タグ別アーカイブ: エネルギー

エネルギーと質量

(2023/05/31).

 自然世界は見えるものと見えないものから成り立っている。決して人間が見ることの出来ないもの、それがエネルギーだ。その中でも、最も根源的な、自然世界を構築している物理量が光のエネルギーだ。光は見えるが、光のエネルギーを見ることはできない。

 一方、見えるものの代表が質量になるかも知れない。しかし、質量とは物質の重さ、重量と言う評価量の[kg]等を意味するものだ。だから、見えるものは質量ではなく、物体あるいは物の姿を指すものと考えた方が良かろう。見えると言う事は、視覚でそこに在る物の形状として認識できる対象の事である。雲を照らす太陽光線の光も、その反射現象の結果として人が目で認識できる訳であり、それも見えるものの範疇に入るかも知れない。しかし、それは見えても質量と言う形状を示す訳ではないから、見えるものの内容には含めたくない点で、見える、見えないという意味も、少し曖昧な意味になるかも知れない。

 自然科学論と言う考察対象として、エネルギーと対極にある物理的実体で見えるものの代表的な自然の対象物を何と認識するかである。見えないものはエネルギーで良かろう。

 E = mc² [J]

 上の式は有名な、質量とエネルギーの等価性を表現した式だ。
この式の質量 m[kg] は何となく見えるものに思える。しかし良く考えるとそうでもなかったかも知れない。原子は見えないから。原子は、物理学理論で解釈される自然の基本認識として、その大よその概念を誰もが知っている。しかし、意識できても見えない対象だ。それでもその意味を捉える時、質量と言う概念で認識するように思う。それが上の式の質量 m[kg] だ。

 その質量が何から構成されていると解釈するか?

 E[J] が『エネルギー』だ。そのエネルギーの意味を質量との関係で、どの様に認識しているのだろうか。質量とエネルギーが等価である。という意味を上の式で表現したのだ。質量が、原子核分裂現象で、『熱』や『光』の『エネルギー』に変換される現象であることは誰もが理解出来ている筈だ。その核分裂現象は、質量が『エネルギー』によって構成された事実によってこその核分裂現象である。

 余りにも、単純で、基礎的な解釈論ではあるが、『質量』が『エネルギー』によって構成されたものである。という意味だけは市民が『エネルギー』の意味を理解する基本として理解して欲しい。

 これから、『エネルギー』が自然世界の根源的構成原であることを、いろいろの現象や対象との関係で論考を重ねる記事として、この 「エネルギーと質量」 を第一報とした。

学問の自由と教育と公共の福祉

(2023/05/16),

学問の自由という意味はとても深い内容を含んでいる。教育との関係では、更に複雑になる様だ。

どうか皆様にもお考え頂きたい。自然科学理論を市民の理解できる易しいものに取り戻したくて。

公的機関で、教育をする場合、その指導内容は厳しく制限されているようだ。日本では「学習指導要領」と言う基準で、教育する内容が決められている。その指導内容を決めるのは、やはり専門家の解釈理論が基になって決まるのだろう。そこには自然科学論として正しいかどうかでなく、社会的科学常識として多くが認める内容に集約されたものになるように思える。専門家と言う社会的専門集団の解釈が支配する。

科学理論と専門家の統合的理論体系の構築への貢献性。学識経験者・有識者が社会的仕組みや科学論理を決めることになる。そこには自然科学の真理が保障されている訳ではない。専門家集団の論理が支配するのだ。今、科学理論で、物理学者が解釈するとき、決して『電荷』を否定するような自然世界の真理を唱える事は起きないだろう。

自然世界の真理は。社会の混乱を引き起こす可能性がある。『静電界には、磁界は存在しない』が現在の自然科学の世界的常識である。公共の福祉とはどの様な意味だろうか。公共とはどの様な意味だろうか。

そもそも、教育とは誰のために在るものだろうか。それは飽くまでも、教育を受ける子供達の為のものの筈だ。さて、教師が子供達を前にして、教える時、教科書の内容が間違っていると確信できた時にどのように教えれば良いか。教科書通りに間違いでも教えなければならないのか。それはどの様な過程を経て決まるべきか。少なくとも、電気回路で『電子』が導線内を流れる等と言う解釈は間違っているのだ。その間違いはどの様に、誰が社会の一般市民に伝えるのか。教育では、子供達にどのようにこの間違いを修正して、正しい意味を教えることになるのだろうか。

