像は全て土色か灰色で描かれている。昔の世界がそんなに単調な色ではなかろうと想像しても、本当の色彩を知る事は出来ない。だから、その一つの研究として「始祖鳥」に挑戦した事は意味があろう。しかし、翼の色が「メラミン色素」から単純に「黒」と結論付けた事を私は理解できない。まさに私が『色彩』という物の本質をどう捉えるべきかを考えたのが上の記事である。蝶などの昆虫や雉などの鳥類の色彩の『色の世界』の仕組みが謎に満ちていると思うからである。タンパク質に本来色がある訳ではない。元もと光に色がある訳でもない。煌びやかな色の輝きは翅の構造が生み出すものであろうと見る。だから、この度の記事を見てとても理解できるものでないと思った。

眼球の光ファイバーと色覚

光の物理学的認識が問われている。光を周波数・振動数で認識することでは、その本質に迫れない。光一粒の認識が重要である。そのことは光の屈折現象の物理的解釈に関わる重要な基本点である。その光量子の空間像を 光とは何か?-光量子像ー に基本概念示した。

(2019/10/30)追記。記事の末尾にも追記した。どうしても、眼科の専門家の眼球機能の認識に納得できずに、先日書棚にあった、専門家の本を無意味として捨てた。光の屈折現象の物理的意味が正しく理解されていないと思った。媒体間の境界での特性差が屈折の特性を決めるのである。オットセイ、カバあるいはペンギンが何故水中でも空気中でも見えるか?人はゴーグルを付けなければ水中では見えない。その意味は眼球内のレンズ効果の理解に生かされなければならない。