公共の福祉と学問の自由の問題だ。

日本国憲法 第三章 国民の権利及び義務 (第十条 ~ 第四十条)。

第二十三条 学問の自由は、これを保障する。

が簡潔に掲げられている。
しかし、この学問の自由と言う事は、いろいろの面でなかなか難しい問題を含んでいる。科学理論は長い過程を経て、科学者の研究の積み重ねによって、その総合的解釈の合意の基に共通した、間違いないとの認識の下で唱えられてきた。それが現在の物理学理論であり、科学理論全体の総合的解釈論と成っている。

誰も自然世界に、『電荷』が存在しない等とは唱えてこなかった。原子構造もプラス電荷の『陽子』とマイナス電荷の『電子』がその理論的構成原理となって、一般常識に成っている。プラスの『電荷』とマイナスの『電荷』が引合うと言う暗黙の解釈と成っている。そこには理屈が無い。結合の現象を『電荷』によると解釈しているだけである。何故【+】と【-】の間に引力が働くかの理屈は示せない。『電荷』の空間像が示せないからだ。

この問題は、科学理論の意義として、極めて重大な社会問題の筈だ。『電荷』否定を教育の世界に取り込むには、トンデモナイ社会革命の様な問題となる。そこには、公共の福祉などと言う憲法の意味との関係で、社会的混乱をどう収めるかの時代の課題となる筈だ。

30数年前の『静電界は磁界を伴う』のコンデンサの電荷解釈否定が、現今の教育上の課題となっていると考える。物理学の専門家は如何にその事に解決法をお示し頂けるか。無学の筆者が考える疑問です。小学校に何処に入学したかが、自分が知り得ない不可解なるままであるが・・。

新世界への扉 コンデンサの磁界https://wp.me/p19wiU-4w

光の物理学―市民のための理科ー(初等・中等公教育の主眼にすべきもの)

(2023/05/09).

 昔の教え方、教科書を教えた事を反省しながら思う。 

 光とはどんなものか?
光と言う物理量(物理的実体)を理解する事が全ての自然科学、物理学の基礎である。それは科学の研究者のためでなく、全ての市民の自然科学の基礎として大切なものである。

 皐月の空の下で、周りを見渡せば天然と言う景色である。何一つ『色』のないものは無い。それは光と言う物理量によって認識できる世界である。衣服の絵柄模様も様々な色彩の様相である。

 この事の意味は先ず『何だろうか?』と疑問を抱いてくれるかどうかが教育する意味付の基本であろう。不思議とも思わない子供には、教える切っ掛けとして効果がそれ程その時点では期待できないかも知れない。知りたいと思わない事を強制的に憶えさせようとする教育は、やはり子供にとって苦痛であり、その押し付けになるかも知れない。
 
 光の物理という事で子供達に最初に伝えて欲しいこと。それは、光の本質には何も色など無い、ということである。携帯電話から放射される電波も、その本質は光と同じものである。だから電波には色は無いのだ。電波は光より波長が特別に長い波でしかないのだ。

 では、なぜ自然界は天然色の世界なのか。光に色が無いのに、その光で見る風景が何故色彩豊かな風景なのか。と、この事に疑問を持ってくれたら、半分は既に教育の目的が達成されたと思ってもよいかも知れない。

 色と言う世界。

 色鉛筆、絵の具、七色の虹、赤い薔薇の花弁、雨蛙の緑色。草の緑色、石の様々な色合、宝石の輝き、アンモナイトの化石がオパールだ。みんな豊かな色彩の世界だ。みんな光が届けてくれる自然現象の結果だ。

 色鉛筆や絵の具は科学技術と言う人の創り出した、工業製品の世界の色だ。その色も光によって人が認識する物理現象の結果の世界なのだ。

 その意味を不思議だと思ってくれるかどうかで、教育する理科の授業の価値が決まると考えたい。

 光の学習など一生の問題として良い程その意味は深いと思う。

 色を持たない本性の光が、その光の物理現象として人に色の深い意味の世界を届けてくれること。色彩に感動を覚える世界を受け取れる。その光の物理現象が人の感激する喜びを創る。何も色のない光が人に届ける贈り物なんだろう。

 少し、高等教育になると、物理学の研究になると、波長とか振動数という科学的専門用語が使われる。その波長とか振動数と言う用語がどの様な物理的意味を唱える為の用語なのか。そこには、その用語の意味を、その実像をその光の存在する空間における空間像として表現できなければならない筈だ。専門家はその用語の意味を具体的に、如何に解釈しているかがとても大切な事と思う。

 光の振動数とは、何が振動している意味か? に答えなければならない筈だ。

 光の具体的考察例。

 光は何を語るか (2021/10/18) の歌の CD 盤の分光例だ。

 これは蛍光灯の光を反射させたものだ。決して CD 盤の溝に色、色素がある訳ではない。同じく野に咲く花の花弁の色も結局光の演出の結果である。花弁に特別の色素がある訳ではないのだ。光は本来何も色を持っている訳ではない。無色のエネルギーの光速度伝播現象体でしかない。エネルギーに色彩は無いのだ。上の CD 盤の色模様も、勿論 CD 盤の溝に色がある訳ではない。それなのに何故このような色模様に見えるかということである。それは溝の空間構造によって、入射光のエネルギーの空間分布波長の違いで、反射方向が変った結果でしかないのだ。ただ色鮮やかな色彩に分かれている。それは虹の七色の分光現象と同じ意味である。要するに、色のない光と言うエネルギー分布波長構造の物理的実体が空間を光速度で伝播しているのが光なのだ。光の空間エネルギー分布構造で、ある何かの空間構造体に入射すると、その空間構造体内でのエネルギーの共振(反射と入射現象)によって、その寸法に見合ったエネルギー密度分布波がある共振的な方向に反射して出てくる現象の結果なのである。

 さてそれではなぜ色が異なるかという意味である。それは人の光エネルギー分布波の波長を視覚検出機能によって区別し、それを脳神経部で評価する生理学的機能に因ると解釈する。独断と偏見と言われても、やむを得ないが筆者の自然的感覚による物理現象評価法でしかないから。それぞれ異なる解釈があっても良いが、異なることに批判をすれば、より正しい評価に落ち着く可能性があるだろう。そこに正しい自然科学的認識理論が生まれる筈だ。空間の『エネルギー分布波』の伝播現象が光の空間像である。

エネルギーの姿・象

物理学理論で認識されていない概念が『エネルギー』である。

その代わり、自然世界に存在しない概念、『電荷』や『電子』が科学論の基礎概念となって理論が構築された。

『エネルギー』を意識しない科学論。科学論文はその専門分野に特化した特殊な『専門用語』で論理が展開される。専門家はその専門分野での高度な先端研究を対象にするから、それは止むを得ない事だ。しかし、その科学論はその専門用語が狭い専門家の為の世界観での解釈となるため、抽象的な表現に思えて、具体的生活空間から乖離したものとも見えて、解釈理論が理解困難となる弊害にもなる。基礎概念が曖昧なまま、教育現場に下ろされ、理解できない未消化な科学知識の市民科学リテラシーとなる。その最大の問題が『電荷』である。検索情報にも、『電荷』とは何か?という当然とも思える質問が提起されている。しかしそれに対して、回答者は、余りにも根本的で・・と答えることが出来ずに、逃げている。

エネルギーの形象。

光・熱。電気。圧力。

エネルギーの諸相

 

このブログでも、『電荷』という虚像 (2011/04/08) 、エネルギー(energy)とは? (2011/09/07)  などから始まった。

自然に対する観方は、自然科学理論では科学技術のための特殊な概念に因ったものになる。そこに『電荷』や『電子』という自然世界に存在しない概念が創造された。

自然界は極めて純粋である。それは『エネルギー』一つで構築された世界である。湯川秀樹が『混沌』と言ったものでもある。世界はエネルギー一つに集約されると、バートランド・ラッセル博士が述べた事でもある。