さて、眼球に関する重要な指摘をしておきたい。医学的には、眼球の機能をカメラと同じように、網膜上に光学的な倒立像を結び、その像が視神経を通して脳に伝達されると解釈されている。眼科のお医者さんの多くの方がそのように解釈していると思われる。それはお医者さんの示す目の絵図にカメラの機能と同じ様子で示されているから。それは間違いと思う。眼球の中心眼軸には『光ファイバー』が貫通しているとみなすべきである。上の図は、参考文献Dispray Atras of Elementary Anatomy の日本語訳本(その原文はフランス語の Librarie Maroine SA Editeur. Paris 1980 であるらしい。 ) を見ての解釈である。(2019/05/19)追記。この文献には硝子体管の終端は網膜の視神経に繋がっている。しかし黄斑が視力の重要な部位を占めているようであることから、その点点模様が硝子体管の光ファイバーの終端模様と考えた。その文献には眼球の硝子体液の中心には硝子体管が示されている。その硝子体管を私は光ファイバーと解釈したのである。私はその光ファイバーが眼球の中心軸を貫通していると観る。カメラのようにレンズが空気中に在る様な構造で捉えて、水晶体のレンズで屈折した光が眼底の網膜上に反転像を結ぶと考えるのは間違いと解釈する。角膜に入射後の光は瞳孔、水晶体レンズを通過した後、平行光線として硝子体管と言う光ファイバー内を進行する。光の像は丁度『金太郎飴』の切断面のように、平行光線として黄斑の窪み部まで縦波のエネルギー波として到達する。従って眼底に結ばれる結像は黄斑に正立像として到達すると解釈する(ただし、光ファイバーが捩れているなら正立像とは違うかも知れない)。何故このように考えるかと言えば、カメラ構造解釈では、網膜全体に光感知機能・神経が張り巡らされていなければならず、更にその光の色覚まで網膜全体の細胞に識別する機能を負わせなければならない事になる。ここで『眼の色覚』の生物物理的解釈が問われる事になる。眼球の構造の昔の解釈では、『光ファイバー』などと言う光学的認識は無かった訳で、カメラと同様な機能解釈が当然のこととして受け入れられたものであろう。今でも、光量子の一粒の解釈が物理学では正確に認識されていない。光をあくまでも『波動論』として認識している訳であるから、「振動数」と言う横波概念でしか解釈できないのである。光を含め全ての波は「縦波」である。そのことを認識しなければ、『プリズムの屈折現象』の説明は出来ない筈である。「プリズムと光量子の分散(発表欠席)」ー日本物理学会第64回年次大会講演概要集 第1号第2分冊、p.405.  (2009)ーに基礎論を展開。日常生活で誰もが体験する物理現象さえ物理学理論は説明できないのが現実である。風呂の中の光の屈折現象も、水面の境界面で光の進行方向が屈折する。何故かと問えば、せいぜいホイヘンスの波面解説くらいのもので説明するだけである。一見、確かに光の屈折現象の説明が出来ているように思える。高等学校の物理の教科書などでも、プリズムや虹の七(?)色が光の波長によって屈折率の違いの為に分散すると説明されるが、『なぜ波長の違いで分散するか』の問いには何も答えられないのである。それは、屈折現象をはじめとする光の物理的基礎理論が完成していないからである。眼球の内部構造で、中心に『硝子体管』が貫通している事を冒頭図面に示した下部の文献で知り、直感的に眼球の光ファイバーの存在と眼球機能の本質を悟った。それは、光量子一粒がエネルギーの空間密度分布波との認識とが結びついたからである。単に波長や振動数では、媒質の境界面での瞬時的屈折原理を理解することは出来ない筈である。光の数波長あるいは何振動数分かを媒体の境界面で、じっと待ちながら、この光の波長は幾らだから、この方向に屈折させれば良いという判断司令官が境界面に居るとでも考えるのだろうか?そんな如何にも人間臭い解釈での物理現象の存在は天然・自然の神が許さない。境界面に光の一粒の先頭波面が到達すると同時に、瞬時に自動的に進行方向が決まると解釈するのが自然の本質を認識すれば、当然であろう。振動数を認識する時間的余裕を自然現象は与えてくれない。それが光の世界である。眼球の色覚機能。それは黄斑の窪みに到達した縦波の光をそのエネルギー分布密度で直ちに分離識別する機能として理解しなければならない。微細のファイバーの一本、一本で運ばれた光をプリズム効果で弁別するものと解釈した。その到達する深さの違いとして色の状態を判断するのであろう。医学に全くの素人である私の解釈は光量子概念からの必然的結論である。2011年の大学共通入試問題に眼球の問題が出た。眼球の網膜像入試問題を見ては私がここで誤っていると指摘した「カメラと網膜解釈」の問題その物である。私は医学に関して全くの素人である。しかし、物理学の真髄が教科書には無い事を知った。それが20数年前の事である。ただ1点、『電荷概念の虚像』(『電荷』という虚像)が全ての物理現象解釈に影響を与える事態に至ったと、今その怖れをも感じている(2012/01/30/ 追記、修正)。

網膜と色覚 もし視覚の像を網膜で捉えるとすれば、網膜の各部分ごとに入射光線の波長を識別しなければならない事になる。それは光の寸法、一粒の光子の波長を全ての波長にわたって識別する細胞の検知能力が要求される。網膜全面にわたりその識別を要求できる程、細密な細胞形態を望めるだろうか。波長は何を持って識別すると考えるのだろうか。その識別能力は黄斑部の細胞の奥深さでの光分散機能(プリズム効果)に期待する以外になかろう。(2013/03/18)追記。