現在の物理学理論を唱える時、空間に実在する『エネルギー』の存在を意識できていないと言う、大きな理論の矛盾を抱えたものになっている。

上の図、エネルギーの諸相に、科学技術や自然現象が『エネルギー』によって生まれた世界であることに纏めてみた。質量も『エネルギー』の集約された象である。だから、 mc²[J] と『エネルギー』に変換される意味なのだ。

少し関連記事を挙げておく。

光・熱・電気。 雷の正体 (2012/11/13) 。焚火の科学 (2018/05/26)。白熱電球のエネルギー変換技術は? (2018/02/12)。新電気回路理論 (2022/09/01)。

回転動力。 発電技術とエネルギー空間 (2022/05/28) 各部ごとの詳論が未だ未完だ。

膜・弦振動。三味線と縦波 (2012/02/07)。糸電話―力学的解剖― (2014/03/06)

 

 

呼吸の意味を問う

呼吸の機能は基本的に肺が担う。肺はその体積の大きさと命の中心にドーンと在る存在感が凄い。

呼吸は『酸素』を取り込み、不要な『炭酸ガス』を排出することだ。生物と無生物に分けられよう。多くの生物の特徴が呼吸をする事のようだ。生物は32度から38度の体温のものが多いらしい。哺乳類は恒温動物で、爬虫類は変温動物と解説にある。樹木や野菜も生物に類するのだろう。それらも自己増殖能力、エネルギー変換能力を持っているから。自然の世界はとても広く、その全体像を捉えるのも難しいようだ。その中で、呼吸の意味を考える事は、自然世界を理解するに重要な視点になっていると思う。専門的と言うより自然世界の総合的認識科学論を求めて。大木や野菜のキュウリ、ナスあるいはカボチャもやはり温度で植物体内の環境を??残念ながらそれは想像もできない。

『酸素』を必要とする訳は❓

しかし、その『酸素』がどの様に、何処で使われるかが分からない。情報を検索しても、納得できる解説が無い。何故このような生命現象の基本的自然科学の基礎が解明されないで、過されているのか。解説が無いという事は、分かって居ないからと断言して良かろう。科学技術は途轍もない内容にまで理解が進んでいる。DNAの何処を切断するか迄簡単に可能らしい。最先端の研究競争対象は、その専門家の研究分野として解明される。しかし自然現象でも、真にその根源となる真理を解き明かすべき〈疑問〉が意識されない為か、科学理論として極めていびつな状況を来している。『酸素』と同時に『炭素』との関係が呼吸では切り離せないものである。『酸素』と『炭酸ガス』の関係が呼吸の意味だ。『炭酸ガス』の炭素は何処の細胞から、どの様な生理現象として『酸素』によって生じたものかが示されなければならない筈だ。それが無ければ、ヘモグロビンの解説には納得させるだけの論理的意義が無い。地球上で『炭素』は有機物として植物の神秘が創り出した物と解釈した。その根源は太陽光線の『エネルギー』の筈だ。有機と無機 (2022/03/16) 。

ヘモグロビンの機能は?

赤血球の機能は?

そして肺の機能は?

『酸素』が必要な訳は、生命を維持するに欠かせないものだとは感じられるが、具体的な意味が観えない。『酸素』が持つ燃焼機能の物理的機能を一体どのように捉えれば良いか。『酸素』が隣の『窒素』と何故違う機能、燃焼機能を持つのかその物理的意味を理解したい。それが物理学の研究対象でないか?『酸素』が燃焼機能を持つ、と言うだけでは物理学ではない!とそんな意味で総合科学論を捉えたい。

生命維持の基本条件は細胞の機能が正常に働くように整える事だろう。それは『体温』調節機能の筈だ。

『体温』がどの様な意味を持っているか。それは何が司るかである。36度5分と言う体温の温度レベルの必要性は何を意味するか。何故その体温でなければならないか?若い頃、よくインフルエンザに罹って、高熱を出した。40度近い熱でウイルスを駆除する為と聞いた。

その体温維持にこそ『酸素』が必要な意味が有る筈だ。体温とは細胞の保有熱エネルギーのレベルを評価した値だ。物理学理論には意識されていない空間を支配する『エネルギー』の分布密度だ。それは細胞内に内蔵される『エネルギー』の密度である。その『エネルギー』分布は神経伝達信号の基にもなる。脳の情報統制機能の基ともなる基本的情報源でもある。電気回路の電源電圧の意味に近い。

肺は赤血球の中にあるヘモグロビンと直接『酸素』と『炭酸ガス』の交換をどの様な仕組みでするのか?肺の細胞と赤血球が直接接触はするが、ヘモグロビンとは接触しないと思う。赤血球内からヘモグロビンが外に出なければ『酸素』と結合はできないと思う。そのような機能をヘモグロビンが持つと解釈するには無理がある。呼吸に関して多くの疑問に支配されてしまう。血液は何故赤い (2022/05/31) から今年も始まった。ヘモグロビンの元素『鉄』の関りも『酸素』、『炭酸ガス』との関りで専門的な解説の意味が、総合的な意味で理解できない自己無力感を抱く。

赤血球が謎運ぶ (2022/06/02) にヘモグロビンと赤血球の間の意味が理解できずに、疑問を印した。赤血球もヘモグロビンも恐らく生命現象を司る最も基本的機能に関わるものであろう。それらは病気を治療する、あるいはウイルスから守る為の医学の学術的知見に比べても、余りにも基礎的過ぎて、余り研究対象として取り組む機会が無いと言う訳なのだろうか。筆者にすればこれ程生命現象の根幹に関わる機能でありながら、何かとても大切な事を忘れてきたのではないかと思う。それが『電荷』など自然世界に存在もしない物を、物理学理論の根幹に据えた奇妙奇天烈な科学理論が科学者の世界を支配している状況と繋がるようで悲しくもなる。

『肺』の機能。

今回は、コロナウイルスで肺機能が失われて、命を落とすことを知った。肺は酸素を取り込む意味で、生命の維持の基礎機能の臓器だ。ヘモグロビンが酸素を運ぶとも検索情報にある。しかしそれは赤血球の中にあると言う。肺で酸素を取り込むのは赤血球となる筈だ。

赤血球の機能。

赤血球の機能は、血液として全身に回り、(途中が切れた)全身の生態環境の維持・調節をする事であろう。全身の細胞の機能を保持する、それが『体温』保持であろう。丁度電力送電・配電線路網と同じく、全体の『エネルギー』レベルを保持する機能と解釈する。それが赤血球の『酸素』によるブドウ糖酸化による『エネルギー』放射機能である筈だ。

肺には、心臓から肺動脈を通って既に役目を終えた血液がやってくる。肺で新鮮な、活性化された血液に成って肺静脈を通って心臓に送り返される。

心臓の左心房に入り、左心室から大動脈を通して体の全身に、新鮮な血液が送られる。血液の赤血球が内部にブドウ糖を取り込み、全身を巡りながら必要なところで、『酸素』を使いブドウ糖を分解して、『エネルギー』を供給する。赤血球が何処でブドウ糖を取り込むかは全く不明だ。しかし、赤血球が全身を回りながら、全身の器官の『エネルギー』分布を監視、調整している以外ないと考える。その『エネルギー』の分布は全身の外部環境の監視信号の信号源となり、脳の監視・統制信号の基になっている筈だ。電気系統網の電圧の『エネルギー』レベルと同じ意味で。以上は生化学に門外漢の解釈でした。

〈関連記事〉

  1. 燃える酸素の力とは? (2013/11/07) 。
  2. 体温と身体活動エネルギー「理科基礎(仮称)」を想定して (2016/04/08) 。
  3. 生命活動とエネルギー (2018/12/16)。
  4. 体温36度5分に思う (2021/11/18)。
  5. 体温と呼吸  (2022/03/26) 。