追記(2013/4/3)。今日、眼球の光ファイバーに関する記事を見た。YAHOO!知恵袋の質問の回答にあった。Wikipedia.org/  のファイル:Schematic diagram of the human eye en.svg の記事。私の記事の眼球構造の図が間違っているとの指摘もあるようだ。しかし、安心した。どうも専門家の指摘のように思う。この『眼球の光ファイバーと色覚』の図で、ファイバーが網膜の黄斑に繋がっているのが間違いだとある。(2013/04/09)-その御指摘は御尤もである。今日改めて、参考資料(カラーでみせるやさしい解剖)を確認した。確かに、視神経に硝子体管が繋がっている。だから御指摘は当然と思う。しかし、御指摘の中心窩付近の傷害、変成が視力に影響するらしい事から、やはりそこの黄斑部がファイバーの接続箇所と解釈したい。どうもその説明の図には黄斑の名称がなく、中心窩(チュウシンカ)が黄斑の事かと思う。カメラと等価な眼球の光解釈は確実に間違いであると思う。黄斑と中心窩に硝子体管が繋がると解釈したいー修正・追記。(2018/03/14 追記)この眼球の光学的網膜写像の解釈には違和感を抱かざるを得ない。その意味を眼球の光路とカメラ機能-?-に眼球型カメラと言う図での矛盾を描いた。眼球の網膜はカメラのフイルム面のように平板ではない。網膜面に写像が得られるとすれば、どのようなレンズの屈折で可能かは納得する理解が出来ない。何故球面にレンズの写像が出来ると考えるのだろうか。レンズの焦点・焦点距離とは?などで最近考えた事との関連で眼球の『硝子体管』と『黄斑』の関係に強く再確認の思いを得た(2018/03/14追記)。

(2019/10/30)追記。黄斑円孔内の空間で、どの様な波長弁別機能が存在するかは全く分からない。光の屈折原理は光伝播媒体の異なる特性差によって、光エネルギー密度の差が速度差を生むからである。眼球のレンズの前後の境界で物質的空間特性がどれほど異なるかと考えればほとんどその差はないと考える。角膜の球面構造と空気のような、空気とレンズの境界の特性差のようなものが無ければ、眼球内部でのレンズの屈折は原理的に起きない。眼球内部でレンズの屈折光がが望めない媒体ならば、網膜面に光が視界の像を結ぶ訳が存在しない。「コメント」を頂いた中に、黄斑についてビタミンA云々というお教えがある。下のような学会での私の解釈は、光の基本的屈折原理だけからの「自然の本質は単純・純粋にある」と言う観点からのものであり、特別科学的に信頼できる確信などない。黄斑内部で光の波長と細胞との間で生命の不思議な仕組みがきっとあるだろうと今は思う。科学理論は広い分野を包含した哲学的で、必ずしも科学的実験での証明ができなくても、総合的な自然感覚(例えば、人の水中での視界は全く見えないが、ゴーグルを付ければ空気と角膜の媒体間の屈折により正常によく見える等。)が新しい研究の不思議解明の道しるべとなると考える。以上追記させていただいた。確かに今確認すると、私の図は不適切である。光の波長識別の説明は示されていない。光の浸透深さで波長を識別する意味が図には無い。眼球の光ファイバーと光量子 日本物理学会 第56回年次大会で発表した資料を示す。目の色覚機能この図が示す色覚機能は光ファイバーの一本を通して縦波のエネルギー密度波が黄斑部に入射して、その波長に応じて、屈折による分散方向が異なると解釈したものである。その位置を黄斑内部で検出して、その情報を視神経から脳に伝達すると解釈した図である。先に書いた文の削除は、少し参考資料に惑わされて書いた部分である。あくまでも『黄斑』の黄色い点の一点ずつが光ファイバーの接続点を示すとの解釈である。視神経管の構造を検索で調べたら、中心は血管の動脈と静脈が通って居りその周りを視神経が通るとある。黄斑部の波長識別信号が視神経に網膜内を通って繋がっていると解釈したい。しかし、「カラーでみせるやさしい解剖の図と違う解釈になるので、黄斑からの経路がどのように繋がっているかは全く分からない。

(2013/5/17追記) 先日検索した文献(*)に、硝子体の構造が示されていた。そこには、繊維細胞の複雑に絡み合った様子の顕微鏡写真が載っている。その細胞の一本一本が光ファイバーと観れるかどうかははっきり言えない。しかし、硝子体(管)と硝子体液から眼球が構成されている事から、その文献によれば、益々硝子体(管)が管状の『光ファイバー』であると確信できる。(*)江内田 寛, 坂本 泰二:硝子体の構造. 眼科手術.17:355-357.2004 (現在この論文が何故か以前のように簡単に見られなくなった。2014/02/19 現在)