自然の本源と技術概念

こんなに科学理論に疑念を持って一体どこに行くつもりなんだ。

自分にそう問いたい。

今朝、突然の『はてな?』がやって来た。次の図に表現した。いま、リアクトルの電気現象を纏めながらに『はてな?』が。

纏めてみて、とても気に入った。

自然は余りにも純粋過ぎる。人間が自然を理解するにはその純粋さに心が対応できないんだ。だから複雑な概念を創造して、それが自然世界の物理概念だと勘違いするのだ。

『電圧』と『電流』が自然科学理論、物理学理論の自然現象を取り入れた電気回路の現象を理解する基礎概念だ。自然を応用して、利用するには誠に優れた解釈概念である。しかし、それはあくまでも人間が科学技術利用世界の構築に便利な共通理解の基盤概念でしかない。自然現象の本質を理解しようと、長い歴史的格闘によって獲得してきた文化理論でもある事には間違いない。『電圧』、『電流』は『オームの法則』として電気技術理論の根幹概念であり、それなくして現代科学技術文明も成り立たないのだ。ただそこから、余りにも科学理論が抽象的な頭脳ゲーム論の構築に溺れた結果が現代的物理学理論の矛盾を生み出した原因と見做せよう。自然界に存在しない『電荷』や『電子』が自然科学を理解するに欠かせない実在概念・物理量であるが如くに教育され、その結果不可解な世界を作り上げたのだ。

自然世界は、この広い『空間』とそこに繰り広げられる、『エネルギー』の綾なす舞台なんだ。上の図は、その『空間』と『エネルギー』の間に最低の科学的解釈を取り入れようとした結果、『エネルギー』が収まる空間の容量 C[F/m] と、『エネルギー』の流れる誘導L[H/m]の空間概念だけは取り入れた。『エネルギー』の伝播方向に対して、単位長さ当たりの解釈法で統一した。LCの共振現象で『エネルギー』は空間を伝播する。それが『エネルギー』の象徴たる『光』の縦波伝送現象の姿だ。

複雑を嫌う『禪』的な自然に溶け込む思いが先の図になったのかも知れない。

数学の『√ 記号』が魔法の衣に思えた。『エネルギー』は実在の物理量だ。しかし、それを平方(√)に開いたら、どう考えても自然世界に存在する物理量と思うには余りにも違和感で、その概念を心が受け付けない。『電圧』、『電流』が科学技術概念と捉えて利用する限りにおいては何の違和感もない。有り難い優れた概念である。しかし『電荷』で『電圧』を解釈する物理学理論はハッキリ言って自然界に存在しない、誤った間違い論である。教育で教えるべき概念ではない。

この事を科学者それぞれが考えて、意見を表明しない限り、未来の子供達への道標を示せない筈だ。『教育』の荒廃が続き、『学問の自由』が業界圧力によって踏み躙られてしまう。それは、みんなの生活の自由の根源ともなる事柄である。

『我』とは何か❓

突然のTwitterの変乱に驚いて。

私は私でないのか?

驚いて、振り返った。

『エネルギー』が自然界を支配している物理量だ。質量や分子は顕微鏡などによってその実像を観測できるようだ。しかし『エネルギー』は目の前の自然界の空間に実在しても、その像が見えない為に物理学の概念量として認識されない。光が在る事は分かっても、その光の『エネルギー』の実像を認識できないが故の驚くべき、認識矛盾の現代物理学理論だ。止む無く自然界に存在もしない『電荷』や『電子』が仮想的な理論的論拠概念として代用される事になった原因だ。

生命現象を司る生体の情報統合はその『エネルギー』による以外困難である。分子の流れる伝達速度は遅く、神経情報の伝達には間に合わない筈だ。心・精神と言う人が生きる根幹を支配する、その『エネルギー』への思いを記事にしてきたように思う。生理現象や医学には全くの無知ではあるが、自身の『我』という存在を心の働きの視点から内省しながら、思いを綴ってきた。電気回路の電磁伝播現象も身体の分子生物・医学的分野以外の生理現象も、情報伝達現象としては『エネルギー』から統一的なものと見做せるだろう。

はじめは2010年の

1.基礎科学とは何だろう から始まり、

2014年に自身の生物学への無知を改めて意識し、少し基礎を考えた。その年は特別に多くの関連記事を投稿していた。

2.脳と生体制御の謎 (2014/03/21)

3.生命の本質 (C.H.ウォディントン著)を読んで (2014/04/06)

4.細胞分裂の意味を問う (1014/04/18)

5.染色体と遺伝の仕組み (2014/05/08)

6.生命の始まりと脳 (2014/05/11)

7.脳の機能と個性 (2014/09/05)

8.アミノ酸(amino acid)を追って (2014/11/06)

9.ニューロン(Neuron)を尋ねて (2014/11/13)

10.細胞とその機能 (2014/11/18)

11.人の色覚と三原色 (2014/12/11)

12.意識とは何か (2015)。

13.生体電流と生体制御 (2017)。

14.生命活動とエネルギー (2018)

15.ヘモグロビンは何処へ行く (2021)

どういう訳か、考える基点とその方向が科学的常識と違うようだ。生きるための、憲法で保障された、文化的でと言う条件も最初(1939年12月1日:舞鶴鎮守府への戸籍転籍【内務省?】をされ、戻った記録の痕跡が無い)から無かったのかと煩悶しながら、科学基礎概念の『電荷否定』と『エネルギー一筋』の道を追い求めて、今は確信に至った。その反科学常識の自分の生理的思考の軌跡をまとめておきたかった。

質量とエネルギー

質量とエネルギーの関係  E = mc²  [J]

が質量とエネルギーの相互変換を捉える原則である。アインシュタインが唱えた。

この式で、質量 m とエネルギーの等価性を定義していると理解する。しかし、その式の厳密な導出については理解していない。

自然の表現形式 自然世界は質量とエネルギーによって自己表現をする。

質量とエネルギーの関係を詩に表現した。下手な筆字で心苦しいが、思いを表現した。

蠟燭と灯り

有名な書籍「ロウソクの科学」がある。電磁誘導現象の発見として有名な、イギリスの科学者マイケル・ファラディー(1791-1867)の公開実験と講演(1860年から翌年までの6回のクリスマス講演)の内容と訳者の解説に在る。身近な化学反応に関する内容のようだ。

その本が手元に在り、公開実験で市民に当時の最新の科学の、今で言えばサイエンスコミュ二ケーションに相当する意義を認識しての講演であったと言えよう。その本の記事に触発されて、同じ蝋燭の物理的現象を考えてみたくなった。当時のファラディーの科学知識に比べても、何も分からない者が考える内容だから大したものではない。しかし、今でも物理学理論から蝋燭の燃焼・発光現象を解釈したらどうなるか?少し、電気回路から物理学理論と教育を考えるから離れて。

化学方程式は炭素と酸素が結合して炭酸ガスになる。炭素(黒鉛)の燃焼熱あるいは二酸化炭素の生成熱として、

E = 349 [kJ/ 1 モル]

と検索結果に出る。この数値はどのような科学的根拠から算定されたのか?ただ根拠なしに、唐突に示されると、それは科学論としては訝しい思いになる。電子の電荷と質量が10桁も示される科学理論と同じく論理性の無さで社会的な欺瞞科学論に思える。この数値、349[kJ]も空間に現れる『エネルギー』の測定量の筈だ。物理学での数値ではなく、化学における数値のようだ。「基礎理科」への統合理科への道筋としても両方の科目で、相互に理解し合えるものであって欲しい。その科目統合の基準として『エネルギー』に視点を置かなければならない。

蝋燭の蝋が熱でガス化しないと燃え難かろう。燃え芯が旨く蝋を熱で溶かし吸い上げるから、少しぐらいの風にも消えずに灯りを灯し続ける。『エネルギー』は空間で物質が変換して初めて発生するものである。ロウソクは、蝋と酸素の化学的結合の燃焼現象の結果として、熱と光への変換が起きている訳だ。結合前の炭素と酸素から炭酸ガスが生じる。その時、『エネルギー』が発生するには炭素と酸素の質量が変化せずに『エネルギー』が生まれる訳はないのである。『エネルギー保存則』という意味が科学論の根底に捉えられていない。

自然現象で『エネルギー』に関わりないものは無い。何時もその『エネルギー』の実像、空間像を探してきた。エネルギー(energy)とは? (2011/09/07)。糸電話―力学的解剖ー (2014/03/06)。等から、『電子』の科学理論の基礎概念としての矛盾が確信となった。電子論は論理性で矛盾に耐えない。

蝋燭の灯りは空間に放射される光の空間エネルギーである。物理学では、その光の空間に流れる『エネルギー』の縦波現象だとの認識が無ければ、未来への理科の役割を果たせない。349[kJ]の論理的算定根拠が化学論に欲しい。それが質量のエネルギー変換現象だとの物理学での認識が欠かせない。

過去に同じような記事が有った。すみません、少しボケかな?焚火の科学 (2018/05/26)。焚火と蝋燭 (2013/02/03)。

論理矛盾の業界単位 [eV]

(2021/04/29) 。『電荷』、『電子』の概念矛盾が導く。
記号[e]および[V] から単位[eV]の意味を検証する。

この単位[eV]が物理学理論の『エネルギー』の量を定義する代表的概念となっている。しかし、それも素粒子論での特殊な専門分野の概念単位かも知れない。この単位が自然世界の深い真理を理解するために欠かせない基本概念であるのだろうか。単位は一般市民の誰もが共通に理解する科学的知見の基礎であろう。[eV]と言う単位は『エネルギー』の単位[J(ジュール)]に対して、一般には馴染みにくい単位である。具体的な物理概念、電荷や電子に対する認識を詳しく確認し直すことによって、この単位の意味を検証してみたい。

[eV]の意味は? [eV]は電子が電界中で加速されて得た『エネルギー』の量を表す単位と解釈している。その意味を考える空間の状況を何とか表現してみたいと思うが、電子の空間像をどう表現すればよいかが分からず、誠に奇妙奇天烈な図になってしまった。電子は質量と負の電荷を保有した素粒子と定義されている様だから、電界加速場で定義に相応しい電子像をと思って表現してみた。ただ、電子が電界と言う場の中で、どの様な原理によって加速されるかが良く理解できない。電界の空間は一般には、その空間の誘電率との関係でεoE²[J/㎥](あるいは磁気エネルギーμoH²[J])の空間エネルギーの場と解釈して良かろう。そのエネルギーの空間で、電子がどの様な力を受けるかは中々理解し難い。理論では、電界ベクトルをE[V/m]、電子の電荷を負の-e[C]と扱って力 F を捉えている。

 F= -eE[N]

と解釈しているようだ。単位関係は[C][V/m]=[(FJ)^1/2^][(J/F)^1/2^/m]=[J/m]=[N]と一応、力の単位となる。少し前に、電荷間の力の矛盾論および電荷Q[C]とは何だ 更に大学入試問題例‐(エネルギー問題)-で電荷の意味を考えた。それと同じように電界の場で電子はどのようにその電界と言う物理的実体を認識し、その空間のエネルギーからエネルギーを吸収して受け取る事になるのか考えると解釈に困る。人が勝手に『電子』を仮想して、その気持ちを人間的な感覚で推し量り、誠に上手く辻褄合わせが出来上がっているようだ。何とか電気力線に絡みついて電界エネルギーを吸い取れるかと空想してみた。速度と言うエネルギー増加になるような物理学理論の感覚的理解でお茶を濁して済まそうか。

記号[e]とは何か。
[e] は電子を表す記号だ。その物理学的意味は電子の『電荷』を含意したものであろう。

記号[V]とは何か。
[V] は電圧の単位あるいは空間に定義した電界E[V/m]の空間距離dxでのスカラー積で、電位差 V=∫Edx=El[V]を捉えた単位であろう。電子が移動した空間の電位差の意味の単位である。


【クーロンの法則】の力学矛盾。
考えれば何故今まで誰も指摘しなかったのか?科学理論は広く俯瞰的に解釈することによって、世界的視野の基学問の自由がますますその意味を輝かすようになるのが理想と考えたい。しかし俯瞰的にとなると進むも戻るも出来ない、論理矛盾の限界に突き当たる。結局、原点の基礎の意味を検証せざるを得ないところで、『電荷』概念の自然認識の間違いに到達してしまった。電気要素のコンデンサーに電荷を貯えてもクーロンの法則の同一電荷間の排力は全く考慮しなくてもよく、幾らでも同一電荷が密集できると言う物理学の誠に巧妙な理論体系である。この問題は教育の子供たちに対する姿勢の課題だ。

[eV]のエネルギー概念とは。電荷概念の空間的描像に無関心である事が専門科学者の問題である。